新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月26日 その2 私の経験的アメリカ英語論

2022-03-26 15:29:31 | コラム
アメリカ英語(American English)を分析すれば:

南部訛り(Southern accent)に初めて出会って:
実は正直に回顧すれば、昭和20年からアメリカの英語に馴染んできていたのだが、アメリカでは各地方に独特の訛りというか違いがあるとは1972年までは殆ど認識していなかったし、そういう知識もなかった。39歳になって生まれて初めて1972年8月に南部であるジョージア州のアトランタ空港に降りたって、空港の外でホテルを巡回するバスの停留所の場所を通りかかった女性の係員に尋ねた時だった。答えは未だ嘗て聞いたこともない何か歌うようなノンビリした言葉が聞こえてきたので、一瞬呆然となった。だが、何とか聞き取れたのだった。

翌日にはMead Packagingの本部で、早朝から輸出業務担当のマネージャーと1時間ほど初顔合わせの打ち合わせをした。その時にも「昨夜の空港の職員の英語と同じようだな」程度に捉えて、何と言うことなくついていけたのだった。打ち合わせが終わって会議室から出ると、ニューヨークで生まれ育ったと聞いたBertが待っていた。彼は「初めてアメリカに来たという君が彼と1時間も話が出来たとは信じられない。理解できたのか。自分は未だに彼が何を言っているか解らない時が屡々あるのに」と言って感心したのだった。

だが、ニューヨークで生まれ育ったBertのあの地方独特の「前の単語を発音し終える前に次の単語を話している」と揶揄される早口も、不慣れの間では、なかなか付いて行きがたいものがあった。私はアメリカ上陸2日目にして、南部と東部のEnglishの洗礼に遭ったのだった。

これは自慢話でも何でもないことで、私は南部訛りがあるとも知らず先入観念がなかったのだから、何か変だなとは思ったが無心だったので聞き取れたのだろうと思っている。南部訛り独得のアクセントなどが分かるようになったのは、ずっと後のことだ。

外国人の貴方がよくぞ言ってくれた:
1996年10月のことだった。香港に家内と共に観光旅行(pleasure tripという表現になるようだが)に出掛けた帰りの機内でのことだった。真ん中の席に座っていた私の通路側に如何にも切れ者のビジネスマン風のアメリカ人が座った。余り機内では語り合うことを避けていたが、結局彼が語りかけてきたままに会話を楽しむことになった。確か、アメリカの大手の包装資材会社の香港支社長で、スタンフォード大学のMBAだと名乗っていた。

その語り合いの中で私はどのような経緯だったか記憶はないが、何気なく「あのクリントン大統領の南部訛りは好ましくないですな」と言ってしまった。すると彼は如何にも嬉しそうな顔で私に握手を求めて「外国人の貴方がよくぞ言ってくれた。私たちは大統領のあの南部訛りを誇りには思っていない。アメリカの大統領足る者は、もっと格調高い英語で話して欲しいと仲間内で嘆いているのだ」と言ったのだった。それは大きな声で言えないが、南部訛りはどちらかと言えば尊敬の対象にはなり得ないようだから。

簡単に説明しておけば、クリントン大統領は例えば「私」という意味の代名詞“I”の発音が「アイ」とはならずに「アー」と聞こえるように発音するのだ。例えば“I can go.“のような場合には「アー・キン・ゴー」のように聞こえるのだ。これなどは南部訛りのほんの一部であり、”southern drawl“と言われている「母音を長く延ばしゆっくり話す」ことなどもあるのだ。クリントン大統領はアーカンソー州の生まれであるから、こういう訛りがあるということだ。

大坂なおみさんの語りにはついていけない:
彼女はニューヨークが長いと聞いているが、その為かかなり早口で余り抑揚がない話し方をしている。アメリカ人の中で暮らしてきた生活から離れて28年も経ってしまった私は、情けないほど英語の能力が衰えてしまった。中でも聞き取る力の退化は凄まじいものがある。

その為かそもそも能力がないのか、彼女がテレビ中継などに登場して語る時には、その余りの早さに半分も聞き取れずに「何たることか」と嘆いているのだ。ウエアーハウザーは西海岸の会社なのでニューヨーク等の東部の人は少ないので、馴れないのも仕方がなかったと思う。従って、私の場合にはあのような早口は現職のことでも難儀することがあった。

西海岸の英語が正調である:
では、東部、中西部、南部、西部等々の地区に分かれている広大なアメリカでは、何処の英語(アメリカ語?)を以て正調とするかを、東京事務所の日系人BJ氏と語り合ったことがあった。彼は小学校6年からワシントン州で過ごし、大学もワシントン大学のMBAという、言わば西海岸の英語で育ってきた人。そこで、彼の主張は「西海岸の英語が正調である」だった。私も彼の正確な発音は聞き取りやすいし、社内のワシントン州育ちの人たちの英語は発音も正確で聞き取りやすいと認識している。そこで、ことある毎に「西海岸が正調」と言ってきた。

ところが、申し訳ないことに何方の主張だったか失念したが「中西部こそが正調のアメリカン・イングリッシュである」と言う方に出会ったのだった。その時は敢えて論争には持ち込まずに「承っておきます」と言うに止めた。実は、私は正調の西海岸の英語の代表に、嘗てはカリフォルニア州知事だった故ロナルド・レーガン大統領を挙げようかと考えていた。彼の発音は綺麗で正確であり、何の訛りも感じさせないからだ。

ところが、調べてみれば故レーガン大統領は中西部のイリノイ州デイクソンに9歳から住んでおられたとあったのだ。これでは「中西部こそが正調」という言う方の主張を裏書きしてしまうのだった。これには一寸弱ったなとは思ったが、この事は無視して「西海岸の英語こそ正調」主張を堅持ようと考えている。

そう言っている私自身は、以前から述べてきたことで西海岸風とQueen’s Englishの中間になるような発音にしている。この方式にすると、外国語である英語を最も発音しやすくなり正確になると、経験上も確信している。意外だったことは、この発音にしていると英連邦系のオーストラリアでもカナダでも“You speak beautiful English.“と言われるのだ。「何で?」と尋ねると「アメリカン・イングリッシュではないからだ」言われるのだった。彼等はアメリカン・イングリッシュを忌み嫌っているのだ。


英語の教育の一考察

2022-03-26 08:15:44 | コラム
英語教育に於けるNative speakerの考察:

Native speakerに英語を教えさせることに対する疑問点:
 私はnative speaker(英語を母国語とする者)を英語の教師に起用することは必ずしも得策ではなく、我が国の全体の英語力向上にとって効果を発揮するかどうかは疑問だと思っている。先ず、以下にその根拠を述べていこう。

1)彼等は我々日本人が英語を学ぶ時にどのような点で難儀するかなどを、事前に認識しているか、またはそれに備えたような教育を受けて準備してから我が国にやって来ているとは思えないのだ。

2)その反対に、「貴方が明日からアメリカ人に日本語を基本から教えなさい」と言われたとして、「お任せ下さい」と言えるか自信があるかどうかを考えて見よう。それ即ち、外国人に母国語を、自信を持って教えることが出来る人などは滅多にいないということを示していることなのだ。

3)次はハーバードなり何なりの一流の私立大学などで修士号を取得したような優秀な人物が、我が国にわざわざ英語の教師の機会を求めてやってくるかということ。あり得ないと思う。

4)我が国の学校教育で教えている英語と、実際にアメリカ人たちがごく当たり前のように使っている表現の間には大きな違いがあるのだ。彼等は我が国でどのように、どのように英語を教えているかなどを承知しているのだろうか。承知していないと思う。

一例を挙げれば、私が1972年に初めてアメリカに入国していきなり出くわした表現が“I will buy you a drink.”だったのだ。これが日常的に使われる「一杯おごるよ」とは知らなかったので、その場では一瞬当惑した。彼等は我々がこういう口語的な日常会話の中の表現に馴れていないとは知らないのである。

Native speakerとは:
その意味を考えて見よう。Oxfordには“a person who speaks a language as their first language and has not learned it as a foreign language”とある。非常に明解であると思う。だからこそ、我が国では外国語の中では英語を教えて貰う為には“native speaker”が非常に適しているのだと考えたい人が多くなるのだろう。私は上述のように、そう考えるのは誤解であり誤認識でもあるのだと見ている。

 何を以て正調の英語とするか:
次なる問題点を挙げてみよう。それは何処の国の何処の地域の英語を以て正調乃至は標準とするかだ。先ずは国語の場合を考えてみよう。北から言えば東北弁があるし、関東地方に来ても茨城の方言もあれば、中部に行けば静岡県だけでも富士川を境にして東西で違ってくるし、名古屋弁もあるし、関西に行けば京都、大阪、神戸でも言葉は微妙以上に違うではないか。中国、四国、九州でも独特の表現もあれば訛もある。

だから共通語(標準語、公用語)があるという理屈か。その何れをも外国人(即ち、我々日本人)に教えても良いとの理屈は成り立つまい。アメリカから初めて我が国にやって来て山形県に住み、山形弁を覚えてしまったダニエル・カール氏(Daniel Kahl)がいたではないか。彼にはその言葉が標準だと思えたのではなかったか。

 これと同様に、英語を公用語にしている国でも「これが同じ英語か?」と思わせてくれるほど、国毎に異なる英語を話している。簡単な例を挙げれば、アメリカに行けば東海岸、南部、西海岸では異なる表現に違いがあるし訛りもある。また、人種によっても微妙に異なってくる。私は1972年8月に南部であるジョージア州アトランタの空港で初めて南部訛りを聞いた時には「何を言っているのか」と呆然となったのだった。

英連邦でも同じ現象がある。 “Queen’s English”にも”London cockney”もあるし、オーストラリアやニュージーランドには独特の訛りがあると承知していなければならないのだ。我が社の中央研究所の主任研究員だったニュージーランド人のPh.D.は“basis weight”を「バイシス・ウワイト」と発音して私を慌てさせてくれた。

オーストラリアでの“How are you doing?”と同じようなごく普通の挨拶に“Good day mate.”(G’day mate.)があるが、これは多くの場合に「グッド・ダイ・マイト」と発音されるのだ。オーストラリアでは“a”を「アイ」と発音することがあると知らずにかの国に行けば、これが正調の英語だと誤認識してしまう人が出てくるのではないかと私は懸念するのだ。

 このようにオーストラリアとニュージーランドではアメリカは言うに及ばず、UKとも違う挨拶の仕方があるのだとご承知置き願いたい。

 即ち、native speakerが英語教師に適任と思ってしまえば、これほど多くの異なった英語を話す何処の国から連れて来ても構わないとなってしまう。私が正調のアメリカ西海岸の英語が良いだろうと主張するのは、我が国の人にも発音しやすいと言えるし、人口の点から見てアメリカ語を話す人が世界で最も多いと経験上も考えている。UKの人口は6,000万人ほどであるが、USAでは3億3,000万人超である。尤も、この国には英語を話せない者など幾らでもいるが。

勿論、Queen’s Englishの美しさも上記のように十分に経験している。更に言えば、Elizabeth女王や故Diana妃が話しておられるオを聴けば、ウットリするような美しさである。また美智子上皇后様の発音は非常に美しいQueen’s Englishなのだ。

「そう言うのならば、UK、就中Englandからnative speakerを招聘すれば良いではないか」という論が出てきそうだが、「UKで本当に格調高いQueen’s Englishのような英語を話せる人の比率がどれほど低いか承知で言っているのか」と問いたい。その由緒正しくない多数派を招聘して英語を教えさせることにどれほどのこうかがるかを考えて見るべきだ。

 この理屈はアメリカ人にも当てはまる。私が指摘したい問題点は「貴方はこれが南部訛であると判定できるのか」という点である。「この人物の英語には訛りがあるので、我が国で教えるのは適切ではない」と判定できるほど、アメリカ語の違いを弁えておられるのかという事だ。

即ち、「クリントン元大統領には品格に欠ける南部訛があったと聞き分けられる人が、どれほど我が国にいるか」を考えたことがあるかだ。「オバマ大統領の英語にはウンザリさせられるほど品格に欠けているのが解る」と指摘できる人がどれほどいるのだろうか。極めて少ないだろう。私はオーストラリアの英語には品位がないと言っているのではない。そのように判断出来る人が何人おられるのかを取り上げているのだ。

 別な視点からアメリカの英語の問題点を挙げて見よう。ヒラリー・クリントンのように母音と組み合わされた時の“r”を響かせる発音をするアメリカ人もいるという点だ。例えば“thirty”の場合に殊更に“r”を巻き舌にして響かせること。私はこの種の発音は格調が高いとは見ていないので推薦したくない。だが、「これぞアメリカ語」と誤解して真似ている同胞が多いのだ。問題は「こういう点をキチンと学校で教えていないこと」にあると思う。この種の発音はQueen’s Englishにはないのだ。だからと言って、UKの人を連れてくれば良いということにはならないだろう。

Native speakerの活用法:
私は”native speaker”に教えさせることを全面的に否定しているのではない。「その人物の訛りの有無と品格と正調であるかないかをキチンと調査してから採用する方が良くはないか」と主張するのだ。

私はアメリカ西海岸でも正調Queen's Englishの何れも良いと思っている。問題は「そういう正確で正調の英語を操る人を、需要を満たすだけ招聘できるのか」という点なるのではないのか。また、どのようにして彼等に初めて英語に接する生徒たちに正確で綺麗な発音を教えさせるかだと思っている。「生徒」としたのは「飽くまでも中学校からで良い」という主張で「小学校からなどという必要はない」という意味である。

 勿論、我が国にも「違いが解っていて、正確で美しい発音が出来る」人は沢山おられると承知している。だが、そういう方々が教職課程を取っておられて教員の資格をお持ちであるかは別問題だし、教えるだけの技術があるかも問題だろう。また、小学校や中学校で正規の教員の方に「明日から本格的に英語を教えなさい」というのは余りにも無理な相談だと思う。

敢えて繰り返すが「何で小学校から英語を教える必要があるのか」という問題を再検討すべきではないのか。私は中学校に入学してから習い始めて十分に間に合っていたし、他にも私と同じ時期から初めて、私よりも優れた人がいたと言って終わる。