新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

蜜柑箱の思い出

2022-03-01 08:51:31 | コラム
蜜柑箱が卓袱台代わりだった:

1990年に18年振りで韓国を旅行した時の経験談である。この時は休暇を取って、当時のウエアーハウザーのソウル営業所長の勧めもあって、ソウルと慶州を回ってきたのだった。ソウル営業所はパルプの出先だったが、何となく所長の趙氏と親しくなって誘われたのだった。共通語は英語だった。日本の会社の頃には71年と72年に韓国に出張していたので、当時の戒厳令下のソウルの状況も承知していたので、あの状態からどれほど経済的な発展を遂げたかにも大いに興味があった。

その発展振りには目覚ましいものがあった。因みに、韓国が通貨危機に襲われてIMFに救済されたのは、その7年後の1979年12月だった。ソウル市内も兎も角、ソウルから慶州まで韓国が誇る特急の「セマウル号」の車窓から見た沿線の都市の近代化には「これがあの18年前と同じ国か」と思わせられていた。我々夫婦はソウルでも慶州でもヒルトンホテルに泊まっていたのだったが、ソウルヒルトンは鉄道のソウル駅を眼下に見る小高い丘の上にあったので、帰りには「直ぐそこだから歩いて見よう」と家内と合意した。

余談の部類になるが、ソウル駅は我が国の鉄道の駅とは異なっていて、誰でもプラットフォームまで入って行けるのであり。我が国のような改札口はなかった。この点はアメリカのアムトラックも同様だった。さて、ホテルまで緩やかな坂道を登っていくと、途中に見える民家は72年ほどではなかったが、極端に言えば陋屋のようだった。その前の路上では男性が木製の蜜柑箱を卓袱台代わりにして、白菜キムチをおかずにして食事をしている所に出会ったのだった。近代的な高層建築のホテルの直ぐそばには、このような光景が展開されていたのだった。

この事を韓国の誰に語ったかの記憶はないが、こういう状況を見たと言ってしまった。聞いた人の反応は「貴方はあんな所を歩いたのか」と言って、言うなれば絶句されたのだった。私は見てはならないものを見てしまったようだった。私は韓国も目覚ましく近代化され発展したのだったが、その課程ではこのような跛行現象は起きてくるものだと思っていたので、さほど驚きはしなかった。

寧ろ、私は我が国の(中学の頃の構内の弁論大会で優勝した者が使った)「戦争による荒廃」から立ち上がってきた我が国の復興から発展の状況を思い出していた。71年に初めてソウルに出張した時には事前に韓国に詳しい方から「終戦直後の我が国を思い出して、ソウルと現状と比較して、迂闊な事を言わないように」と警告されていた。

その頃でも、70年代でも、韓国の何処に行っても現在のような国を挙げてと言うのか、何と言うべきか、露骨な反日感情の表現には出会わなかったのは幸運だったのかも知れない。今でも忘れられない事は当時の見込み客だった貿易商の社長さんに南山(ナムサン)に案内されて、眼下に見えた韓国の民家の様式が我が国の家と似ていたので「家の外観が我が国と同じですね」と言った時だった。

それまで穏やかだった社長の口ぶりががらりと変わって「何を仰いますか。日本の文化と文明は中国にその淵源があり、それが我が半島を通じて入っていったのです。それを知らずしてそんな事を言ってはなりません」と、きつい表情で説教をされたのだった。この方は勿論日本語世代であり通名も持っておられたが、矢張り根本的な考え方はこのようになっていたのだった。この流れは今でも変わっていないし、現在の方が増幅されているようではないのか。