新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

我が国の英語教育の問題点の考察:

2022-03-08 09:51:39 | コラム
我が国の英語教育は改革せねばなるまい(本当に必要か必要に迫られた人だけが本格的に学べば良いのでは):

 
私は我が国に於ける英語の在り方を考える事から始めたいのだ。この点はこれまでに繰り返して論じてきたことで「英語の教育を万人に強いる必要があるのかどうか」に始まって、「日常生活や仕事上で絶対に高度の英語力を必要とする人がどれだけいるのか」なのだ。

より具体的に言えば「英語を一般常識として教えるのか」あるいは「一種の教養として身につけるのか」あるいは「単なる趣味として楽しむために学ぶのか」あるいは「英語を母国語とする人たちと自由自在に意思の疎通を図れるようなこと」あるいは「海外に出掛けて買い物や食事の注文が出来る程度の会話能力を付けさせるのかというような実用性を備えさせるのか」等々があると思う。

私が20年以上の間、アメリカ側の一員として我が国向けの輸出の交渉や会談や接待の場での経験から言えることは「我が国の学校教育は英語を科学の如くに扱って数学のように教えてきたので、上述のどの目的にも適合しない教え方となり、虻蜂取らずのようになり、実用性に乏しくなってしまったのではないのか」なのだ。

このような教え方をしていて、それを改革しないのであれば、小学校の3年だったかから教え始めても、効果は挙がらないと思う。ましてや、助教などと称して何処の馬の骨かも分からないようなnative speakerを連れてきて教えさせることなどは、私に言わせれば犯罪的ですらあるのだ。

そこで、14年の6月に論じた英語教育の問題点を基にして、あらためてこの件を色々と考えていこうと思う。

14年6月6日には幼馴染みの共同通信OBのMN氏と懇談していた。彼は2歳年長で引退後には有名私立大学2校で「英字新聞の読み方」の講義をしておられた程英語には精通しておられた。余談になるが、N氏は秋篠宮悠仁様が入学される「附属」の出身であるが、誠に残念ながら一昨年に亡くなっておられた。

 N氏とのこの日の懇談では「我が国の英語教育の問題点」に最も時間を割いていた。N氏の意見は「本当に職業ないしは留学や英語圏の国に移住する人には本格的に必要になることだから、そういう方々はその目的と必要性に相応しい学び方と教え方をする必要がある。だが、それ以外の人にTOEICだの等々の試験を無理に押し付けることに意義はないのではないか」だった。誠に尤もで、私の年来の主張と同じであり、躊躇うことなく賛成した。

私は「私のようにアメリカの会社に転身した者にとっては、英語で読み書きが十分に出来て、如何なる訛でも聞き取れ理解出来て、英語で自分が言いたい事を適切に表現する能力があり、通訳の能力を備え、如何なる議題ででも討論と討議が出来るのは当たり前のこと」なのは当然なのだ。しかも、職務の性質上、我が国とアメリカとの間に厳然として存在する文化の相違の橋渡しが出来るだけの認識も必須なのである。また、これらの能力を備えているのは当然のことであり、評価の対象にはなり得ないのである。

そういう職業上で必須となっている場合や、アメリカやヨーロッパ等の大学等で学士かそれ以上の修士なり博士号を取得するか、専門の機関で研究する者にとっては、英語を深く追求して学び、 native speaker にも劣らない能力が必要なのだ。ここまでのことを目指していない圧倒的多数の我が国の社会人や学生や生徒たちに、我が国独特の『科学としての英語』と『受験対策としての英語』を押し付けている英語教育には疑問が多すぎると」と、私は考えている。

 N氏もこの「受験用」が主体である英語教育の負の成果が、今日のアジアは言うに及ばす世界でも最低水準にある外国語、就中英語教育に見出されると指摘された。これも当方の主張であり、屡々採り上げる上智大学等数校で仏文学とフランス語の講座を持っておられるTK博士の見解と全く同じなのだ。我々二人の間で結論というか解決法を導き出すまでに至らなかったが、マスコミ人にこういう厳しい見解を持っておられる方がおられたのには、は大いに意を強くした。

因みに、TK博士はその留学と外国語教員としての経験から「遺憾ながら、我が国の英語を含めての外国語教育は世界でも最低の水準にある」と嘆いている。

N氏はさらに語り合ったことは「英語が果たして我が国の全員にとって必要なのか。必ずしもそうとは限らないのではと考えている」という点だった。その内容は最初に述べたことが該当するが、これも私の年来の主張である「高い英語能力を要求される職業や海外に於ける学習や研究活動をされる方以外の一般の方々に対して、高度の英語の勉強を無理強いする必要はない」という意味だ。

ここに「頂門の一針」の3328号にチェンマイ在住の谷口潤二氏が以下のように投稿しておられたのも結構なことだと痛感しているので、引用しておく。

>引用開始
必要のない英語を子どもの頃から強制するよりは、それぞれの子どものためになる教科を増やし、英語に興味を示している子どもたちに対してそれを伸ばす方針を見出す方が不透明である「英語力」がはっきりしてくるように思います。
>引用終わる

全く異論はないご意見である。

 なお、谷口氏は某有名予備校講師の言を引用しておられたが、私は予備校こそが受験英語とその対策を教えている場なので、些か違和感があった。TK博士は予備校で英語の講座も担当しておられるが、講座で英語の一般論を語ったところ、受講生と学校側から「無駄なことに貴重な時間を費やさないように」と厳重注意されたとか。

当然の事のようではあるが、我が国の試験を受けさせて優劣の差を付けようとする学校教育における英語の問題点を浮かび上がらせた一例であると思って聞いた。英語教育は試験のためにあるので、英語全般を広く深く教えようとはしていないといえば、誤りか?

 最後に触れておきたいことがある。それは、一部の大手企業の人事担当者の中にはでは「英語で論旨を構築し、外国の会社との重大な交渉の場で相手を納得させる能力と、TOEICの高得点との間に関連性は殆どないと認識されている」との報道があったこと。換言すれば、外国との交渉能力、相手を説得する能力とTOEICの高得点とは関連性がないと分かっておられる会社があるということ。私はこの一事だけを以てしても、何の為の英語教育かを考え直す時期が来ているのではないのかと考えている。

問題は何処の何方が「そういう時期に来ているのだから、英語の教え方を改革する必要があるか」と認識しているのかだ。だが、肝腎なことは現在英語教育に従事しておられる方々にそういう認識があるのかという点だ。

2006年頃だったか、私の改革論をご覧になる機会があった英語教育の権威者が「この議論は理想論よりも非現実的な空論である。また、もしも実行したとすると、我々にはこのような教え方は出来ない」と言われたと聞いたことがあった。妙な言い方だが「ご尤もだ」と受け止めた。