新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月27日 その2 我が国とアメリカの会社の違い

2017-05-27 11:51:24 | コラム
新潮新書「警察手帳」を読んで:

この警察官僚だった古野まほろ氏(ペンネームだと思うが)の著作を読んで、そこに描かれた警察組織の中での階級と昇進や専務の話から、ふと日本の会社とアメリカの会社における昇進や身分や階級制度等々のことを思い浮かべていた。

もう何年も前に離れてしまった勉強会で、主宰者が興銀の元常務だったH氏だったが、ある時に当日の議題だった日本の会社における社員教育や人事制度の話が終わって雑談に入った時に、何気なく「日本の会社を離れていて良かった」と言ってしまった結果で大顰蹙となり、何故良かったかを言う前に議論が止まってしまったことがあった。こういうことまで思い出していたのだった。

その時には講師役だった方が日本の会社における集団での社員教育の長所を力説されたのは良く解ったが、会社によって異なるが一定期間は入社年次による恨みっこ無しの昇進が続くが、そこから先の評価というか査定には我が国独特のものがあり、アメリカのような生存競争よりも抜きつ抜かれつのような点があるのは諸刃の剣ではないのかと思っていた。

しかしながら、我が国の会社組織においてはアメリカのように初めから絶対に身分が垂直上昇することはない階層が存在しないのは、アメリカよりも遙かに平等な仕組みではあると思っている。我が国ではその人の出自がアメリカのように将来を決めてしまうことがなく、修士号を持っていなければ昇進もままならないことはないのは、アメリカから見れば寧ろ悪平等に近いほど公平のかも知れない。

我が国ではその年の大学の新卒者が採用され、会社の方針の下に教育され、その働きぶりが上司も兎も角人事部で査定され評価され、昇進に大きな影響を与えている制度だと思う。そこには全員に対して均等な機会が与えられていて、実績を積み重ねて昇進し、何時かは役員に選任されその先には社長の座も待っているのだ。言わば民主的であり良い制度だと思わせてくれる。

アメリカではそうは行かない。銀行や証券会社を除けば四年制大学の新卒者の定期的大量採用→教育→現場配属→昇進というコースは設定されていない。事務職(clerkで良いだろう)で中途採用された者は生涯その身分から離れることはなく、実績次第で引退するまで昇給はするが(勿論据え置きも減俸もあり得る世界だが)そのままで終わるのだ。この点を表立った不満だと言う者は少ない。

彼らは大学を出た後で何処か中小企業で腕を磨いて大企業に採用されるのを待つか、自分から売り込む以外は大手に入り込める機会は巡ってこない。大手ではリタイヤー者が出て欠員が生じたか、転職者が出たか、鶴首した者が出たか等々の場合に補充するのであって、その為の要員を雇用しておくことなどしていかないのだ。このような階層からある程度の規模の組織の長に選ばれることなど先ずないと思っていて間違いではない。

では、どこから組織の長が選ばれるかだが、ある日突然余所の会社から転職してくる経営学修士号(MBA)を持つ者が事業部長(=general manager)として君臨するか、時には一流私立大学のMBAが”manager”として採用されるのだ。同じ社内の別の部門からMBAが転じて来て君臨することはある。しかも、そのMBAにもハーヴァードのような有名私立大学と州立大学のそれとでは、言うまでもないことで格差がある。

そういう出世というか管理職に選ばれる者が歩む道筋を”speed track”と称しているが、確かに事務員や州立大学出身者を尻目に事業部長や副社長に任じられていくのだ。私は学閥はないとは聞いたが、学歴には、当人の能力が勿論影響するが、差別はあったと思って見てきた。私が1975年にW社に転じた時のCEOに次ぐ#2の位置にあった者は、私と同年のハーヴァードの法科大学出身のPh.D.だった。彼がその地位に上がったのは何と36歳だったそうだ。

実は、私が1974年にW社への転進が決まった際に「私がこの事業部の東京駐在に採用されました」と報告に行かされた人事部(記録を取るだけの部門で、ここには所謂人事権はない)で「君が我が社にいる限り東京駐在のマネージャーの身分が変わることはないと承知か」と念を押されたものだった。即ち、そういう要員を採用したのであって上記にスピードトラックとは無縁であると決めつけられたのだった。

先ほどの勉強会では「我が国の会社では常に社員の質の向上を考えており、集団での社員教育を怠りなく実行している点」を強調された。アメリカの会社でも同様な趣旨での研修会はあるが、それは何分にも出自も学歴も職歴も国籍も性別も異なる集団である以上、何処かで思想統一を図っておく必要があるのだろうと解釈していた。時には「馬鹿にするな」と言いたくなるような初歩的なことを講義するセミナーもあった。

言いたかったことは、我が国では基本的に機会均等であり、会社側が社員を自社の色に染まるように教育して競わせていくのだが、アメリカでは何ら我が国のような平等なところがなく、一定以上の層から出た者たちが学歴を引っ提げて出世競争に参加するという世界であるという違いがある。但し、身分と生活の安定さえ得られれば現在の事務職の層に止まっていても不満はないと認める連中もいるのだ。

兎に角言えることは「自分が最初に採用された会社に恩義を感じて生涯そこに止まって」などと考えている者がいればお目にかかりたい。彼らにとっては会社などは生活の糧を稼ぐ場所であって気に入らなければ次の職を探すのは当然という社会なのだ。私は何度も「君が前にいた会社は何処?」と普通に尋ねられた。また、他社からの引き抜きか転職の勧誘を受けたことがあって初めて一人前であるかの如くに言う世界だ。

即ち、アメリカには社会通念として転職が認められ、労働市場に流動性があるのだ。これが良いか悪いかではなく、このような我が国とは全く異なる企業社会の文化が厳然として存在するのがアメリカであり、我が国で「アメリカではこうなっているから」などと言って真似るべき仕組みではないと思っている。私は図らずも二度も転職を経験してしまったが、最初に日本を会社を辞めさせて頂いた時の大変且つ辛かった経験は忘れられない。

何れにせよ、我が国とアメリカの会社の何れが良いのかなどを論ずる気など毛頭ない。リタイヤーして23年を経た現在、偶々読んでいる本に触発されて、諸賢のご参考の為に振り返ってみた次第だ。何となく、ここまででは言葉足らずのような気もするが、要点は外していないと思っている。私の結論はその人の「向き不向き」の問題だと思う。

最後に一言。アメリカの会社は身分や階級を上げてくれないが「功ある者には禄を以て報いよ」というシステムがあること。

近頃気になること

2017-05-27 09:00:09 | コラム
些か気になる加計学園問題:

私には如何に判断して良いのか容易に結論が出せない案件のように思えてならない。だが、どう考えても民進党を主体とする野党と朝日新聞の狙いは「前川前文科省事務次官を担ぎ出してでも安倍内閣に深手を負わせることが最大にして唯一の目標である」としか思えないのだ。朝日新聞は「安倍の葬式は我が社が出す」と言っていたような新聞だから、今回あそこまでやったのは特に不思議ではないと思う、

民進党は政権にあった頃からおよそ国益などを考慮したことがない連中の集まりだから、あの文科省内の文書を入手すれば居丈高になって安倍総理と内閣に揺さぶりをかけようとするのもまた当然すぎることで、マスコミが挙って民進党の尻馬に乗って大騒ぎするような案件でもないとしか思えない。

だが、菅官房長官が前川氏のいかがわしい場所に頻繁に出入りしていたことを採り上げて個人攻撃的なやり方で言わば先手を打ったようなやり方も、余り綺麗(fair)ではなかったとしか思えない。しかしながら、その点を責められた前川氏の「女性の貧困問題の調査の為」という釈明も到底理解出来るものではない。中央官庁の事務次官たる者の言動とは思えない。

前川氏の暴露的な記者会見の狙いが「安倍内閣がその権威を行使して所管の官庁に影響を与えて総理の友人の教育機関を優先的に扱ったことを批判すること」にあり、さらに「事務次官辞任に追い込まれたことに対する報復」であれば、自らその官庁の責任者として職責を果たせなかったことを反省するのが先ではないかと思うのだ。逆恨みに近いと思う。

国立大学の出身であり、官庁の勤務して国にお世話になり続けてきたことを忘れたかの如くに、行政の長である内閣を批判するのは如何なものかと思うのだ。だが、それを知るや民進党や共産党が飛びつくのはごく自然なことで、そこに朝日新聞が援軍として加わり、昨夜偶然に見ていたテレ朝の報道ステーションでも富川が懸命に共同通信OBの後藤を焚き付けていた。

私には本当に文科省と内閣府が官邸の意向を受けて取り決めたのか、あるいは忖度したのか知る由もない。だが、願わくは安倍内閣はごく普通に否定すべきことは否定し、認めるべきは認めて、民進党と朝日新聞の有志連合(英語にすれば”coalition”だが、近頃のマスコミが好むカタカナ語にすれば「コラボ」かな)の妄動を退けて貰いたいものだ。

だが、遺憾ながら情勢はそれほど簡単なことではないように、彼らは誘導してしまったように思える。見当違いの議論かも知れないが、今治を特区に指定することが正当だとの判断をした根拠があるのだったならば、所管の官庁が公表しても良いのではないのだろうかとすら考える。出来ないのだったならば、それこそ有志連合が喜びそうな問題ではないかと思う。

この世には「上の命令に従うとか、上司の判断には逆らえないとか、それどころか自分たちの手の届かないところからの指示はあるものだ」と思うが、それに逆らうこともなく実施しておいて、今更反撃の記者会見をすることが賞賛されるべき英雄的な行為なのかどうか、私には良く解らないのだ。一強態勢ともなれば彼らはあの手この手で攻めてくるものらしい。