新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

おかしな日本語を摘発すると

2017-05-07 10:50:01 | コラム
日本語を乱すのは誰だ:

私がカタカナ語の批判を開始してから(スタートさせてから?、)今年で27年になってしまったことに、一人静かに感慨に耽っている次第だ。私はカタカナ語が今日のように濫用されては日本語が乱れるだけだと、ここでも一人密かに恐れている。この現象は「英語を単語の単位で覚える教わり方をしたために、単語のそれぞれの意味を、難しい(?)漢字の熟語を使うことを回避して、当て嵌めているのではないか」と考えている。

スタートさせる:
その解りやすい例として上記の文章にも括弧内に示したような「スタートさせる」がある。”start”はそもそもは動詞として使われる単語だと思うが、、名詞としては「[活動・発展などの]開始、最初の部分、出発、出場」といったような意味があるので、そこに「させる」を結びつけたのではないかと推察している。おかしな日本語だと断じたい。素直に「出発した」、「開始した」と何故表現しないのかと思う。これも「何とかハンドブック」にでもこのような用例があるのかと疑いたくなる。

自己ベスト:
次に採り上げたいのが、以前にも問題にした「自己ベスト」だ。ズバリと言えば意味不明だと思うし、何の為に「ベスト」と言って「最も良い」、「最善」、「最も優れた」とは言わないのかと思う。しかも、これでは何事も特定していないにも拘わらず、テレビなどでは堂々と「自己最高記録」の意味で使われており、視聴者もそのように思い込まされている辺りが怖い。

因みに、プログレッシブ和英には”own personal mark”と出ていた。私は簡単に”one’s personal record”で良いじゃないかと思っている。

陸上競技や水泳の中継放送で使われれば、暗黙の了解で「自己最高記録」と受け止められるのだろう。だが、このような「最後まで記録と言わなくても、相手は理解するだろう」という我が国の独特の語法は英語のような世界では先ず通じることがないのだから要注意だ。それだけではなく、何故”good”という形容詞の最上級である”best”を名詞の如くに使うのかも疑問だ。ジーニアス英和には先ず形容詞が出て次が副詞としての使い方が記載され、名詞は最後だ。

ベストを尽くす:
次も言わばテレビ用語だと思うが、「ベストを尽くす」も批判したい。何故素直に「最善の努力をする」のように言えないのかということだ。ここでも「ベスト」が名詞のように使われているだけではなく「最善」のような漢字の熟語が排除されている。私は「持てる力を最大限に発揮する(つもり)」と言うべきところを、カタカナ語の「ベスト」を持ってきて格好良く見せているだけの表現力不足にしか過ぎないと思っている。

最高:
表現力不足と言ったので、次はカタカナ語が含まれていない好ましくない日本語を。それは「最高」である。テレビに出てくるほとんどあらゆる階層、職業、年齢の者たちが「素晴らしい」、「非常に良い結果が出た」、「とても美味だ」、「思った通りに事が運んだ」、「最強の相手を倒せた」、「凄いヒットが適時に(タイムリーを)打てて満足だ」、「何と形容して良いか思い浮かばない」等々を全て「最高!!」と叫ぶことしか語彙がないのがないのに呆れるのだ。これは表現力の不足もあるが、誰かが「最高」と叫んだので真似ているだけのことだと思う。

タイムリー:
最後に上記に「タイムリー」を入れたので、「カタカナ語の宝庫」と1990年に既に揶揄してあった野球用語から。「タイムリー」は中継放送で中に「適時打」が出た場合に多くのアナウンサーが」「タイムリー」で済ませてしまうおかしさを指摘したいのだ。この言葉は、私の記憶が正しければ戦後間もない時点で”timely hit”が紹介され「打点となる安打を言う」と解説され、訳語が「適時打」だった。

それが長い年月を経て、今や「タイムリー」と言うだけで「適時打」という3文字の熟語は排除されてしまったのだと思っている。尤も「このチャンスに大谷が適時打を放ちました」では現代的ではないという異見もあるだろう。私が面白いと思うことは、大元のアメリカでは”timely hit”という言葉を聞いた記憶がない点なのだ。

では何と言うかだが、”RBI”=”run(s) batted in”→「打点」が使われ、その後に単打であれば”base hit”のような言葉が付いてくる。二塁打ならば「ダブル」で済ましている。事の序でに言っておくと、我が国で「単打」を「シングル・ヒット」といっているのは奇妙で、あれでは「一本の安打」という意味になってしまうのだ。

だが、私は野球の場合のカタカナ語は、あれが受け入れられ、長い歴史の中で定着しているのだから、私のような者が外野から四の五の言うことはないと思う。だが、今回は日本語として適切ではないと疑う例を採り上げた次第で、他意はないとお断りしておきたい。