新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月23日 その2 Uberが利用されていた

2017-05-23 16:18:04 | コラム
過疎の村でUberが:

先週だったか、NHKで再放送を含めて2度も過疎の村(申し訳ないが何処の県だったかを失念)で高齢のご婦人がやおらタブレットを取り出して”UBER”というサイトを開き、顔写真を見ながら送迎をしてくれる人を呼んで依頼している場面を見せられて、家内とともに色々な意味で感心し且つ感服したのだった。恥ずかしながら、我妻はガラケーは何とか操作出来てもタブレットは使えないだろうと自信たっぷりだった。

その高齢の老婆は「これがあるお陰で何処にでも行けるようになった」と感謝しながら、ドアに何事かが表示してある自家用の軽自動車で迎えに来てくれた老人に送られて何処かに出ていった。費用はタクシーの半分ほどで済むそうだ。もう一つの例では、老夫婦が矢張りタブレットを操作して車を呼びタクシーであれば片道3千数百円はかかる病院までを千六百円ほどで出掛けていったのだった。往路はどうなっているかは知らないが、やはりこの新制度に大いに感謝していた。

私はUberなるアメリカで始まったシステムにはさして知識がなく、スマートフォンのアプリケーションであり、合法的な白タクのようなもので、我が国にも進出していたらしい程度のことしか知らなかった。それが過疎の村でにも応用されていたとは些か驚いたのだった。また、PCなどを使い慣れているとは見えない高齢者がタブレットを操作して、送迎を依頼していたのには「時代が変わったものだ」と唯々感心していた。

それと同時に、若者が何を求めているのか、この出てきただけでは何の役に立つのかとも思えない東京と、それ以外の大都市に指向してしまう現代にあっては、取り残された高齢者の交通手段にUberを利用しようとされた地方の行政(なのだろう)の発想には敬意を表したいとすら思った。同時に、過疎地においては高齢者が自分で運転が出来なくなった場合の選択しにUBERがあるとは想像も出来なかった。

因みに,”Uber”とは如何なるものかを検索してみると、知恵蔵には下記のようにあった。

引用開始
<スマートフォン経由で、ハイヤーのような運転手付の高級車を呼ぶことができるシステム。同システムを運営する会社や、利用する車及び利用するためのスマートフォンアプリの名称を指すこともある。「Uber」は、2010年に米国サンフランシスコでスタートし、14年9月現在、英国、フランス、オーストラリア、シンガポール、中国、日本など45カ国、100以上の都市で利用できる。14年3月3日にはUber社が日本市場へ参入したため、14年9月現在、東京都心での利用が可能となっている。

Uber利用者は、スマートフォンに専用アプリをダウンロード、インストールし、初回に、名前、メールアドレス、クレデイットカード番号などの情報を登録する必要がある。>
引用終わる

となっているところを見ると、その地方では恐らくスマートフォンよりは大きくて扱いやすいタブレットを導入したのかと思って見ていた。重ねて言うが「時代は進歩して変わっていくもの」だと痛感したのだった。


英語力とは

2017-05-23 08:57:57 | コラム
英語力を考える:


また、こむずかしい英語の話かなどと思われずにお読み願えれば幸甚である。

回顧談:
「英語力」などとは言ってみたが、これが具体的に何を意味するかは茫洋として不明な気がする。私は1945年の4月から中学の1年生として初めて敵性語の英語の勉強を始め、1994年1月末でW社をリタイヤーするまでの間に、英語と公式的に縁が切れていたのは日本の会社に勤務していた17年半のそのまた間の16年間だけだった。その16年間には「英語は普通の人よりは解るので、趣味として親しんでいこうか」といった程度に考えていた。

思い起こせば、非常に優れた英語教育をして頂いたと今でも感謝している湘南中学から高校を通じて、一度も「英語を話すこと」乃至は「英語で話せるようになること」を教えて頂いた記憶はない。飽くまでも総合的な科学としての英語を学ぶことに集中していたとお思う。換言すれば、何処まで行っても「学問」なのである。しかしながら、英語で話す時にはその「学問」がものを言うことを忘れてはならない。それは何とも指摘してきた「文法を間違えるようでは無教養な奴」と見做されることだ。

1972年8月にアメリカの会社に変わってからは英語は趣味どころか、生活の為にはなくてはならない手段となり「上手いとか下手とか言う次元にはないもの」に変わってしまった。そもそも、あの1954年頃の三白景気が終わりに近くなり未曾有(当時)の就職難の時期に、敢えて英語を使わねばならない外資を避けて就職させて頂いたのだった。それにも拘わらず17年経ってからその外国の会社に転じたのだったから、英語などは出来て当たり前で評価の対象などになるはずもないのだ。

2017年の現在ではその英語の世界だったアメリカの会社を離れて23年である。その間にも折角習い覚え、使いこなしていた英語を放っておくのは勿体ないという思いは常にあった。偉そうに言えば、何とかしていくらかでも次世代の為に残して置くか残せる方法はないのかなどと考えたこともあった。とは申せ、何時までも過去にしがみついているのもみっともないのかなという気もしていた。

その一方で多くの方のご厚意で「英語とは」であるとか「どうすれば自分の言いたいことを英語で言えるようになるのか」や英語の理解なくしては認識出来ないだろう「日米企業社会の文化比較論」を大学、商社、市民講座等で語る機会を与えられてきた。率直に言えば「我が国の学校教育における英語教育の至らなさ」をあからさまに語り且つ書いても来た。「英語とEnglishは違う」と力説した。

話す力=自分の思うところを表現する能力:
リタイヤー後の23年間で解ってきたことは元々獲得形質に過ぎない英語力というのか英語は徐々に退化していくもので、最早1年に2~3度しか本当の意味での会話というか自分の思うところを表現するか十分に表現せねばならない機会がなくなると、自分でも呆れ且つ情けなくなるほど単純なというか、折角アメリカ人の中にいて習い覚えた格好良い洒落た表現は出て来なくなっていたのだった。この点は書いてみても同じで、後から読み直すと「何でこんな言葉遣いしか出来ないのか」と嘆いたものだった。

聞き取りの力:
次に衰えたのが聞き取る力で、80歳を過ぎた辺りからテレビから聞こえる音声の聞き取り能力が呆れるほど退化し、特に余り日常的に慣れていなかったQueen’s English(欧州人の英語を含めて)の聞き取りは情けないほど出来なくなった。それではアメリカ人ならば聞き取れるのかと言って、今ではテイラーソン国務長官は南部訛りがきついなと直ぐに解る程度である。

読解力:
自分でも不思議なことは「我が国の学校教育の特徴」として指摘してきた「優れた読解力」が私にも備わっていた模様で、目で追って読んでみれば未だ未だ理解する能力が残っていたのだった。これは、もしかすると、10年ほどお手伝いした某専門出版社の海外ニュースの和訳の仕事の賜物かも知れない。

以上、ここまで述べてきたように「英語で話すこと」即ち、「自分が思うことを英語で表現する能力」(英語では”How to express oneself in English”と言えば良いだろう)を備え、そのように書ける能力があり、読解力をも備わっていることを「英語力」(=English ability)と言うのかと考えている。

発音:
ここまでで「発音」に触れていなかったが、私は持論として「発音が良いのは七難隠す」と主張してきた。それは正しいかそれに近いアメリカ語乃至はQueen’s Englishの発音が出来ていれば、相手も聞き取りやすいし集中して聞いてくれると思うからだ。その発音の正確・不正確なことと綺麗であるかないかは、英語を習い始めた時にどのような教え方をされたか、または何処の国の人に如何なるな訛りで教えられたかに大きく左右されると思う。

階層:
しかも、それだけではなく、私の英語を「支配階層のそれだ」と仏文学のTK博士がいみじくも指摘されたように、例えばアメリカならばどの階層の者に教えられたか、何処の地方出身者に教えられたかで発音もそうだが、英語の質そのものが大きな影響を受けると承知して貰いたい。言葉遣いもそのうちに入れたいので、トランプ大統領が度々ご自分の支持層向けに話す時に使われる”I’m gonna ~.”のようなものは一般的な日本人が使うのは極めて好ましくないのだ。ここは正しく”I am going to .”のように言えるようにするのが先決だ。

言葉の種類:
このような注意すべき言葉遣いの他に「使っただけで教養と育ちを疑われる”swearword”」もあれば、隠語や符牒であって”swearword”ではない”slang”=「俗語」もあれば、「口語的表現」もあるし「慣用句」=”idiomatic expression”もあるので、こういうことを教えるのであれば、何時何処の段階にすべきかという問題もあるだろう。私はこれだけではなく「日本語と英語の世界における文化と思考体系の違い」を教えておかないと、何時何処で「無意識の非礼」や「礼儀知らず」を相互に犯す危険性が高いと唱えてきた。

英語を教える:
そこで、最後に残った疑問はと言えば、上記の全ての事柄というか項目を理解し、認識して使いこなせる必要がある人が日本全体で何パーセントいるのかということだ。英語英語と騒ぎ立てるが、どの段階を目指して学校で教えれば良いのかが監督官庁でお解りなのかと疑う。また、上記のようなことを全て解った上で、異文化の世界で過ごした方がおられない限り、完全な英語力を備えられるような人を育てられる人がどれだけいるのかという疑問も生じる。

次回には「私が感じた英語の難しさ」を採り上げて見たいと考えている。