私がEnglishの表現集を続けてきた理由(わけ):
私は後難を恐れて言うが「我が国の学校教育の中でも外国語教育の中では、他の言語については論じるほどの知識はないが、英語の教育は極めて宜しくないと思っている。少なくとも、アジアの諸国よりも、大変遺憾ながら、劣っていると認めざるを得ないとも考えている。「何を言うか、フィリピンのように英語が公用語の国があるではないか」という反論もあるだろうが、では韓国と比較してどうかと尋ねられて「我が国の方が優れている」と胸を張って言える度胸がおありかな。
私自身は戦後間もなくから、GHQの秘書だった日系米人(女性である、念の為)の方から「英語で話すこと」を厳しく仕付けられたし、その秘書の方と週末には英語だけで話す生活をしていたので、何時の間にか学校教育で教えられるような英語とは一寸趣が異なった「アメリカ人同士が話す慣用句(idiomatic expressions)や口語体(colloquialism)」が身に付いていたのだった。
後になって知ったのだが、その秘書の方に教えられたことは、かなり程度が高い支配階層にも通じる性質の英語だったのだった。と同時に認識し得たことは、上智大学在学中に千葉勉教授に厳しく教えて頂いた「文法を間違えるのは無教養の証となる」や「liaison(=連結音)や”r-linking”を知らないのも同様だ」などは、アメリカ人やUKの人たちの中に入ってみなければ解らないことだと痛感した。
その後1972年にはアメリカの会社に転進して言わば「支配階層」に知らない間に身を置いたので、そういう種類のEnglishで日常的に書き且つ話せるようになっていった。だが、自分の英語の質がそういう物だと本当の意味で知るようになったのは、1994年1月末でWeyerhaeuser Japanをリタイヤーした後のことだった。
そういう経験をして思い立ったことは「我が国の学校教育で”something like English”であり『科学としての英語』を教えられTOEIC如きで縛られていては、何時まで経っても世界中の何処に出してもひけを取るようなEnglishしか使えないのでは誠に恥ずかしいことだ」という点だった。
そこで及ばすながら、高校までの経験にアメリカの支配階層にあった会社に22年半も勤務して、その支配階層というかアッパーミドル以上の人たちに日常的に接して覚えた本当のEnglishの表現を記憶している限り並べて、皆様の参考にしようと考えた次第だ。私は今日までに書き上げてきた表現を、少なくとも在職中に数多くお目にかかった我が国式の意味で優れた英語を話す方々が使っておられなかったような表現だと思っている。
それ故に、これまでの私の書いた英文をお読み頂いて「何だ、これは?学校では教わったこともない言葉遣いだ。どうせアメリカ人の下品な英語だろう」とでも疑われはしなかったかと恐れている。「そんなことはありません」と断言しても良いと思っている。思い切って言えば「我が国で教えられているのは英語ではあるがEnglishではない」のである。
ここで、我が国の英語教育で育ってこられて方が犯した、とても笑う訳にはいかない誤りの例を挙げてみよう。その方は定年を過ぎてからアメリカの会社に転じてこられ、Englishで多いに苦労された。ある時彼も交えて何人かで打ち合わせをしている時に、アメリカ人が彼に向かって「解っているか」と訊きたくて、”Are you with me?”と言った。これは”Are you following the conversation, so far?”と同じ意味だ。
彼は数秒間困ったような顔をしてしたが、やがて思い切ったような表情で”Yes.”と言って立ち上がり、彼の隣に行って着席したのだった。Englishではこのような簡単な言葉だけで、これだけの意味を表してしまうのだ。私は初めてアメリカに出張した際にホテルのチェックインで係に”Meadの社員ですか」という意味で”Are you with Mead?”と訊かれて一瞬固まったのだった。
”with”のような簡単な単語がこれほど色々な意味に使われるのが所謂「生きた英語」なのである。”I’ll be right with you.”では「直ぐに行くよ」であり、序でに言えば”I’ll be right back.”は「私は右の方に戻る」ではなくて「直ぐに戻るよ」なのである。
最後に一言を念を押しておけば、私が取り上げてきた例文に中に「これは面白い表現だ」と思われたものがあったならば、是非とも何度でも結構ですから音読して頂きたい。耳から入る表現は意外に早く身に付くもの。黙読では中々記憶には止まりにくいのだと思って頂ければ有り難い。
私は後難を恐れて言うが「我が国の学校教育の中でも外国語教育の中では、他の言語については論じるほどの知識はないが、英語の教育は極めて宜しくないと思っている。少なくとも、アジアの諸国よりも、大変遺憾ながら、劣っていると認めざるを得ないとも考えている。「何を言うか、フィリピンのように英語が公用語の国があるではないか」という反論もあるだろうが、では韓国と比較してどうかと尋ねられて「我が国の方が優れている」と胸を張って言える度胸がおありかな。
私自身は戦後間もなくから、GHQの秘書だった日系米人(女性である、念の為)の方から「英語で話すこと」を厳しく仕付けられたし、その秘書の方と週末には英語だけで話す生活をしていたので、何時の間にか学校教育で教えられるような英語とは一寸趣が異なった「アメリカ人同士が話す慣用句(idiomatic expressions)や口語体(colloquialism)」が身に付いていたのだった。
後になって知ったのだが、その秘書の方に教えられたことは、かなり程度が高い支配階層にも通じる性質の英語だったのだった。と同時に認識し得たことは、上智大学在学中に千葉勉教授に厳しく教えて頂いた「文法を間違えるのは無教養の証となる」や「liaison(=連結音)や”r-linking”を知らないのも同様だ」などは、アメリカ人やUKの人たちの中に入ってみなければ解らないことだと痛感した。
その後1972年にはアメリカの会社に転進して言わば「支配階層」に知らない間に身を置いたので、そういう種類のEnglishで日常的に書き且つ話せるようになっていった。だが、自分の英語の質がそういう物だと本当の意味で知るようになったのは、1994年1月末でWeyerhaeuser Japanをリタイヤーした後のことだった。
そういう経験をして思い立ったことは「我が国の学校教育で”something like English”であり『科学としての英語』を教えられTOEIC如きで縛られていては、何時まで経っても世界中の何処に出してもひけを取るようなEnglishしか使えないのでは誠に恥ずかしいことだ」という点だった。
そこで及ばすながら、高校までの経験にアメリカの支配階層にあった会社に22年半も勤務して、その支配階層というかアッパーミドル以上の人たちに日常的に接して覚えた本当のEnglishの表現を記憶している限り並べて、皆様の参考にしようと考えた次第だ。私は今日までに書き上げてきた表現を、少なくとも在職中に数多くお目にかかった我が国式の意味で優れた英語を話す方々が使っておられなかったような表現だと思っている。
それ故に、これまでの私の書いた英文をお読み頂いて「何だ、これは?学校では教わったこともない言葉遣いだ。どうせアメリカ人の下品な英語だろう」とでも疑われはしなかったかと恐れている。「そんなことはありません」と断言しても良いと思っている。思い切って言えば「我が国で教えられているのは英語ではあるがEnglishではない」のである。
ここで、我が国の英語教育で育ってこられて方が犯した、とても笑う訳にはいかない誤りの例を挙げてみよう。その方は定年を過ぎてからアメリカの会社に転じてこられ、Englishで多いに苦労された。ある時彼も交えて何人かで打ち合わせをしている時に、アメリカ人が彼に向かって「解っているか」と訊きたくて、”Are you with me?”と言った。これは”Are you following the conversation, so far?”と同じ意味だ。
彼は数秒間困ったような顔をしてしたが、やがて思い切ったような表情で”Yes.”と言って立ち上がり、彼の隣に行って着席したのだった。Englishではこのような簡単な言葉だけで、これだけの意味を表してしまうのだ。私は初めてアメリカに出張した際にホテルのチェックインで係に”Meadの社員ですか」という意味で”Are you with Mead?”と訊かれて一瞬固まったのだった。
”with”のような簡単な単語がこれほど色々な意味に使われるのが所謂「生きた英語」なのである。”I’ll be right with you.”では「直ぐに行くよ」であり、序でに言えば”I’ll be right back.”は「私は右の方に戻る」ではなくて「直ぐに戻るよ」なのである。
最後に一言を念を押しておけば、私が取り上げてきた例文に中に「これは面白い表現だ」と思われたものがあったならば、是非とも何度でも結構ですから音読して頂きたい。耳から入る表現は意外に早く身に付くもの。黙読では中々記憶には止まりにくいのだと思って頂ければ有り難い。