新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月1日 その3 品位ある英語を身につけよう

2016-07-01 15:56:26 | コラム
英語は万人に強制すべきものか?:

先月だったか「私の英語の勉強法」のようなものを発表する機会があった。そこには文字数の制限があって思うところを全て盛り込めなかったので、その原稿とは関係なしに「私の思う英語論」をあらためて纏めてみた次第。

万人に強制するな:
「私は我が国では英語などを万人に強制すべきではない」と主張し続けてきた。それは「我が国は世界でも希な自国語で世界最新の技術であろうと文献であろうと何であろうとも学べる国であるから、何も英語を徹底的に学ぶかあるいは万人に学ばせる必要はないのでは」という意味である。英語は例えば、それを職業としてかあるいは学術研究の手段として絶対的に必要である人たちが極めていけば良いものだと、私は信じている。ましてや、我が国の人たちが、英語で外国人と本当の意味で意思の疎通を図る必要がある場面に出会う確率などは、極めて低いだろうと事は経験からも保証する。

支配階層の英語:
これは私の英語論を仏文学者のTK博士が批評して指摘して言った事。私は“アメリカでは良く言われる「1%の人たち云々」という層に属する人たちの世界では「文法を間違えてはならない」、「下品な言葉や表現を使ってはならない」というほぼ絶対的な必要性があるので、少なくともそういう水準にある英語を身につける必要がある”と主張するのだ。こういう水準にある人たちの世界でも通用するEnglishを目指さないと、品位と知性に欠けたと言うか下品な英語に成り下がってしまうのである。これは避けなければならない。即ち、英語を突き詰めて勉強しようとする際には「如何なる水準にある英語を目指すべきか」という意味である。

英語の品格:
これは何かおかしくて汚い言葉を使った表現であるとか、文法を誤った英語なり文章であるとか、そういう言葉を話す事等を指している。即ち、良く勉強してどれが下品な言葉かということを弁えよという意味である。最も注意すべきは「汚い言葉」と訳されている”swearword”で、これを使うと「社会的に下層階級」と見なさると知るべきだ。これは屡々”slang”と混同されているが、全く別な範疇にある言葉だ。その例を少しだけ挙げれば”God damn it.”であるとか、“Shit.”や、”Oh, my God.”といった言葉だが、そういう範疇にある言葉であるとは、我が国の教育では知らしめていないようだ。なお、”slang”は「隠語」や「符帳」の類いを指し、下品な言葉とは別物だとは既に別な機会に指摘してきた。

発音:
品格の問題で留意すべきことは「発音を正確にしようと心がける」がある。これは必ずしも綺麗なnative speaker並の発音にすることではなく、明確で相手が聞き取りやすいように発音することを意味する。極端な表現だが、我が国の英語の先生方に多く聞かれる例で、カタカナ語的というかローマ字の悪影響の下にある外国人離れした「英語」であって“English”ではない発音からは出来る限り離れた方が良いとまで考えている。

さらに具体的に言えば、同じEnglishでも英連合王国(UK)、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドにはそれぞれ独自の発音と訛りも方言もあるので、その中のどの国の英語の発音を選ぶかは慎重を期したいと言いたいが、我が国の学校教育だけで学んで英語の知識では「どれがどれだか俄に判断出来ない」のが難しいところだ。私は少なくとも、オーストラリアとニュージーランドの訛りは避けた方が無難だと言って良いと思っている。

しかし、私は全世界で最も広まっているのはアメリカ式の発音だとは考えているが、ヨーロッパでは地理的な条件もあってQueen’s Englishの発音が最も普及している。私はアメリカとの縁が最も深かったので、アメリカ式に準拠しているが、実際にはそれとUK式の中間になる発音をしているようだ。

訛りと方言:
言い出せば限りがないが、英語圏の諸国には言わば「訛り」があるし、それぞれの国独特の発音や方言があるもの。当然のことである。その訛りや方言を聞き分けて、その国のどの英語が正調であるかを知らないと、アメリカ人のダニエル・カールが山形弁を覚えてしまったような結果になる危険性が高いのだ。これは、避けねばならぬと承知して欲しい。

我が国の学校教育だけしか知らないで育てば、そういう判別をすることは不可能だろうと経験的にも考えている。私は「アメリカ西海岸の英語が最も無難である」と薦めてきたが、異論を唱える方もおられるのは確かだ。それは英連合王国(United Kingdom)のQueen’s Englishこそが英語だと思っておられる方々に多いが、そこには異論を唱える必要もない。それは見解の相違でから。

私は育った環境と、長年アメリカ(それも西海岸に本社を置く)会社に勤務したので、西海岸の英語を正調であると唱えているのだ。自らの信じるところを訴えているに過ぎない。何れにせよ、品格と教養が問題にされるような英語を身につけてはならないと認識して頂きたい。


7月1日 その2 東京都民は考えた

2016-07-01 08:21:32 | コラム
東京都知事って何だろう:

小池百合子さんは「自民党内の然るべき方にはご相談申し上げた」とPrime Newsでは述べていたが、自民党都連では「聞いていない」と大騒ぎだったし、安倍総理側近とか聞く萩生田も不満げに記者会見していた。マスコミはこういう場面を嬉しそうに流すが、私は単純に考えれば自民党という組織(もしも組織だったのならば、だが)は想像以上にだらしがないものだったと思わずにはいられなかった。あの桜井俊氏説得の不手際と言い何と言い、心ある東京都民には「民進党以下の野党と、もしかして余り変わらない程度か」と見放されはしないかと心配になってきた。しかも、未だ増田元県知事や斎木元外務事務次官擁立も検討中だというのだ。

さて、東京都知事だ。石原慎太郎君が何時から都知事になったか記憶はないが(検索していないが)彼が直接都民の生活に「これぞ都知事の善政のお陰だ」と実感させてくれたような政策を打ってくれた記憶はない。しかし、カラスは確実に減ったと記憶している。だが、シルバーパスの負担額を一気に2万円超にしてくれたのは忘れられない。所詮、都知事の政治的手腕というものはそういうもので、都民が「これだ!」と実感出来るような経済的な恩恵などないのではないかと割り切っている。

猪瀬元知事は都営地下鉄の何処かの駅でメトロとの壁を取り払って乗り換えを便利にした功績があったと記憶するが、有料になるメトロにはほとんど乗らない当方には何の恩恵もない。何故、猪瀬氏はシルバーパスでメトロにも乗れるようにしてくれなかったのかと恨んでいる。その後任の舛添前都知事は如何なる事があってもリオデジャネイロに行って次回開催都市の知事としてオリンピックの旗を受け取ってきたかったらしいが、開催権を取ったのは舛添知事の前任者だった。

今日まで東京都に住んで実感したことは「都知事選挙は政党間の争いであって、都民の為などは二の次ではないのか。都知事とは都民の生活にこれぞ知事の努力の賜物と実感させてくれるような経済的な有り難み(カタカナ語では「メリット」だろうが)を出す為の存在ではない」ということだった。それは一都民としてあの3年半の暗黒の時代を演出した民進党から都知事は出して貰いたくはない。だが、ジャニーズのスターの父親だからとマスコミに囃し立てられるような官僚を説得し損なっていたり、知名度があるだけの元県知事を考えたりするようでは自民党を信頼出来ないではないかと、言いたくもなってしまう。

兎に角、如何なる候補者を立てるかはお任せするしかないが、文藝春秋社にスクープされるようなことがないような、もしかして政治資金を綺麗に使ってきただけの詰まらない候補者でも結構だから、オリンピックの成功ばかりを云々するような政治家を避けて、少しは東京に住んでいて良かったと思わせてくれるような人物を擁立して欲しいのだ。


U-23サッカー代表テイームの編成を考える

2016-07-01 07:26:37 | コラム
手倉森監督への疑問:

これまではオリンピックに出場するこの代表の試合についてのみ語ってきたので、今回はブログに対してコメントを寄せられたkazk氏のご意見に因んで、監督への批判その他を考えてみよう。手倉森監督が言わば我が国のサッカー代表の下部組織かと思ってみていたテイームをそれなりに鍛え上げて、予選を突破させた手腕は評価しても良いかとは見てきた。

だが、マスコミ論調を見ていた限りでは、何となく彼の力は言わば聖域のように扱われ、批判を許さないかの感すらあった。私自身はあの監督が如何なる経験をしてきた方かも全く知らなかったし、偉いものだなといった程度の見方をしていたので、批判するも何もなかった。しかし、予選を突破し時が経ってオリンピック本番の時期が迫り、マスコミがあの23名(だったかか?)から18名に絞り込まれそこにオーヴァーエージ(OA)の3名が入れば云々と騒ぎ立てても、監督は一向に動かず、代表予定の若者を招集し続けていた。「あれで良いのかな。優柔不断では?」という思いは、私にも少しだけあった。何れにせよ篩にかける件は”none of my business”だった。

一昨日夜の試合には最後まで使われなかった者が何人かいたと思う。その中には確か負傷癒えた鈴木武蔵もいた。監督には負傷上がりの状態は解っていたのだろうが、こちらには解る訳がない。またあれでは鈴木他の使われなかった者たちは「蛇の生殺し」よりも気の毒な状態ではなかったと思わずにはいられなかった。呼んだのは、ただ単に使えるか使えないかを試合前の練習で見極める為だけだったのかと思った。残酷ではないかな。そういう使い方も監督の手腕として許されるものなのかな。

実は、kazk氏も指摘されたように、私もOA枠として選ばれた3名には疑問だらけだと思ったのだった。彼らが下手だとまで言う気はないが、あの良く合わせられるようになってきた10数名の中に突然組み込まれて、良い働きが出来るのだろうかという疑問が湧くのだった。特に興梠は確かフル代表にも呼ばれた事もあったと記憶するが、私が個人的に評価しないFW(なのだろう?)で、「あんな者をこれまで苦労させた者の代わりに入れるのだったならば、せめて岡崎とか香川でも呼べば良かったのでは」と言いたくなってしまう。

何れにせよ、テイームの核となるような強力な指導者的存在を欠く状態のところに、兵隊ばかり入れたように思えて仕方がない。強いて監督の作戦を深読みすれば、現在のような平均的な者ばかりを集めて細かく回していこうとしているようなサッカーに個性豊かな者を入れては、折角苦心して築き上げたテイームの「和」が崩れるとでもお考えなのかと見たのだが。だが待てよ、ブラジルはネイマールを入れたというではないか。それならば、使うかどうかは別にして本田圭佑でも呼んでおくのはどうだっただろうか、手倉森監督さん。