新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

外国は危険か

2016-07-06 08:16:31 | コラム
危険が我が身に迫るまでは何処の国も安全なのだ:

私は1970年7月7日に初めて海外に出かける機会を得た。明日で丁度満46年目だ。その旅の2国目がフィリピンで、古いパスポートの入国スタンプは最早良く読めないが7月15日に入国したようだ。マニラの表側とその近郊のマカテイーは適当にアメリカナイズされた綺麗なところだった。しかし、チェックインしたインターコンテイネンタルホテルには武装したガードマンが至る所にいて海外事情に不案内だった私はここでまず最初に驚かされた。案内してくれた現地の取引先の社長の息子さんに「絶対に単独ではホテルの外には一歩たりとも出ないこと」と警告された。

何処に行くのも彼と現地の人が一緒だった。かの有名なロハス・ブールバードのナイトクラブに案内された日本から来たばかりの田舎者の当方は、クロークに「銃器を持っている者はここに預けるべし」と掲示されているのを見て度肝を抜かれた。自発的に預けるのだったならば、中には持ったままの者がいるかも知れないではないか。聞きしに勝る国に来たのだと痛感した。

1972年からは頻繁にアメリカに出張するような仕事に変わったが、当初はアメリカでは巷間伝えられているほど危険な国とは思わなかった。だが、シカゴのかの有名な黒人街が展示会場へのシャトルバスの道筋に入っていたお陰で何日も通ったが、車内からでもその不気味さと恐ろしさは十分に味わえたのだった。93年にはGPSなどないレンタカーを運転していた商社マンが道を間違えてアトランタの黒人街には行った時の何とも言えない雰囲気の物凄さも経験した。だが、何の実害もなかったのは当然。

長年慣れ親しんだシアトルは美しい街で治安も良く何の心配もなく、家内には昼間のダウンタウンの一人歩きをさせたくらいだった。だが、1985年10月にはシアトル市外のショッピングモールに後数メートルのところで貰い事故(自動車のである)に遭って、会社に復帰出来るまで半年かかった大怪我をさせられた。ではあっても、シアトルは危険ではなく安全な街だと思っていたし、自動車にも躊躇うことなく乗せて頂いていた。

だが、自動車とは非常に危なくて怖いものだと思っているし、アメリカ人の運転は当てにならず身を守る為には万全の注意が必要だとは認識出来た。自動車がどれほど危ないかは、事故に遭って苦しめられて初めて解った。それまでは全く危険だと思わなかったし、シアトルの安全さを信じていた。因みに、我が家では父親は1937年に貰い事故で死亡し、実弟は64年に神奈川県下でアメリカ兵の酒酔いで免許証不携行の運転に当たられて、会社復帰まで2年を要した大事故に遭っている。彼は助手席に乗っていたのだった。私を含めて誰も免許は取っていないし、運転の仕方も知らない。

1997年に某商社のお手伝いで初めてインドネシアのジャカルタに入った。駐在員からは(嘗てのNYなどとを思わせる)「単独で外出しないこと、特に夜間。もしも出たい時はホールドアップに備えて小銭で10ドル程度を持って行くこと」、「我々がは厳選した場所にしか案内しないが、何処に行っても絶対に単独行動をしないで欲しい」等々を厳しく警告された。バリ島ではヌサドア地区のホテルに入ったが、その地区の外には絶対に出ないことを言われた。私はこの旅では下痢だけで済んだのは幸運だったか。

99年にはパック旅行で訪れたイタリアはフィレンツェでは表通りで、例の「子供が新聞紙で遮蔽して」の一団に襲われたが、皆で大声で一喝して無事に排除したが、現実に彼らに遭遇して見て矢張りそういう連中がいるのだと知った次第。2001年だったかのスペイン旅行では現地人のガイドがサクラダファミリアの前で自由時間を宣言して5分と経たぬ間に、例のウエイスト・ポーチとやらを装着した中年のご婦人が後ろから羽交い締めに遭って財布等を抜き取られた。あのポーチは狙われると聞いていたが、目の前に近いところで現実となったのは良い(悪い?)勉強になった人が多かっただろう。

危険などというものは、それが現実となって我と我が身を襲ってくるまでは「そんなこと」とか「自分だけは大丈夫」と思いがちなものだ。だが、私は実害にも遭ったし、その寸前に近い場所にも行っていた。遭遇するかしないかは運不運も勿論あるだろうが、外国は絶対に我が国とは違うのだということを十分に認識して出かけるべきだ。即ち、現地人無しかガイドがいない単独行動や夜間の外出は禁物だという大原則。尤も、それ以前に「行かなきゃ良いのだ」との説もあるが。