221『岡山(備前・備中・美作)の今昔』岡山人(20世紀、山内善男、大森熊太郎、小山益太、大久保重五郎、西岡仲一)
我が国における桃栽培の発端とは、どんなであったろうか。山内善男(1844~1920)は、当時の津高郡(現在の岡山市北区)に生まれる。岡山藩に登用される。明治維新の後は、郷里に戻り、多種の商売を志す。そんな中でま、このあと紹介する大森熊太郎とともに、ぶどう栽培を手掛ける。切磋琢磨だったのであろうか、1888年(明治21年)、マスカットオブアレクサンドリアの栽培にこぎ着ける。1915年(大正4年)には、ぶどう栽培の温室化と販売促進を目的とする祖山会を中心となって立ち上げる。そればかりか、害虫の駆除を研究し、袋かけ法を考案する。
大森は、山内と同じ村の出身で、1675年(明治8年)に、それまでの郵便御用取り扱いの仕事をやめて、山内らと園芸で身を立てようとする。友人からフランスの事情を聞き、ぶどう栽培を志す。1878年には、岡山県にはじめてアメリカ産ぶどうを入れる。1883年には、今度はヨーロッパから新種を入れる。
そして迎えた1886年(明治19年)には、山内とともに前述のぶどう栽培の温室化を手掛けるのであった。1902年には、実績をかわれて兵庫県明石農事試験場に招かれる。
大久保重五郎(1867~1941)は現在の岡山県瀬戸町の生まれ。小学校を卒業すると直ぐに、岡山で「果樹栽培の祖」と呼ばれる小山益太(1861~1924、現在の岡山県熊山町)に入門し、漢学と果樹栽培(桃、ブドウ、梨など)を学ぶ。
これらのうち桃については、師匠の小山が新品種「金桃」を生み出すほどの大家であったことから、大久保は、そこで交配や剪定、病害虫への対処方法など、いろいろと精出すのであった。中でも、明治期に中国から持ち込まれた上海水蜜、天津水蜜などを品種改良してより美味しい、市場価値の高い桃を栽培できないか、研究を重ねるようになる。ちなみに、一説には、中国の黄河流域あたりの原産だと伝わる桃が、どんな人に運ばれてか、はるばる日本列島に伝わったのは、弥生時代の頃ではないかという。
そして迎えた1901年(明治34年)に、大久保は、上海水蜜系とされる新品種「白桃」の開発に成功する。その味の特徴だが、強い甘みとねっとりした食感だとから注目される。近隣の農家に、やがて県南部へと栽培が広まっていく。
この品種が元となってか、1932年(昭和7年)に西岡仲一(現在の岡山市芳賀)が「新品種の「清水白桃」を育て上げ、公表にいたる。これは、現在も高品質の白桃の代名詞となっているとのこと。
(続く)
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