211の22『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、福井純一)
福井純一(1878~1957)は、津山市街の家の生まれ。津山成器小学校から京都の同志社中学に進むも、父が病となり、中退して帰郷する。1899年(明治32年)には、津山城の跡を公園にする話が浮上する。というのは、それまで県有地であったのが、公園にするとの条件付きにて、津山町に払い下げられたのだ。
それから、1900年(明治33年)津山町議会に5人の公園委員が組織され、整備のあり方を話しあう。公園化に手がつけられると、福井は桜植樹を手伝う。
1905年(明治38年)には、自身が津山町議会に初当選する。福井もその委員会メンバーに加わり、桜植樹の中心的な役割を担う。元々興味をもっていたのだろうか、ますますこの事業に精出すのだあった。
その年月の下流、すなわち現代に向かいゆくに従い、桜の木は増えていく。1907年(明治40年)頃には、鶴山全体が公園としての一応整ったようだ。その後も事業は続く。1915年(大正4年)と1928年(昭和3年)の二度にわたり御大典記念植樹が行われる。福井はこれらの植樹にあたって、「城跡を桜で埋めるなんて、阿呆の沙汰じゃ」などとの声にもひるまず、私財を投じるとともに寄付集めに奔走したという。
そんな福井らの努力が実り、今日、西日本で有数の桜名所ができた。以来、今日まで桜は津山の華となって、花見に訪れる人々を温かく迎える、それは観るひとに柔らかげにしみこんでいく、幸いなるかな。