♦️225『自然と人間の歴史・世界篇』アボガドロの分子説など(1811)

2019-03-03 22:55:23 | Weblog

225『自然と人間の歴史・世界篇』アボガドロの分子説など(1811)

 イタリアの気鋭の科学者アボカドロ(1776~1856)は、1811年に、のちにこう呼ばれる「アボガドロの法則」と「分子説」を提唱するにいたる。これに先立つ1808年、フランスの化学者のゲイ・リュサック(1778~1808)は、「気体が関与する化学反応において、それらの気体の体積は同温、同圧のもとでは整数比をとる」という説を唱える、これを「気体反応の法則」もしくは「ゲイ・リュサックの第2法則」という。

 ここに法則というのは、例外なく設立する現象や相互関係のことだ。これに従うと、例えば、水素2体積と酸素1体積が反応して(体積比は21となり)、2体積の水蒸気が生成することになろうと(現代用いられている化学式でいうと、水及び水蒸気の生成反応は22+О2H2О)。

 井沢省吾氏による概説書によれば、実際のところ、ゲイ・リュサックは、「1805年にユージオ・メーター(メモリ付きガラス管の一端を閉じてその近くに白金電極を2本挿入して、他端を水銀圧力計につないだ装置。電極に電流を流し、管内で起きる気体の化合による体積変化を観察する)を考案して、水素と酸素を反応させて、両者は体積比21で化合することを実証したのです。」(井沢省吾「トコトンやさしい科学の本」日刊工業新聞社、2014)

一方、化学者のドルトン(1766~1844)は、1803年、「物質は、最小粒子である原子からできている」という、「ドルトンの原子説」を提唱する。ところが、ゲイ・リュサックと学問上の対抗関係にあったとされるドルトンは、かかる「気体反応の法則」を認めなかったという。なぜなら、かかる法則を認めると、物質の最小単位であるはずのドルトンの原子が「分割」されてしまい、ドルトン自身の原子説と矛盾することになってしまう。

 彼らの業績の跡を行くアボガドロは、これら二つの先達の説を結びつけ、すべての気体は原子の同種、異種に関係なく、いくつかの原子が結合しした分子という粒子からなる、と主張する。先の例でいうと、水素の単体も酸素の単体もそれぞれ2つの原子からなる分子であると、かかる2つの説と矛盾なく説明できる。これを言い換えると、「「半分子」を水素原子、酸素原子と考えることにより説明できる」ことになろうと。アボガドロは、この「半分子」の考えから、ドルトンのいう原子量を計算しなおす。例えば、ドルトンでは7であった酸素の原子量を15.078に、5であった窒素の原子量を14.16に直したとされる。

(続く)

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♦️348の2『自然と人間の歴史・世界篇』静かなドン(ショーロホフ)

2019-03-03 08:36:09 | Weblog

348の2『自然と人間の歴史・世界篇』静かなドン(ショーロホフ) 

 ショーロホフの「静かなるドン」は、革命期前後にわたる「ドン・コサック「」たちの生活を中心に書かれている。そのあらましだが、一言でいうならば、かれら一団の伝統と解体を描いて見せた。なので、ソ連時代の革命を鼓舞する文学ということではない、異色の文学だ。

 主人公は、グリゴリー・メーレホフというコサックの農民である。若いし、近隣の村々で、力も人望もある。独立精神と強い正義感をもつ。彼は、一団の指導者格だった。

 第一次世界大戦の際、ロシア帝国の兵として、ドイツ軍と勇敢に戦った。その後のロシアは人類史上初めての革命と、新旧勢力による国内戦に突入。グリゴリーと仲間たちは、あれやこれやの出来事や問題に困惑しながら、なんとか自分たちコサックの領分を守り抜こうとする。

 はじめは白衛軍側にあって、赤衛軍と砲火を交えるが、のち赤衛軍に寝返り、さらにコサック民族主義のゲリラのグループに加わって赤衛軍と戦う。こうして7年間の抗争ののち、グリゴリーは疲れきってしまう。

 ソヴィエト政権が村々に立てられると、グリゴリーは革命側と対立を深める。なぜかというに、彼にとっては、新政権もまたよそ者による権力なのだがら。もっともらしい反抗の理由を探す下りには、こうある。

 「人生に一つの真実しかないってわけじゃない。弱肉強食の世界だ。(中略)なのにおれはしようもない真実を探していた。心が病んであっちこっちに揺れた。(中略)昔はタタール人がドンを侮辱して土地を奪い迫害したと聞くが、今度はルーシか。いやだ。我慢しないぞ。やつらはおれにとってもコサック全体にとっても他人だ。コサックたちも今はきづいている。」(3の128)

 (続く)

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