225『自然と人間の歴史・世界篇』アボガドロの分子説など(1811)
イタリアの気鋭の科学者アボカドロ(1776~1856)は、1811年に、のちにこう呼ばれる「アボガドロの法則」と「分子説」を提唱するにいたる。これに先立つ1808年、フランスの化学者のゲイ・リュサック(1778~1808)は、「気体が関与する化学反応において、それらの気体の体積は同温、同圧のもとでは整数比をとる」という説を唱える、これを「気体反応の法則」もしくは「ゲイ・リュサックの第2法則」という。
ここに法則というのは、例外なく設立する現象や相互関係のことだ。これに従うと、例えば、水素2体積と酸素1体積が反応して(体積比は2対1となり)、2体積の水蒸気が生成することになろうと(現代用いられている化学式でいうと、水及び水蒸気の生成反応は2H2+О2→2H2О)。
井沢省吾氏による概説書によれば、実際のところ、ゲイ・リュサックは、「1805年にユージオ・メーター(メモリ付きガラス管の一端を閉じてその近くに白金電極を2本挿入して、他端を水銀圧力計につないだ装置。電極に電流を流し、管内で起きる気体の化合による体積変化を観察する)を考案して、水素と酸素を反応させて、両者は体積比2対1で化合することを実証したのです。」(井沢省吾「トコトンやさしい科学の本」日刊工業新聞社、2014)
一方、化学者のドルトン(1766~1844)は、1803年、「物質は、最小粒子である原子からできている」という、「ドルトンの原子説」を提唱する。ところが、ゲイ・リュサックと学問上の対抗関係にあったとされるドルトンは、かかる「気体反応の法則」を認めなかったという。なぜなら、かかる法則を認めると、物質の最小単位であるはずのドルトンの原子が「分割」されてしまい、ドルトン自身の原子説と矛盾することになってしまう。
彼らの業績の跡を行くアボガドロは、これら二つの先達の説を結びつけ、すべての気体は原子の同種、異種に関係なく、いくつかの原子が結合しした分子という粒子からなる、と主張する。先の例でいうと、水素の単体も酸素の単体もそれぞれ2つの原子からなる分子であると、かかる2つの説と矛盾なく説明できる。これを言い換えると、「「半分子」を水素原子、酸素原子と考えることにより説明できる」ことになろうと。アボガドロは、この「半分子」の考えから、ドルトンのいう原子量を計算しなおす。例えば、ドルトンでは7であった酸素の原子量を15.078に、5であった窒素の原子量を14.16に直したとされる。
(続く)
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