21の1の2『自然と人間の歴史・日本篇』縄文人のDNA(富山、福島そして鳥取)
こうしたDNAを巡る人体要素の継承を敷衍(ふえん)していくと、私たち「倭民族」なり「日本民族」を造った大元の祖先の素性もわかるというのが、その鑑定の仕組みとされる。
なお、ここに「倭」(中国語でwo「ウォ」、声調は第一声)とは、当時の中国から見た場合の呼び方であったであろうことは、前述のとおり。それから奈良時代に入って、大和朝廷が国号に「日本」を使うに至ったとき、この文字での中国側からいう始めの呼び方は、「ニェツト・ファン」(「新唐書」岩波文庫に訳あり)というものであったらしい。
現代では、この中国読みの発音が日本人の間で「ニェツプァン」、さらに「ニッポン」と発音されるようになっていったと推察されている。また、この漢字にて「にほん」という呼び名が併用されるようになるのは江戸時代からのことだ。
さて、以下では、このミトコンドリアと核の2種類のDNAを用いて、私たちの先祖の遺伝的属性を訪ねる旅にでてみよう。
まずは、縄文時代・富山出土の91体の人骨で、ミトコンドリアDNAの属性が判明したのは、13体とのことである。彼らから発見されたのは、「G」、「A」、「M7a」、「M9」そして「M9b」の5つのタイプ(属性)なのだという。この5つのタイプがどこで誕生したかは、だいたいのことはすでにわかっていて、「A」のタイプの人は北アジア、おそらくバイカル湖周辺が源である。「G」タイプは現在のロシア・シベリア周辺で最初に現れた。「M9」は南方で誕生したタイプで、そこから日本とチベットの二手に分かれ、両方に進んでいった。
それから「M7a」というのは、台湾の北あたりから沖縄にかけての海の中で、現在の沖縄の4人に1人はこのタイプに当たる。そして「N9b」というのは、「G」の人のやや南、現在のロシアのウラジオストクを中心とするあたりに位置しており、富山の小竹(こだけ)ではこのタイプの人が一番多かった(2015年12月27日放送のNHKテレビ番組「教科書が変わる!?日本人のルーツをさぐる」でも紹介された)。
これから類推するのだと、縄文人は一つなり二つなりの、狭い地域からやって来たのではなくて、比較的広い地域からやってきたのではないだろうか。これを今生きている私たち日本人の唾液を採取し、これを最先端のDNA鑑定にかけてもらうと、日本人はおよそ20タイプになっていた。言い換えると、列島の外側のあちらこちらから、長い時間をかけて少しずつやってきた多様性に富んだ人々による混合人種であることがわかる。
その中でも、例えば「D4」と呼ばれる日本人に一番多いタイプの中(うち「D4」が33%)でも、その人が縄文時代に最初にやってきた母親の子孫なのか、弥生時代になってからやってきたタイプなのかが判別できるというから、驚きだ。
大いなる驚きは、他にもある。2016年9月、これまでの人体遺跡に残っているミトコンドリアDNA解析とはやや異なった形での、研究成果の学術発表が、総合研究大学院大学(総研大)を始とする研究グループによりあった。9月1日付けの科学誌「Journal of Human Genetics」に掲載された論文を紹介した各種記事に目を通すと、縄文時代の後期~晩期(現在から約2500~4000年前)のものとみられる福島県・三貫地貝塚(さんがんじたいづか)から出土した縄文人の核DNAを抽出した。その核ゲノムの一部を解読することに成功したという。
同遺跡のある場所は、海から4キロメートルほど内陸の標高10数メートルほどの台地の上にある。縄文時代晩期は現在より温かであったことがわかっており、当時はこの付近まで海が入り込んでいた。1952年(昭和27年)に日本考古学協会、翌1954年(昭和28年)に東京大学人類学教室によって発掘調査が行われたところ、総数100体を超える縄文人骨が出土している。この遺跡は、現在、福島県の指定史跡になっている。
これまで縄文人のDNAについては、ミトコンドリアDNAの情報しか得られていなかった。今度の同研究グループは、三貫地貝塚にて発見された縄文時代の人骨2人の大臼歯からDNAを抽出し、次世代シークエンサーでその塩基配列を調べた。機械が日進月歩のため、高精度の解析が可能となった。
正確を期すために、現代人のDNAが混入していないかどうかについても調べた上で、同データを主成分分析法を用いて現代人に至るゲノムデータと比較したところ、大きくアフリカ人、それからは出アフリカの西ユーラシア人、東ユーラシア人、アジア、オセアニア等々へとわかれるなかで、三貫地縄文人は東ユーラシア人にもっとも近く位置していたという。
今回の研究が僅か2個体からのものであるとはいえ、今後この筋での発表結果が続くなら、従来の縄文人のイメージは根底からとって代わらざるを得ないだろう。これから敷延して、彼らのDNAはアジアやオセアニアに行った人のものよりずっと、ヨーロッパ人に近いところにあったのではないか、と早くも言われ始めている。試料の出元が縄文時代晩期の遺跡であることから、その後の日本列島に、当時の近代技術を携え続々とやってきたであろう弥生人と出会ううち、その幾らかは混血していったものと考えられている。
もう一つ、紹介しておこう。今度の発見は、国立科学博物館による、2世紀末頃の人骨の分析結果であって、毎日新聞が、こう伝えた。
「国史跡・青谷上寺地(かみじち)遺跡(鳥取市)で出土した弥生時代の大量の人骨=2世紀ごろ=のDNA分析の中間報告会が2日、同市のとりぎん文化会館であった。国立科学博物館の篠田謙一副館長が、まだ途中段階で不確かだと断った上で「(人骨の)父系の遺伝子は縄文系に近いグループ」に多くが位置付けられると説明した。父系の遺伝情報が分かる「核ゲノム」分析の成果。
全国初となる弥生時代の人骨の本格的なDNA分析だけに、約430人が興味深そうに耳を傾けた。昨年11月の初回の報告会では、母系の遺伝情報が分かる「ミトコンドリアDNA」の分析により、人骨の大半は朝鮮半島や中国大陸などからの“渡来系”が多いとされていた。
当時の青谷地域では多様な遺伝グループが存在したと考えられ、日本人の起源の分析につながる可能性もあるという。今後はDNA分析を進めて各個体の特徴を調べる方針。」(園部仁史記者による、2019年3月3日付け毎日新聞)
それでは、このような活動を通じ、何がわかって来ているのだろうか、その中での注目されている一つが、遺伝情報からの縄文人の顔を再現する試みなのであろう。こちらは、2018年、国立科学博物館と金沢大学、山梨大学、それに国立遺伝学研究所の共同研究グループが、国内で最初の試みとして、DNA情報に基づいての、約3800年前に生きた縄文人の顔の復元象を作成、公表した。
それによると、これに用いられた人骨は、北海道の礼文島(れぶんとう)北部にある船泊(ふなどまり)遺跡から発掘されたという。それは、40代後半から50代前半の女性、身長は140センチメートル前後とみられる。DNAが採取されたのは大臼歯(だいきゅうし)からであり、、これから、この女性の顔に関する遺伝子情報が得られたことで、推定が可能になった、としている。
それによると、その目は茶色くて、髪の毛は細く縮れており、肌の色は黄色系のように見受けられるのだが。解説によると、「肌の色は濃くて、しみのできやすいと推定される」とのことであり、そうであれば、現代日本人にもかなり親しみの持てる、そんな顔であるのではなかろうか。ともあれ、これまで古代人の顔を復元するのに、骨格の特徴を基に推測していたのに比べると、一歩どころか、数歩の前進を示す試みとして、今後の精緻化なりが期待されている。
(続く)
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