♦️224『自然と人間の歴史・世界篇』アボカドロ数の発見(1811~1916)

2019-03-04 19:31:25 | Weblog

224『自然と人間の歴史・世界篇』アボカドロ数の発見(1811~1916)

 かのアボカドロが提唱した分子説(1811)は、「気体状態の物質の基本構造単位は、複数の原子からなる分子である」というものだが、なかなか受け入れられなかった。同種の原子間で引力が働くというのは、あり得ないと考えられていたからだ。

 その厚い壁が最終的に破られたのは、それから百年以上経過した1916年のことであって、それにいたる道筋は次のようであった。まず1827年、ロバートブラウンが、ブラウン運動を発見する。1905年には、アインシュタインが、水分子の運動がブラウン運動の原因だとし、分子の存在を証明する。

 さらに、1909年、ジュンぺランが、ブラウン運動の観察から1モル当たりの原子や分子の数を明らかにする。アボガドロ定数と名づけられたその値は、ある物質 1 mol、つまり質量 0.012 kg(12 g)の炭素12の中に含まれている原子の総数で定義される。ここに1 mol(モル)というのは、6.022140857×10の23乗(10を23回掛けたもの)個の原子の数だ。

 ついでに私たちにとって身近な水でいえば、水 H2Oは 水素原子2つと酸素原子1個で構成されている。それらの原子量の合計が水のモル質量になる。そこで水素の原子量は1で、それが2個で1×2=2、それから酸素の原子量は16で、それが1個で16となって、二つ合わせると18というのが水1モルの質量となる。

 こうして水の1モル、つまり分子量が18だとわかると、それにグラムを付けたものが水の質量となる。気温が摂氏25度での水の密度、つまりは、1ミリリットル当たり0.998グラムであるから、水1リットルの質量はその千倍の998グラムだ。

 したがって、998グラムを18ミリリットルでわった55.4モルが水1リットルが何モルかの答えとなろう。ついては、その水1リットル中の水の分子の数は、55に6.022140857×10の23(10を23回掛けたもの)乗個という数を掛けたものとなろう。逆にいうと、水の1モルは0.98掛ける18なので、18ミリリットルとなる。ところで、水のコップ1杯は180ミリリットルだから、10モルの水が入ることになるだろう。

 そして迎えた1916年、アメリカのルイス(1875~1946)は、「原子と分子」と題する論文を発表した。その中で、同一原子の間に引力が働く共有結合の理論を確立した。アボカドロから105年後の提唱であった。

(続く)

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♦️223の1『自然と人間の歴史、世界篇』質量保存の法則の発見(1774)

2019-03-04 09:15:57 | Weblog

223の1『自然と人間の歴史、世界篇』質量保存の法則の発見(1774)

 質量保存の法則とは、化学反応の前後において,化学反応にあずかる物質の総質量は反応の前後において不変であるというもの。 1774年 に、フランスの化学者たるラボアジエによって発見された。

 これの先駆として忘れられないのは、酸素の発見であって、イギリスのプリストリーとスウェーデンのシエーレにより、ほぼ同時期、互いに独立して発見された。

 なお、厳密には、この法則は近似でしか成り立たないという。というのは、アインシュタインの相対性理論によれば、エネルギーEと質量mとの間に、E=mc2(cは真空中の光速度で、これに2乗がかかる) の関係がある。ここにエネルギーというのは、物理学で定義される意味での、仕事をさせる何かの能力を指すものとしておく。

 本当は、化学反応に伴うエネルギーの出入りは必ず質量の変化を伴うのである。とはいえ、この地上での普通の化学反応では質量の変化が微量であろうから、気にしないでよいだろう。ただし、エネルギー変化の大きな原子核反応ではそれに伴う質量変化も無視できない大きさになる。

(続く)

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♦️218『自然と人間の歴史、世界篇』真空と大気圧の発見(1643)

2019-03-04 08:12:29 | Weblog

218『自然と人間の歴史、世界篇』真空と大気圧の発見(1643)

 1643年に、ガリレオの弟子のイタリア人エヴァンジェリスタ・トリチェリ(1608~1647)は、一方の端が閉じたガラス管に水銀を満たし、このガラス管の底を上にして立てると、水銀柱は約76cmとなり、それより上の部分が真空になっていることを発見した。これは、容器の周囲にある空気が圧力となって水銀を押したものと考えられる。

 続いての1654年、ドイツのオットー・フォン・ゲーリケ(1602~1686)は、ブロンズ製の直径40センチメートルの銅半球を2つ合わせて中空の球にする。それから、自身の考案した真空ポンプを使って内部の空気を抜いて真空にするという公開実験を行う。すると、この2つの半球はぴったりとくっ付き、球の両方を16頭の馬で引っ張ることでようやく外すことができたという。この実験は、彼がマクデブルクの市長を務めていたことから、「マクデブルクの半球」として知られる。

 これらは真空の発見であると同時に、気圧というものの発見でもあった。大気圧が如何に大きいかがわかることで、自然認識が大いに進んだのは確かだ。

(続く)

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