◻️25『岡山の今昔』建武新政・室町時代の三国(西大寺の自治を巡って)

2019-03-06 18:32:10 | Weblog

25『岡山(備前・備中・美作)の今昔』建武新政・室町時代の三国(備前金岡荘・西大寺の自治を巡って)

 鎌倉時代の末期から室町時代にかけて、西大寺あたりの経済、土地支配の在り方については、民衆がなかなかの力をしめしていたようだ。脇田晴子氏の論考には、こう紹介されている。

 「しかし、領主権力と武家領主の支配の間隙に位置するものも存在した。例として、備前金岡荘に成立した西大寺の場合を見よう。吉井川の河口の港、金岡浦から発展した市町であるが、金岡荘が元亭二年(一三二二)、領家方(額安寺)二分と地頭方三分で和与中分を行ったとき、得分が多い故か、市も分割領有された。

 今に残る「西大寺観音院境内古図」の裏面の書入れには、「定西大寺市公事国方地頭方事」とあり、酒屋、魚屋、餅屋、筵座、鋳物座についての公事銭を記したあと、「彼市成敗は地頭方と国方是をすへし」と書かれている。

 この国方は抹消して、別当と書き改められている。この地図は室町ー戦国期のものと見られるので、国方は守護方と見ることができる。おそらく、領家分を守護請にして、領知してしまったのであろう。したがって、市支配と裁判権は、地頭方と国方がともになすことが規定された。」(脇田晴子「室町時代」中公新書、1985)

 次に、それからかなりの時が経過してのことが、こう説明される。

 「ところが延徳四年(一四九二)宇喜多久家は「金岡東荘領家之内、西大寺市場敷並びに諸公事人足等」を、浦上宗助は「金岡西荘公文之内、西大寺市場敷」を西大寺に寄進している。この段階で、「国方」の字は西大寺の「別当」と書き改められたのであろう。さらに天文年間には、西大寺寺領市場屋敷内当寺領については諸役免除と守護使の不入権が与えられている。おそらくは西大寺別当の名目的支配の下に、市庭住人の相当の自治権があったと考えられる。」(同)

 およそ以上の流れであったことから、「和与中分以後、地頭と領家・国方・別当と、支配が分割され、その間隙に位置した。」(同)と結論付けられている。これからもうかがえる通り、ここ西大寺においては、商品経済がかなり浸透していたようだ。そして、当地における政治・経済支配については、どうやらこの時期区分において、支配・被支配を巡りかなりの錯綜した関係が推移してあったようなのだ。

(続く)

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