おはようございます。
もうそろそろ閉幕するが、6月はじめに訪ねた横浜山手の神奈川近代文学館の江藤淳展につて記録しておこう。
江藤淳といえばぼくらの世代では知らぬものはいない評論家で、ぼくも彼の著作をよく読んだ。なにしろ、ぼくの好きな漱石とか小林秀雄らの評論をするのだから読まないわけにはいかない。漱石とその時代、小林秀雄、アメリカと私、夜の紅茶などが本棚に並んでいたが、定年後、マンションに移ったときに蔵書の大整理をして、江藤淳ものも失ってしまった。
晩年は鎌倉の西御門に住んでおられ、おしどり夫婦として知られていたが、奥さんが先に亡くなられた。彼女を偲ぶ”妻と私”を著してのち、自身も体調をこわし、結局、自死されたが、そのニュースを聞いたときにはほんとに驚いた。没後もう20年になるという。
江藤淳の活躍ぶりを示す例として、18回菊池寛賞(1970)の同時受賞者が松本清張で、32回芸術院賞(1976)では、安岡章太郎、司馬遼太郎と一緒に受賞している。1959年のあるシンポジュームには江藤淳、石原慎太郎、城山三郎、谷川俊太郎、浅利慶太と錚々たるメンバーが揃う。
第1部が”江藤淳登場”で生誕から中学時代(湘南、日比谷)、慶応大、アメリカ留学辺りまでの履歴が写真や原稿などで紹介される。湘南高校では辛島昇、石原慎太郎と知り合う。大学では、のちに妻となる同級生の三浦恵子と知り合う。ふたりの恋愛を素材にした”沈丁花のある風景”ではじめて”江藤淳”の筆名を使う。本名は江頭淳夫。その後、三田文学で漱石論を発表する。
第2部が”江藤淳の仕事”で、後半生の作品が並ぶ。ぼくの知らない本もいっぱい。ごく一部しか読んでいないことを知る。西郷隆盛(南洲残影)や勝海舟(海舟余波)についても評伝を書いていた。幼年時代に死別した母の回想からはじまる一族の物語などもある。本展の目玉のひとつに、新発見の江藤淳への手紙のコーナーがある。吉村昭、遠藤周作、水上勉、河盛好蔵らの貴重な筆跡を見ることもできる。
慶子夫人と。
”妻と私”の原稿
愛犬バティと。
見応えのある文学展であった。
それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!
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