Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

MARIA STUARDA (Mon, Dec 31, 2012)

2012-12-31 | メトロポリタン・オペラ
早いもので2012年もお終い。今年も例年通り一年の締めはメトで、、というわけで、大晦日ガラの『マリア・ストゥアルダ』です。

メトの2012/13年のシーズン発表、それに伴って宣伝用のスチール写真が出てきた頃から、
”なーんか変な感じがするんだけど、何が変なのかわからない、、、。”とモヤモヤした気分に包まれていて、
だけど、最近考えることがすっかり面倒臭くなってしまって、”ま、いいか。”と良く考えないで放っておいたら、
”そろそろ『マリア・ストゥアルダ』の予習を本格的に、、。”と思って準備し始めた途端、それが何かがわかりました。

『マリア・ストゥアルダ』にはジョイス・ディドナートの写真がずっと使われてましたけど、一体彼女が歌う役は何、、?

メゾが女性陣の中で一番の主役、というオペラの演目はそんなに数が多くないので、
私のモヤモヤは、当初、メゾのディドナートが一人スチール写真にのっているということに対する漠然としたものだったと思うのですが、
『マリア・ストゥアルダ』って、よく考えてみると、初演はソプラノ on ソプラノの組み合わせだったようですが、
ここ数十年の演奏の歴史としては、メゾがエリザベッタ役を歌い、ソプラノがマリア役を歌うパターンの方が多いんじゃないかな、と思います。
スカラな夜のイベントの一貫として映画館で見た『マリア・ストゥアルダ』での人間国宝級のマリアはデヴィーアだったし、
(後注:ただし、エリザベッタ役を歌ったアントナッチは2002年頃からメゾのレパートリーに加えてソプラノのそれも歌い始めていて、それに合わせて公式にはソプラノを名乗っているようです。)
家にあるCDも、マリア役を歌っているのはカバリエとかサザーランドとかグルベローヴァとか、
ソプラノ、それもただのソプラノではなく、ベルカント・ワールドで卓越した声と技術を誇るソプラノばっかりです。
そして、今日ディドナートと共演予定のヴァン・デン・ヒーヴァーは私がこれまで名前も聞いたことのない歌手で、
彼女がソプラノなのか、メゾなのかもよく知らない、、、という事情もこの事態を助けていません。
なぜなら私は、ならばきっとこのヴァン・デン・ヒーヴァーがソプラノでマリア役を歌うのかな、、と思い込みかけていた時期もあったからです。
でも、そういえばスチール写真のディドナートはロザリオを持って悲痛な表情を浮かべていたような、、
ってことは、れれれ?やっぱりディドナートがマリア役??

今回はスカラの夜の時と違って生鑑賞だし、つい予習にも力が入るわけですが、いくつか音源を聴いてみて、
あらためてあのスカラの公演が全然退屈でなかったのは、
デヴィーアと必ずしもベスト・コンディションでないながらも音楽性の高さを誇るアントナッチという二人の歌手の力があったからだなあ、、と思いました。
というのも、『マリア・ストゥアルダ』は、その必要とされる高度なテクニックに聴いてるだけで顎が外れるような気がする
『テンダのベアトリーチェ』のような作品とは違った意味で、
良い公演にするのがすごく難しい作品だからです。



最大の理由は、こういっちゃ元も子もありませんが、まあ、はっきり言ってドニゼッティのベストの作品ではないんです。
ベルカント作品好き、中でもドニゼッティが大・大好きな私がそう言うんですから、まあ間違いありません。
一つにはジュゼッペ・バルダーリによるリブレットのせいもあると思いますが、
音楽の方もドニゼッティの他の人気作品と比べると、鮮烈に記憶に残るような旋律・ドラマの盛り上がりに恵まれておらず、
それこそ、デヴィーアのような歌手でないと、この作品を説得力を持って歌うのは至難の技です。
いえ、デヴィーアだって、例えば30代とか40代の頃に歌っていたらば、スカラの夜の時のような迫力ある歌を繰り広げられたかどうか、、。
あの公演は彼女の歌手としてのストイックさと自信が、マリアの”一つ運命が掛け違えば私が女王だった!”というプライドとシンクロして、
それがすごい迫力になっていた、という、一種特殊なケースだったと思うのです。
で、オケに与えられた音楽も同じ理由で難しい。
これ、ダルな演奏されたら、もうオーディエンスにとっては苦痛以外の何物でもない、という種類の音楽です。
いや、それだけでなく、指揮者がしっかりしていないとこのあたりやばいことになりそうだな、、という”崩壊注意”の標識がかかっている箇所もあり、
カバリエが歌っているライブ音源でのスカラ座の演奏の中にも、
”なんかよくわからないけど、こんな感じで弾いとくか、、。”みたいな怪しいことになっている部分もあります。
ベルカント・オペラを演奏させたら右に出るものがいないスカラですら手を焼く『マリア・ストゥアルダ』。おそるべし。

そして、とどめが、マリア役とエリザベッタ役のキャスティングの難しさです。
エリザベッタの方は、低音域も高音域も充実していなければならず、
その上に、この二つの間を瞬時に跨ぐ旋律が多いので、普通以上に胸声の音色が突出しないで他の部分と出来る限り統一された音色であって欲しい。
例えば、サザーランドの盤でエリザベッタを歌っているトゥーランジューは高音域の音が綺麗で、
低い音域もそこだけ取れば迫力ある音が出ているのですが、なんだか音色がものすごくドスが利いており、高音域の美しい音色とかなり異質なため、
行ったり来たりする度に、黒いトゥーランジューと白いトゥーランジューがかわりばんこに出てくる感じでかなり違和感あります。
カバリエとライブ盤で組んでいるヴァーレットは音色の統一性という点では優れているし表現力もあるんですが、
最高音あたりはトゥーランジューほど楽には出ていない感じがありますし、
私はもしかすると、ドラマの表現の部分を別にすればこの作品はマリア役よりもエリザベッタ役の方が難しいんじゃないかな、、と思っている位です。

ではマリア役が楽かというと、当然そんなことはなく、この役の難しさは一にも二にも表現力です。
スコア通りに歌うなら、そんなに滅茶苦茶な高音はないのでその点は楽に感じられるかもしれませんが
(ただし、オプショナルに高音を入れたり、オーナメテーションを入れることによって、その難度は無限大にあがる。)
音楽がドニゼッティのベスト!とはいえないだけに、その分、そういった歌手の裁量によるエキサイトメントを付け加えるか、
もしくは声そのものの魅力でオーディエンスを魅了せねばなりません。

この作品の男性陣はロベルト(レスター伯)役ですらこの二人の引き立て役の枠を出ていない”この役立たずー!”な存在ですので、
マリア役とエリザベッタ役を歌う二人の歌手の肩にすべてがかかっており、
この二人に、ただでさえも油断したらすぐにダレダレになってしまいがちな音楽を、そうさせず、
逆に高みに引き上げられる実力とドラマティック・センスがないといけない、『マリア・ストゥアルダ』はその点で難しい作品なのです。

この、私たちが単純にメゾvsソプラノと言って一般的に思い浮かべる特徴にはっきり分け切れず、
まるで両方のテリトリーに跨っているかのような不思議な両役のリクワイヤメントのせいか、
実は調べてみると、この50年位の演奏史でも、マリア役・エリザベッタ役いずれも、ソプラノとメゾの両方で歌い演じられたことがあるんだそうです。
ということで、結局、メトではメゾのディドナートがマリア役を歌うんですが、歴史上初めてのメゾの同役への挑戦!ということではないようです。



最初に舞台上に大きく見えるのは獅子と鷲なのかな、、、?
このコンビネーションはメアリー一世の治世の時の王家の紋章で(エリザベス一世のそれは獅子と竜)、
マリアとエリザベッタのどちらが正当な王位継承者か?という議論や二人の確執の元凶となったものをシンボライズしているのかもしれません。

刷り込みというのは強力なもので、突然マリア/エリザベッタ両役でソプラノ/メゾのスイッチOKよ!と言われても、
初めて見た公演(スカラの夜)や耳に慣れた音源の印象というのはなかなか払拭できないので、
私はどうしても、マリア役にソプラノ的なものを、そしてエリザベッタ役にメゾ的なものを期待してしまいます。
で、ディドナートがマリア役を歌うのですらちょっと意外ではあったんですが、そうか、今日はそうするとメゾ on メゾなんだな、と思ってました。

ドニゼッティお得意の焦らしの術(『ルチア』なんかも同じパターン、、)により、
同作品の最大主役であるマリアは一幕の二場からやっと登場~♪なので、一幕一場は完全にエリザベッタ役の独壇場。
先にも書いた通り、エリザベッタ役は本当に大変な役で、高音域も低音域も同等にパワフルで、しかも音色が統一されていて、、なんていうのは無理に近い注文だから、
どれかが優れていれば良しとしなければ、位な気持ちで、それこそヴァン・デン・ヒーヴァーについては何の前知識も無いものですから、
まっさらな気持ちで鑑賞を始めました。



新演出もので、ディドナートのような人気歌手相手に、こんな難しい役でメト・デビューをする、となったら、緊張の極みに達していても全然おかしくないのですが、
登場してすぐに歌う"Ah! quando all'ara scorgemi ああ、私が婚礼の祭壇に導かれる時”での彼女の落ち着きぶりと度胸は大したもので、
きちんとした声、きちんとしたベル・カントのテクニックの両方を持っていることがすぐにはっきりと感じ取れました。
こんなメゾ、これまでどこに隠してたんだ!?です。
全音域に渡って音色の統一のされ方も申し分ないし、エリザベッタの男性っぽさ(それがなかったらあんな政治手腕を発揮できないし、
これこそがエリザベッタと同様にプライドが高くありつつも良くも悪くも頭からつま先まで女っぽいマリアとの対照的な点でもあるわけで、
この点を表現することがこの役では不可欠なのです)、気の強さ&激しさ&気位の高さもきちんと表現されていて、
彼女の歌は、端々からきちんと感情が感じられるのがいいな、と思います。
重箱の隅つつきまくりのこの嫌~なオペラ婆が、後は高音域か低音域のどちらに比重がかかっているかを観察せねば、、と、万全の態勢を整えているわけですが、
まあ、ここまで低音がきっちりしているメゾだから、ものすごい高音を期待するのは酷というもの、、と気を緩めそうになった瞬間、
"Ah, dal cielo discenda un raggio ああ、空から光が一筋射して”の最後に彼女がなんと高音(D)を入れて来て、
それがまた、なんとか頑張って挑戦してみました、、というような生っちょろい音では全くなく、
堂々としたフル・ボディの、ソプラノでもこんなしっかりした綺麗な高音出したら、万々歳というような音で、私は目玉が飛び出るかと思う位びっくりしました。
これにはオーディエンスも大喝采!で、これで一層心に余裕が出来たか、後に続くレスター伯爵との二重唱も素晴らしい出来で、この意地悪婆も完全降参です。
むしろ、あの高音と、その後に続く歌唱の高音域を聴いてしまったら、比較として、どちらか選ばなければならないとしたら、
むしろ高音域の方が良い位かも、、、いや、もうこれは両音域充実している、と言ってよいでしょう!

一体このエルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーとは何者??とあらためてプレイビルを開けると、、、
あれ?ソプラノなの、この人??
やだー、私はてっきりメゾだと思って聴いてましたよ。異常に高音に強いメゾだな、、と。
それ位、低音域も普通にしっかりしてるから、、、。
さらに帰宅してから調べてみると、彼女は元々メゾでスタートしたものの、
サンフランシスコ・オペラのメローラ・プログラムに在籍していた時に”あなたはメゾではなくソプラノ!”と言われてソプラノにコンバートした経緯があるんだそうです。
ハイG(!)も出るそうですから、今日の高音なんか朝飯前だったんだ、、、。
そして、このあなたはソプラノ!とコンバートを薦めた二人の人物のうちの一人がなんと、ドローラ・ザジックなんだそうです。

ということで、今日は私がこれまで持っていたソプラノ(マリア) on メゾ(エリザベッタ)とは真逆の、メゾ on ソプラノの公演なんです。
面白い。



実は『マリア・ストゥアルダ』がメトで上演されるのは初めて、つまり今日がメトでの初演となります。
2011/12年シーズンに『アンナ・ボレーナ』で始まったチューダー(女王)三部作シリーズの第二弾で(ちなみに第三弾は『ロベルト・デヴェリュー』)、
このシリーズは全てデイヴィッド・マクヴィカーが演出を担当することになっています。

セットや衣装のデザイン・色合いとも『アンナ・ボレーナ』からの繋がりがきちんと感じられるものになっていて、
こういう点は一人の演出家がシリーズで演出する場合の長所だな、と思います。
特に今回の演出では赤の使い方が効果的で、確か『アンナ・ボレーナ』の前のレクチャーで、
チューダーの時代というのは身分によって着用できる繊維の種類や色が決まっていた、というような話があったように思うのですが、
投獄されている身のためにずっと黒い衣服に身を包んでいるマリアが、処刑に赴く前にばっ!と衣装を脱ぎ捨てると、その下から赤いドレスが出てきます。
それまで、全編を通じて赤の衣装で登場したのはエリザベッタだけで(フォルテリンガ城での狩りの場面)、
かつ、他の登場人物の衣装と舞台はほとんど黒か黒っぽい色なために、マリアが赤いドレスになった時のビジュアル的効果は鮮烈で、
これはマリアが死の場に臨んで、心は女王のまま死んでいった、ということを表現するのに非常に有効でした。
また、『アンナ・ボレーナ』の時には抑えモードだった処刑の恐怖も、今回は舞台の上に首切り人を立てて迫力アップしてます。



ニ幕以降は至極真っ当に恐怖と陰鬱さを表現しているマクヴィカーの演出ですが、ユニークなのは一幕でのエリザベッタの取り扱いかもしれません。
ヴァン・デン・ヒーヴァーが100%自分の考えで今回のようなエリザベッタ像を作ったとは考えづらいので、
全部とは言わずとも、最低でもいくらかはマクヴィカーのアイディアによるものだろうと推測するのですが、
ヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタは、歌は至極真っ当ですが、演技と役作りはかなり変です。怖いです。奇妙です。
スカラの夜にこの役を演じたアントナッチはマリア役に負けず劣らずにシリアス路線でエリザベッタを演じてましたが、
ヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタはそのあまりの変てこさにほとんどコメディックぎりぎりの線を走っていて、
お付きの人も多分、”政治には長けてるけど、変な女。”と思いながら仕えているんだろうな、、と思います。
どこをどう変か、、と言えば、、、こう、、、女装した男性がそのまま女性になったみたい、というか、、
でもそれを演じているヴァン・デン・ヒーヴァーはやっぱり女性で、、と考えるとわけがわからなくなって来ました。
エリザベッタは女王なんだし、ここまで変ってるってことはないだろう、、と、アントナッチ型のシリアス路線を志向する方も多いでしょうし、
そもそもチューダー三部作は史実の器だけを借りて、ドニゼッティが美しく加工して作り上げたものであることを考えると
(オペラで描かれる細かいエピソードはほとんどがフィクションと言ってよいので、これを歴史のまんまだと信じてはいけません!)、
マリアもエリザベッタも美しく悲しいヒロイン達であるべきだと思うのですが、
私はこのヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタの演じ方にある種のリアリティを感じて、嫌いじゃないです。いや、むしろ好きかも。
もしかしたら実際エリザベス女王もこんなちょっと変な人だったのかも、、と思ったり、、。



面白いのはマクヴィカーがエリザベッタをこのように設定したせい・おかげで、
リブレットの言葉と音楽だけから受け取るイメージと、舞台の場から受ける雰囲気がかなり違ったものになった点です。
特にレスター伯爵との関係には辛い片思いの相手、というよりは、長年の気心知れたほとんど友人のような上司・部下同士、という感じになっています。
でも、確かに、レスターはエリザベッタの御前に遅刻しても、随分思い切ったことを申し出ても、なぜか彼女に許されてしまう。
だし、エリザベッタだって、馬鹿じゃないんですから、フランスの王とレスターを比べてレスターを夫に取る、なんてことは
政治的な理由から言ってもまずありえない、、、ということ位、わかっているはずであって、
スカラの夜のようにレスターへの悲恋をあまりに強調し過ぎるのは的外れなのかもしれないな、、と思います。

ただ、レスターがエリザベッタにフォルテリンガ城を訪ねるよう説得し、それに成功してしまう場面は、
(それにしても、このレスターという男は本当頭悪いというか、、、二人を会わせて仲直りさせよう、、なんて、どこまで能天気なんだ?と思います。)
怒り半分、一人で立ち去ろうとするエリザベッタに、レスターが執拗に彼女の手を取ろうと手の平を差し出すと、
”またあんたの言う通りになっちまったよ!もう!”という感じでエリザベッタがばしっ!と悔しまぎれでその手を取るあたりは微笑ましく、面白い解釈だな、と思うのですが、
そこに至るまでのプロセスで、彼女がどれほどマリアに恐怖と脅威と、その裏返しの敵意を感じているか、そこが伝わりきっていないと思います。
特にこの物語は彼女たちが血の繋がった関係で、マリアがエリザベッタにしばしばsorellaと呼びかけている位です。
エリザベッタはアンナ・ボレーナ(アン・ブリン)とエンリーコ(ヘンリー8世)の間に生まれた娘で、
マリアは、エンリーコのお姉さんの孫娘なので、この二人は日本語ではどういう関係なんでしょう、、、よくわかりませんが、
まあ、お姉さんというのは言いすぎですが(ですし、もっと広い意味でのsorellaなんだと思います)、血縁関係はあるわけで、
単なる王位をめぐるライバル同士というもの以上の、この血の繋がり、そして、イギリス国教会とカトリックに分断された二人の立場の微妙さがこの物語の肝の一つだと思います。
マクヴィカーはスコットランドの人なので、その辺りは観客全員が当然持っている知識のはず、という前提で、
一幕一場をユーモアを交えた味付けにしたのかもしれませんが、
ニ場で、レスターの”Ove ti mostri a lei sommmessa もし彼女(エリザベッタ)に謙虚な姿勢で対すれば、、
(エリザベッタが恩赦してくれるかもしれない。”という言葉に対し、
マリアが”A lei sommessa? 彼女に謙虚な姿勢をとる?(なんでこのあたしがそんなことしなければならないの?)”と答え、
それに対してレスターが”Oggi lo dei 今日だけはそうしなければ。”と歌った瞬間、
劇場が爆笑の渦に巻き込まれたところを見ると、マクヴィカーはメトの観客を甘く見過ぎたかもしれません。

私が今回、一つだけ、小さな不満がマクヴィカーの演出にあったとすれば、この、ことの深刻さを演出で伝える匙加減だったかな、と思います。
一幕一場で設定したトーンが少し軽すぎて、ニ場に影響を与えてしまったと思います。
ただ、イギリス人でない演出家がエリザベッタをこのような人物像にするにはすごく勇気がいると思うのですが
(下手したら、お前はイギリスを馬鹿にしてるのか!と、イギリス国民の怒りを買いかねない、、。)、
マクヴィカーはそんなハードルを軽く乗り越え、エリザベス一世をあのように描きながら、しかし、彼女への温かい眼差しも感じられるのが面白いな、と思いました。
彼の演技指導にきちんと応えているヴァン・デン・ヒーヴァーも見事だと思います。
舞台でもHDでも彼女の素顔を見る機会はまずないと思われますので、
あのものすごい化粧と不気味な身振りの下にはこんな素顔が、、ということで、彼女の写真を紹介しておきます。



私個人的には今日のキャストで一番色んな意味であっ!と驚かされたのがヴァン・デン・ヒーヴァーでしたので、肝心なマリア役にやっと今頃辿りつきました。
ディドナートは昨年の大晦日の『魔法の島』のシコラックスはともかく、『セヴィリヤの理髪師』のロジーナ、『オリー伯爵』のイゾリエ
そして、ガラリサイタルでの歌唱に普段の明るくてファンを大切にする姿勢(こんなこともありましたっけ、、)で、
NYのファン・ベースにはそのポジなところが超愛されていて、本当に人気があるメゾなんですが、
今日のマリア役のような完全な悲劇のヒロイン役をメトで歌うのは初めてで、
私はあの元気一杯なディドナートがこの役をどのように歌い演じるか、ものすごく楽しみにしてました。
また、これまでは主役級の役を歌っていても、その任を他の歌手と分け合うケースが多かったわけですが、
この作品は、エリザベッタ役も大変とは言え、やはり何といってもタイトル・ロールはマリアなわけですから、
彼女がメトでピンで客を呼べる歌手としての、言ってみれば最終承認をオーディエンスからもらう場になるか否か、という面でも、
彼女にとってものすごく大きなチャレンジのはずです。

まず、先にワーニングしておいた通り、私はこの作品のマリア役はソプラノのイメージが強いし、
また、この作品はドニゼッティの作品なので、出来れば同じベル・カントの中でも、
ドニゼッティの作品を得意としているソプラノに歌って欲しい、という、細かい/個人的な趣味レベルの欲求があるので、
その点では必ずしも私の期待通りではなかったかな、、ということで、まず些細なネガの意見を先に書いてしまいます。

彼女の声はメゾにしては軽やかで高音も綺麗なんですけど、やはりメゾなんですね、、
当たり前のことを言われても、、と言われるかもしれませんが、この作品のマリア役をメゾが歌う、ということは、
私の感覚ではあまり当たり前のことではないので、そこのところでコンフリクトが起きているんだと思います。

この役で必要な最高音あたりになると、力のあるソプラノなら
(そして、ディドナートがメゾとしてものすごく力のある人であることは強調しても強調し過ぎることはありません。)
音が広がって行く感じがすると思うのですが、ディドナートはそれが出来るほどの猛烈な高音は持ち合わせていないので、
どうしてもそのあたりの音域になると、広がって行くのではなく、逆に一点に向かって集約して行くような音になり、若干音が痩せる感じもあります。

後注:チエカさんのサイトでは、コメント欄で彼女が全パートに渡って半音もしくは全音下げている事が指摘されていて
(場所によってトランスポーズする度合いを変えているみたいです。)、その是非を巡ってヘッズの間で議論になっています。
しかし、音を下げてすら、やっぱり上のような印象がありましたので、単純にどこまでの音が出せるか、出せないか、ということだけが問題ではないように思います。
また、リハーサル中や公演前にトランスポーズの指示が出たわけではないようなので、おそらくはじめから下げて歌う予定だったのだと思います。


当然のことながら、ソプラノのようにオプショナルの高音を入れることは難しいため、
そういった歌手の采配で加わる高音の追加の楽しみ、というのもありません。
それからこれはあまり以前は感じなかったんですが、中音域から下にかけて、少しフレミングの発声とも似た独特の粘りが出ます。
この粘りはメゾのレパートリーなら、それなりに一種の魅力になることもあるかな、、と思うんですが、
ドニゼッティの、それも本来ソプラノが歌う役にはあまり似つかわしくないな、、と思います。

後、これは好みの問題が大きく関係するので必ずしも悪いことではないのかもしれませんが、
彼女の歌唱はバロックから、同じベル・カントでもロッシーニに合ったスタイル、という感じがして、
ちょっとドニゼッティの作品には私は違和感を感じる点もあります。
ロッシーニとドニゼッティの違いは何なんだ?と言われると、言葉で説明するのは難しいのですが、
簡単に言うと、カクカクさと滑らかさ、、とでも言うのか、、、
バロックやロッシーニはアクロバティックであることが奨励され、、
そのままアクロバティックなものとしてオーディエンスに聴いてもらうことが歌い手の目標であり、
オーディエンスにとっての美であり、楽しさでもある、、という風に思うのですが、
ドニゼッティやベッリーニは逆にアクロバティックな歌をそうでないかのように歌うところに美があるのではないかな、、という風に個人的には思っているのです。
なので、バルトリが歌う『夢遊病の女』とか、上手だなあ、、とは思うんですけど、一方でなんか違う、、と感じてしまう自分がいます。
で、アクロバティックでなく聴かせる一つの手段に、音の動きの角を少なくする、という方法があると思うのですが、
ディドナートの歌は『マリア・ストゥアルダ』のような作品での私の好みの歌唱に比すと、若干音の角が立つ歌い方に寄っているように思います。
まあ、でもこのあたりのことは、ものすごく細かい、贅沢な注文であることを強調しつつ、たくさんあったポジティブな点に移りたいと思います。

まず彼女の声の美しさ、これは本当に素晴らしい。
声そのものが、マリアという役の、エリザベッタのほとんど男性的と言ってもよい性質に対照的な、女性らしさというエッセンスを表現しつくしていると思いました。
それからボリューム・コントロールの上手さと歌唱技術の確かさ、またオーナメテーションを入れる時のセンス、
この点は以前から彼女の歌唱の大きな武器だと思っていましたが、
この作品での彼女の歌唱はそれを駆使し、あからさまにどうだ!というのではなく、
繊細なクレッシェンド、上品な細かいオーナメテーションなどを駆使し、オプショナルな高音が出せない、というハンデを乗り越えています。

そして、何よりも表現力!!
一幕二場の”ああ、雲よ、なんと軽やかに Oh! Nube, che lieve!”とニ幕ニ場~三場を比べるとそれは明らかです。
一幕二場では彼女の表現力より技巧が勝っているような感じの歌なのですが、ニ幕ニ場から以降、技巧はそのままに表現力が逆転勝ちする感じで、
彼女の歌手としての素晴らしさが感じられるのはこの部分です。
タルボを通して神からの赦しを得る場面と、合唱を従えて歌う"Deh! Tu di un umile preghiera il suono ああ私達の慎ましい祈りを"、
特に後者での彼女の歌唱は、どうやって合唱に対してこのような完全なバランスを取って歌えるのだろう、、?という位、
絶妙な音量で、合唱の中に浮き漂っているように音を響かせて来るのが本当に凄いです。
これは彼女の声質のせいもあるのかな、、と思います。
決して合唱から浮き立つような特殊な声でも、周りを圧するような感じでもなく、
自然に交じり合っているんだけど、だけど、彼女の声が絹のような光沢を放っていて、
オーディエンスが彼女の歌の軌跡を見失うことは決してない、、というそういう感じ。
この合唱との重唱部分は至福でした。

一幕二場で、アンナ・ボレーナがエリザベッタを侮辱する場面、
”Figlia impura di Bolena~Profanato è il soglio inglese, vil bastarda, dal tuo pié!"
(薄汚いボレーナの娘が!~ あんたみたいな卑しい私生児のおかげで、イギリスの王位も地に堕ちたわ!)で、
声を荒げたり、感情過多にならず、思わず口を突いて出た、というよりも、
もうずーっと考えていたことをここで言わせてもらうわ、、という抑制していた怒りが段々と雪だるま式に大きくなって行く感じの表現も彼女らしいな、と思います。

とにかくこの日のために相当な準備をしたであろうことが感じられる歌唱で、
彼女が登場する公演で歌にがっかりさせられた試しがこれまで一度もないのですが
(『魔法の島』も、作品にはがっかりさせられましたが、彼女の歌にはがっかりしてません。)、
この一度請け負ったら、全力で立ち向かい、中途半端な結果を出さない、という姿勢も、彼女がこちらで絶大な支持を受けている理由の一つなのかもしれません。
私もあれこれと細かいことを言いましたが、鑑賞する価値のある公演だったかと聞かれれば、もちろん!と答えます。



先に役立たず呼ばわりした男性陣ですが、それはドニゼッティがいけないのであって、歌手がいけないわけではありません。
今日の公演に参加した男性陣は全員、歌い甲斐があるとは口が裂けても言えない役柄にも関わらず、
一生懸命ディドナートとヴァン・デン・ヒーヴァーを引き立ててました。

レスター役は当初メーリが歌うことになっていたんですが、『リゴレット』でのメト・デビュー失敗!からまだ立ち直れないのか、
シーズンが始まろうか、という頃にキャンセルを発表し、急遽、ポレンザーニが入ることになりました。
史実的にはマリアも40代、、ということは多分、レスターも同年齢か多少上でもおかしくないので、
ポレンザーニの白髪交じりの頭もあれで間違いではないのかもしれませんが、雰囲気までおじさんくさいのはどうなんでしょう、、?
もうちょっと若い雰囲気にしてもいいんじゃないかな、、?
スカラの夜で同役を歌ったメーリは超まんまな若者作りでしたよ、、。
歌唱の方は一瞬高音でひやりとさせられたところがありましたが、それ以外の部分は声も良く伸びていて、主役の女性二人を良く盛り立てていたと思います。

タルボ役のローズ、セシル役のホプキンス共に、役に求められるに十分の歌唱を披露していましたし、
歌う役は本当に少ないながら、アンナ役のジフチャックは私がこれまで聴いた中で、最もエッジの感じられる切れ味のある声で、
こんな風に歌うことも出来る人だったんだな、、とちょっと驚きを新たにしました。

最後にどの歌手にも負けず劣らず称賛しておきたいのはベニーニの指揮!
シーズン・オープニングの『愛の妙薬』でも素晴らしい指揮振りだったベニーニですが、
今回の『マリア・ストゥアルダ』はそれを上回る出来かもしれないです。
『愛の妙薬』は作品自体の出来が良いし、オケも作品を良く知っているので、ある程度勝手に回っていく部分もありますが、
この『マリア・ストゥアルダ』は勝手にまわしておくとどんどん沈没しかねない音楽だし、メト・オケはこの演目を演奏するのが今回初めて、、と
ベニーニにとっては地獄のようなことになっていたのではないかと思うのですが、良く短期間でこんなにまとめたもの、と感心します。
今回はサイド・ボックスからの鑑賞だったので、彼の指揮の様子が良く見えましたが、本当に手取り足取り、物凄くきちんと指示を出していて、感心しました。
普通なら歌手側の采配で、彼らが延ばせる・彼らの好みの音の長さに合わせてオケをなだれこませる、、というようなことをしてもおかしくない場所ですら、
歌手にここまで延ばせ、止れ、の指示を出しており、これ即ち、彼の中できちんと”ここはこう演奏するべき!”という
確固としたアイディアをきちんと持っている、ということに他ならず、
ベル・カント・ファンである私のようなオーディエンスにとって、非常に嬉しい事態です。
この作品でこんなに躍動感のある演奏が出来るなんて本当に驚きで、私が持っているどのCDよりもオケの演奏に関しては良い内容でした。
オケから出てくる音の美しさに溜息が出た箇所も、一つや二つではありませんでした。
数年前の『愛の妙薬』でニコル・キャベルを詰めていた時から只者ではない面白いおっさん、、と思ってましたが、ベル・カントに関しては指揮の腕も確か!
これでシリーズ第三弾の『ロベルト・デヴェリュー』も彼の指揮になるかもしれない、、という予感がして来ました。


Joyce DiDonato (Maria Stuarda / Mary Stuart)
Elza van den Heever (Elisabetta / Queen Elizabeth I)
Matthew Polenzani (Roberto / Robert Dudley, Earl of Leicester)
Matthew Rose (Giorgio / George Talbot, Earl of Shrewsbury)
Joshua Hopkins (Guglielmo / William Cecil, Lord Burghley)
Maria Zifchak (Anna / Jane Kennedy, Mary's lady-in-waiting)

Conductor: Maurizio Benini
Production: David McVicar
Set & Costume design: John Macfarlane
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman

Gr Tier Box Even Front
ON

*** ドニゼッティ マリア・ストゥアルダ Donizetti Maria Stuarda ***

AIDA (Sat, Dec 22, 2012)

2012-12-22 | メトロポリタン・オペラ
先週の土曜日はモナスティルスカのアイーダは過去少なくとも10年間にメトで聴いた同役のソプラノの中では一番!と思う位大満足だったんですが、
ボロディナが歌うアムネリスに今ひとつのれなかった、、、。
この二人のコンビでの公演はHDの日が最後で、その後の3つの公演のアムネリス役には誰あろう他ならぬドローラ・ザジックがキャスティングされており、気持ちは揺れまくりです。
12月は超金欠、、、でも聴きに行きたーーーーい!!!

公演の直前にチケットを買う場合、私から見てコスト・パフォーマンスが良い座席は大体売れてしまっていて、
劇場内で最も高価なグループに入る席種にするか、もしくはお金を多少始末して見にくい座席で我慢するか、もっと節約してスタンディング・ルーム、の三択になるわけですが、
鑑賞中に刻々とストレスが貯まっていく見づらい座席は立見席より不快で嫌だけど、3月に『アイーダ』を立ち見した時は正直辛かった、、、
『アイーダ』は結構上演時間が長いから。

ザジックは現在齢60。ってことは、彼女の良い歌を聴ける時期というのは多分もう長くは残っていない、ということで、
もはや彼女が絶対に登場するというのであれば、私はいくらお金を出しても惜しくない位の気持ちなんですが、
怖ろしいのは、これでザジックがキャンセル、なんてことになった場合です。
ザジックは非常にまじめな歌手だと思いますが、いや、だからともいえるのか、
体調がすぐれないと、ちゃんとした歌が歌えないくらいなら降りた方がまし、、とばかりにあっさりとキャンセルしてしまう場合があって、
これまで2~3回、彼女のキャンセルを食らったことがあります。
もしそんなことになったら、アラーニャの蚊のファルセット聴くために300ドルの出費、、、うーん、それはありえない。

というわけで、今日は開演のぎりぎり近くまで待って、ザジックのキャンセルがまずなさそうだということを確認してから平土間最前列のチケットを購入しました。
今回はたまたま色々プラクティカルな原因が重なって最前列の座席になったのですが、
今日と同じフリゼルの演出の『アイーダ』で歌うザジックを、回数なんか思い出すことも出来ない位に鑑賞し倒して来たというのに、
実はこんな至近距離からザジックのアムネリスを見るのは初めてだ、という事実に、なぜか座席に着いた瞬間にやっと気付いてとめどもない感慨に襲われました。

しかし、そんな感慨は前奏曲が始まって吹っ飛びました。
なぜならば、いわゆるハウス・ライト(オーディエンスの視点から向かって舞台右側)に寄ったこの座席は驚くほど音のバランスが悪く、
丁度オケピに張り巡らされた壁のすぐ向こうにチューバの奏者がいて、彼の吹く音が壁に反響してこぼれてくるのか、
他の楽器がどんな風に鳴っているのかはっきりとわからなくなってしまうほどの大音響で、前奏曲が終わる頃にはボー然、、、。
逆側(ハウス・レフト)の一番奥にいるコントラバスの奏者の奏でている音なんか、”なんか遠くで鳴ってるわあ。”という感じで、
オケの演奏についての今日最大の収穫は、全幕にわたって”チューバはここでこんな旋律を吹いてたのね。”ということが確認出来たこと、、
って、そんなピンポイントで良いのか?!
そんな理由で、今日のオケの演奏に関しては各セクション間の音のバランスなんか全然良く判らなかったし、全くフェアなことを書けそうにないので割愛させて頂きます。
平土間一列目でも、指揮者に近い(真ん中寄りの)場所だったらこんな悲惨なことにはならないんですけれど、
前の方に座る場合、ここ以上端に寄ってはいけないんだな、という座席のラインが何となくわかったのが今日の本当の最大の収穫、ということにしておきましょう、、。
ただ、一列目からでも舞台までには多少距離があって、それに救われているんだと思いますが、
歌手の声の聴こえ方の方はオケのそれほど惨いことになっていないのにはほっとしました。



今回の公演はアラーニャがラダメス役に入ってから4回目の公演で、
シリウスで聴いた一回目、HDの公演の時の二回目、そして今日、と、ルイージの指揮・オケの演奏との噛み合い方は回を追って段々良くなって来てはいましたが、
ただ、彼はラダメスを歌うのが初めてなわけでも何でもないのにもうパートを忘れちゃって、その上にきちんと復習が出来ていないんでしょうか?
特に一幕とニ幕が全然頭に入っていないと見ました。
この二つの幕中、彼が凝視していたのはほとんどプロンプターとルイージの方だけで、
私達オーディエンスとのラポートもなければ、アイーダ役のソプラノに対して歌っているはずの時ですら彼女を見ていない、、ということがしょっちゅうで、
歌に余裕がないせいで演技にまで気が回っていないところが散見されました。

しかし、このプロンプターをガン見しなければならない事実を恥ずかしがるどころか、
場の転換時の時のカーテンコールで、しつこくプロンプターに投げキッスを送り続け、
退場しようとするガグニーゼにほとんどお尻を蹴られそうになっていたのには、
このずれぶりは相変わらずアラーニャしてるわね、と思わされました。
急遽予定外の代役をつとめることになった、とか、何かハプニングがあって、プロンプターのお世話になりまくるのも成り行き上当然、という場合を除き、
オーディエンスの前でプロンプターにこういう普通以上の感謝のジェスチャーをする歌手は全員Madokakipの閻魔帳行きです。
こんなの見て、”あらアラーニャって良い人だわ~。”なんと思うオーディエンスは相当なお人好しで、
むしろ、一年以上前からキャスティングが確定していた演目で、プロンプターに普通以上に感謝しなければいけないような状況を作っていること自体おかしくないか?
ちゃんと準備してないのか?と疑問に思うべきです。
そして、私は見逃しませんでしたよ、、、ガグニーゼに蹴られながら緞帳の向こうに消えて行くアラーニャに、
スコアに目を落としながら、”やれやれ、、、。”という表情を隠せなかったルイージを。

HDの日(先週の土曜の公演)に”何なの、、それ、、、?”と思わされた”清きアイーダ”のラストに関しては、
今日の方がppppから段々膨らませていって、最後に余韻を残す、、という意図がより伝わりやすい歌になっていたと思います。
私のようなヘッズに”逃げたな。”と思われないためか、”俺はヴェルディのスコア通り歌ってるぜ!”とばかりにかなり強調してppppにしてました。
後、HDの日には蚊の鳴くようだったファルセットも、今日は吸血前の蚊と吸血後の蚊、位の差はありました。
でも、ヴェルディには申し訳ないですけれど、ここは観客としてはがつーん!と歌ってくれる方がいいんですよね、、
今のアラーニャの力の範囲内で、ヴェルディのスコア通りに歌うという意図のもとではまあまあの結果が出ていたと思いますが、
客はしらーっと白け気味で、拍手もなんとなく力ないものでした。
多分、彼らにも”逃げたな、、。”と思われてしまったのでしょう。努力の甲斐なく。
まあ、それ位、ここはフルブラストを期待するお客さんが多い、ということなのだとも思います。



アイーダ役を歌ったフイ・へは、新国立劇場のサイトなんかを見ると、日本ではへー・ホイと呼ばれているんですね。
もうー、新国立劇場が変なバリエーション加えるから、最近では彼女の名前を言う前に”えーっと、ホイ・へだっけな、フイ・ホーだっけな?”
などと余計なことを考えなければならなくなったではありませんか!
彼女を初めて生で聴いたのは2008年の初夏のNYフィルとの『トスカ』で、私は彼女について
① 声のボリュームとカラーのコントロールが未熟。
② 肝心な個所の高音で音がずり下がる。
③ 演技、体の使い方が滅茶苦茶へた。
④ ディクションが最悪
と結論付け、まあ、このソプラノはしばらくメトの舞台に立つこともないだろうな、、と思っていたんですけれども、
怖ろしいのは最近のメトはそういう人でもデビュー出来る場所になってしまったことで、彼女は2009/10年シーズンに『アイーダ』でデビューを果たしています。
アイーダのような大役でメト・デビューをする歌手の公演はまず聴き逃さないようにしているんですが、
シリウスで聴いた彼女の歌唱がびっくりする位ひどくて、そのシーズンは珍しく彼女を劇場で聴くのはパスすることにしました。
全世界にも配信されたはずのマチネの放送で”ああ我が故郷 O patria mia”の後半、曲の原型を留めないほど音程がずれまくって行って
収拾がつかなくなったのをお聴きになられた方もいるかもしれません。
それに、あの『トスカ』の時の、決して超肥満なわけでもないのにぼてーっとしただらしない体型と、
股の間に何か挟んで歩いているのかと思うようなどてどてとした不細工な歩き方、、
これらを思い出すと今日の『アイーダ』に私が全く期待をしていなかったとしても、何の不思議もありません。

ところが、彼女が舞台に登場してびっくりしたのは、『トスカ』の時と比べると同じ人に思えない位雰囲気が垢抜けたこと。
今回の記事で使用している彼女の写真は全て2009/10年シーズンのものなのですが(今シーズンの写真がどこにも見つからないので、、)、
『トスカ』からはもちろん、その頃に比べてもだいぶ痩せたんじゃないかな、、、
今日見た彼女はもっとリーンな体型で動きはシャープになっているし、
演技が控え目なせいで、もう少し動きがあった方がいいかな、と思う部分はありますが、
彼女が動いている部分に関しては”不細工だな。”と感じたことは一度もなかったです。

この体重の変化と関係があるのか、声の音色が『トスカ』で聴いた頃のそれとは少し違っているのも印象に残りました。
『トスカ』の頃はどちらかというと”太っている人の音色”だったんですが、今回はリーンな体型の人の音になっていて、基本的な音色そのものが以前聴いた時と全く違う感じ。
音色だけに関して言うと以前の方が楽に出ていた感じがあって、今の彼女の声は少し音に硬さが加わった感じがするのと、
時に、出している空気全部が音になっていなくて、息の多い音が出てしまう(そしてこれは体型が比較的貧相なアジア人により多く見られると私は思っているのですが)時があって、
今現在の時点で、へー・ホイと今年『トロヴァトーレ』で聴いたグアンクァン・ユー(と英語読みではなるのですが、本来はグワンチュン・イーという発音に違いとの説あり。)、
どちらがアジア人とわからない声を出すか、と聴かれれば、私は迷いなくユー(イー)の方をとりますが、
ではへーが駄目かと言うと決してそんなことはなく、硬質な音の割りには良く伸びる声で、
ユーの方が柔軟性のある劇場を包むような音とすれば、へーの方は固い一直線に飛んで来るボールのような音で、
彼女のような音が好きな人はそれはそれで十分楽しめるんじゃないかと思います。



『トスカ』の頃と比べて随分スキルアップしたと言えば、声のコントロール力もそうで、
モナスティルスカの幅の広いダイナミック・レンジと比べると、多少ボリューム、カラー共に狭い感じがしてしまいますが、
声の行き先に収拾つかない感じすらあった『トスカ』の頃と比べたら4年半で良くここまで進歩したものよ、、と思います。
それとも、『トスカ』の時が余程不調だったのか、、、。

だがしかし!なのです。
残念なことに彼女の最大のアキレス腱がピッチである、という点はやっぱり変っていませんでした、、。
『トスカ』や2009/10年の『アイーダ』と比べたら大きな進歩を遂げていることは強調しておきますが、
例えば、因縁の”ああ我が故郷”。
頭からずっと良い内容で、これはこれでモナスティルスカとはまた違った魅力があるな、、と感心しながら聴いていたところ、
終盤にno, mai piùでCまで音が上がっていくその肝心のCで音がぶら下がってしまい、
「画竜点睛を欠く」というのはこういうことを言うのだな、、、と思いました。
良く気を取り直して、その後に二度出てくるA(最後のoh patria mia, mai più ti rivedroの頭と最後)は綺麗に出していましたが。
他の部分が本当に良く歌えていたので、ルイージが指揮台で彼女に向かって一生懸命拍手を送っていて、私もその気持ちは良くわかるんですが、
やっぱりアイーダ役を歌うんだったら、絶対抑えなければならない音ってものがあって、どんなに他の部分が素晴らしい出来でもこれを外していてはいけないんです。
たった一音、されど一音。
モナスティルスカはこんなところで音を外したりしないし、それどころかものすごく綺麗な音でそれを鳴らしていましから。
一級のアイーダか、そうでないか、というのはこういうところにもあらわれるんだと思います。

ただし、歌い終わった後、どんなにルイージが褒めても、やっぱりCを外したのは痛恨と見えて、へー自身が全然嬉しそうでなかったのはとっても良いことだと思います。
4年半でこれだけ歌が進歩している彼女が負けず嫌いなわけはないでしょう。
今回の彼女の歌唱は良い点もいっぱいあったので、このピッチの不安定さだけはぜひ克服して欲しいと思います。



今日の公演を鑑賞するそもそもの唯一の理由だったザジックのアムネリス。
彼女の歌唱と演技には、どれほど彼女がこの役を深く摑んで歌っているか、
また、彼女がずっと優れたアムネリスを歌ってこれた理由ががぎっしりつまってました。
15年前位なら、彼女が多少無理なポジションから無理矢理に音を出していたとしても、出てきた音からそれを感じることはほとんどなく、
その音のイーブンさ、無駄のないフレージングは鉄壁でした。
60歳になった今の彼女にはさすがにそんな力技は出来ないし、無理な音の出し方をするとそれは以前よりははっきりとそうとわかるようになっているし、
使っている息の量の強弱がより直接的に、あからさまな形で音のボリュームに影響を与えるようにもなっています。
でもそのおかげで、彼女がどこにアクセントを置いて、どの音を一番のターゲットにするためにどの音あたりから準備をしているのか、
またフレージングを滑らかにするためにどういう風に音符を取り扱っているか、休符も含めてどのようなためを入れているか、などなど、
彼女がアムネリス役の歌唱をどのように組み立てているかがわかってすごく面白かった。
彼女があれだけパワフルなアムネリスを歌って来れたのは、もちろん素晴らしい声・音色を持っていたこともあるけれど、
それをただめくら滅法に使っていたわけでは決してない、
その声をどう使うべきなのか、そこからマックスの効果を引き出すにはどのように歌えばよいか、
そこには、彼女の歌唱にどんな瑕もアンイーブンさも存在しなかった頃には私が気づきもしなかったような、
奥深い配慮と工夫があったことが今日の歌唱から良く良く感じられたのでした。
今考えて見ると、彼女のアムネリス役の基本的な歌い方は私が初めて聴いた時からほとんど変ってなくて、
特定の場所を指定されれば彼女のそこの歌い方をすぐに頭の中でシュミレーション出来るくらいです。
それもまた、彼女の歌唱がどれだけ思考に裏打ちされたものであったかを裏付けているな、と思います。
だから私は今シーズンの『アイーダ』初日にボロディナが審判の場で失敗したり、
他にも日によって同じ箇所なのに全く歌い方が違ったりするのにびっくりし、不思議に思い、”なんだか行き当たりばったりな歌だな、、。”と思ったわけです。

ザジックはガッティが指揮した時よりも今日の方がずっと歌いやすそうにしていたんですが、
唯一の例外は審判の場で三回登場する、ランフィス&合唱のTraditor!に続いて入ってくるAh, pietà! ah, lo salvate, Numi, pietà! Numi, pietà!の部分の旋律で、
16分休符のところからがネックで、三度ともルイージの率いるオケと彼女の歌唱のタイミングがぴったりとは収まっていなくて、そこだけは少し残念でした。

今回舞台に近い座席から鑑賞して、彼女の演技の細かいところまで生で見れて、
今まで貯まりたまったザジックのアムネリスの思い出に新しい章が一つ加わった感じがします。
全幕にわたって彼女の演技は私にとってしっくり来るもので、その解釈がベースにあるからこそ、
遠くの座席からあまり細かい演技が見えない状態で歌を聴いていても彼女の歌は私に説得力を持って響いてくるのだと思いますが、
いくつか記憶に残った部分を上げておくと、ニ幕一場でアムネリスが黒人の子供の踊りを見る場面、ザジックのアムネリスはここで全然踊りを見ていないんです。
手鏡を持ってじーっと物思い(もちろんその物思いはラダメスのことなわけですが)にふけっていたかと思うと、
片手で頬を触れ、自分が自分であることに嫌悪感が湧きあがって来たかのように鏡を伏せるのですが、
その瞬間ラダメスに愛されているアイーダとと自身を比べて、”なぜ私じゃない?”と問いかけているようでもあります。
ボロディナはこの場面では私が座っていた座席からはのんびりと黒人の踊りを見て、優しく指輪を与えたりしているように見えたんですが、
もし私がアムネリスだったなら、すでにアイーダが恋敵なのではないか?と心穏やかでない今、黒人の子供の踊りなんか心あらずに眺めるだろうと思うし、
どんな時にも気位のガードが落ちず、高飛車な様子でザジックが踊り子に指輪を与えている様子もずっとぴったり来ます。

それから凱旋の場の最後、アムネリスを褒美にとらせよう、とエジプト王が宣言した後、
ボロディナは”私の勝ちね。”とばかりにきっとアイーダを見返してから、つーん!と言う感じで前に向き直ってラダメスと退場して行きましたが、
私はザジックのように一度もアイーダの方なんか見ずにその場を去るのが正解だと思います。
アイーダの方を向いてしまったら、それは私はまだあなたと同じ場所にいるわよ、というジェスチャーになってしまう。
アイーダの方を見ないことによって、あなたは単なる奴隷、私は王女でラダメスは私のもの、
あなたと私は全く別の場所にいるのよ、という決定的なメッセージを、思い切り冷や水のように浴びせかけて去っていくことになるはずで、
その方がアイーダだってずっとこたえるはずです。
アムネリスはラダメスの心が自分にないことは十分にわかっているから、今やこの身分の違いが彼女の持ち札のすべてであって、
だからこそ、そこにすがりついているアムネリスの姿がまた切ないわけで、
ボロディナのアムネリスはそこの所をカバーせず、全くわかりやすい幼稚な演技に置き換えてしまったのは私の不満な点です。

また、ラダメスに自分と結婚してくれれば命を助けるようとりなしてみせる、という説得にも耳を貸さないラダメスへの懇願、再燃する怒り、失望、後悔、、
ザジックのこの変化の表現も素晴らしかったです。
今まで何の苦労もなく、望めば全てが与えられる環境で育って来たアムネリスが初めて経験する自分の思い通りに行かない事態、
駄々っ子のようでありながら、しかし、一方で、この取り返しのつかない事態を招いたのは自分のせいでもあるという苦い気付き、、
まさにこれはアムネリスが少女から大人になる瞬間そのものだと思うのですが、
Ohimè! morir mi sento..(ああ、死にそうだわ、、)の部分を歌い終わって、祭司達の合唱が始まるまで、
床に転がっている大きな石に座って、どうしていいのかわからない、、と片手で頭を抱えて声を潜めて泣いている様子は、
その容貌のせいで我が家では”トロールみたい、、。”とさえ言われているザジックが、一瞬少女に見えたマジカルな瞬間でした。

男性陣はあいかわらずの出来。
先週の公演の記事で、HDの日の一つ前の公演で”ガグニーゼ一人、colpireのreの音のお尻が残ってしまって”、、と書きましたが、
今日もまた少し彼の声が残っていて、半ケツくらいな感じになってました。
なのに、三幕終了後のカーテン・コールでは”すごく良い歌を出せたぜ!”とばかりに満面の笑みでオーディエンスにこたえていて、訳がわかりません。
心なしか、またルイージがスコアに目を落としながら溜息をついたような、、。本当、お疲れ様です、、。


Hui He (Aida)
Dolora Zaick (Amneris)
Roberto Alagna (Radamès)
George Gagnidze (Amonasro)
Štefan Kocán (Ramfis)
Miklós Sebestyén (The King)
Jennifer Check (A Priestess)
Hugo Vera (A Messenger)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Sonja Frisell
Set design: Gianni Quaranta
Costume design: Dada Saligeri
Lighting design: Gil Wechsler
Choreography: Alexei Ratmansky

ORCH A Even
ON

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***

AIDA (Sat Mtn, Dec 15, 2012)

2012-12-15 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


昨(2011/2年)シーズン3月の『アイーダ』でメト・デビューを果たしたラトニア・ムーアが、2013年3月の新国立劇場の同演目にカロージに代わって登場するそうですね。
(blueさん、情報ありがとうございます!)
その時の公演で久しぶりに若手で面白いアイーダを歌える人が出てきたなあ、、と喜ばしく思っていたところ、
ヘッズ仲間のおば様から、”新(2012/3年)シーズンに歌うモナスティルスカもすごく良いのよ。”という噂を聞いていて、かなり楽しみにしていた今シーズンの『アイーダ』です。

リハーサルの段階からAキャストのラダメスに予定されていたマルコ・ベルティが散々な歌唱を聴かせている、という話を聞き、
”うへーっ。”と思っていたんですが、ありがたいことにベルティもメトも常識/良識というものを完全には失っていなかったようで、
11/23の初日はカール・タナーが代役に入ることになり
(そして結局、ベルティが歌う予定だった他の公演も全部タナーが歌ったようです)、
その初日の公演は私もシリウスで拝聴いたしました。
タナーは世界一級と言えるテノールでは決してないし、今後そうなることも決してないでしょうが、
ルイージの意図にきっちりと寄り添おうとする真摯な歌(元々彼がカバーだったのかもしれません。)とベストを尽くそうとする姿勢が好感を呼んだと思われ、
オーディエンスおよび批評家筋から概ね好意的な評を受けていました。
しかし、初日の公演は、私に言わせるなら何と言ってもモナスティルスカのアイーダとルイージ/メト・オケの指揮・演奏に尽きます。
モナスティルスカの歌はアイーダ初日の少し前に催されたタッカー・ガラで初めて耳にする機会を得たわけですが、
彼女の歌は全幕に限る!と、『アイーダ』初日の演奏を聴いて強く確信しました。
タッカー・ガラでは選曲のせいもあるでしょうが、
彼女の強靭な声とアジリティ(まだ前進する余地はありますが、それでも普通に言ったら高い能力の持ち主ではあります。)
をオーディエンスにアピールする感じだったんですが、彼女の一番の長所はそこではなくて、
全幕を通して素晴らしいドラマティック・センスを持っているのと、声の強靭さだけに頼らないフレキシビリティ、この二点だと思います。
歌手には同じ旋律を歌ってもまーったくその底にある感情がオーディエンスに伝わってこないタイプ
(新国立劇場でムーアが代役に入る前に予定されていたカロージなんか、私はこちらに分類します。)と、
仮に多少技術が拙い・荒いところがあってもそれがひしひしと観客に伝わってくるモナスティルスカやムーアのようなタイプがいて、
だから、私は新国立劇場にムーアが代役登場する件については鑑賞される方に”おめでとうございます。”と申し上げるわけなのです。



それからオケ!
私がブログを休止している間にメトで起こった一番大きな出来事の一つはルイージに対する失望、失望、失望の嵐です。
一年前まであんなにルイージに関して盛り上がっていたMadokakipが一体どうした!?と、
久しぶりに再開したブログ上での手の平返すようなトーンを不思議に思われた方も多いことでしょう。
いや、全くもってその答えは私が聞きたい位で、首席客演指揮者となるまではあんなにエキサイティングな指揮を繰り広げていた彼が、
皮肉にも、そのポストについて、以前よりは自分の行きたい方向性を自由に追求できるようになったあたりから、段々おかしくなっていったのです。
駄目な指揮者だとは全く思いません。
むしろ、他の数多いる、時にはなんでこんなのが国際的な舞台に上がってこれるのか?と首を傾げたくなるような指揮者に比べたら、
彼の方が10000倍まともだし、テクニックの確かさではトップの何パーセントのうちに入る方だと思ってます。
だけど、オペラの指揮者として彼が致命的なのは演奏の正確さ、美しさ、きちんとさばかりに気をとられて、
オペラで一番肝心なこと、つまりオーディエンスに何かを、
いや願わくば、今まで感じたことのないような激しい感情のうねり、揺れ、爆発を感じさせることが出来ない、この点に尽きると思います。
彼の『マノン』の修道院でのシーンの、『ワルキューレ』でヴォータンがブリュンヒルデに別れを告げるシーンの、
『仮面舞踏会』でアメーリアがグスタヴォに恋情を認めるシーンの、いかに退屈だったことか!!!

なので、今年の『アイーダ』の指揮がルイージだとわかった時から実はあまり期待していなかったんですが、
初日の演奏ではその予想が良い方に外されて、こういう演奏をいつもして欲しいのよー!と、何度も思いました。
『アイーダ』の前奏曲はその後に続く演奏を図るバロメーターで、
ここの演奏を聴くと大体その日のオケの集中度とテンションの高さ、
それから指揮者のこの作品に取り組むスタイルと自分の好みの相性がどれ位のものか推測がつくという嬉し・オソロしの箇所ですが、
(ここで今日は駄目そうだ、、と思うと、これから3時間の拷問が始まる、、とぞっとします。)
表情の豊かさ、ドラマティックさ、テンポや音量のコントロールなど、どれもしっくり来て、今日オペラハウスに行っとくんだった、と何度悔しく思ったことか。
第三幕のナイルの河畔で、アイーダがアモナズロにラダメスをはめろ、と言われて、No, no, giammai!(絶対にいやです)と歌う場面では、
モナスティルスカの劇的な歌唱と同時になだれこんで来るオケの燃え上がる音に、
”これこそヴェルディなのだ!!”と、我が家のリビング・ルームにいながらにして血管がぼこぼこ言う感じを味わいました。
凱旋の場面でアイーダ・トランペットが入って来る(メトのこの演出では、一頭目の馬が登場する)ところでは、
かっくーんとテンポがスローダウンして、いつもの私ならここは音楽だけの話をするともうちょっと早い方が好みなので、
”わざとらしい!”と敬遠してしまいかねないところですが、
ああ、これで馬の足並みを描写しているんだな、、とわかると、これも一つの描写の仕方だな、、と思いました。



モナスティルスカとルイージ&オケの出来に比べて情けなかったのは男声陣で、
特にランフィス役のコーツァンとアモナズロ役のマストロマリノ、
この二人、特にマストロマリノは本来はメトには一切縁がないはずのレベルの歌手で、
どうやってまんまと紛れ込んでくるのやら、二度と戻ってこなくてよし!と思いました。

それからボロディナのアムネリス。
彼女は歌手としては良い歌手だと思うのですけれど、アムネリス以外に彼女の良さが出る役は他にいっぱいあるし、
また、それに加えて、年齢のせいなんでしょうか、今シーズンの歌を聴くともうアムネリスを歌うのはやめた方がいいな、と思います。
特に四幕の審判の場面、ここがきちんと歌えないアムネリスってのは問題です。
初日の公演では、スタミナ切れをおこしたか、Ah no, ah no, non è(合唱とランフィスは後ろでè traditor! morrà, morràと歌う)の後、
一人でèを一音ずつ上昇しながら歌って行く四分音符、ここを歌うのを諦めて、お経のような低い声でè~と呟いてましたし、
場の最後のanatèma su voi!(お前達に呪いを!)のvoiが絶叫調で、そして短い、、。
ここって、坊主どもを殺してやりたいくらいアムネリスが憎んでる、っていう、
その気持ちをこのvoiにこめなければならないわけで(楽譜上も全音符です)、
そこが何かインコンプリートな感じがするのは、この場面の歌唱として一級とは言えないと思うのです。
それから彼女の歌にはヴェルディのレパートリーで一番大切!と多くの歌手たちが口を酸っぱくして言うレガート、
これもなんだか今一つで、だから私は彼女の歌うエボリとか、アムネリスに今一つ燃え上がれないのだと思います。

とは言え、とにかくモナスティルスカのアイーダは一聴の価値がある上、
それにオケがこんなに良く演奏してくれるなら、、、と、HDの日の収録日の公演のチケットを購入することにしました。
しかし!ここに大きな罠がありました。元々ベルティにHDの任は重すぎる、とゲルブ支配人は考えていたのでしょう、
HDの日のラダメスはアラーニャを投入することになっていて、彼の最初の舞台でHD、というのはさすがに厳しい、という配慮と、
HDの一つ前の公演はHDのバックアップ用の映像を収録するのが定例になっているため、
そこからラダメスがアラーニャにスイッチするようなスケジューリングになっていたのです。



で、そのHDの一つ前の公演もシリウスの放送があったので、聴いてみましたが、、、ただ一言、
”どうしてこんなことになっちゃったのーーーーーっ!?”です。
当然のことながらオケとのリハーサルに一度も参加していないアラーニャは自分勝手な方法で歌いまくっているし、
それに合わせるので必死のルイージ(汗だくになっている様子が目に浮かぶ、、)とメト・オケは、
そのために初日までに作り上げた音を全部捨てなければいけないことになってしまっていて、
初日のような演奏を聴きたい、、と思ってチケットを買った私は泣くに泣けない状況です。
この辺も、私は一体ゲルブ(もうこの際呼び捨て)は何を考えてるんだ?と思うわけです。
緊急事態ならともかく、最初からリハーサルもろくすっぽにしてないような人間をHDにスケジュールするなんて、オーディエンスをなめてると思いませんか?
彼の頭の中には人気歌手でないと客が喜ばない、というような妙な思い込みがあるみたいで、
だからメトのオープニング・ナイトが三年連続ネトレプコ、、というようなわけのわからないことにもなるんでしょうが、
(2011年の『アンナ・ボレーナ』、2012年の『愛の妙薬』、2013年の『オネーギン』)
そんな田舎臭い考えの人間は実はあんただけなんじゃないの?と思います。
こんなだったらまだタナーのラダメスの方がよっぽどましじゃんよ(だし、少なくともオケの演奏はちゃんとしたものになる)、、と思いました。
それから、ついでにアモナズロもマストロマリノからガグニーゼに変っていて、
こちらはまあ、マストロマリノが史上最低か?という位ひどいアモナズロだったので、喜びたいところではあるのですが、
ガグニーゼも凱旋の場の、エチオピアの捕虜たちとそれに同情するエジプトの民衆達を従えて王に寛大さを乞う場面で、
doman voiと歌い始める前に、全ソリストと合唱がそれぞれ違う言葉を歌いながら重唱・合唱して同時に休符に入りますが、
そこでガグニーゼ一人、colpireのreの音のお尻が残ってしまって、
沈黙したオペラハウスにそのreと歌う声がとどろいてました。あらあら、、、HDの日はちゃんとストップしてね、って感じです。

予行・バックアップ用とはいえ、劇場にカメラが入っているというのは独特の雰囲気があるのでただでさえ緊張度がアップするってのに、
横でばたばたとこんなことされた日にはたまったもんじゃありません。本当、リュドミラ嬢に同情します。
そのせいか、彼女までなんだか不調になってしまって、登場してからしばらくピッチがかなり不安定で、
HDの日大丈夫かな、、とちょっと心配になってしまいました。



と、かなり長い前置きになってしまいましたが、今日の公演のことを語る場合、それらが無関係でないのでご容赦を。
で、いよいよその本題のHDの日の公演です。

まず、ラダメスのアラーニャから行きましょうか。
さすがに前回の公演での歌唱はあまりにひどい、という自覚があったからか、オケがどのような演奏をするか多少学習したからか、
もしくはその両方か、若干はましになってます。
おそらく、この公演・HDの上演後、ヘッズが議論した・するであろう箇所は、”清きアイーダ”の最後のvicino al solの処理の仕方だと思います。
今回、彼はここをファルセットで歌って、さらにもう一回vicino al solと低音で繰り返して歌う方法をとりました。

スコアではergerti un trono vicino al solの頭のeがフォルテでそのすぐ後のvicino al solはピアノが4つ、
そして、続くun trono vicino al solがディミニュエンド付きのピアノ3つ、
で、最後のun trono vicino al solがtronoのnoからピアノ2つになって、solのところでモレンド(音をゆっくり小さくする、消す)となっているのですが、
ご存知の通り、長い公演の歴史の中で、ヴェルディがスコアで指示したピアノxピアニッシミで歌う方法よりも、
solをフルブラストで鳴らす方が慣例となっていって、どれ位ここの音をテノールが輝かしく鳴らせるか、というのを聞くのもオーディエンスの楽しみの一つになっています。
また、そうなっていった理由の一つにはsol(太陽)という言葉に、オーディエンスは柔らかい消えて行くような音よりも、
ぎらぎらと輝かしい音の方がふさわしい、と感じた、ということもあるのかもしれない、と個人的には思います。

私は2007年にやっぱりアラーニャがラダメスを歌った『アイーダ』を聴いた、というか、半分聴かされたと言った方がいいですが、ことがあって、
確かあの時はフル・ブラストで歌っていたよな、、と思って、一応確かめてみましたら、ブログを書いておくというのは、こういう時に助かりますね。
ここの部分に関してすごく細かな描写が残ってました(→こちら)。
なもので、正直言うと、今日のここの部分の歌唱については、”ああ、ヴェルディの意図通り歌いたいんだな。”というよりは、
”上手く逃げたな。”という印象の方が強かったです。
アラーニャなんか全然ラダメスを歌える声じゃない、と思っている私ですが、それに加えて彼も50歳近くなって(ただいま49歳)、
かなり最近声にウェアというか、ざらざらとした質感がはっきりと伴うようになって来ていて、
ラダメス役で必要な高音なんか全然楽に出ている感じではないし、
”だってヴェルディがそう書いているんだもん。”ということにして逃げた、と私が解釈しても仕方がないというものです。

さらにもう一個、vicino al solを低音でくっつけるやり方に関しては、他のテノールがそれをやるのをメトで聴いたこともありますが
(リチトラだったかな、、、すみません、ブログ前のことで、ちょっと記憶が定かでないです。
ただ、アラーニャのようなピアニッシモとのコンビネーションとは違い、フルブラストとのコンビネーションだったのは憶えています。)、
その時もなんかあまり綺麗に鳴らなかった高音の物足りなさを誤魔化すための手段みたいでやだな、、とあまり良い印象を持たなかったんですが、
今回も情けない蚊の泣くようなファルセットのsolの後に、これじゃ申し訳なさ過ぎるんで、
もう一回vicino al sol付けときますって感じに聴こえなくもなかったです。
それ付けたからって、全然帳消しになんかならないんですけどね。

さっき、声にウェアが目立つ、高音が楽に出ていない、と書きましたが、それは例えば第三幕のラストでも顕著で、
アモナズロとアイーダを逃がして、剣を差し出しながら歌う Sacerdote, io resto a te(祭司殿、私の身はあなたに)の高音、
ここも音が全然鳴ってなくって(音程は正しく出てますけど、音がドライで全く劇場に響いていない)、
ラダメス役を歌うテノールがここで観客に”うおーっ!!”と腕を振り回して叫びたくなるような興奮を喚起できないなら、
やっぱりそのテノールはこの役を歌っちゃいかん、と私なんかは思います。
下は1988/89年のメトでのドミンゴの歌唱ですが(Sacerdote~は12'16"から)、ああ、何という違いでしょう。
だし、よく考えたら、この時のドミ様はちょうど48歳になられる頃で、今日のアラーニャとほとんど同じ年齢なんですよね、、。



アラーニャが少しだけ前回よりましになった分、それに比例してオケの演奏も良くはなっていました。
大きな失敗もないし(あ、ピットのトランペットがちょろっと失敗してましたね、そういえば。)、
格段あげつらいたくなるような妙な箇所も特になく、無難にきちんとした演奏はしてます。
でも、初日に聴けたような特別なマジックはなくなってしまって、いつものルイージ流、つまり、ニートにきちんと、
その代わり、大きな興奮はなく、、の王道パターンを行ってました。
まあ、でも、一つには先に書いたように、ゲルブ支配人が無理矢理HDにアラーニャを引っ張って来たところからこうなる運命だったのだとも言え、
すべてをルイージのせいにするのはちょっと気の毒かもしれません。
ちょっとはましになった、と言ったって、まだまだ一杯ルイージとオケが必死のフォローを見せていた箇所がありましたからね。
大体、アラーニャはちゃんとパートを憶えてないんじゃないかな?特に一幕と二幕。
(それを裏付けるエピソードは次回の記事で書きたいと思っています。)



この公演を観に行くとすれば、ひとえにそれはアイーダ役を歌ったリュドミラ・モナスティルスカを聴くため、
という私の考えは、今日の公演を観た後でも変りませんでしたし、むしろ、その思いが強くなった感すらあります。
シリウスの放送を聴くだけでは完全にはわからなかった彼女の歌唱のダイナミクス、その繊細なボリューム・コントロールの術、など、
本当に存分楽しませてもらいました。
一つ前の公演であんな調子っぱずれなことになってしまったせいもあるし、また、メトのHD初登場ということで少し慎重に走った部分はあって、
どちらがエキサイティングな歌唱だったか、と言えば、多分初日の公演だと思いますが、
今日の公演も彼女の良さが十二分に伝わる内容だったと思います。

特に"我が故郷 O patria mia"の歌唱、これは本当に素晴らしかったと思います。
あのタッカー・ガラのマクベス夫人の歌唱やら、今日の公演の残りの部分を聴けば、彼女の声のパワフルさを疑う人は誰もいないはずで、
普通、あんなパワフルな歌を歌う声を持っている人は、いくらここを優しく歌うといっても限度があるというものですが、
彼女がこのロマンツァを歌う時、信じられないくらいに良い意味で力が抜けていて、ほとんど呟いているかのように優しく歌うのです。
またドラマティックに盛り上がって行く部分(同じロマンツァで)でも、そのドラマティックさになんとも言えないリリシズムとロマンティシズムがあって、
それを可能にしているのは彼女の声のトーン、音量、カラーにおける限りないフレキシビリティで、
これは彼女の今後のキャリアで大きな大きな財産になると思われます。
またそのフレキシビリティさのどのディメンションにあっても、音程がすごくセキュアで、冒頭少しだけ緊張していたのか、
若干シャープ目に入っている音もありましたが、一幕が終わるまでには落ち着きを取り戻していて、
それ以降はばしばしと綺麗な高音がデッドオンで決まってました。
マクベス夫人を歌える、というので、そこらあたりのレパートリーばかりを歌って行く人になってしまうのかな、という危惧がありましたが、
彼女の今日の歌唱を聴くと、そこに留まらず、ものすごく広い可能性を感じさせる人です。

演技は若干ワンパターンなところがありますが、動きが上品で妙に動き回ったりしないのは私は良いことだと思います。
なんか最近の演出のトレンドのせいもあるんでしょうが、ばたばたばたばたと舞台を動き回って、それに対応できるのが演技出来る歌手、というような、
誤った認識を時に見かけますが、
たった一本指を、顎をあげる、これだけの動作に、舞台で大きな意味をもたせられる人、これが本当に舞台で演技出来る人なのであって、
彼女の演技には、ばたばたしないでじっとしている、そのことが余計にオーディエンスの目を引き寄せる効果になっているような個性が感じられ、
もう少しだけ体の動きにバリエーションが増えて、それを今の演技の中に効果的に使うようになれば、もっと良くなると思います。

”勝ちて帰れ Ritorna vincitor"の最後のNumi, pietà del mio soffrirの三連音符で音が下がってくるところで、
妙なアクセントをつけたのはフレミングが乗り移ったのか?と思うような趣味の悪さで、ここは普通に歌って欲しかったな、と思い、ちょっと残念ですが、
(しかも、このフレーズは後でもう一度、凱旋の場の直前で再登場しますが、そこでもダメ押しで同じ歌い方だった!)
それ以外のところは、全幕を通しての歌唱の組み立てから細かい表情付けまで文句の付けようのない歌唱でした。
彼女は本当にこれからが楽しみな歌手です。



アムネリス役のボロディナは、すごく良かった点と初日の演奏から感じた今一つ彼女のアムネリスに乗れない感じが混合した結果になりました。
タッカー・ガラの時に、彼女の女性の弱さの表現がすごく良くなった、と感じたのですが、
それは今日のアムネリスも同様で、アムネリスの悲しみとか後悔とか戸惑いとか、そういうところの表現はすごく良かったと思います。
多分、彼女もそこを重視した歌唱と演技を目指しているんでしょう。
ニ幕一場では優しい眼差しでちびっ子奴隷(実際の舞台では大人のダンサーですが、、)の踊りを見つめ、
ご褒美に大きな石が付いた指輪を上げる仕草も優しく、実はアムネリスも優しい女性なのだ、というのを強調した演技になってます。
王がラダメスにそれでは褒美にアムネリスを妻に与えよう、という、お父さん、余計なお世話~の場面で、
ラダメスに手を取られつつ舞台を去りながら、アイーダに”ふん!”という見返りの一瞥を投げていたりして、
とてもわかりやすいアムネリス像、、、なんですが、なんか、こう、そこからどうして四幕一場のような表現につながって行くのか、
そこが今一つ説得力がない。
四幕一場の前半、ラダメスとの対話のシーンでのボロディナの歌唱の、アムネリスの必死さの表現は単体ではすごく良いのですけれど、
なぜ、そのように必死になるのか、ここがこの役の最大のポイントであって、そこの描写はニ幕が終わるまでに終了してなければいけないのですが、
そこが消化不足気味なんです。

それからこれは先に書いたのと重複しますが、やっぱり彼女は審判の場面(四幕一場の後半)が駄目です、、。
さすがに一フレーズすっ飛ばして読経、という、初日のような惨憺たる事態は免れていましたが、
ここでスタミナが切れてしまう&そもそもあの最後のvoiの高音は彼女にはきついのか、なんか不完全燃焼です。
一方で、ニ場のラストのpaceの歌唱は素晴らしかったんですけどね、、、
ここの部分も含めて彼女のアムネリスはちょっと行き当たりばったり感があるかな、、。
表現はさすがだな、、と思う箇所が一杯ある一方で、歌の組み立てに関しては、ザジックのような経験と技術に裏打ちされたがっちりとしたものがなくて、
ふとしたフレーズに途切れ感があったりする。

ということで、私はボロディナは今の彼女の持っている力は全て出し切っていたし、それなりに良い歌唱を聴かせてもらったと思う一方で、
だけど、アムネリスはこうじゃないんだよな、、という不完全燃焼感も残り、
たまらなくザジックのアムネリスが恋しくなって、つい、彼女がアムネリスに入るランの終盤の公演のチケットを買い求めてしまいました。
というわけで、年末の『マリア・ストゥアルダ』の前に、もう一本『アイーダ』で、その感想も年内に上げたいと思っています。
フイ・へのアイーダは二年前だったかシリウスで聴いた”我が祖国”がワンフレーズまるごと
”一体、どういう旋律を歌おうとしているのだろう?”というぐらい音程外れまくりの大変なことになっていて、
また、それよりも前にNYフィルとのコンビで聴いた『トスカ』も全然良くなかったし、もう生ではあまり聴きたくないソプラノのリストに入っているのですが、
トスカからは何年か経ってますし、アイーダ役をどのように歌うか、声に適性があるのか、を本当に知るには劇場に行くしかないですから、まあ、貴重な機会です。
後はどうやってアラーニャにキャンセルしてもらうか、だな、、。



話は今日の公演に戻って、アモナズロ役のガグニーゼ。
彼はこれまで妙にリアルなリゴレットとか、ボンディ・トスカでのごきぶりスカルピアなど、
一風変った芸風の持ち主で、今日もそれが全開。
エチオピア王に扮するための黒塗り顔で、どうしてそこまで、、と思う位に目をひん剥いて歌うので、
彼の歌よりも白目の動きに気を取られてしまって、途中から笑いがこみ上げて来て歌に集中できませんでした。
でも、もしかすると、それは作戦、、、?
なぜならば、今日は一つ前の公演の凱旋の場の”お尻が出ちゃいました”な事態は避けられてましたが、
その代わりにどこぞで全くオケの演奏しているタイミングと彼の歌唱のリズムが合わなくなっている箇所があって、
正確さ第一!のルイージは、それこそ”きーっ!!!”となっていたに違いありません。
最近のメトで嘆かわしいことの一つは、脇役(アモナズロなんて、登場時間から言えば準主役とも呼べないような役ですよ、
まったく、、。)をきちんと歌える歌手がものすごい勢いで減少している、ということです。
それを言ったら今日エジプト王役を歌っているセバスティエンはきちんと歌っているだけが取り柄で声には全く魅力がないし、
私的にはアモナズロと同等か、もしかするとそれ以上に大事な役であるランフィス役のコーツァンなんか、
本当に何年経っても歌にリズムが出てこないというか、歌が棒読み調で、
声も変なうえに、歌の技術も駄目なのにどうしてメトに何度も舞い戻って来るのか、実に不思議です。
もっと歌える人が世界探せばもっといるでしょうが!!!と思います。

ガグニーゼ、セバスティエン、コーツァン、全部、歌う役に比して声がライト級なのは、どういうことなんでしょう。
キャスティングのミスなのか、世界的に男性の低声陣の声が軽くなっていっている、ということなのか、、?
アモナズロを歌うバリトンって、もっと父性を感じさせる、声に豊かさと広がりと重みのあるバリトンが歌うもんだと思ってましたが、、、
ガグニーゼの声って彼自身はきばって歌っているようですが、どんなに踏ん張っても本当軽いんですよね、、、。
アイーダに”お前はわしの娘なんかじゃない!ファラオの女奴隷に過ぎぬわ!
Non sei mia figlia! Dei Faraoni tu sei la schiava!"と言い捨てるところの歌いまわしは、マストロマリノより巧みで、そこだけが慰めでした。
それにしても、考えてみたらアモナズロとして説得力があるな、と感じたバリトンはフアン・ポンスが最後かな、、うーむ、実に嘆かわしいです。

男性陣のだめだめぶりに比して、女性の脇役(というか、舞台に登場すらしない、、)の巫女役のジェニファー・チェックはすごく良い歌唱を披露しています。
ピッチの正確さ、発声に苦しそうなところとか固苦しさが全くなく、伸びやかな歌唱で、この役でこれ以上の歌唱を望むのは無理というものでしょう。


Liudmyla Monastryrska (Aida)
Olga Borodina (Amneris)
Roberto Alagna (Radamès)
George Gagnidze (Amonasro)
Štefan Kocán (Ramfis)
Miklós Sebestyén (The King)
Jennifer Check (A Priestess)
Hugo Vera (A Messenger)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Sonja Frisell
Set design: Gianni Quaranta
Costume design: Dada Saligeri
Lighting design: Gil Wechsler
Choreography: Alexei Ratmansky
Gr Tier D Even
ON

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***

BEATRICE DI TENDA (Wed, Dec 5, 2012)

2012-12-05 | メト以外のオペラ
昨年の『モーゼとファラオ』の公演ではフレッシュな顔ぶれ(ただし老モリスは除く)の歌手たちが大健闘し、
聴きごたえのあったカレジエート・コラールによる演奏会形式オペラ公演シリーズ。
今年もアンジェラ・ミードが登場するとあっては当然鑑賞しないわけにはいかないのですが、ここで大問題発生。
ベッリーニの『テンダのベアトリーチェ』、、、? 実演どころかCDですら一回も聴いたことな~い!!!

それもそのはず、NYでは1961年のアメリカン・オペラ・ソサエティによる演奏(サザーランド、ホーンにレッシーニョの指揮という垂涎の組み合わせ!)以来、
一度も演奏されたことがないのではないか?と言われている、生で聴けること自体が非常に貴重な作品なのです。

ある演目を初めて鑑賞する時、ストーリーや歌われる言葉を全く知らないと、
その分音楽に向けられたはずの注意をかなり奪われてしまうような気がして損した気分になる貧乏性な私ですので、
初めて聴く演目については絶対にリブレット付きのCDで予習したい。
そこで、今やNYでオペラの全幕もののCDを店頭売りしている場所はメトのギフト・ショップとここだけなのでは?
と思われるダウンタウンの某電気屋のCD売り場に赴き、リブレット付きの『テンダのベアトリーチェ』という条件で探してみたところ、
在庫で該当した盤は一種類だけ。
ナイチンゲール・レーベルのスタインバーグ指揮オーストリア放送交響楽団(現在のウィーン放送交響楽団)の1992年のライブ盤で、
グルベローヴァ、カサロヴァ、モロソウというキャストです。
私はこれまでにも何度かこのブログで告白して来た通り、正直言うとグルベローヴァのベル・カントがあまり好きでないんです。
だけどそれはどちらかというと彼女の歌い方とか表現とかセンスに対する私のテイストの問題であって、
技術的には当時世界で最高レベルのものを誇っていたソプラノであることには代わりなく、
彼女が歌っているならば絶対にがっかりするようなことはないだろうし、
むしろ、『テンダのベアトリーチェ』がどういう作品なのかを知る、という目的のためには、
正確さに定評のある彼女のような歌唱を聴いておくのがかえってよかろう、と、何の迷いもなく購入したわけです。

ところが、家に帰って実際に盤に耳を通してみてびっくり仰天!
何なの!?これ!?!?
あまりにひどい、惨すぎる歌唱なのです。それもほとんどキャスト全員。
言っときますが、ヨーロッパの片田舎に二流歌手たちを集めて録音した廉価版CDじゃないんですよ。
天下のグルベローヴァに、カサロヴァがタッグを組み、音楽の都ウィーンで開かれた演奏会の録音で、
件の店では堂々と30ドル以上の価格をつけて販売されている代物なのです。
しかし、私などはまだラッキーなのかもしれない。なぜならば、CDならOFFボタン一つでストップ出来るんですから。
それに引き換え、この演奏会を実際にホールで聴いていたオーディエンスは延々この歌に付き合わなければならなかったわけで、
一体彼らはどんな思いでこの演奏を聴いていたのだろうか、、と、そこのところだけは心底興味があります。
ナイチンゲールって、ほとんどグルベローヴァの私設レコード・レーベルのようなものと私は理解しているのですが、
それならば最低限でもグルベローヴァの歌のクオリティだけは保証されているはず、、と思うじゃないですか?
ところがこの盤での彼女は全く冴えない。どころか、はっきり言ってその歌唱は聴くのが苦痛のレベルに達してます。
わざわざこんな歌唱の時の彼女をCDにして後世に残そうとする意味がわかりません、ナイチンゲール。
カサロヴァも本来はすごく良い歌手なのに、登場してすぐ歌う旋律のピッチがぼろぼろで、
良い感じでグルベローヴァとどっちが不調か?コンテストを繰り広げてますし、
モロソウに至ってはどっからこんな三流バリトンを連れて来たのか?と思うような、
まるで読経中の坊主って感じの歌唱でげんなりさせられます。唯一まともなのはテノールのベルナルディーニくらい。

またこのCDを買った最大の理由であるリブレット。これがまた信じられないくらい劣悪な品なのです。
ナイチンゲール・クラシックスのドクター・ウマン(フマン?ヒューマン?)・サレミという人物が翻訳したという英語訳、
これだったらまだグーグルの自動翻訳機能にかけた方がまだまともなものが出て来るんじゃ、、という位、
意味不明な英語のオンパレードで、誤訳・不適切な言葉はもちろん、英語としてちゃんとした文章になっていない箇所も数え切れないほどあって、
ドクターって一体何の??と聞きたくなります。
まさかこんなに粗悪な訳をリブレットにつけたものを商品として売るとはこっちは思いもしないので、
初めて意味不明な箇所が出てきた時には私の読み方が悪いのか、と何度も読み返してしまいましたが、
その後も、あるわ、あるわ、珍訳、誤訳の嵐!!!
ドクター・サレミの正体は実はグルベローヴァの故国の近所のおじさんか何かで、
翻訳代のコスト・セーブのために彼が辞書と首っ引きで適当に訳したものをリブレットに貼り付けたのだ、と聞いたとしても、私はちっとも驚かないでしょう。

そのあまりなことに、二枚組みCDの一枚目が終わらないうちにこれ以上聴き続けることは苦痛以外の何者でもない!というレベルに達してしまいました。
そして、もちろん、これまで書いて来た通り、歌手の不調や三流バリトンを混入するという痛いキャスティングも大きな理由ではあることに間違いないのですが、
もう一つ、とても重要で、とてもやばいことに気づいてしまうのでした、、。
『テンダのベアトリーチェ』の歌のパートは本当に半端なく難しい!!!
この作品がNYで60年代から一度も演奏されていないのも当然です。
こんな難しい作品、いくらミードが実力のある歌手だからと言っても、本当に歌えるんだろうか、、
いや、ミードだけじゃないです。メゾもバリトンも(テノールのパートは若干ましか?)大変ですよ。
これを、若手の歌手たちで演奏会にのせる、、、、ちょっと無謀過ぎやしないか?カレジエート・コラール、、、。

しかし、かといってこちらも予習で頓挫するわけにはいかないので、最後の頼みの綱として、
今度はサザーランド、ヴィセイ、オプソフ、パヴァロッティという組み合わせのボニング指揮ロンドン交響楽団盤をAmazonからダウンロードしてみました。
もしサザーランドも歌えない、、ということであれば、これはもう歌唱不能の作品として歴史に葬り去るしかないでしょう。
ところが、さすがはサザーランド!!!! 
いえ、サザーランドだけではありません。残りの三人も素晴らしい歌唱内容で、オケの演奏もちょっと音色が明るいですが悪くありません。
贅沢を言えば、もう少しアンブロジアン・オペラ・コーラス(特に男性)が頑張ってくれていたなら、、と思いますが、
この作品の難しさを考えると、ほとんど奇跡的な内容の演奏で、『テンダのベアトリーチェ』はこの音源さえ持っていれば他には何も要りません。
もちろんスタジオ録音で取り直しがある程度きく、ということもありますが、
さっきまで聴いていた苦行のような音楽と同じ作品なのか?と思う位素晴らしい演奏で、
こういう演奏を聴くと歴史に葬り去るにはもったいない面白い作品ではないか!と思います。
ベル・カント作品というのは他のレパートリー以上に歌唱・演奏する側の力量で、面白くもつまらなくも苦痛にもなるところが、
楽しさであり、また、怖ろしさでもあるわけですが、ナイチンゲール盤とサザーランドの盤はその良い見本でしょう。

では、この作品のどこが難しいのか、どうしてグルベローヴァやカサロヴァのような歌手でさえ手を焼くことになるのか、と言えば、
それは一言で言うとベッリーニが書いている音楽のawkwardさにあると思います。
例えば、カサロヴァが苦労していた、アニェーゼ役が一番最初に歌う”Ah! non pensar che pieno”、
この部分のテッシトゥーラの嫌らしさはどうでしょう?!
メゾにとって、すごく歌いにくい音域に旋律がのっかっているので、ピッチがぶらさがりやすい。
それから各パートの歌手にとって非常に歌いにくい種類の音のアップダウン、不自然な音程の移行、、、
これらがこの曲を大変難しいものにしていると思います。
いや、この曲、というより、ベッリーニの作品には若干その傾向があるように思うのは私だけでしょうか?

ベッリーニとドニゼッティはキャリアがオーバーラップしていた時期があったせいで、
しばしば一緒に、もしくは比較して語られることが多いですが、
私の耳にはドニゼッティの音楽の方がずっとナチュラルで、歌を歌うということの生理に忠実に書かれているように思えます。
もちろんドニゼッティの作品も、絶対的なスケールでは決して歌うのは簡単ではないですが、
訓練に訓練を重ねた歌手の手にかかると、その歌唱は、とてもナチュラルで、ほとんど苦労して歌っているように聴こえなくて、
それで私などは催眠術にかかったようにうっとりしてしまったりするわけです。
ところが、ベッリーニの作品の中には、どんなにすごい歌手が訓練に訓練を重ねて歌っても、
どこか旋律の動き方が不自然に感じられる(音型として不自然なのではなく、歌唱のメカニズムに反するような音の移動の仕方をする)、
そのために歌手が苦労して歌っているな、、と感じられる箇所が存在するものがあって、
それはサザーランドが『ベアトリーチェ』のCDでほとんど信じられないような高レベルの歌唱を披露していても、
やっぱりそれをちらっと感じてしまう時があるし、”清き女神”のような名曲でもやはりそのawkwardさを感じる部分があって、
だからドニゼッティの作品を歌う難しさとベッリーニの作品を歌う難しさは厳密に言うと少し違っているな、と思うのです。
ベッリーニがドニゼッティほどには歌を歌うということのメカニズムへの理解もしくは作曲中に上手く取り込む能力に優れていないからなのか、
それともそれを十分持ちつつ敢えて、、なのか私にはわかりませんが、後者だとすると、相当なサディストぶりで、
今回の『テンダのベアトリーチェ』の予習・鑑賞を通じて、ベッリーニ=サディストという等式が私の頭に刻み込まれました。
それ位、この作品は歌うのが大変な作品なのです。

話のあら筋だけ聞くと、びっくりするほどドニゼッティの『アンナ・ボレーナ』に酷似していて(作曲は『アンナ・ボレーナ』の方が3年早い)、
舞台をイギリスからイタリアに変えただけやんけ!と突っ込みたくもなりますし、
『アンナ・ボレーナ』に比べると、かなり話の進行の仕方がぎこちなくて、
”んな馬鹿な、、。”と思うところや、正直、リブレットを読んでいるだけでは何が何やら、、のシーンもあります。
私の隣のボックスにいたおば様も、一幕が終わったところのインターミッションで、
”何だか全然意味が良くわからないんだけど、説明してくれる?”と一緒に鑑賞されていたお友達にヘルプを求められていました。
ということで、カレジエイト・コラールが作成してプレイビルに掲載しておいてくれたあらすじをこちらにつけておきます。
特にアニェーゼとオロンベッロの相手取り違えのシーンはリブレットからだけだとかなり意味が摑みずらいし、
ベアトリーチェと前夫のことやフィリッポとの再婚の経緯は詳しく語られないので
(いきなり前夫ファチーノの名前が出て来たりして、誰よそれ?って感じです。)おば様が混乱されるポイントとなっていました。

しかし、一方で『アンナ・ボレーナ』とは決定的に違っている部分がいくつか『テンダのベアトリーチェ』にはあって、
それがこの作品を非常にユニークなものにしています。
一番ユニークな点は、この作品における合唱の役割です。
さすがにカレジエイト・コラールが企画している演奏会だけあって、合唱が単なる添え物になってしまっている作品では全くないのです。
一幕の冒頭近くでは、まず宮廷のフィリッポ派として、フィリッポにベアトリーチェとの離縁をそそのかす邪悪な役割を果たしているのが印象的です。
その一方でベアトリーチェのお付きの女性たちがいかにベアトリーチェを慕い、最後に彼女の処刑を悲しむか、これを表現するのも合唱の役割だし、
かと思うと、兵士達としての合唱は、オロンベッロにはもちろん、フィリッポにさえ一歩退いた冷ややかな視点を持っていて、
この兵士の合唱の使い方はこの作品に独特のレイヤーを与えています。
しかもニ幕には男声合唱にオロンベッロが拷問に折れて虚偽の告白をしてしまうまでのいきさつを説明する語り部的な役割まで与えられているのです。
合唱の使い方に定評がある作曲家というとすぐにヴェルディが頭に浮かびますが、
彼の場合は民衆とか宮廷の人々といったマスを主役にした合唱(ナブッコ、アイーダ、オテッロ、ドン・カルロ、シモン・ボッカネグラ、、)で
オーディエンスがマスの一人になったような気分にさせるところに特異な才能があるわけですが、
(これまでアイーダを聴きながらエジプト人の気分になったり、ナブッコを聴きながらヘブライ人になったり、、ということが何度あったか。)
『テンダのベアトリーチェ』の合唱は、そういうヴェルディ型の合唱とは違って、
まるでソリストたちと並んで、フィリッポ派の宮廷人、ベアトリーチェのお付きの女性、兵士達という独立した、それも重要な役柄があって、
それをたまたま合唱という複数の人数で歌い演じている、そういう感じなのです。
ということなので、合唱は技術のみならず演じている役柄に合わせた表現力も求められるわけで、
そういう意味では前回の『モーゼとファラオ』よりも難易度が高いように思うのですが、
案の定というか、そこまでカレジエイト・コラールに期待するのが間違いなのかな、、
何とか楽譜を辿っている(いや、場所によっては辿れていないところもありましたが、、、)という感じで、
役の表現なんていうレベルには全然。

もう一つ、『テンダのベアトリーチェ』が『アンナ・ボレーナ』と決定的に違っている点は、
アンナ・ボレーナが最後にほとんど狂気と正気の境のような特殊な状態になって処刑台に向かって行くのに対して、
ベアトリーチェは徹頭徹尾正気のまま、その過程でアニェーゼやフィリッポを許しさえして、死に向かう、という、このキャラクターの差です。
アンナ・ボレーナの強さが彼女の片意地や気の強さに現れるとすれば(彼女は絶対にエンリーコやジョヴァンナを許したりはしない。)、
ベアトリーチェの強さは、正しい生き方をした人間には心の平安が訪れるという信条から来るもので、
それがあれば本来恨んで死んでいってもおかしくない相手ですら許すことが出来る、という独特のしなやかさに特徴があります。
この作品のベアトリーチェのパートは純粋な技術上の難易度だけ言っても成層圏外級ですが、
それ以上に、本当の難しさは、それをやりながら、ベアトリーチェのしなやかな強さを表現しなければならないところにあるんだと思います。
ナイチンゲール盤のグルベローヴァのような絶叫モードが延々続く、、という歌唱ではそれは絶対に無理なのであって、
サザーランドの独特のおっとりした雰囲気と、それから超難易度の高い歌をそうと感じさせず軽やかに歌いこなせる技術があってこそ、
この役の本当の姿が見えてくるというものです。
話の筋としては非常にドラマティックでありながら、ここが『ノルマ』のような作品とは決定的に違う点で、
ベアトリーチェ役はそのようなしなやかさをもって歌われるのが理想であり、
もし力のあるソプラノがこの役に入ったなら、そういう歌い方をするだろう、という理解と予想をもってオーケストラは演奏しなければならない。
ところが今回私がカレジエート・コラール以上に失望したのが、アメリカン・シンフォニー・オーケストラの演奏です。
小さな部屋で象が暴れまわっているかのような力任せの演奏に、歌手たちの歌唱が象の鼻やしっぽでなぎ倒される花瓶や額縁のように見えました。
例えば、第一幕第一場のフィリッポの最初の聴かせどころで、
最後に合唱を伴って大きく盛り上がる"ああ、神々しいアニェーゼよ Oh! divina Agnese"、
ここはバリトンが最後にハイノートを(おそらくオプショナルだと思いますが)決められる箇所で、
今日フィリッポ役を歌ったポーレセンは高音域に強みがある人ですので、当然のことながらここで高音を入れてくれたのですが、
あろうことか、アメリカン・シンフォニー・オーケストラのまるでワーグナー作品を演奏しているかのような大音響に完全にかき消されてしまい、
これはないよな、、、と本当に気の毒に思いました。
それから第四場の、こちらもハイライトの一つであるベアトリーチェの"私の悲しみと怒り、無為な怒りを Il mio dolore, e l'ira, inutil ira"は
ベアトリーチェ役のソプラノのパートとホルンとの掛け合いが非常に美しいんですが、
決してか細くないミードの声をいとも簡単になぎ倒す大音響のホルン・ソロに私が怒りで肩を震わせていたことは言うまでもありません。
アメリカン・シンフォニー・オケのメンバーのセンスの無さもあまりといえばあまりですが、
しかし、これは指揮のバグウェルがばしーっ!と、”ベル・カント・オペラの演奏はそんなに力任せでなくてよろし。”
というメッセージを出さなきゃいけないんじゃないでしょうか?
ベル・カント・オペラのオケ演奏は、歌手の歌の美しさを引き立てつつ作品のドラマを観客に伝えなければならない、という独自の難しさがあって、
ベル・カントのオケ演奏を簡単だと言ったり貶めたりする批評家や演奏家やオペラファンはなーんもわかってないのね、、と思います。

今日の演奏はおしなべて歌手の歌唱が力任せに寄っていたように思うのですが、
これはバグウェルとアメリカン・シンフォニー・オケのセンスない力任せ演奏に対抗しなければ、、
(じゃないとオーディエンスに声が聴こえないのではないか、、という心配で)と、歌手達の歌が押し気味になったのも一因だと私は思ってます。
これじゃしなやかに歌おうと思っても無理ってもんで、ほんと、ベル・カントの世界においては犯罪行為に等しい演奏でした。
バグウェルはオペラ刑務所行き確定。
こういうのを聴くと、キャラモアのクラッチフォード氏のベル・カントものの指揮は、オケの地力の差もあるかもしれませんが、
きちんとおさえるところをおさえてくれているな、、と思います。



今回の演奏で興味深いのはキャストに映画『The Audition』でとりあげられた
2007年のナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズのファイナリストが3名も含まれている点です。

フィリッポ役を歌うバリトンのニコラス・ポーレセン。
フィリッポ役はミラノ公としての威厳と気品を表現するためにも低音域がしっかりした成熟した感じのするサウンドが必要で、
それは『アンナ・ボレーナ』のエンリーコ役にも共通するところかな、と思うのですが、
フィリッポ役が大変なのはその上に先にも書いたような高音で勝負しなければならない箇所もある点で、
この両方を二つ満たすのはなかなかに大変です。
件のサザーランドの盤でこの役を歌っているコーネリアス・オプソフというバリトンはこの二つを上手くクリアしていて、
私は今回の盤で知るまで名前も存じ上げない歌手だったのたですが、カナダのバリトンで2008年にお亡くなりになっているようです。
ポーレセンは何と言ってもまだバリトンとしては年若いこともあって、成熟した男性というよりは若竹のようなサウンドで、
中音域以下にまだ魅力的な音が出来上がっていないのが残念。
役を良く準備して来たのは良く伝わって来るのですが、それだけではカバーし切れないサウンド面での不足が物足りなさを誘います。
またフレージングの固さも今後改善すべき課題かもしれません。
ただし、高音の美しさ、これは注目に値するものがあって、本当に響きの美しい音を楽々易々と出してくるので
(第二幕第一場のラストで合唱を伴って歌うNon son io che la condanno以降の部分の最後の高音なんか、本当に綺麗でした。)
彼の持っている音域は普通のバリトンよりもちょっと高い方に寄っているような印象を持ちます。

アニェーゼ役のジェイミー・バートンは先日のタッカー・ガラでの若手にしては非常に完成された『フォヴォリータ』からのアリアが印象に残っていて、
今日の公演での彼女の歌唱を大変楽しみにしていたのですが、
アリア一曲歌うのと、全幕を歌うことの違い、というのはこういうことを言うんだろうな、、と思います。
彼女は高音に関してはソプラノに負けない破壊力ある音を持っていて、これは今後のキャリアで大きな切り札で、
将来いつか、ミードのノルマ、バートンのアダルジーザで『ノルマ』なんてことも十分可能性があると思います。
第一幕の最後の合唱も加わった四重唱でのミードとの高音の戦いはまさにゴジラvsガメラ!で、一騎打ちという言葉がぴったりでした。
でも今回の彼女の歌唱に限って言えば、それが多少仇になった部分もあるかな、、と思います。
バグウェルの指揮が足を引っ張っていたのは承知で言うと、今日の彼女の歌には全く引きがなくてあまりに押して、押して、押して、で、
これじゃオーディエンスも疲れてしまいます。
全幕で主役・準主役級の役を歌う時は、単に旋律を歌うではなくて、やはり物語のストラクチャーとかそういうことも考えながら、
歌を構成していかなければなりません。
そう、彼女の全幕の歌にはまだストラクチャーが感じられない。
カサロヴァが苦労していた例の一幕でアニェーゼが初めて歌うフレーズは今回舞台袖から歌われたのですが、
バートンもやっぱりピッチを納めるのに苦労していて、その上に例の押して~が加わるので、全く美しくなかった。
ここって、先にも書いた通り、旋律がとても嫌らしい音域に乗っているので、歌うメゾも本当に大変だと思うのですが、
ここでフィリッポとオーディエンスを骨抜きにするような色気のある歌を歌うのと、
なんか聞苦しい音が必死の体で鳴ってる、、というような歌を歌うのでは、
その後のアニェーゼ像に大きなインパクトがあると思うのです。

それにしてもこのアニェーゼという人は、妙な突っ走り方といい、ああ勘違い!な度合いといい、
ヴェルディの『ドン・カルロ』のエボリと良い勝負をしてます。
いや、人のものを勝手に盗んだりするところなんか、実にそっくりで、まことにいやらしい!!!
でもオーディエンスに完全な勘違い女のレッテルを貼られないためには、歌で、この女性の魅力を100%伝えなければならない。
なんてったって、フィリッポはもうベアトリーチェからこのアニェーゼにすっかりほだされている状態で、
しかもオロンベッロさえ落とせる!と思っているらしい自信満々の様子からして、アニェーゼも相当美人のはずです。
こういう女が作品が違うと、”呪われし美貌”なんてアリアを歌ってしまうわけですな。
メトの2010/11年シーズンの『ドン・カルロ』ではスミルノヴァの歌があまりに駄目駄目なせいで、エボリの役に全く説得力がなく、
”美貌?何の話?”ってなことになってしまっていましたが、
魅力的な歌を歌わなければ、同じようなことがこのアニェーゼ役にも起こってしまうわけです。
その点で言うと、バートンの歌は、んな馬鹿な、、、というレベルにまでは落ちていませんでしたが、
じゃ、十分に説得力のある色気ある歌だったか、というと、そこまででもない、、という感じで、まだまだ精進の余地はありそうです。

難役ベアトリーチェにチャレンジしたミード。
オペラハウスでの全幕公演のように数公演回数があるものと違い、たった一回の演奏会形式での演奏のためだけに、
よくここまで準備のエネルギーを注ぎ込めたもの、と本当に感心します。
いや、この役で舞台に立つ勇気があるソプラノはどんなソプラノでも、まずその心意気だけで称賛されるべき。本当、それ位大変な役だから。
今まで彼女の出演しているオペラの公演や演奏会を鑑賞して、彼女がきちんと準備して来なかったな、と感じたことは一度もないのですが、
今回もその例に漏れず、音楽的にはかなりレベルの高い内容の歌唱で、特にベアトリーチェがフィリッポ、アニェーゼ、オロンベッロ、
すべての人間を許して死の場所に向かうニ幕ニ場(ここは『アンナ・ボレーナ』の狂乱の場に対応する場面なんですが、
先に書いた通り、ベアトリーチェは最後まで狂っているわけではないので、狂乱の場という呼称はふさわしくないのかもしれません。
しかし、ソプラノが持っている全ての歌唱技術を披露しつくす場面、という意味では、まさに狂乱の場以外の何物でもありません。)での歌唱の完成度の高さは、
多分、今、このような難役を歌わせてこんな内容の歌を歌える人が他に一体何人いるのか?と聞きたくなる位です。
しかし、表現の話をすると、このニ幕ニ場で彼女が見せた表現の豊かさに比べると、若干他の部分の味付けが薄かった感じがあって、
さすがに深くこの役を読み込んで、それを歌に反映し切るだけの時間はなかったのかな、
もしくは彼女のような技術的に卓越したものを持った人でもこの作品でそれを成し遂げるまでに至るにはさらに長い長い道のりが必要なのかな、と思います。
彼女がメトで『アンナ・ボレーナ』を歌った時は本当に一つ一つのフレーズが細かく練れていて、アンナの感情が歌に完全に織り込まれていたし、
今日も狂乱の場に関してはそれを成し遂げていたわけですから、それが出来る歌手であることは間違いないのですけれど。
後、ニ幕一場前半の重唱での彼女の歌唱もすごく良かったです。ここはオケなしでベアトリーチェの声一本で進んでいく箇所があったりして、
この作品の中でもすごく面白い箇所の一つ。
そういえば、ここの部分には、『ワルキューレ』の最後でヴォータンがブリュンヒルデを火で包むべく、ローゲに呼びかける直前の金管のフレーズまんまの部分があって、
ワーグナーが『ノルマ』を評価していたという話は聞いたことがありますが、この『テンダのベアトリーチェ』からも軽く失敬していることが発覚しました。
エボリやアニェーゼ並みのずる賢さですな。

ミードの歌唱がオケの薄い箇所ほど良かった、というこれらの事実により、再び罪状を重ねた感があるのはバグウェルです。
彼女も他の箇所に関してはバートンと同様に押しがちになる傾向があって、オケがあんなに爆音を立ててなかったら、
もうちょっと違う結果になったかもしれないな、、と思います。
ただ、バートンに比べると、ミードの方が作品の全体を考えながら歌う、ということが既に出来ていて、
『The Audition』組の中ではやはり頭一つ、二つ、三つ位図抜けていると言ってよいと思います。

ミード以外に面白い歌手がいたとすれば、それは『The Audition』組でなく、意外にもオロンベッロ役を歌ったマイケル・スパイアーズでした。
彼は今年のキャラモアの二つの公演の片割れ(ロッシーニの『バビロニアのシーロ』)にも出演していたそうなんですが、
私は『カプレーティとモンテッキ』の方を観に行って、バビロニア~の方を鑑賞しなかったので、彼の名前は今回全くのノーマークでした。
公演前にちらっと目を通したプレイビルにはミズーリ出身のアメリカ人とあって、
アメリカ人の歌手は大抵アメリカのオペラハウスのヤング・アーティスト・プログラム等でキャリアを積むケースが多いので、
ここアメリカであまり名前を聞かないということは、それほど期待できない、ということなんだろうな、、と思いつつ公演を聴き始めました。
ところが、これがどっこい、彼の歌唱を聴きすすめるうち、予想を裏切るしっかりした歌で、
彼も若手に違いないのに、バートンやポーレセンに比べて明らかにフレージングもこなれていて歌に落ち着きがあるし、
表現力もあるし、一体どこで歌って来た人なんだろう?と嬉しい驚きを感じました。
私はちょっと昔の歌手っぽい、レトロな感じの歌い方をする・ティンバーを持っているテノールに弱い(甘い)ところがあるので、
それも一因かもしれませんが、そんなに歌唱量の多くない、しかもダメ男の代表のようなこのオロンベッロという役で大きな印象を残すとは将来が楽しみです。
彼のトップのきちんと開いたサウンドは本当に魅力的ですので、このまま研鑽を続けて頂いて、ぜひメトにも登場して欲しいと思います。

YouTubeに彼の歌唱がアップされていましたので一つ紹介しておきます。
一緒に組んでいるソプラノが彼のレベルでないのが悲しいですが、グノーの『ロメオとジュリエット』からの二重唱で、
彼の歌唱の魅力の一部が良く出ている音源だと思います。



このスパイアーズとかコステロとか、若手で面白いロメオを歌えるテノールが出て来ているのに、
どうしてメトではひっきりなしにアラーニャとかジョルダーニとかおっさんテノールばっかり投入してくるんでしょう、、。
ロメオは何歳だと思ってんだ、って話ですよ、全く。


Angela Meade (Beatrice di Tenda)
Nicholas Pallesen (Filippo Maria Visconti)
Jamie Barton (Agnese del Maino)
Michael Spyres (Orombello)
Nicholas Houhoulis (Anichino)

Conductor: James Bagwell
American Symphony Orchestra
The Collegiate Chorale

Carnegie Hall Stern Auditorium
Second Tier Center Right Front

*** ベッリーニ テンダのベアトリーチェ Bellini Beatrice di Tenda ***

マイナー・オペラのあらすじ 『テンダのベアトリーチェ』

2012-12-05 | マイナーなオペラのあらすじ

『テンダのベアトリーチェ』 Beatrice di Tenda

作曲:ヴィンチェンツォ・ベッリーニ
台本:フェリーチェ・ロマーニ
初演:1833年3月16日 ヴェネツィア フェニーチェ劇場

第一幕

軍司令官ファチーノ・カーネの未亡人ベアトリーチェはミラノ公フィリッポと再婚した。
フィリッポは彼女が再婚前に治めていた領地の人々が、自分ではなく彼女の方に忠義を尽くしているのではないかと内心恐れている。
フィリッポは延臣たちにすでにベアトリーチェから心が離れ、アニェーゼに恋していることを打ち明ける。
延臣たちは、ならばベアトリーチェを捨てればいいではないか、と彼にすすめる。

匿名の手紙に誘われ、オロンベッロがアニェーゼの部屋に現れる。
自分が恋しているのがオロンベッロであることを仄めかそうとするアニェーゼ。
しかし、オロンベッロは彼女の言わんとすることを誤解し、
胸のうちに隠して来たベアトリーチェへの思慕にアニェーゼが勘付いているものと勘違いしてしまう。
オロンベッロがベアトリーチェへの愛を認めると、アニェーゼは怒り狂い、自らの恋敵への復讐を誓う。

ベアトリーチェが愛のない結婚と彼女に仕える者たちへのフィリッポの冷遇振りを嘆いているのを、お付きの女官たちが慰めていると、
そこにフィリッポが現れ、彼女が不実な妻であり、自分に対しての謀反を周りの人間に働きかけ扇動している、となじり始める。
彼はベアトリーチェの部屋から盗み出した手紙を見せ、これが両方の罪の証拠であると主張する。

兵士たちはフィリッポの普通でない様子をいぶかしがり、彼から目を離さないでおこう、と語り合う。

ベアトリーチェが亡き前夫の像にいかに自分が孤独で愛されていないか嘆いているところにオロンベッロが現れ、
私ががあなたに代わってフィリッポへの謀反を扇動・計画するから、自分と一緒に逃げてもらえないか、と申し入れる。
ベアトリーチェは彼ら二人が恋人なのではないか?という誤った疑念に火を注ぐような行動はしたくない、とオロンベッロの申し出を拒否するが、
しかし、実は自分はあなたを愛しているのだ、と告白するオロンベッロの言葉に、
これは大変なことになってしまった、、と恐怖におののく。
オロンベッロがベアトリーチェに懇願しようとひざまずいた丁度その時、
アニェーゼに導かれてフィリッポが現れ、そんな二人の姿を見て、彼らをすぐに投獄せよ、と命令する。


第二幕

ベアトリーチェの裁判のために宮廷の人々が集まった。
男性達がオロンベッロが受けた拷問について、
また、その拷問に挫けたオロンベッロが罪を認め、ベアトリーチェを共犯者として名指したことなどを語り合っている。
ベアトリーチェは自らの身の潔白を主張し続け、
彼女の勇気に自分の行動が恥ずかしくなったオロンベッロも、罪を認める告白を撤回しようとする。
裁判官たちは彼らが罪を告白するまで拷問を続けるよう言い渡す。

ベアトリーチェに対する裏切りを後悔するアニェーゼはフィリッポにどうか二人に慈悲を見せてあげてほしい、と嘆願する。

拷問を受けてさえ、ベアトリーチェは自分の無実を主張し続けた。
しかし、それでも結局審議会は彼女を死刑に処す決定を下す。

自らの行動に迷いを感じ始めたフィリッポは、ベアトリーチェに恩赦を授けようと考え始める。
しかし、ちょうどその時、兵士たちより、ベアトリーチェに味方する軍隊が城に攻撃をしかけて来た、との報告を受ける。
フィリッポは恩赦の考えを捨て、死刑の執行を許可する書類に署名する。

友人たちが差し迫る死を嘆く一方で、ベアトリーチェは偽の告白をすることなく自らの潔癖と声価を守りぬいたことを喜ぶ。
しかし、フィリッポに罪を信じさせる原因となった私信類を彼に手渡した謎の人物には天から復讐が下るようにと願う。
後悔に突き動かされたアニェーゼは嫉妬に狂った自分こそがその書類を盗んだ張本人である、と、べアトリーチェに告白する。
はじめは怒りを感じていたベアトリーチェも、オロンベッロの”敵をも許す強さを持ってほしい。”と訴える声に心動かされ、
アニェーゼとフィリッポを許して死の場所に向かうのであった。

(出自:カレジエイト・コラールによるカーネギー・ホールでの公演のプレイビルより。
トップの写真は1961年にミラノ・スカラ座で行われた『テンダのベアトリーチェ』の舞台より。
ベアトリーチェ役はジョーン・サザーランド。)

*** ベッリーニ テンダのベアトリーチェ Bellini Beatrice di Tenda ***

MET ORCHESTRA CONCERT (Sun, Dec 2, 2012)

2012-12-02 | 演奏会・リサイタル
毎年三度行われるメト・オケ・コンサート。
今シーズンはなぜだか第一弾と第二弾の間がとても短くて、10/14の演奏会に引き続き早くも二度目の演奏会がやって来ました。

10/14の変則・反則プログラムから一転して、今回はメト・オケ・コンサートの黄金の3法則、すなわち、

① 現代音楽を発掘・広くオーディエンスに紹介する(aka レヴァインの趣味全開の)作品
② ソリストを招いてのコラボ
③ 比較的メジャーなシンフォニー・オケのレパートリー

が徹底されたプログラムになりました。

まず、一曲目は①の法則に基づき、ソフィア・グバイドゥーリナによるヴァイオリン協奏曲”今この時の中で”。
アンネ=ゾフィー・ムターのために書かれ、2007年に彼女のソロにラトル指揮ベルリン・フィルの演奏で世界初演された作品で、
カーネギー・ホールで演奏されるのは今日がはじめて。
今日の公演のプレイビルによると、グバイドゥーリナはソ連崩壊後にハンブルクに移住、
ロシア人とタタール人の血を半分ずつ受け継ぐ女性作曲家で、
ソ連時代のロシアで政府のセンサーシップに抵抗し、耳障りの良いだけのシンプルな音楽を拒む一方、複雑さを備えた新規性にこだわり、
ウェーベルンらの音楽にインスピレーションを受け、そこからやがて17~18世紀のドイツ、特にバッハのそれに大きく感化され、
その音楽は非常に複雑で、数学・哲学・神学への愛を音楽的シンボリズムを通して描いたものであり、
フィボナッチ数列、ルーカス数、そして、”バッハ・シークエンス”
(彼女が発見したというバッハの音楽の数学的パターン)を自らの作品の音楽構成に組み込んでいる、、

、、らしいんですが、開演前にこれを読んでいるうち、つい”怪しーい!”と心の中で叫んでしまいました。
なんでかわからないのですが、オーラソーマとかにのめりこんでいるニューエイジ系の人を前にした時と似た感覚に襲われて。
バッハ・シークエンス、、、

さらに”今この時の中で”の作品解説に目を移すと、作品のサブテキスト”ソフィア”は、
作曲家自身およびムターの両方の名前とかぶっているだけでなく、
東方正教会の教えに見られる、神の智慧を言語化・人物化する概念のことを指し、
この作品でのヴァイオリン・ソロは智慧の声であり、オケにはそれに対抗する悪(ダークネス)の声の役割が与えられているそうです。

ああ、彼女が耳障りの良いだけのシンプルな音楽を嫌うのと同様に、
私はまさにこういう現代音楽の理屈っぽくて講釈たらたらなところが苦手なんですけれども、、、
演奏の最後まで起きていられるかしら、、?

で、演奏について。
まず、神の声役を務めたメト・オケのコンマス、デイヴィッド・チャンさんの手によるヴァイオリンのヴィルトゥオーシティを讃えたいと思います。
作曲家が耳障りの良いだけのシンプルな音楽に反抗するあって、実に耳障りの悪い複雑な旋律のソロで、
神の声と言っても、全く温かさや慈愛を感じるものではなく、
残りのオケのメンバーだけでなく、オーディエンスまでもが厳しく叱られている気がしてくるような、攻撃的なメロディーなんですが、
低音から高音に急激に上昇するところなども実に正確なピッチと的確なボリューム・コントロールで対処しているし、
次々と繰り出される技に、オケのメンバーもオーディエンスも惚れ惚れとして聴いている、、という状態でした。

しかし、まあ、この作品のしつこく長いことは一体どうでしょう?!
余程オケのメンバーが悪の限りを尽くしているのか、何度神が言い聞かせてもその度に彼らの力が甦り(=オケの演奏が再燃する)、
それはもう叩いても叩いてもなかなか死なない虫を思わせる作品なのです。
いい加減に終わってくれ~!!と何度心の中で思ったことか。

プレイビルにも”lengthy and serious"と書かれていて、曲のプロフィールに”長い”(=長ったらしい)と書かれるなんてよっぽど、、と思うのですが、
しかし、この作品の演奏時間は約33分で、これって別に特段長いわけでもないです。
実際、この後に続くベートーベンの『皇帝』の演奏は約35分、『火の鳥』は約28分ですから、、。
だから、実際の演奏時間の長さが問題なのではなく、心理的に”長ったらしい”と思わせる何かがこの作品にはあるということで、
それは私は作曲家が哲学とか数学にこだわり過ぎている結果だろうと思っています。

しかし、こういう正確性・精巧さを求められる作品でのルイージは悪くない。
また、チャンさんと相当綿密にリハーサルを重ねたのだろう、と思わせる、息の合った演奏ぶりで、
作品としては全く魅力がないけれど、演奏にはそれなりの魅力がありました。

オーディエンスとしてはこの一曲目でかなり疲弊させられたので、
インターミッションをはさんでベートーベンのピアノ協奏曲『皇帝』(法則②)が始まった時には、
安堵の空気がカーネギー・ホールのオーディトリアムに広がる様子が目に見えるような気がしたほどです。

ピアノはイェフィム・ブロンフマン。
彼の演奏を聴くのは2008年の3月のゲルギエフ指揮ウィーン・フィルとの共演以来です。
その時もなんかピアニストにしてはすごくでかい(横に)人だな、というイメージがあって、
弾いている時の姿勢もどこか少しだらしなく、まるで悪党がたまるバーか何かの雇われピアニストって感じで、
次にブロンフマンがフォルテで音を鳴らした瞬間銃声が鳴り、
暗殺されたギャングが床に血まみれで倒れる、、みたいな妙な妄想が湧いて来たのを思い出します。
だけど、その2008年の時の演奏は豪快でありながら軽妙で、見かけによらずすばしっこいところのあるおっさんだな、、と思った記憶も。

今日舞台に登場して来た彼はなんか更に一層太った感じで、
左右に体を揺らしながら足をひきずるようにして舞台にあらわれる様子は、はっきり言ってエレガンスの欠片もなく、
こんなに体中から場末のバーのピアニストみたいな雰囲気を醸しだしている人、クラシック音楽のソリストでは珍しいわあ、と思います。
ピアニストが演奏会の舞台に現れる時、それもカーネギー・ホールで演奏するともなれば、
ちょっと緊張の面持ちで、ピアノを弾くまでの動きも洗練されて美しい人が多いのですけれど、
”あいよ、今宵もちょいと弾かせてもらいまっせ。”と一気にカーネギー・ホールが場末のバーに変身~。
ある意味すごい個性だと思います。

今日の演奏はウィーン・フィルとの時とはまた雰囲気がかなり違っていて、”あれ?この人はこんな演奏する人だったかな。”と思いました。
というか、今日の方がバーのピアニスト的彼の個性とは一致しているのかもしれませんが。
ピアノの最初の音がいつ入ったのかわからないソフトな音で、その次の音あたりからやっとふわーっと立ち上って来る感じで、
”あんた、いつの間に忍び寄って来てたの?!”と、ストーカーばりの導入部にびっくりです。
その後に続く部分も、すごく軽妙なタッチで、この曲で私の聴いたことがある他のピアニストの演奏・録音はもうちょっと骨格ががっちりしていて、
アクセントを付けたい音もはっきりそれと感じられるものが多いのですけれど、
ブロンフマンの演奏はむしろそういった演奏をするのを拒んでいるかのように、限りなくさらさらと流れていく皇帝で、
本当に最後の最後まで、ここは力強く演奏したい!とか、ここはこのような表情をつけたい、というような意図・意思が感じられず、
今日は見た目のまんま、徹頭徹尾バーのピアニスト的!!
次の楽章の前には、ピアノの上に置いたウィスキー・オン・ザ・ロックのグラスからちびりとやるんじゃないか、、と新しい妄想がもたげて来ます。

もちろん彼は実際にはバーのピアニストではなく、カーネギー・ホールの舞台に立つピアニストであるからして、
同じぽろろん、、と軽妙に弾いているといっても、その達者なことは議論の余地なし、で、
テクニックはセキュアだし、こんな人がそこらのバーにいたらば大変なことです。
こういった淡白な演奏を好きな人もいるかもしれませんが、私には彼があまりに易々、軽々、ぽろろん、、と弾くので、
第一楽章と第三楽章で、作品から立ち上がるべき、オーディエンスに伝わるべき何かが欠けているように思われました。
後、第一楽章の一番最初の音がほとんど聴こえなかったのはそこだけ彼の解釈によるものかな?と思っていたのですが、
その後もずっと、一まとまりのフレーズの一番最初の音が軽くて、
日常の会話でいうと、各文の最初の言葉のはじめの子音がほとんど聴こえなくて母音から入る癖のある人の喋り方のようで、
途中から気になってたまりませんでした。

彼の滑らかな音作りが一番上手くはまっていたのは第二楽章だったと思います。
彼の紡ぎ出す粒の揃った高音は美しく、軽やかな演奏のせいで、べたべたしたり感傷的に過ぎないのがかえって好印象で、
この楽章での彼の演奏は私は好きでした。

第三楽章ではペダルの使用の仕方のせいか、それに対する指のタッチが柔らかすぎるからなのか、
もうちょっと音の粒が立っていてもいいのにな、と思うところで、私にはあまりに”もやーん”とした音になり過ぎているように感じる箇所があり、
ちょっと残念に感じるところもありました。
ここも第一楽章と共通して、あまりにさらさら、、と軽々と流れ過ぎる傾向にあって、個人的にはもうちょっとパンチのある演奏の方が好みです。
また終盤にかけての盛り上がりも結構あっさりして感じました。

まあ、でもこういう制服を着崩した時のそのセンスを楽しむというか、必死なのがあまり表に出ないような演奏が受けるのかな、、
オーディエンスからのブロンフマンへの喝采は大きかったです。

ピアノのソロより、バックのオケの演奏の方がさりげないながらもかっちりとしたアクセントを感じる演奏で、なかなか良かったのではないかと思います。
チャンさんはもう神の声の準備で手一杯(あんな作品なら、それは無理もない、、。)だったと思われ、
『皇帝』と『火の鳥』はもう一人のコンマス、エネットさんのリードによるものだったのですが、
(そうそう、エネットさんはこんなこともありましたが、現在では再びメトに戻ってきてコンマスの任をつとめておられます。)
このニ作品とも音楽が自由に放逸に流れていて、良く考えてみるとヴァイオリン・ソロがフューチャーされる作品では
チャンさんが活躍することの方が多いですが(『タイース』の瞑想曲のソロもチャンさんでしたね、そういえば、、。)
後半の二作品はエネットさんのコンマスとしての力量を十分感じられる演奏になっていたと思います。

最後は法則③にのっとっての『火の鳥』組曲。
今回は1945年版の演奏で、この版が一番バレエ全曲版からの抜粋を多く含んでいる版なんだそうです。
Wikipediaによると、

”指揮者によってはこの版を非常に好むが、全曲版や1919年版組曲に比べると、演奏機会が多いとは言えない。
その原因の一つは、ストラヴィンスキーが後年大きく変えた作風が如実に反映されている版となっていることにある。
顕著な特徴の1つが、「終曲の賛歌」の最後 Maestoso の部分に見られる。
全管弦楽が終曲の主題を繰り返す箇所で、全曲版・1919年版組曲では4分音符の動きで朗々と旋律を奏でているところだが、
この1945年版では、「8分音符(または16分音符2つ)+8分休符」という、とぎれとぎれのドライな響きで旋律が奏でられる。
組曲全体の後味を大きく変える相違点であり、この版の評価を分ける1つの要因になっていると思われる。
なお、前記の理由により、この1945年版を用いながらも、「終曲の賛歌」のみ1919年版の「終曲」に差し替えて演奏する指揮者もいる(演奏者独自の判断により)。”

そうだったのか、、、全曲・1919年版にもあまり通じていないうえに、エンディングにこんな違いがあったとは、、。
というわけで、終曲の部分がどうだったか、もはや全くもって思い出せません、、、もっと予習をきちんとしておくんだった。すみません。

今回の演奏、最後の最後の直前まで、これはすごく良い演奏になるのでは、、?と思ったのですが、、
序奏の部分では、まるで舞台の上にかかっていた靄が段々はけてその奥にカスチェィの魔法の庭園が現れてくるような
ロシアのバレエの物語の多くに独特の、幻想的な雰囲気が感じられたし、
終曲の冒頭のホルンも、どこから音が立ち上がって来たのかと思う位に入りが綺麗で、
フレーズの全てに魔法のような美しい力と幻想的な響きが宿ってました。
NYタイムズの評では木管や弦を褒めて、全然このホルンのソロ(演奏したのは首席のジョセフ・アンダラーさん)についての言及がなかったんですが、
一体何を聴いてるんだ?と思います。
終演後にルイージが真っ先に讃えた奏者は彼だったし、一度のみならず、二度も指名されての称賛でした。
本当にそれに値する素晴らしいソロだったと思います。
とはいえ、確かに木管や弦の演奏も表情が豊かで素晴らしかったですし、
中盤から終曲のホルンのソロまでの感じでこのまま行けば、、と大きく期待が高まってました。
なのに! 終曲ではあと一センチでそんな爆発状態に届く!という高度での飛行が延々続いたかと思うと、
ついにそのまま最後の音まで辿りついてしまったではありませんか!

あれ??ですよ、、まったく、、。

これが最近のルイージのオペラ全幕の指揮で私がしばしば体験する現象そのもの。いけそうでいけない。
レヴァインが元気だった頃は、途中が多少荒れようとも、いつも最後にねじ伏せてオーディエンスに興奮を起こすということが出来ていたのです。
ルイージはその過程ではむしろレヴァインよりも凝ったことをしていたり、緻密なことをしていたり、
それがちゃんと成功してすごく面白いものを聴かせていることが多々あるのに、
なぜかオペラ全幕のクライマックスとかこういった作品のエンディングで、はばたき舞い上がりきれずに終わってしまうことがままあるように思います。
なぜなんでしょうね、、、。

レヴァインといえば、今シーズンのメト・オケ・コンサートの第三弾(来年の5/19)でいよいよ復帰だそうです。
本当に戻って来れるのか、私はまだ懐疑的な部分もあるのですが、
レヴァインが実際に指揮台に現れたなら、それはオーディエンスにとってもかなりエモーショナルな瞬間になることでしょう。
5月までぜひ順調にリハビリをすすめて頂きたいな、と思います。


The MET Orchestra
Fabio Luisi, Conductor

SOFIA GUBAIDULINA In tempus praesens
David Chan, Violin

LUDWIG VAN BEETHOVEN Piano Concerto No. 5 in E-flat Major, Op. 73, "Emperor"
Yefim Bronfman, Piano

IGOR STRAVINSKY The Firebird Suite (1945 version)

Carnegie Hall Stern Auditorium
Second Tier Center Left Front
OFF/OFF/OFF

*** メトロポリタン・オペラ・オーケストラ デイヴィッド・チャン イェフィム・ブロンフマン
MET Orchestra Metropolitan Opera Orchestra David Chan Yefim Bronfman ***

LA CLEMENZA DI TITO (Sat Mtn, Dec 1, 2012)

2012-12-01 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。
(でもこのアラートだけ読まれて本文をスキップされる方に一言だけ、、、
これまで6年にわたってメトのHDにのった公演の中で、私なら最高の一本に数えるであろう素晴らしい舞台でした。
日本での上映はお正月早々のようですが、どうぞお見逃しなきよう、、このHD見なかったら何見るの?です。本当に。)


キャストのうちの誰かがすごい歌を聴かせたり、オケが燃え上がってたり、
作品の良さを引き出す演出であったり(←最近のメトの新演出ものでは滅多にないことですけど)、
こういった条件が単独でもしくは組み合わせで加点法的にポイントを稼いで”良い公演だな。”と感じるものは年に数回あります。

でも、数年に一度レベルの「すごい」公演は、そんな風な単純なロジックで説明することは難しい。
なぜなら複数の理由がお互いに絡み合った結果、単純な加点法で得られる数字以上の大きさに総和が膨らんだり、
それどころか、本来なら欠点に数えられていてもおかしくない、つまり減点になるはずのものが、
あまりの公演の素晴らしさにもはやマイナスにならなくなったり、それどころかある種の魅力=プラスになってしまっていたり、、、
舞台の不思議を解明するのに数学的なロジックは全く通用しないことに気づくわけですが、
今日の『皇帝ティートの慈悲』はまさにそのような公演でした。

『ティート』は実にやっかいな作品だと思います。
今回の鑑賞を控えて『ティート』モードに入るため、まず、チューリッヒの公演のDVDを見てみました。
勘の良い方ならすでにぴんと来られた通り、このDVDはカウフマンが出演しているので購入したようなものなんですけれども、
はっきり言ってこのDVDでいいなと思ったのはカサロヴァのセストだけで、後はカウフマンも含めてダメダメです。
というか、このDVDから入ったら、多分、『ティート』が嫌いになると思いますので、注意が必要です。
でも逆に、このDVDを鑑賞すれば、どこをどう間違うとつまらない『ティート』になってしまうか、というヒントが隠されているので、
そういう意味ではためになります。
カサロヴァはもちろんですが、このDVDの公演に出演しているメイ(ヴィッテリア役)もカウフマン(ティート役)も普通に言ったらとても良い歌手のグループに入ると思います。
でも、この作品には、いや、モーツァルトの作品は全部そうだと言ってよいかもしれませんが、
歌唱の大変さが少しでも感じられると、途端に作品の美しさが損なわれるという、すごい罠があって、
そこが、いつものやり方で”良い歌手”していても、『ティート』をはじめとするモーツァルト作品には全く通用しないのが怖いところなのです。
例えばメイ。彼女はベル・カントのレパートリーなんかすごく巧みに歌う人だと思うのですが、
トップの音色と中音域以下の音色に意外にも結構なギャップがあるということに、このDVDを鑑賞すると気づかされます。
トップの情熱的に絞り出すような音はベル・カント・レップやヴィオレッタのような役ではそれが一種の魅力になったりすることもありますが、
モーツァルトの作品では欠点以外の何者でもない、と思いました。
後、この日の彼女はピッチにかなり問題があって、最後まで完全にセトルダウンすることがないまま公演が終わってしまっているように思うのですが、
それがなかったとしても、上で書いた問題がある限り、作品の良さを引き出す歌唱にはなりえないと思います。
そして、カウフマンの歌唱から溢れるティートの苦悩のあまりの濃さは聴いているうちにこちらが息苦しくなる位です。
もちろん、ティートには支配者ゆえに誰からも理解されない孤独・苦悩という側面もあるのですが、
また、それだけではなく、この作品の最後、彼はセストやヴィッテリアを許すことで、自分の心を自由にし、身軽になっている部分もあって、
孤独・苦悩が最後までムンムン、というのはちょっと違うと思うのです。
これは、やたら陰気臭いジョナサン・ミラーの演出のせいもあると思いますが。
はっきり言って登場人物のどいつもこいつも陰気臭くて、アンニオやセルヴィリアまで何かたくらんでそうな雰囲気に見えてくるほどです。
そして、その演出に呼応するかのようにヴェルザー・メストとチューリッヒ歌劇場のオケの演奏もやっぱりどんよりと重苦しい。
なんか聴き終わった後、”うへー。”と気分が陰鬱になる恐ろしいDVDなんです。
そしてとどめはレチタティーヴォの部分を音楽なしの台詞にしてしまって、さらにその上に大幅なカットを取り入れていることで、
はっきり言って、この作品を初見のオーディエンスには物語をフォローしずらいレベルに達しているのではないか?と思うようなひどさです。
この作品はオケ付きのレチタティーヴォの中に切って捨てるに勿体ない美しい箇所が含まれているので、
はっきり言って、このチューリッヒの公演は『ティート』であって『ティート』でないというような代物です。

あまりに気分がどんよりしたので、今度はCDに目を向けてみる。
マッケラス盤はコジェナー以外はあまりこちらでは名前を聴かない歌手がたくさん含まれていますが、
音色が高音から低音まで統一されていて、軽やかにたやすく歌っている(ように聴こえる)のはチューリッヒよりずっと良いな、と思います。
また、もったりじくじくだったチューリッヒと比べてオケの音運びも軽やか。
だけど。ずっと聴いているうちに、こんなに軽くていいんだろうか、、?という疑念が頭をもたげてきました。
気が付けば、ヴィッテリア役の歌もすごく軽やか、、。
歌詞を知らなければ何か幸せなことを歌っているのかもしれない、と勘違いしそう。
コジェナーは達者には歌っているのですが、今一つセストの苦悩が伝わって来ないし、ティート役のトロストが魅力がないのも問題です。

そう、『ティート』の難しさは登場人物全員の苦悩がオーディエンスの胸を打つレベルにまで高めて表現されながら、
最後の最後にはどんより陰鬱だけで終わらない、きちんとしたリデンプションの感覚も残さなければならない。
そのバランスが歌、演奏、演出の全てに求められる。ここにこの作品の一番の難しさがあると思うのです。



『皇帝ティートの慈悲』はメトで初演されたのが1984/85年シーズンのことで、ポネルの演出はその当時からのもの。
ですので、もうかれこれ28年経っていることになっているのですが、この演出がまず素晴らしいのです。
最近の新演出ものは1、2シーズン上演されると、いや、下手すると初めて舞台に上がった時から手垢のついた古臭い感じがするものがあって、
(今年のオープニングの『愛の妙薬』とか、、)一体あれは何なんだろう、、?と思います。
それに比べてこのポネルの演出はとても28年前のものとは思えない。
もし、今、これが新演出ものです、と言って目の前に現れても、”あ、そうですか。”と思う位、フレッシュな感じがするし、
今回はソリストたちの力もあったのだと思いますが、まるで新しい達磨に目を入れたような力が漲っていました。
嘆きながらべレニーチェを見送るティートの白いかつらが家来の手によってはずされ、地毛の黒髪が現れる、、、
冒頭近くの、たったこれだけのシークエンスで、私達オーディエンスは彼の孤独と無防備さを感じて一瞬にして大きなシンパシーを感じますし、
セストの手によって火が放たれ、ローマが燃え上がるシーンの、ほとんど夢の中にいるような感触は、
セストも含めた全員の呆然自失の感情をオーディエンスにも共有させます。
また、その時の彼らの気持ちにオーディエンスの注意をフォーカスさせるために、
ローマの人々を演じる合唱を、舞台上でなくオケピットの中に置き、彼らの姿はなく歌声だけを舞台に響かせたのも効果的だと思いました。
火事から逃れ、いまだ心の傷のいえない民衆達をバルコニーから見つめながらティートが歌うようにしたのも、
いつの時も人民の心を思うセストの性格を良く反映しているし、
セスト本人の口から自分が裏切られたことを証明され、怒りで彼を牢に送った後、
ティートが皇帝としてセストを処刑するか、友人として彼を助けるかの葛藤に迷い続けるシーンで、
メトの舞台の奥行きを思い切り使用し、舞台奥に牢に繋がれながら座って夜空を見上げるセストの姿は
舞台が終わった後も何度も心に思い出される美しいイメージでした。
また、審判が下る場面で、今度はティートを思い切り舞台の奥に置き、彼と民衆の前に現れたセストとの間に途方もない物理的な距離があるのも、
親しい友人でもあった二人は過去のことで、今やセストにとってティートが星よりも遠い存在になっていることが一瞬にして肌で感じられるシーンです。
とにかく全部書けばそれだけでこの記事の字数制限をヒットしてしまうほどで、
演出がテキストや音楽と一体となっているというのはこういうことを言うのだろう、というような、素晴らしい演出です。
ポネルは1988年に亡くなっているのですが、演出の意図がこうして隅々まで生き続けていて、
そしてそれを十二分に舞台の上に反映させられる実力のある歌手達が今年の公演に揃っているのはなんと幸せなことだろうと思います。
セットも衣装もトラディショナルと言って良いものですが、これをつまらないというオペラファンなんて一体いるんでしょうか?
セットや衣装がトラディショナルなことが退屈につながるわけではない、ということの最たる見本だと思います。



歌手陣に関してはプブリオ役のグラデュスが若干心許ない(特に冒頭。後半少しずつ落ち着いて行っていますが)ですが、
それ以外の歌手は、音域を通して音色が統一されているし、メイやカウフマンに対して私が持った違和感のようなものを感じさせる人は誰一人キャストに入っていません。
全員、『ティート』を歌える歌手たちです。

ティート役を歌ったフィリアノーティは先日のタッカー・ガラの記事でも書いた通り、
手術前の声に完全復活しているわけではなく、それが歌の中に感じられないと言えば嘘になります。
高音は少しピンチ(音がつまんだようになっている)気味だし、音を早く転がす部分では、少しきついのか、若干テンポを落としたりもしていて
(オケの方も明らかに意図的にテンポを落としているので、指揮者と相談の上、決めたものではないかと思います。)
普通だったらそれは”マイナス”になるはずなんですが、
この作品での彼がそうなっていないところが、数学で説明できない舞台の魔法です。
彼は性格的なものもあるんでしょう、音を一つ一つきちんと出すことに決して妥協がありません。
例えば上で書いたようなところも、テンポを重視して、音の回し方の方を妥協したくなる、また実際にする歌手はごまんといます。
だけど、彼はそうしない。ちょっとくらいゆっくりになっても全部きちんと歌う。
このほとんど生真面目といっても良い姿勢が、ティートのパーソナリティとシンクロしていて、これもありかな、、と思えて来ます。
どちらかを選ばなければならないなら(ゆっくり歌うか、音の回し方を妥協するか)、絶対にこちらが正解です。
彼の端正な歌声と歌い口、それからエレガントな舞台姿(あのタッカー・ガラの時の冴えない身のこなしが嘘のようでした)は、
本来、ティートの役にはすごく合っていると思います。
これで彼に本来の声が戻って来ていたならもっとすごいものが出て来ていただろうと思いますが、
そうでなくとも、ティートの心の変化を歌と演技で巧みに表現出来ていた(←書くのは簡単だけど、実際にやるのは大変!)のは素晴らしいことだと思います。
セストを説得しようと抱きしめる場面に、ほんの少し友情以上のものもあるのかな?と思わせるような色気がありましたが、
その部分をあまり強調し過ぎず、オーディエンスに判断を委ねるその演技の匙加減のセンスなんか、彼はこんなに演技が上手だったんだな、と感心しました。



アクロバティックな歌唱という意味ではもっとも大変な役であろうヴィッテリア役のフリットリ。
彼女に関しては以前からその素晴らしい表現・演技のセンスに感心させられ続けて来ましたが、今日も例外ではなかったです。
ヴィッテリア役を最初からフル・スロットルで気性の激しい意地悪女として表現してしまうと、
改心する段階で”んな馬鹿な、、。”ってことになってしまいます。
なので、彼女は特に一幕で、その彼女の意地悪さをコミカルさに転換してしまう。
”本当、面白いまでに意地悪な女だな。”と客を笑わせるような、そういうヴィッテリアの役作りにしているので、
劇場では彼女が出て来る度にオーディエンスがにやりとしたり、実際に笑いがあがったりしますが、
だけど、多分、オーディエンスの誰一人として彼女を本気で憎んでいる人はいない、という状況をさっさと作りあげてしまうのです。
こういうところがフリットリって本当に頭の良い人だな、と感心させられます。
一幕の冒頭なんて、アンニオにまで色目を使っていて、この調子でティートも落とそうとしていたし、セストも落としたんだろうな、と思わせるんですが、
しかし、アンニオと一緒に歌う箇所と、セストと一緒に歌う箇所では、明らかに声と歌の艶を違えていて、
もうそこで、彼女のセストへの愛が後に本物になる萌芽を感じさせる歌になっているんです。さすがだなあ、、と思います。
その部分ではオケもきちんとそれとシンクロした色気のある音を出していて、本当に素敵でした。
しかし、これが段々幕が進んで、セストをティート暗殺に導いたのは自分であることを告白する決心をし、
もう自分は誰とも結婚することもなくただ死を迎えるのだろう、と歌う
"今はもう、花で美しい愛の鎖を Non più di fiori"にがっちりと焦点があたるよう巧みなペースでだんだんとヴィッテリアをシリアスにしていって、
このロンドを歌う頃には、彼女のイノセンスさ・父のための復讐やティートへの嫉妬の裏にある本当の彼女が前面に出るようになっているため、
オーディエンスは彼女に多大なシンパシーを感じることが出来るのです。
ヴィッテリア役は一幕のど意地悪な彼女からここに至るまでの経過の表現が難しいんですが、
フリットリの舞台勘の良さと緻密な歌唱と演技で本当に無理を感じさせない自然な流れになっています。
彼女はここ数年、声の艶・ふくよかさや高音の音の出易さが昔とは違って来ているな、と感じる部分もあって、
今日の公演でも高音が易々と出ているか、といえば決してそうではなく、
あまりぶっ飛ばさないようコントロールに気を配って歌っている感じもありますが、
上述のロンドでの殺人的な低音にも果敢に挑戦していて、
技術のセキュアさ、どんなに激しい感情を歌っていても絶対に下品にならないモーツァルト作品のスタイルを損なわない歌は彼女ならではだな、と思います。



声、歌唱スタイル、演技、すべての面で今日のキャストの中で誰よりもプライムの時期に近いと言えるセスト役のガランチャ。
8月のスカラのヴェルレクで歌声を聴いた時は、少し声がパワーダウンしたような気がしたんですが、
今日の歌声を聴く限り、そんな印象も吹っ飛ぶというもの。
もう、本当に素晴らしいです。言葉で言い尽くせないくらい。
先日のシンガーズ・スタジオで、今回のメトの公演でセスト役を封印すると言っていた彼女ですが、本当に勿体ない、、。
彼女はこれまでHDでは『チェネレントラ』と『カルメン』に出演していて、
それを見て彼女のファンになった方もたくさんいらっしゃるのではないかと思いますが、それですごい!と驚いている場合ではありません。
この『ティート』でのセストに比べたら、あの二つがまだ序章に思える位、それ位今回の彼女の歌と表現はすごいです。
というか、このセスト役は彼女の歌手としての美点と長所をすべて結集したような役だと思うんです、、、
本当しつこいようですが、どうして封印しちゃうんだろう?と思います。
彼女の声は本当に上から下までこれ以上不可能という位統一された音色で、こういった長所は残念ながらカルメンのような役では生かすのが難しい。
でも、セストならば、それを心行くまで満喫することが出来ます。
一幕で歌われる”行きます、でも愛するお人よ Parto, parto"はメゾの人気アリアと言ってもよいと思いますが、
この”行きます”は単なるさようなら~ではなくて、ヴィッテリアにローマに火を放ってティートを暗殺するようほのめかされたセストが、
もう一度、その美しい瞳を見せてくれたなら、あなたのために放火なり暗殺なり何でもしてみせよう、という、
これから火をつけに、人を殺しに行きます(それも皇帝を!)という歌なわけです。
ヴィッテリアのためならなんでもやってしまうセストのやるせない思いをガランチャが
生のオペラの舞台で、これ以上の歌を歌うことが可能と思えない位、美しい歌声と技巧でもって十全に表現しつくしてくれます。

下の映像はスタジオ・セッションでの録音ですが、これと全く同じレベルかもしくはそれ以上にセキュアなテクニックとコントロールで歌いながら、
そこにセストの衣装、表情、演技がくっついてくるのが今日の舞台で、
しかも、この難しい歌を歌いながら、直立どころか、舞台中を相当動き回っているんですから、本当すごいです。



最初のParto, partoという言葉が凛と劇場に鳴り渡る様子とか、
Guardami (”私を見て”)のところなど、優しく歌われる箇所では、
声が一瞬たゆたう様に空中に漂ってそして消えて行くその美しさは聴いていて眩暈がしてくるほどで、
このアリアの間、私は完全金縛り状態でした。
これらの美しさの全てがHDで感じられるようにと祈るばかりです。
このアリアで絡むクラリネットの首席はマクギルさん。
彼は本当に素晴らしい奏者で、演奏自体は素晴らしく、これが歌なしのクラリネットのソロだったら何の不満もないところですが、
私が座っている場所だと若干音が逞しく聴こえて、もうほんとにちょっとだけなんですが柔らかかったらもっと良かったのにな、、というのは贅沢過ぎるでしょうか?

セストとティートが対面する場面の素晴らしさも、筆舌に尽くし難かったです。
ティートに放火と暗殺に至ったのには何か理由があるに違いない、正直に話してみよ、と促され、
もう少しで真相を話してしまいそうになりながらも、ヴィッテリアを裏切ることが出来ずに友情と恋愛の狭間で葛藤し、沈黙を続けるセスト。
そのセストの沈黙の理由を知ることが出来ないティートが苛立ちを募らせ、セストに詰め寄り、
セストが申し開きを出来るのはこれが最後、という緊迫の場面です。

ティート:さあ、話してみよ。今私に何と言おうとした? Parla una volta, che mi volevi dir?
セスト: それは、、私は神の怒りを買い、最早自分の運命に顔向けすることが出来ない、Ch'io son l'oggetto dell'ira degli Dei, che la mia sorte non ho più forza a tollerar
そして、私は自分が裏切り者であることを告白し、自らを悪党と呼び、ch'io stesso traditor mi confesso, empio mi chiamo,
そんな私は死に値する存在であり、それを望むということです! ch'io merito la morte, e ch'io la bramo.

自分の死と愛する皇帝との友情に対する裏切りの確定を意味する言葉を、自分の意志に反して言わなければならなくなった時、
ガランチャのセストは、この最後のe ch'io la bramoを、既に歌ではなく、話し言葉でしかも叫ぶように処理していて、
人によってはモーツァルトの作品でこういうまるでヴェリズモまがいの表現は場違いだというかもしれませんが、
私にはセストの心の痛みと葛藤の大きさがダイレクトに伝わって来る素晴らしい処理の仕方だったと思います。
彼女がこの言葉を叫んだ時、私の周りでも何人もの人が、びくっと体を震わせたり、息を呑んだりしていました。

日本のオーディエンスの方には意外に感じられるかもしれませんが、
ガランチャはこれまでアメリカのオーディエンスにすごくアンダーレートされているところがあって、
このセスト役が来るまで彼女に本当に合った役をメトで歌える機会がなかったことも一つだと思うのですが、
もう一つ、よくこちらのヘッズに言われて来た批判は、”彼女の歌はクールでいつもコントロールが効き過ぎていて熱さがない”というものでした。
でも、今日の歌を聴いたら、それってどこが、、?と思います。
コントロールが効いている、というのはその通りですが、こんな歌を聴いて熱くないと思う人は頭のどこかがおかしい。
多分、この『ティート』のHDでガランチャに対する考えを変えた・変えるオペラ・ファンはたくさんいる・出ることと思います。



セストとヴィッテリアでギャラ代と才能を探すエネルギーを劇場側が使い果たすことなく、
アンニオ役とセルヴィリア役にも良い歌手を置くとどれ位この作品の公演の完成度があがるか、という見本のようだったのが
今日のケイト・リンゼーとルーシー・クロウの二人。

実は私の友人が一週間先に鑑賞していて、
リンゼーのことを”舞台上の動きはロボットかと思う位ひどいけれど、歌は悪くない。というか、すごく良い。”と言っていて、
2009/10年シーズンの『ホフマン物語』を鑑賞した時はそんなに演技がひどい人だとは思わなかったので、”???”と思いながら話を聞いていたんですが、
今日の公演を見て、何となく彼の言いたいことはわかりました。
多分、ズボン役なのを意識するあまり、動きを男の子っぽく、男の子っぽくしているんですが、
女性が男性の動きをするのはやはり簡単なことではなく、彼女はまだそのあたりの引き出しが少ないせいで、似たような動きが連続してしまい、
それがロボットみたいに見えなくはない、ということなんだと思います。
だけど、彼の、彼女の歌に対する評価、こちらは実に正しい!!
私はこのリンゼーと『テンペスト』に出演していたレナードの二人をメトに登場し始めたのが同時期なことなどから、
勝手にライバルに仕立てあげ、どちらが抜けてくるかをずっと楽しみにしていて、
「今観て”聴いておきたいオペラ歌手 ~女性編」の記事を書いた2008年頃からずっとそんなことを言っていたわけですが、
今日のリンゼーの歌を聴いて、いよいよ彼女の方が抜けて来たかもしれないな、、という感触を持ちました。
彼女の声は『ホフマン』の頃ですら、若干高音域の音色が浅い感じがあったんですが、ここの音域に温かさと厚みが出てきたし、
以前みたいな高音域が少し辛そうだな、、という印象がなくなって、伸びやかに音が出るようになっています。
それから表現力、、すごく表現力がつきましたね、彼女は、、、歌に。言葉をすごく大事に丁寧に歌っているのが伝わって来ます。

自分の最愛の女性セルヴィリアをその事情を知らないティートに后として召し取られそうになった時、
アンニオはその運命を、”この帝国にふさわしい美と徳を兼ね備えた人間は彼女しかいないのだから。”と言って受け入れ、彼女を諦めようとする。
なんという究極の愛情表現でしょう!!こんな愛情表現の前では”愛してる”なんて言葉が安っぽく聞こえてしまいます。
このシーンは私の周辺の座席でも男女共に泣いている人多数でした。いや、それはもう、もちろん私も鼻につーんと来てました。
で、そこに続くのが反則の二重唱"ああ、これまでの愛に免じて許してください Ah, perdona al primo affetto
(ちょっとこの邦題は意味が違っているように思うのですが、一応、これがCDで使用されているようですので、、。
実際には、ああ、すでに過去の恋人となったあなたよ、うっかりした言葉を許してください、という意味のはずです。
この直前に彼女を”愛する人よ”と言ってしまったことに対して、もうあなたはお后になる人なのだから、そのように呼んではいけないのだ、という、そういう意味です。)

この二重唱での二人の声と歌唱が、この世のものとは思えないくらい美しくて、もうどうしましょう?って言うくらいのものでした。
この二重唱が終わった時点で、”ああ、今日は来て良かった。これ聴けただけでももう満足。”と思ってしまった位。
もちろん、まだまだすごいのが続いて行ったわけですが。

それから順序が前後しますが、興味深かったのがセストとの小二重唱”どうか、心こもる抱擁を Deh, se piacer mi vuoi”で、
ガランチャとリンゼーの声が一瞬どちらがどっちか区別がつかない位、シンクロしていた点。
この二つの例からもわかる通りリンゼーは重唱で相手と呼吸を合わせて歌うのが本当に上手い人だな、と感心したんですが、
それと同時にこんなにシンクロして聴こえるということは、
もしかすると私が思っている以上に二人の声には似通っている部分があるのかもしれない、、とも思いました。
あと何年か経てばリンゼーもセスト役を歌いこなすようなメゾになっていくのかもしれないな、、と思うと、すごく楽しみです。

セルヴィリア役のルーシー・クロウは私はほとんど名前も知らなくて、当然生で聴くのは初めてだったんですが、
鈴のような凛とした残響のある、本当綺麗な声の持ち主だと思います。
今日の歌では、ものすごく細かくて早いビブラートのある歌い方をしていたので、その辺はもしかすると好みをわけるかもしれませんが、
涙流してるだけじゃ、単なる無駄泣きよ!と、ヴィッテリアに真相の告白を促す
アリア”涙する以外の何事も S'altro che lacrime per lui non tenti"での高音のコントロールもすごくしっかりしていて技術もあるし、
音域の上下で響きの変らない歌声もモーツァルト向きでいいな、と思います。
どうしてこういう人がいるのに、エルトマンみたいなのをメトに呼ぶんだろう、、本当不思議。

最後にオケ。
前から何度も言っているように、メトは古楽オケじゃないし、それを言ったところで始まりません。
古楽オケみたいな敏捷な小回りは絶対にきかないし、彼らと同等のレベルの極めて精巧、繊細なアンサンブルで聴かせることもまず無理でしょう。
ビケットの指揮はそれを承知で、ならメト・オケがこの作品で出来ることは何なのか?というポジティブ志向に変えたのが素晴らしい点だと思います。
コップに半分しか水がない、という人と、半分は入っているな、と考える人の違いというか。
冒頭、少し落ち着かない感じがありましたが、一旦落ち着いた後は歌手たちの歌を後ろからがっちり支え、時にはリードし、
歌手や演出と一体となってドラマを盛り上げる、、、これでいいのだ!です。
最初に話をふったのでそのフォローも一応しておくと、レチタティーヴォは多少のカットがあったようですが物語の理解を損なうものでは全くなく、
もちろん台詞ではなく、ちゃんと音楽も付いていて、それぞれの歌手のレチタティーヴォの処理の上手さ
(特にセストのそれは美しい箇所が山とあります)もまた楽しみの一つとなっています。

そういえば、オペラx3大賞(一年を振り返って最もすばらしかった公演を選び出す記事)をここ何年かお休みしてましたけど、
もうこの『ティート』をここ数年まとめての一位にしてもいいや、、、

作品、歌唱、オケと合唱、演出、すべてがかみあったこんな素晴らしい舞台がHDとして形に残ることを本当に嬉しく思います。

Giuseppe Filianoti (Tito)
Elīna Garanča (Sesto)
Barbara Frittoli (Vitellia)
Kate Lindsey (Annio)
Lucy Crowe (Servilia)
Oren Gradus (Publio)
Toni Rubio (Berenice)

Conductor: Harry Bicket
Production: Jean-Pierre Ponnelle
Set and Costume design: Jean-Pierre Ponnelle
Lighting design: Gil Wechsler
Stage director: Peter McClintock

Dr Circ A Even
OFF

*** モーツァルト 皇帝ティートの慈悲 Mozart La Clemenza di Tito ***

THE SINGERS’STUDIO: ELINA GARANCA

2012-11-28 | メト レクチャー・シリーズ
久しぶりにシンガーズ・スタジオのレポートです。
シンガーズ・スタジオには結構まめに足を運んでいて、これまでに興味深い内容のものがたくさんあったんですけれども、
ブログ休止期間中であったり、メトの公演の感想等を優先しているうちにすっかりご無沙汰モードになってしまいました。

今日のゲストは現在メトの『皇帝ティートの慈悲』にセスト役で出演中のエリーナ・ガランチャ。
インタビュアーはこちらも当ブログではお久しぶりの鉄仮面編集長ことF・ポール・ドリスコル氏です。
(ドリスコル氏はかのOpera Newsの編集長で、どんな歌手からどんな答えが返ってきても、
まるで仮面のように表情を変えずに受け答えすることから、私が勝手に、しかし愛情をこめて鉄仮面と呼ばせて頂いている人物です。)

いつも通り、筆記でとったメモをもとに、要点を会話形式で再構築したものですので、実際の会話の完全な和訳ではない点はご了承ください。
ガランチャはEG、鉄仮面をFPDとします。

(最初にアラーニャと共演した2009/10年シーズンのメトの『カルメン』から、”ハバネラ”の映像が流れる。)

FPD: この時の『カルメン』への出演はかなり間際に決まったものでしたね。
EG: はい。私はそのシーズン、『ホフマン物語』に出演するはずだったんですが、『カルメン』に出演する予定だった歌手
(ゲオルギューのこと。経緯はこちら。)が降板するとか何とかそんなことがあって、
支配人から『カルメン』に出演してもらえないか?という打診がありました。
私の答えは断然NO!!で、2007年にリガで歌ったりしたことはありましたが、まだメトで歌う準備は出来ていないと思っていたんです。
周囲の人間はアメリカはヨーロッパから離れてるし、こっそり歌ってくりゃいい、なんて言ってましたけど、
”アメリカで歌うってことは世界相手に歌うのと同じなのよ。それのどこがこっそりなの!?”って(笑)。
メトからはとりあえず演出家のリチャード・エアと会って話をしてもらうだけでもいいから、と言われて、
”いいえ、絶対会いません!”ってお伝えしたんですけれど、
結局メトの熱意に負けて、本当に会って話しするだけ、、ということで、リチャードと会ったらそれが2時間半のミーティングになってしまったの。
彼のコンセプトを聞いているうちに、今まで自分が考えていたカルメンとはまた違うカルメン像ですごくチャレンジングだと思ったし、
相手役がROHでも共演したロベルト(・アラーニャ)だというのも安心できる要因で、、色んな要素が全部はまって、それでお受けすることにしました。
FPD: 当初気がのらなかった理由はなんですか?あまりに急過ぎて準備の時間が無いと思ったのが理由ですか?
EG: それもあります。後は、カルメン役に対してオーディエンスが持つ一般的なイメージ、黒目・黒髪、、といったものに対して、
私は青い目のブロンドで、そのうえに背も高めだから、ホセ役もテノールが小さい人だと、
「何?カルメンってテノールのお母さん?」って感じになっちゃうんじゃないか、とか、、そういう面での心配もありました。
FPD: あなたはラトヴィアの出身ですよね。いつ自分はメゾ・ソプラノだ、と確信したのでしょう?
EG: 確信したことはなかったかも、、(笑)。
私の母は歌手で歌を教えてもいますが、私の声は高音から低音まで比較的幅広く出るので見極めがなかなか大変でした。
一度など、知り合いから”イタリアに声帯からメゾかソプラノかを判断できるお医者さまがいる。”と聞いて実際に診断してもらったこともあります(笑)
メゾとソプラノを分けるのは単にどれだけ高い声がでるか、低い声が出るか、というのはあまり問題ではなくて、
声の持つカラーと一般的なレジスター(声域)がどこにあるか(=主にどのあたりの音域に声が心地よく座るか)それが決め手になります。
時たま高い音を出すことに何の問題もないとしても、それだけではその人がソプラノである、ということにはならないのです。
PFD: 『アンナ・ボレーナ』のシーモアなど、ベル・カントの役も歌っていますね?
EG: まだ学生の頃、『ノルマ』の"清き女神 Casta Diva”のあまりの旋律の美しさに窓をあけたまま、何度も何度もレコードに合わせて歌っていたら、
”うるさーい!!!”と近所の人に叱られたこともあります。
私はリリック・メゾですので、ロミオ(『カプレーティとモンテッキ』)やアダルジーザ(『ノルマ』)は歌っていて心地が良いのですが、
決してコロラトゥーラ・メゾではないので、アンジェリーナ(『チェネレントラ』)のような役は特別な努力が必要です。
FPD: あなたはメトでアンジェリーナ役を封印しましたし、そういえばセスト役も今回のメトでの公演が最後になるだろうとおっしゃってますね。
メトはあなたの持ち役の墓場かな?
EG: (笑)ほんとに。で、アンジェリーナのような役で必要とされるビブラートはすごく早いものでなければならないのですが、
私の持っているビブラートはそれより若干遅めな感じで、トリルなんかも歌っていてちょっと疲れてしまったりします。
FPD: あなたの歌のイントネーション、それからチューニングは素晴らしいものがあると思うのですが、
これは合唱指揮をされていたお父様の影響も大きいのでしょうか?
EG: ええ、それはあると思います。
FPD: さて、『皇帝ティートの慈悲』ですが、リハーサルに入られたのはいつですか?
EG: 10/26(注:ちなみにティートの初日は11/16でした)でしたが、その後、サンディーなどがあって少しプロセスが遅れましたね。
マエストロ(ハリー・ビケット)とはテンポの調整を十分に行いました。というのは表現のために必要なテンポがある、と私は思うので。
FPD: メトで歌うのはいかがですか?
EG: 大好き!最高です。もうちょっと(自分の住んでいる)ヨーロッパから近ければもっと頻繁に歌いたいくらい。
劇場が巨大ですけど、それに向かって思い切り歌うのはかえってリラックスにつながります。
FPD: 今後、どのような役を歌って行きたいとお考えですか?
EG: アズチェーナとかウルリカを歌うことはなさそうですが(笑)、
子供が生まれてから(注:この時点で1歳2ヶ月だそうです。)声に変化がありましたし、2018/19年あたりにはデリラ役(『サムソンとデリラ』)に挑戦する予定です。
でも、70とまではいかなくとも55歳位までは歌い続けて行きたいので、急がずゆっくりとレパートリーを広げていけばいいかな、と思っています。
FPD: 『トロイ人』のディドーンも予定されていますね?(注:これはベルリン・ドイツ・オペラで2013年の話のようです)
EG: はい、マエストロ・ラニクルの指揮で。この役は声楽的にも音域が広く大変難しい役で、5幕はもうバナナ!(きちがい沙汰を表す英語)って感じですが、
ベルリオーズの声楽作品には他にも素晴らしいものがあるので、それらの作品をより広く紹介する手助けも出来ればいいなと思います。
FPD: リガで勉強されていた頃、演技はどのように身につけられましたか?学校では演技のクラスは充実しているのでしょうか?
というのも、アメリカでは、若いオペラ歌手に対しての演技の教育が、音楽面での教育面に比べてかなり欠けている、という指摘がしばしば聞かれます。
EG: リガの音楽院にも演技のクラスはありましたが、質はあまり良くないですね。あら、こんなこと言っちゃったらまずかったかしら(笑)
私の場合は母がオペラ歌手でしたから、リハーサルや舞台を見たり、そういった経験を通じて演技のこつをつかんでいきました。
私の通っていた学校から道を挟んだところに母のいる劇場があって、ほとんどの時間をどちらかで過ごしていましたね、当時は。
小さい頃、友人が演技の学校に通っていて、普段はジーンズにトレーナーみたいな格好ばかりのその友人が、
舞台の上で王冠と美しい衣装を身につけているのを見て、私もお芝居の勉強をしてみたい!と思ったんです。
それで演劇学校の試験を受けたのですが、見事に落ちまして、
歌だけなら何とかなるかも、、と歌の世界に入ったわけですが、大変な道を選んでしまいました(笑)
FPD: あなたのお母様はオペラ歌手、お父様は合唱団の指揮者、という話は先ほど出ましたが、
このご両親がオペラの世界に関わっているという環境は、あなたにとってプラスでしたか、マイナスでしたか?
EG: もちろん自分の歌を研鑽していくという意味ではプラスだったと思います。
しかし、私の母はリガではちょっとした有名人でしたので、私が歌を勉強し出した頃は、
”なかなか良い声をしているけれど、全く音楽性に欠ける。””母親とは違うな。”というようなことをいつも言われていました。
まだ勉強途中の若い歌手にとって、このような自信をくじく言葉を聞くのは大変辛いものです。
私はオーディションを受けて、ドイツの小さな劇場でデビューを果たしたのですが、
このオーディションを受けに行くときに母親から”準備が出来ていない。”と大反対されました。
けれども、私の方も”実際に舞台に立ってみなくて、どうしてそれがわかるの。”と大喧嘩して半分家を飛び出すような感じでドイツに向かったんです。
ドイツ語も話せなくて、ビザなどの書類を申請する時も、ラトヴィア語/ドイツ語の辞書と首っ引きでなんとか記入し終えた、という状態でした。
でも受かった。そして、私のキャリアはそこから始まったのです。
ただ、今の私がその当時の私を目の前にしたなら、母と全く同じことを言うでしょうね。
ロシアの影響が色濃い国からドイツに行くのは大変でしたし、私の場合は本当に色んなことが幸運な方向に進みましたが、
そうならなくても、何の不思議もありませんでしたから。
FPD:(ここで2005年のウィーン国立歌劇場『ウェルテル』の公演からの映像が流れる。)
これはいわゆるトラディショナルな18世紀的な舞台とは全く違う演出(注:セルバン演出)ですね。
シャーロット役のアップタイトさがどことなくヒッチコック的っぽく、面白く見ました。
さて、ここからはオンラインで寄せられたものと皆さんの質問のコーナーに入りたいと思います。
”好きな役は?”
EG: シャーロット役は好きな役の一つですが、これは年齢によっても変っていくと思いますね。
さきほどの映像にしても2005年ということは私も今より7歳若いわけですし、、(笑)
HDはプレッシャーが大きいし、歳をとるほど大変さが身にしみます。
顔の細かいパーツが良く見えるのもそうですし、歩く姿勢とか、、、
時々HDの映像を後で見て自分の顔に”わっ!!”と驚くこともあります。
もちろんHDに関してはリハーサルが多ければ多いほどリラックスしてのぞめます。
FPD: HDデビューは、、、
EG: メトの『チェネレントラ』です。(注:前述の映像はHDではなく、DVD化用の映像だったのだと思われる。)
あの時を境にして突然世界中にファンが増えた感じがしますね。メキシコのファンからメッセージをもらうようになったり、、。
さっきの『ウェルテル』の時は”小屋”(注:あらあら、ガランチャったらウィーン歌劇場のことをそんな風に、、)って感じでしたけど、
メトは劇場自体も巨大ですし、、
FPD: 現在メトのHDは55カ国に配信されているようですよ。
EG: さらにプレッシャーをかけてくれてほんとありがとう(笑)
(注:このシンガーズ・スタジオから約5日後に『皇帝ティートの慈悲』のHDが予定されているのでした。)
FPD: "歌うのが難しい言語がもしあれば教えてください。”
EG: ラトヴィアのオペラというのがあったとしたら、多分、それでしょうね。ラトヴィアの言葉は喉の奥深くを使う音が多いので、歌いにくいです。
FPD: ”役の準備はどのように行いますか?”
EG: 2年半~3年位前からスコアを見始め、リブレットを読み込み、関連する本に目を通したり、DVD等を鑑賞したりします。
ただ、私はあまりがっちりと役を作りこむことはせず、必ず演出家のために少し余地を残しておくようにします。
オペラというのはみんなで協力して作り上げていくもので、自分にとっての真実が他の人の真実とは限りませんから。
ですから、自分の解釈と違う解釈も歓迎しますが、その代わり、そこに”それがなぜか?”というきちんとした裏付けがあることが条件です。
あと、役を固めすぎると、一つの演出から別の演出に移った時に身動きがとれなくなるような感じがして、
それもあまりがっちりと固めない理由の一つですね。
FPD: ”あなたが演じるズボン役の中でボーイフレンドとして一番理想的なのは誰ですか?”
EG: これはまた随分パーソナルな質問ね(笑)私がどの女性役に自分を置いて考えるかによっても違うんじゃないかしら(笑)
若い女の子だったらそう思わないかもしれないけど、年増な女性ならオクタヴィアンがいいでしょ?違う?(笑)
FPD: そういえばあなたのご主人も指揮者(注:カレル・マルク・チチョン)でいらっしゃいますよね?
EG: ええ、私の朝の様子で彼にはその日の夜の公演の内容がどんな風になるか大体ばれちゃう(笑)。
ただ、彼は今は段々オペラの指揮を減らして、演奏会などを増やすようにしています。
というのも、オペラは一つのランで6週間から8週間同じ場所に拘束されるので、
彼と私の両方が別々のオペラに関わると、一緒に過ごせる時間が本当に少なくなってしまうものですから、、。
FPD: カーネギー・ホールでのリサイタル(2013年4月6日)も予定されていますね。
EG:リサイタルで歌う時はオペラの新演出のために準備するのと同じ位のエネルギーを消費します。
母の仕事のせいもあり、レパートリーはたくさんあるので、それは問題ではないのですが、色々テーマを考えてセットリストを作るので、、。
今度のリサイタルはザルツブルクと同じで、私の大好きなシューマンの作品、それから少しコンテンポラリーな彩りを添えるためにベルク、
そして、R.シュトラウスの歌曲、という構成になります。シュトラウスの作品は私にとっては歌いやすいですね。
FPD: テーマはどのように選ぶのですか?
EG: その時にいる状況、その時に最も大切に感じる事柄、自然、対人関係、、色々ですね。
私はオペラの公演の隙間にリサイタルをつめこむようなやり方はあまり好きでないので、
オペラの公演とはまた別に、リサイタルのためのまとまった時間を取るようにしています。
FPD:”お子さんにはどのような子守唄を歌っていますか?”
EG: 静かになるものなら何でも(笑)。ただ、うちの子は言葉があるものよりも交響曲の方が好きみたいなので、
私が歌う時は言葉でなく、ハミングで歌うようにしています。
FPD: お子さんに音楽に関わる職業についてほしいですか?
EG: 音楽と関わりのあるものに興味をしめしてくれたらいいな、とは思います。
誰もうちの子は素晴らしい!と勘違いしているもので、私もそれにもれず言うと(笑)、
うちの子供はリズム感が良くて、ラテン系の音楽なんかをかけると器用にそれに合わせて踊ったりしているのでダンスとか向いているかな、と思っています。
オペラ歌手?それはすすめません。
特に今のオペラ界の状況では。たった15~20年前とくらべてもオペラの世界は様変わりしました。
このままで行ったらあの子が大きくなる頃には、オペラ歌手にとってはとても過酷な状況になっていると思います。
レディ・ガガみたいな感じの歌手になりたいならいいかもしれませんけど(笑)
FPD: 今オペラの世界の変化について言及がありましたが、もうちょっと詳しく説明していただけますか?どこがどう変ったと思われますか?
EG: 以前はもっと時間がありました。こちらが成長し、進化していける時間が。
だけど、今ではコンクールで一位をとれなかったらもうだめだ、とか、
25歳になる頃までに『椿姫』で舞台に立てなかったらアウト!とか、とにかく性急に判断し過ぎです。
そして、このように一度見限られた歌手には二度とチャンスが回ってこない。
それに残った歌手は歌手で劇場に次々とあれを歌え、これを歌え、と要求されるのです。
FPD: ”今でも舞台に立つ時には緊張しますか?それに対処するにはどのようなことをしていますか?”
EG: (最初の質問に、そんなのなくなると思う?という様子でくるりと目玉をまわす。)もちろん。
以前、プラシド(・ドミンゴ)と共演した時にすごく緊張していたら、彼にこう言われたの。
”ハニー、そうやって考えれば考えるほど、緊張がひどくなって行くんだよ。”って。
舞台に立つ身である以上、緊張から完全に解放されることはありません。
だから、その恐怖とどう向き合っていくか、その方法を考えることの方が大事だと思います。
でもその緊張が完全になくなってしまったら、それはそれでエモーションレスで退屈な歌しか歌えなくなってしまうのではないかしら?
FPD: ”ズボン役を演じるために特別なことはしますか?”
EG: とにかく人を観察することかしら。私はとにかく人のくせ、仕草を観察するのが大好きなんです。
例えばめがね一つをあげる仕草にしても、こういう風に(とひとさし指でブリッジを押す仕草)する人とか、
こういう風(フレームを横から手で摑んであげる仕草)にする人、
それから座るときも、こういう風に(と立ち上がって、どさっ!と音を立てて座る)座る男性や、
こういう風に(とすっとエレガントに座る)座る人、色々ですよね。
以前ウィーンで唇の左から右に舌をつーっと動かすのが癖の人と会ったことがあって、面白くて目が離せなかったということもありました。
歌手が舞台に一歩出たその瞬間、どのような様子で舞台に出て行くかで、オーディエンスのその役への印象が決まってしまいます。
だから、口を開いて歌う前から、あらゆる機会を用いて役の性格を表現しなければならないのです。
FPD: 私からの質問ですが、『皇帝ティートの慈悲』はアンニオ役もセスト役もメゾですよね。混乱しませんか?
EG: いいえ。この二人はかなり違いますから。レポレッロとドン・ジョヴァンニの方がずっと近いと思いますよ。
FPD: これからのキャリアでどんなことを成し遂げたいですか?
EG: 以前に比べればキャリアが開けてレパートリーの選択など、自由度があがったのは良いことだと思うのですが、
自由があるからこそ、”じゃ、自分は何がしたいの?どういう風な道に向かって行きたいの?”という難しい問いに向き合っていかなければなりません。
クリスタ・ルートヴィヒはメゾでありながらソプラノの音域まで統一した音色を持っていて、
私と似通った部分もあるため、目標にもしている歌手なのですが、
その彼女とお話する機会があった時、現役だった頃はクライバーやカラヤンといった指揮者が自分のところにやってきて、
この役は君にあっていると思うから歌ってみなさい、と言って、実際そのための指導も惜しまなかった、と語っていました。
その話を聞いてすごくうらやましいな、と思いましたね。
自分からこのレパートリー、この役を歌いたい、というのもいいですが、
”君はこの役をやるといいと思うよ。やってごらんなさい。”と、そういった挑戦を歌手にしてくれるような存在が今のオペラの世界にいたらなあ、と思います。


The Metropolitan Opera Guild
The Singers' Studio: Elīna Garanča with F. Paul Driscoll

Opera Learning Center, Rose Building

*** The Singers' Studio: Elīna Garanča シンガーズ・スタジオ エリーナ・ガランチャ  ***

2012 RICHARD TUCKER GALA (Sun, Nov 11, 2012) 後編

2012-11-11 | 演奏会・リサイタル
前編から続いては、

JACQUES OFFENBACH Septet from Les Contes des Hoffmann (Giuseppe Filianoti, Tenor / Jamie Barton, Mezzo-soprano /
Tara Erraught, Mezzo-Soprano / Ildar Abdrazakov, Bass / Andrew Stenson, Tenor / Brandon Cedel, Bass-baritone / New York Choral Society)

フィリアノーティとアブドラザコフは2010/11年シーズンのメトの『ホフマン物語』で共演しましたので、
そのあたりも選曲の理由であると思われる『ホフマン』の七重唱
(プログラムが6人+合唱で7重唱という表記を採用していますが、一般的に六重唱と呼ばれているのと同じ
"Hélas! Mon coeur s'égare encore! ああ、僕の心はまたも乱れる"です)。
ヴェネチアの幕、なかでもこの重唱は『ホフマン』全幕の中で私も大好きな箇所なんですけれど、この曲はあんまりガラには向かないのかもしれないな、、。
同時に歌う歌手の数が多くて、その上にオケが結構厚いので、ガラの主な楽しみの一つである歌手一人一人の個性や力を存分に楽しむことが難しい、
というのが一つ理由にあるかもしれません。
また、重唱とはいえ、やはり中心にはホフマンがいるべきだと思うのですが、バートンのパワフルな声が完全にフィリアノーティの、
いや、それを言ったら他の全部のソリストを凌駕してしまっていて、
こういうレイヤーの多い重唱こそ、バランスを調節するための綿密なリハーサルが大切だと思うのですが、
多分、このガラのリハーサルでそこまでする時間はないんだろうな、と思います。
それから曲としても、ホフマンの恋しても恋しても駄目、、というブルーな気分がこちらに乗り移ってきて、なんか私までアンニュイになって来る、、。
ここまでこちらをアンニュイな気分にさせた以上、落とし前をつけてもらいたくなる、つまり、作品の最後まで聴きたくなってしまいます。
悲しみとか復讐、怒りなど、激しいエモーションに昇華されて完結されている作品(例えば、今日のガラの終盤で演奏される『椿姫』の重唱など)と違って、
この、なんとなくじくじく、、と尾を引く不思議な感覚がこの『ホフマン』という作品の独特なところ・全幕作品として面白いところなのですが、
それゆえに、ガラにはあまり向いていない作品だなと思います。

 PABLO ZIEGLER “Rojotango” (Erwin Schrott, Bass-baritone / New York Choral Society)

シュロットにとって”ロホタンゴ”はオペラのレパートリーよりむしろ評価が良い位のトレード・マーク的な曲だし、
取り上げないわけには行かなかったのかもしれませんが、実は今日のガラの問題児で、リハーサル中からかなり紆余曲折があったと聞いています。
まず、彼と共にバンドネオンの奏者が舞台に登場して来ました。
シュロットとしてはこういう特殊なセッティングも観客の期待を高めるだろう、と期待していたのかもしれません。
確かにガラにこういうものを持ち込むのはサービス精神の顕れ、ということで、ポジティブに捉えるべきなんでしょうが、なぜか準備にもたもたもたもた、、、
他の人はわかりませんが、私は結構せっかちなものですから、これだけで”うむむむむ、、。
こういう特別なことをしてオーディエンスを待たせるのなら、よっぽど良い歌聴かせてもらわないと、、。”と思ってしまいます。
メト・オケがこれまで演奏したことのない、オペラ/クラシック音楽の範疇外の曲というだけでも、若干のディスアドバンテージがあるのに、
その上に最初は金管楽器のパートも加えた編成での伴奏にしようとしていたそうで、
この金管を含めるか、含めないか、そして更には曲自体を演奏するか、しないか、がもめる原因になっていたようです。
彼のこの曲の歌唱はYouTubeにもいくつかあがっていますが、ドレスデン(ティーレマン指揮のタンゴ、、)でも
ヴァルトビューネでも金管は演奏していないので、NYスペシャル・バージョン??
結局曲そのものは演奏されることになったものの、スペシャル・バージョンではなく、普通に金管なしの演奏だったんですが、一聴して思ったこと。
”これにブラスを加えようと思っていたなんて、正気の沙汰じゃない、、、。”
彼がこの曲を歌うなら、小さな会場で小さな編成の演奏をバックにするか、そうでなければマイクを通して歌う、このいずれかでないと全く駄目だと思います。
エイヴリー・フィッシャー・ホールでどこに座っている観客の耳にも十分満たすほどの音を彼が出せる音域で曲が書かれていないうえに、
金管抜きでさえ、普通のオケの編成だと彼の声が十分かき消されてしまう位の感じなので、
私はホール平土間の真ん中から少し後ろに寄った正面の席で聴いてましたが、曲の半分以上、彼の声が良く聴こえなかったです。
これに金管のせてどうしようってんだか、、、。
これまでタッカー・ガラだけに限っても、ミュージカルとかオペレッタからの曲とか、オペラのレパートリーでない曲でも優れた歌唱を聴いていますし、
オペラ歌手がオペラ以外の曲を歌っちゃいかん!とは全く思っていませんが、
はっきり言って、オペラよりタンゴの方が好きならタッカー・ガラでなくタンゴ歌手のリサイタルに行ってます。
ガラの場でオペラ以外の曲を取り上げるなら、聴けてよかった!と思うような何かをオーディエンスにデリバーしてくれないと、、、
そういう意味で、オペラ歌手がオペラ以外のレパートリーのものを歌うということは、
オペラの曲を歌うよりもある意味チャレンジングである、といえるんじゃないでしょうか。そして、シュロットはその挑戦に失敗した、、、そういう風に私は感じました。

 PIETRO MASCAGNI Cherry duet ("Suzel, buon di") from “L’Amico Fritz” (Ailyn Perez, Soprano / Stephen Costello, Tenor)

前編に”ペレスを何度か全幕で聴いている”と書きましたが、それはそもそも彼女がコステロと夫婦だからなのでした。
そう、私は2007/8年シーズンにコステロがメト・デビューして以来、いつも熱狂的だったとはとても言えませんが、
ゆるいながらもコンスタントに彼をずっとウォッチして来ました。
メトでAキャストの脇役・準主役で登場した公演はもちろん(2007/8年シーズン『ルチア』のアルトゥーロ、2011/2012年シーズン『アンナ・ボレーナ』のパーシー)、
現在の段階では彼が主役でメトの舞台に立ったたった唯一の公演(2007/8年の『ルチア』のエドガルド)も鑑賞しましたし、
あげくの果てにはモントリオール(2008/9年の『ルチア』のエドガルド)やら
フィラデルフィア(同年の『ジャンニ・スキッキ』のリヌッチョやら2010/11年の『ロミオとジュリエット』)、
そして全幕以外にもガラ(彼がタッカー賞を受賞した2009年のタッカー・ガラジョルダーニ・ファンデーション・ガラ)、
そして、ブログ休止時期だったため記事にはしてませんが、今年のシーズン前の夏にもWQXRのイベントで彼の歌声を聴きました。
いつも熱狂的だったわけではないと言いながら、なぜこうも長きに渡って彼をウォッチすることになってしまったかというと、
彼の歌唱の出来にはフラクチュエーションが大きくて”ええ??”と思わされることもあるのですが、
良い時の彼の歌にはダイヤモンドの原石のような輝きがあり、どちらの彼が本当なのかを見定めようとしているうちに、
気がつけば5年経っていた、、という感じなのです。
今も、正直、世界の主要歌劇場で長きに渡って頻繁に主役を張れるオペラ歌手になれるか、そうでないか、についてははっきりとした確信をもてずにいます。
もちろん、成功して欲しいと願ってはいますが。
で、今日のタッカー・ガラの彼は、、、ダイヤモンドの原石の方でした。
こういう歌を合間合間に出して来るので、5年もウォッチする羽目に陥るんですよね、、、。
彼は今回ペレスのサポートに徹するためか、ソロのアリアは一曲も歌わず、全てペレスとの重唱・共演だったんですが、
この環境も彼にとっては力を出しやすい環境だったのかもしれません。
彼は前からしばしばこのブログで書いている通り、オペラ歌手としては少し精神面が弱いのと(あくまでオペラ歌手として、です。
舞台に立ってオーディエンスの目の前で歌を歌う、それだけでもものすごく強い精神力が求められますから、、。)
演技があまり上手くなく、というか、はっきり言ってほとんどでくの坊的で、
それどころかただそこに立つ、歩く、というシンプルな動作ですら、昨日地球に誕生したんだろうか、、、?と思わせるほど不器用な動きになっている時があって、
こういった面ではすべて器用にこなす妻のペレスに100万光年水をあけられてます。
だけど、今日のような、自分ではなく奥さんの方が(今年のタッカー賞受賞者として)より主役の場にいて、
先輩受賞者として共演で彼女を盛り立てる、というこの構図が、自然に彼のベストを引き出す環境になっていたのだと思います。
彼は最近レパートリーによって意識的に本来持っている声以上のものを無理に作っているような、
イメージ的にはステロイドを使って筋肉を盛り立てているのと似た不自然な声を出すことがあって、それは絶対に止めて欲しい!とずっと思っているのですが、
今日の彼の歌唱は、このマスカーニの『友人フリッツ』からのさくらんぼの二重唱にせよ、後の『椿姫』からの抜粋にせよ、
余分な肩の力が抜けた、彼の本来の声に近い非常に自然な発声で、”ああ、今日はこれは良い歌を聴ける!”と数フレーズ歌った時点で思いました。
今日の発声を聴けばわかる通り、決して彼の声は大きくはありません。でも、それでいいのです。
彼の声が持っている突出して美しいティンバーは劇場で際立った音を立てるので、別に声が特大でなくったって、十分に客の耳に届きます。
その点は、今日の『椿姫』の第三幕からの抜粋で十分に証明されていたと思います。
あの場、ソリスト全員+合唱+オケがフルで鳴っていても、彼が歌っている旋律はアンサンブルの中にはっきりと聴き取ることが出来ました。
私は実は彼がペレスとあまり”夫婦共演”ということにこだわらない方がいい、と思っていて、それはペレスが本領を発揮できるレパートリーと、
彼が本領を発揮できるレパートリーが微妙にずれており、今のところ、彼が彼女の方に合わせることで損することはあっても得することは何もないと思うからです。
彼女は終盤の『椿姫』の”乾杯の歌”からもわかる通り、特にアジリティに優れているわけではなく、コロラトゥーラの技術に卓越したものがあるわけでもありません。
むしろ、それらの能力が問われる度合いがより低く、彼女の声質、ステージ・プレゼンス、ナチュラルな演技力と組み合わさってより力を発揮できるリリコ寄りの役柄の方が向いていると思います。
逆にコステロは超高音は最早得意でなくなって来ているようなんですが、芝居で鈍臭い割りには歌は結構器用で、
装飾的な音も意外とそつなくこなすので、ベル・カントの役をベースに、
徐々にフランスもののリリコの役を加えていく位のペースがいいのではないかと思っているんですが、
彼女のペースに合わせ、夫婦共演できるように、ということなんでしょうか、、、『ラ・ボエーム』なんかを全幕で一緒に歌うようになっていて、
このあたりのレパートリーになると突然に先に書いたような本来の発声ではない”無理”を彼の声の中に感じます。
精神的なものもあるのかもしれません。レパートリーが違うと歌唱が違うギアに入ってしまうような感じです。
さくらんぼの二重唱でその彼の悪い癖が出なければいいけれど、、とちょっと心配してましたが、全くの杞憂でした。
『友人フリッツ』は上演の頻度から言ってスタンダード・レパートリーとはとても言えず、どういうテノールが歌うのが理想なのか、
まだ私にはぴんと来ていないところもあって、もしかすると、コステロはこの役を歌える一番軽い方の端に引っかかっているのかもしれませんし、
並んで舞台に立っていると、なんかどちらかというとペレスの方が女地主!という雰囲気がしないでもないですが、
自分の声楽的な持ち味を壊すことがないまま、歌い通してみせましたし、
フリッツとスゼルが急速に惹かれていく様子がきちんと描写されていて、このままオペラの全幕の舞台にのっても、全く違和感がないくらいにロマンティックな歌唱でした。
それに最後に二人が一緒に出す音、これをコステロがピアノで響かせたんですが、
ペレスの声にふわっと乗っているような、まるでフリッツがそっとスゼルの肩に手を回している様子が音になったような感じで、
ホールに漂った音の響きのそれは美しかったこと!
二人がそれまでに表現してきたドラマと相まって独特の余韻が残りました。今日のガラで最も楽しんだ演目の一つです。

 GIOACHINO ROSSINI “La calunnia è un venticello” from Il Barbiere di Siviglia (Ildar Abdrazakov, Bass)

アブドラザコフの歌唱の良いところと悪いところはコインの裏表みたいな感じだなあ、、といつも思います。
彼の歌はいつもきちんとしていて、特にあげつらっていうほどの明らかな欠点は何もないのに、
じゃ、ものすごく心に訴えて来たりだとか、大いに楽しませてもらえた、とか、そういうガツーンと来るものがあるか?というと、それもあまりない感じ。
簡単に言うと、彼の経歴とか今いるポジションの割りに、歌にガストが欠けている感じがしてしまうのです。
なので全幕を任せるには安心できる歌手だけど、こういうガラでは実力のある割りに影が薄い、、、ってことになりがちです。
特にこの『セヴィリヤの理髪師』の“中傷とはそよ風のようなもの”は、
歌唱のスキルも必要ですが同等にオーディエンスが思わず笑ってしまうような、そういうパンチ=ガストが重要な曲です。
面白くない上手いだけの中傷の歌なんて、、、ねぇ、、、。

 UMBERTO GIORDANO “Nemico della patria” from Andrea Chenier (Quinn Kelsey, Baritone)

前編に書いた通り、ケルシーにはこれからメジャーな役で活躍の場を広げて欲しいバリトンとして非常に期待しているんです。
彼のオフィシャルサイトでいくつか音源が聴けますが、
特にイタリアン・レップで感じさせるスケールの大きさと歌唱の思い切りの良さは若手らしからぬものがあると思います。
なので、彼の『アンドレア・シェニエ』からのアリア“国を裏切る者”の歌唱には、ちょっと私の方が高い期待を掲げすぎたのかもしれません。
このアリアは歌っているバリトンが確固とした技術をベースに魂を込められれば聴いていて本当にエキサイティングな名曲になり得るのですが、
ヴェリズモのレパートリーって、ただ情熱的に歌えばいいだけではなくて、しっかりした基礎がある人が歌ってこそ良い歌になる、と思うのです。
この”国を裏切る者”だけ上手く歌えます!という変なバリトンってまずいないと思うんですよね、、、
むしろ、この役での歌唱の良し悪しは、ヴェルディのバリトン・ロールでどれだけ良い歌を歌えるか、ということとすごく比例しているように思います。
ケルシーのヴェルディ・レップでの歌唱はすごくポテンシャルを感じますので私は高く評価してますけれど、
彼はまだまだ若いし、これから磨いて行く点もいっぱいあるとも感じます。
そんな段階で、タッカー・ガラのような場でジェラールのアリアに挑戦するのは、ちょっと背伸びだったんじゃないかな、、
歌に彼が引きずりまわされている感じがしました。
同じ”ちょっと若いかな。”と印象を与えてしまうリスクを犯すなら、リゴレットの方が全然良かっただろうに、、と思います。

 GIUSEPPE VERDI “Vieni t’affreta” from Macbeth (Liudmyla Monastyrska, Soprano)

モナスティルスカに関してはこのブログにコメント頂く方々からもすごく良い前評判を聞いており、
もうすぐメトで始まる『アイーダ』のタイトル・ロールでの歌唱も楽しみにしているんですが、
彼女が今回のガラでマクベス夫人のアリアを披露してくれると知って、むしろ私としてはこちらへの興味の方が大きかったかもしれません。
アイーダもマクベス夫人も本当に優れたアーティスティックな歌を歌おうと思ったらどちらも大変に難しい役で甲乙付け難いですが、
ただ、声質と歌唱技術に話を限った場合、マクベス夫人の方が歌える歌手が限られるというのもまた否定できない事実であり、
昨シーズンにメトの『マクベス』全幕公演で、耳を覆いたくなるほどひどいナディア・ミヒャエルの夫人を聴いた後では、
(そして、それに負けず劣らずハンプソンのマクベスがひどいのであった、、、。
この二人で寄ってたかられた日には、もはやオーディエンス虐待のレベルと言ってよいと思います。)
まともに夫人を歌える歌手が世界のどこかに居るかもしれない!というだけで、小躍りしたくなるニュースです。
で、そのモナスティルスカの“早く来て、あかりを”。
まだ歌はほんの少し荒いところがあって、コロラトゥーラの技術の細かい点がうやむやになっているなど、多少の問題はありますが、
確かに間違いなくマクベス夫人を歌える声とベースになる力は持っています。
声の迫力もそうですが、高音域での音の鋭さもこの役に望ましいものがあります。
また、この難曲を歌うに当たってもすごく落ち着いていて、上で書いたような小さな技術でのミスがあっても、すっと元に戻してしまう冷静さがあるのにも感心しました。
今のオペラの世界はちょっと難しいレパートリーを歌えそうな人材がいると、すぐに表に引っ張り出して来て、
世界のあちこちで歌わせることになってしまうという問題があって、
こういう役はほんのちょっとのディテール、細かい部分がパフォーマンスの印象に大きな違いを残すので、
あとほんの少しだけ歌を磨いてから出てきたら、もっとすごい印象を残せるのにな、、と感じる部分がなくはなく、
彼女の歌を的確に磨くお手伝いを出来るコーチとか指揮者に恵まれればもっと歌が良くなりそうなのにな、と思います。
例えば、手紙を読むところに”間”が感じられなくて、手紙を取り出して読む演技も含めて、
なんだかスーパーのレシートから品物の個数と単価を読み上げているようなフラットさを感じたり、
フレーズの構築の仕方が未熟なために、音符が若干おろそかになっている部分があったりとか、
基本的な力があるのは十分感じられるので、ちょっとしたアドバイスで歌がもっともっと良くなる可能性があるのに、、とじれったく思います。
それにしても、こんなソプラノが出て来ている以上、メトがミヒャエルを夫人役に再キャストする言い訳は最早存在しなくなったのは、実に喜ばしいことです。

 GIUSEPPE VERDI “Va pensiero” from Nabucco (New York Choral Society)

つい最近の記事のコメント欄で話題にのぼったばかりですが、
NYコーラル・ソサエティの合唱はほんと毎年タッカー・ガラの日が来るたびに”どうにかならないのかしら、、。”と思わせられます。
ヨーロッパの優秀な歌劇場付きの合唱団に比べれば、アンサンブル等で劣っている面はありますが、
まだメトの合唱団は基本的な音は出来ている、という点で他のアメリカの合唱団体よりずっとましです。
NYコーラル・ソサエティの、まるで一日中ご飯食べてないの?と聞きたくなるような腑抜けサウンドで
『ナブッコ』の“行け、我が想いよ、金色の翼にのって”を聴いてどうなるってんでしょう?こんなプログラム、ない方がまし!

 NIKOKAI RIMSKY-KORSAKOV "Zachem ty? Znat' nye lyubish" from The Tsar’s Bride (Olga Borodina, Mezzo-soprano / Dmitri Hvorostovsky, Baritone)

リムスキー・コルサコフの『皇帝の花嫁』より”なぜお前がここに?”。
ボロディナとホロストフスキーは"Arias/Duets"というCDを一緒に出しているのですが、この二重唱も含まれていて、
また、その時の指揮がパトリック・サマーズだったんですね。
そのあたりも関係あるんでしょうか、『皇帝の花嫁』はまだメトでは一度も舞台にかかったことがないと思うのですが、
そんな風に思えない位、二人の歌唱もオケの演奏も充実していて、『友人フリッツ』の二重唱と並んで最も今日聴きごたえがあった演目です。
『友人フリッツ』の、思わずこちらの顔に微笑みが浮かんでくるような爽やかな高音パート(ソプラノ&テノール)の若い二人による二重唱とは対象的に、
こちらは、ただごとでない緊迫感でもって怒り、訴え、嘆願するボロディナとそれを氷のような冷たさで突っぱねるホロストフスキー、、と、
ドラマティックさと背中が凍るような冷ややかさが混在した大変にエモーショナルなベテラン低音パート(メゾ&バリトン)による二重唱でした。
前編に書いた通り、今回のガラで最も私の注目を惹いたのは、ボロディナの女の弱さの表現にさらに一層深みが増した点で、
デリラのアリアではそれを二重の構造に使っているのか、もしかすると本気でサムソンに惚れそうになっているのか、、
その微妙な線を綱渡りする手段として巧みに使っていたのに対し、
こちらの二重唱はもう何もかもなげうって、ストレートに女の弱さ、かっこ悪さを表現できる作品でしたので、それはもうすごいド迫力でした。
ついホロストフスキーに”そんなに冷たくしなくてもいいんじゃない、、?”と突っ込みたくなるほどです。
二重唱とは言え、歌うパートの分量からすると圧倒的にメゾの方が多いのですが、ホロストフスキーもボロディナの気迫に感化されたか、
まるで妖気が漂っているような冷徹さを歌と演技で表現していて、オーディエンスの息が止るような歌唱・演奏でした。
この二人が含まれたキャストの『皇帝の花嫁』をぜひメトで見てみたい!!!と強く思いました。

 GEORGES BIZET "Au fond du temple saint" from Les Pêcheurs de Perles (Marcello Giordani, Tenor / Gerald Finley, Baritone)

前編で触れた通り、当初は同じジョルダーニ&フィンリーのコンビで『オテロ』の二重唱”大理石のような空にかけて誓う”が予定されていたのですが、
直前にプログラムが変更になって、ビゼーの『真珠とり』の二重唱”聖なる寺院の奥に”に差し替えられました。
『真珠とり』の二重唱と言えば、2007年のタッカー・ガラのポレンザーニとキーンリーサイドの二人の歌唱が今でも鮮明に耳に残っています。
一時期はYouTubeにその時の映像もあがっていたんですけれど、今はまたなくなってしまっているので紹介できないのが残念です。
この曲は別名友情の二重唱と言われる位ですので、テノールとバリトンの声の相性、それからどれ位二人の歌唱の呼吸がぴったり合っているか、が大事で、
そこがそれぞれの歌手の思いが別方向を向いているタイプの二重唱(オテロの二重唱なんかはその代表例)とか、
1人1人の歌手が良い歌唱を繰り広げていればそれなりに結果が出るタイプの二重唱とは違う難しい点です。
どちらかの歌手のエゴが少しでもあらわになると、曲の美しさがぶち壊しになってしまうので。
その点で、ポレンザーニとキーンリーサイドの2007年の歌唱は声の組み合わせの面で理想的であったのみならず、
二人の歌唱への姿勢と呼吸が本当に完全にシンクロしていて、お互いの声が次々に立ち現れる度にその絡み合い方の美しさに悶絶!って感じでした。
その二人の映像がないならば、こちらを紹介しておきましょう。



ユッシ・ビョルリンクとロバート・メリルのコンビの歌唱で、これが2007年のタッカー・ガラの記事の中で、
ガラの少し前に聴いて、”シリウスでビョルリンクがテノールのパートを歌っているこの曲の録音を聴いて猛烈に感動したばかり”と書いている録音です。
私が上で書いているポイントがこれ以上ない位おさえられています。
こんなの聴いちゃったから、大概の歌唱では満足しないよ、もう、、、って感じで赴いたのが2007年のタッカー・ガラだったんですが、
いやいや、この二人に負けていないくらいのポレンザーニとキーンリーサイドの歌唱でした。

で、今日の二人、ジョルダーニとフィンリーの歌唱ですけれども、、、。
これはもうフィンリー、すっかり貧乏くじひかされましたね。
こういう事態が、私が前編で”ジョルダーニはもはや共演者やオーディエンスへの迷惑になっている”と書かざるを得なくなってしまう理由なんです。
フィンリーはすごく丁寧に、誠実なマナーで歌っていて、何とかジョルダーニと息を合わせる糸口を摑もうと思って努力しているのが痛いほど伝わってくるんですが、
まあ、ジョルダーニはその横で、そんなフィンリーの努力なんか知ったことか!というノリで、自分だけ気持ちよく思い入れたっぷりに歌っているわけです。
そうそう、この思い入れたっぷり、っていうのもこの二重唱では全く無効なアプローチの一つなんですよね。
とにかく、ジョルダーニはもっとフィンリーの歌を聴きなさいよ!!と思いながら、ずっと聴いてました。
『オテロ』の二重唱が外されてほっとしたのも束の間、これ。やれやれ、、、、って感じです。

 GIUSEPPE VERDI Act II Finale from La Traviata (Ailyn Perez, Soprano / Stephen Costello, Tenor / Quinn Kelsey, Baritone /
Jamie Barton, Mezzo-soprano / Andrew Stenson, Tenor / Brandon Cedel, Bass-baritone / Ryan Speedo-Green, Bass-baritone / New York Choral Society)

とうとうガラのトリの演目で、ヴェルディ 『椿姫』より第二幕フィナーレ。
これはコステロが2009年にタッカー賞を受賞した時のガラで、ネトレプコと組んで歌ったのと同じ部分ですね。
当然、今日ヴィオレッタを歌うのはペレスで、ということで、再び夫婦共演です。
ああ、今日の歌唱を聴くと、どんなにスローに見えても(?)、コステロの歌は成長してるんだな、と思います。
2009年とは落ち着きが全然違いましたし、それから当時より楽な発声を今日はしていて、
繰り返しになりますが、声量では2009年のガラの時より軽い感じがするかもしれませんが、これでいいんですよ!!
彼は絶対にこういう風に今後も歌って行くべきだと思います。
それから、この演目では、半分狂人入ってるヘッドとしてのMadokakipの
めがね(とはいえ、めがねはかけていないのでコンタクトレンズの、としておきましょうか)の奥底がきらっ!と光った瞬間がありまして、
それは、ヴィオレッタがアルフレードと別れるようにドゥフォールに誓わされてしまった、と嘘をつく
(実際にはアルフレードの父ジェルモンに誓ったのだが、その秘密はばらせないので、愛人のドゥフォールのせいにした。)、
それにぶちきれたアルフレードが夜会の参加者を全部呼び寄せて、彼ら全員の前でヴィオレッタをなじる場面です。
アルフレード”この女を知っていますか?”
全員”誰?ヴィオレッタ?”(ここの情けない合いの手の合唱にもがっくり来ました。首絞めてやりたいです、NYコーラル・ソサエティ。)
アルフレード”何をしたかはご存知ないでしょう?”
ヴィオレッタ”ああ、黙って”
全員”いや、知らないが。”
と、ここでオケの短いじゃじゃーん!という、これから語りまっせ!という前置きに続いて、
Ogni suo aver tal femmina per amor mio sperdea (この女は僕への愛のために自分の持ち物を全部売りつくした)、、と
身の上語りを始め、
これが、そんなことをしてもらう理由は、恋人でない以上なく、彼女はまさに娼婦以外の何者でもないので、その代金を今返させてもらう!と、
賭けで勝った金をヴィオレッタに叩きつけるという、この作品の中でも最も胸が張り裂けるシーンになだれ込んでいくわけですが、
このOgni suo..とコステロが歌い始める時に、ほんとにちょっと、1/100秒とかそういう世界だと思いますが、気持ち”ため”があって、
しかも、音をぎゅっと引いて歌い出したんです。
これを聴いた時に、アルフレードの腹の中で渦巻いている怒りが本当に良く伝わってきました。
人って、本当に怒った時、すぐには爆発しないで、その怒りが体の中心からむらむらっと湧きあがってくるものですよね。
それが本当にその間といい、音の絞り方といい、的確に表現されていた。
こういうこと、特にどれ位間をおけばいいか、声を絞ればいいか、またそれをオケの演奏とどのようにバランスをとるべきか、
というのは、歌の先生やコーチが細かく教えられるものではなくて、本能的にもって生れているか、そうでないかのどちらかだと思うんです。
で、コステロという歌手はこういうところに、聴いている人間をはっとさせる何かを持っていると思うのです。
最後の最後の重唱の部分で、これ以上大きくても小さくても今より良くはならないという絶妙のバランスでテノールのパートを歌っていたのも先に書いた通り。
彼は声の美しさで評価されることが多いですが(そういう私もそういうことを言っている人間の一人ですが)、
彼の歌手としての本当のアセットは、むしろ、この、オケや共演者とのバランス感覚に加えて、
オーディエンスをはっとさせるようなことを本人さえ意識しないでさらりとやってしまうことがある、そこにあると私は思っています。
フィラデルフィアで聴いた彼のロミオを私が評価していたのも、これと似たようなことが全幕の中でそこかしこにあったからです。
後は演技がこれに付いていけば言うことないんですけれど、頭で意識し始めた途端に右足と右手が一緒に出るような人ですからね(笑)、かなり心配です。

一方のペレスはそのコステロの胸を借りて歌った感じで、まずは無難にこなせていたと思います。
ただ、この場面って、『椿姫』の中でも最もエモーショナルな場面の一つだと思うんですよ。
その割には言葉に実感があまりこもってなくて、決められた言葉を音に乗せて出しているだけ、という感じすらありますし、
コステロが時々やってのけるレベルと同等のことを彼女の歌からまだ一度も感じたことがないんですよね、私は、残念ながら。
彼女は努力で成し遂げられる範囲内ではこの先も成長して行くだろうと思いますが、
コステロのいるところとは違う場所にいるまま終わってしまうこともあるかもしれないな、、という疑いも私は持ってます。
もちろん、彼は彼で、生まれ持っている才能をどうやってもっと安定したものに開花させて行くか、その努力がおおいに必要で、
それに成功しなかったら、キャリアが難しいところに入って行くと思いますが。

 GIUSEPPE VERDI “Brindisi” from La Traviata (same members as Act II finale)

そのままのメンバーでなだれ込んだのはアンコールとして、同じ『椿姫』から”乾杯の歌”。
ペレスはヴィオレッタを持ち役として歌い続けて行くなら、もう少しコロラトゥーラの技術、音の走りを良くしないといけないかな、と思います。
私は彼女があまりそのあたりが得意でないのではないかな、と思っているので、
彼女の声質もあって、将来的にはもっとリリコ寄りの役を中心に歌って行くのではないかな、と予想しています。

テレビ放送が予定されている割には、ここ数年のラインアップに比して、今年のガラは若干地味なメンバーだった感もあったし、
(誰が見てもこれはスター歌手だ!と感じるのは、ホロストフスキー、ボロディナの二人くらいじゃないでしょうか?)
強く印象に残る歌唱が限られた歌手からしか出ていなかったようにも若干感じましたが、
一方で、若手で将来性を感じさせる歌手が少なくなく、彼らの歌は今はまだ完璧からは遠いかもしれませんが、彼らのこれからを楽しみに出来る要素は十分ありました。
こういった若い歌手たちに積極的にハイ・プロフィールな場で歌う機会を与えようというタッカー・ファンデーションの思いも感じられ、
そういう意味ではタッカー賞の本来の存在意義により即したガラだったと言えるのかもしれません。
若い歌手たちのこれからの活躍を期待しています。

そうそう、最後のカーテン・コールに全ての歌手が出て来て挨拶が終わった後、
指揮者のサマーズがペレスやコステロたちをねぎらって肩を叩いたりして忙しい間に、
ボロディナを先に退場するよう譲るのを忘れて、彼らと一緒に足を踏み出してしまった時のボロディナの表情の怖かったこと、、、。
サマーズがその妖気になんとかぎりぎりで気付いて、”どうぞ。”というジェスチャーをしてましたが、
ボロディナの”ふん!このアメリカ人の田舎指揮者が!”という様子で顎をつん!とあげて退場していった様子には笑いました。

それを言ったらメトの『アイーダ』のオケとのリハーサル中にも、
ルイージがボロディナに”ここはもう少しこういう風に歌ってくれますか?”とリクエストを出したところ、
彼女がルイージに返したのはいわゆるblank stareだけ、
言われたことが耳に入らなかったとでも言うように、じっとルイージの顔を見返すだけで、
”はい、そうします。”はおろか、うんともすんとも言わない。
これにはさすがのルイージもお手上げで、”一応言ってみたけど、駄目でしたね。ハイ次!”という感じで、何事もなくリハーサルは続いて行ったそうです。
さすがボロディナ、すごい迫力。女の弱さ云々は舞台の上だけのことのようです。


Richard Tucker Music Foundation Gala 2012

Conductor: Patrick Summers
Members of Metropolitan Opera Orchestra
New York Choral Society

Avery Fisher Hall
Orch AA Even
ON

*** リチャード・タッカー・ミュージック・ファンデーション ガラ 2012 
Richard Tucker Music Foundation Gala 2012 (Tucker Gala) ***

2012 RICHARD TUCKER GALA (Sun, Nov 11, 2012) 前編

2012-11-11 | 演奏会・リサイタル
タッカー・ガラ。
これまではオケだけが演奏するピース(もちろんオペラ絡みの曲)で幕が開くことが多かったんですけど、本当、このガラに来るお客さんって急がない。
年寄り過ぎて早く動けないのか、お金を持っている人たちは自分が他に合わすのではなく、他が自分に合わせて当たり前、と思っているからなのか。
理由はわかりませんけど、本当急がないんです。
なので、オケが演奏するピースは毎年いつも、客の入場用の曲になってました。
以前、『タンホイザー』の第二幕の歌合戦への客人入場の行進曲が演奏された時は、その客人とはわしだ!と勘違いしていると思しきオーディエンスが、
演奏中の曲に合わせて悠々と座席に向かっていたりして、”こりゃ駄目だ、、。”と思いました。

なので、昨年私が提案させて頂いた『サロメ』の7つのヴェールの踊りなんかは名案だと思うんですけどね、、。
舞台上の女性のヌードを観ようと、オーディエンスのうち必ず何パーセントかを占めているはずのエロじじいは今までになく素早く座席につくでしょうから。

しかし、タッカー・ファンデーションも、この状況に単に手をこまねいているわけでは決してなかったようで、
今年はオケの演奏なしでいきなり歌から!という手段に出ました。
確かに多少は効果があるでしょうね。歌が始まる前までにはさすがに席につかなきゃ!というお客さんが多いでしょうから。

そのような変化をものともせず、例年通り、一言喋らずにおれないのが、タッカー・ファンデーションのバリーさん(リチャード・タッカーのご子息)です。
今年のタッカー賞を受賞したアイリン・ペレスを紹介する際には、彼女の旦那であるスティーヴン・コステロが2009年の受賞者であり、
夫婦そろっての受賞はタッカー賞歴初であることにふれ、
”この二人は世界の色々な場所で素敵な世界を繰り広げてくれています。舞台の上でも、そしてオフステージでも(にやり)。”と、
それこそセクハラまがいの発言をかましたかと思うと(私の隣の男性も私と同様、この発言にセクハラの匂いを感じ取り、二人でお腹抱えて笑ってしまいました。)、
”あ、妻から電話が、、、。”とポケットから携帯を取りだしたかと思うと一通り会話をするフリをした後、
”妻から大事なことを皆さんにお伝えするのを忘れないように、との伝言がありました。どうぞ、皆様、携帯の電源は必ずお切りになられますよう、、。”
、、、、オーディエンスの携帯のスイッチをOFFにさせるためにとうとう1人芝居まで!!まさにアンストッパブルなバリーさんです。

毎年恒例になりつつある出演者の変更・追加は今回はなし!これは珍しい。
その代わり、ジョルダーニとフィンリーのコンビで予定されていた『オテロ』からのオテロとヤーゴの復讐の二重唱が
『真珠とり』の二重唱に変更になった旨のお知らせがあると、”歓迎!”と喜びの拍手をあげるオーディエンスに混じって、
”えええええええっ!!!”と不満の雄たけびを上げるオーディエンスがおり、、、
今回のタッカー・ガラはPBS放送用の収録がありましたが(12/13が放送予定だそうです)、
テレビカメラが入っていようが何だろうが、お構いなしでいつもの地丸出しのヘッズです。

 JULES MASSENET "Je marche sur tous les chemins” (Gavotte) from Manon (Ailyn Pérez, Soprano / New York Choral Society)

その年のタッカー賞受賞者がガラをキックオフするという、こちらの伝統も変らず。
ということで、ペレスの歌うマスネ作曲『マノン』のガヴォット(“私が女王様のように道を行けば”)です。
彼女は本当可愛らしくて感じも良いし(ちなみに彼女はタッカー賞史上発のヒスパニック系受賞者になるんだそうです。)、
舞台マナーも良く、歌に対しても前向きで真摯、、と、応援したい要素がてんこ盛り、
私は彼女の本格的なキャリアが始まったばかりの頃からいくつかの全幕公演(メトには彼女はまだ登場していないので、フィラデルフィアでですが。)
も観ているし、すごく好きになりたい!!!
なのに、なんか躊躇してしまうんです、、それはなぜなのか?
以前、彼女の『ロミオとジュリエット』を鑑賞した時にも書いたんですが、彼女の歌唱って、何となく器用貧乏な感じが私にはしてしまうんです。
タッカー賞は基本的にはこれからキャリアが開けて行く若手のための賞、ということになっているんですけれども、
若手かどうかは関係ない位の圧倒的にしっかりした技術を既に持っている(例えばミードなんかはこちらのカテゴリーに入ると思います)、か、
そうでなければ今は多少未熟だけれど何か他の歌手と違う凄いもの、キラリと光るものを持っているぞ、という予感のようなものを感じさせる、
このいずれかであって欲しいと思います。
ペレスは残念ながら、私にはこのどちらにも当てはまらないように感じられます。
確かに基本的な音色としては多くの人が言うようにリッチでクリーミーな味わいを持っている方だと思うのですが、
その魅力的な音の出る音域が狭く、特に高音域で瑞々しさの欠けた乾いた感じの音になってしまって、声の力だけで唸らせるようなものは持っていないし、
技術的には大きな失敗なく、無難にきちんとは歌うのだけれど(ただし、ガラ本番のこのガヴォットでは彼女にしては珍しく若干ピッチが不安定だったと思います。
リハーサルはきちんと歌えていたらしいので、少し緊張していたのかな?)、表現の中に、何かこちらをはっとさせるような瞬間がないんですよね。
彼女が今日のガラでガヴォットを歌うと聞いて、家を出る前にYouTubeで色々な歌手のそれを聴いていたのですが、
フレミングのそれが良いな、と思いました。相変わらずルネ節してますけれども、それが致命傷になっていません。



例えば高音でぐっとピアノに持っていって、その音をサステインする、ペレスがこれをきちんと出来るのは立派なことだとは思うのですが、
フレミングのガヴォットを聴くと、それが技術のための技術でなくて、表現のための技術になっていることがわかります。
ペレスの歌はまだその点、技術のための技術を脱していなくて、なんだか順番に色んな技術を見せられているに近い感覚を持ちます。
これも同じ『ロミオとジュリエット』で書きましたし、改めてこの記事でも後にコステロとの絡みで書きますが、
彼女はあまり天性の芸術センスを持っている人ではなくて、努力で歌を作っている人のように思えるんですが、その辺もちょっと関係しているかな、、と思います。
非常に厳しい言い方をすると、ものすごく歌の上手い学生さんの歌、、、まだそういう風に聴こえてしまう。
確かに、今からフレミングみたいなガヴォットを歌えたら苦労しない!と言われるかもしれないし、それはそうだと思うのですが、
もうタッカー賞をもらうレベルになったら、きちんと歌えるのは当たり前、
それよりもオーディエンスは、”この歌手はどういう表現をしてくれるんだろう?”、そういうことを期待して舞台を観に来ますからね。
たとえば、フレミングのガヴォットを聴くと、”ずっと20歳でいれるわけじゃない。いっぱい愛して、歌って、笑いましょうよ、”という表向き能天気な歌詞の中に、
すでに悲しみみたいなものを感じとれませんか?
そういうのを、ペレスももっと歌に出せるようにならなければいけないと思うのですよ。
良いところもたくさん持っている彼女なので、上手く歌えているな、の次のレベルにブレークスルーする道をぜひ早く見つけて欲しいな、と思います。

 GEORGE FRIDERIC HANDEL “Sibillar gli angui d’Aletto” from Rinaldo (Gerald Finley, Baritone)

ガラでこんなトランペット奏者泣かせの演目持って来るなんて、フィンリーったら意地悪ね!!
というわけで、ヘンデル『リナルド』から、アルガンテのアリア“私の周りにはアレットの蛇の立てる”です。
こんな状況はメトでだけなのかな、、、フィンリーってなんか本当色んなレパートリーを歌っていて、で、しかも、そのどれも水準以上に歌ってしまうので、
今一つ何を一番得意としている人なのか、摑みきれない部分があるのですが、これ聴いて一層わからなくなりました(笑)。
このあたりのレパートリーも器用に歌ってしまうんですね、彼は。ものすごくテクニックがセキュアであることは間違いなし。
また、アクロバティックな歌唱に飲み込まれてなくて、余裕があるのもすごいな、と思います。
器用もここまで行くと一つの個性!ということで、ペレスは彼女の器用を極めるという手もあるよーん、という先輩からのアドバイスか?

 GIOACHINO ROSSINI “Una voce pocco fa” from Il Barbiere di Siviglia (Tara Erraught, Mezzo-soprano)

現在の時点ではメトに未登場で、私の記憶にある限りNYでは名前すらお目にかかったことのないタラ・エロートというアイルランドのメゾで、
ロッシーニの『セヴィリヤの理髪師』より“今の歌声は”。
この曲をこういう場で選ぶということは、歌手が自らのヴィルトゥオーシティに絶大の自信を持っているということの現れであり、オーディエンスもそのつもりで拝聴するわけですが、、

、、、、ん?

緊張してたんでしょうかね、、、かなりボロボロでした。
音程が決まらない箇所が山ほどありましたし、気持ちが浮ついてしまっているのかオケの伴奏から歌が走ってしまう、
音の長さが正しくない、音が飛ぶ、などの問題もてんこ盛りで、とてもタッカー・ガラで聴かせるレベルの歌唱ではありません。
だし、仮に彼女に物凄い時計仕掛けのような正確な技術があって、スキル的に完璧な歌を聴かせていたとしても、
彼女はあまり声の音色そのものが魅力的でないのでこれは相当なハンデです。
この曲(いや、それを言ったら何でも、ですが、、)歌うメゾなら、深い音色に魅力がある、とか、高音に登った時に独特の凛とした音が出る、とか、何かがないと、、。
可愛らしい人なんですけどね、、、歌に関しては全くNYの聴衆にいいところを見せられないまま終わってしまった感じです。

 ARRIGO BOITO “Ave Signor” from Mefistofele (Erwin Schrott, Bass-Baritone)

、、、彼ってどうしてこうどことなく安っぽい雰囲気が漂ってしまうんでしょう?
連れに今日のガラはペレス/コステロの二人だけでなく、ボロディナ/アブドラザコフの二人も夫婦だし、
さらにこのシュロットははネトレプコの旦那よ、と教えたら、”このエアロビのインストラクターみたいな男が、、?”とびっくりしてました。
別に彼がオペラ歌手でなければ、彼がどんなに安っぽい雰囲気を漂わせていようと全く私の知ったことではないのですが、
この、ボーイトの『メフィストフェレ』から“めでたし、主よ”での彼の歌唱を聴くと、ちょっともったいないよなあ、、と思ってしまいます。
彼の声、特にロー・レジスターに関しては、悪くないんですよね、意外と。オケからきちんと抜けて聴こえてくる強さもあるし、音色もなかなか魅力的です。
でもこの雰囲気のせいで、オペラファンからまともな目で見てもらえないんじゃないかな。
アブドラザコフとかフィンリーの紳士的な雰囲気をちょっと真似てみた方がいいかもしれない。
後、彼はせっかくの素材を正しい方向に導いてくれる良い指導者が必要だと思います。
なんか、素材の使い方をわからずにもてあましていて、ネガティブな意味で自己流に歌っている感じがしてしまいます。

 GAETANO DONIZETTI “Ô mon Fernand” from La Favorite (Jamie Barton, Mezzo-soprano)

映画『The Audition』が撮影された年のナショナル・カウンシルは本当、豊作だったんだなあ、、と今更ながら思います。
ミード、ファビアーノ、シュレーダーは既にメトの舞台を、それも準主役以上の役で踏んでいますし、
ワグナーも大きな役を今年メトで歌わせてもらうようですし、、
で、あの『The Audition』で、『ヘンゼルとグレーテル』の魔女役を歌っていたジェイミー・バートン覚えていらっしゃいますか?
その彼女の生の歌声を初めて今日聴くことが出来ました。
いやー、彼女もすごく力のあるメゾで驚きました。彼女の良さは上段振りかざした歌でなくて、品のある歌を歌うところでしょうか?
なんか、良い意味で、既にキャリアの長い歌手の歌を聴いているような感じがします。
ザジック(もこの曲を得意にしてますね、そういえば)みたいなパワフル・サウンドではなく、たおやかな音色が特徴なんですが、
本人もそれを良くわかっていて、実にそれを上手く使った歌唱でした。
ドニゼッティ作曲『ファヴォリータ』(フランス語による歌唱なので、曲名はファヴォリートの表記になってますが)の
“おお、私のフェルナンド”(これもフランス語ではフェルナンですが。)は、それはもう難曲で、こんなの歌って大丈夫なんかいな、、とちょっとどきどきしてしまいましたが、
その難しさに全然振り回されていなくて、きちんと歌の内容を表現していたのはそれだけでも称賛ものなのに、
その上に、彼女は高音がすごく綺麗で、この曲の一番高い音では、良い意味で若干メタリックな響きがある独特のパワフルな高音を出していて、
最近若手に本当に面白い人が増えて来たな、、と嬉しくなりました。
メトに登場する日はいつになるのか、またどんな役で登場することになるのか、今から楽しみです。

 GIUSEPPE VERDI “Quando le sere al placido” from Luisa Miller (Giuseppe Filianoti, Tenor)

ヴェルディ『ルイザ・ミラー』より“穏やかな夜には”を歌ったフィリアノーティ。
私が彼のことをはじめて知ったのは、彼が日本で出演したオペラの公演をDVDで観たのがきっかけなんですが、
その端正な歌に好感を持ち、彼が次にメトに登場する時は必ず聴きに行きたい!と思っていました。
ところが、以前記事に書きました通り、その機会が来る時までには彼が癌を発症してしまい、
それをまた彼はNYでは表沙汰にせず、本来の力を取り戻すべくリハビリをしながらメトの舞台に立っていたものですから、
どこか冴えない歌唱が何年か続いて、それが彼の実力であるかのような印象をずっとNYのオーディエンスに与えて来てしまいました。
多分、本人にとっても、果てしなく続く暗いトンネルのような、辛い時期だっただろうと推測します。
2010/11年シーズンの『ホフマン物語』では、復活の兆しが見えていたんですけど、さて今日は、、?
おお!!!トップの音はすごく良くなってますね。私は上のような理由から、彼の本来の力での歌唱をまだ一度も生で聴いたことはないのですが、
絶好調の時には大体こんな感じの高音を持ってたんだろうな、とこちらが頭でイメージするのに必要なだけの響きは十分戻って来てます。
彼の歌声は決して大きくはないですが、高音に金管楽器を思わせる独特の明るい響きがあって、やはりいいものを持っています。
ただ、今日の歌唱を聴くと、むしろ高音域の後に来る中音域の方がコントロールが難しくてまだ体が思うように反応してくれないのか、
ぜーぜーしているように聴こえる音が混じっていて、これを克服できるかが、今後の大きなポイントになるかと思います。
それにしても、5年に渡る地道な努力を重ねてやっとここまで戻して来た、、、すごいド根性だな、と思います。
高音域にこれだけ良い響きが戻って来ているんですから、もっともっと自信を持って良いと思うんですけれど、
なんとなく、見た目や仕草に覇気のないのは気になりました。
オペラの舞台では演技をしているからか、あんまりそんなことが気になったことはないのですけれど、、。
立ったり歩いたりしている時の姿勢が悪いのは、もしかして、また体調が優れないのかしら、、と心配になってしまいます。
もしそうでないなら、もっともっと肩で風切る感じで堂々とした態度でいかないと損です!!

 RICHARD WAGNER “O du mein holder Abendstern” from Tannhäuser (Dmitri Hvorostovsky, Bartione)

フィリアノーティと真逆で、あなたは堂々とし過ぎ!と呟きたくなるほど悠々とした様子で、
白い髪をなびかせて登場!(いやー、なんかいつの間にか、髪の毛、すごい伸びましたね。)のホロストフスキー。
これが人気のある歌手のオーラってものなんでしょう。客席側の温度が一瞬にして数度上がる感じがします。私のすぐ後ろに座っているおじ様、おば様も、
”や!ホロストフスキーが出てきたぞ!””まあ、ホントだわ”と盛り上がってます。
そして、歌う曲がこれまた反則。『タンホイザー』の夕星の歌なんです。
タッカー・ガラは毎年メトのオケが演奏してくれるのですが、すでに通常のオペラの公演とリハーサルできつきつのスケジュールにこんなイベント、
本当だったら入れる余地がない位のもので、一、二度、ざっと通しでリハーサルしただけで、本番!ってなことになっているのが一つの理由でもあるのですが、
パトリック・サマーズが率いる今日のオケの最初の数曲はかなり荒い演奏のものも混じっていて、むむむ、、という感じでしたが、
この夕星の歌あたりからオケの演奏が噛み合い出したかな、と思います。
ホロストフスキーは舞台に登場してから歌い始めるまでずっと、また歌の合間合間にも一回一回”ニカッ”と満面の笑みを浮かべるので、
なぜこの歌詞の内容でそんなに笑う?と尋ねたくなった人もあるかもしれませんが(でも、実際に歌い出すと顔が一瞬にしてまじめになるのは、やはりオペラの人です。)、
いやー、私は気持ちわかりますよ。こういう演奏をバックにこの曲歌えるのってすごく気持ち良いだろうなあ、、と思いますもの。
それから、オーディエンスがこの曲の美しさを堪能してる様子が、舞台から見ていて嬉しくて堪らない、という風の笑みでもあったと思います。
この作品を全幕上演した場合に披露すべき歌唱とはちょっと違うかもしれませんが、ガラならではのリラックスした空気を逆手にとり、肩を抜いた訥々とした歌唱で、
彼はこの曲を時々コンサートなんかで歌っているようで、いくつかYouTubeなんかでも聴いたことがありますが、私は今日の歌唱の方が好きでした。
これまで聴いた録音ではもう少し歌に柔らかさが欲しいな、ちょっとばりばりと歌い過ぎかな、、、と感じるところがあったのですが、
今日は生で聴いているという環境の違いとか、オケとの相性とか色々な要素があるかもしれませんが、あまりそのように感じなかったです。

 GIUSEPPE VERDI “Uldino, a me dinanzi l’inviato” from Attila (Quinn Kelsey, Baritone / Ildar Abdrazakov, Bass)

クイン・ケルシーはハワイの出身で、メトではまだ『ラ・ボエーム』のショナールとか『リゴレット』のモンテローネくらいしか歌っていないんですけど、
実は以前、ラジオか何かで聴いた彼の『リゴレット』の全幕での歌唱(タイトル・ロールでの)が思いの外良くて、
ショナールやモンテローネより大きい役で是非一度聴いてみたいな、と思っていました。
また、このアブドラザコフと組んだ『アッティラ』からの抜粋(“ウルディーノ、ローマの使節を今”)はアリアじゃなく、
ある程度まとまった一つの場面になっているので、全幕でどういう歌を歌う人なのか、そこもある程度感触が摑めるかな、と思って楽しみにしてました。
ムーティが指揮をした2009/10年シーズンのメトの『アッティラ』役はエツィオ役が公演直前にメオーニに差し替えになった経緯がありましたが、
メオーニよりもこのケルシーを代役に立てておいた方が良かったんじゃ、、という位、落ち着いた歌唱を聴かせました。
それにアブドラザコフも、今日の方がなんか伸び伸びした歌唱で、やはりムーティ相手の時は萎縮してたのかな?と感じてしまいます。
ケルシーは先に歌ったホロストフスキーのばりっとしたマスキュランな感じのするバリトン声とは対照的に、
どこか透明感と繊細さを感じさせるタイプの声で、これはまたこれで良い個性だな、と思うのですが、
私がラジオで聴いて期待していたよりは拡散して焦点が少しぼやける感じのする声なのはちょっと残念だった点です。
ヴェルディの大きなバリトン・ロールを歌うにはまだちょっと線も細い感じもします。まあ、まだ若いですから当然なのですけれど。
ただし、エイヴリー・フィッシャー・ホールはあんまり声楽(だけでなくオケの演奏も?)を聴くのに理想的なホールでないので、
その分はハンデとして考えないといけないかもしれません。

 CAMILLE SAINT-SAËNS “Mon coeur s’ouvre a ta voix” from Samson et Dalila (Olga Borodina, Mezzo-soprano)

今回のガラの出演者の中で、周りから一つ頭抜けた歌唱を聴かせた歌手を1人選べ、と言われたら、私は多分ボロディナを選ぶと思います。
昔から歌の上手い人ではありましたが、なんだろう、、、?メトの先シーズンの『ホバンシチナ』もそうでしたし、
今日の歌唱もそうですが、最近の彼女は何か歌に更に一段と奥行き・味が深まったような感じがします。
彼女の歌声は低音域はまったりと迫力があって凄いですけど、高音域に少し金属的な音色が入るようになっているのが特徴で、
この『サムソンとダリラ』の“あなたの声に心は開く”でも、彼女はそれを臆さず使うので、
高音域から低音域まで共通したいわゆるまったりとした音色で歌いきるタイプの歌手のそれとはちょっと雰囲気の違う歌唱になっています。
で、それが表現にきちんと貢献している点が見事なんです。
本当、何なのでしょうね、これは、、、。
彼女って以前は何を歌っても自信満々!って感じの雰囲気だったのに、
女性の弱さみたいなものもすごく的確に表現するようになっていて、すごいな、と思います。
そうそう、この曲って、もろ、サムソンへの誘惑!って感じで歌われることが多い(ま、実際にストーリーがそうなので、、)ですけれど、
今日の彼女の歌は、誘惑の言葉の中に、恋に落ちた女の心の弱さまでを感じさせる内容になっていて、
すごく面白い解釈だし、かつ高度なことやってるなあ、と感心させられました。
こんな真に迫った芝居されたら、サムソンだけでなく、どんな男も絶対騙される!と思います。

 RUGGERO LEONCAVALLO “Vesti la giubba” from Pagliacci (Marcello Giordani, Tenor)

今回のガラのプログラム予定を見た時に、”こんなのやっちゃ絶対駄目ーっ!!”と思ったのが、
この『道化師』のアリア“衣装をつけろ”と、『オテロ』のヤーゴとの二重唱(“大理石のような空にかけて誓う”)。
もちろん理由はいずれの演目もジョルダーニが絡んでいるから。
彼は一昨年だか、タッカー・ファンデーションに触発されたのか、いよいよマルチェッロ・ジョルダーニ・ファンデーションという財団を自分で立ち上げてしまいましたが、
はっきり言って、若者に活動の場を提供したいなら、そんな財団作るより、あなたが引退するのが一番なんじゃないの?と思います。
どんな年齢になっていたって、何か歌唱の中でオーディエンスにオファーできるものがあるうちはどんどん歌い続けてください、と思いますけれど、
ジョルダーニに関しては、もうそういうものが完全に枯渇している状態だし、
特に『道化師』、『オテロ』、『トゥーランドット』、『西部の娘』、このあたりのレパートリーを彼が歌うのは
最早、共演者とオーディエンスに対する迷惑ですらあると思います。
なので、『オテロ』の二重唱の方がドロップされると聞いた時は安心しましたが、”衣装をつけろ”にはしぶとく執着するんですね、、。
ったく、男のしつこいのは嫌われるよ!
と、こんな感じで、期待値ゼロどころかトータル・ディザスターの可能性もある、、と予想していたんですが、まあ、そこまでの大失敗にはならずにすみました。
一つには、このうだつのあがらないドサまわりの旅役者というカニオの役が、なんとなーく今のジョルダーニのキャラとシンクロしている部分があるんだと思います。
ま、しかし、そこはジョルダーニ。アリアの前半はそれで何とか乗り切っても、やっぱり肝心なクライマックスの
Ridi, Pagliaccio, sul tuo amore infranto!(笑え、道化師、お前の敗れた恋を)の部分でアンダーパワーなんです、、。
あーあ。

、、、と、今年は演目数が多いのかな?まだこれでプログラムの半分!
この盛り下がった雰囲気のままガラは終わってしまうのか? 続きは後編で!!

(写真は今日のガラより、”舞台以外でも素敵な世界を繰り広げている”ペレス&コステロ夫妻。)

Richard Tucker Music Foundation Gala 2012

Conductor: Patrick Summers
Members of Metropolitan Opera Orchestra
New York Choral Society

Avery Fisher Hall
Orch AA Even
ON

*** リチャード・タッカー・ミュージック・ファンデーション ガラ 2012 
Richard Tucker Music Foundation Gala 2012 (Tucker Gala) ***

UN BALLO IN MASCHERA (Thurs, Nov 8, 2012)

2012-11-08 | メトロポリタン・オペラ
いよいよドレス・リハーサルを間近に控えた『仮面舞踏会』のオケ付き舞台稽古の日のこと。
”Madokakipが絶対に喜びそうな話だと思って、、。”と言って、オケにいる友人が電話をくれました。
その友人によると、リハーサル中の舞台でいきなりザジックが”You're a lousy colleague!! (あんたってサイテーな同僚ね!)”と叫んだかと思うと、
彼女が手にしていたスコアで共演者のマルセロ・アルバレスの頭をぼかっ!と殴りつける音が聞こえてきたんだそうです。
その後も二人が同時に舞台に登場するたびに、、”ったくもう。勘弁してほしいわ。”などとブツクサ言い続けるザジック。
アルヴァレスはいつも舞台への取り組みはまじめな人なので、話を聞きながら、
そんな彼がザジックを怒らせるなんて一体何をやらかしたんだ、、?と不思議に思っていたんですが、、
どうやら理由はアルヴァレスの”コロンの付け過ぎ”(笑)。それで思いっきりザジックの不興を買ってしまったらしいです。

今日はそのデイヴィッド・オールデンによる新演出の『仮面舞踏会』の初日。
アルヴァレスは今日は香水禁止!でよろしく。

デイヴィッド・オールデンはNYの、それもメトがあるアッパーウェストサイドの出身で、
兄弟のクリストファーも演出家という、オールデン・ブラザースの片割れです。
演出家としてのキャリアをスタートさせてから40年を経て、やっと地元メトでデビューが叶ったわけですから、
これは絶対に彼も成功させたいと思っているはずでしょう。

メトのサイトに掲載された2012/13年シーズンの新演出ものの解説ビデオの中で、
オールデンは、グスタヴォ3世(今回の上演はスウェーデンが舞台のバージョンですので、役名の呼称もそれにならいます。)の行為が
まるでほとんど自分を死に追い込むためのプロセスのようであり、そこにギリシャ神話のイカロスの姿を重ね合わせた、と語っています。
そのアイディア自体は悪くないと思うんですけどね、、。

で、まさにその彼の言葉通り、イカロスのイメージがほとんど強迫観念のように、この舞台には現れます。
何度も、何度も、何度も。
天井から下がっているイカロスの絵が移動したと思ったら、またその奥にイカロスの絵があった!、、、って、これはマトリョーシカ人形か?!
そのしつこさは、いい加減、”もうやめてーっ!!”とこちらが叫びたくなるほどで、
これがグスタヴォが取りつかれていた強迫観念をオーディエンスに感じてもらうため、という目的であったとすれば、
それはもう十分過ぎる位に達成できていますが、ここまでやる必要があったかどうか?



で、このイカロスのテーマに関しては、今日の夜の私の夢の中にまで出て来そうな位、”もうわかった!”って感じなんですけれど、
そこを除いて、特に第一幕、第二幕に関しては、『仮面舞踏会』として見ると、すごく不思議な演出です。

これはあくまで私の推論なんですけれども、このオールデンという人は、もしかすると、第一幕と第二幕を全部、
ここ最近メトでかかった演出をからかう(良く言えばオマージュを捧げる、だけど、私にはどちらかというとからかっているように見えた)ために費やしたんじゃないか、、と思っています。
もし、本当にそうだとしたら、すごいユーモアと勇気の持ち主だと思いますけれど、ちょっと冒険し過ぎたかな、、。

たとえば、第一幕の第一場で、アンカルストレームが他の宮廷の人間と仕事する場面(まるで役所の勤め人みたい、、)で、
ずらっと机が並んでる様子はマカナフ『ファウスト』のラボみたいだし、
グスタヴォの座っている安っぽいソファやガラスのテーブルはボンディ『トスカ』、
第二場の占い女アルヴィドソン登場!の場面の、衣装(ハンドバッグや帽子まで、、)はもちろん、
椅子を持って女性合唱が舞台上をうろうろするのはノーブル『マクベス』の魔女のシーンの生き写し、
さらに、同場面のアリア”地獄の王よ Re dell'abisso"の最後のSilenzio!の部分でいきなり唐突にスピーカーを使用するのは、
ゲルブ支配人が就任後に『ドクター・アトミック』や『ドン・ジョヴァンニ』で見られるようになった習慣
(ヴォルピ前支配人時代に、メトでスピーカーから音が流れて来る事なんて、まずなかった!)の揶揄
(それが理由でなかったら、なんでそんなことするのか、意味がさーっぱり私にはわかりません。)、
そして、第二幕のやや楕円がかった壁と青白いライティングはデッカー『椿姫』そっくり、、、
いや、大体考えてみれば、衣装も『椿姫』と瓜二つ。
ホロストフスキーなんて、ジェルモン歌った時の衣装そのままだとしても、私は驚きません。

こういった連想は、ゲルブ支配人の就任後メトでかかった新演出ものをもらさず鑑賞している地元のファン
(もしくはHDをもらさず鑑賞している人)以外には難しいかもしれませんが、
一旦つながると”この演出家、いいの?こんなことして。やばいよ、これ、、。”と笑いがこみ上げてきます。



オールデンの歌手への演技指導は、比較的最近の他の新演出ものと比べるとしっかりしている方なので、
もし、歌唱・演技だけ聴いたり見たりすることが出来るならば何の不足もないのですが、
もちろん、そんなことをするのは無理なわけで、どうしても周りのセットとか状況とか音響効果も合わせてオーディエンスは鑑賞することになります。
一幕とニ幕ではセット・状況・音響効果等が上で書いたような直近の新演出ものをからかうことにベクトルが向いてしまっているせいで、
全体としてみると『仮面舞踏会』という作品としては焦点がぼけた、意味のわかりにくい不思議な演出になってしまっています。
まあ、当たり前といえば当たり前です。他の作品のために他の人間が作った演出を取り混ぜたものを舞台にのせているんですから、、。

なので、この連想が起きなかった人には、”何これ、、?良くわからん。”ってことになると思います。
また、連想が起きた人でも、”そんなつまらん遊びを優先させるのではなく、きちんと『仮面舞踏会』の作品に向き合え!”と考える人にも受け入れられないと思います。
私も本来ならこの後者のタイプだし、一部のオーディエンスにしかわからないようなものを作るのには基本的には賛成でないのですが、
最近のメトの演出傾向に対して本当に辟易していることもあってか、
どうせ変なもの見るなら、まだこういう毒のあるメッセージがあるものを見る方がいいかな、と思えてしまったのは自分でも驚きでした。
病んでますね、あたし。

一幕、二幕の中で成功しているな、と感じたのは一幕一場の最後、みんなで変装して占い女のところに行こう!と盛り上がる
"Dunque, signori, aspettovi"の部分くらいでしょうか。



この新演出の前にメトでかかっていたのはファッジョーニによる非常に写実主義的なプロダクションで、
セットから衣装からすごく重苦しい感じがあったんですが、
新演出でのこの場面の軽やかさは、歌われている内容ともマッチしていてなかなか楽しいなと思います。
衣装、コリオグラフィーとも良く合っていると思いますし、上のドレス・リハーサルからの映像でもわかる通り、
キムやアルヴァレスが本当楽しそうに歌い踊ってくれます。

しかし、ニ幕が終わるまでには、先にも書いた通り、どうして”地獄の王よ Re dell'abisso"のSilenzio!のところだけ、
ザジックに舞台脇にはけさせてマイクを通して歌わせるのか、(その後、すぐまた舞台に現れて来るのですごくぎこちない感じがします)
また、ニ幕で、アメリアと王がお互いの愛を確認する(言葉で、ですが)場面で、イカロスが一瞬消えるのか、
(Ma per questo ho potuto un istante, infelice, non viver di te?  それにも関わらず、君なしで心の平安を感じたことがあっただろうか?という王の言葉に対応しているのかな?)
そのイカロスの絵が消えた向こうに見える、普通の住宅地にかかった電線のような背景は一体何なのか、、?などなど、疑問もてんこ盛りです。
他演出をまじえる遊びに忙し過ぎて、これらの場面の意図がしっかりオーディエンスに伝わるほどには練られていない感じがするのが残念です。



また、アメーリアが薬草を取りに行く場所を死刑台の丘の上という不気味な場所にしたのには、
ヴェルディやソンマにとってそれなりの理由があるわけで、その状況を写実的に描写しないならば、
代替とされるものは、少なくとも、その恐怖がきちんと伝わるものでなければなりません。
(先ほどDunque, signori, aspettoviが成功している、と書いたのは、写実主義的なセットや衣装でないにも関わらず、
あの場面の心躍るような楽しさがきちんと表現されているからです。)
しかし、この演出では、それは一本の丸太であり(これが死刑台なのね、、)、床に何箇所か穴が空いた抽象的なセットで、
その恐怖は全くオーディエンスに伝わってきません。
一応一幕でアルヴィドソンがその状況を言葉で説明するからいいだろう、ってなことなのかもしれませんが、
仮にニ幕から、全くのオペラ鑑賞初心者が鑑賞しても、その場の不気味さにぞぞっと来るような、
そういうものが舞台に現出されていなければならないと思います。



ただし、他演出を混ぜる遊びを捨てた三幕以降は、
オールデン独自の演出としての意向がきちんと見えるようになってきて、一幕、ニ幕よりはずっと良い内容です。
三幕一場でのアメーリアとアンカルストレームの場面は、まるで知り合いの痴話喧嘩を無理矢理見せられているような嫌な後味があります。
(これは褒め言葉なので、誤解なきよう。)
また、同じ場の最後、アメーリアのくじでアンカルストレームに王暗殺の権利が確定された後の、
リッビング伯爵とホーン伯爵のそれぞれの反応も不気味なんですが、
三人の復讐の誓い+そんな悪巧みを知らずただただ仮面舞踏会の企画に心を躍らせるオスカル
+陰謀に心曇らせ、何とか王に知らせねば!と焦るアメーリアの五重唱の最後で、
アメーリアとの口論の途中で、アンカルストレームが部屋の壁から外して床に投げ飛ばした大きな王の肖像写真
(なので、アルヴァレスの写真)をオーディエンス側に向けて立てると、いつの間にかアルヴァレスの顔中にペンで切りつけた跡が出来ていて、
そこには彼らの王への偏執的かつ陰湿的な恨みが感じられ、
ファッジョーニの旧演出はアンカルストレーム、リッビング伯爵、ホーン伯爵の復讐を正当化・美化するような演出でしたが、
このオールデンの演出では、どんな理由であっても人(ましてや友人の!)の死を願うという行為の中には、
非常に醜悪で不気味なものがある、と主張しているのだと思います。



また、クライマックスである第三場、仮面舞踏会のシーンの処理も私は嫌いでないです。
ファッジョーニの旧演出では、衣装が豪華で、それはそれは華やかな仮面舞踏会で、まあ、それも悪くはないですが、
私はむしろ、このオールデンの演出での、主要人物以外全員黒の衣装に身を固めさせ、
マスクも色々なものを使用せず、どくろのマスクだけを目立たせ、
合唱のメンバーの合間合間に羽の映えたどくろマスクの人間(またまたイカロス?)を配置したそれの方が気持ち悪い感じがしました。
また、横壁にはった鏡とライティングを利用して、奇妙なテクスチャーのリフレクションを舞台上に作っていて、
それもなかなかにイーリーな感じを生み出しています。
ファッジョーニ版みたいな豪華さはなく、むしろチープな感じすらするセットですが、
王のそばに段々忍び寄っている死の影は十分に表現しています。
オールデンもナイフによる暗殺を採用しているんですが、
ナイフによる殺人って、歌手の演技力が優れていると見ごたえがあるのですが、下手するとちょっと間抜けに見えるというか、
舞台演出上、難しい殺人方法だと思うんですよね、、、
私個人的には銃を使った方が良かったんじゃないかな、、と思いますが、どうでしょう。
特に最後、広く開いた空間の真ん中に王が居て、周りの壁に沿った三面を舞踏会の参加者が埋めている、という絶好のフォーメーションになっているので、
ばたばたとアンカルストレーム役のホロフストフスキーが飛び出してきて刺し殺すよりも、
その壁のどこともわからないところから銃弾が飛んで来て、
王が倒れてから彼が歩み出て来る方が面白かったんじゃないかな、、と思います。



歌手陣は健闘してました。

グスタヴォ役のアルヴァレス。良かったです。とっても。
王様の威厳!がもう少しあったらな、、とは思いましたが、ここ最近(少なくともこのブログが始まった2006/7年シーズン以来)、メトで聴いた彼の歌唱の中では一番良かったと私は思ってます。
いや、多分、声の状態とか歌の上手さとかいう面では別に何も変っていないのだとは思いますが、
ここ数シーズンの彼のメトでのレパートリーは、カヴァラドッシとかマンリーコとか、私が全く賛成できないものばかりで、
”どうしてこういう役を歌うかなあ。”という不満は、何度もこのブログでぶちまけて来た通りです。
でも、このグスタヴォ役はそれらの役で感じた声楽面での妥協がほとんどなくて、彼の持っている個性が比較的上手く役のパーソナリティとか声楽的要求にマッチしているんだと思います。
彼ももう若くはないですから(齢50)、トップの音が少し痩せていたり、以前のような美しい音ではない、とか、
舟唄(ニ幕ニ場の”Di' tu se fedele")で、高音から降りて来てのローCに挑戦しているもののちょっと厳しい、、(というかほとんど出ていない)とか、
(でも現役でこの役を歌っている人で、あの音をきちんと出せる人っているのかな、、? ドミ様はYouTube見ると、きちんと出しておられますけれども。
ファッジョーニの演出のラスト・シーズンで同役を歌ったリチートラも挑戦してましたが、アルヴァレスとどっこいどっこいか、更にまずい位でしたし、、。)
色々難癖をつけようと思えばつけられますが、このグスタヴォ王って、そんなに簡単な役ではないと思うんですよ。
何よりも、ニ幕のアメーリアとの愛の告白をし合う場面でそれにふさわしい情熱が彼の歌(それからラドヴァノフスキーも)から感じられた。これは大きいと思います。
だって、このオペラで、この二人の恋にリアリティがなかったら、何なの、これ、、?って話ですからね。

王に”愛していると一言だけ言ってくれ。”と迫られ、アメーリアが二回答えを誤魔化す(”ああ、神様!”、”行ってしまってちょうだい!")、
でもさらに王にプッシュされ、ためらいながらも、”Ebben sì, t'amo ええ、そうよ、愛してるわ。”とアメーリアが陥落してしまうところ、
(ここに至るまでに、まるでオケが一瞬ストップして時が止ってしまうような気がする部分なんか、たまりませんな!)
そして、”アメーリア、君は僕を愛している!”と王の喜びが炸裂するところ、、、
ヴェルディがつけている音楽がこの二人が感じている許されぬ恋への戸惑い、喜び、恐れ、すべてを本当に巧みに描写しているんですが、
歌手の二人はそれを歌と演技で、しっかりと表現してくれています。
正直なところ、基本的なテイストの話をすると、私はソンドラ姉さん(ラドヴァノフスキー)の声質も歌い方もあまり好きではないのですが、
そんな私でもここの二人の歌唱と演技は良く出来ていた、と思います。



あろうことか、この場面(そして他にも、、)での大問題はむしろオケ、というか、ルイージの指揮です。
ブログをお休みしている間に、私の彼への見方はすっかり変ってしまいました。
というのも、その間、彼が指揮する演目については、本当にがっかりさせられる公演が多かったからです。
彼の指揮の特徴をもし二言でまとめなければならないとしたら、知的、コンパクト、です。
それで素晴らしい成果がでる種類の演目もあるでしょう。また、技術と知性はあるので、常にある程度のレベルの公演にはなると思います。
でも、ヴェルディやワーグナーのオペラで、本当にオーディエンスの心を動かすような指揮をしようと思ったら、それだけでは駄目でっせ。
なぜなら、この二人が書いたオペラを指揮するには、人間の愚かさへの愛や理解(頭のレベルではなく心での)と、それを表現しようとする熱い魂が必要だからです。

上の場面に続いて、王とアメーリアが重なるようにして歌う
アメーリア:Si t'amo. Ma tu, nobile, me difendi dal mio cor. (ええ、愛しているわ。でも、高貴なあなたは、この私の気持ちからどうぞ私を守ってちょうだい。)
王: Irradiami d'amor. Tu m'ami, Amelia? (私にその愛の光を輝かせておくれ。僕を愛しているのだね、アメーリア?)
この部分、ラドヴァノフスキー、アルヴァレスともに極めて情熱的な歌を披露してくれます。
そして、ここではその二人の心と一緒になって燃え上がるようにしてオケが鳴り響いているはずなんです、、、ヴェルディがそのようにスコアを書いているんですから。
そんな時にオケのアンサンブルが多少乱れたり、ひっくり返ったりしたって、大いに結構!!
しかし、ルイージはここでオケが綺麗に、バランスよく鳴り響くことだけに執心してブレーキを踏みまくり、
恋に燃え上がる二人の横(っていうか、下ですけど、正確には。)でオケはお澄ましさんしながら、パプーッなんて上品にやってるわけです、、、。
”あほかーっ!?”とここでMadokakipがきれまくったことは言うまでもありません。

この二人とオケの距離感は悪く見たら、まるで、オケの方が
”でも不倫って、良くないことなんじゃないかな、、。あんな二人に同調できないよね。”と言っているようにも見えます。
そんな道徳の授業のような公演を見たいヘッズ、この世の中にいねーんだよ!

か。せいぜい好意的に見て、この二人の道ならぬ恋を頭のレベルでしか理解できないために、バランスの取れた美しいオケの音で飾って美化しよう、という試みか?
、、、いや、あのですね、、不倫って別にそんな美しいものでもないし、それは頭の悪い恋人たちでなければ、不倫してる本人だって美しいなんて思ってないでしょう。
道ならぬ恋とは、そんなものを越えた、自分のコントロールを越えたどうしようもない激情そのものであり、
それこそ、この場面で歌手とオケが表現しなければならないことなんです!

今回と全く同じ種類の失敗を、彼は昨シーズンの『マノン』の修道院のシーンでもやらかしてましたし、
こういう人間の愚かさを、想像力から芸術に転化・昇華して表現できる種類の人もいますが、
ルイージはあまりそういう人ではないみたいなので、彼は毎年、日本にも演奏会やらなにやらで訪れているようですから、
このブログを読んで下さっているどなたか、彼の宿泊しているホテルにでも押しかけて、道ならぬ恋がどういうものなのか、教えて差し上げてくださいまし。
ただし、言っておきますが、この作品でもわかる通り、エッチ=不倫ではないですから、その点はお間違えのないようにお願いいたします。

また、アルヴァレスとオスカル役のキャスリーン・キムはルイージの指揮と非常に息があっていましたが、
アンカルストレーム役のホロストフスキーの特に立ち上がりの部分と、ザジックの二人に関しては、今一つ彼の意図が歌手の歌い方と噛み合っていない、
もしくははっきり言って二人がものすごく歌いにくそうにしているのが感じられる部分があって、
特にザジックなんか登場場面が非常に短いので、なんか息が合ってないわあ、、と思っているうちに終わってしまったような感じです。



歌手に話を戻して、ソンドラ(・ラドヴァノフスキー)姉さん。
先にも書いた通り、私は彼女のなんだか半分蓋がしまっているような籠った音色とか、高音になるとうがいをしているみたいに音がころころするところとか、
アンサンブルで周りを食ってしまいがちな爆音などがあまり好きではないのですが、
でも、この役を良く消化してはいて、彼女に関してはトスカみたいなヴェリズモが入った演目よりも、
ヴェルディの作品(『トロヴァトーレ』のレオノーラ、今回のアメーリア)のように、よりフォーマットがきっちりしている作品の方が断然印象が良いです。
彼女は学生時代確か演技の勉強をしていて、そのことにすごく誇りと”私は演技が上手い!”という自信みたいなのを持っているようなんですが、
はっきり言って私は彼女のことをこれまで特別演技が上手いと思ったこともなければ、
それどころか、時々すごく妙な演技をするので”?”と思わされることも一度や二度でなかったくらいです。
でも、今回の『仮面舞踏会』では彼女にしてはすごく演技がナチュラルで、このあたりもオールデンがきちんと演技付けしたせいじゃないかな、と感じます。
特に三幕一場で、微妙な色仕掛けで夫であるアンカルストレームから同情を引きだすあたりなど、
彼女のこういう側面が王にもアピールしているのかもしれないな、、と納得させられます。
そこで歌う”Morrò, ma prima in grazia 私の最後の願いを”も、極端に抑制されたオケの演奏をバックに(ここの抑えた演奏はルイージの今回の指揮で成功していた部分の一つかもしれません)、
切々と、しかし熱さを持って歌いあげていて、なかなか良かったですし、ニ幕でアルヴァレスと息の合った重唱を聴かせていたのは先に書いた通りです。



そのアメーリアの夫アンカルストレーム役のホロストフスキーは、ファッジョーニ版による最後の公演にも出演してましたが、
その時と今回とでは随分歌唱も演技も違うものになっています。
あれは2007/8年シーズンのことでしたから、そうか、、、ちょうど5年になるんですね。
ファッジョーニ演出の時の彼は、それはもう豪華な衣装が似合っていて、
素敵なレナート(ま、確か以前の演出もスウェーデンが舞台だったと思うので、アンカルストレームといった方が正確かもしれないですが。)でした。
ただ、今と比べると、若干線が細い感じで、それから美しく丁寧に歌うことにより神経が向いていた感じがします。
彼はメトでは非常に人気があって、しかもこの5年間選んで歌って来た役はどれもきちんとした結果を出しているので、
オーディエンスの彼を見る眼差しも温かく、多分、そういうのも歌っている側にとってはすごく心地が良いから、それも一因になっているのではないかな、と思うのですが、
最近特に、以前より歌に冒険する心を感じるというか、思い切りのよい歌を歌うようになって来たと思います。
私自身、オペラは綺麗な歌を聴くためだけの場じゃない、オーディエンスの心に何かを訴えなければ、という考えの持ち主なので、この変化は大歓迎です。
でも、一つだけ、心配な点を書いておくと、5年前から変っていない彼の特徴に、ブレスの音がすごく大きい、ということがあるんですが、
(それはもうフレーズの間にメトのオーディトリアムにゴーッという音が鳴るのが聴こえるくらい、、)
冒険心が芽生えてから、つまり、感情をより豊かに歌に込めるようになってから、
ブレスに続く最初の音にそれが混じって音のトーンとかプロジェクションを変えてしまうようになっているのが目立つようになりました。
これがあまりひどくなると、歌が変に芝居じみている、とか、下品、ととられてしまう可能性があって、
残りの上品な歌唱とアンバランスになるので、それはちょっと気をつけた方がいいかな、、と思います。
今日の歌唱くらいが限界かな、、、これ以上、それがきつくなると私の感覚ではちょっとやり過ぎ、、と感じてしまうかもしれません。
ブレスの音が大きいのはもう仕方がないと思うので、それを次の音にインパクトを与えることなく畳む方法を模索するか(ここに関しては以前の方が巧みだったように思います。)、
もしくは、チージーに聴こえないやり方で次の音に統合していく方法を探すか(今の彼なら、こっちの方法の方がいいかもしれないですね。)、どちらかが必要かな、と思います。

先に書いたように、登場してからしばらく、なんかルイージの指揮と噛み合わないところがあったのと、
少し立ち上がりで声が固くて、最初のアリアである”希望と喜びに満ちて Alla vita che t'arride”が犠牲になってしまった感があるのですが、
ニ幕からはいつもの思い切りのよい歌が飛び出すようになって、
三幕でアルヴァレスの肖像写真を床に投げ飛ばしたあたりから、アドレナリン放出。
"お前こそわが魂を汚す者 Eri tu che macchiavi quell'anima”の迫力と瞬発力ある冒頭も良かったですが、
なんといってもフルートのソロがある間奏をはさんでからの、アメーリアとの幸せな日々を思って優しくせつなく歌い上げる部分が、彼の声の美しさと相まって、特に素晴らしかった部分です。

また、ファッジョーニ演出版の時は、どちらかというと”王のまぶダチ”的アプローチでしたが、
これはもちろんオールデンの指示だと思いますが、今回のアンカルストレームは王を崇拝している感じで
(だから毛沢東もびっくり!のような肖像画が家の壁にかかっていたりする)、どんなに親しくしているようでも王を前にすると少し固さとよそよそしさがあって、
これがグスタヴォ王の孤独を際立たせ、また、アンカルストレームの側は、その王への崇拝と憧れがあったからこそ、
自分の妻が彼と恋に落ちていた、と知った時のショックにツイストがかかり、それこそ、可愛さ余って憎さ百倍的な、面白い効果をあげています。
このあたりの複雑な気持ち、また、妻が王と恋していたと知っても彼女を憎みきれない男の弱さ・悲しさをホロストフスキーが意外と好演しています。
(彼女に”ええ、彼を愛してます。”とあっさり認められる辛さってばどうでしょう!
しかもその後のアメーリアの言い分、”でも、貞節は守ったからいいでしょ!”という、女の身勝手さ、狡さも、この演出ではなかなか巧みに表現されています。)
また、王を刺殺した後に、彼の本意(アンカルストレームとアメーリアを彼らの故郷の町に送り、自分は恋から身を引こう、という)を知って、
呆然とするあたりも、いつもの格好良さはどこへやら?のかっこ悪さ全開の演技を繰り広げていて○です。



今回の公演で魅力的だったのはキャスリーン・キムのオスカルです。
この役の、声楽的ディマンドをこれだけ軽々とクリアして、かつ、おきゃんなパーソナリティもきっちりと抑えた演技が出来る歌手というのは、そうたくさんはいません。
私がこれまで実演で観た中で、断トツで、最高のオスカルです。
キムは『アリアドネ』のツェルビネッタみたいな役はちょっと手に負えていない感じがありましたが、
あの『ホフマン物語』でのオランピアとか、『ニクソン・イン・チャイナ』での江青とか、そして、今回のオスカルとか、
ちょっと特殊な役で、上手く演出にはまると、脇でも独特の存在感を放つ人で、すごく面白い歌手だな、と思います。
それが声自体個性的!という歌手ではなく、温かみのある美声だけれども、むしろ声自体はあまり癖がない彼女のような歌手がそれをやってしまうところがまた一層面白い点です。
彼女が歌ういくつかの役をYouTubeで聴いたことがありますが、いわゆるヒロイン系の役(ヴィオレッタとか、、)ではあまり個性が出にくい人なんですね、、。
なので、コンプリマリオ系の役で独自のキャリアを開いていくのも一つの手かな、とも思います。
ツェルビネッタ役を聴いた時に、彼女はグルベローヴァやダムラウみたいな意味での超高音を得意とするタイプではなくて、
それより少し下の音域での声の美しさ、また、先述したような演技とかキャラクターの面白さに特徴のある歌手だな、と感じましたが、
この演出でのオスカル役は、まさにそんな彼女にぴったり!
オスカル役で求められる声域なら、彼女の声の美しさが楽々と遺憾なく発揮されていて、しかも彼女の舞台での動きにはリズムがあって、本当かわいらしい!
この役って、下手すると、結構うざい存在になってしまうという難しさがあって、
すらっとした痩せぎすのソプラノがキーキー声でこのオスカル役を歌うと、張り倒したくなるだけ、、、という感じで、
私はこれまでに、そんな張り倒したくなるオスカルを何度も聴いてきましたが、
キムのオスカルに限っては、どんなすっとぼけたことを言っていても、王様やアンカルストレームに対してどんな小生意気なことを言っていても、
”かわいいのう、、。”ですましたくなる。
ヴェルディがこの陰鬱なオペラの中で、オスカル役に託したのは、まさに声楽・演技両面でのこんなコメディック・リリーフとしての役目でしょう。
三幕のカンツォーネ”どんな衣裳か知りたいでしょう? Saper vorreste"での彼女の凛とした声の美しさと、オスカル役のパーソナリティが存分に溢れるチャーミングな歌には魅了されました。
オスカル役というのはこうでなければならない!という見本のような素晴らしい歌と演技。堪能しました。

今回の公演で、せっかくザジックという素晴らしいメゾを得ながら、ウルリカ役の面白さが全く出ていないのは残念の極みです。
ザジックはもともとがあんな雰囲気の人なんですから(ザジックは私のオペラ鑑賞史において、マイ・アイドルの1人ですから、親しみを込めて言っていることだけはご理解ください。)、
不気味な老婆チックな扮装(ほとんど地?)で、しゃれこうべでも持たせて洞窟の中で占いさせた方が良かったんじゃないかな、と思うのですが、
エイドリアン・ノーブル演出の『マクベス』の魔女達にそっくりの格好+ハンドバッグに、パーマと厚化粧、、、というザジックの姿に、
これはこれで精神を病んだハンドバッグ・レディみたいで”こわ、、、。”と思いましたが、ウルリカの不気味さとはまたちょっと違う感じ。
彼女はたった一ヶ月かそこら前の『トロヴァトーレ』ですごい歌を聴かせたばかりで、このウルリカ役なんてまだまだ余裕で歌えるはずなんですけど、
立ち上がりのホロストフスキーと同じで、彼女も全くルイージの指揮と歌の呼吸が合わない様子で、すごく苦労している様子が見てとれました。
しかも、アンカルストレームと違って、ウルリカ役って一幕のほんの一場しか登場場面がなくて、挽回するところが残ってないので、これはきつい。
既述の通り、アリアの最後に舞台袖にはけて、マイクを通してSilenzioと歌ってからまた舞台に戻って来たりとか、
この場面は演出面でもちぐはぐなところが多くて、音楽面でも演技面でも、何か上手く消化しきれないまま彼女が舞台にのっている感じで、
おそらく年齢的に言っても近いうちに引退が迫っている彼女にはメトでの残りの公演は一回一回、納得の行く結果を出して欲しい、とファンとして願っているので、
これはちょっと気の毒な感じがしました。

歌手陣への評価は総じて温かかったですが、案の定、オールデンをはじめとする演出チームにはブーも飛び出してました。
せっかく地元で錦を飾りたかっただろうに、残念でした。
三幕みたいなアプローチが、全幕にも渡っていたら、もうちょっと結果は違ったものになっていたんじゃないかな、と思うんですけどね、、。
それに、歌手への演技付けなんかを見ると、才能のない演出家ではないのにな、という風にも感じました。

Marcelo Álvarez (Gustavo III/Riccardo)
Sondra Radvanovsky (Amelia)
Dmitri Hvorostovsky (Count Anckarström/Renato)
Dolora Zajick (Madame Ulrica Arfvidsson)
Kathleen Kim (Oscar)
Keith Miller (Count Ribbing/Samuel)
David Crawford (Count Horn/Tom)
Trevor Scheunemann (Cristiano/Silvano)
Mark Schowalter (Judge)
Scott Scully (Amelia's servant)
Conductor: Fabio Luisi
Production: David Alden
Set design: Paul Steinberg
Costume design: Brigitte Reiffenstuel
Lighting design: Adam Silverman
Choreography: Maxine Braham
Gr Tier F Odd
SB

*** ヴェルディ 仮面舞踏会 Verdi Un Ballo in Maschera ***

TEMPEST (Sat Mtn, Nov 3, 2012)

2012-11-03 | メトロポリタン・オペラ
わざわざ史上最低のヴェルレクを聴くために『テンペスト』の初日を聴き逃すという大失敗をやらかしてしまいましたが、今日はやっとそのリベンジです。

あれはシーズンが始まる直前の夏のことでした。
『テンペスト』は初めて鑑賞する作品だし、とりあえず字幕を見なくても歌詞がわかるように、、と
本棚からシェイクスピアの『テンペスト』を取り出し、”あいかわらずなんでこんなに英語が難しい!?”と頭をかきむしりながら、
そして通勤の地下鉄ではいきなり隣の席に座っていたボヘミアン風のお兄さんに”Oh, 'Tempest'!! That's a masterpiece!"(横から見たな~!)
と声をかけられたりしながらようやく読破。

それではいよいよ音楽の方を、、とROHで上演された際のキャストで録音されたCDを聴き始めてお地蔵さんになるかと思いました。
歌詞が、歌詞が、、、シェイクスピアの書いた言葉じゃないーっ!!!!

そうなのです。このアデスの『テンペスト』は、シェイクスピアの書いた言葉をそのままリブレットに用いるのではなく、
メレディス・オークスというオーストラリア出身イギリス在住の劇作家が現代英語に書き直したリブレットを採用してるんです。
おそらく私のようなシェイクスピア英語に苦闘するオーディエンスが多かろう、ということで気を利かせたんだと思いますが、
『テンペスト』は『オテロ』とか『ハムレット』みたいに劇的な展開が話を引っ張って行くタイプの作品とはちょっと違っていて、
その分、言葉の使い方とウィット、そして語感とそれが生み出す雰囲気により大きな比重がかかっている作品なのではないかと思うのです。
そこを含めて現代語訳にするのはやはりかなり大変なタスクだったようで、オークスの書いたリブレットは個人的にはストーリーを
オペラのフォーマットにフィットさせるためにパッチワークした域をあまり出ていなくて、
上で書いたような言葉そのものから生まれる感触などに関しては、代替になるものが与えられないまま、消え去ってしまっているように思います。



作曲したアデスに関してはもはや紹介の必要もないかもしれませんが、1971年生まれのイギリスの作曲家で、
今シーズン、NYではメトの『テンペスト』に加えて2月にNYCO(シティオペラ)で『Powder Her Face』も上演されることが決まっており、
なかなか気鋭の若い作曲家が出て来にくいオペラの世界にあって期待の星的存在です。
(アメリカ人の作曲家では1981年生まれのニコ・ミューリーへの期待が大きく、彼のオペラ作品は近いうちにメトでも上演されるはずです。)

アデスの作品に初めてふれたのは以前の記事でも書いた通り、ベルリン・フィルのカーネギー・ホール・コンサートでの『Tevot』で、
作曲技巧や音の響きの面白さの追求ばかりが先行している感じがして全く退屈することの多い現代作曲家の中で
(そもそも彼らの作品目当てで演奏会に行くということがないので、他の目的で赴いたオケの演奏会に偶然くっついて来た作曲家の中で、といった方が正確ですが)、
彼の音楽はなぜか抵抗なくすんなりと耳に入って来たのみならず、きちんとしたエモーションや個性が感じられる音楽で、
グラス(『サティアグラハ』)とかアダムス(『ドクター・アトミック』、『ニクソン・イン・チャイナ』)の作品とか、
正直言って”きつ、、。”と思う私ですが、アデスのオペラなら聴いてみたいな、と思っていました。

で、『テンペスト』に関しては、スコアを拝見する機会があったのですけれど、
”どうしてこんなに複雑な、、。”とぎょっとするような代物で、
紙のうえに米粒をばらまいたのかと思う位にぎっしり並んだ16分音符やら途中で頻繁に変るビート・パターンを見ているうちに
私が演奏するわけでもないのに吐きそうになってきました。
そのあまりの複雑さにROHのCDでもスコア通りに演奏できていない箇所があるほどです。
今回のメトでの上演は、ROHと同様自作自演!ということで、アデスが指揮をするんですけど、こんな複雑なスコア、手に負えるのだろうかと心配になって来ます。
ま、しかし、こういう作品はオーディエンスも作品を良く知らないから、こんな風な音楽なのね、、で済んでしまうところがラッキー、、
ということで、ノー問題!、、、なのかな?

さらにCDを聴き続けること約半時間。
この作品は演奏・歌唱共に本当大変そう、、、
例えばアリエル役。低音と高音の間のリープが大きく、
普通のオペラのレパートリーだったらそれだけで聴かせどころになるべきような高音域にパートのほとんどがのっていて、
最初はすごーい、、、と思って聴いているのですが、鎮痛剤やドラッグと同じで、
あまり延々とこういうのを聴かされると感覚が麻痺してしまう、、、、
ということで、気がついたらうたた寝モードになってるわけですよ、これが。
しかし、はたと気が付いて起き上がっても、さっきうとうととし始めたはずのところとほとんど区別がつかないような音楽がまだ鳴っていて、
”あれ?どれ位寝てたんだろう、、?”と一瞬ディスオリエンテッド状態です。
でも、時計を見てみたら結構な時間が経ってました、、、。



しかし、もしこのブログを読んでいる皆様の中に私と同じようにCDから入って脱落し、HDはどうしよう、、と
二の足を踏んでいる方がいらっしゃるようでしたら、これからここに私が書くことを参考にして頂ければ幸いです。

まずリングでの駄目駄目演出でNYのオペラ・ファンからほとんど”袋”状態に合わされたルパージですが、
この『テンペスト』の演出はそう悪くはないです。
いや、むしろ、シルク・ド・ソレイユ的な視覚的美しさ、ショーとしてのスペクタクル度などから言うと、
オーディエンスの期待を裏切らない出来で、一度鑑賞するだけならばこれを見るだけでも十分元をとった、、と思えると思います。
ルパージという演出家は、良くも悪くもショーとしての舞台を作るのは上手い人なんだな、と思います。
ただ、彼の演出を生で見るのはリングを4作として数えるとこれで6作目になりますが、、
各登場人物の感情をどう表現するかということに関しては毎回全くもって個々の歌手の力頼みだし、
演出の趣向に何か深い意味があるのかと思うと実はそうでもない、、ということがほとんどのように思います。

ですから、今回の演出も、”なぜ舞台がミラノ・スカラ座なのか?”という質問はしちゃいけません。
せいぜい、プロスペローがミラノ大公であるから”ミラノ続き”くらいの軽~いのりだと思います。
ただし、スカラ座の内部にあるものを上手く利用して、『テンペスト』の物語に応用しているとは思います。
シャンデリアを海に翻弄される船に見立てる冒頭の嵐の場面とか、
ミランダやキャリバンがプロスペローとの対話の後にプロンプター・ボックスの中に消えて行く引田天功ばりのトリックだとか、
ラストのシーンで舞台を帰国のために見立て、1人客席に残るアントニオだとか、、、
まあ、ミラノ・スカラ座という舞台設定は、単にそれをプロップとして用いていると思えば、それなりに成功しています。
また、今回はハイ・テクのイメージの強いルパージが、それを多用できる作品であったにも関わらず、そうせず、
どちらかというとコンピューター・グラフィックスに頼らないリアルな手触りが感じられる演出になっていたのは個人的にはほっとしました。
私は今回もまたビデオによる視覚効果炸裂!3D!!というようないつものパターンになるのかな、、とちょっと恐れてましたので。
そのおかげで、少なくともリングの時のように歌手たちが舞台セットやテクノロジーに押し潰されている感じは免れ、
歌手一人一人の存在感は十分感じることの出来る舞台にはなっていたと思います。

一方で、そこで満足できない、なぜミラノ・スカラ座か?という問いを投げかけなければならない、
もしくはそのきちんとした答えを舞台の中に見出したい、
さらにはこの『テンペスト』という作品をどのようにこの演出は解釈しているのかを知りたい、
ということをつい考えてしまうオーディエンスには全く意味のわからない演出だと思います。
ルパージの演出は深く考えてはいけない、なぜなら、深い意味はないから。
メトでの彼の演出を見て来て、私はそう結論づけるようになってます。



歌手は全体的に魅力的な歌唱を聴かせてくれています。
歌唱のアクロバティックさから普段あまりオペラを聴かない一般的なオーディエンスも含めて最も強い印象を残したのは、
アリエル役のオードリー・ルーナかもしれません。
この役はROHでの公演でも、また2006年サンタ・フェでのアメリカ初演でもシンディア・ジーデンが歌っています。
ジーデンもルーナもメトでは過去に夜の女王役を歌ったことがあるんですが、
メトがジーデンよりもルーナの方を今回の『テンペスト』に登用したというのは面白いな、と思います。
ルーナにとってはすごいプレッシャーだったと思いますが、メトの賭けがペイオフし、期待に応える見事な歌唱だったと思います。
ジーデンと比べて彼女の方が高音のきれがいいですし、
何より感嘆したのはこの難しいアクロバティックなフレーズを歌いながら、
ブレスをしている箇所がほとんど全くと言っていいほどわからない点です。
ジーデンのROHでの歌唱はYouTubeにあがっていますが、このブレスがかなり目立ち、その度に音楽の流れが一瞬ストップしてしまうのが興をそぎます。
ルーナのような歌を歌うには、相当パートを細かく分析し、歌の構成を練りに練って役に挑んだんだろうな、と思います。
しかも、このルパージの演出ではアリエル役に歌唱の面だけでなく、演技や動きにも相当なアクロバティックさを要求していて、
彼女は歌いながらほとんど休むひまなく舞台を駆け回り、宙吊りになって空を飛びまわってます。
一度などは、腕のところでワイヤーで支えられているだけで、体の重心を支える場所が何もない状態で高音を出したりしていますし、
そうでなくちゃんと床に立って歌えるときには始終クネクネと体をうねらせ、
バレエダンサーみたいな体の柔らかさで、爬虫類みたいなアリエルです。
私がシェイクスピアの本から持っていたアリエルのイメージはもうちょっとかわいい羽根の生えた虫っぽい感じなので、
ちょっとこの爬虫類みたいな妖しいアリエルは”変なの、、。”と思いましたが、
だからと言ってそれがルーナのパフォーマンスの良さを割り引くものでは一切ありません。
しかも彼女は初日から一度として公演を休むことなく、こんな役をこの調子で歌っていたら、
ランの途中で喉がどうかなるんじゃないか?というこちらの心配をよそに、
全ての公演でほとんどむらのない優れた歌唱を聴かせていて、本当に素晴らしかったの一言です。



彼女のパフォーマンスには何一つ不満のない私なんですが、アデスが書いたこの役のパートに私は疑問を呈します。
先にも書いた通り、どんなすごいものを聴かされても、人間ってやつは贅沢な生き物で、
あまりそれをずっと聴かされていると段々感覚が麻痺して来ます。
ルーナとジーデンという、夜の女王役を持ち役にしている二人がこの役にキャスティングされていることにも象徴的な通り、
”現代オペラの夜の女王”的ステータスをこのアリエルの役に与えたいという目論みがアデスや劇場にはあるのかもしれませんが、
それはちょっと”わかってないな、、。”と思ってしまいます。
この『テンペスト』の作品を聴くと、楽器の使い方の巧みさに比すと、
人間の声についての理解、人間の声は楽器のようには動かない、ということへの理解がアデスには少し欠けてるかな、、と感じます。
あまりにも高い音域で、あまりにもアクロバティックな芸当をしなければいけない時、
そこに表情とか感情を入れるのはそれだけ難しくなります。
実際、今回生の舞台でアリエルのパートを聴いて、ルーナの歌唱以上にすごいものを出すのは無理だ、と感嘆する一方で、
パートの難しさの割りに、こちらの心に響いてくるもの、訴えてくるものが少ないな、、と思いました。
モーツァルトのすごいところはアクロバティックな芸当をしながら歌に表情を込めるのは難しいということを重々承知していて、
そのために、歌手がアクロバティックな歌を歌うことだけに専念できるよう、
そのメロディーを歌うだけで、それがすなわち歌の表情となるような音楽を夜の女王役に与えている点です。
だから彼は”復讐の炎は地獄のように燃え”のところにとっておきのアクロバティックな歌唱と高音を用意して、
他の部分でそれを浪費することはしないのです。
逆にアデスが書いたアリエルのパートは最初から最後まで”復讐の炎は~”を聴かされているような感じで、
だからパート全体を通して見た時にどこに感情の山や谷があるのか、どこにフォーカスがあるのか、さっぱり、、という感じです。

これは実にもったいない!
なぜなら、第二幕の冒頭をはじめとして、ちらっとアリエル役がずーっと歌って来た超高音域から外れて
その少し下の部分で歌う箇所がありますが、
そこで聴かれるルーナの声は温かくて美しく、超高音域よりもそこらあたりの音域にこそ、
それぞれのソプラノの声のカラーがよりはっきりと現れるのですから、どうしてそこをもっと使わないのかな、と思います。
アリエルが人間じゃない=超人間だからと言っていつも超高音域、というのはちょっと短絡的ではないかしら?



ルーナほどあからさまじゃない形で結果を出し、だからこそより一層すごいな、、と思わされるのはプロスペロー役のキーンリーサイドです。
今日のキャストで、本当の意味で役を自分のものにしていたのは彼だけだったのでは?
アリエルに関しては異常なまでのアクロバティックさが要求されるのでルーナはこの点で免除するとしても、
残りのどの役もほとんど必ずと言っていいくらい、大きな、不自然なリープ(低音から高音、もしくはその逆での移動)があって、
これに苦心している歌手が多く見受けられました。
このあたりも、私がアデスに声は楽器と違いますよ、と言いたくなる点なんですけどね、、、。
なので、どうしても歌手が歌の方に気をとられてしまっているのが伝わって来るんです。
だけど、唯一、キーンリーサイドだけは、歌にひきずられている感じがなくて、
彼のパートだけが簡単に書かれているんじゃないか?と錯覚するほどです。(そんなわけない。)
この作品は楽器の音色の変化が繊細で、その段々と夕焼けの色が変わって行くのを見るのに似た感じを楽しむのが楽しみの一つなんですが、
プロスペローはアントニオやナポリ王に対して怒れる人物でもあるので、彼の歌うパートにかなり分厚いオケのパートが乗ってくる箇所があります。
例えばニ幕でナポリ王のためにフェルディナンドを探しに行こう!と全員が舞台からはけた後、
プロスペローが歌うモノローグの最後のYou'll know my nameのところで、オケが大音響でなだれ込んで来るのなんか、その例ですが、
オケに圧されず、彼の声が良く響いてました。

ミランダ役のイザベル・レナード。
彼女のメゾでありながら高音域でソプラノ的な響きを感じさせる独特の声質は、アップダウンが激しいアデスの書く音楽にも割と対応できていて、
しかも、彼女は子供を産んでから声量があがって声の響きがよりふくよかになった感じで、
フェルディナンドとのニ重唱でも力強い歌唱を繰り広げていて声楽的にはそつなくこなせていたと思うのですが、その力強さが若干仇になった感じでしょうか?
彼女のもともとちょっときりっとした男勝りな感じのするパーソナリティとも相まって、
ずっと父親と二人で島暮らし(キャリバンとかアリエルはいますが、、)の世慣れしていない少女、という風には私にはあまり見え・聞こえませんでした。
逆にフェルディナンド役のアレック・シュレーダーが相変わらずおぼこい感じなため、
世間知らずのぼんぼん王子を手玉にとるミランダ!って感じです。
そのアレック・シュレーダーは『The Audition』で『連隊の娘』のアリアを歌いたい!と言ってきかなかった例のゆるキャラのテノールです。
彼はこの『テンペスト』でメト・デビューを飾ったわけですが、ナショナル・カウンシルのファイナリストたちが次々とメトの舞台に立ち、活躍するのを見るのは、
ローカルのファンとして本当に嬉しいことです。
彼はこの気の良さそうなナポリ王子を演じるのにぴったりの、さわやかで温かみのある綺麗な声をしているな、と思います。
『The Audition』の中ではアリアで挑戦するハイCのところばかりがフォーカスされた感じですが、
むしろ彼の良さはこういった優しさ・温かさを感じさせる声質そのものの方にあるんじゃないかな、と感じました。
皮肉なことに、今回の公演を聴く限り、彼はそれほど超高音が得意なわけではないんじゃないかな、という気もします。
フェルディナンドのパートの中での最高音あたりに来ると、音が痩せ気味になったりしてましたし。
後、彼はスタミナに若干の不安があるんでしょうかね?
フェルディナンド役は、他のオペラ作品の主役級テノール・ロールの大部分に比べたら、登場時間もそう長いわけではないし、
歌う場面も上手く分散されているので合間合間に休憩もとれるし、で、スタミナの面ではそんなにめちゃくちゃ大変な役には思えないんですが、
登場時の勢いに比べると、段々とトーン・ダウンして行ってしまったような印象を持ちました。
これから色んなレパートリーで活躍して行こうと思ったら、フェルディナンド役でバテてる場合ではありません。



この作品で最も印象深い旋律の一つを任されているキャリバン役。
うーん、、、アラン・オークは今回最大のミスキャストだったんじゃないでしょうか、、。
平面的なヒール役的表現に過ぎて、キャリバンのキャラクターの複雑さが全くと言っていい位伝わってこない。
わざと音を重たく(ピッチを下げ気味に)歌うのも、場所と頻度をわきまえれば効果的だと思いますが、
ほとんど全部のフレーズがそんな感じで、こういう歌唱は安易かつ下品でやだな、と思います。

この作品のコメディック・リリーフ的役柄を請け負っているステファノ役のバーデットとトリンキュロ役のデイヴィスは達者かつ危なげのない歌唱と演技で
オークが冴えない分をよく埋め合わせてくれていたと思います。
ただ、デイヴィスに関しては昨シーズンの『ロデリンダ』で初めて生の歌声を聴いて、
ああ、こういう人がカウンター・テノールの世界には出て来ているんだな、とすごくエキサイティングに感じたのですが、
『テンペスト』でトリンキュロ役に与えられている音楽は残念ながら、彼のフル・キャパシティを存分に引き出すようなものではないので、
別の機会に彼の良さが活きるオペラ作品かリサイタルで改めて歌声を聴きたいな、と思います。
(ここもせっかくカウンター・テノールを使っているのに、作品の中でそれがいまいち活かし切れてない感じで、
せっかくデイヴィスみたいな極上のカウンター・テノールを連れてきているのに宝の持ち腐れ!とちょっとじれったく感じる部分です。)

アントニオ役のトビー・スペンスは2009/10年の『ハムレット』のレアティーズで綺麗な声だな、、と思ったんですが、
いかんせんあんまり歌唱量が多くない役なものですから、ストレスが貯まる貯まる、、、
で、やっとその彼の歌声を再びメトで聴けることになったのですが、残念なことに彼はこの間に甲状腺がんによる手術を経験していて、
現在はまだそこから完全に本来の声を取り戻すところにまで至っていないような気がします。
高音域で思い通りの声が出て来ない様子はちょっと痛々しい感じすらあって、それでも生来力のある人だからでしょう、
何とか無難にまとめていますが、一日も早く、彼本来の声でまたメトの舞台に立って欲しいな、と思います。



ナポリ王役のバーデンは超一級の歌手とは言い難いし、きっとスタンダードなレパートリーで聴くと技術の面での物足りなさ
(発声がイーブンでなく、一つの音の中でも音が不安定になりがちなのは今回の公演からも感じられる。)が目立つのでしょうが、
この作品のこの役に限っては、何かがうまくクリックしているのか、キャストの中ではキーンリーサイドの次に豊かな情感を感じる歌だったと思います。

キャラクター役にはもっとも役得な感じのあるゴンザーロはベテランのジョン・デル・カルロが自身の人の良い雰囲気と相まって好演してます。
そういえば、ゴンザーロが最後の幕で歌うパート(アリエルが怪鳥に化けて現れる直前の部分)も、
すごく音域が低いうえに、オーケストレーションがなんだか妙で、もうちょっとですごく良い感じになりそうなのに、
途中でめんどくさくなって”これでいいや。”みたいになってしまったのかな?と思うような変さです。

終演後に階段を降りる途中、他の観客の
”まあ、最後までは聴かせる作品になってるし、『テンペスト』の幻想的な雰囲気は出てたよね。”という声が聴こえてきました。
後半については、、、これは人それぞれなんでしょうね。私はシェイクスピアの『テンペスト』を読んでも、
アデスがつけたような音楽やルパージのプロダクションのようなものは全くイメージしませんでしたが、
こういう雰囲気の解釈の仕方もあるんだな、、、と面白かったです。
そして、前半はまったく同意。ヴォーカル・パートについては私は若干”んー、、”と思うところもあるのですが、
オケも含めた作品全体としては、こちらが催眠にかかっているような錯覚がおこるような独特の浮遊感がある瞬間があったり、
2時間にわたってオーディエンスの注意を引きつけて離さない作品を書けるというのはすごいことだと思います。

ただ、、、指揮に関しては、指揮が本職の人に頼んだ方が良かったんじゃないかな、、、。
例えばジョン・アダムスも、彼本人が指揮した『ニクソン・イン・チャイナ』より、
ギルバートが指揮した『ドクター・アトミック』の方がオケに関しては良かったです。
アデスってば、自分で書いた複雑なスコアが手に負えてなくて、メトの演奏もROHに負けず劣らず怪しい部分があって、
そっか、あれはオケというより、アデスの仕業だったんだな、、と思った次第。
それに、、、アデスの指揮振りって、ドミンゴに似てるんですよね、、、
いやー、もうそのやばさに気づいた時点で専門の指揮者を雇うべきだったでしょう、メトは。


Simon Keenlyside (Prospero)
Isabel Leonard (Miranda)
Audrey Luna (Ariel)
Alan Oke (Caliban)
Alek Shrader (Ferdinand)
Kevin Burdette (Stefano)
Iestyn Davies (Trinculo)
Toby Spence (Antonio)
Christopher Feigum (Sebastian)
John Del Carlo (Gonzalo)
William Burden (King of Naples)

Conductor: Thomas Adès
Production: Robert Lepage
Set design: Jasmine Catudal
Costume design: Kym Barrett
Lighting design: Michel Beaulieu
Video image art: David Leclerc
Choreography: Crystal Pite
Dr Circ A Even
ON

*** アデス テンペスト Adès Tempest ***

OTELLO (Sat Mtn, Oct 27, 2012)

2012-10-27 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


やっぱり気になって、来てしまいました、、、。

『オテロ』の初日(10/9)での思いがけない事態については、こちらの記事でお話した通りですが、
ボータがその後に続く公演を全部降板したまま、今日のHDの日の公演まで時間が流れてしまいました。
通常、HDの一つ前にあたる同演目の公演はバックアップ用の映像を撮影する日になっているんですが、
その公演も歌わなかったということは、相当具合が悪くて舞台に立てなかったか、
HDの公演に一点賭けするつもりで猛烈に慎重を期しているか、そのどちらかということになります。

ボータは2007/8年シーズンの『オテロ』(共演者がフレミングなのも、指揮者がビシュコフなのも今シーズンと同じだった、、)をはじめ、
連年メトで歌声を聴いていますけれど、私にとっては、残念ながら彼は歌は上手いけれど、羽目を外さない、
手堅さばかりが目立つつまんないテノール、という位置づけになっていて、
本当なら、そんな手堅い公演をランのどこかで一公演聴いて、”やっぱり手堅くてつまんなかったな。”とか思いながら家路について終り、のはずでした。

しかし、結局、私が鑑賞することに決めていた公演で、ボータでなくアモノフが歌うことになってしまったのは、やはり上で紹介した記事の通り。
アモノフは彼なりに頑張っていたとは思うので、悪く言いたくはないのですが、しかし、歌手の器としては、
私が退屈だと断罪しているボータと比べても、一回り、いや、二回り、いやいや、三回りくらい直径が短かかった。

今日メトで起こりうることとして、3つのパターンが考えられます。
① 公演当日の朝の段階でメトのサイトに掲載されている通り、ボータが歌う。
⇒ まだ、今シーズンは彼のオテロを生では聴いていないし、初日にあんなことがあったので、どんな歌唱になるのか興味はそそられるので、このパターンなら行って損なし。
② メトに行ってから、結局やっぱりボータの回復間に合わず、再びアモノフが舞台に立つことを知らされる。
⇒ ああ、これこそは絶対に避けたい超ルーザーなパターン!!!しかし、可能性はゼロとは言えない。そして、この可能性がある限り、今日はスタンディング・ルームに限る。
③ メトに行ってから、結局やっぱりボータの回復間に合わず、、とここまでは②と同じだが、代役にアントネンコ、クーラ、ドミ様(ドミンゴ)のいずれかが舞台に登場する。
⇒ これを見逃してちゃ、いかんでしょう!!

というわけで、またしても朝っぱら(10時だけど、私にとって週末の10時は立派な朝っぱら。)からメトに電話。
10時に立見席の販売が始まって、たった3分でつながったというのに、もう最前列は売り切れていた、、、むー。ヘッズたちめ、どれだけすばしっこい?!



ラッキーだったのは到着してみると、二列目とはいえ、真ん中寄りの通路に一番近い場所だったこと。
一歩横に移動すれば、目の前は通路で、前に何も遮るものがない状態で舞台を眺められます。
特に前に立っているのが岩のような体格のおやじなので、これは助かった、、、ふぅ。
と、そこで、いつの間にか私のすぐ側ににじり寄っていた小柄なおばさんが私の立ち席を指して、”そこ、私の場所だと思うわ。”と主張してきます。
これまでにずーずーしいローカルのヘッズを嫌ほど数見て来た私ですからね、そう簡単には騙されません。
”あら、どうしてですか?さっきチケット見て確認したら、確かに私の番号でしたけど。なら、あなたのチケットには何番って書いてあるんです?”と言うと、
”ちっ!メトに不慣れな旅行者じゃないのか。”という表情を一瞬浮かべ、私の質問に答えないまま、
他に騙せそうな相手がいないかを探しに、再び放浪の旅に出て行きました。

いよいよ開演!という頃になり、結局そのおばさんは私の隣のスポットに戻って来たのですが(思いの外、旅行者が少なかったか、、?)、
まだしつこく、”一列目の男性、本当、大きいわ。あなた、私より背が高いじゃない?だから私と場所を交替した方がいいと思うの。”と言って来ます。
ついうっかり間違って”そうですね、なら替わって差し上げましょう。”と口走ってしまいそうになる論理ですが、
よく考えてみれば、その男性が私がより小さければ話は別ですけれども、彼は私よりもずっと縦にも横にもでかくて、私とおばさんの両方の前方に跨っているような状態ですからね。
おばさんと場所を交換したら、今度は私が見えなくなってしまいます。
”お気の毒ですけど、それだけは絶対にありえませんわ。”と即刻撃沈しておきました。



先ほどからずっと、アントネンコとかクーラとかドミ様の名前が出るのを今か、今かと待っているというのに、
家を出る前にメトのサイトをチェックした時は今日のオテロ役はボータとなっていた、
そして今手にしているプレイビルにも歌手の交替を通知するお知らせが入っていない、
それにいつまで経っても代役の名前を発表するハウスマネージャーの姿が見えない、
と思ったら、あれよあれよという間に指揮のビシュコフが出て来てしまった、、
この妙なデジャ・ヴ感は何?、、、と思えば、ついこの間の火曜日(フィラデルフィア管弦楽団のヴェルレク)とまったく同じパターンではないですか、、。
ということで、結局、②番でも③番でもなく、無難に①番のシナリオとなりました。

ボータに関しては、一つ前の公演もあきらめて、ずっと休みをとったのは正解だったと思います。(最善策は初日を歌わないことだったと思いますが。)
今日のタイミングでの復帰は、本当ぎりぎりでなんとか形になった、という感じでした。
まだ少しこちらをひやっとさせるような声を出している場面が何度かありましたが、
経験のなせる技も大きいんでしょう、良く踏みとどまって、初日のようなあからさまな破綻に陥ることからは回避できていました。
でも、それは逆を言うと、好調時でも私が今一つ彼に夢中になれない理由である、例の”手堅さ””つまんなさ”といった側面に油を注いでいる感じです。
だって、『オテロ』みたいな作品で、歌手がいつものコンフォート・ゾーンから一歩踏み出て全力で役柄に体当たりするのでなかったら、一体どの作品でそうするって言うんでしょう?
我々オーディエンスが血管の中で血がぼこぼこ言っているのを感じる位の興奮を引き起こしてくれなかったならば、そんなの『オテロ』じゃない!とすら私は思います。

一つには、彼は巨体なら巨体なりに、自分をエレガントに見せつつ演技する術を身につけなければならないと思います。
イケメンか?痩身か?といったような意味での”ビジュアル”はどうでもいいと思いますけど、
オペラが視覚も伴う舞台芸術である以上、演技をも含めた意味でのビジュアルは、今に限らず、昔からずっと大切なオペラの一面でした。
その大切な演技、特に体を使った表現が、彼は全く出来ていない。



例えば、第三幕の最後で、自分の部下も含めたキプロス島の人々の目の前で、いわれのない不倫の罪をデズデーモナにかけた挙句、
自分から逃げ去れ!と全員をその場から追い出し、ヤーゴと二人きりになった後、

Fuggirmi io sol non so..      私だけが自分から逃げるすべを知らずにいるのだ、、
Sangue!               血(復讐)だ!
Ah! l'abbietto pensiero!      ああ、汚らわしい考えが
cio m'accora!            私を苦しめる
Vederli insieme avvinti..      彼ら二人が抱きあっているのが見えるようだ、、
il fazzoletto! il fazzoletto! ハンカチだ! ハンカチ!
Ah!                 ああ!

と言いながら錯乱し、気を失って倒れてしまう場面がありますが、まあ、その倒れ方の不細工なことには、私のいる立見席一帯で失笑が漏れていました。
感謝祭で七面鳥を食べ過ぎてお腹一杯になってひっくり返っているのとはわけが違うんですから、もうちょっと何とかならないか?と思います。

この後、舞台裏から聴こえてくる民衆の

Evviva! Evviva Otello! 万歳!万歳、オテロ!
Gloria al Leon di Venezia! ヴェネツィアの獅子に栄えあれ

という合唱を受けて、ヤーゴが倒れたオテロの体を足で踏みつけながら、軽蔑心モロ出しで、

Ecco il Leone! 獅子がこのざまか!

と歌って、(しかもその後にヤーゴ役のシュトルックマンが小馬鹿にしたようにぽとーんとボータの体の上にハンカチを落とす、
この演技のタイミングが大変巧みで唸らされます。)幕が下りるわけですが、
つまり、ヴェネツィアの獅子とまで歌われる強い人間(であるはず)のオテロが、とうとうヤーゴの悪巧みに、
いや、というよりは、ヤーゴの悪巧みによって引き出された自分自身の(そして人間誰しもが持っている)弱さに陥落した、、、
オテロの倒れる姿には、その瞬間の、獅子が倒れるような様子が重なっていかなければならないのです。
ったく、”腹いっぱい食べ過ぎたで。げふーっ。”ってやってる場合じゃないでっせ!ボータさん!!

大体、ボータの声質は、このオテロを歌うにはやや明るすぎることも、彼が自覚しておかなければならない点じゃないかな、と思います。
例えば、アントネンコ、クーラ、ドミ様といったテノールたちは、同じ言葉、同じフレーズを歌っていても、声が暗くて重いので、
もうそれだけで歌の内容の深刻さが20%位アップして聴こえるというか、
50メートル競争に例えるなら、スタート地点を10メートル有利に動かしてもらっているのと同じ位得しているわけです。
ボータの声はややもすると、明るく能天気に聴こえがちなので、歌い方や表情のつけ方、それから演技、全部を稼動させて、その損している部分を埋めなければいけないのです。
なのに、、、。

YouTubeの音源・映像は著作権の問題などからクレームが来たりして、いつ視聴不可になるかわからないですし、
映像の性質からいってその可能性が高そうなのでここで紹介はしませんが、このHDの日の映像をすでに入手している方が
オテロとデズデーモナの二人がデズデーモナの不倫(もちろん事実ではなく、オテロがそれを疑っているだけなのですが、、)をめぐって口論になる場面をYouTubeにアップされていて、
それを見ると、ボータは嫉妬と疑惑という狂気に憑依されているような様子で、ほっぺたをぴくぴくさせながらデズデーモナに対して怒り狂っていて、
ヘッズの中には”あのサイコ熊みたいなアプローチも、あれはあれで怖くて面白い。”と評している人がいましたし、
私も、へー、意外と顔だけはちゃんと演技してるんだな、、、と感心しましたが、
ただ、そういう顔だけの演技って、HDとかDVDではいいかもしれませんけど、劇場の私がいる立見席のような場所には全然伝わってこないんですよ。
だから、もっと体全体をつかって演技表現をするべきだ、と思うのです。

それから、”嫉妬と疑惑という狂気に憑依されて”と書いたついでに言うと、実際のところ、オテロを襲ったのは狂気なんでしょうか?
私は全然そうではないと思っていて、オテロが狂気なんかからではなく、正気からあのような行動を起こしているところが、
この物語・作品の、恐ろしく、また憐れな部分だと思っていて、オテロを仮に一時的にでも狂人として演じるようなことは、
この話が私達の誰にも起こりうる、というアンダーカレントと相反する方向に持っていこうとすることになってしまうと思うので、個人的には賛成しません。



このボータが苦手なことの全てを巧みになしとげているのがヤーゴ役のシュトルックマンです。
彼の歌唱は以前の感想でも書いた通り、決してスタイリッシュではないし、時にはやり過ぎ、歌い崩し過ぎ、、と感じることもあります。
(ただし、今日はHDがあることも念頭に置いていたのか、私が前回鑑賞した公演よりは多少やり過ぎ感が影を潜めていました。)
しかし、劇場の端々にまで、きちんとその意図が伝わる演技は素晴らしいと思います。
それこそ合唱を伴ったアンサンブルのシーンでも、立ち姿一つとっても気を抜いている瞬間がなく、足の置き方、開き方、
腕の位置(下に下ろす、組む、ちょっとした動作をさしはさむ、、)、頭のかしげ方まで本当にたくみに計算されていて、
その時その時のヤーゴの気持ちが手に取るように伝わってくるほどです。
クレード(”残酷な神を信じる Credo in un Dio crudel")での気合の入り方もこれまでの公演で一番だったのではないかと思う内容で、
良く声も鳴っていて、彼に関してはHDで実力通りのパフォーマンスが出せていると思います。

実際、前述のヤーゴがオテロの体を踏みつけにする場面での彼の歌唱や演技からは
”俺は俺の信条(クレード)が世の中の基準では悪に類されるものであったとしても、何の迷いもなくひたすらそれを信じて実行しているぞ。
それがどうだ、お前は、地位、素晴らしい妻、上司思いの部下(カッシオ)、すべてを手にしながら、
その事実に気づくことも、感謝することも、守ることもなく、ちょっとした嘘を信じて女々しく迷っている。”というような、
オテロに対する人間としての侮蔑が溢れていて、それがあまりにも説得力があるので、オーディエンスも、
”そうだよね、オテロ、なんか女々しいよね。こうなって当然だよね。”という気がしてくるほどなんです。

で、ここでボータが、いや、しかしオテロにだって彼が持っている感情を感じざるを得ない理由があるのだ、ということを、
しっかり歌と演技で表現してくれれば、オーディエンスがオテロとヤーゴのどちらの気持ちにもシンパシーを感じることの出来る、
二役ががっぷり組んだ素晴らしい公演になるのですが、
悲しいかな、ボータにその力がないので、なんだかヤーゴだけがとても活き活きして見えて、バランスの悪いことになってしまっているのです。
ということで、この記事のトップ写真の栄誉は、オテロ役のボータではなく、ヤーゴ役のシュトルックマンに献上することにしました。

フレミングはいつもそうなんですが、少しHDの時にブレーキがかかってしまう傾向があるように思います。
失敗をするのが嫌なんでしょうか、リスクを取らずに安全運転、守りの歌唱です。
ただ、初日や私が前回鑑賞した公演の時ほどには声のコンディションが良くなかったのかもしれないな、と感じるところもあって、
もしそれが正しかったとすると、その状態、かつあの年齢で、それでも今日くらいの内容の歌唱をデリバーできるということは、
彼女がこのデズデーモナ役と比較的相性が良いということの証拠だな、とは思います。
そうでなければ、もっとクオリティの低い歌唱になっているでしょう。
ただ、彼女もボータと同じで、何か、一つ突き抜けたものが感じられない、、、そこが私の不満です。
『オテロ』みたいな作品で、無難な歌、上手い歌だけ聴いたって意味がないですから、、。

ランの最初の頃はなんだかエキセントリックなことを色々繰り広げていた指揮のビシュコフも、
リハーサルなしで舞台に立った不慣れなアモノフの相手をしているうちに、それどころではない!という覚醒にいたったのか、
今日の演奏ではかなりノーマルになってました。
ただ、彼もフレミングと同じで慎重派なのか、
(ま、久しぶりに戻って来たボータのために、彼の歌いやすいように指揮することに専念した、ということもあるのかもしれません)
安全運転しているうちに、なんとなくゆるーい演奏になってしまったのは残念。
オケに関しては、エキセントリックだけど、勢いという面では初日や二日目(私が前回鑑賞した公演)の方が勝っていたように思います。


Johan Botha (Otello)
Renée Fleming (Desdemona)
Falk Struckmann (Iago)
Michael Fabiano (Cassio)
Eduardo Valdes (Roderigo)
Stephen Gaertner (Montano)
Renée Tatum (Emilia)
James Morris (Lodovico)
Luthando Qave (A herald)
Conductor: Semyon Bychkov
Production: Elijah Moshinsky
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Peter J. Hall
Lighting desing: Duane Schuler
Choreography: Eleanor Fazan
Stage direction: David Kneuss
ORCH SR left mid
OFF

***ヴェルディ オテロ オテッロ Verdi Otello***

VERDI REQUIEM: THE PHILADELPHIA ORCHESTRA (Tues, Oct 23, 2012)

2012-10-23 | 演奏会・リサイタル
8月に鑑賞したスカラのヴェルレクという壮大な前振りを経て、
ようやく、10/23にカーネギー・ホールで聴いたフィラデルフィア管弦楽団の演奏の感想です。

NYは常にどこぞで興味深い公演・演奏会が企画されていて、それはそれで非常にありがたいことなのですけれども、
それは稀に、”これはどっちに行けばいいのーっ?!”と頭を抱えて一つしかない我が身を恨む、、というような事態も引き起こします。
私の場合、オペラが絡んでいれば、大抵はそっち(大概メト)の方を優先することになるわけで、
仮にメトの公演ではない方を優先することになっても、オペラは普通複数回の公演があるので、どうしても初日を見たい!とか、
一日しかキャスティングされていない特定の歌手を聴きたい!というような特殊な事情でない限り、大きなコンフリクトは避けられるわけです。
しかし、今シーズン、私はどうしてもメトの『テンペスト』の初日を観たい理由があって、
その『テンペスト』の初日の日程が思いっきりカーネギー・ホールで予定されている
フィラデルフィア管弦楽団によるヴェルレクにバッティングしているのを発見した時は、身もよじれんばかりのジレンマを感じました。
というのも、前述のスカラのヴェルレクの記事で書いた通り、私はヴェルディの『レクイエム』という作品に
偏執的な愛情を持っている、つまり、ヴェルレク・フェチなものですから、
この作品が一定以上の力のあるオケ、興味を引かれるソリストなどによって演奏される場合は、
ほとんどパブロフの犬的な条件反射でもって、”聴きに行かなきゃ。”と思ってしまうのです。

アデスは数年前にベルリン・フィルのカーネギー・ホールの公演でその作品『Tevot』を聴いて
現代音楽が激苦手な私でさえ、なかなかに面白い個性と才能を持った作曲家である、ということで、連れと意見の一致を見ました。
その彼のオペラ作品をはじめてメトで鑑賞できる機会が『テンペスト』であり(で、やはりそういう意味での興奮は初日が一番なんです)、
サイモン・キーンリーサイド、トビー・スペンス、イエスティン・デイヴィス、
イザベル・レナード、オードリー・ルーナ、アレック・シュレーダー(映画『The Audition』でメザミを歌っていたゆるキャラの。)といった
ベテラン、中堅、若手を取り混ぜたキャストで激しく誘惑してきます。

片や、私の偏執的愛情の対象であるヴェルレクの方はといえば
ネゼ・セギャンとフィラデルフィア管弦楽団がこの作品をどのように演奏するか、という真っ当な興味の他に、
2008/9年シーズンの『ルチア』で最後に歌声を聴いて以来、
メトでもキャンセルの嵐で(ただし、2011年の日本公演で一公演だけ『ルチア』に登場しましたね。)、
彼は喉を潰したのではないか?もうオペラの全幕の世界には戻って来れないのではないか?という風評が後を絶たない
ロランド・ヴィラゾンがテノール・パートに配されていたり、
この際、目玉だけじゃなくなくエラもついでに飛び出しておきましょう、という配慮なのか、
ソプラノ・パートにマリーナ・”箱ふぐ”・ポプラフスカヤまで付いてくる、という周到なフィラ管の作戦により、
ほとんど、こわいものみたさに近い低俗な興味が湧いて来ました。

結局こわいものみたさの誘惑に見事に陥落したMadokakipは『テンペスト』は後の公演を見ればいいか、、ということで、
初日の興奮を犠牲にし、フィラ管の演奏会のチケットを手配するわけなのですが、
実は演奏会の数日前まで、やはり箱ふぐのヴェルレクを聴いている場合ではないかもしれない、、と、
『テンペスト』への執着も断ち切れない優柔不断な私なのでした。

しかし、そんな未練が吹き飛ぶ大事件が発生!です。
フィラ管はカーネギー・ホールにやって来る直前の週末に、同じヴェルレクをホーム、つまりフィラデルフィアで演奏したのですが、
その週末の公演を箱ふぐがキャンセルして、アンジェラ・ミードがカバーに入りましたよ、と、
その公演を実際にご覧になったCSTMさんがKinoxさんのブログのコメント欄に書き込まれたのです。
ハレルヤ!!!!!
このブログをしばらく読んで下さっている方ならご存知の通り、
ミードは私の大好きなソプラノであり、なかでもヴェルレクは彼女のレパートリーの中でも最高の部類の歌唱を聴いたことがある作品の一つなので、
これで瞬時にして『テンペスト』への迷いが吹っ飛んだというものです。

音質が良くなく、オケがヘッポコ(コーラスはまあまあなのに、、)&アプレアという指揮者の動きが面白くて気が散ることこのうえないですが、
私がピッツバーグやボルティモアで彼女のヴェルレクを聴いたのと大体同じ頃と思われるパーム・ビーチ・オペラとの演奏会の時の様子がYouTubeにありました。
8月のスカラ座でのハルテロスの歌も綺麗に歌うだけではなくて、こういう種類のパッションがあったらもっともっと良かったんじゃないかな、と思います。
そして、メゾがザジックなんですね、、、羨ましい。
何にせよ、箱ふぐの体調が週末に優れなかったのだとしたら、火曜のカーネギーに間に合う公算は少ないな、ということで、ぐしししし、、です。



週明けにはミードのオフィシャル・サイトにもフィラデルフィアでつとめた代役の件が掲載されましたし、
これでカーネギー・ホールが箱ふぐからミードへの代役発表をするのも時間の問題、、、と、
演奏会を夜に控えた当日仕事中もこっそりウェブチェックに燃えてしまいましたが、なしのつぶてです。
もったいぶりやがって、、会場で発表してみんなを喜ばせようというつもりだな、カーネギー・ホール。
いよいよホールに到着し、”ああ!何か小さい紙がプレイビルにはさまっているぞ!これだな~!!”とその紙を大喜びで引っこ抜いてみれば、
Subscribe today!と書かれたカーネギー・ホールのサブスクリプションをすすめる広告でした、、、 なんだよ、まぎらわしい!!
ってことは、印刷が間に合わなかったんですね、きっと。開演前にホールのマネージャーか誰かが出て来て発表するんでしょう。

隣に座っている男性が開演前からかなりハイ・テンションになっていて、
今日の公演をどれほど楽しみにしているか、熱く周りの人に語っています。
聞けば彼はフィラデルフィアが住まいなのですが、やはり週末の演奏会を鑑賞していて、
それがあまりに素晴らしかったので、つい今日の公演を聴きにNYまで追いかけて来てしまったのだ、と言います。
”ミード、良かったでしょう?”というと、大きく頷き、さらにこう大絶賛です。
”しかし、何よりもネゼ・セギャンの指揮が最高なんですよ。彼の振るヴェルレクは誰とも違う!”
ふーん、、、おじさんがそこまで絶賛するもんですから、こちらの期待値も俄然あがってきました。

しかし、オケのメンバーがチューニングを終え、携帯のスイッチをオフに!というメッセージがスクリーンとスピーカーで流され、
ホールが静まり返っても、ホールのマネージャーが出て来ません、、、
ついにネゼ・セギャンとソリストたちが舞台に出て来てしまいました。そして、、、

えーーーーーーーーーーーっ!!!!!箱ふぐがいるーーーーーーっ!!!なんでーーーーーーーっ!?

Madokakip、もはや、いつ泡吹いて両手を鋏状態で横向きに走り出してもおかしくない状態です。
ミードのヴェルレクが、、、、、ひゅるるるる。
頭が真っ白なMadokakipの前で、ネゼ・セギャンがお辞儀をかまし、隣のおやじが大興奮で拍手を送ってます。
むむむ、、、ここはやはり『テンペスト』に行っておくべきだったか、、、?
期待が大きかっただけに大ショックですが、こうなったら、彼の”誰とも違”って素晴らしいというオケの演奏を楽しむしかないんでしょう。

レクイエム(永遠の安息を与え給え、主あわれみ給え)の冒頭の弦楽器は表情のある良い音がしていて、
”おお、このまま行けば、、。”と軽く期待が膨らみます。
しかし、そこにウェストミンスター・シンフォニック・クワイヤーの合唱が入ってきて、椅子から転げ落ちるかと思いました。
もうこんなの全っ然駄目!
前にピッツバーグの記事で書いた通り、この作品は合唱が5人目のソリストである、と言っても過言でない位大事なんです!
そして、合唱がソリストやオケと同じ位に雄弁にこの作品によって表現されるべきことを語るためには、
それを可能にするためのサウンド/音色と、きちんとしたディクションをマスターしていること、これが最低条件です。
ここの合唱はどういうメンバーで構成されているのか知りませんが、
この『レクイエム』のような作品で一級のオケとパートナーシップを組めるようなレベルにはないです。少なくともこの日の内容を聴く限り。
やたら芯のないへなへなした音で、これでどうやって怒りの日やらリベラ・メに込められた激しい感情を表現できるっていうんでしょう?
それから、ディクション!特にtの音!!
アメリカとかイギリスとか、英語圏のへたれ合唱団がこの作品を歌う時に一番顕著に見られるみっともない欠点が、
このtの音での発音の誤りです。
ラテン語とかイタリア語のtの音って、舌の上顎へのアタックがゆっくりで濁りの少ない音ですが、
英語圏の人のtは、舌のアタックが早く&強くなる傾向にあって、そのせいでチャチュチョ、、、という音が混じっているかのように聞こえてしまうんです。
これは本当に耳障りだし、こういうのが聴こえてきた時点で、あ、ここの合唱は二流だな、と思ってしまいます。
しかも、悲しいかな、時間はかかりません。冒頭の

Requiem aeternam dona eis, Domine
et lux perpetua luceat eis.

だけでそれがわかってしまうんですから。
実際に歌われる場合は、いくつかの言葉やフレーズで繰り返しがあって、ハイライトした以上の数のtが出て来るので余計気になります。
嘘だと思ったら、スカラの(いつの年代のものでも構いません)合唱と、アメリカの(二流の)合唱団が歌っているものをYouTube等でお比べになってみてください。
上の最後のルーチェアテイスのテがテェとでも表記したくなるような、ルーチェのチェにtを混ぜたような音になってしまっているのがわかると思います。
まあ、市民合唱団ならそれでもいいでしょう。
でも、フィラ管のようなオケと一応世界レベルで活躍しているソリスト達を揃えた公演にお供するのにこういうことではいけません。
こういう基本的なことも教えられない合唱団のコーラス・マスターは私だったら速攻クビにしますけどね。

これで6つの大切なエレメント(4人のソリスト、オーケストラ、合唱)のうち、一個はハイ、消えた!
(基本的なことがきちんとできていないので、作品を通して全く期待できない。)



では、指揮とオーケストラがどうだったかという、こちらも泣きたくなるような出来です。
オーケストラは前奏部分でちらりと感じられた通り、決してオケの基礎体力で劣っているわけではないと思います。
正直、今日の演奏では、全体的に、フランスものを演奏しているんじゃないんだから、、と突っ込みたくなるような、
ふわふわした腑抜けた音作りとヴェルレクの演奏で必ずオーディエンスに感じさせなければならない
血管が沸きたがるような思いを逆に押さえつけるかのような味付けに辟易しましたが、時々、
ちらっと出て来る金管の音なんかを聴くと、本当はもっと違う演奏の仕方も出来るオケなんじゃないかな、、と感じさせられる部分もあって、
モントリオール出身のネゼ・セギャンの意向なのか、もともとのオケの個性でもあるのか、
私はメト・オケのことを知っているほどには、フィラ管の演奏は聴いても知ってもいないので、はっきりしたことは言えませんが、
どちらかというと前者だったんじゃないかな、、と思います。
(もちろん、両方がある程度寄与した可能性も排除しませんが。)

なぜならば、音作り以外のところの、明らかにネゼ・セギャンの責任の領域の部分で、頭を抱えたくなるような勘違いが続出だったからです。
まず、彼のこの作品への取り組み方が間違ってる。
彼はこの作品が、小手先の工夫や独自の解釈や見かけの興奮や盛り上がりだけでなんとかなると思っているんですよね。
WRONG! WRONG! WRONG!!!超浅はか!!!

もったいぶったレクイエム(第一曲目)のスロー・テンポさにも、”まさか、この人、、。”と思わされましたが、
一転、ディエス・イレ(怒りの日)で”ここは一発盛り上がってオーディエンスを乗せてくださいよ~。”とばかりに
踊り狂うネゼ・セギャンの指揮姿を見て、実に空回りしている、、、と思いました。
ディエス・イレは、最後の審判を描写しているわけです。

”ダヴィドとシビッラとの予言のとおり、この世が灰と帰すべきその日こそ、怒りの日である。
すべてをおごそかにただすために審判者が来給うとき、人々のおそれはいかばかりであろうか。”

この歌詞が歌う通りの内容を、謙虚に、誠実に、心をこめて描きつつ、あの音楽にのせることで、
あくまで結果としてとてつもない興奮と怖れの感覚がオーディエンスの中に生じるのであって、
それを伴っていないディエス・イレは単なる音のサーカスでしかない。
必死で金管や打楽器や合唱を煽っているだけのネゼ・セギャンを見て、”ヤニックよ、間違ってるぞ、、。”と、どんどん気分が冷めていくMadokakipなのです。

またびっくり仰天させられ、信じられずに思わず頭を振ってしまったのが、曲同士のつなぎの処理です。
一応、私の手持ちの楽譜上も、日本語で曲という表記になっているのと、そう言う以外にはどう説明しようもないのでそのように表記していますが、
ヴェルレクの特徴は、レクイエム、ディエス・イレ(その中でさらにティエス・イレ、トゥーバ・ミルムなど、、)、といった曲を単に順番に演奏すればいいのではなく、
それらが一続きとなって、感情の流れを伴った一つの大きな物語にもなっている点で、
ですから、単純にそれらを独立した曲や交響曲の楽章のように演奏してはいけないし、
曲の合間に堂々とハンカチを取り出して汗を吹いたりするなんてもっての他だと私は思っています。
(実際には聖なるかなの前後などは、合唱が立ち上がったり座ったりする間があるので、多少のブレークは生じるとは思いますが。)
そして、この作品においては、それぞれの曲の間でどのように違った間を持たせるか・持たせないか、というのも、
オーディエンスの感情の流れをコントロールする大事なツールであり、
変なところで間延びしたブレークを入れられたり、逆に余韻を楽しむために少しホールドして欲しいところでせかせかと次の曲に入られたりすると、
やっぱり、ヤニック、あなたこの作品のことを全くわかってないのね、、ってことになるんです。
すぐに次に入るべきところで、ハンカチを取り出して額を拭かれた日には、
私のすわっていたバルコニー席から指揮台にいるネゼ・セギャンに向かってドロップ・キックを決めてやろうかと思ったくらい。

他にもあまり普通は強調しないセクションの音を強調してみたり、
先にも書いたように、水彩画風のヴェルレクというか、妙に淡いタッチの演奏で押し通りたり
(でもそれじゃこの作品で感じられるべきものが何も感じられないと思う、、。)
あれやこれやと”僕風”のヴェルレクを振ろうとしてたみたいですけれど、
ま、一言で言うと、血肉化されてなくて、すごくうわべだけの音楽になってしまっているんです。
フィラ管の皆さんはすごく従順で、一生懸命ネゼ・セギャンの指示する通りに演奏しようとしてましたけど、
やっぱり彼らの中にそれが自然に流れているわけではないものですから、演奏していてもすごく難しいんだと思います。
なんだかすごくぎくしゃくした演奏で、奏者の人はどんな思いで演奏してるのかな、、とつい考えてしまいました。
最後の審判を描こうとしている時に、水彩絵の具では、、、ね、、。

ということで、オケと指揮もはい、消えました。



で、歌手に目を向けてみる。

メゾのクリスティーン・ライス。
彼女は以前、メト・オケのコンサートで歌声を聴いたことがありますが、
ヴェルレクみたいな作品で聴くと、あまり声自体に魅力のある人ではないな、、と感じました。
かなりドライな声質のせいもあるんでしょうが、ヴェルレクのオーケストレーションに上手くのれていないし、
それから、歌う時に妙な力が入っていて、楽譜を肩の高さまで持ち上げたその腕にすごい筋肉が盛り上がっていて、
なんだかよくわからないんですが、それを見ているうちに、げんなりしてしまったことも告白しておきます、、、。
ピッチもあまり正確でなく、特にソプラノとの重唱の場面で、??と思わされることが多かったし、
また、彼女の歌には内包されるべきリズムが欠落していて、なんとなく、なのりで処理している部分がそこかしこにあって、
その点では、箱ふぐの方がまだきっちりとした歌を歌っているな、と思いました。

バスのミハイル・ペトレンコ。
もしこの人が8月のスカラのヴェルレクでバス・パートを歌っていたら、発声やフレーズの処理がロシア的!とか言って非難轟々だったと思いますが、
喜んでいいのか、悲しんでいいのか、今日の演奏で一番まともな歌を聴かせていたのは彼だったと思います。
実際、高音での響きがすごくロシアっぽくって、ちょっと違和感ありますが、低音はなかなか魅力的でしたし、
スカラのパペの歌唱では思い入れたっぷり過ぎてひいてしまったトゥーバ・ミルム(くすしきラッパの音)の表現も適切で、
歌唱表現に関しては特に不満な箇所も問題にしたくなる箇所もありませんでした。

ソプラノの箱ふぐ(ポプラフスカヤ)。
うーん、、、、。
彼女はすごく演技が上手い人なんで(以前からそれは思っていましたが、昨シーズンの『ファウスト』での彼女の演技は
オペラの舞台の演技も、こんなレベルに到達することが可能なんだ、、と感じさせられるほどの内容で、本当びっくりしました。)、
オペラでは多少の誤魔化しがきくのですが、ヴェルレクではそれは全く無理である、ということが今日証明された感じです。
彼女の声自体の魅力のなさ、それからソプラノに普通に必要な高音域すらまともに出すことが出来ない、、などなどの欠点は、
これまで皆様をはじめとするオペラファンの多くに指摘され続けていることですが、まさにその通りの内容です。
オフェルトリウムでソプラノが歌う

sed signifer sanctus Michael 旗手聖ミカエルが
repraesentet eas in lucem sanctam かれらを聖い光明に導かんことを

特に最初のsedの音は天上の世界を感じさせるような陶然とした美しさでもって歌われなければならないですし、
それを言ったら、同じオフェルトリウムのラスト、

Fac eas, de morte transire ad vitam 彼らを死から生命へと移したまえ

のviの音も同じで、この箱ふぐの声では、、、って感じですし、
これではどれだけ楽譜通りにきちんと歌っていても、障害ありまくり、なのですが、
その上に、もしかすると、多少は彼女の方にそのあたりの自覚があるのかもしれないな、、と思うのは、
それを一生懸命、熱い、悪しき意味でのオペラティックな歌唱で埋め合わせしようとしている姿のせいですが、
スカラの記事でも書いた通り、ヴェルレクは日常言語が使われているオペラとは違い、典礼の音楽ですから、
内容を抑えずに、感情だけがそこからはみ出ているような種類の表現は、
ネゼ・セギャンがディエス・イレで各楽器を意味無く煽りまくった姿に似て、実に表面的で空回りな行為です。
最後のリベラ・メ(我を許し給え)での表現なんか、本当下品で、
今日舞台に立って歌っているのがミードだったならどれだけ良かったか、、と本当悲しくなりました。
(ミードのリベラ・メは上の音源で聴けます。)
でも、一方で、今日みたいなオケの演奏だったら、ミードの歌は宝の持ち腐れ。箱ふぐの歌唱こそがふさわしかったのかもな、とも思います。

テノールのヴィラゾン。
、、、、どう書きましょうか、彼の歌唱は。
このブログを読んで下さっている方の中にも彼を応援している方が結構いらっしゃると思うので、書くのに幾分気がひけるのですが、
もし、私が劇場のアーティスティック・ディレクターか何かで、彼をキャスティングするか否かを決めなければいけない立場だったとしたら、
きっと、今後、彼を舞台に招くことはないだろうな、と思います。
はっきり言うと、彼はすでにオペラの舞台をつとめられるような声を失ってしまった、という判断をするだろう、ということです。
中音域の音はまだ何とか出てはいますが、響きがすかすかで、高音に至っては彼の恐怖心が手に取るようにわかる。
オペラ歌手というのは、自分の楽器、つまり声に全幅の信頼をおけて、それではじめて、表現とか芸術の領域に入れるんです。
次の音は出るだろうか、、?とおっかなびっくりで、それに合わせて歌い方を調整しなければいけないような状態で、
どうやって作品が持っている真価とか新しい側面を声で表現できるっていうんでしょう?
実際、彼の声の壊れ方が想像以上だったので、正直、彼が高音に登るたびに、次はクラックしてもおかしくないぞ、、と、
こちらも身が固まる思いでした。
そんな状態で、一応、なんとか高音をものしていたのは、それはそれで大変なことだったとは思いますが、
実際出てきた音は、フルブラスト(となるべきところでも)とは程遠い危なっかしいもので、
当然のことながら、フォルテからピアノにわたる微妙なスペクトラムも出せないわけで、
これでヴェルレクを歌うのは無理だと思います。
先ほどから、何度もオフェルトリウム(オフェルトリオ)の話が出ているので、お手本サンプルとして、
カラヤン指揮、スカラのオケと合唱、プライス、コッソット、若き日のパヴァロッティ、ギャウロフの演奏をここ紹介しておきますが、



特に4'45"から始まる

hostias et preces tibi, Domine, laudis offerimus 主よ、称賛のいけにえと祈りとをわれらは主に捧げ奉る

は、この作品の中でも最も美しい旋律の一つと言ってもよいでしょう。
テノールはこの旋律を繰り返して歌いますが、ヴィラゾンはそれをいずれも全く楽譜通りの音程で歌えませんでした。
ピッチが狂っている、というのでは済まされない、はっきりと音程
(というか、フレーズの全部が狂っていたので、キーといってもいいかもしれない、、)が狂っている状態でした。

また、そんな不安定な声の状態で歌うことに本人もすっかりナーバスになっている様子で、
何度も何度も楽譜をほとんど取り落としそうになりながら持ち替えている姿は痛々しくて、
正直、こういう場で歌うのはもうやめてほしい、、と私は思いました。
彼が出演するオペラやリサイタルはこういう理由から、今後、もう二度と鑑賞しないと思います。

そんなことで、まともなパフォーマンスだったのはペトレンコ1人で後はもう何が何やら壊滅的な状態、、、だったのにもかかわらず、
リベラ・メの最後の和音が鳴り終って、何秒か経ってもネゼ・セギャンの指揮棒が降りません。
当然その間、オケの奏者たちはいつでもすぐに音が出せるよう、ヴァイオリンの弓はすべてあがったままで、
管の奏者も口元から楽器を下ろしていない状態なわけです。
それで、5秒、10秒、15秒、20秒、、、嘘でしょ?
しかもこんなわざとらしい猿芝居にオケの奏者もオーディエンスもつきあってるわけです。
勘弁してくれよ、、と、私は思わず目玉を回してしまいました。
だって、あのすさまじいスカラのオケと合唱の表現力に大感激した8月の演奏でさえ、
バレンボイムはそんなもったいぶったことをせず、すぐに指揮棒を下ろしたものですから、
ものの数秒のうちに拍手が起こり始めて、実にさりげないものだったんですよ。
どれ位待たされたでしょう。やっとネゼ・セギャンの指揮棒が降りて、オーディエンスから大きな拍手です。

もうあまりの勘違いぶりに笑うしかないというか、私はもう速攻で会場を後にしましたら、
階段で同じように苦笑いを浮かべた幾人かのオーディエンスの人たちと鉢合わせになりました。

私の隣のおじさんの”彼の振るヴェルレクは誰とも違う!”という言葉。
いや、文字通りの意味でそれが本当であることを心から祈ります。
こんなわけのわからない指揮をする人が他にもたくさんいたら、困りますもん!


GIUSEPPE VERDI Requiem

Marina Poplavskaya, Soprano
Christine Rice, Mezzo-Soprano
Rolando Villazón, Tenor
Mikhail Petrenko, Bass

Westminster Symphonic Choir

Conductor: Yannick Nézet-Séguin
The Philadelphia Orchestra

Center Balcony A
Carnegie Hall Stern Auditorium / Perelman Stage

*** フィラデルフィア管弦楽団 The Philadelphia Orchestra ヴェルディ レクイエム Verdi Requiem ***

MET ORCHESTRA CONCERT (Sun, Oct 14, 2012)

2012-10-14 | 演奏会・リサイタル
昨日の土曜日はマチネにHDの『愛の妙薬』を演奏して夜には『オテロ』、
そして今日はカーネギー・ホールでの演奏会、、と、とっても働きもののメト・オケです。

これまでこのブログで、メト・オケの演奏会の特徴が”寄せ鍋プログラム”である点
(一年に三度開催される演奏会であるけれども、三つ合わせて寄せ鍋なのではなく、一つの演奏会の中ですでに寄せ鍋状態!)
を指摘してきましたが、それ即ちレヴァインの意向であったことは疑いの余地がありません。
しかし、今シーズン第一弾のメト・オケ・コンとなる今日の演奏会のプログラムは、こりゃ一体どうしちゃったのか?
ワーグナーの『タンホイザー』序曲、同じくワーグナーの『ヴェーゼンドンク歌曲集』、
そしてリヒャルト・シュトラウスの『アルプス交響曲』という、まことに統一性のあるプログラムで、
これは絶対にレヴァインが決めたプログラムではないな、、と思います。
レヴァインが手術やら何やらでメト・オケ・コンどころの状態でなくなっている間に、
ルイージが決めたものではないか、と私は推測するのですが、
プログラムを決めておいてから、本当にスケジュール上のコンフリクトがあったのか、
思いの外、ヘビーなプログラムにやる気が失せたか(自分でプログラムしたくせに、、、)、
相変わらずレヴァインに対しての特別待遇を可能にするためにルイージに対する態度が煮えきらないメトに、
段々自分が利用されている気がして、無理して都合つけるのが馬鹿らしくなって来たのか、
なんとこの大変なプログラムを指揮するのは、昨日の夜の『オテロ』に続いて、セミヨン・ビシュコフです。

おそらく同時期にメトの全幕公演を指揮している指揮者のなかで、
唯一、このプログラムを振ってきちんと形に出来るのは彼しかいなかろう、ということでこうなったんでしょう、、、
『愛の妙薬』のベニーニはベル・カントものに関しては良い指揮者ですが、ワーグナー&シュトラウスは守備範囲外ですし、
『トロヴァトーレ』を振ってるカリガリ博士(カレガリ)なんか連れて来た日には、
もう何もかもが崩壊!ということになってしまうこと必至なので、ビシュコフは妥当な人選なんだと思います。

昨日の『オテロ』の感想にも書きました通り、5年前のビシュコフの『オテロ』での指揮はメト・オケの良さを活かした自然な演奏になっていて、
私は結構好印象を持っていたんですが、なんだか昨日の公演の演奏はビシュコフらしさを出そうと頑張りすぎて失敗してしまったというか、
エキセントリックな味付けが炸裂し、まだシーズン二度目の公演ということもあるからかもしれませんが、
今一つオケの方も咀嚼できていない感じで、どうしちゃったんだろうなあ、、と思いました。

それを言えば、ルイージも、数シーズン前のタッカー・ガラみたいな単発ものの指揮や、
レヴァインの体に激しくがたが来出した頃に代わりにピットに入って振ってた頃はすごく良い演奏を出していたのに、
なんか、首席指揮者に任命されて、自分のカラーを出し始めた頃からでしょうかね、私にはぴんと来なくなりました。
いや、ぴんと来なくなったどころか、音楽監督としての演奏レベルを期待した場合、
その期待水準以下、と感じられるようなものまで出て来るようになって、
リング・サイクルもなんだか細部ばかりにこだわったちまちました音作りで、
作品の大きなアークを見失っているなあ、、と感じさせる、まったくもって私の苦手なタイプの演奏だったんですけれども、
そういうテイストの問題を脇においても、これまではありえなかったような大きなミスがオケから飛び出したりしていましたし、
なんかこう、”この指揮者が指揮してたら絶対ミスは出来ない、、。”と奏者に思わせるような厳しさとか緊張感がないんですよね、ルイージには。
こんなことではとても次期音楽監督は任せられん、、と思います。
これは別に私だけがそう思っているわけではなくて、私が懇意にしているヘッズ友達のほとんど全員が
”He's no Levine. (彼はレヴァインとは違うよな。)”と口を揃えて言ってます。

新しいアイディアを試みたり、人と違うことをやるのは結構なんですけれども、
与えられた時間との兼ね合いから、現実的にそれを徹底出来る力が自分にあるか?という、その辺の分析が、
昨日のビシュコフとか最近のルイージにはもうちょっと必要なんじゃないだろうか、、と感じたりもします。
それを言うと、限られた準備期間内で、明らかに普段のメト・オケとは違うサウンドを作って、
それでなおかつ良い結果を出せたムーティ(『アッティラ』)とかラトル(『ペレアスとメリザンド』)はやっぱり力のある指揮者、
ということになるんだと思います。

この二人ほどの徹底した実力やオケのメンバーを動かすカリスマ性がない指揮者は、
思い切ってある程度メト・オケに好きにさせる、そういう演奏を試みた方が概して結果が良い。
オケが初めて演奏する作品やあまり慣れていない作品ならそうも行かないでしょうが、
『オテロ』とかリングみたいに結構な頻度で上演されている作品なら、
はっきり言って、下手な指揮者よりよっぽど作品のことを良く知っている奏者がこのオケにはいるんだから、
カリガリ博士みたいなオケを撹乱してしまうような指揮者は問題外ですが、
一定以上の技術がある指揮者なら、それなりに結果が付いてくるし、
一時期のルイージや、5年前のビシュコフの『オテロ』はそのアプローチが成功していた例だと思うのです。

今日のビシュコフが昨夜の『オテロ』みたいなことをやり始めると、危険だな、やだな、と思っていたのですが、
『オテロ』に加えてこの演奏会まで細かく手を回す余裕がなかったんでしょう、
それがゆえに、幸運なことに今日の演奏会はメト・オケの持ち味が良く発揮された、近年で最もエキサイティングな演奏になりました。

私がメト・オケ・コンで座るボックスはほとんどがサブスクライバーで占められているため、大体毎回同じメンバーに囲まれて鑑賞することになるんですが、
その中に1人薀蓄語るのが好きなおじいがいて、今日も演奏開始前から、周りの人間に
”ヴェーゼンドンクはわしの大好きな作品だから今日は良い演奏じゃないと困る。”と、ぶちあげてます。

演奏会をキックオフしたのは『タンホイザー』序曲で、演奏が終わった時、
同じおじいが”わしにはゆっくり過ぎる!”と言ってあまりお気に召さない様子でしたが、本当、人の感覚は色々だな、と思います。
確かに今日の演奏は早いか遅いかと聞かれればどちらかと言えば遅い方に入るのでしょうが、別に止ってしまいそうなほど激オソな訳ではありません。
だし、私なんかは、最近のティーレマンの演奏(バイロイト)みたいのは、なんかせかせかしてせわしないなー、と思います。
なんだか聴いてるうちに、じっと座ってないで、家の掃除か何かを始めなければならないような気がして来ます。
今日の演奏では、巡礼の合唱の主題のところなんか、息の長いアークがある演奏で、
こういうタイプの演奏は、金管セクションがへたれなオケが演奏したら、目も当てられないことになるかもしれませんが、
メト・オケのブラスが集中力を発揮してビシュコフの指定しているテンポについていきつつ、がっちりとした美しい響きを出してくれていたので、
こういう演奏は力のある歌手がゆったりめのテンポで歌いあげているような雄大さがあって私は好きです。
遅いテンポでも、バックボーンがしっかりしている演奏なら、私は何の問題も感じませんし、
どの速さがある作品にとって最適か、というようなことは、私にはあまり意味のある議論に思えません。
どんなテンポであっても、そこにきちんとした緊張感・ドラマが保持されていて、
その速さをきちんと支えるものが存在していればそれで良いのであって、
(そして、あまりに度を過ぎた遅過ぎ・早過ぎな演奏は自ずとそこから外れていくと思うので、、)
その点はきちんとクリアされていたと思います。
それから、今日のコンマスはチャンさん(『タイス』のHDでヴァイオリン・ソロを披露していた演奏者です)でしたが、
特に第一ヴァイオリンのセクションの音色が本当、素晴らしかったです。
メト・オケの弦セクションが出せる最高の美音に部類されるような音色が今日は何度も飛び出ていて、
『アルプス交響曲』ではあまりの美しさに息が止るかと思うような箇所もありました。
それから、つい最近聴いたシカゴ響の『オランダ人』序曲が記憶に新しいので、その絡みで言うと、
このようなオケの演奏会の場であっても、メト・オケがオペラ絡みの曲を演奏する時、
必ず演奏の後ろに物語が感じられ、そのままメトのオケピに入っても全く違和感のないようなスタイルの演奏をするところも、
シンフォニー系のオケの演奏やCDで聴く演奏ではなくて、
オペラの生での全幕演奏こそが基準になっている私のようなオーディエンスにとってはポイントが高い。
演奏が終わったらそのままばったりと虫のように奏者たちが死んでしまうのではないか、、とこちらが心配になるほどに、
”聴かせたろうやんけ!”ムードでがしがし演奏されるよりは、
こういう、曲が終わってもまだ全幕演奏できまっせー!位の余裕をオケに感じるような、
そう、まさにメトの全幕公演の序曲を聴いているかのような、何気ない、ちょっと素っ気無い位の演奏の方が私は好きなんです。
それは別にワーグナーの作品だけでなくて、イタものでも同じ。

でもこの世の中には逆にそのあたりが物足りない、と感じる人も当然いて、私と親しい間柄の人の中には、
”普通演奏会でこの曲を演奏する時には金管の旋律、それから弦が入ってくるところなど、
随所にアクセントを効かせたりするものなのに、それが全くなくて、なんかすらすらーと抑揚なく流れていくから、瞑想のための音楽みたいだった。
トイレットペーパーからからからから、、と紙を引っ張って、気が付いたら足元にごっそり溜まってた、、みたいな光景が思い浮かんだ。”
というようなことを言っている人もいましたね。
この下品な表現で、このブログをずっと読んで下さっている方なら、それが誰かはすぐにおわかりになると思いますが。

ほんの少し欲を言えば、最初の一曲ということで、まだ空気がほぐれていないというか、
ちょっとフォーマルで固さが若干感じられる部分はありましたが、まあ、それでも私は悪くない演奏だと思いました。

ああ、それにしても、今日の序曲みたいなので始まる『タンホイザー』をメトのオペラハウスで聴きたいな、、。
しかし、今調べてみると『タンホイザー』は2004/5年シーズン以来、一度も舞台にかかってないんですね。
しかも、メトの舞台にかかる回数が多い演目のトップ50演目(ちなみに『タンホイザー』は合計470公演で第17位)の中で、
最も長い間、上演されていない演目であることもわかりました。
そう言えば、今日のメト・オケ・コンには珍しくゲルブ支配人の姿があったことだし
(彼って本当このメト・オケ・コンのシリーズに顔を見せないんです。オケ単体=人気歌手のいない場には興味がない人なんだな、と思います。)、
そろそろ再演をお願いしたいと思います。

続いて『ヴェーゼンドンク歌曲集』。
この作品に関しては、当初、エヴァ・マリア・ウェストブロックの登場が予定されていたんですが、
公演の5日前くらいでしたか、彼女が体調不良のために降板するという連絡が、カーネギー・ホールからメールと電話の両方でありました。
しかし、彼女のオフィシャルサイトを見ると、今ちょうどROHの『ワルキューレ』に出演中(9/26、10/4, 10/18, 10/28)で、
今日の演奏会は言ってみればそのど真ん中に落ちているんですね。
公演日にはかぶっていないし、4日と18日の間は結構日が空いているので、
当初はNYに来てまたロンドンにとんぼ返り、、ということを考えていたのでしょう。
実際、10/4の公演後にあまり体調が思わしくなくその後のROHの公演のために大事をとってキャンセルを決めた、ということなのだとは思いますが、
もしかして、レヴァインやルイージが指揮するならいざしらず(この二人とはそれぞれ先々シーズンと先シーズンのメトの『ワルキューレ』で
一緒に仕事をしてますので、そもそもその縁で今日の演奏会にもキャスティングされたのではないかな、と思います。)、
ビシュコフならトンズラしても、ま、いっか、、、ってなことをまさか考えてたりはしないですよね、、、。

で、このプログラムで急な交替を快諾してくれるといえば、あの人しかいませんよ!というわけで、ミシェル・デ・ヤングなんです。



いやー、デ・ヤングはもうすっかりメト・オケ・コンの”カバー”化してますね。
彼女は2006/7年シーズンのメト・オケ・コンでデセイが演奏会の5日前にキャンセルを発表した際にも、穴埋めしてくれたことがあって、
彼女はメゾですし、さすがにデセイと同じレパートリーは歌えないので、あの時はプログラム自体もがらっと変ったんでした。
『ヴェーゼンドンク』は彼女のレパートリーにも入っているので、今回はそのまま引継ぐ形になるのですが、
『ヴェーゼンドンク』とデ・ヤングの組み合わせって、何か覚えがあるぞ、、と思ったら、
その5年前の交替劇の時にアンコールで歌ったのが『ヴェーゼンドンク』の”夢”だったんですね。
ブログって書いとくもんだな、とこういう時に思います。

デ・ヤングが舞台に登場して来て、そういえば彼女を聴くのは何か久しぶりだな、、と、妙なノスタルジーを感じてしまいました。
こう言っては何ですが、私の考えでは、彼女もゲルブ支配人が実際にキャスティングに力を持つようになってから
(彼の任期の最初の時期はまだヴォルピ前支配人が決定した演目・キャストによる上演だった。)
冷遇されるようになった歌手のグループ(他にルース・アン・スウェンソン、一時期のソンドラ・ラドヴァノフスキーやヘイ・キョン・ホン、エリザベス・フトラル、
ドウェイン・クロフトあたりの名前が浮かんで来ます。)に入っていて、
レヴァインが結構見込んでいたこともあって、以前はワーグナーの作品などでよくメトの舞台に立っていたのに、
最近では全くメトでキャスティングされておらず、いつの間にかロースター(カバー要員も含めたアーティストのリスト)からも姿を消してしまっています。
ということで、彼女の歌声を最後にメトで聴いたのは2008年の『トリスタンとイゾルデ』ですから、4年ぶりに接する彼女の歌唱です。

彼女が再びゲルブ・エラのメトに戻って来たい意志があるのなら、二つ改善しなければならない点があります。
まず第一点は特大のビブラート。
彼女は昔からこんなすごいビブラートだったかなあ、、、、?ここまでではなかったような気がするのだけれど。
しかも今日はピッチも何となく不安定で、ビブラートの真ん中の線が完全には歌うべき旋律と重なっていない感じがして、
聴いていて、なんだかすごく収まりが悪かったです。
後、彼女は先述した通り、メトでもワーグナーを歌っているんですが、
そのレパートリーを保って行く為にはそうしなければならない!と彼女自身が思い込んでいるところもあるのか、
歌唱が常に必要以上にパワフルで、悪く言うと力任せな感じがします。
この作品は『タンホイザー』の演奏が終わった時にごっそり奏者が退場したことでもわかる通り、実はそんなにオケが厚い作品ではないし、
パワフルに歌うことに向けられたエネルギーを、もうちょっと内省的な表現の方に向けた方が良かったのにな、、と思います。
(ちなみに、ワーグナーの作品ではあるのですが、ワーグナー自身が一曲手がけた以外は、オケ用の編曲は別の人間の手によるものです。)
そして第二点目は、まさにHideous!と形容するしかない、衣装センスです。
彼女は長い(多分天然の)ブロンドのちりちりロング・ヘアーと堂々とした体格(背も結構高いのではないかと思います。)が相まって、
遠めで見る分にはある種の美しさを持った人ではあるし、すごく感じの良いポジティブ・オーラに溢れた人であるので、
その雰囲気を活かせるようなシックなドレスはいくらでもあると思うのですが、
なぜか、横に何段もレース編みのような透かし模様が入った(ふくよかな人がこれを着るとちょっと、、。)
くるぶしまでの長さのドレス(くるぶしまでの長さって、最も着こなしが難しい長さだと思う、、。)を身につけていて、
自分の体型をどれだけ最悪に見せられるか?というコンテストに参加中なのかと思いました。
私は現支配人の、歌唱力をも犠牲にする極端なビジュアル志向には大反対ですけれども、
だからと言って、自分をエレガントに、最も美しく見せる方法を知らなくても良い、とは言ってません。
どれだけ彼女に実力があったとして、これではまず支配人に”メトに帰っておいで。”と言われることはないでしょう。
緊急に開始してください、垢抜けるための努力を!!!!


そして今日の演奏会のメイン・ディッシュ、『アルプス交響曲』。
いやー、これは理屈抜きに本当に楽しい演奏だった!!!
私がシュトラウスを好きな理由の一つは、あんなにシリアスであんなに甘美であんなに官能的な曲を書ける能力がありながら、
それで全部押し切ってしまうのは照れるのか、不粋だと思うのか、
しばしば作品(こういうオケものでもオペラでも)の中で、
”でも、やっぱりこういうのも止められないなあ。”とでも言いながら舌をぺろんと出しているように思えるような、ひょうきんな部分を見せずにおれない点です。
シュトラウスは『ばらの騎士』とか『アリアドネ』はもちろん、例えば『エレクトラ』みたいな作品でもそれをやってしまうので、”えー?!”と思うんですけれども、
もうこの『アルプス交響曲』ではそんな私のシュトラウスの大好きな一面が爆発してます。
本人もすごく楽しんで作曲したんじゃないかな?そんな風に感じる曲です。

曲は最初から最後まで登山(もちろんアルプス)での情景を描写したもの、、
と書くと、非常に身も蓋もなく、”そんなもの聴いてどこが面白いのか?”と言われそうですが、今日のような演奏を聴くと”すべてが。”と答えたくなります。

まず、シュトラウスのオーケストレーションのその素晴らしいこと!!
シカゴ響の演奏会の時にフランクの交響曲で若干退屈した、ということを書いたと思いますが、
今日のこの演奏を聴くと、作曲家によるオーケストレーションの表情の豊かさのレベルが段違いなのが一つの原因じゃないかと思います。
山登りですからね、水がさらさら言ってたり、カウベルがからから音を立てたり、雷が来たり、、、なわけです。
そんなことを音にして、ホールですまして聴いて何が面白いのか?と思う向きもあるかもしれませんが、
ここまで徹底したオーケストレーション(もちろん、それはオケがきちんとそのオーケストレーションを見事な音にしてくれているからですが)、
しかも、その中に常に美が生じている種類のオーケストレーションを聴くと、
単なる山登りの情景を音で聴いているだけではなくて、、段々自然とチャネリングしているような感覚が起こってくるんです。
こんなこと書いて、危ない人化してますか、私?ここはニュー・エージ・ブログか?って感じですか?
いや、そんなことないですよね。
多分、誰もが、深い森に囲まれた時、海の塩っぽい空気を胸いっぱい嗅いだ時、地平線に広がる草原を見た時、そういう感覚を持ったことがあるはずだと思います。
そういう感覚は大抵 -少なくとも私の場合は- 自然の中に身を置いた時に起こるものですが、
この作品は音でそれを体験させてくれる、、、そこがすごいところです。

オーケストレーションを駆使して様々な情景をあまりに的確に表出してくれるので、
プレイビルとかウィキとかには、何が表現されているのかとか色々なことが書いてありますが、全然そんなもの読む必要ないです。
オペラの作品も作曲している人で、オーケストレーションで情景を描く二大達人といえば、私はシュトラウスとプッチーニだと思っているんですが、
あらためてやっぱりすごいなあ、、と思わされました。

個々の楽器/セクションの演奏は本当にどれも素晴らしい出来で、どれかだけに言及するのはフェアじゃない気がする位なんですが、
先述した通り、第一ヴァイオリン・セクションの今日の音色の美しさは本当度肝抜かれました。

演奏にほとんど1時間かかるこの曲、曲が終わった時には、ビシュコフやメト・オケのメンバーと一緒にアルプスに登って帰って来た感じがして、
快い疲れすら覚えたほどです。
ビシュコフのこの作品での指揮は、この作品に慣れているとは言い難いオケに、必要最低限の指示を与えながらも、
頭ごなしに彼のやり方を押し付けるのではなく、オケのメンバーが先に歩いて行くのを、後ろからがっちりとサポートしながら付いて行く登山者のようでした。
それでも、昨夜の『オテロ』に続いてこの長丁場の作品で神経を使い切ったと見え、
指揮台から降りたり舞台挨拶に出て来る時のビシュコフは本当よろよろで、そのまま倒れなきゃいいけど、、という感じでした。
しかし、オーディエンスの方は、彼が倒れても知るか!位に盛り上がっていて、
ビシュコフはもうこれで終り、と思って引き下がった後も、再度舞台に姿を見せるよう要求する拍手が多くの人から出てました。
かく言う私もそんな1人。
こんなに盛り上がったメト・オケ・コンは久しぶりです。

それにしても、NYにいながらにしてアルプス登山を満喫出来るなんて誰が想像したでしょう?
シュトラウスとビシュコフ、メト・オケに感謝。


The MET Orchestra
Semyon Bychkov, Conductor
Michelle DeYoung, Mezzo-Soprano replacing Eva-Maria Westbroek

RICHARD WAGNER Overture to Tannhäuser
RICHARD WAGNER Wesendonck Lieder

RICHARD STRAUSS Eine Alpinsinfonie, Op. 64

Carnegie Hall Stern Auditorium
Second Tier Center Left Front
ON/OFF/OFF

*** メトロポリタン・オペラ・オーケストラ ミシェル・デ・ヤング
MET Orchestra Metropolitan Opera Orchestra Michelle DeYoung ***