早いもので2012年もお終い。今年も例年通り一年の締めはメトで、、というわけで、大晦日ガラの『マリア・ストゥアルダ』です。
メトの2012/13年のシーズン発表、それに伴って宣伝用のスチール写真が出てきた頃から、
”なーんか変な感じがするんだけど、何が変なのかわからない、、、。”とモヤモヤした気分に包まれていて、
だけど、最近考えることがすっかり面倒臭くなってしまって、”ま、いいか。”と良く考えないで放っておいたら、
”そろそろ『マリア・ストゥアルダ』の予習を本格的に、、。”と思って準備し始めた途端、それが何かがわかりました。
『マリア・ストゥアルダ』にはジョイス・ディドナートの写真がずっと使われてましたけど、一体彼女が歌う役は何、、?
メゾが女性陣の中で一番の主役、というオペラの演目はそんなに数が多くないので、
私のモヤモヤは、当初、メゾのディドナートが一人スチール写真にのっているということに対する漠然としたものだったと思うのですが、
『マリア・ストゥアルダ』って、よく考えてみると、初演はソプラノ on ソプラノの組み合わせだったようですが、
ここ数十年の演奏の歴史としては、メゾがエリザベッタ役を歌い、ソプラノがマリア役を歌うパターンの方が多いんじゃないかな、と思います。
スカラな夜のイベントの一貫として映画館で見た『マリア・ストゥアルダ』での人間国宝級のマリアはデヴィーアだったし、
(後注:ただし、エリザベッタ役を歌ったアントナッチは2002年頃からメゾのレパートリーに加えてソプラノのそれも歌い始めていて、それに合わせて公式にはソプラノを名乗っているようです。)
家にあるCDも、マリア役を歌っているのはカバリエとかサザーランドとかグルベローヴァとか、
ソプラノ、それもただのソプラノではなく、ベルカント・ワールドで卓越した声と技術を誇るソプラノばっかりです。
そして、今日ディドナートと共演予定のヴァン・デン・ヒーヴァーは私がこれまで名前も聞いたことのない歌手で、
彼女がソプラノなのか、メゾなのかもよく知らない、、、という事情もこの事態を助けていません。
なぜなら私は、ならばきっとこのヴァン・デン・ヒーヴァーがソプラノでマリア役を歌うのかな、、と思い込みかけていた時期もあったからです。
でも、そういえばスチール写真のディドナートはロザリオを持って悲痛な表情を浮かべていたような、、
ってことは、れれれ?やっぱりディドナートがマリア役??
今回はスカラの夜の時と違って生鑑賞だし、つい予習にも力が入るわけですが、いくつか音源を聴いてみて、
あらためてあのスカラの公演が全然退屈でなかったのは、
デヴィーアと必ずしもベスト・コンディションでないながらも音楽性の高さを誇るアントナッチという二人の歌手の力があったからだなあ、、と思いました。
というのも、『マリア・ストゥアルダ』は、その必要とされる高度なテクニックに聴いてるだけで顎が外れるような気がする
『テンダのベアトリーチェ』のような作品とは違った意味で、
良い公演にするのがすごく難しい作品だからです。
最大の理由は、こういっちゃ元も子もありませんが、まあ、はっきり言ってドニゼッティのベストの作品ではないんです。
ベルカント作品好き、中でもドニゼッティが大・大好きな私がそう言うんですから、まあ間違いありません。
一つにはジュゼッペ・バルダーリによるリブレットのせいもあると思いますが、
音楽の方もドニゼッティの他の人気作品と比べると、鮮烈に記憶に残るような旋律・ドラマの盛り上がりに恵まれておらず、
それこそ、デヴィーアのような歌手でないと、この作品を説得力を持って歌うのは至難の技です。
いえ、デヴィーアだって、例えば30代とか40代の頃に歌っていたらば、スカラの夜の時のような迫力ある歌を繰り広げられたかどうか、、。
あの公演は彼女の歌手としてのストイックさと自信が、マリアの”一つ運命が掛け違えば私が女王だった!”というプライドとシンクロして、
それがすごい迫力になっていた、という、一種特殊なケースだったと思うのです。
で、オケに与えられた音楽も同じ理由で難しい。
これ、ダルな演奏されたら、もうオーディエンスにとっては苦痛以外の何物でもない、という種類の音楽です。
いや、それだけでなく、指揮者がしっかりしていないとこのあたりやばいことになりそうだな、、という”崩壊注意”の標識がかかっている箇所もあり、
カバリエが歌っているライブ音源でのスカラ座の演奏の中にも、
”なんかよくわからないけど、こんな感じで弾いとくか、、。”みたいな怪しいことになっている部分もあります。
ベルカント・オペラを演奏させたら右に出るものがいないスカラですら手を焼く『マリア・ストゥアルダ』。おそるべし。
そして、とどめが、マリア役とエリザベッタ役のキャスティングの難しさです。
エリザベッタの方は、低音域も高音域も充実していなければならず、
その上に、この二つの間を瞬時に跨ぐ旋律が多いので、普通以上に胸声の音色が突出しないで他の部分と出来る限り統一された音色であって欲しい。
例えば、サザーランドの盤でエリザベッタを歌っているトゥーランジューは高音域の音が綺麗で、
低い音域もそこだけ取れば迫力ある音が出ているのですが、なんだか音色がものすごくドスが利いており、高音域の美しい音色とかなり異質なため、
行ったり来たりする度に、黒いトゥーランジューと白いトゥーランジューがかわりばんこに出てくる感じでかなり違和感あります。
カバリエとライブ盤で組んでいるヴァーレットは音色の統一性という点では優れているし表現力もあるんですが、
最高音あたりはトゥーランジューほど楽には出ていない感じがありますし、
私はもしかすると、ドラマの表現の部分を別にすればこの作品はマリア役よりもエリザベッタ役の方が難しいんじゃないかな、、と思っている位です。
ではマリア役が楽かというと、当然そんなことはなく、この役の難しさは一にも二にも表現力です。
スコア通りに歌うなら、そんなに滅茶苦茶な高音はないのでその点は楽に感じられるかもしれませんが
(ただし、オプショナルに高音を入れたり、オーナメテーションを入れることによって、その難度は無限大にあがる。)
音楽がドニゼッティのベスト!とはいえないだけに、その分、そういった歌手の裁量によるエキサイトメントを付け加えるか、
もしくは声そのものの魅力でオーディエンスを魅了せねばなりません。
この作品の男性陣はロベルト(レスター伯)役ですらこの二人の引き立て役の枠を出ていない”この役立たずー!”な存在ですので、
マリア役とエリザベッタ役を歌う二人の歌手の肩にすべてがかかっており、
この二人に、ただでさえも油断したらすぐにダレダレになってしまいがちな音楽を、そうさせず、
逆に高みに引き上げられる実力とドラマティック・センスがないといけない、『マリア・ストゥアルダ』はその点で難しい作品なのです。
この、私たちが単純にメゾvsソプラノと言って一般的に思い浮かべる特徴にはっきり分け切れず、
まるで両方のテリトリーに跨っているかのような不思議な両役のリクワイヤメントのせいか、
実は調べてみると、この50年位の演奏史でも、マリア役・エリザベッタ役いずれも、ソプラノとメゾの両方で歌い演じられたことがあるんだそうです。
ということで、結局、メトではメゾのディドナートがマリア役を歌うんですが、歴史上初めてのメゾの同役への挑戦!ということではないようです。
最初に舞台上に大きく見えるのは獅子と鷲なのかな、、、?
このコンビネーションはメアリー一世の治世の時の王家の紋章で(エリザベス一世のそれは獅子と竜)、
マリアとエリザベッタのどちらが正当な王位継承者か?という議論や二人の確執の元凶となったものをシンボライズしているのかもしれません。
刷り込みというのは強力なもので、突然マリア/エリザベッタ両役でソプラノ/メゾのスイッチOKよ!と言われても、
初めて見た公演(スカラの夜)や耳に慣れた音源の印象というのはなかなか払拭できないので、
私はどうしても、マリア役にソプラノ的なものを、そしてエリザベッタ役にメゾ的なものを期待してしまいます。
で、ディドナートがマリア役を歌うのですらちょっと意外ではあったんですが、そうか、今日はそうするとメゾ on メゾなんだな、と思ってました。
ドニゼッティお得意の焦らしの術(『ルチア』なんかも同じパターン、、)により、
同作品の最大主役であるマリアは一幕の二場からやっと登場~♪なので、一幕一場は完全にエリザベッタ役の独壇場。
先にも書いた通り、エリザベッタ役は本当に大変な役で、高音域も低音域も同等にパワフルで、しかも音色が統一されていて、、なんていうのは無理に近い注文だから、
どれかが優れていれば良しとしなければ、位な気持ちで、それこそヴァン・デン・ヒーヴァーについては何の前知識も無いものですから、
まっさらな気持ちで鑑賞を始めました。
新演出もので、ディドナートのような人気歌手相手に、こんな難しい役でメト・デビューをする、となったら、緊張の極みに達していても全然おかしくないのですが、
登場してすぐに歌う"Ah! quando all'ara scorgemi ああ、私が婚礼の祭壇に導かれる時”での彼女の落ち着きぶりと度胸は大したもので、
きちんとした声、きちんとしたベル・カントのテクニックの両方を持っていることがすぐにはっきりと感じ取れました。
こんなメゾ、これまでどこに隠してたんだ!?です。
全音域に渡って音色の統一のされ方も申し分ないし、エリザベッタの男性っぽさ(それがなかったらあんな政治手腕を発揮できないし、
これこそがエリザベッタと同様にプライドが高くありつつも良くも悪くも頭からつま先まで女っぽいマリアとの対照的な点でもあるわけで、
この点を表現することがこの役では不可欠なのです)、気の強さ&激しさ&気位の高さもきちんと表現されていて、
彼女の歌は、端々からきちんと感情が感じられるのがいいな、と思います。
重箱の隅つつきまくりのこの嫌~なオペラ婆が、後は高音域か低音域のどちらに比重がかかっているかを観察せねば、、と、万全の態勢を整えているわけですが、
まあ、ここまで低音がきっちりしているメゾだから、ものすごい高音を期待するのは酷というもの、、と気を緩めそうになった瞬間、
"Ah, dal cielo discenda un raggio ああ、空から光が一筋射して”の最後に彼女がなんと高音(D)を入れて来て、
それがまた、なんとか頑張って挑戦してみました、、というような生っちょろい音では全くなく、
堂々としたフル・ボディの、ソプラノでもこんなしっかりした綺麗な高音出したら、万々歳というような音で、私は目玉が飛び出るかと思う位びっくりしました。
これにはオーディエンスも大喝采!で、これで一層心に余裕が出来たか、後に続くレスター伯爵との二重唱も素晴らしい出来で、この意地悪婆も完全降参です。
むしろ、あの高音と、その後に続く歌唱の高音域を聴いてしまったら、比較として、どちらか選ばなければならないとしたら、
むしろ高音域の方が良い位かも、、、いや、もうこれは両音域充実している、と言ってよいでしょう!
一体このエルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーとは何者??とあらためてプレイビルを開けると、、、
あれ?ソプラノなの、この人??
やだー、私はてっきりメゾだと思って聴いてましたよ。異常に高音に強いメゾだな、、と。
それ位、低音域も普通にしっかりしてるから、、、。
さらに帰宅してから調べてみると、彼女は元々メゾでスタートしたものの、
サンフランシスコ・オペラのメローラ・プログラムに在籍していた時に”あなたはメゾではなくソプラノ!”と言われてソプラノにコンバートした経緯があるんだそうです。
ハイG(!)も出るそうですから、今日の高音なんか朝飯前だったんだ、、、。
そして、このあなたはソプラノ!とコンバートを薦めた二人の人物のうちの一人がなんと、ドローラ・ザジックなんだそうです。
ということで、今日は私がこれまで持っていたソプラノ(マリア) on メゾ(エリザベッタ)とは真逆の、メゾ on ソプラノの公演なんです。
面白い。
実は『マリア・ストゥアルダ』がメトで上演されるのは初めて、つまり今日がメトでの初演となります。
2011/12年シーズンに『アンナ・ボレーナ』で始まったチューダー(女王)三部作シリーズの第二弾で(ちなみに第三弾は『ロベルト・デヴェリュー』)、
このシリーズは全てデイヴィッド・マクヴィカーが演出を担当することになっています。
セットや衣装のデザイン・色合いとも『アンナ・ボレーナ』からの繋がりがきちんと感じられるものになっていて、
こういう点は一人の演出家がシリーズで演出する場合の長所だな、と思います。
特に今回の演出では赤の使い方が効果的で、確か『アンナ・ボレーナ』の前のレクチャーで、
チューダーの時代というのは身分によって着用できる繊維の種類や色が決まっていた、というような話があったように思うのですが、
投獄されている身のためにずっと黒い衣服に身を包んでいるマリアが、処刑に赴く前にばっ!と衣装を脱ぎ捨てると、その下から赤いドレスが出てきます。
それまで、全編を通じて赤の衣装で登場したのはエリザベッタだけで(フォルテリンガ城での狩りの場面)、
かつ、他の登場人物の衣装と舞台はほとんど黒か黒っぽい色なために、マリアが赤いドレスになった時のビジュアル的効果は鮮烈で、
これはマリアが死の場に臨んで、心は女王のまま死んでいった、ということを表現するのに非常に有効でした。
また、『アンナ・ボレーナ』の時には抑えモードだった処刑の恐怖も、今回は舞台の上に首切り人を立てて迫力アップしてます。
ニ幕以降は至極真っ当に恐怖と陰鬱さを表現しているマクヴィカーの演出ですが、ユニークなのは一幕でのエリザベッタの取り扱いかもしれません。
ヴァン・デン・ヒーヴァーが100%自分の考えで今回のようなエリザベッタ像を作ったとは考えづらいので、
全部とは言わずとも、最低でもいくらかはマクヴィカーのアイディアによるものだろうと推測するのですが、
ヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタは、歌は至極真っ当ですが、演技と役作りはかなり変です。怖いです。奇妙です。
スカラの夜にこの役を演じたアントナッチはマリア役に負けず劣らずにシリアス路線でエリザベッタを演じてましたが、
ヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタはそのあまりの変てこさにほとんどコメディックぎりぎりの線を走っていて、
お付きの人も多分、”政治には長けてるけど、変な女。”と思いながら仕えているんだろうな、、と思います。
どこをどう変か、、と言えば、、、こう、、、女装した男性がそのまま女性になったみたい、というか、、
でもそれを演じているヴァン・デン・ヒーヴァーはやっぱり女性で、、と考えるとわけがわからなくなって来ました。
エリザベッタは女王なんだし、ここまで変ってるってことはないだろう、、と、アントナッチ型のシリアス路線を志向する方も多いでしょうし、
そもそもチューダー三部作は史実の器だけを借りて、ドニゼッティが美しく加工して作り上げたものであることを考えると
(オペラで描かれる細かいエピソードはほとんどがフィクションと言ってよいので、これを歴史のまんまだと信じてはいけません!)、
マリアもエリザベッタも美しく悲しいヒロイン達であるべきだと思うのですが、
私はこのヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタの演じ方にある種のリアリティを感じて、嫌いじゃないです。いや、むしろ好きかも。
もしかしたら実際エリザベス女王もこんなちょっと変な人だったのかも、、と思ったり、、。
面白いのはマクヴィカーがエリザベッタをこのように設定したせい・おかげで、
リブレットの言葉と音楽だけから受け取るイメージと、舞台の場から受ける雰囲気がかなり違ったものになった点です。
特にレスター伯爵との関係には辛い片思いの相手、というよりは、長年の気心知れたほとんど友人のような上司・部下同士、という感じになっています。
でも、確かに、レスターはエリザベッタの御前に遅刻しても、随分思い切ったことを申し出ても、なぜか彼女に許されてしまう。
だし、エリザベッタだって、馬鹿じゃないんですから、フランスの王とレスターを比べてレスターを夫に取る、なんてことは
政治的な理由から言ってもまずありえない、、、ということ位、わかっているはずであって、
スカラの夜のようにレスターへの悲恋をあまりに強調し過ぎるのは的外れなのかもしれないな、、と思います。
ただ、レスターがエリザベッタにフォルテリンガ城を訪ねるよう説得し、それに成功してしまう場面は、
(それにしても、このレスターという男は本当頭悪いというか、、、二人を会わせて仲直りさせよう、、なんて、どこまで能天気なんだ?と思います。)
怒り半分、一人で立ち去ろうとするエリザベッタに、レスターが執拗に彼女の手を取ろうと手の平を差し出すと、
”またあんたの言う通りになっちまったよ!もう!”という感じでエリザベッタがばしっ!と悔しまぎれでその手を取るあたりは微笑ましく、面白い解釈だな、と思うのですが、
そこに至るまでのプロセスで、彼女がどれほどマリアに恐怖と脅威と、その裏返しの敵意を感じているか、そこが伝わりきっていないと思います。
特にこの物語は彼女たちが血の繋がった関係で、マリアがエリザベッタにしばしばsorellaと呼びかけている位です。
エリザベッタはアンナ・ボレーナ(アン・ブリン)とエンリーコ(ヘンリー8世)の間に生まれた娘で、
マリアは、エンリーコのお姉さんの孫娘なので、この二人は日本語ではどういう関係なんでしょう、、、よくわかりませんが、
まあ、お姉さんというのは言いすぎですが(ですし、もっと広い意味でのsorellaなんだと思います)、血縁関係はあるわけで、
単なる王位をめぐるライバル同士というもの以上の、この血の繋がり、そして、イギリス国教会とカトリックに分断された二人の立場の微妙さがこの物語の肝の一つだと思います。
マクヴィカーはスコットランドの人なので、その辺りは観客全員が当然持っている知識のはず、という前提で、
一幕一場をユーモアを交えた味付けにしたのかもしれませんが、
ニ場で、レスターの”Ove ti mostri a lei sommmessa もし彼女(エリザベッタ)に謙虚な姿勢で対すれば、、
(エリザベッタが恩赦してくれるかもしれない。”という言葉に対し、
マリアが”A lei sommessa? 彼女に謙虚な姿勢をとる?(なんでこのあたしがそんなことしなければならないの?)”と答え、
それに対してレスターが”Oggi lo dei 今日だけはそうしなければ。”と歌った瞬間、
劇場が爆笑の渦に巻き込まれたところを見ると、マクヴィカーはメトの観客を甘く見過ぎたかもしれません。
私が今回、一つだけ、小さな不満がマクヴィカーの演出にあったとすれば、この、ことの深刻さを演出で伝える匙加減だったかな、と思います。
一幕一場で設定したトーンが少し軽すぎて、ニ場に影響を与えてしまったと思います。
ただ、イギリス人でない演出家がエリザベッタをこのような人物像にするにはすごく勇気がいると思うのですが
(下手したら、お前はイギリスを馬鹿にしてるのか!と、イギリス国民の怒りを買いかねない、、。)、
マクヴィカーはそんなハードルを軽く乗り越え、エリザベス一世をあのように描きながら、しかし、彼女への温かい眼差しも感じられるのが面白いな、と思いました。
彼の演技指導にきちんと応えているヴァン・デン・ヒーヴァーも見事だと思います。
舞台でもHDでも彼女の素顔を見る機会はまずないと思われますので、
あのものすごい化粧と不気味な身振りの下にはこんな素顔が、、ということで、彼女の写真を紹介しておきます。
私個人的には今日のキャストで一番色んな意味であっ!と驚かされたのがヴァン・デン・ヒーヴァーでしたので、肝心なマリア役にやっと今頃辿りつきました。
ディドナートは昨年の大晦日の『魔法の島』のシコラックスはともかく、『セヴィリヤの理髪師』のロジーナ、『オリー伯爵』のイゾリエ、
そして、ガラやリサイタルでの歌唱に普段の明るくてファンを大切にする姿勢(こんなこともありましたっけ、、)で、
NYのファン・ベースにはそのポジなところが超愛されていて、本当に人気があるメゾなんですが、
今日のマリア役のような完全な悲劇のヒロイン役をメトで歌うのは初めてで、
私はあの元気一杯なディドナートがこの役をどのように歌い演じるか、ものすごく楽しみにしてました。
また、これまでは主役級の役を歌っていても、その任を他の歌手と分け合うケースが多かったわけですが、
この作品は、エリザベッタ役も大変とは言え、やはり何といってもタイトル・ロールはマリアなわけですから、
彼女がメトでピンで客を呼べる歌手としての、言ってみれば最終承認をオーディエンスからもらう場になるか否か、という面でも、
彼女にとってものすごく大きなチャレンジのはずです。
まず、先にワーニングしておいた通り、私はこの作品のマリア役はソプラノのイメージが強いし、
また、この作品はドニゼッティの作品なので、出来れば同じベル・カントの中でも、
ドニゼッティの作品を得意としているソプラノに歌って欲しい、という、細かい/個人的な趣味レベルの欲求があるので、
その点では必ずしも私の期待通りではなかったかな、、ということで、まず些細なネガの意見を先に書いてしまいます。
彼女の声はメゾにしては軽やかで高音も綺麗なんですけど、やはりメゾなんですね、、
当たり前のことを言われても、、と言われるかもしれませんが、この作品のマリア役をメゾが歌う、ということは、
私の感覚ではあまり当たり前のことではないので、そこのところでコンフリクトが起きているんだと思います。
この役で必要な最高音あたりになると、力のあるソプラノなら
(そして、ディドナートがメゾとしてものすごく力のある人であることは強調しても強調し過ぎることはありません。)
音が広がって行く感じがすると思うのですが、ディドナートはそれが出来るほどの猛烈な高音は持ち合わせていないので、
どうしてもそのあたりの音域になると、広がって行くのではなく、逆に一点に向かって集約して行くような音になり、若干音が痩せる感じもあります。
後注:チエカさんのサイトでは、コメント欄で彼女が全パートに渡って半音もしくは全音下げている事が指摘されていて
(場所によってトランスポーズする度合いを変えているみたいです。)、その是非を巡ってヘッズの間で議論になっています。
しかし、音を下げてすら、やっぱり上のような印象がありましたので、単純にどこまでの音が出せるか、出せないか、ということだけが問題ではないように思います。
また、リハーサル中や公演前にトランスポーズの指示が出たわけではないようなので、おそらくはじめから下げて歌う予定だったのだと思います。
当然のことながら、ソプラノのようにオプショナルの高音を入れることは難しいため、
そういった歌手の采配で加わる高音の追加の楽しみ、というのもありません。
それからこれはあまり以前は感じなかったんですが、中音域から下にかけて、少しフレミングの発声とも似た独特の粘りが出ます。
この粘りはメゾのレパートリーなら、それなりに一種の魅力になることもあるかな、、と思うんですが、
ドニゼッティの、それも本来ソプラノが歌う役にはあまり似つかわしくないな、、と思います。
後、これは好みの問題が大きく関係するので必ずしも悪いことではないのかもしれませんが、
彼女の歌唱はバロックから、同じベル・カントでもロッシーニに合ったスタイル、という感じがして、
ちょっとドニゼッティの作品には私は違和感を感じる点もあります。
ロッシーニとドニゼッティの違いは何なんだ?と言われると、言葉で説明するのは難しいのですが、
簡単に言うと、カクカクさと滑らかさ、、とでも言うのか、、、
バロックやロッシーニはアクロバティックであることが奨励され、、
そのままアクロバティックなものとしてオーディエンスに聴いてもらうことが歌い手の目標であり、
オーディエンスにとっての美であり、楽しさでもある、、という風に思うのですが、
ドニゼッティやベッリーニは逆にアクロバティックな歌をそうでないかのように歌うところに美があるのではないかな、、という風に個人的には思っているのです。
なので、バルトリが歌う『夢遊病の女』とか、上手だなあ、、とは思うんですけど、一方でなんか違う、、と感じてしまう自分がいます。
で、アクロバティックでなく聴かせる一つの手段に、音の動きの角を少なくする、という方法があると思うのですが、
ディドナートの歌は『マリア・ストゥアルダ』のような作品での私の好みの歌唱に比すと、若干音の角が立つ歌い方に寄っているように思います。
まあ、でもこのあたりのことは、ものすごく細かい、贅沢な注文であることを強調しつつ、たくさんあったポジティブな点に移りたいと思います。
まず彼女の声の美しさ、これは本当に素晴らしい。
声そのものが、マリアという役の、エリザベッタのほとんど男性的と言ってもよい性質に対照的な、女性らしさというエッセンスを表現しつくしていると思いました。
それからボリューム・コントロールの上手さと歌唱技術の確かさ、またオーナメテーションを入れる時のセンス、
この点は以前から彼女の歌唱の大きな武器だと思っていましたが、
この作品での彼女の歌唱はそれを駆使し、あからさまにどうだ!というのではなく、
繊細なクレッシェンド、上品な細かいオーナメテーションなどを駆使し、オプショナルな高音が出せない、というハンデを乗り越えています。
そして、何よりも表現力!!
一幕二場の”ああ、雲よ、なんと軽やかに Oh! Nube, che lieve!”とニ幕ニ場~三場を比べるとそれは明らかです。
一幕二場では彼女の表現力より技巧が勝っているような感じの歌なのですが、ニ幕ニ場から以降、技巧はそのままに表現力が逆転勝ちする感じで、
彼女の歌手としての素晴らしさが感じられるのはこの部分です。
タルボを通して神からの赦しを得る場面と、合唱を従えて歌う"Deh! Tu di un umile preghiera il suono ああ私達の慎ましい祈りを"、
特に後者での彼女の歌唱は、どうやって合唱に対してこのような完全なバランスを取って歌えるのだろう、、?という位、
絶妙な音量で、合唱の中に浮き漂っているように音を響かせて来るのが本当に凄いです。
これは彼女の声質のせいもあるのかな、、と思います。
決して合唱から浮き立つような特殊な声でも、周りを圧するような感じでもなく、
自然に交じり合っているんだけど、だけど、彼女の声が絹のような光沢を放っていて、
オーディエンスが彼女の歌の軌跡を見失うことは決してない、、というそういう感じ。
この合唱との重唱部分は至福でした。
一幕二場で、アンナ・ボレーナがエリザベッタを侮辱する場面、
”Figlia impura di Bolena~Profanato è il soglio inglese, vil bastarda, dal tuo pié!"
(薄汚いボレーナの娘が!~ あんたみたいな卑しい私生児のおかげで、イギリスの王位も地に堕ちたわ!)で、
声を荒げたり、感情過多にならず、思わず口を突いて出た、というよりも、
もうずーっと考えていたことをここで言わせてもらうわ、、という抑制していた怒りが段々と雪だるま式に大きくなって行く感じの表現も彼女らしいな、と思います。
とにかくこの日のために相当な準備をしたであろうことが感じられる歌唱で、
彼女が登場する公演で歌にがっかりさせられた試しがこれまで一度もないのですが
(『魔法の島』も、作品にはがっかりさせられましたが、彼女の歌にはがっかりしてません。)、
この一度請け負ったら、全力で立ち向かい、中途半端な結果を出さない、という姿勢も、彼女がこちらで絶大な支持を受けている理由の一つなのかもしれません。
私もあれこれと細かいことを言いましたが、鑑賞する価値のある公演だったかと聞かれれば、もちろん!と答えます。
先に役立たず呼ばわりした男性陣ですが、それはドニゼッティがいけないのであって、歌手がいけないわけではありません。
今日の公演に参加した男性陣は全員、歌い甲斐があるとは口が裂けても言えない役柄にも関わらず、
一生懸命ディドナートとヴァン・デン・ヒーヴァーを引き立ててました。
レスター役は当初メーリが歌うことになっていたんですが、『リゴレット』でのメト・デビュー失敗!からまだ立ち直れないのか、
シーズンが始まろうか、という頃にキャンセルを発表し、急遽、ポレンザーニが入ることになりました。
史実的にはマリアも40代、、ということは多分、レスターも同年齢か多少上でもおかしくないので、
ポレンザーニの白髪交じりの頭もあれで間違いではないのかもしれませんが、雰囲気までおじさんくさいのはどうなんでしょう、、?
もうちょっと若い雰囲気にしてもいいんじゃないかな、、?
スカラの夜で同役を歌ったメーリは超まんまな若者作りでしたよ、、。
歌唱の方は一瞬高音でひやりとさせられたところがありましたが、それ以外の部分は声も良く伸びていて、主役の女性二人を良く盛り立てていたと思います。
タルボ役のローズ、セシル役のホプキンス共に、役に求められるに十分の歌唱を披露していましたし、
歌う役は本当に少ないながら、アンナ役のジフチャックは私がこれまで聴いた中で、最もエッジの感じられる切れ味のある声で、
こんな風に歌うことも出来る人だったんだな、、とちょっと驚きを新たにしました。
最後にどの歌手にも負けず劣らず称賛しておきたいのはベニーニの指揮!
シーズン・オープニングの『愛の妙薬』でも素晴らしい指揮振りだったベニーニですが、
今回の『マリア・ストゥアルダ』はそれを上回る出来かもしれないです。
『愛の妙薬』は作品自体の出来が良いし、オケも作品を良く知っているので、ある程度勝手に回っていく部分もありますが、
この『マリア・ストゥアルダ』は勝手にまわしておくとどんどん沈没しかねない音楽だし、メト・オケはこの演目を演奏するのが今回初めて、、と
ベニーニにとっては地獄のようなことになっていたのではないかと思うのですが、良く短期間でこんなにまとめたもの、と感心します。
今回はサイド・ボックスからの鑑賞だったので、彼の指揮の様子が良く見えましたが、本当に手取り足取り、物凄くきちんと指示を出していて、感心しました。
普通なら歌手側の采配で、彼らが延ばせる・彼らの好みの音の長さに合わせてオケをなだれこませる、、というようなことをしてもおかしくない場所ですら、
歌手にここまで延ばせ、止れ、の指示を出しており、これ即ち、彼の中できちんと”ここはこう演奏するべき!”という
確固としたアイディアをきちんと持っている、ということに他ならず、
ベル・カント・ファンである私のようなオーディエンスにとって、非常に嬉しい事態です。
この作品でこんなに躍動感のある演奏が出来るなんて本当に驚きで、私が持っているどのCDよりもオケの演奏に関しては良い内容でした。
オケから出てくる音の美しさに溜息が出た箇所も、一つや二つではありませんでした。
数年前の『愛の妙薬』でニコル・キャベルを詰めていた時から只者ではない面白いおっさん、、と思ってましたが、ベル・カントに関しては指揮の腕も確か!
これでシリーズ第三弾の『ロベルト・デヴェリュー』も彼の指揮になるかもしれない、、という予感がして来ました。
Joyce DiDonato (Maria Stuarda / Mary Stuart)
Elza van den Heever (Elisabetta / Queen Elizabeth I)
Matthew Polenzani (Roberto / Robert Dudley, Earl of Leicester)
Matthew Rose (Giorgio / George Talbot, Earl of Shrewsbury)
Joshua Hopkins (Guglielmo / William Cecil, Lord Burghley)
Maria Zifchak (Anna / Jane Kennedy, Mary's lady-in-waiting)
Conductor: Maurizio Benini
Production: David McVicar
Set & Costume design: John Macfarlane
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman
Gr Tier Box Even Front
ON
*** ドニゼッティ マリア・ストゥアルダ Donizetti Maria Stuarda ***
メトの2012/13年のシーズン発表、それに伴って宣伝用のスチール写真が出てきた頃から、
”なーんか変な感じがするんだけど、何が変なのかわからない、、、。”とモヤモヤした気分に包まれていて、
だけど、最近考えることがすっかり面倒臭くなってしまって、”ま、いいか。”と良く考えないで放っておいたら、
”そろそろ『マリア・ストゥアルダ』の予習を本格的に、、。”と思って準備し始めた途端、それが何かがわかりました。
『マリア・ストゥアルダ』にはジョイス・ディドナートの写真がずっと使われてましたけど、一体彼女が歌う役は何、、?
メゾが女性陣の中で一番の主役、というオペラの演目はそんなに数が多くないので、
私のモヤモヤは、当初、メゾのディドナートが一人スチール写真にのっているということに対する漠然としたものだったと思うのですが、
『マリア・ストゥアルダ』って、よく考えてみると、初演はソプラノ on ソプラノの組み合わせだったようですが、
ここ数十年の演奏の歴史としては、メゾがエリザベッタ役を歌い、ソプラノがマリア役を歌うパターンの方が多いんじゃないかな、と思います。
スカラな夜のイベントの一貫として映画館で見た『マリア・ストゥアルダ』での人間国宝級のマリアはデヴィーアだったし、
(後注:ただし、エリザベッタ役を歌ったアントナッチは2002年頃からメゾのレパートリーに加えてソプラノのそれも歌い始めていて、それに合わせて公式にはソプラノを名乗っているようです。)
家にあるCDも、マリア役を歌っているのはカバリエとかサザーランドとかグルベローヴァとか、
ソプラノ、それもただのソプラノではなく、ベルカント・ワールドで卓越した声と技術を誇るソプラノばっかりです。
そして、今日ディドナートと共演予定のヴァン・デン・ヒーヴァーは私がこれまで名前も聞いたことのない歌手で、
彼女がソプラノなのか、メゾなのかもよく知らない、、、という事情もこの事態を助けていません。
なぜなら私は、ならばきっとこのヴァン・デン・ヒーヴァーがソプラノでマリア役を歌うのかな、、と思い込みかけていた時期もあったからです。
でも、そういえばスチール写真のディドナートはロザリオを持って悲痛な表情を浮かべていたような、、
ってことは、れれれ?やっぱりディドナートがマリア役??
今回はスカラの夜の時と違って生鑑賞だし、つい予習にも力が入るわけですが、いくつか音源を聴いてみて、
あらためてあのスカラの公演が全然退屈でなかったのは、
デヴィーアと必ずしもベスト・コンディションでないながらも音楽性の高さを誇るアントナッチという二人の歌手の力があったからだなあ、、と思いました。
というのも、『マリア・ストゥアルダ』は、その必要とされる高度なテクニックに聴いてるだけで顎が外れるような気がする
『テンダのベアトリーチェ』のような作品とは違った意味で、
良い公演にするのがすごく難しい作品だからです。
最大の理由は、こういっちゃ元も子もありませんが、まあ、はっきり言ってドニゼッティのベストの作品ではないんです。
ベルカント作品好き、中でもドニゼッティが大・大好きな私がそう言うんですから、まあ間違いありません。
一つにはジュゼッペ・バルダーリによるリブレットのせいもあると思いますが、
音楽の方もドニゼッティの他の人気作品と比べると、鮮烈に記憶に残るような旋律・ドラマの盛り上がりに恵まれておらず、
それこそ、デヴィーアのような歌手でないと、この作品を説得力を持って歌うのは至難の技です。
いえ、デヴィーアだって、例えば30代とか40代の頃に歌っていたらば、スカラの夜の時のような迫力ある歌を繰り広げられたかどうか、、。
あの公演は彼女の歌手としてのストイックさと自信が、マリアの”一つ運命が掛け違えば私が女王だった!”というプライドとシンクロして、
それがすごい迫力になっていた、という、一種特殊なケースだったと思うのです。
で、オケに与えられた音楽も同じ理由で難しい。
これ、ダルな演奏されたら、もうオーディエンスにとっては苦痛以外の何物でもない、という種類の音楽です。
いや、それだけでなく、指揮者がしっかりしていないとこのあたりやばいことになりそうだな、、という”崩壊注意”の標識がかかっている箇所もあり、
カバリエが歌っているライブ音源でのスカラ座の演奏の中にも、
”なんかよくわからないけど、こんな感じで弾いとくか、、。”みたいな怪しいことになっている部分もあります。
ベルカント・オペラを演奏させたら右に出るものがいないスカラですら手を焼く『マリア・ストゥアルダ』。おそるべし。
そして、とどめが、マリア役とエリザベッタ役のキャスティングの難しさです。
エリザベッタの方は、低音域も高音域も充実していなければならず、
その上に、この二つの間を瞬時に跨ぐ旋律が多いので、普通以上に胸声の音色が突出しないで他の部分と出来る限り統一された音色であって欲しい。
例えば、サザーランドの盤でエリザベッタを歌っているトゥーランジューは高音域の音が綺麗で、
低い音域もそこだけ取れば迫力ある音が出ているのですが、なんだか音色がものすごくドスが利いており、高音域の美しい音色とかなり異質なため、
行ったり来たりする度に、黒いトゥーランジューと白いトゥーランジューがかわりばんこに出てくる感じでかなり違和感あります。
カバリエとライブ盤で組んでいるヴァーレットは音色の統一性という点では優れているし表現力もあるんですが、
最高音あたりはトゥーランジューほど楽には出ていない感じがありますし、
私はもしかすると、ドラマの表現の部分を別にすればこの作品はマリア役よりもエリザベッタ役の方が難しいんじゃないかな、、と思っている位です。
ではマリア役が楽かというと、当然そんなことはなく、この役の難しさは一にも二にも表現力です。
スコア通りに歌うなら、そんなに滅茶苦茶な高音はないのでその点は楽に感じられるかもしれませんが
(ただし、オプショナルに高音を入れたり、オーナメテーションを入れることによって、その難度は無限大にあがる。)
音楽がドニゼッティのベスト!とはいえないだけに、その分、そういった歌手の裁量によるエキサイトメントを付け加えるか、
もしくは声そのものの魅力でオーディエンスを魅了せねばなりません。
この作品の男性陣はロベルト(レスター伯)役ですらこの二人の引き立て役の枠を出ていない”この役立たずー!”な存在ですので、
マリア役とエリザベッタ役を歌う二人の歌手の肩にすべてがかかっており、
この二人に、ただでさえも油断したらすぐにダレダレになってしまいがちな音楽を、そうさせず、
逆に高みに引き上げられる実力とドラマティック・センスがないといけない、『マリア・ストゥアルダ』はその点で難しい作品なのです。
この、私たちが単純にメゾvsソプラノと言って一般的に思い浮かべる特徴にはっきり分け切れず、
まるで両方のテリトリーに跨っているかのような不思議な両役のリクワイヤメントのせいか、
実は調べてみると、この50年位の演奏史でも、マリア役・エリザベッタ役いずれも、ソプラノとメゾの両方で歌い演じられたことがあるんだそうです。
ということで、結局、メトではメゾのディドナートがマリア役を歌うんですが、歴史上初めてのメゾの同役への挑戦!ということではないようです。
最初に舞台上に大きく見えるのは獅子と鷲なのかな、、、?
このコンビネーションはメアリー一世の治世の時の王家の紋章で(エリザベス一世のそれは獅子と竜)、
マリアとエリザベッタのどちらが正当な王位継承者か?という議論や二人の確執の元凶となったものをシンボライズしているのかもしれません。
刷り込みというのは強力なもので、突然マリア/エリザベッタ両役でソプラノ/メゾのスイッチOKよ!と言われても、
初めて見た公演(スカラの夜)や耳に慣れた音源の印象というのはなかなか払拭できないので、
私はどうしても、マリア役にソプラノ的なものを、そしてエリザベッタ役にメゾ的なものを期待してしまいます。
で、ディドナートがマリア役を歌うのですらちょっと意外ではあったんですが、そうか、今日はそうするとメゾ on メゾなんだな、と思ってました。
ドニゼッティお得意の焦らしの術(『ルチア』なんかも同じパターン、、)により、
同作品の最大主役であるマリアは一幕の二場からやっと登場~♪なので、一幕一場は完全にエリザベッタ役の独壇場。
先にも書いた通り、エリザベッタ役は本当に大変な役で、高音域も低音域も同等にパワフルで、しかも音色が統一されていて、、なんていうのは無理に近い注文だから、
どれかが優れていれば良しとしなければ、位な気持ちで、それこそヴァン・デン・ヒーヴァーについては何の前知識も無いものですから、
まっさらな気持ちで鑑賞を始めました。
新演出もので、ディドナートのような人気歌手相手に、こんな難しい役でメト・デビューをする、となったら、緊張の極みに達していても全然おかしくないのですが、
登場してすぐに歌う"Ah! quando all'ara scorgemi ああ、私が婚礼の祭壇に導かれる時”での彼女の落ち着きぶりと度胸は大したもので、
きちんとした声、きちんとしたベル・カントのテクニックの両方を持っていることがすぐにはっきりと感じ取れました。
こんなメゾ、これまでどこに隠してたんだ!?です。
全音域に渡って音色の統一のされ方も申し分ないし、エリザベッタの男性っぽさ(それがなかったらあんな政治手腕を発揮できないし、
これこそがエリザベッタと同様にプライドが高くありつつも良くも悪くも頭からつま先まで女っぽいマリアとの対照的な点でもあるわけで、
この点を表現することがこの役では不可欠なのです)、気の強さ&激しさ&気位の高さもきちんと表現されていて、
彼女の歌は、端々からきちんと感情が感じられるのがいいな、と思います。
重箱の隅つつきまくりのこの嫌~なオペラ婆が、後は高音域か低音域のどちらに比重がかかっているかを観察せねば、、と、万全の態勢を整えているわけですが、
まあ、ここまで低音がきっちりしているメゾだから、ものすごい高音を期待するのは酷というもの、、と気を緩めそうになった瞬間、
"Ah, dal cielo discenda un raggio ああ、空から光が一筋射して”の最後に彼女がなんと高音(D)を入れて来て、
それがまた、なんとか頑張って挑戦してみました、、というような生っちょろい音では全くなく、
堂々としたフル・ボディの、ソプラノでもこんなしっかりした綺麗な高音出したら、万々歳というような音で、私は目玉が飛び出るかと思う位びっくりしました。
これにはオーディエンスも大喝采!で、これで一層心に余裕が出来たか、後に続くレスター伯爵との二重唱も素晴らしい出来で、この意地悪婆も完全降参です。
むしろ、あの高音と、その後に続く歌唱の高音域を聴いてしまったら、比較として、どちらか選ばなければならないとしたら、
むしろ高音域の方が良い位かも、、、いや、もうこれは両音域充実している、と言ってよいでしょう!
一体このエルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーとは何者??とあらためてプレイビルを開けると、、、
あれ?ソプラノなの、この人??
やだー、私はてっきりメゾだと思って聴いてましたよ。異常に高音に強いメゾだな、、と。
それ位、低音域も普通にしっかりしてるから、、、。
さらに帰宅してから調べてみると、彼女は元々メゾでスタートしたものの、
サンフランシスコ・オペラのメローラ・プログラムに在籍していた時に”あなたはメゾではなくソプラノ!”と言われてソプラノにコンバートした経緯があるんだそうです。
ハイG(!)も出るそうですから、今日の高音なんか朝飯前だったんだ、、、。
そして、このあなたはソプラノ!とコンバートを薦めた二人の人物のうちの一人がなんと、ドローラ・ザジックなんだそうです。
ということで、今日は私がこれまで持っていたソプラノ(マリア) on メゾ(エリザベッタ)とは真逆の、メゾ on ソプラノの公演なんです。
面白い。
実は『マリア・ストゥアルダ』がメトで上演されるのは初めて、つまり今日がメトでの初演となります。
2011/12年シーズンに『アンナ・ボレーナ』で始まったチューダー(女王)三部作シリーズの第二弾で(ちなみに第三弾は『ロベルト・デヴェリュー』)、
このシリーズは全てデイヴィッド・マクヴィカーが演出を担当することになっています。
セットや衣装のデザイン・色合いとも『アンナ・ボレーナ』からの繋がりがきちんと感じられるものになっていて、
こういう点は一人の演出家がシリーズで演出する場合の長所だな、と思います。
特に今回の演出では赤の使い方が効果的で、確か『アンナ・ボレーナ』の前のレクチャーで、
チューダーの時代というのは身分によって着用できる繊維の種類や色が決まっていた、というような話があったように思うのですが、
投獄されている身のためにずっと黒い衣服に身を包んでいるマリアが、処刑に赴く前にばっ!と衣装を脱ぎ捨てると、その下から赤いドレスが出てきます。
それまで、全編を通じて赤の衣装で登場したのはエリザベッタだけで(フォルテリンガ城での狩りの場面)、
かつ、他の登場人物の衣装と舞台はほとんど黒か黒っぽい色なために、マリアが赤いドレスになった時のビジュアル的効果は鮮烈で、
これはマリアが死の場に臨んで、心は女王のまま死んでいった、ということを表現するのに非常に有効でした。
また、『アンナ・ボレーナ』の時には抑えモードだった処刑の恐怖も、今回は舞台の上に首切り人を立てて迫力アップしてます。
ニ幕以降は至極真っ当に恐怖と陰鬱さを表現しているマクヴィカーの演出ですが、ユニークなのは一幕でのエリザベッタの取り扱いかもしれません。
ヴァン・デン・ヒーヴァーが100%自分の考えで今回のようなエリザベッタ像を作ったとは考えづらいので、
全部とは言わずとも、最低でもいくらかはマクヴィカーのアイディアによるものだろうと推測するのですが、
ヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタは、歌は至極真っ当ですが、演技と役作りはかなり変です。怖いです。奇妙です。
スカラの夜にこの役を演じたアントナッチはマリア役に負けず劣らずにシリアス路線でエリザベッタを演じてましたが、
ヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタはそのあまりの変てこさにほとんどコメディックぎりぎりの線を走っていて、
お付きの人も多分、”政治には長けてるけど、変な女。”と思いながら仕えているんだろうな、、と思います。
どこをどう変か、、と言えば、、、こう、、、女装した男性がそのまま女性になったみたい、というか、、
でもそれを演じているヴァン・デン・ヒーヴァーはやっぱり女性で、、と考えるとわけがわからなくなって来ました。
エリザベッタは女王なんだし、ここまで変ってるってことはないだろう、、と、アントナッチ型のシリアス路線を志向する方も多いでしょうし、
そもそもチューダー三部作は史実の器だけを借りて、ドニゼッティが美しく加工して作り上げたものであることを考えると
(オペラで描かれる細かいエピソードはほとんどがフィクションと言ってよいので、これを歴史のまんまだと信じてはいけません!)、
マリアもエリザベッタも美しく悲しいヒロイン達であるべきだと思うのですが、
私はこのヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタの演じ方にある種のリアリティを感じて、嫌いじゃないです。いや、むしろ好きかも。
もしかしたら実際エリザベス女王もこんなちょっと変な人だったのかも、、と思ったり、、。
面白いのはマクヴィカーがエリザベッタをこのように設定したせい・おかげで、
リブレットの言葉と音楽だけから受け取るイメージと、舞台の場から受ける雰囲気がかなり違ったものになった点です。
特にレスター伯爵との関係には辛い片思いの相手、というよりは、長年の気心知れたほとんど友人のような上司・部下同士、という感じになっています。
でも、確かに、レスターはエリザベッタの御前に遅刻しても、随分思い切ったことを申し出ても、なぜか彼女に許されてしまう。
だし、エリザベッタだって、馬鹿じゃないんですから、フランスの王とレスターを比べてレスターを夫に取る、なんてことは
政治的な理由から言ってもまずありえない、、、ということ位、わかっているはずであって、
スカラの夜のようにレスターへの悲恋をあまりに強調し過ぎるのは的外れなのかもしれないな、、と思います。
ただ、レスターがエリザベッタにフォルテリンガ城を訪ねるよう説得し、それに成功してしまう場面は、
(それにしても、このレスターという男は本当頭悪いというか、、、二人を会わせて仲直りさせよう、、なんて、どこまで能天気なんだ?と思います。)
怒り半分、一人で立ち去ろうとするエリザベッタに、レスターが執拗に彼女の手を取ろうと手の平を差し出すと、
”またあんたの言う通りになっちまったよ!もう!”という感じでエリザベッタがばしっ!と悔しまぎれでその手を取るあたりは微笑ましく、面白い解釈だな、と思うのですが、
そこに至るまでのプロセスで、彼女がどれほどマリアに恐怖と脅威と、その裏返しの敵意を感じているか、そこが伝わりきっていないと思います。
特にこの物語は彼女たちが血の繋がった関係で、マリアがエリザベッタにしばしばsorellaと呼びかけている位です。
エリザベッタはアンナ・ボレーナ(アン・ブリン)とエンリーコ(ヘンリー8世)の間に生まれた娘で、
マリアは、エンリーコのお姉さんの孫娘なので、この二人は日本語ではどういう関係なんでしょう、、、よくわかりませんが、
まあ、お姉さんというのは言いすぎですが(ですし、もっと広い意味でのsorellaなんだと思います)、血縁関係はあるわけで、
単なる王位をめぐるライバル同士というもの以上の、この血の繋がり、そして、イギリス国教会とカトリックに分断された二人の立場の微妙さがこの物語の肝の一つだと思います。
マクヴィカーはスコットランドの人なので、その辺りは観客全員が当然持っている知識のはず、という前提で、
一幕一場をユーモアを交えた味付けにしたのかもしれませんが、
ニ場で、レスターの”Ove ti mostri a lei sommmessa もし彼女(エリザベッタ)に謙虚な姿勢で対すれば、、
(エリザベッタが恩赦してくれるかもしれない。”という言葉に対し、
マリアが”A lei sommessa? 彼女に謙虚な姿勢をとる?(なんでこのあたしがそんなことしなければならないの?)”と答え、
それに対してレスターが”Oggi lo dei 今日だけはそうしなければ。”と歌った瞬間、
劇場が爆笑の渦に巻き込まれたところを見ると、マクヴィカーはメトの観客を甘く見過ぎたかもしれません。
私が今回、一つだけ、小さな不満がマクヴィカーの演出にあったとすれば、この、ことの深刻さを演出で伝える匙加減だったかな、と思います。
一幕一場で設定したトーンが少し軽すぎて、ニ場に影響を与えてしまったと思います。
ただ、イギリス人でない演出家がエリザベッタをこのような人物像にするにはすごく勇気がいると思うのですが
(下手したら、お前はイギリスを馬鹿にしてるのか!と、イギリス国民の怒りを買いかねない、、。)、
マクヴィカーはそんなハードルを軽く乗り越え、エリザベス一世をあのように描きながら、しかし、彼女への温かい眼差しも感じられるのが面白いな、と思いました。
彼の演技指導にきちんと応えているヴァン・デン・ヒーヴァーも見事だと思います。
舞台でもHDでも彼女の素顔を見る機会はまずないと思われますので、
あのものすごい化粧と不気味な身振りの下にはこんな素顔が、、ということで、彼女の写真を紹介しておきます。
私個人的には今日のキャストで一番色んな意味であっ!と驚かされたのがヴァン・デン・ヒーヴァーでしたので、肝心なマリア役にやっと今頃辿りつきました。
ディドナートは昨年の大晦日の『魔法の島』のシコラックスはともかく、『セヴィリヤの理髪師』のロジーナ、『オリー伯爵』のイゾリエ、
そして、ガラやリサイタルでの歌唱に普段の明るくてファンを大切にする姿勢(こんなこともありましたっけ、、)で、
NYのファン・ベースにはそのポジなところが超愛されていて、本当に人気があるメゾなんですが、
今日のマリア役のような完全な悲劇のヒロイン役をメトで歌うのは初めてで、
私はあの元気一杯なディドナートがこの役をどのように歌い演じるか、ものすごく楽しみにしてました。
また、これまでは主役級の役を歌っていても、その任を他の歌手と分け合うケースが多かったわけですが、
この作品は、エリザベッタ役も大変とは言え、やはり何といってもタイトル・ロールはマリアなわけですから、
彼女がメトでピンで客を呼べる歌手としての、言ってみれば最終承認をオーディエンスからもらう場になるか否か、という面でも、
彼女にとってものすごく大きなチャレンジのはずです。
まず、先にワーニングしておいた通り、私はこの作品のマリア役はソプラノのイメージが強いし、
また、この作品はドニゼッティの作品なので、出来れば同じベル・カントの中でも、
ドニゼッティの作品を得意としているソプラノに歌って欲しい、という、細かい/個人的な趣味レベルの欲求があるので、
その点では必ずしも私の期待通りではなかったかな、、ということで、まず些細なネガの意見を先に書いてしまいます。
彼女の声はメゾにしては軽やかで高音も綺麗なんですけど、やはりメゾなんですね、、
当たり前のことを言われても、、と言われるかもしれませんが、この作品のマリア役をメゾが歌う、ということは、
私の感覚ではあまり当たり前のことではないので、そこのところでコンフリクトが起きているんだと思います。
この役で必要な最高音あたりになると、力のあるソプラノなら
(そして、ディドナートがメゾとしてものすごく力のある人であることは強調しても強調し過ぎることはありません。)
音が広がって行く感じがすると思うのですが、ディドナートはそれが出来るほどの猛烈な高音は持ち合わせていないので、
どうしてもそのあたりの音域になると、広がって行くのではなく、逆に一点に向かって集約して行くような音になり、若干音が痩せる感じもあります。
後注:チエカさんのサイトでは、コメント欄で彼女が全パートに渡って半音もしくは全音下げている事が指摘されていて
(場所によってトランスポーズする度合いを変えているみたいです。)、その是非を巡ってヘッズの間で議論になっています。
しかし、音を下げてすら、やっぱり上のような印象がありましたので、単純にどこまでの音が出せるか、出せないか、ということだけが問題ではないように思います。
また、リハーサル中や公演前にトランスポーズの指示が出たわけではないようなので、おそらくはじめから下げて歌う予定だったのだと思います。
当然のことながら、ソプラノのようにオプショナルの高音を入れることは難しいため、
そういった歌手の采配で加わる高音の追加の楽しみ、というのもありません。
それからこれはあまり以前は感じなかったんですが、中音域から下にかけて、少しフレミングの発声とも似た独特の粘りが出ます。
この粘りはメゾのレパートリーなら、それなりに一種の魅力になることもあるかな、、と思うんですが、
ドニゼッティの、それも本来ソプラノが歌う役にはあまり似つかわしくないな、、と思います。
後、これは好みの問題が大きく関係するので必ずしも悪いことではないのかもしれませんが、
彼女の歌唱はバロックから、同じベル・カントでもロッシーニに合ったスタイル、という感じがして、
ちょっとドニゼッティの作品には私は違和感を感じる点もあります。
ロッシーニとドニゼッティの違いは何なんだ?と言われると、言葉で説明するのは難しいのですが、
簡単に言うと、カクカクさと滑らかさ、、とでも言うのか、、、
バロックやロッシーニはアクロバティックであることが奨励され、、
そのままアクロバティックなものとしてオーディエンスに聴いてもらうことが歌い手の目標であり、
オーディエンスにとっての美であり、楽しさでもある、、という風に思うのですが、
ドニゼッティやベッリーニは逆にアクロバティックな歌をそうでないかのように歌うところに美があるのではないかな、、という風に個人的には思っているのです。
なので、バルトリが歌う『夢遊病の女』とか、上手だなあ、、とは思うんですけど、一方でなんか違う、、と感じてしまう自分がいます。
で、アクロバティックでなく聴かせる一つの手段に、音の動きの角を少なくする、という方法があると思うのですが、
ディドナートの歌は『マリア・ストゥアルダ』のような作品での私の好みの歌唱に比すと、若干音の角が立つ歌い方に寄っているように思います。
まあ、でもこのあたりのことは、ものすごく細かい、贅沢な注文であることを強調しつつ、たくさんあったポジティブな点に移りたいと思います。
まず彼女の声の美しさ、これは本当に素晴らしい。
声そのものが、マリアという役の、エリザベッタのほとんど男性的と言ってもよい性質に対照的な、女性らしさというエッセンスを表現しつくしていると思いました。
それからボリューム・コントロールの上手さと歌唱技術の確かさ、またオーナメテーションを入れる時のセンス、
この点は以前から彼女の歌唱の大きな武器だと思っていましたが、
この作品での彼女の歌唱はそれを駆使し、あからさまにどうだ!というのではなく、
繊細なクレッシェンド、上品な細かいオーナメテーションなどを駆使し、オプショナルな高音が出せない、というハンデを乗り越えています。
そして、何よりも表現力!!
一幕二場の”ああ、雲よ、なんと軽やかに Oh! Nube, che lieve!”とニ幕ニ場~三場を比べるとそれは明らかです。
一幕二場では彼女の表現力より技巧が勝っているような感じの歌なのですが、ニ幕ニ場から以降、技巧はそのままに表現力が逆転勝ちする感じで、
彼女の歌手としての素晴らしさが感じられるのはこの部分です。
タルボを通して神からの赦しを得る場面と、合唱を従えて歌う"Deh! Tu di un umile preghiera il suono ああ私達の慎ましい祈りを"、
特に後者での彼女の歌唱は、どうやって合唱に対してこのような完全なバランスを取って歌えるのだろう、、?という位、
絶妙な音量で、合唱の中に浮き漂っているように音を響かせて来るのが本当に凄いです。
これは彼女の声質のせいもあるのかな、、と思います。
決して合唱から浮き立つような特殊な声でも、周りを圧するような感じでもなく、
自然に交じり合っているんだけど、だけど、彼女の声が絹のような光沢を放っていて、
オーディエンスが彼女の歌の軌跡を見失うことは決してない、、というそういう感じ。
この合唱との重唱部分は至福でした。
一幕二場で、アンナ・ボレーナがエリザベッタを侮辱する場面、
”Figlia impura di Bolena~Profanato è il soglio inglese, vil bastarda, dal tuo pié!"
(薄汚いボレーナの娘が!~ あんたみたいな卑しい私生児のおかげで、イギリスの王位も地に堕ちたわ!)で、
声を荒げたり、感情過多にならず、思わず口を突いて出た、というよりも、
もうずーっと考えていたことをここで言わせてもらうわ、、という抑制していた怒りが段々と雪だるま式に大きくなって行く感じの表現も彼女らしいな、と思います。
とにかくこの日のために相当な準備をしたであろうことが感じられる歌唱で、
彼女が登場する公演で歌にがっかりさせられた試しがこれまで一度もないのですが
(『魔法の島』も、作品にはがっかりさせられましたが、彼女の歌にはがっかりしてません。)、
この一度請け負ったら、全力で立ち向かい、中途半端な結果を出さない、という姿勢も、彼女がこちらで絶大な支持を受けている理由の一つなのかもしれません。
私もあれこれと細かいことを言いましたが、鑑賞する価値のある公演だったかと聞かれれば、もちろん!と答えます。
先に役立たず呼ばわりした男性陣ですが、それはドニゼッティがいけないのであって、歌手がいけないわけではありません。
今日の公演に参加した男性陣は全員、歌い甲斐があるとは口が裂けても言えない役柄にも関わらず、
一生懸命ディドナートとヴァン・デン・ヒーヴァーを引き立ててました。
レスター役は当初メーリが歌うことになっていたんですが、『リゴレット』でのメト・デビュー失敗!からまだ立ち直れないのか、
シーズンが始まろうか、という頃にキャンセルを発表し、急遽、ポレンザーニが入ることになりました。
史実的にはマリアも40代、、ということは多分、レスターも同年齢か多少上でもおかしくないので、
ポレンザーニの白髪交じりの頭もあれで間違いではないのかもしれませんが、雰囲気までおじさんくさいのはどうなんでしょう、、?
もうちょっと若い雰囲気にしてもいいんじゃないかな、、?
スカラの夜で同役を歌ったメーリは超まんまな若者作りでしたよ、、。
歌唱の方は一瞬高音でひやりとさせられたところがありましたが、それ以外の部分は声も良く伸びていて、主役の女性二人を良く盛り立てていたと思います。
タルボ役のローズ、セシル役のホプキンス共に、役に求められるに十分の歌唱を披露していましたし、
歌う役は本当に少ないながら、アンナ役のジフチャックは私がこれまで聴いた中で、最もエッジの感じられる切れ味のある声で、
こんな風に歌うことも出来る人だったんだな、、とちょっと驚きを新たにしました。
最後にどの歌手にも負けず劣らず称賛しておきたいのはベニーニの指揮!
シーズン・オープニングの『愛の妙薬』でも素晴らしい指揮振りだったベニーニですが、
今回の『マリア・ストゥアルダ』はそれを上回る出来かもしれないです。
『愛の妙薬』は作品自体の出来が良いし、オケも作品を良く知っているので、ある程度勝手に回っていく部分もありますが、
この『マリア・ストゥアルダ』は勝手にまわしておくとどんどん沈没しかねない音楽だし、メト・オケはこの演目を演奏するのが今回初めて、、と
ベニーニにとっては地獄のようなことになっていたのではないかと思うのですが、良く短期間でこんなにまとめたもの、と感心します。
今回はサイド・ボックスからの鑑賞だったので、彼の指揮の様子が良く見えましたが、本当に手取り足取り、物凄くきちんと指示を出していて、感心しました。
普通なら歌手側の采配で、彼らが延ばせる・彼らの好みの音の長さに合わせてオケをなだれこませる、、というようなことをしてもおかしくない場所ですら、
歌手にここまで延ばせ、止れ、の指示を出しており、これ即ち、彼の中できちんと”ここはこう演奏するべき!”という
確固としたアイディアをきちんと持っている、ということに他ならず、
ベル・カント・ファンである私のようなオーディエンスにとって、非常に嬉しい事態です。
この作品でこんなに躍動感のある演奏が出来るなんて本当に驚きで、私が持っているどのCDよりもオケの演奏に関しては良い内容でした。
オケから出てくる音の美しさに溜息が出た箇所も、一つや二つではありませんでした。
数年前の『愛の妙薬』でニコル・キャベルを詰めていた時から只者ではない面白いおっさん、、と思ってましたが、ベル・カントに関しては指揮の腕も確か!
これでシリーズ第三弾の『ロベルト・デヴェリュー』も彼の指揮になるかもしれない、、という予感がして来ました。
Joyce DiDonato (Maria Stuarda / Mary Stuart)
Elza van den Heever (Elisabetta / Queen Elizabeth I)
Matthew Polenzani (Roberto / Robert Dudley, Earl of Leicester)
Matthew Rose (Giorgio / George Talbot, Earl of Shrewsbury)
Joshua Hopkins (Guglielmo / William Cecil, Lord Burghley)
Maria Zifchak (Anna / Jane Kennedy, Mary's lady-in-waiting)
Conductor: Maurizio Benini
Production: David McVicar
Set & Costume design: John Macfarlane
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman
Gr Tier Box Even Front
ON
*** ドニゼッティ マリア・ストゥアルダ Donizetti Maria Stuarda ***