Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

OTELLO (Sat, Oct 13, 2012)

2012-10-13 | メトロポリタン・オペラ
先日(10/8)『トロヴァトーレ』を鑑賞したのにはジャンナッタジオを聴くことと、実はもう一つ目的があって、
それは来る週末に予定されていたHDの収録日の『愛の妙薬』のチケットを、同日の夜の公演の『オテロ』に交換してもらうことでした。
チケットの交換やアップグレードは電話やウェブでは受け付けてもらえなくて、メトのボックス・オフィスまで足を運ぶ必要があるのです。
新演出の『愛の妙薬』の公演については、オープニング・ナイトの公演を見て、
この演出とキャストでは作品の本当の良さを引き出すのに限界があるな、と感じましたので
(しつこいようですが、私はコプリーの旧演出が大好きでしたので、、)、
ベニーニ率いるオケの演奏が非常に良いので(これはオープニング・ナイト後のいくつかの演奏をシリウスで聴いてもコンスタントに同じでした)、
それをもう一度聴けないのはちょっと残念ではあったのですが、
それよりも、気がつけばまだチケットの準備すらしていなかった『オテロ』の方を一度は鑑賞しておかなくては!というわけで、
『オテロ』のシーズン初日の公演は10/9の火曜日だったんですが、
それだと『トロヴァトーレ』に続いて連日で会社から慌しく駆けつけることになってしまうので、
初日の公演はシリウスで聴いて、そのすぐ後の土曜の公演を鑑賞することにしました。

今シーズンの『オテロ』はHDの対象演目でもあるのですが、
主役のボータとフレミングは2007-8年シーズンの公演と全く同じコンビで、
5年経てもめぼしいフレッシュなオテロ/デズデーモナ・コンビをキャスティングできないとはメトも芸のないことよ、、と思います。
その上、ボータもフレミングも決して悪い歌手ではないし、歌唱も安定しているとは思うのですが、
(ま、フレミングはエキセントリックな歌い方が炸裂してぎょっとさせられることも多々ありますが。)、
その分、彼らの歌はいつもどこか”手堅い”という印象が強くて、真に興奮した!という経験が私はあまりないんです。
そんなことなので、シーズン・プレミエの日の夜は、
”さあ、手堅い『オテロ』でも聴くか。”と、大してわくわくするでもなく、シリウスのスイッチを入れました。
ところが、もう冒頭から仰天するような出来事が起こってしまって、違う意味でどきどきしっ放し、なことになってしまいました。
こちらがその日の音源の抜粋で、指揮はセミヨン・ビシュコフです。
音源は三箇所の抜粋になっていて、一番目の、オケが最初に音を出す瞬間からオテロが”Esultate! 喜べ!"と歌い始めるまでで若干時間がありますが、
この間ずっと観客は、手に汗握りつつ、どきどきし、それが最高潮に達したところで、"Esultate!"が聴こえてくる、
この時間の流れが大事(と、そこでこけた時のショックの大きさがオーディエンスにとってどれほどのものか、、)ですので、あえて全部入れました。



ボ、ボータ、、、

言っておきますが、私はボータの歌を、手堅すぎて面白みに欠けるな、とか、上手いけど味がないよなあ、、と感じたことはこれまでにありますが、
技術がない、とか、下手だと思ったことは一度だってありません。
テノールの中では、その歌唱が最もリライアブルなグループに入る、とすら思います。
ですから、この初日の歌唱はもう彼であって彼でない、と言っていいくらいで、
どういう事情があってこんな最悪のコンディションでも歌わなければならないことになってしまったのか、、、気の毒すぎて言葉がないくらいです。
多少オペラに親しんでいる人間なら、これが彼の本来の歌唱ではないことは重々過ぎるくらいわかっているので、
異例なことに、シーズン初日の公演ながらあえて評を出していないメディア媒体もあるくらいです。

私も正直なことを言うとここで音源を紹介することについて大変な迷いがあって、
当然のことながら、彼のキャリアの中でもワースト・ナイトに違いない日の歌唱を面白がるためにアップしたわけではありません。
いつぞやの『ロミオとジュリエット』のベチャーワのような一過性のクラックなら、後で音源を聴いてなごむことも出来ますが、
(ただ、劇場で生で聴いている時は、オーディエンスも冷や汗が出るような思いをするので、笑いが出ることはまずないです。)
これはそういう種類の失敗でないことは明らかで、
それこそが、NYの批評家たちの中にさえ、ボータを気遣って初日の歌唱を葬り去ろうとしている人がいる中で、
私があえて、その意図を聴く人に誤解される可能性があるのを承知で、音源を紹介することに決めた理由です。
一体こんな状態で彼が歌わなければならないような状況に陥ったのは、誰の責任なのか?ということを追求したかったし、
そのためにはどんなに言葉をつくして彼の歌唱がボロボロだったかを書くよりも、
音源を一聴して頂く方が、この日のオーディエンスがどんな思いでこの公演を聴かなければならなかったか、ということが良く伝わるはずだと判断したからです。

結局、ニ幕と三幕の間のインターミッションで、ボータがアレルギーで不調であること、しかし、このまま歌い続ける旨のアナウンスがありましたが、
音源を聴けば判るとおり、すでに音がへしゃげる前のEsultate!からいつもの彼の声でないことは明らかですし、
音が引っかかってつぶれるパターンが毎回同じで、とても『オテロ』のような作品の表題役を全幕歌える状態になかったことが一耳瞭然です。
以前、ROHの日本公演でエルモネラ・ヤホ(ヤオ)嬢が不調のために散々な結果を出してオーディエンスから非難轟々だった事件がありました。
その時も思いましたが、オペラハウスは公演前に出演する歌手のクオリティ・コントロールを行う義務がある!と感じるのは私だけでしょうか?
それであらゆる歌唱の不調をキャプチャーできるとは思いませんし、舞台で歌ってみないとわからない類の不調もあるとは思います。
しかし、日本公演の時のヤホ嬢のような、そして、今回のメトでのボータのようなケースは絶対に防げたはずです。
先に書いたように、私のようなトーシロでさえ、何度か彼の歌声を聴いたことがあれば、
"Esultate!"と歌い始めた時の音色から、何か変だぞ、、と感じた位なのですから、
何らかのチェックがあれば、メトの音楽スタッフが気づかないわけがありません。

でも、もっと怖く、忌むべき可能性は、ボータもスタッフもとても歌える状態じゃない、と降板を希望・推奨していたにも関わらず、
支配人が”どうしてもあなたに歌ってもらいたい。”と、頼み倒したのではないか?ということです。
この可能性を私が捨てきれない理由は、仮にボータが”歌いたい!!”と泣き叫んだとしても、
私が支配人だったならば、絶対にニ幕の後のインターミッションまで待たずに一幕後の舞台転換のタイミングで彼を舞台から引き摺り下ろしたであろうに、
あろうことか、インターミッションで降板させるどころか、全幕歌わせた、、、、そこに疑問の念を感じずにはいられないからです。
一体カバーは存在したのか?(昨シーズンの『ワルキューレ』みたいなことになっていたんじゃないでしょうね?
詳細はこちらの記事のコメント欄を参照ください。)、
存在しているならなぜ彼を登場させないのか?
大事な初日をカバーには任せられないから、こんな無理な状態のボータに全幕歌わせたのか?
なら、カバーの存在意義は何なのか?そんな頼りにならないカバーをどうしてメトは雇っているのか?、、、、と、疑問はつきません。

私がなぜにこれほどまでに熱くこの件を語るかというと、こんなことは歌手にとってもオーディエンスにとってもフェアでないからです。
普段力のある歌手であればあるほど、このような不本意な歌唱を、劇場はもちろん、シリウスやらライブ・ストリーミングやらこんな場で配信されて、
どれほど本人は悔しく残念な思いでいることかと思います。
それに『オテロ』のHDは10/27に迫っているんですよ。
具合が悪いのなら、ちょっとでも早く休養させて、その日に備えられるような環境を作ってあげるのが筋ってものではないですか?
それをこんなに無理させて全幕歌わせて何のメリットがあるっていうんでしょう?本当、支配人は何を考えているのやら、です。
それからオーディエンス。
私達は作品を味わうために劇場にいるのであって、こんなに全幕通して”彼は大丈夫だろうか、、。”とはらはらさせられた日には、
『オテロ』を鑑賞した気になれないというものです。

私が鑑賞することになっている公演は初日からたったの4日後ですので、
この歌いっぷり+全幕歌わされてしまった事実からして、”土曜にボータが出演する可能性はまずなくなったな。”と思いました。
そこで、誰が代わりにオテロを歌うのよ?という大問題の浮上です。
今シーズンの『オテロ』はBキャスト(何度も言うようですが、BキャストのBはB級のBではなく、単純に”二番目の”という順序の問題です。)に
クーラ&ストヤノヴァの二人が予定されていて、個人的にはこのBキャストの方を余程楽しみにしているのですが、
スケジュールが空いていればそのクーラを引っ張ってくるか、後はアントネンコかドミンゴ様(←これは話題になるでしょう!)、、
このあたりのテノールでないと、NYのヘッズたちは納得しないんじゃないかな、、と思っていて、誰が代役をつとめるのかしら?とちょっぴりわくわくして来ました。
なのに、その私の気持ちをじらすかのように、メトのサイトで土曜の公演からボータの名前がなかなか消えません。
いやーん、誰!?誰!?!?!?

しかし、ようやく前日の金曜になってサイトに現れた代役の名前を見て私は固まりました。
アマノフ、、、、? 誰、それ?

ということで、早速調査開始!したところ、どうやらマリインスキー劇場系のテノールのようです。
マリインスキー劇場系といえば、月曜の『トロヴァトーレ』のザジックの代役、ニオラーゼもそうだったよな、、と、
彼女の怪しい歌唱を思い出して、実に不安な気分になって来ました。
さらにYouTubeに上がっている彼の歌唱を聴いて、嘘、、、と思いました。
オテロを歌っている彼の声はひょろひょろと頼りなく、どうしてオテロなんかを持ち役にしているのか?と思うほどだし、
下の写真を見てもわかる通り、先に名前を挙げた3人の堂々とした(少なくともオペラ的基準では)良い男振りと比べると、
悲しくて泣きたくなってくるようなうだつのあがらない風采で、
このうだつのあがらない風貌はどれほど顔を黒塗りにしても隠せまい、、と、暗鬱とした気分になって来ました。



モシンスキーのプロダクションは1993/4年シーズン(このプロダクションの初演のオテロはドミ様でした)から存続しているもので、
再演を重ねるうちに当初のモシンスキーのアイディアが薄まっていったこともあると思いますが、
実にオーソドックスで、何ということのない、演出志向の強いオーディエンスには間違いなく”つまんね。”とレッテルを張られてしまうであろう演出です。
支配人の”次にスクラップするべきプロダクション”のリストの上位に食い込んでいるであろうことは間違いありません。
私はこのブログですでに何度も開陳している通り、演出を楽しみにオペラハウスに通っているわけでは全くないので、
正直、よっぽど出来の悪い、もしくは作品の妨げになっていると思われる演出以外なら、それなりに楽しめてしまいます。
むしろ、アイディアががちがちに決め込まれている新演出ものよりは、
ちょっと古ぼけた演出の方が、歌手に自由な演技・歌唱を許す余白があって、彼らの実力がよりはっきりわかって面白い、と思う時すらあります。
そんなことなので、まったくもって物語に忠実なモシンスキーのプロダクションは本来ならMadokakipの許容範囲内に収まっているはずなのですが、
どっこい、この演出はある欠陥のせいで、私としては実に珍しく、支配人の”そろそろ引退させても良いプロダクション”の判断に賛成です。
このプロダクションのセットはメトの舞台の奥行きを存分に利用したものになっているのですが、
その上に舞台上のプロップの配置の仕方のせいで、歌手の声が異常に大きく聴こえるスポットと、まるでその逆のエリアが混在しています。
フレミングとシュトルックマンに関しては、以前違う演目で歌声を聴いていますが、
彼らが舞台の奥行きのせいで声量が舞台後方に向かって大量に拡散してしまう、いわゆる”聴こえずらいスポット”に入った時は、
”彼らの声はこんなに小さくないのに、、、。”と気の毒になるほどです。
しかし、逆にすぐそばに背の高いプロップ(例えば柱など、、)がある場合は、声が異常に反響して、
作品の内容が内容だけに歌手に豊かな演技が求められるせいもああり、彼らが舞台上で良く動くのですが、
その度に歌手の声の聴こえ方が不自然に大きくなったり小さくなったりして、実に鑑賞しづらい。
デズデーモナがオテロに殺害される場面に関しては、それまでの半分位の舞台スペースしか使用しておらず、
しかも、ベッドの少し後ろに大きな壁があって、非常に音が聴き易く、ビジュアル、アコースティック共に優れた場面になっていますが、
それ以外の場面はビジュアルとしては悪くないものの、音響の面でほとんど欠陥があるとみなしてよい位ひどいです。
『愛の妙薬』をとっかえてる暇があったら、『オテロ』に手をつけるべきでした。



個々の歌手についてふれる前に先にオケの演奏の話を。
そういえば、フレミングとボータが再キャストされているだけでなく、指揮のセミヨン・ビシュコフまで5年前の公演と同じなんですね、、。
まるで、メトのアーティスティック部門は頭を使うことを拒否しているのではないか?と思えるほどのワンパターンです。
しかし、実は5年前の公演のことを言うと、ビシュコフの指揮は決して悪くなかった、、、
音楽作りが自然で、メトのオケのサウンドを尊重した演奏を心がけたのが勝因だったと思います。
しかし、今回はどうしたっていうんでしょう!?
5年の間にどこかで転んで頭でも打ったんでしょうか?それともHDにも乗るということで、変に肩の力が入っているんでしょうか?
妙なやり方で音楽をさわりすぎです。今回の彼は。
特に気になったのはヴェルディがせっかく流れを大切に書いている部分で、音楽をチョップアップするような味付けが散見されること。
例えば三幕でデズデーモナが、嫉妬に狂って完全に自分を見失なったオテロにあらぬ疑いをかけられ、
腕をつかまれたはずみで倒れたところに、”地に伏して泣くがよい!”と公衆の面前で唾棄され、
"A terra!... si...nel livido fango..percossa... io giacio"と歌い始める、オーディエンスの胸が最高に張り裂ける場面、
彼女の旋律に絡むように入ってくる金管がエキセントリックなまでにスタッカートになっていたり、だとか、枚挙に暇がありません。
そのようなビシュコフ節の中で10発中1発くらいは面白いな、、と思う箇所もありましたが、
全体的には、ムーティなんかが聴いたら頭から湯気を出して怒りそうな、ちょっぴり変った演奏になってます。
インターミッション中に、とあるカップルの会話が聴こえてきて、男性が女性に”なんかこの作品、プッチーニみたいだよね。”と言っているので、
”『オテロ』がプッチーニに聴こえるとは、変った感性だな、、。”と思いながら盗み聞きしていましたが、
今考えてみると、もしかすると、ビシュコフの、わざとヴェルディらしさを抹消するかのような指揮の仕方にも
そんな意見の一因があったのかもしれないな、と思えて来ます。



ルネ・フレミングのデズデーモナ。
彼女が歌ういわゆる”イタリアもの”の中では、一番の当たり役と言ってもよいのがデズデーモナ役でしょう。
相変わらず奇妙なねばっこい母音や独特のディクション炸裂!で、”いつものルネ様”してしまっている部分があるのは否めませんが、
最近少し声の響きの美しさに翳りが出てきた彼女にしては、この役で必要とされる全ての高音が思いの外綺麗に響いていて、
良くコントロールが利いており、全く危なっかしいところがなく、安心して聴いていられるのはポイントが高いです。
また、回数をこなしているだけあって、ペース配分も巧み。
逆にこなれ過ぎている感じがして、それがほんの少し興奮を殺いでいる部分がある、と言ったらちょっと厳しすぎるでしょうか?

”柳の歌~アヴェ・マリア”は私の好みからするとちょっとべたべたし過ぎている感じはあるのですが、
柳の歌での声のボリューム・コントロールは優れたものがあったと思います
(salceの繰り返しの表情の付け方、それからAh! Emilia, Emilia, addioでのAh!の爆発の仕方も適切だったと思います)し、音の響き自体は非常に綺麗です。
アヴェ・マリアも表現力はあるので(それだけに余計、ねばねば母音が惜しい!と思う)、
究極的にはヴェルディが書いた音楽の素晴らしさだとは思いますが、彼女が歌い終わって、オテロが寝室に入ってくる前に
ビシュコフが指揮棒を下ろして観客の拍手を待っても、オペラハウスは水を打ったように静かになったままで、
結局、オテロが舞台に現れるまで、この場面の悲しさ・せつなさを静けさの中で存分に堪能出来たのは幸いでした。
(シリウスで聴いた演奏は初日のそれもこの日の後の公演もここで拍手が出ていましたので、本当、ラッキーでした。)



シーズン・プレミエから批評家からの評価も高く、
この日の公演でももしかすると一番拍手が多かったのではないかと思われるイアーゴ役のシュトルックマンなんですが、
確かに演技や役作りにきちんとしたメリハリもあって、歌にパッションがあるのは良いと思いますが、
彼の歌だけに限って言うと、私のこの役での好みから言うと、少し歌い崩しが過ぎるかな、と思います。
彼をメトで初めて聴いたのは2010/11年シーズンの『トスカ』なんですが、
あの時も、生で聴いた時はすごく良いな、と思ったのですが、後日の公演を音だけで聴いた時には、あれ?結構崩してるなあ、、と感じました。
彼は生で鑑賞すると、演技との相乗効果で、そのあたりの崩しが気になりにくくなる、もしくは気づいても、ま、いいか、、となりやすいのですが、
私の場合、イアーゴはスカルピアより崩しの許容範囲が狭いので(ここがヴェルディとプッチーニの違いの一つかな、、と思う)、
歌に関しては少し不満が残りました。
ただし、彼は演技は本当に上手いな、と思います。そして、彼の演技の良いところは、いつも正攻法なところ。
あの糞『トスカ』でも、ガグニーゼがボンディの言いなりになっていたのに比べて、
彼は真っ当なスカルピア像で押し通すという、一つ間違えたら舞台で浮きまくっていたかもしれないリスクを犯しながら、説得力を持って歌い通してしまいましたし、
今回も、イアーゴと聞いて大部分の人がイメージする、そのままを舞台に再現してくれてます。
これは言うに易し、ですが、ここ最近メトでイアーゴを演じた歌手で、ここまで黄金正攻法のイアーゴ像を描出出来た人はいないです。
小悪党みたいなアプローチが多くて。



さて、いよいよオテロ役のアモノフ。
まずは、この大変なオテロという役を、リハーサルも立ち会っただけで、おそらくきちんとオケと一緒に歌う機会は一度もなかっただろうと思われる中で、
ひやひやしないで聴かせてくれただけでも感謝しないといけないと思います。
"Esultate"を乗り切った時は、客席から思わず安堵の吐息が聴こえたように感じたほどです。
結構背丈があってがっちりした幅をした体型のせいでしょうか?思いの外、写真で予想していたほどにはうだつのあがらない感じはなかったです。
また声もYouTubeで聴いて予想していたよりは、暗めの声で、
先ほど書いたようにセットの配置のせいで聴こえにくくなってしまった部分があったのは気の毒で、
こちらのトーシロ(ってトーシロのお前が言うな!ですが)・ブログで、彼には声量がない、と一刀両断していた人がいますが、
実際にはそう声量のない人ではないと思います。
とりあえず、『トロヴァトーレ』のヒューズ・ジョーンズのマンリーコ役のような、
”なんであんたがそんな役歌ってるわけ?”と詰め寄りたくなるようなレベルのものではありません。
また、既に実際の舞台で結構な回数歌っているせいか、代役としては演技も歌唱も落ち着いていました。
(ただし、5年前の公演で、オテロがデズデーモナを殺害する場面で、
ボータがフレミングを羽交い絞めにして、オケが演奏するタイミングに合わせて三度ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ、と首を絞めていた演技に比べると、
アモノフは体ごとフレミングにのしかかったまま、ずっと静止状態で、
扼殺というよりは、オテロの腹の脂肪で口をふさがれての窒息死か、もしくは彼の体重による圧死という感じがしてしまったのと、
そのせいで、フレミングの体の動きが制約されて、かろうじて、客席側に見えている腕だけで
気が遠くなった瞬間を表現しなければならなかったのが大変そうだな、、とは思いました。)
インターミッション前のカーテン・コールでフレミングをはじめとする共演者が本当にほっとしたような表情を浮かべていましたが、
今回、ボータの件があったり、また、このアモノフという代役がどういう歌を歌うか、心配しながら聴いたからでしょうが、
改めて、このオテロ役は、本当に大変な役だ、、という思いを新たにしました。
なので、それなりにこの作品をきちんとオーディエンスに味わわせてくれた、という点で私は感謝してます。

しかし、もし、聴き手が、メトでオテロを歌うというなら、最高のものを聴かせてくれ!というタイプの人なら、
彼の歌唱を物足りなく感じるだろうな、とは思います。
一幕、ニ幕では高音が少し浅い音になっていて、先に名前を出した3人のテノールの確固とした音の出し方に比べると、
いかにも自信なさそう、、という感じがします。結果としてはきちんと音は出ているので思い切りの問題もあると思うのですが。
後、彼にはカリスマが不足しているので、では、この先、彼をメトでこの役に配役し続けて、客がずっと満足するか?と言われれば、
かなり苦しいといわねばなりません。
実はこの感想を書いている時点で、『オテロ』のAキャストについては、HDが予定されている10/27の一公演を残すのみとなっているんですが、
結局、初日以外、ボータは一日も歌っておらず、このアモノフがずっと代役をつとめています。
どうなっちゃうんでしょうね、HDは、、、。
ボータが元気で戻って来ていつもの歌唱を聴かせられるよう、願掛けのために、トップの写真は初日のもの(ボータ+フレミング)を貼っておきました。

そうそう、もう1人。
Aキャストのカッシオ役は映画『The Audition』でいい味を出しまくっていたマイケル・ファビアーノが務めています。
彼はメトでは2009/10年シーズンの『スティッフェリオ』に続いて二度目の準主役での登場ですが、
彼は一回一回メトへの登場を大事にしているな、、という感じは伝わって来ます。
まだ主役級の役ではないから、ということもありますが、どの公演でも出来の差が本当に少なくて、自己管理もしっかりしてそうです。
彼の泣き所は、一声でそれとわかるような個性的な声でも美声でもない点と、
この役に必要な優男風、根は善良なのだけど、酒や女に弱い、という雰囲気が不足している点で、
この点で数年前にザルツブルクで同役を歌った、彼と同じ学校の先輩にあたるコステロの歌唱に比べると説得力で劣ります。
しかし、そのコステロがリリコの役への脱皮で苦労しているのに比べて、
ファビアーノはきちんとそれらの役を歌える素地やサウンドがあることをのぞかせる歌唱で
(トップに上がった時のしっかりしたよく開いた響きなどにそれを感じます。)、焦らずこのまま精進を続けて欲しいと思います。
そして、Bキャストのカッシオは2011年のメトの日本公演でメト・カンパニー・デビューを果たしたドルゴフ。
彼はまだNYでは一度も歌ったことがなくて、カッシオが正真正銘のメト・デビューになるのでこちらも大変楽しみです。


Avgust Amonov replacing Johan Botha (Otello)
Renée Fleming (Desdemona)
Falk Struckmann (Iago)
Michael Fabiano (Cassio)
Eduardo Valdes (Roderigo)
Stephen Gaertner (Montano)
Renée Tatum (Emilia)
James Morris (Lodovico)
Luthando Qave (A herald)
Conductor: Semyon Bychkov
Production: Elijah Moshinsky
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Peter J. Hall
Lighting desing: Duane Schuler
Choreography: Eleanor Fazan
Stage direction: David Kneuss
Dr Circ B Odd
ON

***ヴェルディ オテロ オテッロ Verdi Otello***

IL TROVATORE (Mon, Oct 8, 2012)

2012-10-08 | メトロポリタン・オペラ
10日と間が空いていない公演同士でこんなに差があっていいものなのでしょうか?というよりも、こんなに差が出得るものなんでしょうか?
、、、いやー、びっくりしました&おそろしかったです、まじで。

決して簡単ではないレオノーラという役で、なかなかに優れた、しかもパッションのある歌唱を聴かせて印象的なメト・デビューを果たしたユーと、
長いキャリアで幾度となくアズチェーナ役を歌った中でも、彼女をこれまでフォローして来た私が、
これまでで最高の出来だったんじゃないかと思うほど壮絶な歌唱を聴かせたザジックのおかげで、
先週末のマチネの『トロヴァトーレ』が大変にエキサイティングな公演であったのは、感想にも書いた通りです。

あれから約一週間、本来Aキャストでメト・デビューを果たす予定だった(にもかかわらず、病欠で任をユーに譲ることになった)
カルメン・ジャンナッタジオがシーズン二度目の公演から舞台に立っていることを知り、
ここはやはり彼女も聴いておかねば、、ということで、再びメトにやって参りました。

前回はずっと立って見ているとはいえ、30ドルかそこらのチケット代であんな良い公演を見せてもらって、なんか申し訳ない気すらしてくるほどでしたし、
今日は仮にジャンナッタジオがすっ転んでも、少なくともザジックがちゃんといるわけだし、
座って鑑賞しようかな、、、という思いも一瞬頭をかすめたのですが、こういうのを虫の知らせというのでしょうか、
ま、ジャンナッタジオがとても聴いていられないほどひどいという可能性もゼロではないし、何があるかわからん、、、ということで、今日もスタンディング・ルームです。

前回鑑賞した公演を思い出しながら、”しかし、ザジックの先週の歌唱はほんと素晴らしかったから、あれを越えるのは難しいだろうなあ、、。
もしかすると、彼女を長らく応援して来た身としては、あれを彼女の最後のアズチェーナとして記憶に留めた方が幸せだったかな、、。”
などと考えているうちに、カリガリ博士が指揮台に登場して来ました。

前奏の部分で、先週の公演よりも少しオケの音が重いので、お疲れモードかしら、、?とも思いましたが、
彼らは歌手の歌の内容が良い時はそんな時でもすぐに追いついて来るのをこれまで何度も聴いたことがあるので大して心配していなかったのですが、
フェランド役のロビンソンが、伯爵家にまつわる不吉な話を語る部分のうち一番恐ろしい箇所といってよい、
E d'un bambino, ahimé l'ossame 
bruciato a mezzo, fumante ancor!
(そして、ああ、子供の骨は半分焦げて、そこからまだ煙がくすぶっていた!)
のbruciato a mezzoが繰り返される最初の方で思いっきり言葉を噛んでしまって余計な音が増えてしまったためにオケの演奏とずれまくり、
カリガリ博士はそれですっかりパニックしてしまったのか、立て直し方が全くわからないのか、
ロビンソンの歌うパートが終わって合唱が入ってくるところでオケが自力でその混乱を抜け出すまで、全くなすすべなし、、の体で立ち尽くしているではありませんか。

まさか、この指揮者、、、。
一般に優れた歌劇場と言われている劇場のオケはどこもそうだと思いますが、
良いキャストが揃っていれば、指揮者が無能でもオケが勝手に上手く演奏してくれる時があって、
それで助かっている・得している指揮者の名前を挙げよ、と言われたら、すぐに頭に浮かんで来る人が何人もいます。
そういう時は、はっきり言って、私が指揮台に立って腕を振り回していても多分同じ結果が出て来るでしょう。
先週の演奏は、もしかすると、この、私が指揮台に立っても大丈夫な状態になっていたのかもしれない、、、。
指揮者ってのは、力のないキャストが失敗をしてしまったり(また、力のある人でも稀に失敗をすることはあるでしょう)、
力はあっても老齢や妙な自信とエゴから自分勝手な歌唱を出してくる歌手(キャリア末期のパヴァロッティや最近のネトレプコ、
ただ、ネトレプコの場合はそれだけでなくて、技術の鍛錬や声質がレパートリーで求められる最低限を満たしていない、ということも理由にあると思いますが。)
にも対処していかねばなりませんが、もしかすると、この指揮者はそういった修整・調整能力のない指揮者なのかも、、、。
舞台が始まってまだそう時間が経っていないうちからこんなことになって、嫌~な予感が立見席のMadokakipの周りに渦巻いて来ました。



いよいよレオノーラ役のジャンナッタジオの登場。
上は彼女のFacebookから借用して来た、今回の『トロヴァトーレ』の衣装合わせの時に撮影したと思しき写真ですが、
見てお分かりの通り、小柄で華奢ななかなかの美人です。
いや、なかなかどころか相当美人と言ってよく、おそらく彼女自身も彼女のエージェントもそれをセールス・ポイントにしていかねば!とばかりに、
彼女のFacebookもファッション・モデルのそれか?と思うほどに、そのルックスを強調した写真のオン・パレードです。
確かに、どんな種類のどんな時代・スタイルの衣装でも似合っていて、それはオペラが視覚も含めた舞台芸術であることを考えるとプラスであることは間違いありません。
また、ネトレプコやガランチャの美人さがどことなく大造りなのに比べると、日本人にも受けやすい繊細なタイプの美人です。
彼女のその美人さは、当然のことながらルックスの良いアーティストに目がないゲルブ支配人の目に留まるところとなり、
オープニング・ナイトの『愛の妙薬』のライブ上映(オープニング・ナイトのライブ上映はリンカーン・センターのプラザとタイムズ・スクエアのみで行われる)でも、
『オテロ』に登場するルネ・フレミングと共にフューチャーされて、司会のデボラ・ヴォイトにインタビューされたり、
上演後のパーティーにネトレプコらと一緒に写真に納まっていたり、と、メト・デビューの歌手としては破格の待遇を受けているのですが、
おそらくその時にイヴニング・ドレスのような薄着で一気に気温の下がったNYの夜を外で過ごしたりしたのが、
風邪をこじらせて初日を降板しなければならなくなった理由なんじゃないかと思います。

歌手には出演するどの公演も貴賎なく常に全力を尽くして欲しい、と思うのがオーディエンス心というものですが、
やはり歌手にはこの公演は絶対外してはいけない、今出来ることをこの公演で100%、いや願わくばそれ以上、を発揮せねばならない、という特別な公演というのがあって、
メト・デビューというのは間違いなく、そういった”外せない公演”の一つだと思うのです。
彼女の歌を聴く前から小言で申し訳ないですが、本来メト・デビューになっていたはずの先週の公演を休まなければならなくなった、
これだけで、私は”駄目だな、、この人は、、。”とちょっと思ってしまいます。
人間は誰でも風邪をひいたり、具合が悪くなったりするものですが、メト・デビューの日にそれをやってちゃいかんのです!
運が悪かった、、というかもしれませんが、運も実力のうち、とは良く言ったもので、
そういう隙があるから、その間にユーが力を発揮して、NYのオーディエンスに”面白い素材の歌手が出てきたぞ。”と注目され、
メディアからも軒並み好意的な評を受け、
たった一公演遅れでメト・デビューを果たしたジャンナッタジオは彼女のことを良く知らないオーディエンスの話の隅にあがることもなく、
もちろん彼女の公演に改めて評が出ることはないので仮に彼女の歌が素晴らしかったとしてもそれが広く伝わることもなく、、ということになってしまうのです。
あれだけ期待されて特別なお膳立てまでしてもらっておいて、なんてもったいない。

彼女はレイラ・ジェンチェルが先生&メンターだった時期があるらしく、そのジェンチェルが、
”メトで歌わなかったことをとても残念がっていた”ことから、
メト・デビューを決めた、というようなことが彼女のFacebookのページに書いてありましたが、
”メトで歌う”ってことは単に舞台に出て行って、口を開けて、舞台をつとめる、ってことだけじゃないんですよ。
メトで歌うからには、自分という歌手を世界によりよく知ってもらって、より広いオーディエンスにリーチ・アウトする、
そのための始まりの場所なのだ、という気構えがないと。
ユーが良かったのは、彼女の歌唱から、こういった目的意識、良い意味での野心が漲っていたことです。
またジェンチェルが言わんとしていたことは、”メトで歌うことでNYの観客に自分の実力を生で感じでもらえなかったことが残念だった”のであって、
単に”メトに登場す”という記録をバイオに残すためだけにメトで歌いたかった、と言っているわけでは決してないでしょう。



まあ、歌を聴く前からあれこれ言うのも何ですから、歌を実際聴いてみましょう。
ということで、その彼女の歌なんですが、うーん、、、何ていうのか、、
ジャンナッタジオの歌唱からは、上で書いたような、良い意味での野心が全く感じられないですねえ。
別にこれが駄目でも次があるわ、ってな感じ?(その点、ユーはこの機会を逃してはいけない!という使命感みたいなのがありました。)
イタリアでそこそこ成功しているからなんでしょうか、、なんか、のんびりしてますよ、彼女は。

声や歌に関しては、まだ彼女が風邪から完全には回復していない可能性もあることは念頭に置いておかないといけないと思いますが、
まず、レオノーラ役で求められるテッシトゥーラにおける彼女の声はあまり魅力的ではないですね。
サイズはややユーより小さいですが、それ自体はあまり問題ではなく、むしろ響きというのか、その辺にあまり個性がないのが辛いし、
中音域以上は比較的ドライな音なのに、低音域にちょっと今のネトレプコを思わせるねっとりとした響きが混じるのが嫌だな、と思います。
イタリア人のよく訓練されている歌手はどの音域も割とすぱっと音が出て来る人が多いという思い込みが私にはあるので、
彼女のことを良く知らずにこの辺の音だけ聴くと、ロシア圏出身の歌手なのかな?と勘違いするくらいです。
ただし、この役で求められる最高音域あたりや、彼女が自分の意志で入れている高音、これは線は細めですが、ものすごく綺麗な響きが聴ける時があって、
彼女自身、高音域・もう少しテッシトゥーラが高めの役の方が歌っていてより心地良く、楽なのかな、と感じる部分はありました。
(やはりFacebookに、ジェンチェルが『トロヴァトーレ』を歌う際には取り入れていたという、Dフラットの音を含むカデンツァを、
今回彼女へのトリビュートとして、取り入れている、とも書いています。)
このことから、レオノーラ役ではなく、もっと他の役に適性があるのかもしれないな、という風にも思います。

しかし、もし、一点だけ、私が彼女の歌のどうしても苦手!なところをあげるとするならば、
リズムのapproximation、ここに尽きるかもしれません。
そう、彼女の歌にはリズムによるパルスが欠けていて、”大体このあたり”的な感じで歌っているような感じがするのです。
音を転がしたり、そういうことはきちんと出来ているので、技術の問題ではなくて、リズムに関しての、生まれもったたセンスや能力の(無さの)問題なのかな、と思うのですが、
今日の歌だけからだと、彼女は正確に歌う、ということがどうにもこうにも出来ない人のように見受けました。
歌手が、感情の表現の目的のために、ある箇所だけ、少しだけ前のめりで歌う、またはためて歌う、ということは当然良くありますが、
良い歌手の場合、まず正しいビートが歌の中にあって、前のめりで・ためて歌っていながらも、
この基本のビートが常にその後ろに感じられる、ここがポイントで、
だからこそ、観客にも、ああ、ここは怒りの表現のために前に出たんだな、とか、迷い、あるいは、深い愛情を表現するために溜めて歌っているんだな、
ということがはっきりわかるわけです。
その後ろのビートが常にぐにゃぐにゃしていたら、本人はタメたり前のめりに歌っているつもりでも、その意図は全然観客には伝わってこなくて、
リズム感のない歌手だな、という感触だけが残ってしまいます。
ユーはジャンナッタジオよりもきちんとしたリズム感を持っている上に、そういうタメや前のめりを多用しないんですが、
ジャンナッタジオの方はなぜだか音色でなく圧倒的にリズムの揺らしで感情を表現しようとすることが多く、
指揮者がこれに応えられるような、”ここはこう歌って!!”という圧倒的な指示を出せる人で、しかも彼女が緩くなった時にはさっとサポート出来る人ならまだ良いですが、
カリガリ博士は前例で見た通り、そのあたりがからっきしなので、二人してごちゃごちゃとリズムを乱しまくって、オケを混乱状態に陥れていました。

それからとどめをさすような感じになりますが、彼女はこんなに美人なのに、演技が無茶苦茶下手くそなのにびっくりしました。
写真なんかではすごくフォトジェニックに写っているので、すごく意外だったです。
舞台で動いている時に、自分がどのようにオーディエンスに見えているか、ということを本能的に感じる能力が不足しているし、
動きのテンポや間も悪い。
先週の公演の感想にも書きました通り、このマクヴィカーの『トロヴァトーレ』は、決して演技するのが簡単な演出ではありません。
背景はシンプルで固定しているし、合唱を除くと極めて登場人物が少なく、
しかも演技力の無さを誤魔化したり、せかせかと立ち演じています、という振りを可能にするような、
今○○して、次はXXして、、というような忙しい連続したコリアグラフィーもありません。
要は、自分で、少ない動きをテンポや間を上手く使いつつ、客に説得力をもって見せなければならない。
だから、マクヴィカー版『トロヴァトーレ』は体の動きの美しさ、間、テンポといったものに欠けている歌手にとっては地獄のように苦しい演出なのです。
それにしても、いくら今オペラ界がビジュアル重視になって来てると言ったって、演技が出来ないのでは美人の意味なし!



先週の公演ではプロの公演に一人アマチュアが混じっているのかと思うような歌唱を繰り広げていたマンリーコ役のヒューズ・ジョーンズ。
正直言っていいですか?なんか、このテノール、見てて・聴いてて腹が立って来るんですよね。
歌手に対してこういう気持ちになることって、私の場合、本当稀、というか初めてじゃないかな?
メトに来る歌手のほとんどは、やはりそれなりに力のある人で、力のある人というのは自分の力をやっぱり良くわかっているんです。
昨シーズンの『ジークフリート』で急に降板したギャリー・レーマンに替わって表題役をつとめた若モリス(ジェイ・ハンター・モリス)なんかも、
舞台を見るまでは”大丈夫なんかいな、、”と思いましたが、
ちょっと一本頭のネジがゆるいように見えて、実は意外と冷静に自分の出来ること、出来ないことを判断しながら歌っているのには感心しましたし、
カーテン・コールでオーディエンスから大きな拍手が出ても、特に馬鹿喜びするでもなく、割りと淡々とした様子なのを見ると、まともな歌手なんだな、と思いました。
先週の公演は公演全体としてとてもエキサイティングだったので、メディアの評も、女性陣(ユーとザジック)を絶賛、
ヴァサロはパー(もちろん、頭がくるくるパーのパーではなく、ゴルフで使うのと同じ意味のpar)、と来て、まあ、ここまでは妥当な評なんですが、
ここで4人が主役の作品で、ヒューズ・ジョーンズだけ落とすのは気の毒だろう、、ということなんでしょう、
彼もパー、みたいな書き方になっていて、これは私がヴァサロだったら絶対切れるよな、という評なんですが、
まあ、メトに来る歌手なら、批評家が気を使ってそうしてくれたことくらい、読み取るよな、と思ってました。
それが、どうしたことでしょう。
あの評をまともに受け取っているのか、今日の彼は”俺って結構いけてる。”とでもいうような自信満々&得々とした様子で歌っているではありませんか!
アルマヴィーヴァ伯爵かと思うような声でマンリーコを歌っているところも、嫌といえば嫌なんですが、
その上にジャンナッタジオの上を行く自由奔放なリズム!!!
しかも、彼のリズム感のなさは間違いなく技術の不足によるもので、発声のきちんとした基礎も出来ていないし、
何をどう間違ってこんなテノールがメトの舞台に立てることになったのか?
自分の完全なる力の不足を恥ずかしがるどころか、気づいている様子もなく、気持ちよさげに妙な音で歌い上げている(←これこそが二流歌手である証)
のを見ていると、どうしようもない田舎もん(であるために、きちんとした比較対象がない)か、それこそ頭のネジがとんでいるんだと思います。

一幕でまともな歌を歌っているのはルーナ伯爵役のヴァサロだけ、、、助けてくれーっ!!!!



二幕。ザジックも登場することだし、ここで取り返してもらわないと。
で、アンヴィル・コーラス。
なーんかまた演奏の足取りが重たくなっているけど、これは何?オケ?指揮者?
やがて、舞台上で上半身裸の男性たちがどんちゃんと槌を振り下ろす(←ゲイのオペラファン垂涎のシーン)のと一緒に歌われる
Chi del gitano i giorni abbella? (ジプシーの男達の一日を明るくするのは誰?)の部分で、
あれあれあれあれ~~~~~ オケピの演奏と裸のお兄さんたちの槌が下りるタイミングがどんどんずれて行ってますよ~。
そして、それを修整しようとあせるカリガリ博士!!
しかし、これは舞台にいる裸のお兄さん達と合唱とオケピにいるオケのメンバー全員に指示を飛ばさなければならないという超難問!!
こんなことが、当然カリガリ博士の手に負えるわけもなく、
オケの中には何か舞台でおかしなことが起こっとる!と自主的に調整しようとしているセクションがあれば、
カリガリ博士の指示がそれに追いついていないのを見て当惑しているセクションもあり、
La zingarella!(それはジプシーの娘!)に至るまでには、オケが大崩壊、大脱線、、、それをまたしてもなすすべなく見守っているカリガリ博士、、、。
つい、”見事にやっちまいましたね、博士。”と声の一つもかけたくなるような出来です。
いやー、メトのアンヴィル・コーラスでこんな見事な大脱線、私、初めて聴きました。
そもそもどうしてそんな風にずれていってしまったわけ??と不思議に思っている間に、また繰り返しで同じ箇所がやって来てどきどきしましたが、
さすがに同じミスは出来ない!とばかりに、異様に大きな振りで舞台上とピットに指示を出すカリガリ博士が涙を誘いました。

もうこうなったらザジックに頑張ってもらわねば!
アンヴィル・コーラスに続けて始まる”Stride la vampa 炎は燃えて"
!?!?!?
最初のフレーズから思いっきりピッチが狂ってる!!!!
っていうか、、、Stride la vampa! La folla indomita の全部の音(おおげさでなく本当に、、)がずれてるので移調かと思いましたよ。
しかし、こんなにたくさんの音数にわたってオケを無視して一人移調、、、すごいなあ、、って感心してる場合か!っての。
いや、しかし、待てよ。何か声が違わないか?これ、ザジックじゃないよね?絶対にザジックじゃなーーーーい !!!!!
(そりゃそうだ。ザジックは絶対にこんなミスしないもの。)
そして、続くcorre a quel foco lieta in sembianza!もまた一人移調、、、本当すごいなあ、、、ってまた感心してしまったじゃないですか。
しかし、ならば、Who the hell is she!?!?!?!
開演前にプレイビルを見た時はスリップ(キャスト・チェンジを知らせるための細長い紙)は入ってなかったのに!!!
Madokakip、ぼー然。

いや、確かに先ほどは先週の歌唱をザジックのアズチェーナの最後の記憶として留めておくのもよいかも、、なんて思ってしまいましたよ。
だから、ばちが当たったのかしら。でもだからといってこんな歌を聴くために今日ここに来たのではないのに、、、。
このメゾの歌は本当あまりにひどくて聴くに耐えなかったので多くは語りますまい。
(マンリーコとの対話のシーンで出て来る高音も、途中で怖くなったのか、周りの音もろともわけのわからん音に下げて歌っていて、しかも音符の長さも無茶苦茶で、何それ、、、?って感じでした。)
Madokakip、しょぼーん。
結局、私のプレイビルからスリップが抜け落ちていただけだったようで、インターミッション中に改めてもらったプレイビルにきちんと入っていたお知らせによると、
このメゾはムツィア・ニオラーゼという歌手で、ここから二つ上の写真が彼女なんですが、
マリインスキー劇場のプロフィールページに掲載されているところを見るとゲルギエフの息のかかった歌手なのかもしれません。

いやー、でも今日は立ち見にしておいて本当よかった、、、良い座席に座ってたら憤死するところでした。

結局、4人の中でまともに歌っていたのは一幕の後もヴァサロだけ。
カリガリ博士は今日は至るところでなすすべなく立ち尽くしてぼーっとしたり、かと思うと
”君が微笑み Il balen del suo sorriso”では、異常にまったりとフレーズを長めにとったりして、
もう半分正気を失っている感じなんですが、これ、バリトンは歌うの大変だろうなあ、、と思いながら聴いていたんですけれども、
よくヴァサロが食い下がって、良い歌唱を聴かせていました。
その上、ゆっくりなのを逆に利用して、先週の公演では入れていなかった高い音を含んだオーナメテーションを二度入れてたりして、
おぬし、やるな、、という感じだったんですが(このあたりのオーナメテーションの処理の上手さを聴くと、
彼はベル・カント作品でも手堅い結果を出していたのを思い出します。)
何を思ったか、カリガリ博士が終盤にいきなり脈絡なく曲のテンポをあげてしまって、これにはヴァサロもびっくり!
Madokakipなどは”こいつ、今日、ドラッグでもやってんじゃねえだろうな?”と思わず疑惑の目を向けてしまったほどです。
さすがにヴァサロもゆっくりなフレージングからいきなりギアを切り替えるのが間に合わなかったようで、
軽くオケとミスコーディネーションになってしまったのが、それまですごく良い内容の歌唱だっただけに残念でした。
きちんとまともに歌っている歌手の歌までおかしくするカリガリ博士、、、嗚呼。

こんな内容でしたので、もうインターミッションで帰ってしまおうかな、とも思ったのですが、ここまで来たら、
私の好きな”恋はばら色の翼に乗って D'amor sull'ali rosee”でのジャンナッタジオの歌唱も聴いておこう、と、いうわけで、
その”恋は~”なんですが、、、あっぷあっぷ感が少ない、また、高音でピアノの音を出せていたのはユーより良かったと思いますが、
ピッチのコントロールが上手く行っておらず、トリルはほとんど存在してしません、って感じのそれでしたし、
先週の公演の感想の中で紹介したカラスの音源で言うと3’26”あたりにある高音から、するするする、、、と下がってくる音型、
高音はほとんどアタックしただけで、すぐ下りて来てしまったし、その後の音の動きもなんだかぎこちなくてがっかりしました。
今日の彼女の歌からは、ユーよりエキサイティングなものはほとんど何も感じられなかったです。

”これぞ立ち見の利点”とばかりに、このアリアが終わってすぐに心おきなくオペラハウスを後にした私ですが、
その後、友人から実はその後にこそ、今日の公演のハイライトがあったと聞いて、早くオペラハウスを出過ぎたー!と後悔した私です。
ただ、そのハイライトというのが、カリガリ博士が再び歌手とのコーディネートに失敗し、オケを崩壊させ、
今度という今度はオケが数秒完全停止してしまった、という内容であるので、後悔すべきかどうかは微妙なところですが。

Gwyn Hughes-Jones (Manrico)
Carmen Giannattasio (Leonora)
Mzia Nioradze replacing Dolora Zajick (Azucena)
Franco Vassallo (Count di Luna)
Morris Robinson (Ferrando)
Hugo Vera (Ruiz)
Maria Zifchak (Inez)
Brandon Mayberry (A Gypsy)
David Lowe (A Messenger)
Conductor: Daniele Callegari
Production: David McVicar
Set design: Charles Edwards
Costume design: Brigitte Reiffenstuel
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman
Stage direction: Paula Williams
SR right front
OFF

*** ヴェルディ イル・トロヴァトーレ Verdi Il Trovatore ***

CHICAGO SYMPHONY ORCHESTRA (Thurs, Oct 4, 2012)

2012-10-04 | 演奏会・リサイタル
ムーティと言えばメトの2009/10年シーズンの『アッティラ』で思う存分帝王様ぶりを発揮され、
リハーサル中から数々の笑えるエピソード(そのいくつかは上でリンクした『アッティラ』の記事をどうぞ。)で我々を魅了してくださいました。
そして、その『アッティラ』の公演から半年後の2010/11年シーズンよりシカゴ交響楽団の音楽監督としての任につかれ、
シーズン終盤(4月)にはカーネギー・ホールにアントネンコ、ストヤノヴァらを従えた演奏会形式の『オテロ』を持って来てくださいました。
(ややっ!今考えると、この『オテロ』もブログに感想をあげてないですね。申し訳ありませぬ、、。)

メトの『アッティラ』でのムーティの指揮に(おそらく私以上に)強い感銘を受けた私の連れは、
彼とシカゴ交響楽団の組み合わせに猛烈な興味を引かれるらしく、
その『オテロ』の演奏会のチケットをとってしまった後で、その日の夜の9:00頃からどうしても抜けられない仕事が入っていることが発覚した時には大悶絶してました。
これまでにも似たような事態はあったので、その時と同じように割りとあっさりとあきらめるかと思いきや、
”一幕だけでも見に行く!”としつこく食い下がり、実際にそうしてしまった時には、相当ムーティ&CSOのコンビのことが気になるんだな、と驚かされました。
その『オテロ』は一幕での演奏が意外と大人しくて、またムーティも割とオケに自由に演奏させている感じで、
”ふーん、、。”という感じだったのですが、
ニ幕以降、帝王様らしい味付け&締め付けが炸裂し、ストヤノヴァの素晴らしい歌唱もあって、演奏はヒート・アップ、
終演後は”ああ、ムーティらしい演奏を聴いたな。”という充実感がありました。
それをそのまま帰宅した連れに伝えた時、猛烈に悔しがったことは言うまでもありません。

そんな彼らがカーネギー・ホールの今シーズンのオープニング・アクトをつとめることになり、
オープニング・ナイト・ガラの『カルミナ・ブラーナ』を含めた3日間の公演をNY滞在中にこなしてくれることになりました。
シンフォニー・オケが歌ものを持ってくる場合、大抵はデフォルトでそれが私達の鑑賞する演奏会になるのですが、
私はあまり『カルミナ・ブラーナ』が好きではないのと、
連れが二日目のプログラムに『さまよえるオランダ人』の序曲を見つけてしまい、”絶対これに行きたい!!”と言い出し、
私が”でもこの日は変なNY初演ものも含まれてるよ。””しかもメインがフランクだよ。”とワーニングを出しても、
”なら序曲だけ聴いて帰ってもいい。”と言います。
”演奏会全体で二時間以上あるうち、オランダ人序曲の演奏時間はたったの10分強くらいだよ?それでもいいの?”
”うん。シカゴの金管でオランダ人が聴いてみたい。”
、、、きっとショルティ&CSOの演奏が頭の中を駆け巡ってるんだな。



こうなると音楽上のワグネリアン(演出のトレンドとかリブレットの意味を執拗に考えたり議論するタイプのワグネリアンではなく、
もっぱら興味の対象が音楽に向かっている。)である彼に何を言っても無駄、
私自身もオペラがらみの曲がプログラムに入っているのは楽しみが一つ増えることになりますし、
もちろんオランダ人序曲は私も大好きな曲ですので、まあいいでしょう。
ということで、二日目の演奏会に決定~。

カーネギー・ホールに到着すると、エントランスのところに指揮中の帝王のポスターが掲げられています。
連れがぼそりと”相変わらず郵便ポストの投函口みたいな、、、。葉書でも入れたくなるなあ。”というので、ポスターを見上げると、
確かに相変わらず”俺様に逆らう奴は殺す!”とでも言いたげな迫力満点の一文字口顔で棒を振っているムーティの姿がありました。

実は私は『オランダ人』という作品は全幕どころか序曲だけとっても、
何気に”そこはそう来ないで!!”とこちらに突っ込みたい気分にさせる危険スポットに溢れた、手強い作品だと思っていて、
演奏技術ではなんら申し分のないオケでも、9割9分は満足な演奏なのに残りの1分のところで”そこ惜しい!”と思う部分があったりして、
いまだこれさえあれば!!と思うような種類の名演奏・名録音に出会っていないように思うのです。
大野さんから紫綬褒章を剥奪しに行かなきゃな、、と思っているメトの2009/10年シーズンの『オランダ人』(ドレス・リハーサル本公演)は惜しいどころの騒ぎじゃなかったし、
例えば上のCSOの音源でも、すごく達者な演奏だな、、とは思いつつも、
私の思うオランダ人とは何か違う、、と不遜なことを思ってしまったりするわけです。



ところで、今回、なぜCSOがわざわざメトのいるNYで『オランダ人』を、、、?とずっと疑問に思っていて、
例えば前回の『オテロ』みたいな作品はムーティ帝王の大得意とするレパートリーなので、
”メトもよろしいが、こういう解釈もありまっせ。”というのをNYのオーディエンスに提示するという意味で非常に意義深い試みだと思いましたが、
はっきり言って”ムーティのワーグナーはさすがだ、、。”というような話はあんまり聞いたことがないし、
彼がヴェルディ作品のエキスパートであるほどにはワーグナーの作品のエキスパートであるとも思わないし、
逆に、メトは多分ドイツ圏のオケに続いて優秀なワーグナー演奏を聴かせることのできるオケを抱えていて、
しかもCSOはオペラ・オケですらないんですから、どうしてそんなものをわざわざNYに持ってくるんだろう、、?
そして比較的選択肢の多いワーグナーの作品群の中でなぜあえて『オランダ人』なんだろう、、?というのが本当に不思議でした。

しかし、今ふと気づいたのですが、ムーティがメトで『アッティラ』を振った時期は2010年の3月、
大野さんの『オランダ人』は同年の4月、と、非常に時期が近いですね。
これはもしや、ムーティが『アッティラ』上演期間中にメトをぶらついていた、
するとどこからともなく聴こえる『オランダ人』のオケ・リハーサル、思わずひくつくムーティ帝王の眉!
そのリハのあまりの覇気のなさに、”『オランダ人』っちゅうのはなあ、こう演奏するんじゃあ!”とつい行動を起こさずにおれなくなって、
ついつい二年後(それが今年)のカーネギー・ホールでのCSOの演奏会の演目に入れてしまった、、、、
いやー、大野さん、数年後のCSOの演奏会の演目にまで影響を及ぼしてしまうなんて、まったくあなたって人は、、、ってな妄想が膨らんで困ります。

まあ、この妄想が事実であってもそうでなくても、オペラハウスのある街でオペラ絡みの曲を演奏するということは
”俺達のこの演奏を聴いてみろ!”というちょっとした挑戦でもありますからね、
ならば私もいよいよ10割納得!のオランダ人序曲が聴けるか?!と期待しても誰も責められないというものです。



帝王が現れると拍手の嵐。
それにしてもムーティは今いくつでしたっけ?1941年の7月生まれだから、今日の公演時点で71歳?
その歩く姿勢の颯爽としていること、動きのきびきびしていること、体型が昔からほとんど全くと言っていいほど変っていないことは、
彼より少し若い(1943年6月生まれ)はずなのにすでに半隠遁生活に入ってしまっているレヴァインとあまりに対照的過ぎます。
この二人を比べると、イタリア式食生活 vs アメリカ式食生活を一生継続した場合の実験サンプル!って感じで、
私もオープニング・ナイトでは大変な事態になったことだし、もっと食べるものに気をつけねば、、と、つい音楽とは全く関係ない考えが頭をよぎります。

いよいよ、『オランダ人』序曲。
弦のあとを追ってホルン、続いて他の金管もなだれ込んで来た時、なんじゃこりゃーっ!?!?と思いました。
音がでかいーっ!鼓膜が破れるぅ~!!!
まあ、オペラハウスのオケピで演奏するのと違って、ステージの上で演奏してますし、その分音が大きく聴こえるのはわかるんですけど、
本当にここまで大きな音で演奏しなきゃいけないの?って位、ばりばりと吹きまくってます。
やだ、、NYフィルみたい、、
私はメトの大音響リングもサバイブしたことがあるし、爆音が持っている魅力というものもそれなりに理解しているつもりなので、
ちょっと大きな音が出てきたら”下品!”と騒ぎ立てるインテリ・リスナーでは全くないですが、
そんな私でもこれはちょっとどうなの?と耳を覆いたくなるほどの激音なのです。
『アッティラ』の時はメトのオケが暴走しないよう、音量も含めて細かく指示を出していたと聴くムーティなのに、、、。
”メトの暴走がいけなくて、どうしてこれがOKなの!?”と葉書にしたためて、その口に投函したいくらいです。

また、細かいことを言うと、最初の弦のトレモロのところもただ鳴っているだけで、
これから始まるオペラ本体の物語を描写・予感させるものがないなあ、、というので、
曲が始まってほんの数秒で今日の『オランダ人』は私の求めている10割の演奏にはならないな、というのを感じてしまって、
そして、結局、これら二つの印象がそのまま全体に対する印象にもなってしまいました。

私は一口に大きな音・声と言っても、二通りあるのではないかな、と思っていて、
その時に鳴っている全ての音の方向と表現しようとする内容が調和した時、
物理的には極めて大きい音量であっても、それをうるさいと感じることはなく、むしろ心地よく感じられるような状態になって、
まるでその音の中に包まれ一体化するような感覚が起こります。
なんですが、個々の奏者・歌手の技術がどれだけ卓越していても、何か完全に方向や気持ちがかみ合わない状態でばりばりと演奏されると、
その大きさが気に障りますし、そのような種類の大きな音とは決して一体感が得られず、
あくまで外にいる敵が体に侵入してくる様なアグレッシブさを感じます。
私はこの両方を生の演奏で感じたことがあるし、前者の快感を低俗なものと決め付ける気にはとてもなれないので、
物理的に音量が大きいこと、その点だけをとれば特に問題はない。
今日の問題は演奏が後者の方に陥ってしまっている、その点にあったと思うのです。

かなりムーティ色だな、、と思った昨年の『オテロ』の演奏会に比べて、
今年の演奏会はこの『オランダ人』に限らず、全体的にかなりデモクラティックな雰囲気の演奏会だな、という印象を持ちました。
ムーティはメトの『アッティラ』の時のように自分のサウンドをオケに強要していないし、
一方で、オケはオケで、過去のシカゴ・サウンドとは違う新しいサウンドをムーティと一緒に模索しようとしている風にも見えます。
それ自体はロング・スパンで見ると良いことなのだと思いますが、
こと、今日という日に『オランダ人』を演奏するという観点で見ると、まさにそこがネックになってしまったのではないかな、という風にも思えます。
どのように演奏すべきか、というビジョンがはっきりしないまま、
オペラの全幕公演のための序曲としてではなく、演奏会でこの曲を単独で演奏するという設定のせいで一層、
奏者にそれでは自分のヴィルトゥオシティを堪能してもらう場にしよう、と思わせてしまうような
(簡単に言うと各セクションの上手さ自慢の)場になってしまったように思うのです。
なので、上手で迫力ある割りに、なんか全体からコヒーシヴさとか物語性というものを感じない演奏になってしまったのではないかな、、と。

実は連れにこの話をした時、まず、私が”音が大きい。”と感じた点を驚かれました。
演奏会の一部として単独でこの曲を演奏する、ましてそれがその演奏会のキック・オフとなる場合、
アメリカのオーディエンスはやはりこういうどっかーん!という演奏を期待する傾向にあるのは否めず、
演奏する側もそれを期待されているのがわかっているし、
この曲に関しては、技術的には今日のようにパワフルに演奏する方が難易度は高くなるわけで、
その技術があるならやっぱ見せたいよな、という心理が働き、”それでは期待にお応えして、、。”と奏者が大ハッスル&大サービスしてしまう、、ということのようです。
今回の演奏条件や上に書いたようなことを考えると、”ああいう音量になってしまうんじゃないかな。”と言うのが連れの意見でした。

連れの言っていることの中で、私が最初にあまり深く考えていなくて、”なるほどなあ、、。”と思わされた点は、
この曲をCSOのようにパワフルに演奏することは、それが良いか悪いかは別として、
奏者にとっては私たちトーシロが考える以上に大変だし、技術的には難易度が高い、という指摘です。
実際に歌ったことや楽器を演奏したことのない私のようなちんぴらブロガーは、
”音でけー!うるせー!下品!!”と簡単に文句を言いますが、
大きな音を出すとということを可能にするために奏者の側で具体的にどれほどの技術・鍛錬、更なるスタミナが必要であるか、
本当にきちんとわかっているだろうか?それをわかったうえで文句を言っているだろうか?と考えさせられました。

幸いにも、NYは声楽のマスタークラスを聴講できる機会が多いですし、
メトをはじめとした場所で色々なステージにいる色々な歌手を自分の耳で聴くことが出来るので、
歌に関してはほんの少しはそのあたりの理解を深めて来れた、と思っているんですが、
その中で得た教訓は、優れた歌手の良さを完全に知るには、あまり良くない歌手の歌を聴かなければならない、ということです。
(当然ながら、良くない歌手ばっかり聴くのは問題外!)
この二つの両方を聴くことで、歌唱に必要な数々のテクニックを身につけることがどれほど大変なことなのか、ずっしりとした実感を持って感じることが出来るのです。
しかし、残念ながら、楽器について同じ種類の理解を持っているか?と尋ねられたら、私の場合、まだまだです、、と答えるべきでしょう。

以前、映画『The Audition』を鑑賞した父が、『連隊の娘』のアリアでハイCを連発していたアレック・シュレーダーのことを、
”ぴょんぴょんと蛙みたいに高い音を出しているだけでは芸術とは言えん。”と言うので、国際電話で軽く喧嘩になったことがあります。
オペラの歌唱に馴染みのない人は”ぴょんぴょんと蛙みたいに高い音を出す”ことがどれ位大変か理解できない、というのは頭ではわかっているつもりなんですが、
つい年老いた父を相手に熱くなってしまいました。ごめんなさい、お父さん。
確かにぴょんぴょんだけでは芸術にはなりませんが、芸術に到達するためにはぴょんぴょんを極めなければならない、それがオペラという世界なんだと思います。
ちなみに当時はまだメトのHDの上映に通い出したばかり位だった父も、
ほとんど皆勤賞に近いペースで通いつめているおかげで(というか、私に通いつめさせられている、ともいう。)、
今では相当な数の作品を鑑賞したことになるんですが、やはり、その「鑑賞を継続する」という行為は偉大なもので、
最近では”なるほど、、。”と思わせるような鋭い感想をどんどん繰り出してくるようになって来ました。
多分、今ならば、ぴょんぴょんのことも、少しだけ違う風に感じているのではないかな、、という風に思っています。
(しかし、私の父のことであるから、次の電話の時に”何を言うねん。わしの考えは全然変わっとらへんで。”と頑なになることも考えられるのであった、、。)

連れは私よりも全然楽器の演奏に関しては理解が深いので、私にやんわりと”君の意見はぴょんぴょん発言入っていないかい?”と言おうとしていたのだと思います。
あまりにもさりげない表現だったのでもう少しでスルーしてしまうところでした。
このあたりが性格の温厚な連れと、同じことをしてすぐに父と喧嘩になってしまった私とのキャラの違いかしら、、とも思います。

しかし、彼はまた、このようにも申しておりました。
”CSOがショルティと組んでこの曲を演奏した時は、確かに大音響なんだけれども、その大音響に迷いがなく、一つの方向となっていて
、それがすごい魅力になってた。”
そう、私が今一つのれなかった理由は、多分、そこなのだと思います。
私には今日の『オランダ人』の演奏にそこまでの確固とした方向性としての大音響というのを感じなかったし、
それだけでなく、一体どんな方向で演奏しようとしているのか、どのようにあの物語を描こうとしているのか、が混沌として今一つ良く見えなかった。
大体ムーティがオケの意見を尊重するなんて変!そんなキャラじゃないでしょうが、あなた、、という。
だし、かといってオケが本当に本当に好き放題しだしたら、”おまえら殺す!”とか言い出すんですよ、きっと。
だからそんなムーティを恐れて(良く言えば、”尊敬して”、ということなんでしょうが、、)オケも遠慮してる。そんな印象を持ちます。
どうせオケを脅すのであれば、メトを振った時みたいに独裁者になってくれた方が、
よりはっきりしたビジョンが見えて面白い演奏になったんじゃないのかな?
シカゴだったらそれを受けて立つ実力もあるわけだし、、、と私なんかは思ってしまうのです。



一時はオランダ人だけ聴いて帰ってもいい、というようなことも言ってましたが、さすがにそれはもったいな過ぎることに気づいたようで、
結局連れは最後まで一緒に鑑賞することになったのですが、
”で、残りの曲は何?”
、、、、やっぱりオランダ人のことだけに気をとられて私の話を聞いてなかったか、、。
”メイソン・ベイツのオルタナティヴ・エナジー。”
”何?それ、誰?それ。”
”さあ、、、。”
それもそのはず、この曲は昨2011年に作曲されたばかりのNYプレミエものなのですから。
ベイツは1977年生まれの35歳。CSOのミード・コンポーザーズ・イン・レジデンスの一人、
要はCSOが新しいジェネレーションの作曲家を育てるために作曲の委託を行っているアーティストで、
簡単に言うと、地元期待の青年作曲家、ということになります。
開演前に一切プレイビルを読まずに鑑賞したので、作品については何の知識もないまま拝聴したのですが、
コンベンショナルなオーケストラの楽器を使用しつつも、フルートの音色が非常に東洋風に聴こえたり
(牛若丸が吹いているような日本の笛っぽいサウンドだな、、と思いました)、
スタンダードな交響曲系のレパートリーで聴きなれた各楽器のサウンドとは別の面を引き出しているのは面白いな、と思いました。
またガムランみたいに聴こえる部分とか、その他にも世界の色んな音楽がちょっとずつ顔を出していて、
上演時間25分ほどの作品なんですが、『25分間世界一周』的な雰囲気をかもし出しています。
後でプレイビルで知ったのですが、この曲は一応四つのパート(楽章?)に分かれていて、
フォードの農場 1896年より、シカゴ 2012年、Xian Jian Province(新彊のこと?)2112年、レイキャビク 2222年、
という構成になっているので、あながち世界一周も遠からじ、なんではないかと思いますが、そうか、そういえば、確かに時代も変ってたな、、と思いました。
というのは途中から、通常のオケの楽器に加えて、ラップトップをシンセサイザーのように奏でてドゥワーンという低音を出すもやしのような奏者(上の写真)が舞台上に加わりまして、
確かにそういわれてみれば、段々後に行くにつれて、曲調が未来的になってましたね。

この曲、演奏するのは決して簡単でなく、複雑な変拍子が含まれていたり、
旋律が繰り返し続いてたかと思ったら、違う音型に変っていくなど、奏者としては全く気の抜けない作品で、
また、やはりオケがサポートしているプログラムのアーティストなんだから皆で支えねば!という温かい思いがあるのか、
オケの奏者は真剣そのものです。
いや、奏者だけでなく、ムーティも真剣そのもので、オランダ人よりも全然こちらの作品の方が、コミットメント度が高い。
一言で言うと、これはオーケストラによるクラブ・ミュージック、ダンス・ミュージックとでも形容したくなる作品なんですが、
猛烈に早く複雑なリズム・パターンが延々と(クラブ・ミュージックですからね、、)ルーピングしたりして、その間、ムーティの指揮はまさにダンスそのもの!という状態になっていて、
はい、次そこ!今度はあっち!と各奏者に指示を出しながらクラバーのように踊り狂っている帝王様を見れただけでも
今日はカーネギー・ホールに来た甲斐があったわあ、、と思いました。
しかし、彼のように優れた指揮者というのは、オペラや交響曲の時だけでなくて、こういうクラブ音楽のような作品の指揮の時でも動きが実に美しいなあ、、と見とれてしまいました。
そういえば、レヴァインもあんなにコロコロしていて、間違いなくダンス下手そう!な雰囲気なのに、
いつだったか、こちらはオペラの作品だったと思いますが、やはりテンポの早い部分を指揮している時に機敏で動きが美しいのに驚いたことがあります。

それにしても、この作品を聴くと、ほんと今時の人の作品だなあ、、と思いますねえ。
オケにエレクトロニック・サウンドを絡めるというDJ的発想もそうなんですけれども、
それ以上に、作品の中の情報量というか、音やその組み合わせを詰めるだけ、詰め込みました!という感じ。
今の若い人たちを見ていると、本当、空いた時間を思索の時間に使う、ということがなくて、
しょっちゅう何かやってないと(で、大概それはiPhoneをチェックしたり、とか、そういうことになっているみたいなんですけど)
気が済まないって感じの人が多いですよね。
それから、今の女性は働きながら子供産んで育てて、、っていう方が多いですけれども、
もちろん、金銭的事情から仕方なくその選択をしている人もいて、その方たちは全くあてはまりませんが、
NYに特に多いのかな、、お金は十分持ってるのにナニーに子供を預けながら仕事をばりばりやってたりして、
それは仕事にやりがいを見出してるからよ!というかもしれないけれど、
中にはブランド物の洋服や靴やバッグを揃えるのと同じ感覚で、結婚も、赤ちゃんも、充実したキャリアも、、、ってなことになっているように見える人が結構いたりとか、
大した付き合いのない相手とまでソーシャル・ネットワークでbefriendしてその”友達”の数に悦に入っている人とか、
今って、数や量の多さとか”あれもこれも”が異常に評価されている時代じゃないかな、と思います。

、、、あれ?どうしてこんな話になって来たんでしたっけ? あ、そうそう、メイソン・ベイツの音楽の話をしてたんでした。
そう、私は今日の彼の作品の中に、金持ってるくせに日中ナニーに赤ん坊を預けて仕事ばりばりして、
帰宅したら乳母車を押しながらわき目もふらずにセントラル・パークをランニングする女
(いるんですよ、これが意外とたくさん、、。)と同じ匂いを感じたわけです。

この曲は意外と全部の楽器が鳴っている部分は少なくて、二つ、三つの違った楽器の響きの絡みの妙を楽しむ方にウェイトが置かれているように思います。
実際、ベイツはこのセンスに関しては非常に良いものを持っているとは感じましたが、
これも、お洒落に異様な情熱を傾けている男の子が洋服のコーディネートに燃えている様子を思わせるものがあって
(このシャツにはあのパンツをコーディネート=この楽器にはあの楽器をコーディネート)、
ま、そういう子達は一様に”ぬけ感”を大切に、
つまり、どうやったらがんばってない感じを出しつつ自分をお洒落に見せるか、ということに執念を燃やすわけですが、
彼が行っているクラブ・スタイルとクラシック・オケのサウンドの融合という試み自体、
”クラブ音楽もクラシック音楽も僕にとってはどっちもクール。”とそう思っている自分がクール、みたいな、
マトリョーシカ的メンタリティを感じてしまうのでした。

、、、なんか、気がついたらシカゴ全体で大プッシュしている若手有望作曲家をめちゃめちゃ書いてませんか、私、、?
やばいな。これでLOC(リリック・オペラ・オブ・シカゴ)を鑑賞する機会が出来ても、その折には生きて帰れないかもしれない、、、。
ただ、取り繕うために言うのではありませんが、ある種の面白さは持った作品だとは思いましたし、
オケの演奏に限って言えば、この作品のための演奏としては、もうこれ以上望めないほど、素晴らしいものでしたし、
今日の演奏会の中で一番エキサイティングな”演奏”は、この作品だったと思います。
自分の作品をCSOがこんな風に演奏してくれるなんて、あんたどれだけ幸せか、わかってんの?ちょっと、顔くらい見せなさいよ!と思ったら、
作曲家紹介~!ということでムーティが舞台袖からノーマン・ベイツ、いえ、メイソン・ベイツを連れて登場。
なんだ、さっき舞台上でコンピューター・サウンドを奏でていたもやしみたいな男の子ではないですか!
なんか、書く音楽のままの雰囲気の人でした(↓)。

ちなみに、オーディエンスの反応からすると、NYの聴衆、特に若年層を中心にかなり好意的に受けとめられていたようです。



最後の演目はフランクの交響曲ニ短調。
YouTubeで見つけたクルト・ザンデルリンク&シュターツカペレ・ドレスデンの演奏が良いなあ、と思ったのですが、
この音源はもうCDでは廃盤なのかな、、、ちょっと手に入りにくかったので、
仕方なく(帝王になんてことを!)ムーティ&フィラデルフィア管弦楽団による演奏のCDを買ってみました。
前者ほどではないですが、このムーティ盤も悪くなかったです。

いよいよ演奏が始まり、弦の音にうっとりしていると30秒も立たないうちに相の手のように入るホルンが妙なすかし音を立てました。
何でこんなところでまた、、と思うのも束の間、ま、まさか、、という嫌な予感に襲われ、ホルンのセクションを見ると、、
でたーっ!!!!! クレヴェンジャーです!!!
CSOの黄金時代を作った立役者の一人であり、かつては並ぶもののない名奏者だった、
しかし、2010年1月のカーネギー・ホールのコンサートでは立て続けにスカ音をかまして
同僚もオーディエンスも思わず床に目を落としてしまったあのクレヴェンジャーです!!
去年の『オテロ』の演奏の時には目立ったホルンのミスは一切記憶にないので、
さすがにあの後猛練習してかつての自分を取り戻したか、そうでなければムーティに粛清されたんだろうな、と思ってました。
もしかすると、単純に別の奏者が首席をつとめたのかもしれません。
ミスがなかったので、彼がいたかどうかもチェックしなかった、、、。
しかし、今日はいますよー。確かなスカ音で、”僕はここにいますよー!”と激しく主張してます。
それにしても、出だしにこんなミスを平気でかますホルンの首席、、、
それをムーティが特に手を打たず、相変わらずそのまま野放しになっているのにはMadokakip、またもやびっくりです。
ムーティはなぜ彼に引退を促さないのか?彼になんか弱みでも握られているんだろうか?
まあ、それだけ黄金時代の彼が凄かった、ということなのでしょうね、きっと、、、。誰も何も言えない、という。

ネガティブな意味で相変わらずがクレヴェンジャーだったとしたら、
ポジティブな意味で相変わらずで驚かせてくれたのはトロンボーンのフリードマンです。
そう、なぜか戦勝国に生まれながら敗戦国に生まれた私の父親そっくりにがり痩せのトロンボーン首席です。
彼も1962年にCSO入りしてその二年後に首席になってますからクレヴェンジャーと同じく黄金時代からのメンバー。
考えてみれば、私が生まれる7年前からCSOで演奏しているんですよ。
しかも、彼の場合はクレヴェンジャーみたいな演奏能力の崩壊が見られず、今もきちんとした結果を出しているんですから、本当すごい。
第一楽章をはじめ、畳み掛けるように金管が鳴る場面が続くので、
こんなおじいちゃんに演奏させて大丈夫??と心配したくもなるのですが、ノー問題。もう淡々と吹きまくっているではありませんか。
彼は前にも書いた通り、アメリカ人としてはあまりばりばりと吹くタイプではなく、音の線も太くはないですが、
私は彼みたいな演奏の仕方、結構好きなんです。
いつも分をわきまえた演奏という感じで変なエゴがなくて素敵だな、と思います。
しかし、演奏そのもの以外でも驚かされたところがあって、
それは演奏をしない箇所で、他の彼よりもずっと若い同じセクションの奏者たちが旅の疲れと第一楽章での畳みかける金管攻撃で体力を消耗して疲れたか、
ぼーっと焦点の合わない視線を前に向けていたり、下手すると”今寝てましたね。”みたいな姿勢になっているのに比べ、
このフリードマンはムーティの指揮振りを見るのが楽しくてしょうがない!とでもいう様子で、
子供のように目を輝かせながら、ぴちーっと背中を伸ばした姿勢で食い入るようにムーティの姿を見つめていることです。
この年齢でこの体力と集中力!!!本当、すごい人です。

ただ、今回本当にわずかなことなのですが、トランペットと他の金管のセクションが完全には息が合っていないように感じる部分があって、
2009年に感じたような、音が一体になってこちらに飛び掛ってくるようなパワーを演奏から感じられなかったのが残念です。
先にも似たことを書きましたが、今日のフランクの作品の演奏にも、
今、CSOはトランスフォメーションの時期なのかな、という風に感じさせるものがあります。
昨年の『オテロ』の演奏の時は、オケの個性よりムーティの個性が前面に出た感じでしたが、
今年はよりデモクラティックな雰囲気になって、ムーティがオケに自発的にさせている分、
オケの微妙な個性の変化が見えて来たのかな、というようにも思います。
そこが一番上手くかみ合っていたのが、今日の演目の中ではベイツの作品だったかもなあ、、ということなんですが、
作品自体に関しては新作ものよりもスタンダード・レパートリーの方が好きな私にはちょっと残念だったかもしれません。

それにしても、このフランクの交響曲は、なんか盛り上がりきりそうで完全には盛り上がらない、
みたいなのが延々と続いているように感じられる曲だなあ、と思います。
正直、ちょっと退屈した部分もあって、ホールから出る時にあくびをしながら連れを見たら、
向こうも大あくびしていて、同じ顔になってました。
と、そこで彼が一言。
”(正確にはフランクはベルギーの人ですが、パリで活動してますので)なんかフランスのオーガズムって感じの曲だったなあ。延々続くぞ、これは、、みたいな。”
私も激しく同意。
”そうそう、それもなんか下手な男とのエッチを思わせるというか、、、
途中で言いたくなったもん。いい加減早よイけや、こら、って。”
でも、そういえば我々って、2010年の演奏会の時もブーレーズの曲を”究極のマスターベーション(自己満足)音楽”呼ばわりし、
その下品な表現の仕方も全く変っていない、、、ちょっと反省。

変っていない、と言えば、、、、
今日はみんなモバイルの電源を切っとかないと、
ムーティ帝王の場合、着信音が鳴りはじめたら演奏をとめかねないよね、という話をしていて、
それはさすがにオーディエンス全員感じ取っていたのか、そのような最悪な事件は避けられましたが、
時節柄、最近急に寒くなったものですから、風邪気味の人がオーディエンスに混じっていて、
フランクの交響曲の第二楽章で、平土間のおばさんが激しい咳の発作に見舞われた時、
ムーティがゆっくり振り返りながら指揮を続けつつそのおばさんを睨み倒していたのには、
帝王も相変わらず全く変ってないわ、、、と思わされました。



RICHARD WAGNER Overture to The Flying Dutchman
MASON BATES Alternative Energy
CESAR FRANCK Symphony in D Minor

Chicago Symphony Orchestra
Riccardo Muti, Music Director and Conductor


Center Balcony A
Carnegie Hall Stern Auditorium / Perelman Stage

*** シカゴ交響楽団 Chicago Symphony Orchestra ***

IL TROVATORE (Sat Mtn, Sep 29, 2012)

2012-09-29 | メトロポリタン・オペラ
今シーズンのメトのスケジュールをざっと眺めて思いました。
”やられたー。”
それというのも、ただでさえ上演する演目数自体が増えているのに、その上に同演目で3つも4つも違うキャストを組んでいるものがあるので、
これを全部今までと同じような調子で鑑賞していたら、破産に向かって一直線!です。

それに、先シーズン、途中でブログを中断してしまったのも、一つには公演の平均クオリティが目に見えて下がって来ていて、
無理をおしても感想を書きたくなるような公演がない状態が続いているうちに、書く気が失せてしまった、というのがそもそものきっかけでした。
まるで役を歌う準備が全然出来ていない歌手に、練習がてらにメトの舞台に立っているのかと思うような歌を披露され、
正直、これは聴いちゃおれん!と、途中で劇場の外に出たくなるような公演が一つや二つではありませんでした。
例をあげれば、ブラウンリーとマチャイーゼの『連隊の娘』、
カウフマンがキャンセルしたためにウェストブルック夫が入って夫婦共演となった『ワルキューレ』、
ミヒャエルとハンプソンの『マクベス』(この『マクベス』はまじで鳥肌が立つほどひどかった!)、、、ときりがないのですが、
そんな公演に大枚はたいている自分がなんだか馬鹿らしくなって来まして、
これまではどんな歌手も公演も、出来るだけ同じ条件で聞き比べたい、ということで、決して安価ではない座席にお金を注ぎ込んで来ましたが、
今年は自分の好きな歌手が出ている公演とか内容に期待が出来そうな公演のみ、これまで座って来たのと同じレベルの座席のチケットを購入して、
残りはシリウスで聴いて良さそうだったら同等のチケットを買う、
そうでない場合やシーズン初日等の事情で事前に演奏レベルのチェックを行えない公演に関しては、スタンディング・ルームで鑑賞しようと思っています。
スタンディング・ルームは文字通り立見席なので、もはや若くはないこの体には決して楽ではありませんが、
”これはひどすぎる。”と思ったらそのまま帰っても大した出費にはならないし、気が楽です。
以前は駄目な公演もその理由を見届けるべく、公演の最後まで劇場にいる、ということをモットーにしていましたが、
それは駄目と言ってもある一定のレベルはクリアしていたことが多かったからそうしていたのであって、今は状況が違い過ぎます。
私もそんな暇じゃないっての。

『愛の妙薬』でシーズンが開幕して以来一週間、現在メトでは『トゥーランドット』、『カルメン』、『トロヴァトーレ』と合わせた四演目がパラレルで走っていますが、
先日シリウスで聴いた『トゥーランドット』がこれまたオソロしかったですねえ。
グレギーナのトゥーランドットにベルティのカラフ、、、これである程度、恐怖の予想はつくというもので、
唯一の期待はゲルズマーワのリューだったんですが、彼女のリューが期待したほどにはよくなくて、
ピン・ポン・パンの一角、ドウェイン・クロフトが一人気を吐いていたのが素敵でしたが、
ピン・ポン・パン聴くために『トゥーランドット』を鑑賞するってのもちょっと違う気がする、、。
なら、Bキャストになるまで保留する手でいくか、と思ってBキャストのメンバーをチェックしてみたら、
テオリンのトゥーランドット(これは興味あり)の横に、ジョルダーニのカラフ(!!)と書いてあって、
先には一層恐ろしいものが待ってるのね、、と呆然。一体私はどの公演を見たらいいの?って感じです。

さて、『トロヴァトーレ』のレオノーラ役なんですが、これが先ほどお話したカルテット状態のキャスティングの一例で、
カルメン・ジャンナッタジオ、グアンカン・ユー(ということに英語の綴りからするとなるのですが、
チエカさんのサイトにご本人に発音を確認した、という方の話が掲載されていて、
その方によると音的にはグワンチュン・イーに近いそうです。)、
そして、パトリシア・ラセット、アンジェラ・ミードという顔ぶれになっています。
ミードに関しては、当然のことながら、きちんと座れる座席で鑑賞すべくチケットも今から準備してありますが、
Aキャストのジャンナッタジオはこれまで生で聴いたことがないソプラノなので、シリウスでチェックしてから行こうかな、、と思ってました。
ところがドレス・リハーサルの直前に体調を崩したのか、ジャンナッタジオがドレス・リハーサルも初日も両方キャンセルすることになってしまい、
その結果、セカンド・キャストのユーがドレス・リハーサルとシーズン初日の舞台をつとめることになったんですが、
そのドレス・リハーサルを鑑賞したヘッズの中に、”彼女の歌唱は悪くないぞ”という声がちらほらあって、俄然興味がわいてきました。

こんなことを言ったら、”このレイシスト!”と非難されそうですが、
私はこれまであんまり、というか、全然、中国人の歌手というのを評価も信用もしてなくて、
というのも実際最近メトで主役・準主役をはる中国人歌手が段々増えて来ているんですが、
金魚顔のソプラノ、イン・フアンとか、フイ・へシェンヤン、、、
あとはカナダ国籍をとっているみたいですけれど、リピン・ツァンとか、、)、
発声に難ありだし、テクニックも良く言って微妙、悪くすると”なんじゃこりゃー??”というレベルの人もいて
(フイ・へがメトで『アイーダ』を歌ったときの”おお、我が祖国”のあまりに音程が狂っていることには音程酔いするかと思いました。)
一体なんでこんなのがメトにうまうまと紛れ込んでくるわけ?と思うわけですが、
多分、どこぞの国と同様、国内の声楽教育に問題があるんじゃないのかな、と思っていて
この『トロヴァトーレ』がメト・デビューとなるユーという29歳のソプラノもその流れを組む人なんじゃないの?と、
疑心暗鬼でYouTubeにあがっている彼女の歌唱をおさめた映像を拝見してみました。



(奇しくも曲は『トロヴァトーレ』の”穏やかな夜 Tacea la notte placida"。
肝心な高音で音が割れ+飛んでいて、そこから映像と音が分離してしまうのが、ここの高音は実際はどうだったのだろう、、?と実に怪しいですが、、。)

これが思ったよりはきちんとした発声とまともな歌で、これならばオペラハウスで生を聴いてみる価値はある、聴いてみたい、と思いました。
また、彼女がテバルディ国際コンクールに出演した際のインタビュー映像もあがっていたのですが、
そこで見た彼女の物怖じしないキャラクターと、アジア人然としたところがあまりなく、西洋的マナリズムを実に自然に体得している様子に、
YouTubeでの歌は若干肩肘張っている感じがありますが、もしかすると舞台ではこれよりはパッショネートな歌を聴かせてくれる可能性があるかも、、と感じました。
歌唱をおさめた映像ももちろんきっかけではありましたが、そこで一定以上の歌唱レベルが保証されていると感じた後は、
むしろ、こちらのインタビューの時の様子の方が、彼女を生で聴いてみようと決めた、より大きな理由かもしれません。

もはやA(第一)キャストの方がB(第二)キャストより優れているとは全然限ってないんですが、
なのに皮肉にも、Aキャストでデビューをするのと、Bキャストでデビューを飾るのとは大違い、、、
なぜならば、メディアの批評はほぼ100%、シーズン初日、つまりAキャストによる公演について書かれるからです。
(Bキャストでも比較的充実したキャストなら再度取り上げてもらえることもありますが。)
初日の公演でポジティブな評をもらうことは、メト・デビューを飾る歌手にとっては大きなキャリア・ブーストになるわけで、これで燃えなきゃ嘘、
また、燃えてそのプレッシャーに勝って良い結果を出すことで、今後もメトの舞台に立ち続けるにふさわしい歌手、というお墨付きをもらえるわけです。
もちろん、そのプレッシャーに負けてしまうデビュタンテもいるわけで、
最近ですと、『リゴレット』で大コケしてしまったメーリが脳裏に浮かびます。
彼なんか、あのデビューがよっぽどのトラウマだったのか、同じシーズンに歌うはずだった『椿姫』もキャンセルしてしまったし、
今シーズンの『マリア・ストゥアルダ』まで降板してしまいました。(公式の理由はロベルト役をoutgrowしてしまったため。代わりはポレンザーニが歌うそうです。)




立見席のチケットの獲得に関しては以前『アイーダ』で冷や汗を書きましたので、
今日も心して挑んだところ、いとも簡単に電話がつながって、”(立見席の)最前列、お願いしますね。”と念押しすると、はい、大丈夫です、と頼もしいお返事を頂きました。
実際メトに到着してみると、意外にも立見席はそれほど混んでなくて拍子抜け。
ま、考えてみると『アイーダ』のムーアはシーズン一回きりの舞台になる可能性があったので(そして実際そうなった)オペラヘッズがチケット求めて必死になりましたが、
ユーの場合はBキャストの公演でさらに聴く機会がありますからそのあたりの違いかな、と思います。
でも、オーディトリアムのドアが閉まる頃にはアッシャー達が互いに”今日のキャスト、いいんだよね。すごく、、。”と言っていて、
ドアの外側担当の人は残念そうに退出して行きましたが、それ以外のアッシャー達が客席の後ろにたむろって、
なかにはポータブルの椅子を持ち出し、じっくり鑑賞する気満々の人がいるのを見て、すっごく気分が盛り上がってきました。
今日のキャストは別にスター歌手が混じっているわけでは全然ないですから、
彼らは一般的な意味で”良いキャスト”と言っているのではなく、
明らかにドレス・リハーサルの場にいて、その時の印象を元にそう言っているわけで、これはもう期待せずにはおれない、というものです。

オケを率いるのはつい”カリガリ博士”と呼び違えてしまいそうになるダニエーレ・カレガリ。
オケのリハーサルでは”金管をそんなに鳴らさないで!”と何度も叫んでいたらしいので、
もしかしたら全然金管の聞えないエキセントリックな演奏を目指しているのかな、、と興味津々でしたが、前奏の部分、すっごく良かったです。
奏者同士の音のバランス、それからタイミング、すべてがぴったりで、最初のフレーズの残響の残り方の輝かしくて綺麗なことには鳥肌立ちました。
だし、全然金管の音、小さくなんかないです。ちょうどいい。
リハーサルの時、よっぽど大音響でぶちかましていたんでしょうか。
特に第一幕、第二幕でのきびきびとしたテンポのおかげで作品の緊張感が失速せず、客席が舞台と演奏にすごく引きこまれて、
拍手をするところ以外はものすごく静かだったのも印象に残りました。

2010/11年シーズンの記事にも書きました通り、フェランドは歌唱量など役としてはそれほど大きくはないですが、
公演全体のトーンを設定しかねない責任重大な役で、この役が駄目だと公演全体に不安を覚えてしまいます。
私は最近聴いた中では声のカラーが東欧的なサウンドでちょっと個性的ではあるのですが、ツィンバリュクが断トツで良かったので、
またメトに帰って来てくれないかなーと思っているのですが、そう簡単に私を喜ばせてはくれないようで、今日の公演にはモリス・ロビンソンが配されました。
なんだかK1の選手みたいにガタイがでかいうえに顔もいかついので、共演者が間違って足とか踏んでしまったら半殺しにされそうな雰囲気の彼ですが、
ツィンバリュクよりは若干アジリティの点で重めになってしまう部分がありますが、全体的には技術はしっかりしているし、
伯爵家にまつわる話の持つ不気味さをとても良く表現していたと思います。
ただ、彼が”遠き山に日は落ちて~”を歌っている下の音源からもわかる通り、黒人歌手特有の声質(エリック・オーウェンズとかと共通した響きがあります)が好みを分けるかもしれません。
(ハンプソン似の司会の紹介によると、彼はアメリカン・フットボールをやってたんですね。K1体型も納得。)



今日はレーシストついでに告白しますと、実はオペラの男性の低声パート、中でもイタリアものでのそれは、
個人的にあんまり黒人歌手特有の響きは好みでないんです。
でもそれはあくまで私の好みであり、また、それってMadokakipに金髪美女になれ、と言うのと似て
本人の力ではどうしようもないことで、彼の出来る範囲内では、良い歌唱を聴かせていたと思います。
合唱も◎。メトの合唱の男性陣はここ数年で本当に良くなりました。
(女性陣はそれに比べると音色があと一歩!と思うところがあって、これからの精進を期待しているのですが、、。)

そしていよいよイネズとレオノーラの登場。
いよいよ”穏やかな夜 Tacea la notte placida”で聴こえて来たユーの歌声。
いやー、良い声してますよ、彼女は。
YouTubeで想像していたよりも、劇場で聴いた方が凛とした残り香のようなものが響きの中にあって、
非常に良く通る声をしているんですが、客を威圧するような爆音ではなく、
また、発声にエキセントリックなところが全くなくて、すごく自然に無理なく音が出ていて、聴いていて非常に心地良い音色です。
また、レオノーラ役にふさわしい真っ直ぐさ、清らかさと、この作品自体が持つ陰鬱な雰囲気にふさわしいほんの少しの暗さがほどよく声質に混じっていて、
この役に対しての適性もものすごくあります(ただ、もう少し後にこのレパートリーに行っても良かったかな、という気もしていて、
その理由は後にも書きますが、いずれにせよ、生来持っている声質がこの役にとても向いていることは間違いありません。)
発音は横において、音の響きと発声や歌いまわしだけの話をすると、
アジア人でこれだけヴェルディの作品にふさわしい音色とスタイルを出せる人が出て来た、というのはとても喜ばしい発見です。
2008/9年シーズンにマクヴィカーの演出が登場してから、
レオノーラ役ではラドヴァノフスキーとラセットの二人を聴いていますが、
二人とも歌い方がこの作品で求められている、またそれがなければこの作品の良さを十全に表現することはできないスタイルのようなものを満たしていなくて
(ラセットは生で鑑賞した時は残念ながら風邪気味だったんですが、後の公演をシリウスで聴いても、”うーむ。”という感じでした。)、
その上にラドヴァノフスキーは爆音系なので、私にはあまりにエキセントリックに感じられてがっかりしていたんですが、
ユーの登場のおかげで、久しぶりにきちんとしたレオノーラを聴いた気がします。
また彼女はテバルディ国際コンクールでは『アンナ・ボレーナ』の
”あなたたちは泣いているの?~私の生れたあのお城 Piangete voi? ... Al dolce guidami"を披露している位なので、
元々ベル・カンティッシュな歌唱にはそこそこ自信があるし、だからこそ、このレオノーラ役をレパートリーに入れているんでしょうが、
そのベル・カント的スキルという面でも”Tacea la notte"に関してはまずは期待を裏切らない出来だったと言ってよいと思います。
また、彼女のもう一つの意外な、そして決して小さくない良さは、アジア人としては珍しく歌と演技にパッションがあることです。
APだったと思うのですが、この日の公演評の中に彼女の演技がいわゆるオペラ的型通りの枠を超えていなかった、
というような趣旨を書いていたものがありましたが、私は全くそれに同意しません。
マクヴィカーの演出は作品の雰囲気を良く伝えていて、場面転換がスピーディーで作品の緊張感を損なわない、ということで非常に評価が高いのですが、
実は結構スタティックな舞台で、ラセットのような演技力に長けた歌手でも演技に苦労している様子が過去の演奏から伺われました。
というか、この作品って、本当に演技するのが難しい作品だと思うんですよ。
この作品で、歌ではなく、演技のドラマティックさに感激した!というような舞台があれば、教えて頂きたいほどです。
しかし、出来る動作が限られているこの舞台でも、ユーは所作にきちんとしたリズムがあって、演技の勘も決して悪くないことが感じ取れます。
ついでに言うと、彼女はYouTubeではなんとなく、どべーっとしただらしない体型のように見えるんですが、
舞台に立って実際に動いているところを見るとそうでもないし、今回の衣装も良く似合ってました。
ただ、私はオーディトリアムの一番後ろで鑑賞しているので、顔の表情まではさすがに見えません。
最前列で顔の表情までばっちり、、というようなところで見ると、また印象は違うかもしれません。



ルーナ伯爵役のヴァサロは、メトでは『清教徒』や『愛の妙薬』といったベル・カントものにキャスティングされている印象が強く、
そのうえ、特に『愛の妙薬』の方でのはじけっぷりには大笑いさせてもらったので、
今年のオープニング・ナイトの『愛の妙薬』に登場したクヴィエーチェンのかっこつけなベルコーレとは対照的、、、)
なんかすごく面白い人、という刷り込みがあって、”彼がルーナ?!”って感じで、キャラ的にも声質的にも???だったんですが、
彼も思いの外良くて、嬉しいサプライズでした。
再び、ここ最近のマクヴィカー演出のもとでのルーナ役を思い起こすと、ホロストフスキーとルチーチの名前が浮かびます。
ヴァサロの歌はホロストフスキーの歌唱のように洗練されてはいないし、
ルックスについては、私のいる場所からならヴァサロの舞台姿も悪くなかったですが、舞台そばで顔込みで見れば、ホロストフスキーに勝負あり!なのは明らかだし、
またルチーチに比べても、いわゆる”うまさ””完成度”では劣っているかもしれません。
しかし、この三人の中で、ルーナ役として誰か一人を選べ、と言われれば、私はヴァサロを採ると思います。
彼もどうやら1969年組らしく、それだけでもなんとなく応援したくなる、というものなんですが、もちろん理由はそれだけでなく、
彼の声の地の底からじわじわと湧きあがって聴こえてくるような音はまぎれもないイタリア的サウンドで、ホロストフスキーとルチーチの音の広がり方とは全く違う。
私は基本的には”本場主義”なんかじゃ全然ないんですが、ある特定の作品については偏執的な自分の好みがあって、
『トロヴァトーレ』は私のその偏執的な部分に特に訴えかける作品なんだと思います。
で、私は『トロヴァトーレ』に限っては、出来る限り、イタリア的なサウンドが欲しいと思っているんだな、ということを今回、自ら再確認しました。
(別にイタリア人のキャストじゃなきゃだめ、と言っているわけではないところに注意。)
また、ヴェルディ作品を歌う場合のレガートの大事さは誰もが口を揃えるところですが、その点でも彼の歌唱は良い、
なので”君が微笑み~Il balen del suo sorriso”はとっても良かったです。
ほんとルチーチは煙草やってる場合じゃないでっせ。
またそれに続く”運命の時は来た Per me, ora fatare"はオケと合唱が入って来てすごく音が厚くなりますが、
ヴァサロの地の底系の声が、きちんと私のいる劇場の一番後ろにまで届いて、すごくエキサイティングな場面になりました。
ま、一言で言いますと、ヴァサロの歌は偉大なる歌手と呼ぶような完璧さはないですが、
『トロヴァトーレ』という作品を聴くという体験を楽しくするための大事なエレメントは押さえている、と、そういう感じです。
ニ幕の最後で、マンリーコの手下に喉元をかっ切られて、”あああああああああっ!!”と大声をあげる部分のタイミングや迫力とか、
四幕最後の、弟を殺してしまうとは自分はまんまとアズチェーナ(と彼女の母)の復讐に屈したのか?とひざまずいて頭を抱えて
苦悩する様子とか、
彼はベルコーレのようなコメディックな役柄だけでなく、ヴェルディもののシリアスな役柄でも同様に、舞台人としての演技のしっかりしている人だと感じました。



しかし、今日凄かったといえば、何と言ってもザジックでしょう。
彼女が私の大好きなメゾであることは当ブログで周知の事実であるので、またMadokakipがほざいとる、、と狼少年的にご覧になっている方もいらっしゃるかもしれません。
正直、彼女もさすがに齢60だし、最近の公演では若干パワーダウンしているところもあったし、
直近で歌った『トロヴァトーレ』ではペース配分への気の配り方が以前に比べてはっきりと露見するようになっていたり、
声楽的に厳しくなった箇所をかばうようなジェスチャーもあったりして、そのせいで役作りに本来向けられているはずのパワーが消耗されていたりしていて、
(それでも現役のどのメゾもこれほどまでには歌えまい、という内容ではありましたが)
今回はそれがさらに進行したような感じになるかな、と思ってたらとんでもない。
マクヴィカーの演出が登場して以来、この演目がスケジュールに含まれる年は必ずアズチェーナ役を歌っているザジックですが、
この公演での彼女は役への解釈が一段と深まっていて、本当、すごい迫力でした。DVDにもなったHDの公演の比じゃありません。
ああ、今日の公演を収録して欲しかったなあ、、。

声のパワーの凄さと言ったら、なんだか一周り若返ったような、
声帯用のボトックスみたいなものがあったら絶対にそれを使っているに違いない、と勘違いしてしまうほどなんですが、
それが高音域で顕著なところを聴くと、今より若かった頃の彼女はもう少し全音域で統一された音量だったので、
これはこれで彼女が年齢のせいで、音量の微妙なコントロールが難しくなって来ている結果と考えられなくもないのですが、
まあ、このアズチェーナのような役は、これでもいいでしょう。
でも一方で、胸声区の良く響くことは、一体60にもなってこんな音を出せるなんて何者??って感じです。
でも今日の彼女の凄さは、そういう声楽的な部分を越えた面で(もちろん声楽的な実力がそれに貢献しているので、完全に越えているわけではないのですが)、
役へのコミットメントの深さとでもいうのか、そこに集約されると思います。

例えば、”母の復讐をしようとルーナ伯爵の子供を盗んで火の中に放り込んだのはいいが、気がついたらそれは自分の息子だった”とびっくり仰天な打ち明け話をアズチェーナがして、
マンリーコと観客を、”じゃ一体マンリーコは誰なんだ?”と震撼させる”Condotta ell'era in ceppi 重い鎖につながれて”。
2010/11年シーズンのHDの時、彼女は下の映像のように歌っています。
これはこれですごく良い歌唱なんですが、2'18"から4'48"までの部分での彼女の今日の歌唱は
アズチェーナの狂気が一層鬼気迫っていて本当に怖く、また憐れを誘いました。
(この演出が初演されたころ、MetTalksでザジックは見事にこの役をデサイファーしています。)



特に3'36"からの"Ah! il figlio mio, mio figlio avea bruciato! (ああ、私の息子、私の息子を焼き殺してしまった!)”と歌うil figlio mioの繰り返しの部分、
この映像では前を見て普通に歌っていますが、今日の公演では両手を横に広げながら天を仰ぐような姿勢で静止したまま、
まるで雷か何かに打たれるように、”私の息子を、私の息子を”と歌っていて、
あの姿勢ではもはや指揮者は全く彼女に見えていないはずなのに、オケの演奏と彼女の歌唱が完全に一体化していて、
その彼女の天を仰いでいる姿に稲妻が走って落ちているのが見えるような、フランケンシュタインも真っ青の壮絶な場面になっていました。
上の映像では少しマルコ(・アルミリアート)の演奏が慎重なせいか、若干緩い感じがあるんですが、
今日の演奏ではものすごい緊張度を保ってこの部分の彼女の歌唱を支えたカリガリ博士とオケの演奏も讃えたいです。
でも、こういう歌唱を聴くと、このアズチェーナの悲壮な叫び、悲しみ、怒り、そしてそれが混じりあった精神の混乱があってこそ、
この話はドラマティックな悲劇として成立するんだな、と思います。
しばしば、ストーリーがconvoluted(複雑でいまいち意味がよくわかりにくい、といった意味)ということで、
音楽の素晴らしさ以外の部分で貶められることの多い『トロヴァトーレ』ですが、このオペラは確かに筋の面では合理性に欠けているかもしれませんが、
登場人物の行動と感情をきちんとバックアップする歌唱があれば、これはこれで説得力のある舞台になる作品なんだな、というのを感じさせられました。
第三幕でルーナ一味にとっつかまえられる場面で、彼らにしょっぴかれながら、高笑いしている様子も怖かった、、。
これで、自分の命や安全が危険にさらされている事実よりも、復讐の成就にまた一歩近づいたことを感じ、それを喜んでいるアズチェーナの精神の錯乱ぶりが良く表現されています。
あるいは、彼女の母親に精神を乗っ取られているのでは?と思わせる部分もありました。



今日の公演で唯一水を差したのはマンリーコ役のグウィン・ヒューズ・ジョーンズという、
これまでENOなどに登場しているらしい、ウェールズ出身のテノールです。
見た目はほっそりしていて、舞台姿は悪くないのですが、
歌唱技術のないロッシーニ歌いがいきなり『トロヴァトーレ』の舞台に紛れ込んで来たような線の細い声で、ものすごい違和感を覚えました。
そのENOでトゥーランドットのカラフなんかも歌っているみたいなんですが、にわかに信じ難い、、、
彼自身も緊張していたのかもしれませんが、声の支えが全然なくて、今にも砕けそうな声だし、
日本の音大生が乗り移ったかのようなポルタメント嵐!の歌唱で、下品なことこのうえない。
またそのリズム感の欠如していることと言ったら!
4人の主役のうち、3人がしっかりしているだけに、一人だけクラスの違う歌手が入って来た感じで、これは彼自身の無力さもさることながら、
メトのアーティスティック・デパートメントのキャスティングの失敗でしょう。
何を連れて来るんじゃ、、、って感じです。
確かにマンリーコは大変な役ですし、私はマルセロ・アルヴァレスにだって満足しませんでしたから、キャスティングが大変な役であることは重々承知です。
でも、まさかキャスティングが大変だからって、”僕歌えるよ。”という自己申告だけ信じてキャスティングしたんじゃないでしょうね?

今日の公演は彼を除いてはとても内容が良かったものですから、オーディエンスの集中度も高く、非常に客席は静かだったのですが、
ザジック演ずるアズチェーナがルーナたちに連行された後あたりで、私の立っている場所の近くの座席から携帯電話の着信音のようなものが聞えてきました。
”早く切れよ。じゃないと、私が切れるよ。”と思っていると、段々音量が上がっていくような設定になっていたようで、
まわりの座席からも、”ちっ!”という舌打ちが聞えて来ます。
もたもたと暗闇の中で電話を切る方法を探っていた持ち主のおばあがやっと着信音をとめたまでは良かったですが、
どうやら携帯本体のスイッチの切り方自体がわからないようで、また電話がかかってきたらどうしよう、、と気になるのか、
座席を立って、オーディトリアムの外でスイッチを切るべく、アッシャーのいる扉の側までやって来ました。
するとアッシャーは”一旦外に出られますと、もう中には戻れませんが。”
良い公演だけに、おばあは帰る気はないらしく、”それは困る。私は戻りたいのよ。”というのでひと悶着です。
最初は声を潜めていたアッシャーもおばあとやりやっているうちに、段々大声になっていて、
”わたしは携帯を切りたいだけなのよ。外に出ないと切り方がわからないのよ。””でも外に出られたら、お戻りになれないんです!”と、
もはや私のいる立見席はおろか、後ろの方の客席にまで聞える口論になっています。
”一旦退出したら戻りは不可。”という理屈はよくわかりますが、アッシャーも融通が利かないというか、
ここまで揉めたら、彼女をすっと外に出して戻る準備が出来た時に戻した方が客への迷惑も少なくすむのに、、、。
”それでは携帯を外でお預かりしますから。”というアッシャーの言葉には、
その時はあんたが外に出て、また戻ってくるわけで、ドアの開閉は2回。彼女自身を外に出しても開閉2回。
迷惑という点で何ほどの違いがあるというのか?、と心の中で呟き、
”それは困るの!”というおばあの言葉には、
”メトがあんたの古くっさい携帯を盗むわけないでしょうが!!早く渡しちまいな!!”と喉元まで言葉が出てくるのを押さえているうちに、
マンリーコの”見よ、恐ろしき炎を Di quella pira"がもうそこまで迫って来ています。
へなちょこマンリーコですから、すごいものを聴けるとは思っちゃいませんが、どんなへなちょこぶりか、確認しておく必要があるのに、これでは聞えない。
しかも、その後は、私がソプラノの全てのアリアの中で一番好きなそれのグループに入っている”恋はばら色の翼にのって D'amor dull'ali rosee"で、
ユーがこの曲をどう歌うのかは、今日の鑑賞の中で一番楽しみにしているところです。
客席から、”しーっ!”という叱責の声が何度も起こっているのに、かれこれ5分も上のような押し問答が続いたでしょうか?
アッシャーがもはやひそひそ声を保つことが出来ずに、客席にまで十分聞えるような普通の声量で、
”それではこちらで外で携帯をお切りする間、ここで待っていて頂いて、、、。”,
おばあ ”どうして私が外に出ちゃいけないの?”、、
、、、とそこで、私の頭の中でどっか~ん!!!という音がしました。
やおら、立見席からくるっと後ろを振り返り、闘牛もびっくりの勢いで彼ら二人の方に突進していくと、
拳をおばあの前に振立て、殴りかからん勢いで、”あんたらのせいで、聞えるものも聞えないのよっ!!!あんたら二人とも早く外に出て行けってんだよ!。”と、
しかし、客席にいる観客の迷惑に私がなってはいけませんから、あくまでひそひそ声+手話のようなジェスチャーで。
最後の、”早く外に出て行けってんだよ!”のところで、思い切り両手を扉に向かって刺す様に指し出し、
”今でてけ、このやろー!”というメッセージを込めて彼女ににじり寄ると、
おばあはおろか、アッシャーも、”どこの動物園の檻からこの野獣は飛び出して来たんだ。”という様子でまるで虎に食いちぎられる寸前のガゼルのように縮み上がっています。
その後、ニ十秒ほどまだひそひそ声で押し問答してましたが、結局彼女を一時的に外に出す、ということで解決したようで、
なんとかDi quella piraには間に合いましたが、こちらはもう舞台上のマンリーコもへじゃないほど、血圧あがりまくりです。
使い方も知らない道具を持って歩く、ましてやそれでオペラハウスの敷居を跨ぐと、
熱狂的なオペラファンに半殺しの目に合いかねませんから、年配の方はご注意頂きたいものです。

せっかくそこまでして聴けた”見よ、恐ろしき炎よ”ですが、恐ろしかったのは炎ではなく、ヒューズ・ジョーンズのall'armiでのハイCです。
一応ハイCにはなってましたが、今にもよろけて倒れんばかりのヘロヘロな音で、何とか出てますけど~、といった風。
これだったら、まだアルヴァレスの方が1000倍まし。ほんとに今のオペラ界にはマンリーコを歌えるテノールがいないんだな、、と悲しくなりました。

気を取り直して四幕の、先述のレオノーラのアリア、”恋はばら色の翼にのって”。
なぜこの曲が私の好きなアリアかといえば、それはヘッド人生の初期にカラスの歌唱にふれたことが原因であることは間違いありません。
彼女はこの曲を正規の全曲スタジオ録音にも残しているし、リサイタルでも頻繁に取り上げているんですが、
どれを聴いても出来・不出来の差が少なく、彼女がいかにこのアリアを手中におさめていたかがわかるというものです。
(下は1956年のカラヤン/スカラ座とのスタジオ録音の音源です。)




彼女の歌と比べられるアーティストもたまったもんじゃありませんが、目標は高く!ということで。
結果を言うと、全幕優れた歌唱を披露していた中で、ユーの歌が若干シェイキーになったのがこのアリアかもしれません。
この曲は音楽の美しさもさることながら、テッシトゥーラの関係で難易度が高いこと、それから、息の長いフレージングが必要な点、
それから微妙なシェーディング、繰り返しの音をどのように色づけして歌うか、というアーティスティックな面で
私は一幕のアリアよりもずっと難しいと思っていて、だからこのアリアを偏愛していて、かつ舞台で聴くのを楽しみにしているのですが、
正直なところ、”これはすごい!”というこの曲の歌唱にまだメトでは出会ったことがありません。
ユーの歌唱は最初のフレーズから少しピッチが不安定で、すぐに出てくるトリルも少し甘く、
また長いフレーズも息継ぎで軽いあっぷあっぷ感があって、カラスのようにざーっと音楽が広がってくるような感じは希薄で、
他の部分での歌唱の優秀さと比べると、あれ?どうしたんだろう?と思います。自分でも少しこの曲に苦手意識があるのかもしれないな、と思います。
また、彼女はこの役だけでなく、色々なヴェルディ作品、またベル・カントものを歌っていくなら強化しなければならないポイントがあって、
それは高音をピアノ/ピアニッシモで出すテクニック、それも色んな微妙な音量やトーンを変えられるという高次なテクニック、を身につけることです。
彼女は高音を常にフォルテ気味に歌う傾向があって、それだと、この”恋はばら色の翼にのって”のような曲では表現がモノトーンになってしまって、
この曲の良さが十分には伝わって来ない。
例えばカラスの歌唱の2'13"、2'20"、2'24"、そして2'41"、2'49"(←カラスのこの音、素晴らしいですね。レオノーラの気持ちが伝わってきてせつなくなります。)、
2'56"の音を聴くと、それぞれに違った微妙なエモーションが込められているのが伝わってきます。
ユーはこのどれもが同じ調子で、どぱーっ!と放出型の音になっていて、きちんと歌えてはいるのですが、
カラスのような歌いわけが出来ると、曲にもっともっと豊かな表情が出て来るのにな、と思います。

このアリアについては、私の方の期待が大きすぎる部分もありますし、このアリアの後の部分は再びとっても良かったです。
一点、少しだけ気になった点は、彼女は結構熱血な歌を歌うので、ここからあまり早く重い役を歌う方向に進んでいくと、
喉に負担がかかるのではないかな、という点です。
熱血と言っても、決してスタイルを崩すほどの下品な熱血ではないのですが、アリアが終わった後の四幕の歌唱では、
すべてをかなぐり捨てて歌っている、という感じで、聴いている方は熱い歌が聴けて良いですし、
メト・デビューでこんな歌を歌うなんて度胸の面でも大したものだ(メーリも見習え!)と思いますが、
色々な劇場の注文に応えているうちに、無理なことにまで手を出すことだけはないよう祈っています。
レオノーラ役は間違いなく彼女の本来の適性に合っているとは思いますが、そういった意味で、あと数年後にメインにしても良かったかな、という気はします。
今日の歌唱を聴いていると、歌唱における表現力もあるし(アリアのところで書いたような高いレベルでの注文はありますが)
今の彼女なら、ヴィオレッタなんかも結構良い歌唱を聴かせられるのではないかなと思います。
それにしても、この『トロヴァトーレ』のような演目で、
従来のアジア人歌手では考えられなかったレベルの正統的な歌と演技で勝負できる歌手が出てきたのは本当に驚きで、
彼女がこれからどのように成長を続けていくか、とても楽しみです。

マンリーコのキャスティングが痛恨!でしたが、全体としては、非常にエキサイティングな『トロヴァトーレ』で、大満足。
こういう公演が続いている限り、ブログがストップすることもないんですけど、、。

Gwyn Hughes-Jones (Manrico)
Guanqun Yu replacing Carmen Giannattasio (Leonora)
Dolora Zajick (Azucena)
Franco Vassallo (Count di Luna)
Morris Robinson (Ferrando)
Hugo Vera (Ruiz)
Maria Zifchak (Inez)
Brandon Mayberry (A Gypsy)
David Lowe (A Messenger)
Conductor: Daniele Callegari
Production: David McVicar
Set design: Charles Edwards
Costume design: Brigitte Reiffenstuel
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman
Stage direction: Paula Williams
SR left front
OFF

*** ヴェルディ イル・トロヴァトーレ Verdi Il Trovatore ***

L'ELISIR D'AMORE (Mon, Sep 24, 2012)

2012-09-24 | メトロポリタン・オペラ
早くも昨シーズンのメトのオープニング・ナイトから一年が経ってしまいました。
今年は『愛の妙薬』の新演出がオープニング演目で、昨年の『アンナ・ボレーナ』に続きネトレプコが再登場!なので、
”馬鹿の一つ覚えとはこのことだな。”と思っていたところ、
どうやら来シーズン(2013/14年シーズン)も彼女が出演する『エフゲニ・オネーギン』でキック・オフするらしいと聞き、
更に力が抜けました。ぷすーっ。

例年オープニング・ナイト・ガラの数ヶ月前くらいからドレスのことを本格的に考え始めるわけですが、
本当にぎりぎり直前まで気に入ったものが見つからなくて汗かいたーなんていう危ない年もあって、
そろそろ私も学んだらどうなのよ?ということで、
実は今回に関しては、先シーズンのオープニング・ナイトが終わるか終わらないかといううちから、真剣なドレス・ハンティングを始めてました。
演目が『愛の妙薬』だから、あまりドラマティックに過ぎたり黒っぽい色のものはやめて
(その頃はシャーが”ダークな妙薬”などというわけのわからないアイディアを温めているとは思いもしなかったゆえ、、、)、
軽やかな感じのデザインと色合いのものにしよう、、、と思っていたところ、
幸運にも年明け前に、お直しが全く不要なほど体にぴったり合った思わぬ掘り出し物が見つかり、
”私の作戦の勝利だな。これでオープニング・ナイトまで何の心配もなく過ごせるわ。むふふ。”と一人悦に入っていたわけです。


さて、ネトレプコといえば、以前は本当華奢だったのに、
ティアゴ君を生んでほんの数年でものすごく立派な体格になられているのは皆様もご存知の通りですが、


(2007年9月の『ロミオとジュリエット』の舞台から。このちょうど一年後にティアゴ君が生まれている。)

私は彼女がメトに戻ってくる度にその順調な成長(?)ぶりを毎年見つつ、人ってこんなに早く太れるんだなあ、、と他人事のように思っていたわけです。
昨シーズンのオープニング・ナイトの記事の中でドレス・ハンティングのお話をした時も、
"私は背に関しては日本人としてはもちろん、アメリカ人の中に混じっても決して小さくはなく、平均的だと思いますが、
日本人の典型的なパターンで体に厚みがないので(父が楊枝のような人だからこればかりは遺伝で仕方なし。)"
と、呑気なことも書いてますね。

しかし、どうでしょう?丁度このブログの更新を止めた年明けくらいから、、
空いた時間で睡眠はたっぶりとれるわ、料理はがっちり作るわ、ついでにどさくさにまぎれてお菓子作りにまで励んでしまうわ、で、
なんか気がついたら持っているパンツ(いや、あの、下着じゃなくて、ジーンズとかですよ。)がきつくなってしまってですね、
いや、正直に告白すると、着れなくなったものが一枚、二枚、三枚、、。
”日本人の典型的なパターン”なんてどこ?って感じで、もう体に厚み、出まくりでして、
我が家には体重計がないので、その間、現実逃避にまかせていたのですが、
8月末にミラノに遊びに行った時の写真を家族に送った際、母に”あんた、なんか、太ってないか?”と言われた時に、”はっ!"と思いました。
年末以来クローゼットにかけっぱなしになっていたライラック色のヴァレンティノのドレス、試着した時にぴったりだったということは今は、、、。
考えるだに恐ろしく、あまりの怖さに試しに着てみる気にもなれない。
やばい、やば過ぎます!!!!
人ってこんなに早く太れるんだな、、、って、それはあんたのことだろう!!って感じです。
数年どころかたった8ヶ月で!しかも、子供なんて一人も産んでないのに。

とりあえず、数週間、気が狂ったようにワークアウトに燃えることにしました。
じゃないと、今、ドレスが着れないとわかったって、ドレスは小さくお直しすることは出来ても大きくすることはできないし、
これから買いなおす時間もありません。
何としてでもこのドレスを着なければならないのです!

そしてオープニング・ナイトの一週間前におそるおそる袖を通してみると、なんとか背中のジッパーはあがりましたが、
もういっぱいいっぱい、ドレスが悲鳴をあげていて、
華奢な生地なものですから、メトの座席にお尻をつけた途端、バリバリバリ!!といきそうな雰囲気です。
駄目だ、、もっと痩せないと、、。
ワークアウトなんかではとても追いつかないとわかった今、残る方法は断食しかない!!!
ということで、オープニング・ナイトまでの最後の一週間は、会社でも家でもほとんど何も食べませんでした。
会社に二人日本人の同僚がいるのですが、幻影を見そうなほど腹を空かせている私の前で、
ランチに近所の日本料理店から注文したうなぎ定食にぱくつかれた時は泣きました。
後輩の女の子は、"Madokakipさん、火曜日(ガラの翌日)はうなぎとドリトス(ジャンク・フードの王様かつ私の好物)
両方準備しときますから。”と言って慰めてくれたけど、もうその言葉も耳に入らないくらい腹ペコ。死ぬー

ここまで強引にダイエットしたら、さすがに体も反応しないわけにはいかなかったようで、
オープニング・ナイトの前日にもう一度ドレスを着てみたら、これなら何とか座席に座っても大丈夫という位にはなってました。
その様子を見て、連れが”いやー、あのままどうなっちゃうのかな、と思ってたから、痩せることが出来てよかった、よかった。”
、、、そういうことは、これからもっと早く言ってね、って感じです。
それにしても、いやー、本当、今年は危なかった、、。
当日は天候にも恵まれ、無事、予定通りのドレスでメトに乗り込むことが出来ました。
(これが雨だとまた話がややこしくなって来るところでした、、、。)
毎年トライアル&エラーの繰り返しのドレス選び、今年の教訓は”あまりに早く準備し過ぎるのも考えもの”。

当日も食事は危険なので空腹のままふらふらしながらメトにたどりつくと、
相変わらず支配人は色んな彼の考える”セレブ”に招待状をばら撒きまくっているみたいで色んな人を見かけました。
なかでも、開演前の化粧室のあまりに激混みな様子に用を足すのを諦めたのか退出しながら、
"Shit, shit!"と私も含めた列の女性達の頭越しに罵って出て行ったでかい女には、
”メト、しかもオープニング・ナイトでこんな汚い言葉を聞くとは、、。”とみんな引きまくりでしたが、
よく顔をみたらコートニー・ラヴだったのには、何年か前のオープニング・ナイトでオルセン姉妹を見た時と同じ位、
”一体誰を呼んどんじゃ、支配人は、、。”と思わされました。趣味の悪さは演出家の選び方だけじゃないんだな、、、。



他にもどんなゲテモノが招待されているんだろう、、とドキドキしてしまいましたので、
毎年オープニング・ナイトの日のマイ・シートになっているサイド・ボックスの座席から
オーディトリアム越しにドミ様と奥様と見受けられるお姿を客席に拝見した時は実にほっとしました。

またオープニング・ナイト恒例といえば、オースティン様御一行なんですが、今年は残念ながら同じボックスではありませんでした。
今回彼がドレスを作成しエスコートしたのは、これまで『つばめ』などの演目に出演していて(感想もこのブログにあるはずです。)、
今シーズン『リゴレット』のジルダ役にもキャスティングされているソプラノのリゼット・オロペーザでした。



オースティン様御一行が隣でないとすると、では誰が、、?と思い、私の横の座席を見ると、
5歳位の女の子がおめかししてちょこりん、と座席に座っています。お母様とご鑑賞なんですね。
ベル・カントを聴く5歳児か、、、しぶい。

ただ、『愛の妙薬』という演目については、こんなにすごく楽しくて、
最後に胸がきゅん!とする瞬間があって、しかも鑑賞後にオーディエンスをハッピーな気持ちにさせる力がある演目は
年齢を問わずすべてのオーディエンスに受け入れられやすいはずなのだから、
どうして年末のホリデー・シーズンのキッズのための演目にしないんだろう、
ひいてはどうしてオープニング・ナイトの演目に持ってこないんだろう、とずっと思っていました。
はっきり言って、よっぽど頓珍漢な演出やひどいキャストでない限り、成功が約束されている演目だと思うんですよ。
NYタイムズのオペラ評と私の意見が合わないのは毎回のことなんですが、
今日の公演の評の中でもトマシーニ氏が”当初『愛の妙薬』はあまり開幕公演に似つかわしい演目とは思えなかったのだが、、”みたいなことが書いてあって、
一体何を根拠にそう思うのか?と逆にこちらがびっくり!です。

私がこの演目の魅力を十全に感じられるようになったのはコプリーによる旧演出の存在も大きいかもしれません。
彼の演出はパヴァロッティとバトルが出演した1991/92年シーズンの公演がDVDにもなっています
(し、日本公演にも持って行ったことがあるのでご覧になった方も多いでしょう)が、20年前の録音技術で収録したもののためか、
舞台の色彩の実際のテクスチャーやそれから生まれる華やかさが失われているのが残念です。
実際の舞台での幕が開いた瞬間に生まれる心躍るようなバブリーな感覚とか、
それぞれの登場人物のキャラを十全に表現つくした衣装の素晴らしさはもちろんなんですが、
エキストラ(ニ幕の頭に登場するピンクの衣装に身を包んだオケのメンバー含む)を上手く使ったコミカルな演技とか、
小道具の使い方の上手さ、
それから演技付けもきちんとされていながら、それでいてそれぞれの歌手の表現の仕方を楽しめる余地もきちんと残されていて、
コプリーのオリジナルの演出が優れているのはもちろんなんですが、
昨シーズンの引退を迎えるまでの20年の間に舞台監督や登場した歌手たちによって蓄積されたアイディアによって進化していった部分もあって、
上手く歳を重ねた俳優さんを見るような演出だったわけです。
DVDはパヴァロッティ、バトルというスター・キャストですが、別に歌手がここまでよくなくても、
そして実際、私が見たものの中にはファースト・レートとは言いづらいキャストのものもたくさん含まれていましたし、
歌も超一級と呼ぶには厳しいものも含まれていましたが、
いつも見終わってみれば、少なくとも”来てよかった。”と思うものばかりでした。これは作品と演出の力なのだろうと思います。
そんな優れた演出だったものですから、力のある歌手が登場した時は鬼に金棒状態で、
コプリーのプロダクションによる最後の公演(2012年3月)の舞台に立ったのはフローレスとダムラウの二人でしたが、
このプロダクションの引退にふさわしい素晴らしい公演で、
ブログ休止期間中に感想を書き逃したことを最も残念に思っている公演の一つです。

まあ、そんなすごい演出と比べるつもりもなかったし、普通に演出していれば外しようのない演目なので、
特に新演出については心配することもなかろう、、と思っていたところに、例のシャーの”ダークな妙薬”発言事件なわけですよ!
あああああああーーっ、もう余計なこと考えなくってもいいんだってば!!!!



イタリアの村の遠景が投影されたスクリーンをバックに、ベニーニの指揮の元、オーディエンス全員で国歌の斉唱を終えるといよいよ前奏曲。
ベニーニといえば、2008/9年シーズンの『愛の妙薬』の公演で見せたニコル・キャベルとの闘いが思い出され、今でも笑ってしまうのですが、
あの時はその闘いで消耗したせいか、割りとさらりとした普通の指揮で、彼の個性も力も(それがあれば、の話ですが)発揮できず、という感じでしたが、
今回はオープニング・ナイトの演目で、しかも来月にはHDにも乗るとあってベニーニがかなり本気になって張り切ったと思われ、
細かいところまで神経の行き届いた音楽作りで、面白いなと思う箇所がたくさんありました。
しかも、面白く演奏することが目的になっているわけではなくて、舞台で起こっていることを表現するために必然的にそうなった、という感じで、
彼の細かい要求にオケもきちんと応えていて、非常に内容の良い演奏だったと思います。
(シーズン当初は毎年そうですが、オケもまだヘビー・スケジュールにくたびれる前の非常にフレッシュな音を出していて、
前奏曲で音が出てきた時は、幸福感500%でした。)
後でもふれますがニ幕のアディーナが”私はあなたを愛している!”とネモリーノに認める場面での劇的な盛り上がり方は、
まるでヴェルディ作品の演奏のようにドラマティックで、
サイド・ボックスから聴いていると、低音の楽器が前に出たどーっ!と湧き上がるような演奏で、
オーディエンスによって好き嫌いが分かれるかもしれませんが、私はオケの演奏についてはこれはこれで嫌いじゃありません。
またこの作品は、そこでこちらの心がふっと折れるようなはっとさせられるようなロマンチックな和音があって、
それまでの賑々しい場面からふっとそこに移行する時にえも言われぬ美しさがあるのですが
(例えば一幕の二重唱”優しいそよ風にお聞きなさい Chiedi all'aura lusinghiera"に入る前の部分とか)、
そういう場面でのオケの音の美しさも出色でした。



ネモリーノをはじめ村人たちが舞台に現れると、”色、くら(暗)、、、。”と思わされます。
セットや衣装に使用されている色彩のせいなんでしょうが、コプリー演出の見ているだけで気分がワクワクしてくるような感じとは対照的に、
見ていると心が沈んですさんでくるような色合いです。
ポレンザーニは地はすごく人が良くて優しい感じで、ネモリーノはキャラクターに合っているな、と思っていたのに、
この舞台での彼の髪やメイクや服装はまるで犯罪者みたい。
これから村で起こるのは窃盗事件か殺人か?って感じです。
作品や音楽が行こうとしている反対側に引っ張ってどうする?

さらに合唱にのって聴こえてくるアディーナ役のネトレプコの声がこれまたどっしりと暗い。
彼女の声は本当に重くなりました。もう声楽的にこういうベル・カントのコメディック・ロールは完全に限界、封印すべきでしょうね。
(実際、ウォール・ストリート・ジャーナルの記事で、彼女自身もそうしたい意向を持っている旨が書かれています。)
彼女の歌唱の良いところの一つに、本能的にアンサンブルやオケとのバランスをとって歌える、という点があると私は思っていて、
今日の演奏なんかでも、村人(合唱)と一緒に軽く歌う場面では自ずと声量が抑えられていて、
そういう場所では割りと早いパッセージも軽く歌いこなせているのですが、
自分が前面に出て歌わなければならない場面になると必然的に声量が増えるわけですが、
それに伴ってアジリティが大きく損なわれるようになっているのが気になりましたし、あとは高音、
これがもうたった2、3年前に比べても軽々と出なくなっていて
(特に昨シーズンの『マノン』あたりからこの傾向が顕著になったように思いました。)、
ベル・カントやフランスもので非常に安定感のある高音を持っていた彼女が、今や必ずしもそうではなくなって来ています。
時々、聴いていて”こわいな。”と思わされるような音が出るようになって来ましたし、
一つ一つの高音に、今から出すぞ、という妙な緊張感が伴うようになりました。
ドラマティックな役の高音はそれでも歌っていけるかもしれませんが、
ベル・カントのレパートリーで、ぱちぱち!とシャンパンのように軽く高音を繰り出していかなければならない役は今後無理だな、と思います。
(それを言ったら、ヴェルディの『椿姫』なんかも。)
また、MetTalksの時にも感じたのですが、彼女のパーソナリティ自身もちょっと変化した部分があるというか、
良く言えば落ち着いた、お母さんっぽい雰囲気が出始めていて、こういうムスメムスメした役は、
なんとか彼女の明るいキャラで乗り切っているものの、少しずつ無理が出てきているかな、、という風にも思います。



ネモリーノ役を歌うポレンザーニはその点ここ数年どころかずっと前から持ち味も声もあまり変わってないような感じがします。
(当然声に若干の変化はありますが、ネトレプコのそれほど劇的じゃありません。)
こんな心底お人好しな感じがするテノールってそんなにたくさんいないんですから、
私だったらネモリーノを思い切り痴呆の設定にしてるところですが、MetTalksで彼が語っていた通り、
新演出のネモリーノに全然痴呆っぽさはなく、男らしい普通の(少し犯罪者っぽいですが)青年、って感じです。
どこで目・耳にしたのか、記憶が定かで申し訳ないのですが、シャーかポレンザーニが、
この演出では、ネモリーノがこれまでアディーナにはっきりとした告白を出来ずに来た理由の一つは
身分の差という壁のせいだ、という風に言っていたように記憶しています。
コプリーの演出では、ネモリーノの頭の弱さとそれに対するコンプレックスが、
『トリスタンとイゾルデ』の本を村人の前で読んで聞かせるくらい頭が良くて教養のある(と、少なくともネモリーノは思っている)
アディーナへの告白への壁となっている、という解釈の仕方なんですが、それとは対照的だな、と思います。
音楽祭などでテンポラリーにかける演出と違って、メトで新演出を手がける場合は、
その後、何年にもわたって通用する、違うキャストでもその良さが損なわれないような演出を作ってほしいし、
それ故、あまりに初演時のキャストのキャラクターに依存しすぎる演出には賛成しない私ですが、
それでも、オリジナル・キャストで演出家が持っているアドバンテージのひとつは、
ある程度、キャストに合わせて演出をテイラーできる点であることは否定しません。
あまりに白痴が入っているのはやり過ぎだと思いますが、やはりこの作品全体を眺めると、
ネモリーノが若干すっとぼけたキャラクターであることは間違いなく、アディーナが歌うパートにもそれが示唆されているし、
お金がない、身分が低いことだけでは、ネモリーノに叔父の財産が転がりこんだと聞くまで村の女性たちに軽くあしらわれている理由に十分でないと思います。
というわけで、私ならせっかくのポレンザーニ本人のキャラを生かして、もうちょっと馬鹿っぽくさせるんですけどね、、。



この作品でアディーナとネモリーノと同じ位大切なのは、いかがわしくかつ怪しい準主役の二人、
つまり、アディーナをめぐってネモリーノの恋のライバルとなる軍人ベルコーレと、
ただの安ワインをなんでも解決する魔法の薬として売り歩いているいんちき行商人のドゥルカマーラで、
この二人がびしっと決まらないと、『愛の妙薬』の楽しさは半減です。

以前このブログのコメント欄で紹介いただいた、ウィーン国立歌劇場でのヌッチお父さんのベルコーレ、
これなんて最高ですね。(アディーナはまだまだ娘らしい役がぴったりの頃のネトレプコ、ネモリーノはヴィラゾンです。)
やっぱりベルコーレ役はこれ位はじけてないと。



ヌッチお父さんの歌の上手さ・存在感はもちろんですが、この演技の上手さ、役のエッセンスを摑んでいるさまはどうでしょう!
それに比べると、残念ながら今日の公演のクヴィエーチェンのベルコーレは”どうしたの?”という位、薄口です。
もっとはじけてくれないと、全然面白くない!!!
彼はインタビューとかレクチャーとかフリー・トーキングの場ではすごく面白い冗談も交えてウィットの富んだ話を聞かせてくれるし、
数シーズン前にみた『ラ・ボエーム』でのマルチェッロ役を見るに、決してコメディックな演技も下手な人ではないと思うのですが、
今日の公演での役の描写はスマート過ぎて、なんか彼の良さが全然生きていない感じです。
彼自身の力の及ばなさか、はたまた、またシャーに”この役はヌッチみたいなギャグ漫画的描写はしないで、
これまでにないような、スマートな存在として演じて欲しい。”とか何とか言われて、上手く役を作れなくなってしまったのか、
いずれにしても、ポレンザーニのネモリーノに続き、今夜の、”本人のキャラが生きていないこと夥しい症例”ナンバー2です。
そういえば、この公演に対する批評家の意見の中に、この公演では”くるくるスカートを回したり、
お尻をぱしっと叩いたり”するような演技しかアクションがない、と書かれたものがありましたが、その通りだと思います。
シャーだけでなく、最近メトで演出を手がけている演出家全員にその傾向があるように思いますが、
演出に関してハイ・レベルでのアイディアはもっていても、それを実際の公演で血肉化させるための巧みで細かい演技付けをキャストに行える人が、
オットー・シェンク以来現れていないのではないかと思えるほどです。
最近メトで演出面で評判の良かった演目のいくつか(『鼻』とか『サティアグラハ』)ですら、
そういう演技面での説得力よりも、ビジュアル・アートとしての力が評価されたような感じです。
またワシントン・ポストの評ではアン・ミジェット女史がこの公演について、
”コメディックな作品をストレートに演じるのは構わないが、それで結果を出そうと思ったら、説得力のある、立体感に富んだ登場人物を作り出す必要がある”、
”シャーと彼の演出チームは単にコミカルなシーンをプレイダウンしただけに終わってしまった。”と言っていますが、
その通りだと思います。
(またこの点だけでなく、この公演に関しては、彼女が書いていること、ほとんど全て、私の感想と合致しているので、
ここでこの記事を読むのをやめて、そちらを読んで頂いてもいいくらいです。)



シャーは折にふれてメトの公演をきちんとこれまで見て来ていることを匂わせていて、
実際、公演の伝統ということに対しても比較的敏感で、
『トスカ』のボンディやリングのルパージみたいに、そんなこと、関係ねー!と開き直ってケツをまくれるほど厚顔ではないし、
キャストから反対意見が出た際にも自分の意見を押し通すほど強引なところは持っていないのかもな、と思います。
ただ、それが今回ちょっとバックファイヤーしてしまって、”新しい切り口を持ちこみたい”という演出家としてはある程度無理ない願望と、
上で書いたような公演の伝統への板ばさみで、中途半端なものをプロデュースしてしまったような感じかもしれません。
実際、セットの構成、人の動きなども、コプリーの前演出と酷似している部分があって
アディーナが本を読んで聞かせる場面の人の配置とそれにネモリーノが紛れ込んでいく場面とか、
婚姻の祝いの場面のセットなんか、本当にそっくりです。
なんですが、例えば前者の例をとると、
コプリーの演出だとネモリーノの衣装が周りの村人と区別のつきやすい色になっているので、
彼がアディーナにじわじわとにじり寄って、アディーナが振り向くと”きゃっ!”と言いたくなるような至近距離に
いつの間にか近づいていく様子が観客からもわかりやすく、
ネモリーノ役の歌手に演技力があるとすごく面白い場面になるところが、
この演出ではネモリーノの衣装の色が汚すぎて村人役の合唱の人たちと区別することが非常に難しいので、
そこの面白さが激減です。
トップの写真を見て頂くと、これですぐにポレンザーニを判別することがいかに難しいかが実感できると思います。
なので、今回の演出は思った程コプリーの演出から変わっていなくて、
旧演出から底抜けに面白い部分と楽しい部分を抜き取っただけ、というような感じになってしまっています。
これを幸ととるか不幸ととるか、は微妙なところで(もしシャーがボンディみたいな人だったら、もっと悪くなっていた可能性もあるので、、)、
ま、優れた演出まで偏執的に取替えなくてもいいんではないですか?というあたりの質問におちつくんだと思います。

クヴィエーチェンに話を戻すと、こういう役作り、演出面での中途半端ぶりが歌にも波及した感じで、
丁寧には歌っているし、ベル・カント特有の早いパッセージなんかは巧みに歌いこなしているし、技術があるのは伝わって来るのですが、
なんだかパンチが足りない、つまらない歌唱になってしまいました。



もう一人の怪しい人物、ドゥルカマーラ役を歌ったのは昨年の秋、カーネギー・ホールでの
オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨークが企画した『アドリアーナ・ルクヴルール』
(共演はカウフマン、ゲオルギュー、ラクヴェリシヴィリ。こちらも感想はアップしてません。すみません。)でのミショネ役が好評だったアンブロージョ・マエストリ。
私は2006/7年シーズンに彼をメトの『カヴ』で聴いているんですが、全然良い印象を持っていなくて、
『アドリアーナ・ルクヴルール』での彼も多くのオペラ・ファンが褒めているほどすごいとは特に思わなかったのですが、
今日の演奏を聴いてもやっぱり印象は変わりませんでした。
というか、むしろ、なぜメトの『カヴ』でぴんと来なかったか、その理由を思い出しました。
彼の声はオペラハウスでのプロジェクションが悪い。
不思議なんですよね、、、すごく大きい声が出ているっぽいのに、それがオペラハウスをフィルしない感じなんです。
声のサイズに関わらず、声をきちんとオペラハウスの中の空気の隅々にまで及ばせる能力、
(声が軽い、サイズが小さくてもこの能力の支障にはなりません。
デセイとかホンさんとか、全然声のサイズは大きくないですけど、オペラハウスのどこにいても問題なく声はプロジェクトしてます。)
これがなかったら劇場の一部の客とはコミュニケートできない、ってことじゃないですか?

登場してすぐに歌う"Udite, udite, o rustici 村の衆よ、お聞きなされ”では、
uを母音に含む音で、声を出しながらそれに重ねて”ひゅっ!”と口笛のような音を入れて歌う技を披露して喝采をさらっていましたが、
(私はこの箇所でこういう芸当をする歌手ははじめて聴きましたが、
オケにいる友人によると、以前にもメトでこのカヴァティーナで同じことをやったことがある歌手がいるそうです。
ちなみに名前は思い出せない、と言ってました。)
なんか、あんまり(役としての)存在に魅力が無い人なんですよね、、、
例えば、登場してすぐにがばっ!と馬車の扉(でもカーテンでも何でもいいですが)を開ける時の仕草とかそのタイミングで、
”うわー!とんでもないいかがわしいものが現れたぞー!”という雰囲気を出さなきゃいけないんですが、
なんか、そういう演技センスにも欠けてるし。
これまでこの役はあまり名の通っていない歌手で見たこともありますが、みんなもっと面白い演技と歌を披露してますよ。
うん、すごく簡単な表現になってしまうんですが、なんかあまり面白くない、これに尽きると思います。
むしろ、いつもはすごく真面目な風貌で、真面目にピットで演奏している姿しか印象にないオケのトランペット奏者が、
ドゥルカマーラの馬車の天井で飲んだくれのラッパ吹きを演じていて、
これが片手で面倒臭そうにラッパを吹いた後、がーっと酒の瓶をあおりながらむにゃむにゃと口を動かしたり、
ノリノリの演技を見せていて、彼の方が演技上手いじゃん、、、と思わせられる始末です。
普段からは考えられない同僚のはじけた姿に、ピットにいる金管のメンバーがお腹をかかえて笑って見ている様子も楽しかったです。



とこんな感じでしたので、一幕の後のインターミッションは”うーん、、、。”という感じだったのですが、
少しピックアップしたのはニ幕の”Una furtiva lagrima 人知れぬ涙”以降でしょうか。
このアリアは演目のハイライトであるばかりでなく、数々のガラやコンクールなどの場所で取り上げられる超人気アリアで、
メトでは、パヴァロッティのシグネチャー・ロール/アリアでした。
私がメトでパヴァロッティを生で聴いたのはたったニ回きりで、そのうちの一回が『愛の妙薬』でしたので、思い入れも多く、
彼のメトでの”人知れぬ涙”の音源・映像をここに貼っておきます。
ずっと上でふれてきたコプリーの演出によるもので、パヴァロッティが現れた時に客席から笑いが起こるのは、
それまでの様子と打って変わって、
すっかりスーツケースを持って村を出ねば、、とメランコリックな気分になっているネモリーノが面白く、また愛おしいからです。
こういう場面のおかしさも、彼がちょっと抜けている、という設定があるからこそ、ですね。



このパヴァロッティの存在感ある”人知れぬ涙”を生で聴いている観客がまだまだ死なずに今のオーディエンスの中に生きてますから、
MetTalksでゲルブ支配人がポレンザーニに投げた質問ももっともだし、だからこそ、ポレンザーニの答えに感銘を受けました。
結果から先に言うと、このMetTalksで彼が語っていた通りの歌が聴けたと思います。
頓珍漢なNYタイムズは、彼のアリアの歌唱について、”良く出来た歌ではあったが、心からの叫びが聞えるような歌ではなかった。”と評に出しましたが、
それに対して、オペラファンからは”良く出来た歌というのは心からの叫びが聞こえるような歌をいうんじゃないのか?
トマシーニは何を言っているのかわからん。”という意見が飛び出していましたが、
私はこの両方の意見に反対です。
まず、”良く出来た(well crafted)歌”というのは、”心からの叫びが聞えるような歌”とは同じではありません。
今までに、技術的には良く出来た歌なのになぜか心に響いてこない、という歌唱を聴かされたことが何度あったことでしょう。
だけど、ポレンザーニの歌については、トマシーニが言っているのとは全く逆のことを私は感じました。
彼の歌は正直、フレージングなどの技術面や音の強弱といったアーティスティック・センスにおいて、トップノッチでは決してないし、
声の美しさで他の誰の追随をも許さない、というタイプでもないし、
またキャリア後期のパヴァロッティのそれのような存在感のあるアリアでもありません。
正直、技術やアーティストリーだけのことを言ったら、もっと上手く歌われた”人知れぬ涙”はたくさんあります。
でも、細かい音の強弱とかフレージングを超えた部分で、彼のこの日の歌には何かネモリーノのその時の気持ちをまんま伝えようとする、
本当のアーデンシーがあって、それが彼の歌唱を魅力的なものにしていて、
観客からの大きな喝采はそのことに対してのものだったと思います。
ですから、トマシーニ風にどうしても言わなければならないとしたら、
”超ド級に良く出来た歌ではなかったかもしれないが、心からの叫び声は聞えた”という風になるんだと思います。
アリアだけ”ここだけがっちり歌うぞ!”という風に歌うのではなくて、
あくまで『愛の妙薬』という物語の流れの中にきちんとおさまった真摯な歌だったと思います。
私は”ここだけがっちり!”というタイプも、内容が凄ければそれはそれで好きですが、
こういうアリアへのアプローチもいいな、と思います。

私が個人的に一番興味深く感じたのは、終盤、アディーナが初めてネモリーノに
”わかったの、とうとうわかったの。私はあなたを愛してる!”と告白する場面のネトレプコの歌唱と表現です。
顔を下に向けて心の中でその思いを熟成させた後に、心おきなく”愛してる!”という言葉を放出するような感じの演技で、
そのドラマティックなこと(彼女の歌だけでなく、先に書いたように、この場面でのオケのサポートもそれはそれはドラマティックなものでした)は、
まるで『ノルマ』が最後に”それは私、、、”と歌う時と同様の、ものすごい秘密を告白しているような迫力を声と歌唱に込めてました。
村娘のはずのアディーナが一瞬ドルイドの巫女に見えたほどです。
その告白を終えた後にアディーナは初めてそれまでの自分の呪縛から解き放たれる、ということなんでしょうか。
ネトレプコが幸せ一杯の笑みを浮かべて、ネモリーノと固く抱き合い、
草むらに倒れ込む(ここで大人は”そんな場所でことに及びよって、、。”と、にやっとするわけですが、
さすがに私の隣の5歳児にはわからんだろうな。)、、、、という風になっています。
私自身はこの言葉にここまでの深い意味を込めた演技を見たこともないし、
込める必要もあまりないと思っていて(というのも、ここをあまりドラマティックに表現しすぎると、
上で書いたように、なんかここだけ違う作品が飛び込んで来たようになってしまうので)、
気がついたらその言葉が口をついて出てた、、という表現の方が基本的には好きですが、
ああ、こういう表現の仕方の可能性もあるんだな、という意味では興味深く、数回だけ鑑賞するならこういう解釈も面白いな、と思います。

最後には満場喝采のオーディエンス、ということで今年のオープニング・ナイトは無事にハッピームードの中終了。
中途半端な演出をなぎ倒したこの演目本来の力の勝利、ということですな。

Anna Netrebko (Adina)
Matthew Polenzani (Nemorino)
Mariusz Kwiecien (Sergeant Belcore)
Ambrogio Maestri (Doctor Dulcamara)
Anne-Carolyn Bird (Giannetta)
Conductor: Maurizio Benini
Production: Bartlet Sher
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Catherine Zuber
Lighting designer: Jennifer Tipton
Grand Tier Side Box 33 Front
ON

*** ドニゼッティ 愛の妙薬 Donizetti L'Elisir d'Amore ***

MetTalks: L'ELISIR D'AMORE

2012-09-18 | メト レクチャー・シリーズ
あまりにも失望させられる公演が多くて、しまいにはブログを書く気すら失せた2011-12年シーズンのメトでした。
というわけで、皆様、お久しぶりでございます。
それにしましても、話を戻しますと、『魔法の島』のような妙な代物を見せられたかと思うと、
『神々の黄昏』でのあのおぞましい演出、、、、特にimmolation scene(ブリュンヒルデの自己犠牲)は悪夢以外の何物でもありませんでした。
気分が盛り下がるのもいいところです。
しかし、半分頭がおかしい私であるので、それでも四月のトライベッカ映画祭での『ワーグナーの夢~メトロポリタン・オペラの挑戦』のプレミアに出かけてしまうのでした。
そして、そこでまた、いかにあのマシーン(リングで使用されたセット)が危険な物体であるか、
そのことを十分に事前にわかっていながら、
ゲルブ支配人がキャストやスタッフの安全や精神的な安心を犠牲にしてあのリングを無理やり舞台にのせたか、
その様子が克明に描かれているのを見て、映画館でわなわなしてしまった私です。
いや、むしろ、普通の感覚ならばこんなことは隠しておきたい恥ずかしい事実であるはずなのに、
それを堂々と映画で開陳してしまうその羞恥心の欠如ぶりがさすがだわ、、、。って、あれ?感心している場合じゃなーい!
2010/11年シーズンのオープニング・ナイトでの『ラインの黄金』での入城のシーンでのエラーや同シーズンの『ワルキューレ』での事故
(後者はあまりにに内容がやばすぎるからか、映画でも全くふれられておらず、あわよくば握りつぶしてやろうという魂胆のようですが、
この記事のコメント欄でその時のことを記録してあります。)も、全く予測可能だったことがこの映画で確認されたわけです。
念のために言っておきますが、何も失敗が起こってしまうことが恥ずかしいことではないのです。生の舞台だから、失敗くらいあります。
しかし、失敗、それも人の命に関わる種類の失敗が高い率で起こりうることが予想される時に、必要な判断を下せない、このことが”恥ずかしい”ことなのです。
私が支配人だったなら、あんなプロダクション、絶対に絶対に舞台にかけたりしなかったでしょう。
そんなことですので、映画を鑑賞した数日後にメトが当たり前のようにパトロンシップの更新依頼の電話をかけてきた時は、
”私は歌手やスタッフの安全を脅かす殺人マシーンのために寄付をしているんじゃない!別の支配人に交替する日まで、二度と寄付はせん!”と吠えておきました。
どうせ私の寄付金などは、あの馬鹿マシーンのための釘一本買って終り、くらいな額なわけですが、塵もつもれば山となる、
先シーズンのプロダクションについては私のように怒っている人が山ほどおり、小口パトロンを降りる人が続出、という話も耳にしました。
そのせいか、その後、夏中ほとんど毎日、携帯電話と自宅の電話番号両方にパトロン・デスクから説得&変心を試みようという電話があり、
会社の同僚から”今日もまたメトにストーキングされてますね。”と言われてしまう始末でしたが、もちろん私の決心は変わりません。

また2月の新(2012-13年)シーズンのスケジュール発表に伴い、オープニング・ナイトを飾る『愛の妙薬』新演出で、
バートレット・シャーが”ダークな『愛の妙薬』”とやらを目論んでいると聞いて、これまたげんなり、
さらに寄付をしない理由が増えたことは言うまでもありません。
一体『愛の妙薬』のどこをどうとったらダークな要素が見えるっていうんでしょう?
こういう、そもそも作品に存在しないものを無理矢理でっちあげてそこに意味をもたせようとする演出は、
作品に存在しているものを描ききれない演出と同じ位、もしくはそれ以上にたちが悪い。
私の知っている人の中には”ダークな妙薬?馬鹿じゃないの?”というリアクションの人がほとんどでしたので、
シーズン終了近くには、新シーズンまで顔を合わせなさそうなオペラ友達と、
”See you at the dark L'Elisir!(今度はダークな妙薬で会いましょう!)”と皮肉をこめつつお互いに挨拶して別れるのが慣例となりました。


(左よりベルコーレ役のマリウシュ・クヴィエーチェン、アディーナ役のアンナ・ネトレプコ、ネモリーノ役のマシュー・ポレンザーニ。
ドレス・リハーサルより。)

そして三ヶ月の時が流れ、いよいよその”ダークな妙薬”のオープニング・ナイトの日となったわけです。
この記事を書いているのはオープニング・ナイトの翌日で、公演の感想をすぐにでもあげたいのはやまやまなのですが、
オープニング・ナイトの一週間ほど前に、MetTalksのイベントで、
主役の二人(アンナ・ネトレプコとマシュー・ポレンザーニ)、指揮者のマウリツィオ・ベニーニ、そして演出家のバートレット・シャーを、
ゲルブ支配人がモデレーターとしてとりまとめつつインタビューする、という企画がありました。
公演の感想に大きな関係があるのみならず、事前に言及しておいた方が感想を書くにあたって便利に思える部分もありましたので、
まずはこちらのMetTalksの内容を簡単にまとめておきたいと思います。
仕事を強引に片付けたその足で駆けつけたイベントのため、頭が33回転位にしかまわっていなくて(いつもは45回転くらい?と思いたい。)、
ノートを持参するのを忘れてしまって全く覚書のメモもとっていませんので、話の順序脈絡をすっかり忘れてしまいました。
でも、大事なことだけはきちんと覚えていますので、今回は箇条書きで行きたいと思います。
ちなみに、(M:)の中はMadokakipが思わず心の中で発した突っ込みの言葉です。

** 演出家シャーが語る演出 **
今回の演出では『愛の妙薬』が完成した1830年代に時代を設定した。舞台はイタリアの村。
(注:作品の舞台は一般的にはバスク地方ということになっているのですが、版によってはイタリアの村となっているものもあり、
彼はそちらを元にしたのかもしれません。その点に関する詳しい説明は特にありませんでした。
またメトのプレイビルのあらすじにも舞台はイタリアという風に表記されています。)
自分の幅の行き過ぎた想像かもしれないが、当時のイタリアの時代背景にはオーストリアの侵攻があり、
作品の中にもイタリア的な部分とそれをちょっと冷ややかに見ているようなオーストリア的視線があるのではないかと思っている。
なので、その二面性を演出の中に出したいと思った。
(M: このあたりが”ダーク”な発想の根源か?
しかし、イタリアとオーストリアの二面性と言う言葉にまるめこまれそうになったが、何だかわかるようでよくわからないコンセプト、、。)

** ネトレプコが考えるアディーナ像 **
アディーナはしばしばちょっと意地悪で片意地な女性として歌い表現されることが多いが、それでは最後の場面と辻褄が合わない、と思う。
なので自分は、彼女はもともと温かくて優しい、もしかするとちょっとボーイッシュなところのある女性なのだけど、
何かが理由で自分がネモリーノのことを愛しているとは簡単に認めたくない、もしくは認めることが出来ない、
そう、彼女は彼女自身の中に解決しなければならない問題があって、この物語を通じてその殻を打ち破っていく、
そんな風な解釈で演じることにした。

** ポレンザーニが考えるネモリーノ像 **
ネモリーノに関しては、どれ位”おつむが弱い”風に彼を演じるか、そのバランスが見る側の興味の的の一つだと思うが、
この演出では特に”おつむを弱く”演じるつもりはない。
アディーナとは一緒に育って来た境遇のため、それまで近すぎて見えなかったこと、
互いに上手くコミュニケートできなかったり、認めることが出来なかった感情があるのだが、
それが一連の事件を通して無理矢理背中を押される形になる。
もしベルコーレやドゥルカマーラが村を訪れなければ、二人の距離は相変わらずずっと変わらないままだったんじゃないかな、と思う。

** ポレンザーニと”人知れぬ涙”**
(ゲルブ支配人の”人知れぬ涙”はメトでもこの役で評価が高かったパヴァロッティの歌唱を始め比較対象が多いし、
テノールのアリアの中でも最も有名で、人気のあるものの一つだが、それを歌うプレッシャーは?という質問に)
興味深いことについ最近母にも同じ質問をされたんだよ。”あのアリアを舞台で歌うのってどんな気持ち?って。
願わくば、、、舞台に立つ時には、一切そういった考えが心にない状態だったならいいな、って思う。
”人知れぬ涙”はアディーナの涙を見て彼女が自分のことを愛してくれていると知った彼が、これ以上はもう何も望まない、と歌うアリアだから、
そのままの彼の気持ちを自然に心を込めて、あの曲の中で歌われている言葉の中身だけを、
観客の皆さんにそのまま届けることが出来たら、と。
(M: すべての歌手がこういう風に思って歌ってくれたら、、、と思わせる実に素晴らしい答えです。
しかも、彼の語っている様子にも全くわざとらしいところがなく、彼が心からそのように思っているのが伝わって来ました。)

** ポレンザーニ、アディーナの涙に思う **
”人知れぬ涙”といえば、そういえば、このアリアでは彼女の涙を見た、っていうことになっているのに、
僕が今までに見た舞台で、アディーナが実際に涙を浮かべている様子を実際に見せる演出というのはほとんどなかったように思うんだ。
だけど、この演出ではアンナ(アディーナ)が実際に泣く場面がちゃんとあるんだよ。
それがこの演出の面白い点の一つかもしれない。

** 演出と音楽が対立した時、指揮者は、、**
(演出と自分の指揮しようとしている音楽とに食い違いが生じているように感じたことはありましたか?
またその場合、どのように対処しましたか?という支配人の質問にベニーニが答えて)
音楽の観点から言うと、この作品は喜劇としての側面から”楽しい、面白い作品”と捉えられることが多いが、
喜劇よりも以前に、この作品はまず何よりもラブ・ストーリーなのであって、
そのロマンティックな部分が常にオケの演奏の通奏低音として感じられるように演奏したいと思っている。
彼(シャー)の表現しようとしている二面性と僕の考えるコメディとロマンスの二層構造はアイディア的に似通っているので、
特に彼の演出と食い違う、という場面はあまりなかったように思いますね。

** ポレンザーニ、シャーに”ダーク過ぎ!”の駄目出しを食らわせる! **
ただ演出の中でここは少しダーク過ぎて作品にそぐわない、と思う時は、僕(ポレンザーニ)らは
バート(・シャー)にそれを伝えてモディファイしていったよ。
(M: おおっ!!キャストの中に正気な人がいて私は安心しました!!!)

** 更にネトレプコからも駄目だしを食らうシャー **
バートはちょっと頭で考え過ぎなのよね。
(M: 、、、、逆にあなたは考えなさ過ぎだけどね。)

** そこでシャーの逆襲 **
ここで、彼らの攻撃に反逆すべく、いかに喜劇の演出が難しく(彼の弁によると悲劇よりもよっぽど難しい)、
微妙なバランスの元に立っているか、そのバランスをダークさとコミカルさの中で取ろうとしたので慎重になってしまうのだ、と自己防衛するシャー。
彼の説明がこれまた長くて、一瞬気が遠くなるMadokakip。確かにネトレプコの”頭で考え過ぎ”の言は正しいかもしれない。
しかし、途中どうなるのだろう、と怖くなった時もあったが、最終的にはすごく良いものに仕上がったと思う、
とちょっとした自信を最後にのぞかせるシャー。

** ネトレプコ、ポレンザーニ、ベニーニが語るベル・カントとベル・カントにおける演技 **
ベル・カントとは美しい音色、美しいフレージングで構成される歌唱であり、
それはいわゆるベル・カントのレパートリーを超えて、どんな作品においても(たとえばフランスものでも)応用できるものである。(三人同意見)
(ゲルブ支配人のネトレプコに対して、舞台に立っている時、歌と演技ではどちらにウェイトを置いているか?という質問に、当たり前でしょ、という風に)
それはもちろん歌です。

** きっちりしてるかと思えば割りとテキトー?なベニーニ **
ベルカントでいかにスコアに書かれているままにきちんと歌い、演奏することが大事かを滔々と語るベニーニ。
ところがネトレプコに”でも今回の公演ではカットもあるのよ。四重唱(注:一幕のラストのことを指していると思われる)とか。”と暴露されると、
”ベル・カントの時代には、曲のつぎはぎ、追加、省略なんてのは普通に行われていたからね。今回程度のカット、私は全然気になりません。”
ま、確かにそれも一理ありますが、きっちりしてそうに見えて、実は結構適当なベニーニ。

** 指揮者ベニーニからメト・オケへの愛のメッセージ **

この作品には絶対的にイタリア的なサウンドが必要であり、オケは、それをきちんと出せるタイプと、からっきし駄目なタイプ、
この二つに一つしかない。メトのオケには間違いなくそのサウンドがある。
メトのオケは本当に素晴らしく、イタリアのスタイルにアメリカのプロフェッショナリズムが合体した感じ。
このオケの素晴らしさは、、、例えば、”ここはこういう風に演奏したいな。”と心に念じただけで、
オケがすっとその通りに演奏してくれる、そういう素晴らしさをもったオケなんです!
ここで指揮が出来るなら、私は喜んでいつでも他の仕事を放り出してでも帰って来ます。
(M: あーた、そんなこと言っちゃっていいんですか?知りませんよ、他の劇場に聞きつけられても、、。)

** 畳みかけるようにバートレット・シャーの証言 **
そうですね。例えば僕が演出上の指示を出しますよね。すると、それに合わせてオケの演奏まですっと変わるんですよ。
あれは本当に聴いていて、僕のような音楽の素人ですらすごいな、と思います。

** マシュー・ポレンザーニ、メト・オケについて支配人を詰める! **
本当にそうなんですよ、ピーター!
(とやおらゲルブ支配人の方を向く。このピーター!という呼びかけのなかに、
”あなたはそのありがたさをわかっていない!”という痛切な訴えかけのニュアンスを聴き取ったのはMadokakipだけではあるまい。
ポレンザーニの勢いに度肝を抜かれて一言も発せないゲルブ支配人に畳みかけるポレンザーニ!!)
僕は幸運にも世界各地の劇場で歌う機会が与えられていて、色んな劇場のオケについて、
いやー、良い演奏だなー、こういう演奏の上で歌えて幸せだなーと思って歌うんだけれど、
メトに帰って来て彼らの演奏を聞くと、”ああ、他の劇場のオケとはいる場所が一段違う、。”と思うんだよ。
そりゃ、ヨハン・シュトラウスの作品ならウィーン・フィルには他のどのオケも適わないし、
ヴェルディの作品についてのスカラ座にも同じことが言えると思う。
だけど、これほどどんなレパートリーでも、そして僕が”どんな”とここで言うのは本当に”どんな”で、
ブリテンから始まってワーグナー、ヴェルディ、ベルク、モーツァルト、他にも色々あるけど、
その広いレパートリーで、これほどまで高い結果をコンスタントに出せるオケは他にどこにもないんだよ!!
(彼の迫力に押され、”それもこれもマエストロ・レヴァインの長年に渡る努力のおかげですね。”としか返事することが出来ない支配人。
ポレンザーニの心のこもった力説に、たくさんの思い出多いオペラの舞台と常に共にあったオケへの愛情を表現しようと
オーディエンスから大きな拍手が巻き起こる。)

** ネトレプコのコメントに固まるオーディエンス **
(と、会場がメト・オケへの溢れる愛で盛り上がっているところ、そろそろオケの話は飽きたわ、といわんばかりに
ネトレプコがポレンザーニに向かって)
”だから、メトロポリタンって名前なんじゃないの。”
冷や水を打ったように静まるオーディエンス。
何十年もメトに通いつめてるローカル・ファンで埋められた客席から、
”こんなひよっ子に、メトの歴史とそれを支えて来たオケの何がわかるのか。”とか、
”そういう発言は自分の歌の完成度がメトのオケの演奏のそれと同じ位高くなるまで待つんだな。”
という妖波のようなものがオーディトリアムの中に一瞬渦巻いてました。
地雷を踏みましたね、ネトレプコ。
我々ローカルのファンはゲルブ支配人と違って圧倒的な才能とスキルと努力が伴わない歌手以外は
誰のことも特別扱いなんてしませんから気をつけてくださいね。

** オペラ歌手になる決心をしたきっかけ~ネトレプコ編 **
18歳の時に見た、ヴラディミール・ガルージンが出演していた『オテロ』(マリインスキーの公演)。
自分の望むものすべてがそこにあった。

** オペラ歌手になる決心をしたきっかけ~ポレンザーニ編 **
まずオペラ歌手に絶対なりたくて、それが成功しなかった場合、代替として学校の音楽の先生を希望する、、というパターンは割りとあるが、
自分はそれとは全く逆で、合唱の先生なり何なり、学校で音楽を教えたい!という情熱がものすごく強くて、
まあオペラ歌手はなれればいいな、位の程度だったんだよ。
(M: ポレンザーニが学校の音楽の先生やってるところを想像したらはまり過ぎてて笑い出しそうになってしまった。)

** ネトレプコの今後の予定 **
はっきりとしたことはまだ言えないが、『トロヴァトーレ』や『ローエングリン』などについてはスコアを見ている。

** ポレンザーニの今後の予定 **
僕の場合は、来シーズンにカラフを歌います、、ということはまずありませんので(笑)、
(M: 彼の声は明らかに彼が下であげているようなレパートリーに向いた声なので、
正反対のロブストな声質を求められるカラフを歌っている姿を想像すると、これもまたなかなかに突飛で笑えるものがある。)
今まで通り、ベル・カントのレパートリー、フランスもの、モーツァルトの作品といったあたりを歌って行くつもりです。

、、、ということで、これまでは口を開いてもまっとうなことしか言わない、あまり面白くない人、
というイメージが強かったポレンザーニが今日はなぜだか一人結構暴走していて楽しませて頂きました。
またキャストのシャーへの駄目だしのおかげで、吹聴されていたほどにはダークでない演出に仕上がったような印象も持ちます。
オープニング・ナイトがどのような結果になるか、実に楽しみです。

(トップの写真はアディーナ役のアンナ・ネトレプコとドゥルカマーラ役のアンブロージョ・マエストリ。『愛の妙薬』の宣伝用スチール。)

MetTalks: L'Elisir d'Amore

Anna Netrebko
Matthew Polenzani
Maurizio Benini
Bartlett Sher
Moderator: Peter Gelb

Metropolitan Opera House

*** MetTalks L'Elisir d'Amore 愛の妙薬 ***

MESSA DA REQUIEM: ORCHESTRA E CORO DEL TEATRO ALLA SCALA (Mon, Aug 27, 2012)

2012-08-27 | 演奏会・リサイタル
先シーズン、ブログの更新が滞っていた間、本当、色んなことがありまして、、と、
書き始めた途端、遠い目になってしまったMadokakipです。

今これを書いているのは10月末のことで、ミラノにヴェルレクを聴きに行ってからおよそ2ヶ月も経ってしまっています。
本当なら今頃は10/23に鑑賞したフィラデルフィア管弦楽団の同演目の演奏について筆を走らせている頃で、
ミラノのヴェルレクはブログ休止期間に放置した他公演のどさくさにまぎれて、
自分だけの大切な思い出としてこっそりと胸にしまっておこうと思っていたのですが、
まあ、フィラ管のヴェルレクを聴いて、これはやはりスカラの演奏のことを書いておかねば、、ということになりました。
ここで、フィラ管のヴェルレクに対して”気の毒なことになったぞ、、。”と思った方がいたらば、
実に良い勘をしてらっしゃいますね、とだけ今は申しあげておきます。

さて、冒頭の遠い目が何を見ていたかをお話しましょう。
メトの先シーズンの終盤のハイライト!と私が最も楽しみにしていたのは
4月から5月にかけて予定されていた『ワルキューレ』の三公演のうちニ公演でカウフマンがジークムントを歌うことでした。
実はこれらの『ワルキューレ』はリング・サイクルの一部だったものですから、本来はリングまるまるお買い上げの人しか鑑賞できないはずだったんですが、
私は”マシーン”なルパージの演出を死ぬほど嫌っていて、この演出でリング・サイクルを鑑賞するぐらいなら舌を噛み切って死ぬわ!と思っている位で、
いくらカウフマンといえどもそこを譲るつもりは全くないんですけれども、
しかし、ありがたいことに、同様に感じている人間が私だけではなかったようで、
メトのリング・サイクルでこんなにチケットの売れ足が鈍かったことはこれまでなかったんじゃないか?と思うほどで、
これはいずれ絶対にシングルのチケットが出て来るはず!とずーっと機会を伺ってました。
案の定、本公演を間近に控えたある日、個別のチケットが発売される旨の連絡があり、二公演ともチケットをゲット。
両方ともグランド・ティアで一公演約500ドルx2=1000ドル也。
ところが、見なけりゃいいのに何の因果か、その後もまめにメトのサイトをチェックしていると、
片方の公演でディレクター・ボックスの座席が追加発売されて出て来たのを見つけてしまいました。
ディレクター・ボックスというのはグランド・ティアーで一番舞台に近いボックスにあたり、
ほとんど舞台を横から見るような形になるために少し音の聴こえ方がアンバランスになってしまう問題があるのですが、
一方で、歌手の演技表情までばっちり見えるうえに指揮者やオケの様子も俯瞰できるので、すごく面白い座席で私は好きなんです。
一公演は真正面の一般的に良席と分類される座席で鑑賞し、もう一公演でカウフマンとオケをアップで拝む。
なんてブリリアントなアイディア!ということで、追加でディレクター・ボックス席を購入。300ドルの更なる出費。
カウフマンが登場するなら、不要になったグランド・ティアのチケットに満額を払って引き取ってもいい!という人がいるかもしれないし、
そうでなくとも、多少ディスカウントすれば100%買い手が見つかるはず、、、と思っていたわけです。

ところが!!!
カウフマンはリハーサルのためにNY入りしながらも、結局体調を崩してしまって、
これらの二つの公演と、間に予定されていたプエルト・リコでのリサイタルもろともキャンセルになってしまいました。
当然カウフマンの出演しなくなった『ワルキューレ』をフル・プライスで買い上げてくれるような奇特な人物はおらず、
結局まるごとボックス・オフィスに寄付返しです。
おかげでファン・アーケン/ウェストブロック夫妻の”夫婦の危機”を目撃したり(一回目の公演)(9/29の『トロヴァトーレ』の感想のコメント欄を参照)、
代役のスケルトンが意外と良かったりして(二回目の公演)、それなりに楽しませてもらったのですが、
カウフマンが次にメトに登場するのは年(2013年)も明けてからの『パルシファル』になるので、
その気も遠くなりそうな先のことに、すっかりシーズン終了後、ブルー入っていたMadokakipなのでした。

しかし、そんなMadokakipを天もあわれに感じたのでしょう。
ある日のこと、会社で仕事中に”8月の末にスカラでカウフマンがヴェルレクを歌う。”という情報をもらいました。
早速会社のPCでスカラのサイトをチェックすると、確かにまぎれもないカウフマンの名前が見えます。
そして、一緒に歌うのは、アニヤ・ハルテロス、エリーナ・ガランチャ、ルネ・パペ。指揮はダニエル・バレンボイム。
ヴェルレクをこの顔ぶれで、しかも、スカラのオケと合唱で聴けるだと?!
やおら、同僚の方を振り向いて叫んでしまいました。
”私、8月の末にお休みを頂いてもよろしいでしょうか?ミラノに行かなければならなくなりましたので!!”


(ソプラノ:アニヤ・ハルテロス)

その後間もなく、メトの2011/12年シーズンを総括する!というテーマで、いつものヘッズ友達とディナーを計画したのですが、
ひとしきり今のメトの(言い換えればゲルブ支配人の)演出の趣味の悪さをくさして盛り上がった後、
メトが夏休みの間、どのようなオペラ活動が入っているかをお互いに開陳することになりました。
”キャラモアの後は例年通りバイロイトだ。”
”僕は夏休みの間中ヨーロッパに滞在して、比較的小さな音楽祭を回る予定。”
お金持ってるセミ・リタイヤ組は優雅よのう、、、と羨望の眼差しを向ける私に、”で、Madokakipは?”と話を振られましたので、
待ってました!とばかりに、”スカラで、ヨナスのヴェルレクを聴きますのです。”と言うと、
カウフマンが登場する保証はどこにあるのか? 君はあれほど『ワルキューレ』で散財して痛い目に合ったばかりではないか、
そこにミラノの旅行代を足したら一体いくらになるんだ? 
わしもパヴァロッティのキャリア末期には、彼がメトに登場すると言っても決してチケットを事前に買うことはしなかったぞ!と、すごい勢いで畳み掛けられました。
え?カウフマンってもうキャリアの末期なの、、、、?? ちょっとそれは言い過ぎよ、あんた達!!

いや、確かに彼らの言うことは一理あります。いつぞやのスカラの『トスカ』もどえらいことになりかけましたからね。
なので、今回は私もその時の経験を生かして、仮にカウフマンが出演しなくても行って良かった、と思えるかどうか?ここについてはよーく考えました。
そして、このソリスト達なら、そして何よりもこの作品をスカラのオケと合唱で、スカラの劇場で、ミラノの聴衆と聴けるなら、
行った価値はあったと思えるはず、、そう考えたからチケットも手配したんです。
だし、スカラのサイトによると、続けて同じメンバーでルツェルン、ザルツブルクにも引越し公演を行う予定らしいんだけれども、
最初のミラノでの演奏会にはDVD化のための撮影クルーも入るみたいだし、ソリストのキャンセルの可能性は非常に少ないと思う、、
ってなことを力説するMadokakipに、”かわいそうに、、ヨナス会いたさに頭がおかしくなったんだな。”と終いには憐れみの表情を浮かべつつ、
”これでも食べなさい、、。”と私の大好物プロフィットロールを薦めてくれる我がヘッズ友なのでした。


(メゾ・ソプラノ:エリーナ・ガランチャ)

前回ミラノに行った時は足を延ばしたベルガモの美しさにすっかり魅了されましたので、そちらも再訪したかったのですが、
今回はヴェルレク鑑賞前に、パヴィア(修道院を見て回った後にはバスが無くなっていて焦りまくり!)、マッジョーレ湖の島巡り、
マリア・カラスも温泉療養に出かけたというシルミオーネなど、ミラノやベルガモとはまた違う顔を持った土地を見れて本当に満足でした。
いや、まじで、このままヴェルレク聴けなくても、来てよかった、、と思う位。
日ごろまみれたNYの垢をこれらの場所で落とし(イタリアの皆様、すみませんねー。)、
おいしいものを食べまくったせいで(道理でオープニング・ナイトのドレスも入らないわけだ、、)、
いつものメトに駆け込む時の般若顔とは我ながら全く別人とも思えるリラックス・モードで足を踏み入れたスカラ座です。
今回は張り切るあまり、やや端には寄っていますが平土間の一列目のかぶりつき席で、
舞台にぎっしり並んだオケのメンバーの最前列の方のおみ足が目の前にばばーん!と聳えていて、これ以上オケに近寄ることは絶対に不可能、
考えてみたら、メト・オケでもこんなに側で聴いたことないわよ、私、、という位の至近距離です。
そして、確かに事前に通知されていた通り、いくつかのカメラの姿も舞台上に、ボックスに、ちらほらと見えます。

チケットを取る時はあまり深く考えてなかったのですが、良く考えたらラッキーなことに、一般的な立ち位置から言って、
真ん中の指揮台をはさんでこちら側が男声陣、向こう側が女性陣(舞台上手からバス、テノール、指揮者、メゾ、ソプラノの順)のはずで、
ってことは、私のいる座席からはカウフマンが良く見えるはず、、、ああ、生きてて良かった

ソリスト達と指揮者のバレンボイムが舞台上に姿を見せ、その通りの順に着席し、女声陣がすっと顔をあげて中空の一点を見つめると、
やがて、バレンボイムの指揮棒に導かれてRequiem(永遠の安息を与え給え、主憐れみ給え)の旋律が現れました。
やや!!!こ、これは!!!!
スカラのオケは鉄壁の(全員が全く同じタイミングで同じことをやるという意味での)アンサンブル集団ではないと思うし、
こうやって至近距離で聴いていると、同じセクション同士で機械のようにぴったりと一寸違わぬタイミングで弾いている・吹いているわけではないことに気づきます。
しかし、奏でられる音には、楽器の種類に関わらず、奏者全員が同じ内容の表現をしようとしているのが伝わって来るような猛烈な一体感があって、
その結果、機械のような揃い方をしていない!なんて些細なことはどうでもいいと思えて来るし、
むしろタイミングが完璧には揃っていないことが、そんなレベルとは違うところでの一体感を強調する結果にもなっていて、一種の味に思えるほどです。
奏者全員が同じ内容を、同じ感情を込めて表現している、というのは口で言うのはたやすいですが、これはすごいことです。
なぜなら、『レクイエム』という作品が、どういう作品なのか、何を伝えんとしているのか、ということを、全員が理解している、ということなのですから!!
また、これを言ってしまったら元も子もないというか、ならアメリカのオケは多分永遠にここにはたどり着けないだろうな、、という、
私のようにNYでの音楽鑑賞が中心になっている身としては悲しい結論に落ち着いてしまうのかもしれませんが、楽器の音色が本当違う、、、
特に低弦楽器の深みのある響きとキンキラすぎない金管。
しかも、肝心な点は、彼らの演奏にはヴェルレクを演奏するにはこの音が一番なんだ!という強烈な説得力が宿っていることで、
実際、アメリカのオケのパワフルな金管に慣れている耳には一瞬あれ?と思うところもあるのですが、
聴きすすめていくうちに、スカラの音色の方がやっぱり作品にふさわしいな、、と思えてくるのです。



タイミングも込みでの完成度と言ったら合唱です。いやー、これはもう本当にすごい!!
いくら彼らがプロだと言っても、これだけの人数が歌ってここまで言葉のタイミングやニュアンスが統一出来るというのは信じられないです。
Dies Irae(怒りの日)の、
Quantus tremor est futurus, すべてをおごそかにただすために
Quando Judex est venturus, 審判者が来給う時
Cuncta stricte discussurus. 人々のおそれはいかばかりであろうか
のところでの、言葉がもぞもぞっと地下から這い上がって来て姿を現すような言葉そのものに”動き”を感じる表現の仕方なんか素晴らしいですし、
その後のTuba mirum(くすしきラッパの音)で全オケの上でomnesと歌うところも絶叫調めいたところが皆無で、怖いくらい音の響きに崩れがないんですが、
これはオケにも言えるかもしれない。
Dies IraeからTuba mirumの冒頭にかけては、ピッツバーグの演奏なんか、
奏者があんまりどんぱちやるもので、心臓の弱いお年寄りだったら椅子から飛び上がってそれこそ昇天しかねないような演奏でしたが、
スカラの演奏だってもちろんかなりの音量が出ているには違いないんですけど、決して我を忘れて演奏している感じはしなくて、
常に良い意味でのコントロールが効いていて、びっくりして椅子から飛び上がらされるというよりは、
竜巻みたいなものに、ごーっ!!と床から根こそぎ持って行かれるような、そういう感じです。
そうそう、まさにここで歌われる
Tuba mirum spargens sonum この世の墓の上に
Per sepulchra regionum  不思議な光を伝えるラッパが
Coget omnes ante thronum  全人類を王座の前に集めるであろう
という言葉と音楽が、体の回りを渦巻いてまさに私を根こそぎスカラの椅子ごとその王座の前とやらに吹き飛ばさんとしている、というような。

とにかく一事が万事その調子なものですから、Sanctus(聖なるかな)での合唱のきらきらとした輝きに天国を見、
Libera Me(我を許したまえ)での畳みかける波のようなオケの演奏にどきどきし、演奏が終わった時には、
まぎれもないヴェルディのレクイエムを聴いた!という実感がありました。

私はバレンボイムの指揮がいつもいつも素晴らしい、と感じるわけではないし(というよりも、私の感覚に合わない、といった方が語弊が少ないか?)、
また私はこのヴェルレクという作品には並々ならぬ思い入れがあるのと、演奏の仕方に非常にはっきりとした好みがあるので、
オケや合唱のサウンド自体は楽しめるだろうとは思っていましたが、それ以上の期待を持っていたわけではなかったのですけれども、
見事に良い方に裏切られました。

まず、この作品で絶対に外してはならない点は二つあって、それは、
1)レクイエムというフォーマットと、それにしてはオペラティックな側面も備えているこの作品で、この二つのバランスをどのようにとっていくか?
2)音楽のまとまり・流れと区切れを大事にする
この二点です。

この作品はオペラの演目ではなくて、あくまで『レクイエム』なので、
オペラ作品の時のようなやり方、つまり、普段の喋り言葉の延長のような形で感情表現を込めた歌唱方法をとると非常に下品になるし、
それはオケの演奏についても同じことが言えて、闇雲に感情を爆発させるのではなくて、底にどっしりとした碇が降りているような、そういう演奏をしなければならないと思います。
今回、バレンボイムが賢明だったのは、彼がスカラのオケが指揮者にごたごた言われなくてもこのバランス感覚をきちんと身につけていることを十二分に理解し、
彼らが自発的に演奏するのを助ける、それ以外のいらないことはほとんど(ま、一箇所、むむむ、、と思わせるわざとらしい箇所があったのはご愛敬ですけれども、、)
何もしなかった、その点に尽きると思います。
だから、演奏が良かったのはオケと合唱の力だと言えるのですが、特別なことは何もしないというのも一つの指揮のあり方であるとすれば、
今回のバレンボイムの指揮は素晴らしい指揮だったと思います。
ずっと前に、一度、ムーティが率いるスカラの『レクイエム』を生で聴いたことがありますが、
オケと合唱の演奏内容に感銘を受けた、という意味では今回の方が上だったかも、、とも思います。

ま、バレンボイムが何もしていない、というのが言い過ぎだとしたら、間違いなく彼のクレジットとしておきたいのは、
この作品の、一つの長いまとまったフレーズとして演奏すべきライン、
また、曲と曲の間のつなぎ方(体裁的にはいくつかの曲にわかれているが、これは全曲を通した一つの大きな作品であるので、
交響曲の楽章と同じような取り扱いの仕方をしてはいけない。
こんなこと、当たり前じゃん!と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、その当たり前のことが出来ていない演奏が存在するんです!!この世には。)、
それから音が休止して次の音に入るまでの音のない”間”も、これまたこの作品で大切な一個の音である
(Tuba mirumで合唱の後に、バスのMors stupebit et naturaが入ってくるタイミングの大切さなど)、など、
こういったところで、私が”あなた、やっちまいましたね、ここ!!”と残念に思ったり、違和感を感じるような部分が一切なかった点です。


(バス:ルネ・パペ)

歌手について。
まず、ソプラノのハルテロス。
彼女は本当に変な癖のないきちんとしたソプラノ声で、音程やテクニックも確かで安心して聴いていられますし、
(Offertorioのラストの高音もすごく綺麗に入ってました。)
もともと彼女が持っているノーブルな雰囲気がこの作品にも良く合致していて、良い人選だったと思います。
ただ、さっきの、レクイエムというフォーマットとオペラティックな作品の性質のバランス、という点でいうと、
私の好みからいうと、彼女の歌はもう少しオペラティックな方に寄っても良いのかな、、と感じます。
この作品で私が感じたいものを基準とすると、歌がちょっと冷たい感じがするかな、、、。
もしかすると、DVDの収録があるということで、多少安全運転に走ったところもあったのかもしれません。
例えば先述のピッツバーグでのミードなんか、最後のLibera meの押し寄せるような感情を非常に上手く表現していて、
大変エモーショナルな歌唱だったんですけれども、そういった意味でのエモーションがほんとに少しですが、欠けていたのが残念でした。
一つには、彼女の声は少しドライに寄った声質で、
ミードのようなスティーリーなピンを使ってあそこのオーケストレーションをサーフすることが出来なくて、
少し埋没してしまって聴こえるのにも原因があったかもしれません。
しかし、歌が丁寧かつ上手な人であることは間違いないです。

メゾのガランチャ。
考えてみれば、彼女に赤ちゃんが生まれてから生で歌声を聴くのは今回が初めて。
私が覚えている限りでは、それほど声の性質にドラマティックな変化が生まれたわけではなく、割と以前のまま、な印象を受けました。
(その点、ソプラノのネトレプコとか、同じメゾならメトの『テンペスト』に出演するイザベル・レナードなんかの方が、
産休後に戻って来た時に、あ、少し声が変わったな、とより強く思いました。)
ただし、今回、彼女は声を振り絞る時に、体を前屈姿勢にしてそこから声を出すという動作が時々見られました。
以前はこういう癖はなかったように思うんですけれど、私が単に気づかなかっただけなのかな、、
まあ、オペラの全幕ものの場合は演技がくっついているのでそういうことはしてられないので気づきにくいとは思うのですが、
でも、2010年のタッカー・ガラの時だって、そんなことしてなかったように記憶しているんですが、、、。
これはあまり良くない癖なんじゃないかと思うんですよね、、、実際、彼女がこれをやる時、音がきちんと前に飛んでないように感じましたし、、。
彼女のスレンダーなメゾ声と歌唱のスタイルは、あまり”イタ”らしくない部分もありましたが、
レクイエムvsオペラのバランスの面では一番上手く行っていたのが彼女かな、と思います。
まあ、しかし、ガランチャも歌が丁寧でかつ上手な人であることは間違いないです。


(指揮のバレンボイムとカウフマン。ただし、写真は今回の演奏会のものではなく、ドイツで撮影されたもの。)

バスのパペ。
パペは面白いですね。すごく真面目に歌う時があるかと思えば、突然大はじけする時があって。先シーズンの『ファウスト』でもそうでしたが。
さすがに『レクイエム』に関しては、彼はフォーマット重視型、つまり、ハルテロスと同じタイプだろう、とにらんでいたのですが、
これがどっこい、今日のソリスト四人の中で、一番オペラティックな歌を繰り広げていたのが彼だったと思います。
あまりに思い入れたっぷりに言葉を発していた箇所(Mors, mors, morsのところとか、、)や突然爆発の大声!ってな箇所があったので、
これも私の感覚を基準にしての話ですが、”そこはもうちょっとトーン・ダウンしても良いのでは、、。”と思ったほど。
でも、やっぱり、なんだかんだ言って、パペも歌が丁寧で、かつ上手!!
、、、とパペについての感想はそれだけ?と気づかれた方、実に鋭いです!!!
そう、私は今、パペに猛烈に怒っているので、意図的に感想も短く、です。
なぜならば、演奏会開始までは、平土間一列目のこの位置からなら、遮るものは何も無い!状態でカウフマンを観察できるじゃないの!と超ワクワクモードだったのに、
演奏が始まってみれば、テノールが絡んでいる時間の1/3ほどに渡って、カウフマンの顔が良く見えない、、、。
それはなぜならば、私が鑑賞している角度からだと、パペが手に持っているスコアがカウフマンの顔にばっちりバッティングしてるから。
すんでのところで、パペに”あなた、ちょっと、ちゃんと暗譜してきなさいよ!!”と叫んでしまうところでした。
(ま、全員、楽譜持ちでの参加でしたが、、。)

で、最後に残った、そのカウフマンなんですが。
こんなこと言ったら、皆様にずっこけられるかもしれませんが、実は私、数年前にヤンソンスの指揮だったかな、、?
カウフマンがこのヴェルレクを歌ったのをネットラジオか何かで聴いていて(ソプラノはストヤノヴァでしたね、確か。)、
彼のヴェルレクはいまいちだな、、、と思ったことがあるんです。
先に言いました通り、私はヴェルレクに関しては、”かくあるべき!”という、強烈な理想像があって、
なんか、彼のヴェルレクはちょっとエキセントリックだなあ、、、と感じた覚えがあります。
どこがどうエキセントリックか?と聞かれると、全てを説明することは難しいのですが、
一つには彼の声質が今一つこのヴェルレクのテノール・パートには向いていないのではないか、ということと、
彼は純粋な歌唱のテクニックで聴かせるタイプのテノールというよりは、歌にドラマを載せるという点での才能に秀でた人だと私は思っているのですが、
先に書いたことと重複しますが、オペラ作品で、日常の(もちろん、オペラの内容の多くはかなりエクストリームな日常ではありますが)
言葉の延長のようなものにドラマを載せるのと、
この『レクイエム』のような、典礼という非常に形式化された言葉にドラマを載せるのとは、全く異質なものじゃないかな、という風に思っていて、
その辺があまり上手く行っていないような印象を持ったからなのです。

ところが、今回の演奏では、生で聴いているという環境の違いもあるし、またスカラのオケが非常にエクスプレッシブで、
歌唱と負けないくらい音にドラマを乗せてくるので、それとの相乗効果もあったのか、
はたまた実際に若干歌い方が変っている部分もあるのか、以前よりは違和感を感じない歌唱でした。
いや、以前よりは、というより、今回、全くといっていいほど違和感を感じなかったです。
このあたりはもしDVDが発売されるようなら、その時に再度、じっくり以前とどういう違いがあるのか・ないのか、
気をつけながら聴いてみたいと楽しみに思っている点です。
メトの『ワルキューレ』の降板と合わせて、かなり長期間休養をとっていたように聞いていたので、
声の方がどのようになっているだろう、と、その点をすごく心配していたのですが、
Requiemで”Kyrie~”と全パートに先駆けて歌い出す部分から、Ingemiscoのパワフルな歌唱まで、きちんと復調しているようで安心しました。
しかし、あれはOffertorio(主イエズス)だったか、Lux Aeterna(永遠の光を)だったか、まだ、これからテノールが歌わなければいけない曲の直前で、
カウフマンの左手がプルプルし出したのを私は見逃しませんでした。
どうしてプルプルしているのだろう、、?薬の発作(って、何の薬?って感じですが)かしら?と目を皿のようにして観察していると、どうやら録音もされている場で、女声陣の歌声に自分の声がかぶってはいけないし、また、ゴホゴホしている場面をカメラマンに抑えられてはやばいと思ったのか、
湧きあがってくる咳を懸命に抑えようとして、半分涙目になっているのです。かわいそうなヨナス!!!
日本と違って湿度が低く、空気が乾きがちなNYのような場所にいると、私もたまに小さな塵みたいなものが気管の変なところに入って、
突然、猛烈な咳の発作に見舞われることがありますし、まあ、そのような単純な事態だったなら良いのですけれども、
こういう演奏会のような気が張っている場で、歌手が突然咳に見舞われるというのはあんまりあることではないようにも思いますので、
何か、まだ喉に問題や不安がある、その徴候でなければいいな、と思います。
この咳の発作の後、心理的なものもあるのか、若干、薄氷の上を歩くような、注意深い歌唱になってしまったのはかえすがえすも残念です。

歌唱に関しては、かように、きちんとした歌唱力を持った歌手が集って堅実に歌うとこうなる!という見本のようなパフォーマンスで、
良くも悪くも、型破りなところはありませんでしたが、しかし、その分、オケと合唱が型破りなレベルできちんとヴェルレクの演奏をしてくれたおかげで、
それはもう私にとっては至福の時間でした。

また、イタリア人歌手が1人もいないソリストのメンバーと彼らの歌唱について、色々思うところがあった地元のファンもいらっしゃるかもしれませんが、
少なくとも私の座席のまわりの観客の間には、”良い演奏を聴いた。”という充実した空気が溢れてました。

公演の前までは、このままヴェルレクがなくても満足してNYに帰れるなんて思ってましたが、とんでもない!!
スカラのオケと合唱のおかげで、すでに大満足だったミラノ旅行の思い出に、さらに忘れられないレイヤーが加わって、
今となっては、ヴェルレクがなくても、、なんて、どうして思えたのか?と自問したいくらい。
終演後にあまりに幸せだったものですから、気が大きくなって、またどか食いしちまいました。

翌日、ヴェローナで丸一日遊んで(これこそ、全然、時間が足りなかった、、、次回イタリアに旅行する時には絶対に再訪したい!)、
最後の夜は、ホテルの部屋にあるヴェルディのレリーフ(まじで、、)に見守れながら、
”絶対また来るぞ!”と誓いつつ、パッキングに燃えるMadokakipなのでした。

(トップの写真は同じメンバーでザルツブルクに移動して演奏を行った際のものと思われます。)


GIUSEPPE VERDI Messa da Requiem

Anja Harteros, soprano
Elīna Garanča, mezzo-soprano
Jonas Kaufmann, tenor
René Pape, bass

Conductor: Daniel Barenboim
Orchestra e Coro del Teatro alla Scala

Platea Fila A
Teatro alla Scala, Milan


*** ヴェルディ レクイエム Verdi Requiem ***

AIDA (Sat Mtn, Mar 3, 2012)

2012-03-03 | メトロポリタン・オペラ
私の友人が先日メト・デビュー(歌う方ではなくて鑑賞する方の、ですが。)を果たしました。
お付き合いしている彼と、遠方からいらっしゃるそのご家族も一緒に鑑賞!ということで、
慎重にみなさんで吟味された結果、同時期に上演しているいくつかの演目のなかから、
定番演目としての面目躍如、『アイーダ』の初日に白羽の矢が立ちました。

私はこのブログでも何度も開陳している通り、ドローラ・ザジックのアムネリスがずっと大・大・大好きだったのですが、
さすがに彼女の声が衰えて来た昨今、ふと気づけば、メトの『アイーダ』を聴きたくなる理由がほんとなくなった。
アイーダ、ラダメス、アムネリス、どの役をとっても、”この人が歌うんなら聴きに行きたい!”と思える歌手がいない。
それとも、世界のどこかには存在するのに、たまたまメトが彼らをひっぱって来れないだけなのか、、?

今シーズンのメインのキャストは、ウルマナのアイーダ、マルセロ・アルヴァレスとジョルダーニのラダメス、ブライスのアムネリス。
ブライスのアムネリスは今年がメトでのロール・デビューのはずですのである程度興味がそそられましたが、
ウルマナとアルヴァレスは歌が上手くて安定感もあるので、
公演が”なんじゃこりゃー!?”というような事態になることは決してないですが、
私の感覚からすると、役に比して彼らの歌唱のスタイルも声もコンパクト過ぎてあまり面白みがないんです。
彼らは決して自分の方を役に合わせるのでなく、役を自分の持ち味にあわせようとするので、歌に妥協があって、
よって、アルヴァレスの声や歌唱からは、型破りな馬鹿(ラダメス)を感じることができない。

一方、アルヴァレスのように頭を使って無理をしないで歌うという芸当をせず、
自分の声に合わない重い役を、思いのままに、ばしばし歌い続けて来た結果、
声に取り返しのつかないダメージを起こしているジョルダーニは、
パーソナリティ的にはまさに型破りな馬鹿を地で行ってますが、あんなよれよれ声で歌われるラダメスを聴きたい人がいるんでしょうか?
しかも、最近の彼の歌唱は本当に危なっかしくて、聴いているこっちがひやひやします。
つまり、彼の場合はアルヴァレスからさらに一歩進んで、”なんじゃこりゃー?!”な公演にしてしまう可能性すら秘めているのです。

私の友達&Co.が鑑賞した初日はアルヴァレスがラダメスなので、最悪の事態は避けられたとはいえますが、
それでもこんな今のメトの『アイーダ』で、楽しんでもらえるのかしら、、と、ちょっぴりドキドキしてしまいました。
しかし、二階建てになっている舞台が下に向かって移動した向こうにまばゆいばかりの金ぴかのセットが見えるわ、
馬が舞台に登場するわ、バレエはあるわ、と、すっかり凱旋の場面の豪華さにめくらまされたか、それなりに楽しまれたようなので一安心したわけですが、
その友人によると、ウルマナが風邪をおして歌います、というアナウンスが公演の開始前にあったそうで、彼女の歌唱の不調は割り引いて鑑賞したみたいです。

さて、私はというと、ブライスのアムネリスは聴いておきたいので、一公演だけ鑑賞しよう、、、と、
キャストに目を通していたところ、”ややっ!!!!!!”
2/23の公演のラダメス役にリッカルド・マッシという知らないテノールがキャスティングされているではありませんか!
しかもメト・デビュー。こちらは正真正銘の歌う方のメト・デビュー。
こういう場合、賭けが大外れしてとんでもないものを聴かされることもありますが、
オペラヘッドたるもの、隠れた逸材を発見する可能性が1%でもあれば、それを逃してはならないのです!!!
詳しいことは2/23の公演の記事があげられればそちらに譲りたいと思いますが、
マッシの歌はまだまだ荒削りで、フレージングや音の処理にかなり未熟なところがあり、
ここはこうだったら、あそこはああだったら、と思うところもまだたくさんありますが、
一方で、魅力的な部分も持っていて(ラダメスあたりの役に合った響き、高音域での音色の素直さ、
また、四幕最後のVolano al raggio~の部分の処理の仕方はかなり印象に残りました。
フル・ブラストで鳴らすような緊迫感と勢いで、しかし、音量自体は絞って歌うという、そのバランスの上手さと音色としての美しさ、
それをサポートしているテクニックはなかなかのものがあり、正しい指導を得れば、まだこれから伸びる能力を持った人なのではないかと思いました。)
問題は今のところ、そういった優れたものと”ええ??”と思うような稚拙な歌唱が混在している点で、
一口で言うと、きらっと光る良いものが上手くかみ合う前の時点、という感じでしょうか。
ネットでの情報で、確認をとったわけではありませんが、マッシはスカラの研修所の出身で、
同じ研修所出身の”アニタ・ラク、ラク、、、”こと、アニタ・ラクヴェリシヴィリの彼なんだそうです。
あ、そうそう、”清きアイーダ”の後に、口を開けたまま観客の拍手を味わう表情は、
パヴァロッティみたいに顔の縦横の比率が1:1に近い人がやると決まりますが、
顔の長いマッシのような人がやるとすごく白痴っぽくなるので止めた方がいいですね。

その日(2/23)もウルマナは風邪です、というアナウンスがあったんですが、
意外なことに、その日、私が最も失望したのはブライスのアムネリスで、
ブライスが今一つだとすると、その後の『アイーダ』の公演を観に行く理由は全くなくなったな、、と思っていて、
週末の土曜のマチネはラジオ放送があるけれど、それも聴かなくてもいいや、、わん達とゆっくりしようっとと思い始めていました。
そのすぐ後の2/28の公演にはいよいよウルマナが出演不可になって、ソンドラ(・ラドヴァノフスキー)姐さんが突如代役に入ることになり、
彼女がメトでアイーダを歌うのはこれが初めてなので、彼女を支持するヘッズたちの間ではちょっとしたフィーバーになりました。
また、実際に歌唱も割りと評判が良かったみたいなんですが、
ソンドラ姐さんは慌てなくてもいずれメトでアイーダを歌うことになるだろう、と私はずっと思っているので、その時を待つことにしました。
さらに、その次の3/3が件のラジオ放送があるマチネの日なんですが、もし、ウルマナがまたキャンセルになったら、
多分ソンドラ姐さんがまたカバーで出演するんだろうから、そうなったらわん達とラジオを聴くことにしよう、、と。
しかし!二日後に土曜日を控えた木曜、大爆弾が炸裂しました。
土曜のマチネ、ウルマナ、キャンセル。代役、ラトニア・ムーア。しかも、ムーアはこれがメト・デビュー!!

ムーアの名前は以前オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨークが企画したプッチーニの『エドガー』にキャスティングされていたので聞いたことはありますが、
その公演は鑑賞することができなかったので、生の歌声はまだ私は聴いたことがありません。
ブログのこれまでの記事からも、また上のマッシの件からもわかる通り、私は有望な若手の歌手の歌を聴くことにかけては、
もしかすると既にキャリアが確立した歌手たちに対する以上の、並々ならぬ情熱と興味を持っているので、
今週末はわん達とゆっくりする!と決めていたのに、ものすごく心が乱れて来ました。
そして、彼女が歌うこの『エドガー』からのアリアを聴いてしまって陥落しました。



行かなければならない!!!!メトに!!!!

しかし!!!!!メトのサイトに行って涙目になりました。
チケットが完売してる、、、
大体、元々『アイーダ』は人気演目で、この不景気な、他の演目ならオペラハウスの半分がガラガラになっているご時勢にも
(いや、一言言わせてもらえば、他の演目がそんなことになっているのは、
ゲルブ支配人のまずい演目スケジューリングやチケット代の設定など、他にも理由はあるんですが。)満員御礼に出来る数少ない演目の一つなのです。
その上に土曜、そしてHDやラジオ放送がある日というのは、さらにチケットのセールスが良くなってしまう。
完全に出遅れました、、、Madokakip。
黒点(チケットが売れている座席が黒点、売れてないのが白点)で埋め尽くされたシーティング・チャートを呆然と眺めているうちに、
ウルマナ、ラドヴァノフスキー、ムーアの区別なんて一切つかないはずであろうオペラに疎い旅行者が
この完売になっている黒点座席のどこかに少なからず混じっているはず、、と思うと、こみ上げてくる怒りを抑え切れなくなってきました。
オペラハウスの入り口で待ち伏せしてチケットを奪い取ってやりたい。

しかし、そのチャートの下に、思わぬ一文発見。
”スタンディング・ルーム(SR)のチケットの購入の仕方について。”
おお!!!!そうだ!!!!SRがあるんじゃないのー!!!!!!!
いやー、SRなんて、何年ぶりかな?
『ルチア』か『蝶々夫人』が最後だったと思うのだけれど、3時間近く立ちっぱなしというのはきつくなってきたわー、と、
己の体力の低下を自覚してからはちょっと足が遠のいていたのですが、こうなったら選択の余地はありません。
それから、もう一つ、SRから遠のいていた理由は、当日の朝に発売開始で、しかも代金が安いので、
人気演目・公演の時は熾烈な戦いがヘッズとバックパッカー/貧乏ツアリストの間で繰り広げられるからで、
もう歳なんでしょうか?そういうのも段々きつくなって来て、出来るだけストレス・フリーにオペラを観たいと思うようになってしまい、、。
しかし、今回は話が別。発売は朝の10時。絶対に寝過ごさないよう、金曜はものすごく早く就寝してしまいました。

時は土曜、朝10時。電話番号の最後の一桁が10:00ぴったりに重なるよう発信。
つながった。ほっ。
しかし、延々と『ドン・ジョヴァンニ』のアドバタイズメントの待ち受け音楽が鳴り続け、10分以上が経過。
ああ。もう何回ドン・ジョの序曲の始りの和音を聴いたかしら?もう今度という今度は駄目かもしれない、、、
これまで数々の無理を可能にして来た私のヘッドの幸運の星もこれまでか、、と思った頃、10:12に係りの人が電話の向こうに登場。
”今日のマチネの平土間のSRまだありますか?”(*SRは現在、平土間と最上階の二ヶ所にある。)
”何枚でしょう?”
”一枚。”
”あります。そしてこれが最後の一枚よ。あなた、ラッキーね!”
ヘッド人生で大事なモットー。求めよ、さらば与えられん!!!!!

というわけで、やって来ました。スタンディング・ルーム。
何度かスタンディングを経験しているのに、不思議なことに全然記憶が吹き飛んでいましたが、平土間のSRって、二列あるんですね。
私のお立ち場所はステージ・ライト(舞台上手寄り)のブロックの中央一列目。
すぐ上のパーテールの階が張り出している=オーバーハングに隠されて、舞台上方が見えないですが、
前に視界を遮るものが何もないので、舞台そのものはすごく良く見えます。また、音も良く通る。
以前から書いている通り、音に関しては各階の後方はそれぞれのセクションの音が上手くブレンドしてすごく聴きやすいです。



まず、やっぱり何と言ってもムーアのことを真っ先に書かなければなりませんね。
正直言うと、一幕~ニ幕はちょっと期待外れだな、と思いました。
チエカさんのサイトで、ミードよりもすごいものを持っている!と言っていた人がいたので、私の期待値がものすごく高い、ということもあったと思いますが。

最初に出てきた声は、普通アイーダを歌うソプラノの声質よりもずっと軽いふわっとした声で、
ばりばりとこの役を歌うソプラノに比べると、どこかたおやかさがあって繊細で、すごく新鮮だし、音の響きも悪くないです。
ただ、上の音源からも多少うかがえるのですが、彼女は若干高音のピッチのコントロールに苦労するときがあるみたいで、
今日も一幕の、アイーダ、ラダメス、アムネリスが腹の探りあいをする場面で、一つつまずいた後、連鎖的に音を外した場面があって、
こんな最初からそんなミス出して大丈夫?と思いましたが、むしろ、最初だから、なんでしょう。相当緊張していたんだと思います。
もう一つ、ピッチのコントロール以上に気になったのは、一つのフレーズに対して送っているブレスが足りない点で、
ものすごく沢山の箇所で、不自然な場所/言葉の途中でブレスを入れていて、その結果として言葉がブツ切れに聞えてしまっていました。
これも、多分、一部には緊張していることが原因になっているんだと思いますが、
オペラというのは言葉にも大きなウェイトがあるアートフォームだし、
また、音楽として見た時にも、ヴェルディが書いている美しいフレーズをちょん切るような結果になってしまっていて、私はすごく気になりました。
”O patria mia おお、我が故郷”でもこのブレスの問題は例外ではなかったんですが、
それ以上にたくさんの美点があり(声のたおやかな美しさ、それから息が続く範囲でのフレージングの扱い方には天然のとても良いセンスが感じられます)、
また、彼女はすごく良い舞台プレゼンスを持っていて、もしかすると観客を味方につける力はミードよりも上かもしれないな、と思います。
写真で見ると結構ムーアもごっつい体格をしているように見えるのですが、
舞台の上での体の動きが非常に機敏だし、演技も流れるようで自然で、もちろん、ものすごい演技派というのでは無く、
むしろ、どちらかというとオールド・スクールな演技の仕方をする人ですが、決して大根ではありません。
O patria miaでの彼女の繊細で、どんな音域でも無理に押し出している感じがしない美しい響きに観客は魅了されて大喝采になったんですが、
これで彼女の緊張が完全に解けたんだと思います。
ここ以降、私の耳には、彼女の歌唱がものすごく変化したように聴こえました。
一、二幕と、綺麗な声ではあるのですが、完全には芯がないような感じで、
そのせいで、アイーダの隠した激しい感情を表現する際に必要なぴーんとした響き、これが出ていなかった。
例えば、一幕登場してすぐアイーダが歌う言葉の最後、per me, per voi pavento、
ここには本当に心にかかっているのはラダメスのことであるのを隠している、それがばれるのではないか、という落ち着かないナーバスな気持ちをのせなければいけないのですが、
結構暢気なpaventoであれ?という感じでした。
その後も時々そういう、ここにはぴりりと激しさを入れて欲しいと思うところがちょっとたおやか過ぎたりして、
なんでかな?と思っていたのですが、多分、O patria miaが終わるまで、やはり結構緊張していて声が完全には乗っていなかっのだと思います。
しかし、O patria mia終了以降、これは本当に見事でした。
特にラダメスを陥落させるところの表現は素晴らしかったです。
またここの部分以降の、芯のがっちりした声を聴くと、たおやか~激昂まで、スペクトラムの広い感情を声のサウンドの違いで表現するポテンシャルを持った人で、
確かに評判通りのロウ・タレント(raw talent 技術など後で付けられるものよりも才能そのもの)を持っている歌手だと思います。
ただ、今の段階ではアイーダを完全に歌いこなせるにはまだ若干声が若いかな、という風に思いますし、
また、もしかすると、アイーダあたりの役をがしがしと歌うほどにはロブストな声ではない可能性もあるかもしれない、、、と思います。
例えば、インターミッション中にマフィアな指揮者のお友達の女性が、来シーズンメトで『アイーダ』を歌うことになっている、
リュドミラ・モナスティルスカが”ジ・アイーダ”(アイーダそのもの)なのよ!!だから絶対に見逃さないように!!と、
教えてくださって、先ほどYouTubeで彼女がROHで歌ったアイーダを拝聴しましたが、
彼女の方がムーアよりずっとずっとロブストな、アイーダを歌っても声がこたえなさそうなサウンドをしていると思います。
それを言うと、今日の公演で巫女役を歌ったロリ・ギルボーは以前レヴァインのワークショップで非常に印象に残っているソプラノで、
2009-10年シーズンのナショナル・カウンシルのファイナリストでしたが、
いよいよメトに来たわね、、という感慨があります。(今日の巫女役も良く歌えていました。)
彼女なんかも、ムーアより全然ロブストな声をしてるな、と思います。

何を言いたいかというと、ムーアは見た目がアイーダにぴったりなので(背が少し低くて、舞台で見るとなかなか可愛らしいのです)、
今回のブレークがもとで、色々な劇場でこの役にあまりにも頻繁にタイプ・キャストされて、声を酷使するようなことにならないようにして欲しいな、ということです。
彼女はまだたった32歳ですし、声が徐々に成熟してくるのを待って、無理のないペースで歌って欲しいし、
今は合わない、と思ったら、先送りにしても全然構わないと思います。
彼女には本当にたくさんの美質と優れた才能があるので、それが活かせるレパートリーを選んで行って欲しいな、と思います。


(上の写真はソンドラ姐さんが代役に入った2/28の公演から、ジョルダーニとソンドラ姐さん。)

ブライスのアムネリスが軽く失望だった、ということは先に書きました。
こちらのヘッド・シーンでは、彼女が優れた才能と声を持った歌手であることに異論を唱える人は、私を含めて、ほとんどいないんですが、
彼女のアムネリスを聴くと、まだ完成していないというか、学習中、という感じがします。
フレージングの細かい点、言葉を音にどのようにはめるか、といったところで、彼女に細かいガイダンスをしてあげる存在が必要なのではないかな、と思います。
かつてはレヴァインがそのようなことをやっていたわけですが、多分、彼と同じようなレベルでそれを出来る人が今はいないということなんでしょう、、。
私はDVDになっているメトの『アイーダ』でのザジックのアムネリスを何度も聴き、
さらに生でも彼女のアムネリスを死ぬほど聴き倒していますが、今回のランでのブライスの歌唱と比べると、
ザジックがいかにしっかりとしたストラクチャーをもってアムネリス役を歌っていたか、ということを改めて強く感じました。
また、それは言葉の中の母音をどれ位インパクトを持ってどれ位の長さで歌うか
(音符がベースにあるのでもちろんものすごく細かいレベルでの話ですが)という細かい点から始まって、
フレーズの中でどの言葉に重みを置くか、など、すべてが思い付きではなく、はっきりとした意志をもって歌われていました。
その点で、ブライスはそういったストラクチャーに割りと無頓着で、ザジックと比べてしまうと、
ほとんど行き当たりばったりで歌っているような印象を受けるほどです。
また、不思議なのは、ブライスは大きな声を出そうとしなくても、どんな声でも十分にオペラハウスに聴こえるような声なのに、
この音は大きく出したい!という音がフレーズの中にあるみたいで、その前のいくつかの音符を犠牲にしてしまう点です。
なので、彼女のそのお目当ての音はものすごく大きく聴こえるのだけれど、その周辺の音が突然小さくなったり、ということがあって、
音に凸凹が多く、極端に言うと、歯抜けの櫛のように聴こえて、フレーズ全体としての美しさが損なわれてしまっています。
彼女には素晴らしいアムネリスを歌う資質はあるのですから、それを上手くアセンブルしてくれるスタッフか指揮者が必要だと思います。

エジプト王役を歌ったジョーダン・ビシュはリンデマン・ヤング・アーティスト・プログラムの出身の若手ですが、
丁寧な歌い振りで、声にも適度な重さと王様らしい雰囲気もあって、なかなか良かったと思います。

一方で、実はこの作品の中で大事な役を担っているランフィス役のジェームズ・老モリスがへなちょこでがっくり来ました。
モリスはそろそろまじめに引退を考えた方がいいと思います。
ドラマが盛り上がっているところで、かくーんと来るような声を出すのは、共演する歌手も観客も失望させる行為なのではないかと、、。
私のオペラ人生で記憶に残る公演ベスト10に必ず入るであろうあの『ワルキューレ』の思い出のためにも、これ以上そういう失望を重ねたくないです。

同じことはジョルダーニにも言えます。
ムーアやオケの演奏の力に引っ張られて何とか持ちこたえてましたが、それで良いんですか?ラダメス歌うテノールがそれで。
ジョルダーニは異様なまでに強力なファン・ベースをここNYに持っていて、私の隣に立っていたおじさんに、
”ジョルダーニにはそろそろ引退して欲しい。”と訴えたら、
”そんなに駄目かい?僕たちは彼の良かった時期の歌唱をたくさん聴いているから、冷静に見れないのかな。”というので、
”はい、そうだと思います。”と言っておきました。
声の衰えがひどすぎて、ここでまともに歌がああだった、こうだった、と書きたくなるような内容ですらない、という感じです。
ここまで声の衰えという制限がある中で、どうやって思い通りに一つのフレーズを、パート全体を歌うことが出来るというんでしょう?
なぜだか高音だけは外さずに一応歌って見せるのですが、私達は人間が吠えてるのを聴くためにオペラハウスに行くのではなく、
声で役を解釈するのを聴きに行くわけですから、それが出来なくなったら、引退を考える時期なんじゃないかな、と思います。

最後に、実はムーアよりも、私が今日の公演で一番素晴らしいと感じたのは、マルコ・アルミリアート率いるオケです。
本当に久しぶりにこういう『アイーダ』を聴きました。
完全に物語とオケの奏でる音楽が一体化していて、気がつけば、オケが演奏しているのを忘れてた、、、というような。
オケの音がすごく表現豊かで、きちんと物語を底で支えていて、、、。
テンポも全く不自然なところがなく、自然で流れるようで素晴らしかったです。
ガッティのような、”ここに俺がいるぜ。”みたいな自己主張の強い、わざとらしい演奏、私は大っ嫌いですから。
しかも、ぶっつけ本番で舞台に立っているムーアを支えながらこういう演奏をするんですからね。
(幾度となく、彼女に合わせてオケがすっと演奏を調整した箇所が聴かれました。)


Latonia Moore replacing Violeta Urmana (Aida)
Stephanie Blythe (Amneris)
Marcello Giordani (Radamès)
Lado Ataneli (Amonasro)
James Morris (Ramfis)
Jordan Bisch (The King)
Lori Guilbeau (A Priestess)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Sonja Frisell
Set design: Gianni Quaranta
Costume design: Dada Saligeri
Lighting design: Gil Wechsler
Choreography: Alexei Ratmansky
Orch SR
SB (Act II) & ON (Act III & IV)

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***

THE ENCHANTED ISLAND (Sat, Dec 31, 2011)

2011-12-31 | メトロポリタン・オペラ
この記事は昨年12/31の公演に関するものですが、新しい記事であることがわかりやすいよう、しばらくトップに置いた後、本来の日付に移動します。

注:『魔法の島』で演奏される・歌われる曲の元歌リストをこちらにupしました。

メトの現支配人ピーター・ゲルブは、それまでの旧態然としたオペラ上演のあり方を変え、
新しい観客層を引き入れるために自分は努力をしている、ってな趣旨のことをこれまでさんざんぶち上げて来ました。

その中にHD上映の試みがあったり、ディスカウント・チケットの配布があったり、
起用する歌手や演出家、上演する演目の選択の変化、もしくは(本人が言うところの)工夫があり、
この中には成功しているものもそうでないものもあるし、
私が個人的に賛同するものも、しないものもあります。

2011年の大晦日である今日、プレミエを迎える『The Enchanted Island』。
(これまで当ブログでは『魅惑の島』と訳していましたが、
松竹のサイトによると日本でのHD上映は『エンチャンテッド・アイランド~魔法の島』という邦題になっているようですので、
今後『魔法の島』に統一したいと思います。
ちなみにライブ・ビューイングというのはなんだか不自然な英語で、かつ、音の響きとしても全く魅力が無く、
このネーミングを考え付いた人間(松竹の職員?)を縛り首にしたい位ですので、
HD上映に関してはこのブログでは絶対にライブ・ビューイングという間抜けた名前で呼ぶことはなく、
必ずライブ・イン・HDもしくは略して単にHDという呼称を使うことにしています。)

昨年二月のシーズン演目発表時から開陳されていた通り、この『魔法の島』はパスティーシュ・オペラ(イタリア語ではパスティッチョ・オペラ)といわれるもので、
非常に簡単に言うと、複数の作曲家による、複数の作品から、アリアを主とする部分部分をちょろまかして繋ぎ合せて一つの作品にしたもの、
つまり言ってみればオムニバス/コンピレーション的オペラ作品なんですが、
パスティーシュ・オペラ自体は勿論ゲルブ支配人の発明でも何でもなく、18世紀をピークに昔から採用されていた作品・上演スタイルです。



ヨーロッパではすでにスタンダード・レパートリーとして現代のオペラハウスのレパートリーに定着した感すらあるバロック作品ですが、
それがメトでは諸般の事情によりそれほど取り上げられて来なかったのは先日の『ロデリンダ』の感想にも書いた通りです。

ところで、スリムな女性が来て似合うデザインの服を太った女性が、
”でも、今、これが流行っているんだも~ん!”と、ぱっつんぱっつん状態で着用しているのを見て、
”服がかわいそう、、。”と思ったことはありませんか?
また逆に、グラマーな女性が来て似合う服を貧弱な体の女性が着用しているのを見るのも、やっぱり非常に痛い感じで、
これまた”かわいそうな服、、。”と思ったことは、、?
その服自体が素敵であればあるほど、その”かわいそうじゃないの!!”という思いが強くなる、ということ、ありませんか?
私はあります。
素敵な服だな、、と思った時、それにすぐ手をつけることだけがその服を本当に愛でていることにはならなくて、
自分の体型を振り返って、”これは本当に似合う方に来て頂こう。”と手を引くことの方がより良い愛で方である場合もある筈です。



私がメトでバロックを演奏する必要は特にない、と思うのはこれと全く同じ理由からなのですが、
トレンドだから、と、自分の体型も省みずに似合いもしない服を着たがる人というのが必ずいて、
具体的に言うと、今シーズン、『ロデリンダ』の上演だけでは飽き足らず、もう一丁バロック作品をメトで打ってやろうと目論むゲルブ支配人とかですな。

ゲルブ支配人の、もっとバロック上演を!という野望と、”旧態然としたオペラ上演のあり方を変え”る野望を合体させるにあたって、
誰が入れ知恵したのか、その隙間に紛れ込んで来たのがパスティーシュ・オペラのフォーマットの採用というアイディアです。
”他のバロック作品を上演したいけれど、『ロデリンダ』みたいな系列の作品をまんま上演するのは退屈だし、
パスティーシュ・オペラにして、もっとスピーディーな展開の物語にすればどう?”みたいな。
(最近の、特に若年層の人たちに見られるアテンション・スパンの短さはほんと嘆かわしい!と私は思っているのですが、
その代表といってもよいのが、全くもって若くはなく、いい歳こいたおっさんであるところのゲルブ支配人でしょう。
これは私の思い込み・思い過ごしなどではなく、OONYの『アフリカの女』の公演が良い証拠です。)



そしてさらにゲルブ支配人は考える。
”深い話はやめてね。頭が混乱するし、大晦日からそんな複雑なこと考えたくないから。”
”それからイタリア語とかフランス語?あれもまた眠くなって来る原因の一つだよね。うん、この際言葉も英語にしちゃおう。”
”指揮者は誰がいいか?んー、なんか良くわかんないから、バロックの一人者ってことになってる人なら誰でもいいんじゃない?
クリスティーとかいいんじゃない?え?去年彼は『コジ』でオケと険悪なムードになってたの忘れたんですか?って、、?
いいよ。だって僕がオケで演奏するわけじゃないしー。”
”そうそう、それから大事なこと、忘れてた。デブは起用しないこと!全員、スリムであることが最低条件。
ルックスの良い歌手には歌う箇所を多くして。え?デ・ニースにそこまで歌いこなせる力があるかどうか不安?
ノー問題、ノー問題!どうせメトの客はうすら馬鹿で歌唱力のことなんてわかりっこないんだから。
っていうか、僕が一番わかってないんだけど!んー、じゃ、大御所歌手を一人混ぜて、目をくらませるってのはどう?”



かくして、ジェレミー・サムズの手によって、
シェイクスピアの『テンペスト』と『真夏の夜の夢』のストーリーが合体し、
既存のバロックのアリアにのって、英語で歌われるオペラ、『魔法の島』が完成したわけですが、
(選曲には指揮者のクリスティのアドバイスも入っているそうです。)
まあ、それにしても、なんとお粗末な作品でしょうかね、これは。
この作品の上演が何とか持っているとすれば、それはアリアそのものの力と、歌手たちの訓練の賜物による歌唱力、この二つでしょう。
新しいオーディエンスのために、新しいオペラを!とぶちあげられて出来た作品が、
結局のところ、ずっと引継がれて来たオペラ作品とその歌唱の伝統と、
それを守って鍛錬を重ねて来た歌手たちに救われているというのは、本当に皮肉なんですが、
この二つを抜いたら、私が幼かった頃、デパートの屋上で観たキッズ・ショーのデジャ・ヴに感じそうな代物です。

今回の演出はマクダーモットで、セット・デザインや衣装も、『サティアグラハ』の演出に関わった時と同一メンバーが再起用されています。
このマクダーモット率いる演出チームはなかなか力のあるチームで、『サティアグラハ』での演出は大変素晴らしかったし、
今回も、時にバロック作品の上演であることは忘れてませんよ~というオーラを出しつつも、
さりげなくそれを現代風にアップデートし、適度なスペクタル、ファンタジー感を伴ったカラフルな演出、
それでいて決して下品に堕さず、非常にバランス能力に長けた演出チームだと感じます。
特に若者四人をのせた船が難破する場面の演出は巧みで
(文章で説明するのは非常に難しく、こればっかりはHD等で実際に見て頂くしかないと思いますが、
トラディショナルな手触りとリアルさのバランスがこれまた素晴らしいと思いました。)、今日の観客からは拍手も出ていました。
ただ、どんなに演出が頑張ったとしても、やはり元の作品があまりに馬鹿馬鹿しいと、埋め合わせるのにも限界があるというものです。

シェイクスピアの作品のプロットを二つ一緒にしても、それぞれの良さがそのまま保たれるわけではなく、
かえって、それぞれに元々在った良さまで崩壊してしまう、その見本のような事態になってしまっていて、
大体、新しくつけられた英語が、あのシェイクスピアの格調高い英語に叶うはずがないわけで、そんなことは誰もはなから期待していないわけですが、
それにしても、この小児を相手にしたような英詩には本当げんなりさせられます。



作品については延々ノンストップで文句を書けそうなのでこの位にして、パフォーマンスについて。

まず、この作品、誰が一番の主人公か?と言われると、明らかにこの人!と言える人はいないんですが、
(下のキャスト・リストも、通常は主役から書いて行くことにしているのですが、今回は登場順に近いリストになっています。)
断然登場時間が多く、主役の一人と言って間違いないのが、アリエル役のデ・ニースです。
彼女は、私の中では今、ちょっとネイサン・ガンに近い位置づけになっていて、
オペラハウスでのオペラの全幕公演より、ブロードウェイの舞台とかの方が合っているんじゃないかな、、と思います。
私はオペラにもミュージカルにも優れた歌手は存在しうると思っていますが、
一つ、違っている点は、オペラは優れた歌手である手前に、それぞれのレパートリーに応じて、
絶対にマスターしなければならないテクニックというものが存在している、ということではないかと考えます。
ミュージカルは、どんな風に歌っても、お客さんの心を動かせばそれで良し、という懐の大きさがありますが、オペラではそれはありえない。
デ・ニースのオペラ歌手としての問題点は、彼女は現在実際に舞台で歌っているレパートリーに限ってすら、
きちんと身に付いていないテクニックがあることが散見される点で、
良い部分もある彼女なんですが、それ以外の部分での技術の未熟さがそれを帳消しにしてしまっています。
特別な理由もないのに、なんだか見ているだけでこちらを疲れさせるタイプの人というのがいて、
私にとっては、まさしくデ・ニースがその一人なんですが、
このあちこちで失敗と混乱を巻き起こすアリエル役はそんな彼女の個性にぴったりな風に書かれているので
(こういうオリジナル・キャストのパーソナリティに合わせて役を書けるところが新作の初演の良いところかもしれません。)
もしかして、サムズも”この女、なんか疲れるよな、、。”と内心思ってるのかな?と、勘ぐってしまいました。



彼女に指令を出し、魔術も自由に操るプロスペロー役にはデイヴィッド・ダニエルズが配されていて、
作品の中でも最大の聴かせどころとなる部分を任されている責任重大な役ですが、
(しかも、フェルディナンド役の若手のカウンターテノール、コスタンゾが美しいアリアを歌った後のことなので、
カウンターテノール同士比較される部分もあり、プレッシャーも大きい。)
曲の美しさもありますが、ベテランらしく、コスタンゾよりも豊かな表現力を見せていたのはさすがです。
英語で”Forgive me, please forgive me"と歌い始められるこの部分の元歌は、ヘンデル『パルテーノペ』の”Chi'o parta"で、
この公演、私は正直に言って、バロックの曲を集めたものであるに関わらず、あまりバロックらしさを感じなかったのですが、
この"Chi'o parta"の部分は、唯一、それらしいものを感じられた数少ない場面の一つでした。



フェルディナンド役は、プロスペローが娘のミランダの婿として目をつけた男性で、
アリエルが彼を捕獲するのに失敗ばかりするものですから、オペラの終盤になってやっと登場する、、、というわけで、
他のどのメインの登場人物よりも登場時間は短いのですが、舞台に登場していきなりアリアを決めなければいけないわ、
しかも、ミランダの夫としてふさわしい雰囲気も出さなければならないわ、で、なかなかに難しい役です。
彼が歌うのもヘンデルの作品からで、『ゴールのアマディージ』の"Sussurrate, onde vezzose"。
『ロデリンダ』の記事およびコメント欄で、新旧のカウンターテノールの違いについて話題にあげ・あがりましたが、
コスタンゾは年齢が若いせいもあるでしょうが、響きが美しいだけでなくて力強く、彼も新世代型のカウンターテノールだな、、と感じます。
彼は2008-9年シーズンのナショナル・カウンシルの勝者で、グランド・ファイナルズの時の歌唱は私も聴かせて頂いて、
ポテンシャルのある若者だわ、、、と多いにエキサイトしましたが、あの時よりも一層歌が洗練されていて、この数年の努力の跡が伺われます。
その時の記事にも、”彼の歌は音が段々消えていく時の美しさとか、音と音の”間”がきちんと生きている点が長所だと思うのですが~”
と書いていますが、その美点は顕在で、
"Sussurrate, onde vezzose"の頭のSuの音の美しさとクレシェンドして行くときの太陽の煌きのような絶妙なボリューム・コントロールは息をのみました。
ダニエルズが"Chi'o parta”で見せたような味を聴かせるにはまだ少し時間がかかるかもしれませんが、これからに期待したいと思います。



決して少なくはない歌手陣の中で、”空気と戯れる”歌い方が出来ていたのはドミ様(ドミンゴ)とディドナートだけかもしれないな、と思います。
ドミンゴはネプチューン役での出演で、年齢を経てもなお衰えない舞台プレゼンスと声そのものの存在感は、
この役はやはりドミ様でないと、、と思わせるものがあります。
ドミ様は言うまでもなく、決してバロックの歌手ではありませんが、その一声出てきた途端、
”おおっ!!これがオペラだわ!!”と思わせる唯一無二の存在感は、
もうこういうものを持った歌手はドミ様以降この世に出てこないのだろうか、、と寂しくなるほどです。
もちろんお歳ですから、以前に比べると旋律が少し不安定気味に感じられたり、歌詞が頭に入りきっていらっしゃらないのか、
だいぶプロンプターの助けも借りていらっしゃいました。
でも、ゲルブ支配人の寄せ集め的アイディアの中で、唯一期待していた結果がきちんともたらされていたのはドミ様の起用ではなかったかと思います。
しかし、この作品が再演されることになったとして、ドミ様以外の誰がこの役を歌えるのかしら、、?という疑問は残ります。
ちなみにドミ様がお歌いになるのは確か既にご制覇されたレパートリーの一つ、『タメルラーノ』(これもヘンデルですね、、)の、
"Oh, per me lieto"です。



プロスペロー役に魔法にかけられて作品のほとんどを腰をかがめた汚らしい妖婆状態(上から四枚目の写真)で演じているのがシコラックス役のディドナート。
最後に魔法が解けて素敵な地に近い姿が見られるのは何よりです(こちらは下から三枚目の写真)。
先にも書いた通り、彼女の歌唱の良さというのは、空気と戯れるような響きを作り出す能力を持っている点で、
そういう意味でいうと、多分、生で聴かないと完全には良さが伝わらないタイプの歌手かもしれないな、と思います。
また、彼女のポジティブ・オーラ満開の個性は、あまりこういう怪しい役には向いていないかもな、、とも思いました。
私が実際に全幕で見たことのある役ではやはりロッシーニの喜劇系の役が良く合っていると思います。
ただ、彼女はバロックの歌唱でも定評がある人なので、こういうバロックもどきの公演ではなくて、
きちんとしたバロック作品の上演で機会を改めて聴きたいです。



母親のシコラックスが最後に美しい姿に戻るのだから、この人も地の姿が見れるのか、と思いきや、
なぜか、ホラー映画のようなメイクのままエンディングまで突っ走ってしまうのが、シコラックスの息子のキャリバン役のルカ・ピサローニ。
たった数ヶ月前の『ドン・ジョヴァンニ』のレポレッロ役で周知の通り、
なかなかのイケ面なのに、それを見せないなんて、これこそ宝の持ち腐れ、、、こんなことになるなら不細工な歌手を起用しとけばいいのに。
でも、ピサローニはレポレッロの時も思いましたが、演技がなかなかに上手ですね。
特にこの役は化け物メークのせいで顔の表情が非常に乏しくなってしまっているので、体を使って感情を表現しなければならないんですが、
演技のタイミングが非常に良いし、化け物ゆえの悲しみが、あの濃いメイクの下から立ち上がって来ているのはなかなかだと思いました。
声もしっかりとした響きをしているし、人によっては個性がない、と言われるのかもしれませんが、私は彼の素直な歌い方は結構好きです。
この作品で、バロックのレパートリーにはあまり向いてないな、と思いましたが、
もしかすると、声が熟して行ったら、今レパートリーの中心をなしているモーツァルトだけではなくて、
違ったレパートリーが広がるんではないかな、という可能性を感じます。

ミランダ役のオロペーザ、ヘレーナ役のクレア(彼女は2010-11年シーズンの『ドン・カルロ』のテバルド役でも端役ながらちょっとした注目を浴びていましたが、
リンデマン・ヤング・アーティスト・プログラムのレヴァインのお気に入りでもあり、かなり将来を嘱望されているように見受けます。)、
ハーミア役のデ・ショング、と、女性の若手陣は与えられた仕事をきっちりこなしていて好印象、
逆に若手男性陣のデメトリウス役のアップルビー、ライサンダー役のマドーレの二人はちょっと不甲斐ない感じでした。

クリスティーは指揮だけでなく、選曲でも貢献したらしいことは先に書いた通りですが、
こと指揮に関して言うと、彼はメトのオケから自分が取り出したい音を取り出せていないと思います。
バロックには重過ぎるいつものサウンドのまま。
短い期間で異質のオケから理想のサウンドを引き出すテクニックがないのか、オケのメンバーの心を摑めないのか、、、。
『ロデリンダ』のビケットの方がよほど彼の意図がきちんと感じられる、良い意味でいつものメト・オケと違うバロックらしい音を紡ぎ出せていたと思います。

それにしても、寄せ集めのアイディアでオペラの上演を成功させられると思ったら大間違い。
支配人による数々のテキトーな思い付きが、バロックをバロックたらしめ、美しい作品にしているそのベースを粉砕してしまった、
その様子を見ておくのも、一回くらいは悪くないと思いますが、二度はご免。

David Daniels (Prospero)
Danielle de Niese (Ariel)
Joyce DiDonato (Sycorax)
Luca Pisaroni (Caliban)
Lisette Oropesa (Miranda)
Layla Claire (Helena)
Elizabeth DeShong (Hermia)
Paul Appleby (Demetrius)
Elliot Madore (Lysander)
Placido Domingo (Neptune)
Anthony Roth Costanzo (Ferdinand)
Ashley Emerson, Monica Yunus, Philippe Castagner, Tyler Simpson (Quartet)

Conductor: William Christie
Production: Phelim McDermott
Associate director: Julian Crouch
Set design: Julian Crouch
Costume design: Kevin Pollard
Lighting design: Brian MacDevitt
Choreography: Graciela Daniele
Animation and projection design: 59 Productions

Devised and written by Jeremy Sams
Inspired by Shakespeare's The Tempest and A Midsummer Night's Dream
Music by George Frideric Handel, Antonio Vivaldi, Jean-Philippe Rameau, André Campra, Jean-Marie Leclair,
Henry Purcell, Jean-Féry Rebel, Giovanni Battista Ferrandini

Gr Tier Box 33 Front
NA

*** The Enchanted Island エンチャンテッド・アイランド 魔法の島 ***

マイナー・オペラのあらすじ 番外編 『魔法の島』で使用される音楽たち

2011-12-31 | マイナーなオペラのあらすじ
『魔法の島』はシェイクスピアの『テンペスト』と『真夏の夜の夢』のプロットに基づいており、
仮にこのニ作品を知らなくとも、幼児でも理解できる内容です。
むしろ、予習のためにはパスティーシュ・オペラとして、どのあたりの作品、アリアがピックアップされているか知りたい、
というニーズがあると思います。
以下がそれぞれの場面、曲の元歌リストです。


序曲:
George Frideric Handel: Alcina, HWV 34

第一幕:

1. "My Ariel" (Prospero, Ariel) – "Ah, if you would earn your freedom" (Prospero)
Antonio Vivaldi: Cessate, omai cessate, cantata, RV 684, "Ah, ch’infelice sempre"

2. "My master, generous master – I can conjure you fire" (Ariel)
Handel: Il trionfo del Tempo e del Disinganno, oratorio, HWV 46a, Part I, "Un pensiero nemico di pace"

3. "Then what I desire" (Prospero, Ariel)

4. "There are times when the dark side – Maybe soon, maybe now" (Sycorax, Caliban)
Handel: Teseo, HWV 9, Act V, Scene 1, "Morirò, ma vendicata"

5. "The blood of a dragon – Stolen by treachery" (Caliban)
Handel: La Resurrezione, oratorio, HWV 47, Part I, Scene 1, "O voi, dell’Erebo"

6. "Miranda! My Miranda!" (Prospero, Miranda) – "I have no words for this feeling" (Miranda)
Handel: Notte placida e cheta, cantata, HWV 142, "Che non si dà"

7. "My master’s books" – "Take salt and stones" (Ariel)
Based on Jean-Philippe Rameau: Les fêtes d’Hébé, Deuxième entrée: La Musique, Scene 7, "Aimez, aimez d’une ardeur mutuelle"

8. Quartet: "Days of pleasure, nights of love" (Helena, Hermia, Demetrius, Lysander)
Handel: Semele, HWV 58, Act I, Scene 4, "Endless pleasure, endless love"

9. The Storm (chorus)
André Campra: Idoménée, Act II, Scene 1, "O Dieux! O justes Dieux!"

10. "I’ve done as you commanded" (Ariel, Prospero)
Handel: La Resurrezione, oratorio, HWV 47, "Di rabbia indarno freme"

11. "Oh, Helena, my Helen – You would have loved this island" (Demetrius)
Handel: La Resurrezione, oratorio, HWV 47, Part I, Scene 2, "Così la tortorella"

12. "Would that it could last forever – Wonderful, wonderful" (Miranda, Demetrius)
Handel: Ariodante, HWV 33, Act I, Scene 5, "Prendi, prendi"

13. "Why am I living?" (Helena)
Handel: Teseo, HWV 9, Act II, Scene 1, "Dolce riposo")
"The gods of good and evil – At last everything is prepared" (Sycorax)
Jean-Marie Leclair: Scylla et Glaucus, Act IV, Scene 4, "Et toi, dont les embrasements… Noires divinités"

14. "Mother, why not? – Mother, my blood is freezing" (Caliban)
Vivaldi: Il Farnace, RV 711, Act II, Scene 5 & 6, "Gelido in ogni vena"

15. "Help me out of this nightmare" – Quintet: "Wonderful, wonderful" (Helena, Sycorax, Caliban, Miranda, Demetrius)
Handel: Ariodante, HWV 33, Act I, Scene 5, recitative preceding "Prendi, prendi"

16. "Welcome Ferdinand – Wonderful, wonderful," reprise (Prospero, Miranda, Demetrius)
"All I’ve done is try to help you" (Prospero)
Vivaldi: Longe mala, umbrae, terrores, motet, RV 629, "Longe mala, umbrae, terrores"

17. "Curse you, Neptune" (Lysander)
Vivaldi: Griselda, RV 718, Act III, Scene 6, "Dopo un’orrida procella"

18. "Your bride, sir? "(Ariel, Lysander, Demetrius, Miranda) – Trio: "Away, away! You loathsome wretch, away!" (Miranda, Demetrius, Lysander)
Handel: Susanna, oratorio, HWV 66, Part II, "Away, ye tempt me both in vain"

19. "Two castaways – Arise! Arise, great Neptune" (Ariel)
Attr. Henry Purcell: The Tempest, or, The Enchanted Island, Z. 631, Act II, no. 3, "Arise, ye subterranean winds"

20. "This is convolvulus" (Helena, Caliban) – "If the air should hum with noises" (Caliban)
Handel: Deidamia, HWV 42, Act II, Scene 4, "Nel riposo e nel contento"

21. "Neptune the Great" (Chorus)
Handel: Four Coronation Anthems, HWV 258, "Zadok the priest"

22. Who dares to call me? (Neptune, Ariel)
Based on Handel: Tamerlano, HWV 18, "Oh, per me lieto"
"I’d forgotten that I was Lord" (Neptune, Chorus)
Rameau: Hippolyte et Aricie, Act II, Scene 3, "Qu’a server mon courroux"

23. "We like to wrestle destiny – Chaos, confusion" (Prospero)
Handel: Amadigi di Gaula, HWV 11, Act II, Scene 5, "Pena tiranna"

第二幕:

24. "My God, what’s this? – Where are you now?" (Hermia)
Handel: Hercules, oratorio, HWV 60, Act III, Scene 3, "Where shall I fly?"

25. "So sweet, laughing together – My strength is coming back to me" (Sycorax)
Vivaldi: Argippo, RV 697, Act I, Scene 1, "Se lento ancora il fulmine"

26. "Have you seen a young lady?" (Ariel, Demetrius, Helena, Caliban) – "A voice, a face, a figure half-remembered" (Helena)
Handel: Amadigi di Gaula, HWV 11, Act III, Scene 4, "Hanno penetrato i detti tuoi l’inferno"

27. "His name, she spoke his name" (Caliban)
Handel: Hercules, oratorio, HWV 60, Act III, Scene 2 "O Jove, what land is this? – I rage"

28. "Oh, my darling, my sister – Men are fickle" (Helena, Hermia)
Handel: Atalanta, HWV 35, Act II, Scene 3 – "Amarilli? – O dei!"

29. "I knew the spell" (Sycorax, Caliban) – "Hearts that love can all be broken" (Sycorax)
Giovanni Battista Ferrandini (attr. Handel): Il pianto di Maria, cantata, HWV 234, "Giunta l’ora fatal –Sventurati i miei sospiri"

30. "Such meager consolation – No, I’ll have no consolation" (Caliban)
Vivaldi: Bajazet, RV 703, Act III, Scene 7, "Verrò, crudel spietato"

31. Masque of the Wealth of all the World
a. Quartet: Caliban goes into his dream, "Wealth and love can be thine"
Rameau: Les Indes galantes, Act III, Scene 7, "Tendre amour"
b. Parade
Rameau: Les fêtes d’Hébé, Troisième entrée: Les Dances, Scene 7, Tambourin en rondeau
c. The Women and the Unicorn
Rameau: Les fêtes d’Hébé, Troisième entrée: Les Dances, Scene 7, Musette
d. The Animals
Jean-Féry Rebel: Les Éléments, Act I, Tambourins I & II
e. The Freaks – Chaos
Rameau: Hippolyte et Aricie, Act I, Tonnerre
f. Waking
Rameau: Les Indes galantes, Act III, Scene 7, "Tendre amour," reprise

[there is no No. 32]

33. "With no sail and no rudder – Gliding onwards" (Ferdinand)
Handel: Amadigi di Gaula, HWV 11, Act II, Scene 1, "Io ramingo – Sussurrate, onde vezzose"

34. Sextet: "Follow hither, thither, follow me" (Ariel, Miranda, Helena, Hermia, Demetrius, Lysander)
Handel: Il trionfo del Tempo e del Disinganno, oratorio, HWV 46a, Part II, Quartet: "Voglio tempo"

35. "Sleep now" (Ariel)
Vivaldi: Tito Manlio, RV 78, Act III, Scene 1, "Sonno, se pur sei sonno"

36. "Darling, it’s you at last" (Hermia, Lysander, Demetrius, Helena)
Vivaldi: La verità in cimento, RV 739, Act II, scene 9, "Anima mia, mio ben"

37. "The wat’ry God has heard the island’s pleas" (Chorus)
Handel: Susanna, oratorio, HWV 66, Part III, "Impartial Heav’n!"

38. "Sir, honored sir – I have dreamed you" (Ferdinand, Miranda)
Handel: Tanti strali al sen mi scocchi, cantata, HWV 197, "Ma se l’alma sempre geme"

39. "The time has come. The time is now" ("Maybe soon, maybe now," reprise) (Sycorax)
Handel: Teseo, HWV 9, Act V, Scene 1, "Morirò, ma vendicata"

40. "Enough! How dare you?" (Prospero, Neptune) – "You stand there proud and free – You have stolen the land" (Neptune)
Rameau: Castor et Pollux, Act V, Scene 1, "Castor revoit le jour"

41. "Lady, this island is yours" (Prospero, Caliban, Ariel) – "Forgive me, please forgive me" (Prospero)
Handel: Partenope, HWV 27, Act III, Scene 4, "Ch’io parta?"

42. "We gods who watch the ways of man" (Neptune, Sycorax, Chorus)
Handel: L’allegro, il Penseroso, ed il Moderato, HWV 55, Part I, "Come, but keep thy wonted state – Join with thee"

43. "This my hope for the future" (Prospero) – "Can you feel the heavens are reeling" (Ariel)
Vivaldi: Griselda, RV 718, Act II, scene 2, "Agitata da due venti"

44. "Now a bright new day is dawning" (Ensemble)
Handel: Judas Maccabaeus, oratorio, HWV 63, Part III, "Hallelujah"

(出自:メトのサイトから、"Then Enchanted Island: The Music (『魔法の島』の音楽)”より。)

『ファウスト』でウェンディ・ホワイトがタラップから落下

2011-12-17 | お知らせ・その他
追記:事故の原因はプラットフォームとの接続のための金具が、もともと不良品だったか磨耗が激しかったかで、人の通行の重みに耐え切れなくなって壊れたためだそうです。
ウェンディは病院を退院したとのことで、とりあえず大事ではなかったようで、本当に良かったです。


12/17夜の公演の『ファウスト』の公演中、ウェンディ・ホワイトがタラップから落下する事故が起こりました。
事故が起こったのは第三幕で、ファウストがマルグリートを誘惑する間に、メフィストフェレスとマルトの会話が絡む場面で、
メフィストフェレス役のパペとマルト役のウェンディ・ホワイトが舞台上手側に設定されたプラットフォームから登場するシーン。
この公演、私は平土間の最前列で鑑賞していましたが、私が自分で目・耳にした範囲では、パペがプラットフォームに姿を現そうとした時、
がらがらがっちゃーん!という、かなりの重さの金属が落下するような音がして、パペが何か手でサインしているので、
私は最初、彼が何かにつまずいたか、セットの一部を破壊したかで、”すんません!すんません!”と言おうとしているのかと思っていたのですが、
彼が後ろを振り向いて、相変わらずその場に留まったまま、激しくそのサインを続け、しまいに”We have to stop!"と指揮者に叫び始めました。
この日の指揮はネゼ・セギャンではなく、これがメト・デビューとなるアシスタント・コンダクターのヴァレで、
当然のことながら、音楽のことで頭が一杯と見え、またパペがかなり舞台の奥にいるためなかなかパペの身振りや言葉を理解できなかったようなのですが、
舞台の比較的前方にいたカウフマンがパペのただならぬ様子に気づいて演技をやめ、彼の”I'm sorry but we have to stop."の言葉にオケの音が止りました。

キャストが舞台からはけた後、ステージ・ディレクターのアシスタントと思しき女性がマイクを持って登場し、”状況が判明次第、すぐにお伝えします。”
数分後に同じ女性から、”ここで早めのインターミッションに入り、公演の再開を追って連絡します。”とのアナウンスがありました。

この間、メトのオケは舞台上のアクシデントには慣れているので、ホワイトのことを心配しつつも落ち着いたものでしたが、
一番パニックしていたのは指揮者のヴァレで、楽譜をめくりながら、”この事態をどうやってまとめたら、、。”とボー然としている様子に、
額に脂汗を見たのは私の気のせいではないでしょう。
しかし、メトにはいたるところにきちんとプロが配置されていますから、
あっという間に、”再開時はこの場のこの章節から。”という指示がすぐに指揮者の手元に回ってきたようで、
”スタートする時は○○章節からお願いしま~す”とピットから出て行くオケのメンバーに叫びながら、心底ほっとしている様子でした。
それにしてもメト・デビューの公演でこのアクシデント、、、彼も本当に気の毒でした。

インターミッションに入るということは代役を立てなければならないということで、ホワイトが全く心配のない無傷ということは考えられず、
インターミッション中は”彼女、大丈夫だといいですね。”という声があちこちから聞かれました。
ホワイトはこれまでメトでたくさんの公演にサポーティング・ロールで出演しており、ほとんどメトのハウス・シンガーと化していますが、
どんな役にでも一生懸命取り組み、いつもきちんとした結果を出す彼女(これとかあれとか、、)は、私の大好きなハウス・シンガーの一人ですが、
同じ思いのヘッズはたくさんいると思います。

また同時に、”こんな階段を頻繁に上がったり下がったりするような余計な負担を歌手にかける演出が本当に必要なのか?”とか、
”リングでもまたとんでもないことが起こるのではないか?”という最近の演出への疑念の声も激しく聞かれました。
それを言えば、こんな事故が起こっているというのに、ゲルブ氏は全く表に出てきませんでしたが、彼は一体公演中どこをほっつき歩いているんでしょうか?
ステージ上での事故はステージ・マネージャーの仕事の範疇なんてことを言っている人もいますが、それは程度の問題であって、
公演が半時間以上も遅れる大きな事故になっているのに、オーディエンスの前に全く姿を見せない支配人というのは一体どうなのか?と私は思います。
それからついでに言わせてもらえば、ただでさえ過密なメトのスケジュールで、今のペースでの新演出の上演は、大道具の人数を倍にしない限り私は無理だと思います。
他の小さな箱とは舞台のサイズもモビリティも全然違うんですから、同じペース/バリエーションで上演する必要は全くないんです。
支配人にはオーディエンスに有意義な鑑賞体験をしてもらうという大きな任務がありますが、
そういった大切な役割は、まず第一に、演奏するアーティスト、関わっているスタッフの命や健康を守ることを大前提としているはずです。
今のような、アーティストやスタッフが安心して上演に関われないような状況を作っているのは支配人として失格だと私は思います。

公演再開後のメトのアナウンス(やそれに基づいて出されているAPなどの報道)によると8フィートの高さからのshort fall(短い距離の転落)で、
大事をとって救急車でERに運ばれたものの、ホワイトの怪我は深刻ではない、となっていますが、
実際は20フィート以上高さのあるタラップから8フィート落下した、という方が正しい、
(プラットフォームの高さから言って、タラップ自体が8フィートの高さってことはないと思います。)という指摘もあり、
とにかく本当に彼女の傷が大したものや後遺症が残るものでなく、一日も早くメトの舞台に復帰してくれることを願っています。

代役を務めたのはテオドラ・ハンズローで、ものすごい勢いで準備をしたのでしょう、メークも衣装もにわか作りな感じはありましたが、
事故の内容が内容だけに、落ち着かない気持ちに違いないのを、良く努めてくれたと思います。
件のタラップはおそらく事故後使用不可能になったと思われ、再開した後は同じ場面でパペとハンズローがプラットフォーム上ではなく地上の舞台裾から現れたり、
カウフマンとポプラフスカヤも、奥のタラップに消えて行く代わりに舞台手前に歩いて来てそこからはけるなど、いくつかの調整が見られました。
いや、おそらく、タラップが使用不可能になっていなくても、このセットはキャストの間でそもそも大・大不評だっただけに、
それ見たことか!ここからはこちらの好きにやらせてもらう!と、全員が地上でのみの演技になっていても何の不思議もなかったと思います。

公演そのものの感想はまた日をあらためて。

レヴァインのメトへの復帰、オープン・エンドに

2011-12-09 | お知らせ・その他
こちらの記事のコメント欄でKew Gardensさんがお知らせして下さっている通り(Kew Gardensさん、ありがとうございます!)、
レヴァインがメトでの指揮に戻って来る時期が、とりあえず永遠未定というステータスになることになりました。
もちろん、このまま二度とメトの指揮台に戻って来ない可能性もあり、、、、ということは、
先シーズンの最後の『ワルキューレ』の公演(HDの公演)が彼のメトでのラスト・パフォーマンスになってしまった可能性もあります。

以下、12/9に発表されたメトからのオフィシャルなプレス・リリース(レヴァインからのステートメントを含む)の訳です。

* メトからのプレス・リリース *

音楽監督ジェームズ・レヴァインは、八月に負った脊椎への傷害の完治に専念するため、
今シーズンの残り、および2012-13年シーズンの指揮を辞退することとなった。
レヴァインは夏季休暇中に転倒後、緊急手術を受け、今シーズンの初めの数ヶ月間に予定されていた公演からの降板を余儀なくされている。

脊髄の損傷が深刻であるため、レヴァインの担当医らは術後回復のプロセスは時間のかかるものになるだろうと述べており、
9月からずっとレヴァインはリハビリ施設に入院しているが、間もなく退院の予定である。
この数ヶ月間で症状はかなり良くなったものの、正確にいつ完治し、仕事に戻れるかは不明。

ゲルブ支配人との会談を経て、レヴァインは今シーズンの残りすべてと2012-13年シーズン中は指揮をしないことを決断した。
レヴァインがそれよりも早く指揮が出来るようになる可能性はあるが、彼が指揮予定だった演目を代わって引継ぐ指揮者を確保する為、
来シーズンに関する決断を今行う必要があるとの判断からである。メトの2012-13年シーズンとキャスティングは来(2012)年2月に発表される。

“これはジム自身にとっても、カンパニーにとっても、また彼の多くのファンにとっても、大きな打撃であり、
最終的には彼がメトに戻って来れるようにしておきたいと考えています。”とゲルブ支配人。
“休みを延長することで完治に専念してもらう一方、来シーズンに向けてメトが代わりの指揮者を選ぶにあたって最善の選択が出来るよう配慮したつもりです。”

レヴァインからのステートメントは最後を参照。

また、回復状況をみながら、コーチング、プランニング、リンデマン・ヤング・アーティスト・デヴェロップメント・プログラムの芸術上の指揮監督など、
指揮以外の音楽監督としての任務に追々復帰する予定である。

今シーズン既にレヴァインに変わって『ドン・ジョヴァンニ』、『ジークフリート』、『神々の黄昏』といった新演出作品を指揮した・することになっているルイージが、
4~5月に上演されるリング・サイクルを指揮する。
(ただし、『ジークフリート』の最後の二公演と、『神々の黄昏』の5/9の公演および5/12のマチネ公演以外。これら4公演の指揮者は近いうちに発表される予定。)

5/20に予定されているカーネギー・ホールでのメト・オケの演奏会を代わりに努める指揮者も追って発表される。

ルイージはこれまでの予定通り、3/26に初日を迎える新演出の『マノン』と4/6から始まる『椿姫』のリヴァイヴァル上演で指揮を執ることになっているが、
『椿姫』のランの最後の四公演(4/21, 25, 28 & 5/2)はリング・サイクルの上演との兼ね合いから別の指揮者が代役を努める。
『椿姫』四公演の指揮者も後日発表する。

* 音楽監督ジェームズ・レヴァインからのステートメント *

今年の夏の初め頃、私は狭窄(きょうさく)症と呼ばれる症状によって大変な痛みに苦しめられており、その状況を改善するために3つの手術を腰・背中に受けました。
狭窄症については手術は成功し問題は取り除かれ、痛みを感じることももはやありません。
しかし、メトでのリハーサルの開始をたった一週間後に控えた8月末のある日、私は転倒して脊髄を損傷し、緊急手術が必要となってしまいました。
幸運なことに、先に受けていた三つの手術の結果を損なうことにはなりませんでしたが、
それ以来、私はずっと病院でリハビリのプログラムと徹底したフィジカル・セラピーを受けています。
三ヶ月が経過し、来週の頭にようやく自宅に戻ることが可能となりましたが、リハビリとセラピーは外来患者として継続していくことになります。

脊髄の損傷は回復するのに長い時間がかかることで良く知られております。
誰一人として他の誰かと同じスピードで回復することはなく、普通、リハビリは長期に渡ります。
私の医師もセラピストも回復状況にはおおいに満足してくれていますし、私にも良い結果が感じられてはいますが、
完治というにはまだ遠い状況であることに、私自身、非常なフラストレーションを感じております。
しかし、治療の初期段階でみられた回復の度合いを見るに、時間と継続したセラピーがあれば、順調な予後になるであろうと医師たちは考えています。

メトはかなりの余裕をもって事前にシーズンを計画しなければならないため、
今の私にはいつ実際に指揮をすることが出来るのか、ということをはっきりと伝えることが求められています。
これまで、ピーター・ゲルブおよびメトのスタッフたちと、長きにわたるミーティングを重ね、この件について話し合ってまいりました。
そして、後日変更が必要とされるような指揮予定を発表することは、
オーディエンスの皆様にも、またメトのカンパニー全体にとっても、きわめてアンフェアである、という結論に我々は達しました。
私自身も、シーズン内容が発表され、チケットが売れてしまった後で公演から降板するというリスクを犯すことは本意ではありません。
そのことを念頭におき、このような結果は私の望むところではなく残念ではありますが、
自らの務めを完全にこなせるという確信が持てるまでは指揮の予定を立てるべきではないだろう、と考えるに至りました。
2012-13年の予定の調整も最終段階に入っており、代わりに指揮をすることが出来る最善の指揮者とはすぐにでも契約交渉に入らねばなりません。
症状が回復すれば、再び指揮に立てるものと信じておりますが、それがはっきりしない状態で発表をするようなことも避けたいと思っております。
このような結論になってしまったのは大変残念なことではありますが、これが正しい選択であると私は確信しております。

ポジティブな事柄の方に目を向けると、指揮以外の音楽監督としての責務に戻れることは私自身大変楽しみにしております。
ピーター・ゲルブと協力しながらの長期的なアーティスティック・プランの調整、
今後の公演プランのためのアーティスティック部門スタッフとの共同作業、歌手へのコーチング、
リンデマン・ヤング・アーティスト・デヴェロップメント・プログラムの参加者への指導などは引き続き行っていく所存です。

これまで、しばしば急な要請にも関わらず、私の仕事を変わって請け負ってくれたファビオ・ルイージをはじめとする指揮者には深い感謝の念を表します。
また、ファビオが首席指揮者という重要な役柄を通して、メトのカンパニーの中で、よりパーマネント(訳注:継続的&常設的)な存在になったことを大変嬉しく思っております。

RODELINDA (Sat Mtn, Dec 3, 2011)

2011-12-03 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

ヨーロッパをはじめ、すっかり上演が盛んになっているヘンデルの作品ですが、
メトのレパートリーの中にはバロック作品がいまいち根付いていなくて、
ここ十年で演奏されたヘンデルの作品といえば『ジュリオ・チェーザレ』と『ロデリンダ』の二作品のみです。
BAM(ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック)など、メト以外の場所でのバロック作品の上演は時にありますし、
(今年はリュリの『アティス』が上演されて話題になっていました。)
各劇場のサイズとかオケのタイプやパーソナリティといった問題もあるので、私は何もかもをメトで演奏する必要は全然ないと思っていて、
よその国も含め、メトの外に行かなければ鑑賞できない演目というのもあって良い、と感じているのですが、
かと言ってヘンデルのために遠征するか?と言われれば、今の私に限って言えばまずないだろう、というのが答えですので、
ということは、こういう機会でもなければきっと生鑑賞することはおろか、きちんと作品に向き合うこともなかったのかもしれないのだから、
そう思うとありがたみが増す今シーズンの『ロデリンダ』の上演です。



ルネ・フレミングといえばメトのスター!と思っていらっしゃる方が非常に多いようなんですが、
皮肉にも、もしかすると、今一番そうは思っていないのが実はメトの常連客たちかもしれない、、と思います。
特にゲルブ現支配人になってから、彼女の声の衰えと、それに伴って段々レパートリーが狭まっていることが重なったためにその傾向が加速していて、
もちろん、ゲルブ支配人時代になってからも、オープニング・ナイト・ガラでワン・ウーマン・ショーをつとめたり
仏壇みたいなデザインの香水を発売したり、
また、デッカが激しく彼女の登場したHDの公演を連続DVDリリースしていたりするんですが、
ネトレプコやカウフマンが出演していてもメトをソールド・アウトにするのは難しい現在、
彼女はどんな演目でもその名前だけでメトに客を呼べる歌手というのではもはや全くなく、
せっかく新演出でのせてもらった『アルミーダ』では惨憺たる集客率でした。

例えばネトレプコが今シーズン、『アンナ・ボレーナ』と『マノン』の2演目、しかもいずれもメトにとっては新演出でしかもHD上映あり、という破格の待遇を受けているのに対し、
フレミングはお古のプロダクションの『ロデリンダ』一本で勝負(以前もフレミングがロデリンダ役で上演されました。)というあたりにも
微妙に現在のメトでの彼女のポジションが現れています。
そういえば、彼女はメトの日本公演のキャストにも含まれていませんでしたね。
一方で彼女の方もメトでの自分の星が傾いて来ているのを敏感に察知しているのか、
2010年の末にはLOC(リリック・オペラ・オブ・シカゴ)のクリエイティブ・コンサルタント(今までなかった役職なので彼女のために作られたようなもの?)を引き受け、
経営陣の中に名前を連ねるようになったので、LOCに自分の将来と活路を見出しているのかもしれないな、と思います。
ヴォルピ前支配人のもとで彼女が活躍していた頃は、引退後はかつてのビヴァリー・シルズみたいにメトの経営に関わったりするのかもな、と思っていたのが、
今や遠い昔のことのようです。



そんなわけで、フレミングの今のメトでのメインの仕事はHDのホスト?なんてことを言われないためにも、
今日の公演ではしっかり歌って健在ぶりをアピールしたいところだったんですが、
最近の彼女は本当に順調に(?)声の魅力を失って行ってますね。特にトップが本当に痩せて薄いサウンドになってしまった。
何より彼女自身がそれに自覚があって不安を感じるからなんでしょう、
高音域に入るとすごく慎重な、薄氷を踏むような歌い方になるのも、オーディエンスが無心に音楽にのめりこむのを妨げ、興をそがれます。

けれども、私は、それよりも大きな彼女の問題は、声の衰えそのもの以上に、
これまでずっと、どのレパートリーにせよ、本来必要なスタイルを確立する替わりに、ア・ラ・ルネとでも言うべき自己流で流して来てしまった点にあるのではないかと思っています。
自己流な歌い方はキャリアの全盛期にある時は個性ということでポジティブに見てもらえることもありますが、
それは、やがて声やルックスが衰えて来た時、単なるエキセントリックな歌い方としか見てもらえなくなる危険性をはらんでいて、
どんなに優れた歌手も、今のフレミングくらいの年齢に差し掛かる頃には、全盛期に比べて声に衰えが見られ始めるのは普通のことで、
けれども、その衰えを補ってあまりある、磨かれた技とかスタイルを身につけた歌手というのはオーディエンスからある種の敬意を勝ち取って行くものですが、
フレミングの残念なところは、これまでオーディエンスの人気は勝ち得たことがあるかもしれませんが、
歌唱についてそのような種類の敬意を勝ち取ったことがない点ではないかと思います。
演技力やカリスマ性、それから歌唱についても、ア・ラ・フレミングの範囲内では良いものを持っている・いた彼女が、
キャリアのこの時期になって、意外にもあまりメトとその常連客に厚遇されていないのはこのあたりが原因ではないか、という風に思います。



そして、今回の『ロデリンダ』でのフレミングの歌唱は、このア・ラ・フレミング問題を凝縮してしまったような内容になっていて、
特に男性陣のショルとデイヴィスがきちんとしたスタイルのある歌唱を横で披露しているものですから、一層対比が効いてしまっていて、非常に聴いていて辛いものがあります。
これまで私は『椿姫』や『アルミーダ』、つまりベル・カント・レップ、もしくはベル・カント的技術が要されるレパートリーで
彼女の歌唱に対して怒りを爆発させたことがありますが、それは私がベル・カント・ラブな人間であり、
ア・ラ・フレミングな歌い方では決してベル・カントの本当の良さを引き出せない!と考えるからですが、
バロック愛好者では特にない私ですら”ちときつい、、。”と感じる彼女の今回の歌唱は、
バロックを愛する方々からは私がベル・カント・レップで彼女に対して持ったのと似た種類の怒りを引き起こしてもおかしくないかもしれません。
特に全ての音にグリッサンドがかかっているのかと思うようなベタベタした音の移動、
それから早いスケールで音が均一でなく、また短い音がないがしろになったりする点は、
ベル・カントのレパートリーでの彼女の歌唱と共通した大きな欠点だと思います。
これからこの公演をHDでご覧になる方は、聞き苦しいあからさまなブレスにも心の準備が必要です。



最近は演技が上手い歌手が段々と増えて来ているので、その面でもフレミングは決して超特別な歌手ではなくなっているものの、
それでも彼女は演技が決して下手ではないので、声が衰えて来た今、演技や役作りでポイントを稼ぎたいであろうに、その面でも今回、彼女はかなりの苦戦を強いられています。
一つには、ワズワースの演出が問題です。
常に上手から下手に流れるベルト・コンベイヤー状の舞台になっていて、それに乗って部屋、庭、ベルタリードの墓がある場所などが次々と現れるのですが、
最初にロデリンダが半拉致されている部屋のセットが下手にはける途中で、
部屋にあるベッドについているロデリンダを拘束するための鎖がちょうど舞台移動のためのレールの溝にぴったりとはさまってしまって、
(よりにもよってHDの時にこんな滅多にないことが起こってしまうのでした、、、。)
ベッドがばったーん!と倒れて横倒しになっても、鎖の長さ以上動かなくなってしまって、次のシーンでもベッドが半分見えているのがエキサイティングだった以外は、
大変変化に乏しく単調で退屈な演出でした。
(結局、家来の衣装を身につけたスタッフが舞台に出て来て、何とか鎖をレールから外してやっとベッドが消えて行きましたが、かなりの時間にわたる奮闘でした。)



セットの退屈さも問題ですが、しかし、それ以上にほとんど”変”の域に達していたのは演技の呼吸です。
バロックの演目というのは、後の時代のオペラに比べると音楽とドラマのスピードが遅くて、その上にアリアには歌詞の繰り返しがあるものですから、
現代的なセンスで演技付けをしようとすると非常に難しいレパートリーではないかなと思います。
私はこういう演目ではかえって中途半端な演技など入れず、直立不動で歌ってアリアに集中させてくれた方が違和感がなくて良いな、、と思うのですが、
ワズワースの意向でしょうか、ほとんど全員のキャストが何とか演技を入れようと苦闘していて、歌詞の繰り返しの部分ではほとんど同じ演技を繰り返すことになってしまっていましたし、
いくつかのシーンでは音楽の進行のスピードと演技のスピードが全く合っていなくて、妙な間があったり、???と思う部分がかなりたくさんありました。



エドゥイージェ役を歌ったブライスは大変器用なメゾゆえ、フレミングが苦闘していたとしても、
彼女だけはさすが!と唸らせる歌唱を聴かせてくれるだろう、と期待していたのですが、
これまで聴いたブライスの歌唱の中では、残念ながら役への適性という面で最も低いものの一つだったように思います。
彼女の声がここ数年で一層スケールが大きくなったのも一因だとは思うのですが、バロックに求められる敏捷性からすると、今一つ重たい感じがする点は否めませんでした。
また、彼女の声を特徴づけている、あのちょっと鼻の詰まったような独特の音色ですが、これも、音足が重たい感じがする一因になっているように思われ、
ブライスはもっとフレーズが雄大な役、例えばシーズン後半で歌うことになっているアムネリスやリング・サイクルでのフリッカなど、
よりドラマティックなレパートリーの方に期待したいと思います。



グリモアルド役を歌ったカイザーはそういえば昨シーズンもフレミングと『カプリッチョ』で共演してました。
数年前までのなんとなくもっさりした感じが抜けて、もともと背が高くて舞台姿が綺麗なのと相まって、
ルックスでは軽くブレークした感のある彼なんですが、
彼はルックスでブレークしている場合ではなく、むしろ、歌の方でブレークする必要があるだろうと思います。
まず、声の音色自体、特筆するような美しさがあるわけでも、誰にもない個性を持っているわけでもなく
(むしろ、彼の高音域での響きは私には全く快い響きに聴こえないと言ってもいいくらいかもしれません、、、。)
ブレークするとすれば表現力をつけていくしかないように思います。
2007年あたりから、再々メトでチャンスを与えられつつも、あまりそれを生かせていない点にも将来への不安を感じさせます。
彼は今までメトでは『ロミオとジュリエット』のロミオや件の『カプリッチョ』のフラマンなど、好青年系の役が主だったので、
今回のグリモアルドのような役で一皮剝けるかも、、という期待もむなしく、
好青年の役で表現力が不足している人は、複雑な役をやらせても同じ、、ということで、非常に平面的な歌唱と役作りでがっかりしました。



それからもう一人、シェンヤン。
彼は以前に『ラ・ボエーム』の出待ち編で書いたとおり、普段の彼は押し出しや貫禄みたいなのものもあるのに、
なぜか舞台に立つと、ぼーっとした腑抜け顔に見える不思議な人です。
YouTubeに行くと、メトがこの『ロデリンダ』のリハーサルからの短い映像をリリースしてますが、彼の表情を見ていても、
その場面で何を考えているのか、どういう気持ちでいるのか、全然伝わって来ない。
カメラでアップで撮影した映像でこれなんですから、遠目で舞台を見ている観客にとっては何をか言わんや、です。
また、顔の表情は歌の鏡であって、彼の歌も表情と同じくのっぺらぼうで、伝わって来るものが少ないのは何の不思議でもありません。
この作品で最もワルな人物であるガリバルド役を演じるのにこれではいけません。
歌唱にもまだまだ歌を勉強中~という雰囲気が漂っていて、学生さんのパフォーマンスを見ているような感じがするのも気になる点です。
ガリバルドはこの作品の中で、大きくはないものの大事な役ですし、彼がメトの舞台でこの役を歌うのはまだちょっと早いと感じました。

これではまるでがっかりしてばっかりのように聞えてしまいますが、
今日はアンドレアス・ショルとイエスティン・デイヴィスの二人のカウンターテノールの歌を聴けただけで満足でした。
正直に言うと、私はカウンターテノールが基本的にずっと苦手で、
以前は単純にあのおかまっぽい不自然な声の響きが生理的に合わないのだろう、と自分で思っていたのですが、
そうではなくて、ファルセットで歌うことによって響きや音量に不自由が生じたり、
その結果表現の繊細さに限りが出て来るのがじれったく感じることが原因であるらしいことがわかりました。
その証拠に、カウンターテノールの歌を聴くと、ぞわぞわ、、と鳥肌が立つようなことはなく、いーっ!!といらいらして来ることが多かったのです。

けれども、ショルとデイヴィスの二人はそれぞれ違った方法で、そのいらいらを越えてしまいました。
まずショル。
ショルは、基本的にはこれまで私が聴いたことのあるカウンターテノール(例えばデイヴィッド・ダニエルズなど)と似て、
音色的には”あ、ファルセットで歌っているな。”とはっきりわかるタイプなんですが、
その歌唱を高度に研ぎ澄ませ、普通ファルセットによる歌唱では難しいレベルの繊細さを成し遂げている点が素晴らしいと思います。
ショルの”Dove sei, amato bene? どこにいるのか、愛しい人よ”はDVDにもなっているグラインドボーンでの歌唱があまりに素晴らしくて、



あんなものは二度と聴けまい、、と思っていて、実際、今回のメトの公演ではグラインドボーンでの歌唱を越えているとは思いませんし、
特にコンディションが絶好調なわけでもなかったように感じましたが、
(一箇所、低音で思いっきりバリトンの地声が出て、それまでの歌声とのあまりのギャップにぎょっとしてしまいました。
地声になるとそれはもう声量も全然違いますし、本当に男らしいお声でいらっしゃるので、、、。
私はカウンターテノールが登場するオペラは数えるほどしか鑑賞したことがありませんが、
低音域で地声になる、というのはこれまで一度も体験したことがないので、一種のアクシデントだったと思っているのですが、
いや、そうではなく、意図的なのだ!というご意見があればぜひ伺いたいです。)
それでも彼がなぜ優れたカウンターテノールと言われるか、その理由は十分に伝わる内容だったと思います。
また、彼は舞台プレゼンスが上品で素敵!! 
こういう上品さというのは持って生まれたかそうでないか、の二つに一つなんだなあ、、とフレミングと見比べながら思ってしまいました。



一方のデイヴィス。
私はある意味、ショル以上に彼に驚かされたかもしれないです。
彼の声、いや、歌唱といった方がよいのかな、、?は、私がこれまで知っているカウンターテノールとは全然違う種類のそれで、
こういうカウンターテノールが出てきているのか、、と驚きの耳でもって彼の歌唱を聴かせて頂きました。
彼がどのようにそれを達成しているのか、非常に興味があるのですが、彼の歌唱はもはやファルセットで歌っているようにはほとんど聴こえないです。
彼が登場した時、”あれ?メゾかコントラルトがキャストに混じっていたっけ?”としばらく悩んでしまったほど、つまり、彼が女性なのかと思ってしまった位です。
よーく聴いていると、”ああ、やっぱりカウンターテノールだ。”と思う音が混じることがありますが、頻度は極々少ないし、あからさまなそれでもありません。
さらに驚きなのは、ファルセットで歌っていると、ショルのところで書いたように、必ず声量面で限界が生まれるのが普通で、
それが、メトのような大箱でカウンターテノール、ひいては彼らを登用することの多いバロック作品を聴くことの難しさの一つにもなっているのですが、
デイヴィスの歌声は、その独特の歌唱スタイルのせいで、本当に良く通る。
普通にメゾかコントラルトが歌っているようなレベルで劇場に声が通っているのです。



上の音源がデイヴィスの歌唱(ヘンデルによる”アン女王の誕生日のための頌歌~神々しい光の永遠の源泉”)ですが、
コメント欄に”地声とファルセットを非常にスムーズにブレンドしている点がカウンターテノールとしては変わっていてユニークだ。”
と書いている人がいますが、全く同じ印象を私も劇場で聴いて持ちました。
これまでファルセットを中心に置いたカウンターテノールの歌唱には必ず限界がつきまとうという思い込みがあって、
その限界にいらいらさせられることが多かった私のような人間にとっては、
彼のような新しいタイプのカウンターテノールの登場は非常にエキサイティングで、彼が再びメトに登場する際には必ずその歌声を聴きに行かねば!と思っています。

指揮のハリー・ビケットは2005年の上演に続いての登場で、バロック作品の演奏に慣れないメト・オケをよくリードしまとめていて、
わざとらしさがなく、歌手の歌いやすさを大事にした演奏に好感を持ちました。


Renée Fleming (Rodelinda)
Andreas Scholl (Bertarido)
Joseph Kaiser (Grimoaldo)
Stephanie Blythe (Eduige)
Iestyn Davies (Unulfo)
Shenyang (Garibaldo)
Moritz Linn (Flavio, son of Rodelinda and Bertarido)

Conductor / Harpsichord Recitative: Harry Bicket
Production: Stephen Wadsworth
Set design: Thomas Lynch
Costume design: Martin Pakledinaz
Lighting design: Peter Kaczorowski

Dr Circ A Even
NA

*** Handel Rodelinda ヘンデル ロデリンダ ***

MOISE ET PHARAON (Wed, Nov 30, 2011)

2011-11-30 | メト以外のオペラ
ここ数年に渡って私がアンジェラ・ミードをフォローし続けていることはこのブログを継続して読んで下さっている方々には周知の事実だと思うのですが、
そうしているうちに、メトだけでなく、これまであまり聴く機会がなかった演目、オケ、合唱にふれることが出来るという楽しみが増えました。
ピッツバーグとかボルティモアとか、そうでなかったらまず聴きに行くことはなかっただろうと思います。

メトの『アンナ・ボレーナ』の公演を終えた彼女が、引き続きNYで歌ってくれることになったのは、
カレジエイト・コラールによるロッシーニの『モーゼとファラオ』の公演。
カレジエイト・コラールは今年で創立70周年を迎えるNYをベースとする合唱団で、指揮者のロバート・ショーによって創設された後、
トスカニーニ、ビーチャム、バーンスタイン、クセヴィツキー、マゼール、メータ、レヴァインといった名の知れた指揮者との演奏の経験を積み、
良く知られた合唱のための作品やオペラだけでなく現代作品に至るまで、広いレパートリーを誇る合唱団となっています。



しかし、『モーゼとファラオ』、、、? 微妙に聞いたことがあるようなないような、、。
確かロッシーニが書いたのは、『エジプトのモーゼ』というタイトルだったはずだったけど、、と思って調べてみると、その『エジプトのモーゼ』の改作なんですね。
アメリカでロッシーニ研究といえばこの人!ということで再びご登場のフィリップ・ゴセット先生
(シカゴ大教授。ロッシーニをはじめとするベルカント・オペラのエキスパートで、メトのルチアでネトレプコのためオリジナルのカデンツァを書いてあげたおじさん。)
がプレイビルに寄せて下さった文章によると、(ただし、()内は私が補足した部分です。)

*1824年からパリのテアートル・イタリアンで活動を始めたロッシーニは当時まだフランスで知られていなかったイタリア作品を上演することに心を砕いたが、
実は密かにオペラ座で自作のフランス語による作品を上演したいという野望を持っており、
このためにイタリアの声楽スタイルにも精通したフランス人の歌手たちの育成に励んでいた。
*(しかし意外に慎重なところのある)ロッシーニは、いきなりフランス語の新作にとりかかる代わりに、自作のセリアのうち出来の良かったニ作品をイタリア語からフランス語に変えてみることにした。
*ナポレオン政権の遺産で、当時のナポリはイタリアの中で最もフランス文化の影響を受けていた街であり、それもあって、サン・カルロ劇場時代の自信作二作、
『マホメット二世』と『エジプトのモーゼ』をチョイスし、それぞれを『コリントの包囲』と『モーゼとファラオ』としてフランス用に改作し発表した。
*リブレット上新しいテキストが追加されたほか、合唱の役割が大きくなり、バレエのシーンも追加された。
*すべての音楽上の変更はロッシーニ自身によってなされたが、”モーゼとファラオ”の方には署名入りの最終稿を作らず、
多くの、長いもしくは断片的な、マニュスクリプトをどさっと渡して、これで総譜を印刷してくれたまえ、、、と、ウージェーヌ・トルぺナス(フランスの楽譜の出版者)に依頼した。
(トルペナスの、ま、まじかよ、、という声が聞えるよう、、。)



*現在一般に(そして今日の公演にも)使用されているスコアは基本的にこのトルペナス版を元としているが、こういった事情から、スコアは間違いと誤った解釈だらけである。
*(どうやらブラウナーという人が現在クリティカル・エディションの完成発行に挑んでいるそうだが、ここで、”ロッシーニが辿った筋道を再現しながら、
一つ一つの音符を、オペラ座に現存するサイン入りのマニュスクリプトと丁寧に付け合せながら、リハーサル中に入れられた改訂・訂正も反映しなければならない。”と
いやーなプレッシャーをブラウナー氏にかけるゴセット氏。)
*ロッシーニが『エジプトのモーゼ』から『モーゼとファラオ』に加えた変更が成功しているかどうかは、この30年間、専門家の間でも議論が分かれるところで、
特に『エジプトのモーゼ』では、エジプト人が暗闇の中に放り出されているところから幕が開く、その素晴らしさに対して、
『モーゼとファラオ』では、この場面をニ幕の頭に移動させてしまった点を嘆く批評家が多い。
*しかし、その一方で、『モーゼとファラオ』は、ヘブライ人が自分の囚われの身を嘆き、モーゼの呼びかけで祈りが始まり、
その祈りが虹と”神秘的な声”によって答えられ、モーゼらが神託を受ける、、という非常に印象的な始まり方になっていて、
15年後に『ナブッコ』を書いたヴェルディがこの場面を念頭に置いていたことは想像に難くない。
*他にも『エジプトのモーゼ』と比べ、オペラ作品としてインパクトが弱くなっている箇所はいくつかあるが、
『モーゼとファラオ』は、それでも、『エジプトのモーゼ』に比べて”改善”と言ってよく、『エジプトの~』の最も弱かった点が取り除かれている。
また、アナイ役に与えられた新しいアリアはロッシーニが書いたアリアの中でも最良の一つと言ってよく、改訂の経過でなくなってしまったアリアを埋め合わせて余りあるものである。
*ただ、あまり違いばかりを強調するのも良くないであろう。(強調して来たのはあんただろう!とつっこみたくもなりますが、、、。)
オーケストラの楽器編成には一切変更がなく、それでいて、オーケストレーションに手が加わった部分は、より自信に溢れたものになっていて、
一言で言えば、変更はシンプルなものであって、音楽的な良さは失われていない。



と、簡潔ながらとても充実した内容で、他に付け加えることもありませんので、今日の記事はこれでお終い。
、、、にしたいな、出来れば。

なぜならば、私は『エジプトのモーゼ』もちゃんと聴いたことがない有様なので、さすがにブログで記事を書くのに、
こんなに全く作品を知らないというのはまずいだろう!と、CDを探し始めたのですが、これが、なんと!
『モーゼとファラオ』って、ほとんど全くと言ってよいほど音源がないのです!
ムーティの指揮によるスカラ座の公演がDVD化されていて、これはキャストも割りと良い歌手が揃っていて評価も高そうなのですが
(とはいえ、人気作品と違って他に比べる音源がないですから、その評価というのも怪しいものではありますが。)、
知らない作品はリブレットを読みながらじっくり音楽を聴きたいんだな、、、。
ところが、CDの方はもっと悲惨な状態で、ライブの海賊版と思しき音源が、評価者の”音質悪すぎ”の言葉と共にリストされていて、
どう考えても、このCDにはリブレットはついていまい、、と思わせる一品なのです。
うーむ、、、これは弱りました。
そして、弱っているうちにどんどん月日は流れ、気が付けば公演が明日に迫っているではありませんか!
唯一の救いはオペラの内容が旧約聖書の出エジプト記の前半部分(モーゼが海を割って道を作り、そこをイスラエル人が渡って行くというあの有名な紅海の奇蹟の場面。)
にのっとっていることがわかっている点で、こうなったら、音楽はぶっつけ本番、あらすじだけ完璧に、、と、久々に聖書を寝床に持ちこんでみました。

この聖書は私が学生時代に使っていたものなんですが、20年以上ろくにページを開くことがなく、もう記憶が完全に消え去りかかっていましたが、
これは何という因果でしょうか?
それとも私の大学時代の聖書のクラスの先生が単なる出エジプト記フェチだったのかな、、?
このmy聖書の、まさに『モーゼとファラオ』に関する部分だけにやたら激しい書き込みやアンダーラインがあって、読んでいるうちにすごい勢いで記憶が甦って来ました。
そうそう、空からいなごが降って来たりとか、大変なことになるんだよな、、
それにしても”私の力をとくと知らしめ、エジプト人の心に永久に私への畏れを刻み込むため、、”と言いながら、
10回も試練を与えるなんて、”主”って、やたらしつこくていやらしいおっさんだわ、、と思った記憶も合わせて甦って来ました。
モーゼがこれまた優柔不断で、もうあんたは主に選ばれてしまったんだから観念しなさいよ、と思うのに、
イスラエル人をエジプトから脱出させるという大変な重責に、”私には無理です、、。スピーチが苦手だからみんなをまとめられないし。”と情けなく逃げ腰になったりして、
これにもまたまた主はむかむかっと来て、”お前にはスピーチの得意な兄がいるだろーが!彼を使えばいいんだ!”と、怒りを爆発させたりするんですよね。
ああ、本当に気の短いおっさんだなあ、主。
ま、しかし、これならとりあえず、ストーリーがわからなくなって混乱するということはなさそうだ、と一安心。消灯。



そして当日。カーネギー・ホール。
プレイビルを見てびっくり仰天です。
なんだ、このあらすじは!!!!????(プレイビルに掲載されたカレジエイト・コラールが準備したと思われるあらすじの和訳を
”マイナーなオペラのあらすじ”のカテゴリーに転載した記事はこちら。)
ナイル河が血に染まる、とか、いなごの件は聖書で聞いてましたが、ピラミッドが火山になって噴火ぁ?!
なんか一層破天荒な筋立てになってませんか、、?
しかも、モーゼやアロン(しかもこれがフランス語でエリエゼルという名前になっていて、まぎらわしいことこのうえなし。)はいいとして、
アメノフィスとかアナイって、誰、、、?
”しかし、ユダヤ人を本当に解放するまでにはなんとさらに三つの幕が必要となる。”という言葉に、あらすじをまとめる係の人の”やってられん。”という本音が垣間見えて笑ってしまいましたが、
この作品を見ているうちに、その気持ちはよーくわかる気がしました。

そう。というのも、オペラ『モーゼとファラオ』が聖書と比べてオリジナルな点は、単にエジプト脱出を描いているだけではなく、
そこにエジプト国王の息子(これがアメノフィス)とイスラエル人であるモーゼの姪っ子(そしてこれがアナイ)の、いわばアイーダ的ロマンスが絡んでいる点で、
このアナイという女がこれまたおじのモーゼ似で、ええ、あなた(アメノフィス)とエジプトにとどまるわ、ううん、やっぱりおじさんたちとエジプトを出るわ、、と、
一生やってろ!と思うような優柔不断さなのです。
本当、彼女がもうちょっと竹を割ったような性格だったなら、三つとは言わなくても二つ位は幕をセーブできたかもしれませんよね、カレジエート・コラールさん!



と色々書いた後で何だ?という感じですが、しかし、私、この作品、実を言うとすっごく気に入ってしまいました。
今もこの作品のCDを後ろに流しながら感想を書きたい位の気分なのですが、やはりそれでもCDはこの世に存在しないのです。
仕方がない、ムーティの怖い顔付きでスカラの公演をDVDで見るしかないか、、。

さて、私がなぜそんなにこの作品を気に入ってしまったかというと、それはひとえにロッシーニの音楽の素晴らしさで、
私はロッシーニの作品について言うと、ブッファよりセリアの方が好きかもしれない、、と段々感じ始めているのですが、
この作品でさらにその思いが強くなりました。

いわゆるキャッチーな旋律のアリアの有無という点では他の作品に若干引けをとる部分もあるかもしれませんし、
また、アクロバティックな歌唱技術の誇示、という面でいうと、まず他の作品のアリアの方が先に頭に浮かぶ点は否めないです。
(同じセリア系の作品なら、『セミラーミデ』の”Bel reggio 麗しい光が”とか、、、。)
しかし、アナイ、アメノフィス、シナイーデに与えられているアリアは非常に格調高い旋律に溢れており、
また決して技術的に簡単でないところに優れたドラマティックな表現力が求められるため、単に技術に卓越しているだけでは手に負えない作品です。



この作品は今日のような演奏会形式ならともかく、オペラハウスで実際に全幕ものとして上演するのは非常に難しいと思うのですが、その理由は大きく二つ。
まず、内容があまりに突飛で超現実的なので(いなごの大群!血に変わる大河!爆発するピラミッド!割れる海!)、ステージングが極めて難しいということ。
もしかすると、ルパージュお得意の3Dグラフィックスを使えば何とかなるかもしれませんが、、、
あ、この際、リングのマシーンを使い回して、なんとかあの大きな板で割れた海とその間の道を表現してはどうでしょう?
あれだけ金をかけたんだから、もっと元をとらないと!!

それからもう一つ。もしかすると、実はこっちの方がステージングよりもずっと大変な問題かもしれない、、と思うのですが、
いつものロッシーニのパターンに漏れず、猛烈な数の優れた歌手がこの作品には必要です。
しかも、どの役にも穴があってはならず(あると作品としての均整が失われ、俄然つまらない上演になってしまう。)、
また、それぞれの歌手が舞台に持ってこなければならない、ものすごくはっきりとしたパーソナリティやカラーがあって、役の間でのそのバランスも非常に大事で、
つまり、歌が上手いのみならず、役によってかなり個性が限定されるので、キャスティングが本当に難しい。
実際、この作品はタイトルが『モーゼとファラオ』になっていますが、この二人よりもアメノフィスとアナイ、それからシナイーデの方が歌の負荷は高いように思います。
では、しょぼい歌手にモーゼとファラオを歌わせてOKか、というと、決してそうではなく、
この三人のようにどんぱちと歌唱で聴かせる要素が少ない分、余計に、限られたパートの中で威厳、恐れ、迷い、嫉妬、といった複雑な感情をお互いにぶつけ合わなければならず、
存在感のある歌手が求められる、という難しさがあります。
しかも、バス・バリトン同士の対決ということで、どういった声の持ち主をそれぞれの役に配するか、という難しさもあります。



今回の公演はいわゆるぴんで客を呼べるようなドル箱歌手は含まれていませんが(強いていうならジェームズ・モリスが大御所ですが、あのお歳ですから、
すでにキャリアの末期に入っていますし、彼の名前だけでチケットが売れるということは考えにくい。)、
中堅から若い方に寄った歌手(除モリス)を中心に力のある人を集め、またその彼らが揃いに揃ってきちんと自分の役割を果たしてくれたお陰でとても聴きごたえのある演奏となりました。
人気歌手がキャスティングされている華やかな公演も良いですが、こういう地味なキャストでも全員が全力を出して良い演奏だった時には、
オーディエンスの中に何か独特の温かい雰囲気が生まれて、こういうのもいいな、、と思わされます。今日の演奏はまさにそういう感じでした。

なかなか大変な演目であるにも関わらず、歌手は不思議なほど誰もが落ち着いていて、
一番のパニック・モードだったのは、カレジエイト・コラールの音楽監督であり、今日の指揮者であるジェームズ・バグウェルだったかもしれません。
一幕の前半なんて、ずーっと指揮棒の先がぷるぷると震えていて、見ているこちらまで意味無く緊張して来そうになりました。
オケはアメリカン・シンフォニー・オーケストラで、このオーケストラはサウンドも演奏の精度も残念ながらどこか少し緩いところがあり、
一級のオーケストラと呼ぶには苦しいものがあるのですが、この長時間の公演を大きな失敗もなくきちんと演奏しきったのですから、十分役目は果たしていたと思います。
後でも触れますが、特にこの作品は最後にオケの聴かせどころがあると言ってもよいのでスタミナの配分が大変なんですが、
その点は良くこなせていて、きっちりとクライマックスらしいクライマックスを聴かせてくれたのは大きく評価します。
指揮者の歌手への目配りも、まずは良く行き届いていたと思います。


歌手陣ですが、まず老モリス(最近、ジークフリートを歌う若い方のモリスが出て来てしまったので、若モリスと区別するためにあえて。)は、
やや曲の旋律がはっきりしないお経調気味ですが(お歳ですから、、)、さすがの存在感です。
彼自身のキャラクターから言えば、どちらかというとファラオの方が近い気がしないでもなく、やたら堂々としたモーゼでしたが、
彼の存在感にはやはり他の歌手達とは違う重みがあります。
ただ、ちょっと今日はお疲れだったんでしょうか?ミードが聴かせどころのアリアを歌っている時に、
客を正面にして気持ち良さそうに椅子でうつらうつらしている姿は”演奏会形式の舞台上なのにくつろぎ過ぎ!”と言いたくなりました。

今日のキャスティングで面白いな、と思ったのは、この老モリスのモーゼ相手に、若手のカイル・ケテルセンをファラオにもってきていた点でしょうか。
彼もナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズのオーディション出身で、メトではまだ『トスカ』のアンジェロッティのような脇役しか歌っていないのですが、
若干線が細く感じるものの、声にエレガントさがあって、音色自体はいいものを持っている人だと思います。
声のコントロールと歌唱の技術にはもう少し磨きをかける必要があるように思いますが、歌声にも舞台姿にもちょっと独特なクールさを感じさせる佇まいは面白い個性だと思います。
この公演でも、そのせいでファラオが非常に冷静沈着で頭の良い人物に感じられ、それだけに一層、最後の悲劇的な運命との対比が際立っていました。



若い恋人同士を歌ったのは今シーズン『ドン・ジョヴァンニ』でメト・デビューを果たしたばかりのマリナ・レベカと、
これまでこの人の良さがちーっともわからなかったエリック・カトラーのコンビです。
レベカは2009年のザルツブルクでムーティの指揮による『モーゼとファラオ』に出演して同じアナイ役を歌っているようで、
今回のキャスティングはその時の成果が買われた部分も大きいのかなと思います。
やはり彼女の歌声は私には非常に攻撃的に聴こえてあまり好きではないのですが(声量の問題ではなく、彼女の声が持っているアグレッシブで硬質な響きが苦手なんだと思います。)、
『ドン・ジョヴァンニ』でかなりNYのファン・ベースを増やしたようで、今日の公演でも最も拍手の多いキャストの一人でした。
このアナイ役は控え目でありながら、芯の強さを感じる、情熱的な女性の役で、アリアでもドラマティックさが求められるので、
ドンナ・アンナでは度を超えて感じられた激しさは、私にとっても少しは受け入れやすいものになってはいました。
彼女は舞台姿も綺麗で、顔もどこか憂いを湛えているような美人(ガランチャと同じラトヴィアの出身です)ですので、舞台ではすごくアドバンテージがあると思うのですが、
私がいつも不思議に思うのは、彼女がそれを全く有利に使わないことで、この人を見ていると、男性恐怖症か何かなのかな?と思ってしまうほどです。
一生懸命体にタッチしたり、視線を交わそうと涙ぐましい努力をしているカトラーにも、まったく暖簾に腕押し状態。
正面一点を見つめて、カトラーがそっと体を抱き寄せようとしても、体を固くして、これは嫌がっているのではないか、、?と思うようなリアクションなのです。
カトラーがアラーニャのように不必要なまでのボディ・コンタクトをとろうとしていたというなら、まだ話もわかりますが、
私の見る限り、カトラーは恋人同士としての適切な演技をしていただけで、ここまで頑なだと、ちょっと見ている方も気がそがれる域に達しているかもしれません。
でも、かと思うと、二人で歌う最後のパートを終えると、”終わったね。”という感じで微笑むカトラーに対して、嬉しそうににこにこと答えていて、わけがわかりません。
もしかすると、歌っている間、まだあまり余裕がない、というような単純なことなのかもしれません。
後、ラトヴィア出身のソプラノといえば、マイヤ・コヴァレススカがいますが(そういえば彼女も美人、、、)、
この二人は持っている声質は全然違うものの、発声の感じが少し似ているところがあって、
いつも必要な量よりも少し多めの空気が流れているような感触があり、これが極端になると音を無理やり飛ばしているようなサウンドとなって現れてしまうこともあって、
この無理に音を押し出しているような響きが、今一つ私がレベカの歌を聴いて心地よくなれない理由かもしれないな、、と思います。
しかし、さすがにムーティ帝王のご指導を受けただけのことはあり、歌唱の組み立てはしっかりしているな、と感じましたし、
『ドン・ジョヴァンニ』の時の印象とも共通するのですが、他のソプラノが苦労しそうな・する音や音域でのピッチが正確で、とてもセキュアな結果を出すのが面白いなと思います。

エリック・カトラーについては、今回初めて、”こんなに歌えることもあるのか、、。”と思いました。
メトでのネトレプコとの『清教徒』での歌唱とか、今となっては見事に記憶に残ってないし、『ばらの騎士』のイタリア人歌手の歌唱も、大丈夫かな、、と思いながらどきどきして聴いたし、
もうこうなったらタッカー賞も剥奪した方がいいんじゃない?、、と思ったり、、、。
でも、今日くらいの歌唱を聴けば、タッカー・ファンデーションはこういうのを耳にして彼の受賞を決めたんだろうなあ、、ということはやっと納得でき、
彼の受賞が2005年ですから、なんと6年越しで謎が解けた感じです。
他のロッシーニのテノール・ロールに負けず劣らず、このアメルフィス役も多くの旋律が高めの音域にあって、すごく大変な役です。
つまり、これらの音域での発声がきちんと出来上がっていないと、喉への負担が大きくて、たちまちのうちに疲れて潰れてしまう役。
カトラーは最後の1/4ぐらいで少し疲れが見えなくもありませんでしたが、全体的には、ラダメスの兄弟のようなこの頑固頭なエジプトの王子を、
情熱的に表現していて、それをやりながら難しい高音もきちんとこなし
(すっと抜けるような音ではなく、ばりばりとした男性的な音色ではあるので、フローレスのようなスタイルのある歌唱と比べると少し違和感はありますが、
この役ならこれもまたよし、、と私は思います。)
しかもロッシーニに必要なスキルもそこそこきちんとしたものを持っているのは意外で、今日の彼の歌唱には大変楽しませてもらいました。
ただ、彼は舞台上で本当落ち着きがなくて、軽いADD(注意欠如障害)なのかな、と思ってしまいます。
自分の歌になかなか自信が持てないからなのか、歌った後におどおどと周りを見回したり、聴かせどころが近くなるとすごく落ち着かない様子になったり、
体が大きくて熊みたいなだけに、一歩間違うと、鈍くさい感じになってしまうので要注意です。
他の歌手のように、きっ!と前を見据えられる訓練をしましょう。(あ、そういえば、アラーニャもだな、、。)
逆に言うと、そういった落ち着きが身に付けば、無意味にひょろ長くてきりん系の鈍臭さを感じさせるヴァレンティとは違い、
決して太ってはいないだけに、舞台で非常に見栄えがする(今日のような役にはぴったりです。)という大きなメリットを持っていると思います。



私個人的には今日一番楽しみにしていたミードのシナイーデ。
シナイーデはファラオの奥さん(よってアメノフィスのお母さん)で、なぜかユダヤ教を信じているという、この作品の中では複雑で奥深い役です。
息子の愛する気持ちを応援してやるべきか、それとも夫についてゆくべきか、そこに彼女自身の信仰の気持ちも絡まって、、。
母親という立場上、ある程度、年齢を経ないと出せない表情があるのがこの役の難しいところで、
ミードは相変わらず歌唱は達者ですが、ちょっとその辺で背伸びなキャスティングだったかな、、という風に思います。
当たり前といえば当たり前なんですが、30をやっと出たばかり位(のはず)のミードの声は、こういう役で聴くと、やっぱり響きがすごく若いんだなあ、、としみじみ感じます。
ま、実際若いですからね。
まだまだ先は長いんですし、こういった老け役、お母さん系の役はもう少し先に回して、
アンナ・ボレーナのような、自分の年齢としっくり来る役を歌っていって、その先で再チャレンジしたところをまた聴いてみたいと思います。

モーゼの兄エリエゼール(アーロンとしての方が良く知られていますが)を歌ったミケーレ・アンジェリーニはアメリカ出身の若手のテノール。
私はこれまで名前すら聞いたことがなかった人なんですが、素直な発声で、舞台上での佇まいにも清潔感があって好感が持てます。
私は今日は前から4列目という至近距離で鑑賞しましたが、遠くから見てもはっきりわかるに違いない、と思うほどの、
ジョン・トラボルタ真っ青の割れた下あごがトレード・マークです。
今日の役はどちらかというと小さな役で、それほど歌うパートが多くなく、特にトリッキーな技巧があるわけでもなかったのですが、
YouTubeでリサーチしたところ、『チェネレントラ』のラミロなんかも歌えるみたいでびっくりです。
ということは、ロッシーニをレパートリーの中心に据えていこうとしているのかな、、



この映像でも伺えますが、少しほわんとしたたおやかさと優しさのある響きが特徴で、真っ直ぐ伸びていけば面白い個性を持っている人だと思います。
でも、このまっすぐ伸びていけば、というところが難しいんですよね、、。
今までだって、いいなと思っても、”どうしてそっちに行っちゃうの~?”という感じで駄目になっていった人が一人や二人ではないですから、、。

『モーゼとファラオ』の作品の白眉はなんといってもラストで、ここのオーケストレーションはロッシーニってこんな音楽も書ける人だったんだ!と本当びっくりしました。
ゴセット先生の文章にもヴェルディの『ナブッコ』との繋がりを指摘する部分がありましたが、
『ナブッコ』だけではなくて、この音楽にはヴェルディの作品全部に脈々と受け継がれていったのと同じ種類のものすごいパッションとドラマがあります。
オペラでこんなに後奏が長い作品って、私は他にあまり思いつかないのですが、(普通、最後に歌う歌手の最後の音符の後は、割りと手早く手仕舞うのが一般的ですよね。)
紅海が開けてそこを渡り始めるイスラエル人、彼らを追いかけて次々波に呑まれていくエジプト人、、、
この場面がはっきりと瞼に浮かぶ位しっかりと音楽に描き込まれていて、これが演奏会形式であることはちっとも問題ではなかったです。
ま、最近のメトの演出を見るに、下手なセットやら演出やらがあるよりは、こうやってオーディエンスに自由に想像させてくれる方がよっぽど効果的、ということもあるかもしれませんが。

あらすじを読んだ時は、なんでモーゼの奇蹟にロマンスが絡んでくるんだ??と疑問でしたが、
この音楽と一体になると、あまりにも有名になりすぎてしまった聖書の一つのお話の中が、俄然リアリティを持つというか、
単なる宗教上の説話ではなくて、もっとパーソナルな人間の物語となる(それが架空のロマンスであっても)、ここが面白いな、と思いました。
単にエジプトの王子が海に呑み込まれる、という話を聞くのと、
アナイへの狂おしい恋に悩まされながら海にひきずりこまれるアメノフィスを音楽の中に聴くとでは全然インパクトが違う、ということです。

今日の公演をCD発売してくれたなら、時に取り出して聴きたい作品になるのにな、、。


James Morris (Moïse / Moses)
Kyle Ketelsen (Pharaon / Pharaoh)
Angela Meade (Sinaide)
Eric Cutler (Aménophis)
Marina Rebeka (Anaï)
Michele Angelini (Éliézer / Aaron)
Ginger Costa-Jackson (Marie / Miriam)
John Matthew Myers (Ophide)
Joe Damon Chappel (Osiride)
Christopher Roselli (Une voix mystérieuse)

Conductor: James Bagwell
The Collegiate Chorale
American Symphony Orchestra

Parquet D Odd
Carnegie Hall

*** ロッシーニ モーゼとファラオ Rossini Moïse et Pharaon ***

マイナー・オペラのあらすじ 『モーゼとファラオ』

2011-11-30 | マイナーなオペラのあらすじ
ユダヤの民が自らの囚われの身を嘆いていると、モーゼ(モーセ)が”苦しみは間もなく終り、自由の日が来るであろう。”と言って勇気づける。
モーゼの兄エリエゼル(アロン)が、妹のマリー(ミリアム)とその娘アナイを伴って現れる。
エリエゼルは、ファラオが司祭オシリデの助言に反し、ユダヤ教に改宗した妻シナイーデの薦めとユダヤの神への畏れから、
我々を解放するであろうと予言する。
ファラオの息子アメノフィスは父親が支配する王宮で奴隷として仕えているアナイと恋に落ち、彼女も彼を愛するようになった。
しかし、一方で、彼女は自分と同じイスラエル人と一緒にエジプトを去りたいと願っており、
彼女の気持ちを知ったアメノフィスはユダヤの人々に復讐を誓う。
アメノフィスはアナイと離れ離れにならぬよう、なんとか彼らを引きとめようとするが、
モーゼは恐ろしい疫病がイスラエル人の間に蔓延していると言ってファラオを脅かす。
これを聞いたファラオはイスラエル人が立ち去ることを許可したが、
すると、みるみるうちに天から火が雨のように降り注ぎ、ピラミッドが火山となるのは、第一幕のフィナーレで描かれている通りである。

しかし、ユダヤ人を本当に解放するまでにはなんとさらに三つの幕が必要となる。

第二幕ではファラオがアメノフィスをある王女と結婚させようとするが、彼は全く興味を示さない。

第三幕では司祭長のオシリデがイスラエル人にイシス神を崇拝せよと命じるが、
途端にナイル河が赤く血に染まったような色になり、イナゴがエジプト人たちのうえに降り注ぐ。

第四幕では、アメノフィスがアナイとの愛を貫くため、王位を捨て、ユダヤの民を解放しようと決意した。
しかし、鎖につながれた彼らを目にしたアナイは、モーゼにアメノフィスとの愛か自分への服従か、
どちらかを選ぶように、と決断を迫られ、結局自らの民を採る。
再び復讐に燃えるアメノフィス。
イスラエル人たちが神に祈ると、奇跡のように鎖が外れた。
エジプト軍の追っ手が迫り、あわや大量虐殺か?と思われた時、モーゼが紅海をわかち、
水に濡れることなくそこを渡って行くイスラエルの人々の後ろで、エジプトの追っ手たちは次々と海に沈んで行くのだった。

(出自:カレジエイト・コラールによるカーネギー・ホールでの公演のプレイビルより。)

*** ロッシーニ モーゼとファラオ Rossini Moïse et Pharaon ***