Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

LA CLEMENZA DI TITO (Sat Mtn, Dec 1, 2012)

2012-12-01 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。
(でもこのアラートだけ読まれて本文をスキップされる方に一言だけ、、、
これまで6年にわたってメトのHDにのった公演の中で、私なら最高の一本に数えるであろう素晴らしい舞台でした。
日本での上映はお正月早々のようですが、どうぞお見逃しなきよう、、このHD見なかったら何見るの?です。本当に。)


キャストのうちの誰かがすごい歌を聴かせたり、オケが燃え上がってたり、
作品の良さを引き出す演出であったり(←最近のメトの新演出ものでは滅多にないことですけど)、
こういった条件が単独でもしくは組み合わせで加点法的にポイントを稼いで”良い公演だな。”と感じるものは年に数回あります。

でも、数年に一度レベルの「すごい」公演は、そんな風な単純なロジックで説明することは難しい。
なぜなら複数の理由がお互いに絡み合った結果、単純な加点法で得られる数字以上の大きさに総和が膨らんだり、
それどころか、本来なら欠点に数えられていてもおかしくない、つまり減点になるはずのものが、
あまりの公演の素晴らしさにもはやマイナスにならなくなったり、それどころかある種の魅力=プラスになってしまっていたり、、、
舞台の不思議を解明するのに数学的なロジックは全く通用しないことに気づくわけですが、
今日の『皇帝ティートの慈悲』はまさにそのような公演でした。

『ティート』は実にやっかいな作品だと思います。
今回の鑑賞を控えて『ティート』モードに入るため、まず、チューリッヒの公演のDVDを見てみました。
勘の良い方ならすでにぴんと来られた通り、このDVDはカウフマンが出演しているので購入したようなものなんですけれども、
はっきり言ってこのDVDでいいなと思ったのはカサロヴァのセストだけで、後はカウフマンも含めてダメダメです。
というか、このDVDから入ったら、多分、『ティート』が嫌いになると思いますので、注意が必要です。
でも逆に、このDVDを鑑賞すれば、どこをどう間違うとつまらない『ティート』になってしまうか、というヒントが隠されているので、
そういう意味ではためになります。
カサロヴァはもちろんですが、このDVDの公演に出演しているメイ(ヴィッテリア役)もカウフマン(ティート役)も普通に言ったらとても良い歌手のグループに入ると思います。
でも、この作品には、いや、モーツァルトの作品は全部そうだと言ってよいかもしれませんが、
歌唱の大変さが少しでも感じられると、途端に作品の美しさが損なわれるという、すごい罠があって、
そこが、いつものやり方で”良い歌手”していても、『ティート』をはじめとするモーツァルト作品には全く通用しないのが怖いところなのです。
例えばメイ。彼女はベル・カントのレパートリーなんかすごく巧みに歌う人だと思うのですが、
トップの音色と中音域以下の音色に意外にも結構なギャップがあるということに、このDVDを鑑賞すると気づかされます。
トップの情熱的に絞り出すような音はベル・カント・レップやヴィオレッタのような役ではそれが一種の魅力になったりすることもありますが、
モーツァルトの作品では欠点以外の何者でもない、と思いました。
後、この日の彼女はピッチにかなり問題があって、最後まで完全にセトルダウンすることがないまま公演が終わってしまっているように思うのですが、
それがなかったとしても、上で書いた問題がある限り、作品の良さを引き出す歌唱にはなりえないと思います。
そして、カウフマンの歌唱から溢れるティートの苦悩のあまりの濃さは聴いているうちにこちらが息苦しくなる位です。
もちろん、ティートには支配者ゆえに誰からも理解されない孤独・苦悩という側面もあるのですが、
また、それだけではなく、この作品の最後、彼はセストやヴィッテリアを許すことで、自分の心を自由にし、身軽になっている部分もあって、
孤独・苦悩が最後までムンムン、というのはちょっと違うと思うのです。
これは、やたら陰気臭いジョナサン・ミラーの演出のせいもあると思いますが。
はっきり言って登場人物のどいつもこいつも陰気臭くて、アンニオやセルヴィリアまで何かたくらんでそうな雰囲気に見えてくるほどです。
そして、その演出に呼応するかのようにヴェルザー・メストとチューリッヒ歌劇場のオケの演奏もやっぱりどんよりと重苦しい。
なんか聴き終わった後、”うへー。”と気分が陰鬱になる恐ろしいDVDなんです。
そしてとどめはレチタティーヴォの部分を音楽なしの台詞にしてしまって、さらにその上に大幅なカットを取り入れていることで、
はっきり言って、この作品を初見のオーディエンスには物語をフォローしずらいレベルに達しているのではないか?と思うようなひどさです。
この作品はオケ付きのレチタティーヴォの中に切って捨てるに勿体ない美しい箇所が含まれているので、
はっきり言って、このチューリッヒの公演は『ティート』であって『ティート』でないというような代物です。

あまりに気分がどんよりしたので、今度はCDに目を向けてみる。
マッケラス盤はコジェナー以外はあまりこちらでは名前を聴かない歌手がたくさん含まれていますが、
音色が高音から低音まで統一されていて、軽やかにたやすく歌っている(ように聴こえる)のはチューリッヒよりずっと良いな、と思います。
また、もったりじくじくだったチューリッヒと比べてオケの音運びも軽やか。
だけど。ずっと聴いているうちに、こんなに軽くていいんだろうか、、?という疑念が頭をもたげてきました。
気が付けば、ヴィッテリア役の歌もすごく軽やか、、。
歌詞を知らなければ何か幸せなことを歌っているのかもしれない、と勘違いしそう。
コジェナーは達者には歌っているのですが、今一つセストの苦悩が伝わって来ないし、ティート役のトロストが魅力がないのも問題です。

そう、『ティート』の難しさは登場人物全員の苦悩がオーディエンスの胸を打つレベルにまで高めて表現されながら、
最後の最後にはどんより陰鬱だけで終わらない、きちんとしたリデンプションの感覚も残さなければならない。
そのバランスが歌、演奏、演出の全てに求められる。ここにこの作品の一番の難しさがあると思うのです。



『皇帝ティートの慈悲』はメトで初演されたのが1984/85年シーズンのことで、ポネルの演出はその当時からのもの。
ですので、もうかれこれ28年経っていることになっているのですが、この演出がまず素晴らしいのです。
最近の新演出ものは1、2シーズン上演されると、いや、下手すると初めて舞台に上がった時から手垢のついた古臭い感じがするものがあって、
(今年のオープニングの『愛の妙薬』とか、、)一体あれは何なんだろう、、?と思います。
それに比べてこのポネルの演出はとても28年前のものとは思えない。
もし、今、これが新演出ものです、と言って目の前に現れても、”あ、そうですか。”と思う位、フレッシュな感じがするし、
今回はソリストたちの力もあったのだと思いますが、まるで新しい達磨に目を入れたような力が漲っていました。
嘆きながらべレニーチェを見送るティートの白いかつらが家来の手によってはずされ、地毛の黒髪が現れる、、、
冒頭近くの、たったこれだけのシークエンスで、私達オーディエンスは彼の孤独と無防備さを感じて一瞬にして大きなシンパシーを感じますし、
セストの手によって火が放たれ、ローマが燃え上がるシーンの、ほとんど夢の中にいるような感触は、
セストも含めた全員の呆然自失の感情をオーディエンスにも共有させます。
また、その時の彼らの気持ちにオーディエンスの注意をフォーカスさせるために、
ローマの人々を演じる合唱を、舞台上でなくオケピットの中に置き、彼らの姿はなく歌声だけを舞台に響かせたのも効果的だと思いました。
火事から逃れ、いまだ心の傷のいえない民衆達をバルコニーから見つめながらティートが歌うようにしたのも、
いつの時も人民の心を思うセストの性格を良く反映しているし、
セスト本人の口から自分が裏切られたことを証明され、怒りで彼を牢に送った後、
ティートが皇帝としてセストを処刑するか、友人として彼を助けるかの葛藤に迷い続けるシーンで、
メトの舞台の奥行きを思い切り使用し、舞台奥に牢に繋がれながら座って夜空を見上げるセストの姿は
舞台が終わった後も何度も心に思い出される美しいイメージでした。
また、審判が下る場面で、今度はティートを思い切り舞台の奥に置き、彼と民衆の前に現れたセストとの間に途方もない物理的な距離があるのも、
親しい友人でもあった二人は過去のことで、今やセストにとってティートが星よりも遠い存在になっていることが一瞬にして肌で感じられるシーンです。
とにかく全部書けばそれだけでこの記事の字数制限をヒットしてしまうほどで、
演出がテキストや音楽と一体となっているというのはこういうことを言うのだろう、というような、素晴らしい演出です。
ポネルは1988年に亡くなっているのですが、演出の意図がこうして隅々まで生き続けていて、
そしてそれを十二分に舞台の上に反映させられる実力のある歌手達が今年の公演に揃っているのはなんと幸せなことだろうと思います。
セットも衣装もトラディショナルと言って良いものですが、これをつまらないというオペラファンなんて一体いるんでしょうか?
セットや衣装がトラディショナルなことが退屈につながるわけではない、ということの最たる見本だと思います。



歌手陣に関してはプブリオ役のグラデュスが若干心許ない(特に冒頭。後半少しずつ落ち着いて行っていますが)ですが、
それ以外の歌手は、音域を通して音色が統一されているし、メイやカウフマンに対して私が持った違和感のようなものを感じさせる人は誰一人キャストに入っていません。
全員、『ティート』を歌える歌手たちです。

ティート役を歌ったフィリアノーティは先日のタッカー・ガラの記事でも書いた通り、
手術前の声に完全復活しているわけではなく、それが歌の中に感じられないと言えば嘘になります。
高音は少しピンチ(音がつまんだようになっている)気味だし、音を早く転がす部分では、少しきついのか、若干テンポを落としたりもしていて
(オケの方も明らかに意図的にテンポを落としているので、指揮者と相談の上、決めたものではないかと思います。)
普通だったらそれは”マイナス”になるはずなんですが、
この作品での彼がそうなっていないところが、数学で説明できない舞台の魔法です。
彼は性格的なものもあるんでしょう、音を一つ一つきちんと出すことに決して妥協がありません。
例えば上で書いたようなところも、テンポを重視して、音の回し方の方を妥協したくなる、また実際にする歌手はごまんといます。
だけど、彼はそうしない。ちょっとくらいゆっくりになっても全部きちんと歌う。
このほとんど生真面目といっても良い姿勢が、ティートのパーソナリティとシンクロしていて、これもありかな、、と思えて来ます。
どちらかを選ばなければならないなら(ゆっくり歌うか、音の回し方を妥協するか)、絶対にこちらが正解です。
彼の端正な歌声と歌い口、それからエレガントな舞台姿(あのタッカー・ガラの時の冴えない身のこなしが嘘のようでした)は、
本来、ティートの役にはすごく合っていると思います。
これで彼に本来の声が戻って来ていたならもっとすごいものが出て来ていただろうと思いますが、
そうでなくとも、ティートの心の変化を歌と演技で巧みに表現出来ていた(←書くのは簡単だけど、実際にやるのは大変!)のは素晴らしいことだと思います。
セストを説得しようと抱きしめる場面に、ほんの少し友情以上のものもあるのかな?と思わせるような色気がありましたが、
その部分をあまり強調し過ぎず、オーディエンスに判断を委ねるその演技の匙加減のセンスなんか、彼はこんなに演技が上手だったんだな、と感心しました。



アクロバティックな歌唱という意味ではもっとも大変な役であろうヴィッテリア役のフリットリ。
彼女に関しては以前からその素晴らしい表現・演技のセンスに感心させられ続けて来ましたが、今日も例外ではなかったです。
ヴィッテリア役を最初からフル・スロットルで気性の激しい意地悪女として表現してしまうと、
改心する段階で”んな馬鹿な、、。”ってことになってしまいます。
なので、彼女は特に一幕で、その彼女の意地悪さをコミカルさに転換してしまう。
”本当、面白いまでに意地悪な女だな。”と客を笑わせるような、そういうヴィッテリアの役作りにしているので、
劇場では彼女が出て来る度にオーディエンスがにやりとしたり、実際に笑いがあがったりしますが、
だけど、多分、オーディエンスの誰一人として彼女を本気で憎んでいる人はいない、という状況をさっさと作りあげてしまうのです。
こういうところがフリットリって本当に頭の良い人だな、と感心させられます。
一幕の冒頭なんて、アンニオにまで色目を使っていて、この調子でティートも落とそうとしていたし、セストも落としたんだろうな、と思わせるんですが、
しかし、アンニオと一緒に歌う箇所と、セストと一緒に歌う箇所では、明らかに声と歌の艶を違えていて、
もうそこで、彼女のセストへの愛が後に本物になる萌芽を感じさせる歌になっているんです。さすがだなあ、、と思います。
その部分ではオケもきちんとそれとシンクロした色気のある音を出していて、本当に素敵でした。
しかし、これが段々幕が進んで、セストをティート暗殺に導いたのは自分であることを告白する決心をし、
もう自分は誰とも結婚することもなくただ死を迎えるのだろう、と歌う
"今はもう、花で美しい愛の鎖を Non più di fiori"にがっちりと焦点があたるよう巧みなペースでだんだんとヴィッテリアをシリアスにしていって、
このロンドを歌う頃には、彼女のイノセンスさ・父のための復讐やティートへの嫉妬の裏にある本当の彼女が前面に出るようになっているため、
オーディエンスは彼女に多大なシンパシーを感じることが出来るのです。
ヴィッテリア役は一幕のど意地悪な彼女からここに至るまでの経過の表現が難しいんですが、
フリットリの舞台勘の良さと緻密な歌唱と演技で本当に無理を感じさせない自然な流れになっています。
彼女はここ数年、声の艶・ふくよかさや高音の音の出易さが昔とは違って来ているな、と感じる部分もあって、
今日の公演でも高音が易々と出ているか、といえば決してそうではなく、
あまりぶっ飛ばさないようコントロールに気を配って歌っている感じもありますが、
上述のロンドでの殺人的な低音にも果敢に挑戦していて、
技術のセキュアさ、どんなに激しい感情を歌っていても絶対に下品にならないモーツァルト作品のスタイルを損なわない歌は彼女ならではだな、と思います。



声、歌唱スタイル、演技、すべての面で今日のキャストの中で誰よりもプライムの時期に近いと言えるセスト役のガランチャ。
8月のスカラのヴェルレクで歌声を聴いた時は、少し声がパワーダウンしたような気がしたんですが、
今日の歌声を聴く限り、そんな印象も吹っ飛ぶというもの。
もう、本当に素晴らしいです。言葉で言い尽くせないくらい。
先日のシンガーズ・スタジオで、今回のメトの公演でセスト役を封印すると言っていた彼女ですが、本当に勿体ない、、。
彼女はこれまでHDでは『チェネレントラ』と『カルメン』に出演していて、
それを見て彼女のファンになった方もたくさんいらっしゃるのではないかと思いますが、それですごい!と驚いている場合ではありません。
この『ティート』でのセストに比べたら、あの二つがまだ序章に思える位、それ位今回の彼女の歌と表現はすごいです。
というか、このセスト役は彼女の歌手としての美点と長所をすべて結集したような役だと思うんです、、、
本当しつこいようですが、どうして封印しちゃうんだろう?と思います。
彼女の声は本当に上から下までこれ以上不可能という位統一された音色で、こういった長所は残念ながらカルメンのような役では生かすのが難しい。
でも、セストならば、それを心行くまで満喫することが出来ます。
一幕で歌われる”行きます、でも愛するお人よ Parto, parto"はメゾの人気アリアと言ってもよいと思いますが、
この”行きます”は単なるさようなら~ではなくて、ヴィッテリアにローマに火を放ってティートを暗殺するようほのめかされたセストが、
もう一度、その美しい瞳を見せてくれたなら、あなたのために放火なり暗殺なり何でもしてみせよう、という、
これから火をつけに、人を殺しに行きます(それも皇帝を!)という歌なわけです。
ヴィッテリアのためならなんでもやってしまうセストのやるせない思いをガランチャが
生のオペラの舞台で、これ以上の歌を歌うことが可能と思えない位、美しい歌声と技巧でもって十全に表現しつくしてくれます。

下の映像はスタジオ・セッションでの録音ですが、これと全く同じレベルかもしくはそれ以上にセキュアなテクニックとコントロールで歌いながら、
そこにセストの衣装、表情、演技がくっついてくるのが今日の舞台で、
しかも、この難しい歌を歌いながら、直立どころか、舞台中を相当動き回っているんですから、本当すごいです。



最初のParto, partoという言葉が凛と劇場に鳴り渡る様子とか、
Guardami (”私を見て”)のところなど、優しく歌われる箇所では、
声が一瞬たゆたう様に空中に漂ってそして消えて行くその美しさは聴いていて眩暈がしてくるほどで、
このアリアの間、私は完全金縛り状態でした。
これらの美しさの全てがHDで感じられるようにと祈るばかりです。
このアリアで絡むクラリネットの首席はマクギルさん。
彼は本当に素晴らしい奏者で、演奏自体は素晴らしく、これが歌なしのクラリネットのソロだったら何の不満もないところですが、
私が座っている場所だと若干音が逞しく聴こえて、もうほんとにちょっとだけなんですが柔らかかったらもっと良かったのにな、、というのは贅沢過ぎるでしょうか?

セストとティートが対面する場面の素晴らしさも、筆舌に尽くし難かったです。
ティートに放火と暗殺に至ったのには何か理由があるに違いない、正直に話してみよ、と促され、
もう少しで真相を話してしまいそうになりながらも、ヴィッテリアを裏切ることが出来ずに友情と恋愛の狭間で葛藤し、沈黙を続けるセスト。
そのセストの沈黙の理由を知ることが出来ないティートが苛立ちを募らせ、セストに詰め寄り、
セストが申し開きを出来るのはこれが最後、という緊迫の場面です。

ティート:さあ、話してみよ。今私に何と言おうとした? Parla una volta, che mi volevi dir?
セスト: それは、、私は神の怒りを買い、最早自分の運命に顔向けすることが出来ない、Ch'io son l'oggetto dell'ira degli Dei, che la mia sorte non ho più forza a tollerar
そして、私は自分が裏切り者であることを告白し、自らを悪党と呼び、ch'io stesso traditor mi confesso, empio mi chiamo,
そんな私は死に値する存在であり、それを望むということです! ch'io merito la morte, e ch'io la bramo.

自分の死と愛する皇帝との友情に対する裏切りの確定を意味する言葉を、自分の意志に反して言わなければならなくなった時、
ガランチャのセストは、この最後のe ch'io la bramoを、既に歌ではなく、話し言葉でしかも叫ぶように処理していて、
人によってはモーツァルトの作品でこういうまるでヴェリズモまがいの表現は場違いだというかもしれませんが、
私にはセストの心の痛みと葛藤の大きさがダイレクトに伝わって来る素晴らしい処理の仕方だったと思います。
彼女がこの言葉を叫んだ時、私の周りでも何人もの人が、びくっと体を震わせたり、息を呑んだりしていました。

日本のオーディエンスの方には意外に感じられるかもしれませんが、
ガランチャはこれまでアメリカのオーディエンスにすごくアンダーレートされているところがあって、
このセスト役が来るまで彼女に本当に合った役をメトで歌える機会がなかったことも一つだと思うのですが、
もう一つ、よくこちらのヘッズに言われて来た批判は、”彼女の歌はクールでいつもコントロールが効き過ぎていて熱さがない”というものでした。
でも、今日の歌を聴いたら、それってどこが、、?と思います。
コントロールが効いている、というのはその通りですが、こんな歌を聴いて熱くないと思う人は頭のどこかがおかしい。
多分、この『ティート』のHDでガランチャに対する考えを変えた・変えるオペラ・ファンはたくさんいる・出ることと思います。



セストとヴィッテリアでギャラ代と才能を探すエネルギーを劇場側が使い果たすことなく、
アンニオ役とセルヴィリア役にも良い歌手を置くとどれ位この作品の公演の完成度があがるか、という見本のようだったのが
今日のケイト・リンゼーとルーシー・クロウの二人。

実は私の友人が一週間先に鑑賞していて、
リンゼーのことを”舞台上の動きはロボットかと思う位ひどいけれど、歌は悪くない。というか、すごく良い。”と言っていて、
2009/10年シーズンの『ホフマン物語』を鑑賞した時はそんなに演技がひどい人だとは思わなかったので、”???”と思いながら話を聞いていたんですが、
今日の公演を見て、何となく彼の言いたいことはわかりました。
多分、ズボン役なのを意識するあまり、動きを男の子っぽく、男の子っぽくしているんですが、
女性が男性の動きをするのはやはり簡単なことではなく、彼女はまだそのあたりの引き出しが少ないせいで、似たような動きが連続してしまい、
それがロボットみたいに見えなくはない、ということなんだと思います。
だけど、彼の、彼女の歌に対する評価、こちらは実に正しい!!
私はこのリンゼーと『テンペスト』に出演していたレナードの二人をメトに登場し始めたのが同時期なことなどから、
勝手にライバルに仕立てあげ、どちらが抜けてくるかをずっと楽しみにしていて、
「今観て”聴いておきたいオペラ歌手 ~女性編」の記事を書いた2008年頃からずっとそんなことを言っていたわけですが、
今日のリンゼーの歌を聴いて、いよいよ彼女の方が抜けて来たかもしれないな、、という感触を持ちました。
彼女の声は『ホフマン』の頃ですら、若干高音域の音色が浅い感じがあったんですが、ここの音域に温かさと厚みが出てきたし、
以前みたいな高音域が少し辛そうだな、、という印象がなくなって、伸びやかに音が出るようになっています。
それから表現力、、すごく表現力がつきましたね、彼女は、、、歌に。言葉をすごく大事に丁寧に歌っているのが伝わって来ます。

自分の最愛の女性セルヴィリアをその事情を知らないティートに后として召し取られそうになった時、
アンニオはその運命を、”この帝国にふさわしい美と徳を兼ね備えた人間は彼女しかいないのだから。”と言って受け入れ、彼女を諦めようとする。
なんという究極の愛情表現でしょう!!こんな愛情表現の前では”愛してる”なんて言葉が安っぽく聞こえてしまいます。
このシーンは私の周辺の座席でも男女共に泣いている人多数でした。いや、それはもう、もちろん私も鼻につーんと来てました。
で、そこに続くのが反則の二重唱"ああ、これまでの愛に免じて許してください Ah, perdona al primo affetto
(ちょっとこの邦題は意味が違っているように思うのですが、一応、これがCDで使用されているようですので、、。
実際には、ああ、すでに過去の恋人となったあなたよ、うっかりした言葉を許してください、という意味のはずです。
この直前に彼女を”愛する人よ”と言ってしまったことに対して、もうあなたはお后になる人なのだから、そのように呼んではいけないのだ、という、そういう意味です。)

この二重唱での二人の声と歌唱が、この世のものとは思えないくらい美しくて、もうどうしましょう?って言うくらいのものでした。
この二重唱が終わった時点で、”ああ、今日は来て良かった。これ聴けただけでももう満足。”と思ってしまった位。
もちろん、まだまだすごいのが続いて行ったわけですが。

それから順序が前後しますが、興味深かったのがセストとの小二重唱”どうか、心こもる抱擁を Deh, se piacer mi vuoi”で、
ガランチャとリンゼーの声が一瞬どちらがどっちか区別がつかない位、シンクロしていた点。
この二つの例からもわかる通りリンゼーは重唱で相手と呼吸を合わせて歌うのが本当に上手い人だな、と感心したんですが、
それと同時にこんなにシンクロして聴こえるということは、
もしかすると私が思っている以上に二人の声には似通っている部分があるのかもしれない、、とも思いました。
あと何年か経てばリンゼーもセスト役を歌いこなすようなメゾになっていくのかもしれないな、、と思うと、すごく楽しみです。

セルヴィリア役のルーシー・クロウは私はほとんど名前も知らなくて、当然生で聴くのは初めてだったんですが、
鈴のような凛とした残響のある、本当綺麗な声の持ち主だと思います。
今日の歌では、ものすごく細かくて早いビブラートのある歌い方をしていたので、その辺はもしかすると好みをわけるかもしれませんが、
涙流してるだけじゃ、単なる無駄泣きよ!と、ヴィッテリアに真相の告白を促す
アリア”涙する以外の何事も S'altro che lacrime per lui non tenti"での高音のコントロールもすごくしっかりしていて技術もあるし、
音域の上下で響きの変らない歌声もモーツァルト向きでいいな、と思います。
どうしてこういう人がいるのに、エルトマンみたいなのをメトに呼ぶんだろう、、本当不思議。

最後にオケ。
前から何度も言っているように、メトは古楽オケじゃないし、それを言ったところで始まりません。
古楽オケみたいな敏捷な小回りは絶対にきかないし、彼らと同等のレベルの極めて精巧、繊細なアンサンブルで聴かせることもまず無理でしょう。
ビケットの指揮はそれを承知で、ならメト・オケがこの作品で出来ることは何なのか?というポジティブ志向に変えたのが素晴らしい点だと思います。
コップに半分しか水がない、という人と、半分は入っているな、と考える人の違いというか。
冒頭、少し落ち着かない感じがありましたが、一旦落ち着いた後は歌手たちの歌を後ろからがっちり支え、時にはリードし、
歌手や演出と一体となってドラマを盛り上げる、、、これでいいのだ!です。
最初に話をふったのでそのフォローも一応しておくと、レチタティーヴォは多少のカットがあったようですが物語の理解を損なうものでは全くなく、
もちろん台詞ではなく、ちゃんと音楽も付いていて、それぞれの歌手のレチタティーヴォの処理の上手さ
(特にセストのそれは美しい箇所が山とあります)もまた楽しみの一つとなっています。

そういえば、オペラx3大賞(一年を振り返って最もすばらしかった公演を選び出す記事)をここ何年かお休みしてましたけど、
もうこの『ティート』をここ数年まとめての一位にしてもいいや、、、

作品、歌唱、オケと合唱、演出、すべてがかみあったこんな素晴らしい舞台がHDとして形に残ることを本当に嬉しく思います。

Giuseppe Filianoti (Tito)
Elīna Garanča (Sesto)
Barbara Frittoli (Vitellia)
Kate Lindsey (Annio)
Lucy Crowe (Servilia)
Oren Gradus (Publio)
Toni Rubio (Berenice)

Conductor: Harry Bicket
Production: Jean-Pierre Ponnelle
Set and Costume design: Jean-Pierre Ponnelle
Lighting design: Gil Wechsler
Stage director: Peter McClintock

Dr Circ A Even
OFF

*** モーツァルト 皇帝ティートの慈悲 Mozart La Clemenza di Tito ***

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36 コメント

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良いものは古びない (名古屋のおやじ)
2012-12-04 21:38:04
素晴らしい上演だったようですね。このところ、様々な理由で、映画館でのHDから足が遠のいているのですが、久々に出かけてみようかな。最近、パリで収録された『フィガロ』の映像でのフリットリの伯爵夫人の艶やかさに、驚いたばかりだし。映画版じゃない、舞台版のポネルの『ティート』も見てみたいし。

この『ティート』のステージ作りは、写真でみるとポネルの『イドメネオ』にすごくよく似ていますね。同じセリアということで、二作一組で着想されているのかもしれませんね。

セストの第一幕のPartoのアリアでは、オブリガートのクラリネットの音が耳についたようですね。あれ、本来はバセットクラリネット用に書かれているのですが(大抵、クラリネットで代用)、まさかこの楽器が使用されていたなんてことはありませんよね。

ちなみに、私がこのオペラで好きな場面は、終幕のヴィッテリアのロンドとそれに続く合唱のあたりです。
返信する
こんばんは (ぬー)
2012-12-04 22:38:44
こんにちは。
懲りずにコメントさせていただきます。
madokakipさんの仰る通り、今回の『ティート』は本当に過去のメトの数々の公演でも最高の一つと思いました。
やはりオペラは歌手あってのもの、と痛感いたしました。
まずはガランチャ。出産後初(for me)とあって若干の不安(低音化、ブレ)を気にしておりましたが、さすがプロ中のプロ。
加えて演技力(といってもそれほどこの演目はそれを必要としないでしょうが)もアップした印象がありました。

そしてなんといってもフリットリ。アリアこそ少なかったものの、彼女がいるだけで舞台に安定感がありました。
特に2幕は彼女以外考えられません。
それにしてもイタリア人歌手は何故もこんなに少なくなったのでしょうか?全てはフリットリ(メイも?)次第、というのは言いすぎでしょうか?

そして、指揮のビケット。彼はレヴァイン以外にモーツアルトを振れる数少ない人かな、と感じました。
あるいは夜のガーディナーくらいかしら?
その点で言うならばマエストロの復帰を心底願っております。

最後に、今回お会いできなかったことはすべて私の不徳の致すところと反省します。
今後ともよろしくお願いいたします。
返信する
素晴らしかったです☆ (娑羅)
2012-12-05 00:48:35
この日もMadokakipさんにばったりお会いし、「レポ楽しみにしています!」と申し上げましたが、もう上がっていてビックリ!!
私もレポを書くつもりなので、影響されないよう、とりあえず赤字のところだけ読ませていただきました(笑)
自分の感想がまとまったら、改めてゆっくり読ませていただきます♪

今回、「仮面舞踏会」「ドン・ジョヴァンニ」「皇帝ティートの慈悲」の3本を観ましたが、全体的な出来はこのティートの圧勝。
ガランチャを始め、女性ソリスト陣の充実に大満足。
ガランチャの"Parto, parto "では涙が出てしまいました。
フリットリと共に本当に品があって、初めて女性歌手に夢中になってしまった私です
返信する
これは行くしかない (コバブー)
2012-12-05 07:50:07
 日本だと新年最初の上映ですが、これはなんとしても行くしかないですね。
 ビデオ聴きましたが、ガランチャのモーツァルトはほんと素晴らしい。完璧な様式感を持ち、それを超える表現力もありますね。

 しかも、フリットリという、モーツァルトに愛されることが確実なソプラノが共演するとは。この間聴いた伯爵夫人素晴らしかった。これはメトじゃくては考えられない凄いキャストですね。
 楽しみにしています。
返信する
ぬーさん (Madokakip)
2012-12-05 11:40:23
あれ~!ごめんなさい、私の方こそ日にちを勘違いして、これからいらっしゃるものと思っておりました。

>やはりオペラは歌手あってのもの

はい。私はこのプロダクションでの公演を2008年にも拝見していて、
ヴァルガス、グラハム、イヴェーリ、と、そう悪くないキャストで
(ティートのヴァルガスの声が本当に綺麗で印象に残ってます)、
指揮も今回と同じビケットだったんですが、
今回の『ティート』からはその時の公演とは全く違うレベルのドラマを感じました。
おっしゃる通り、ガランチャとフリットリも素晴らしいのですが、
(ガランチャの演技とフリットリの歌ももちろん良いのですが、
ガランチャの歌の完成度と、フリットリの演技の完成度は別格で、
これがまるで陰陽のようにがっちりくみあわさっていました。)、
今回、アンニオとセルヴィリアの二人がすごく良かったのも、軽視できない勝因です。

>夜のガーディナー

これはドン・ジョヴァンニのガードナーのことでしょうかね?
彼は初日にやらかしてしまったみたいで、批評家とヘッズからさんざんな叩かれようでしたけど
(彼だけではなく、歌手も今ひとつみたいですけど)
二度目の公演から若干良くなっていると聞きました。
ぬーさんがお聴きになったのはましになってからのものだったのかもしれませんね。
なんか、あんまり惨い叩かれ方なので、怖くて見に行く気になれません、、、。
今シーズンのメトのモーツァルトはそんなドン・ジョとフィガロ(このフィガロも私は思い切りすっ飛ばしました)にはさまれ、
この『ティート』だけが、頑張っている、といった趣です。
返信する
娑羅さん (Madokakip)
2012-12-05 11:41:21
はい、思いがけずもう一度メトの中でお会い出来てハッピーでした!
けれども私、本当にこの公演中、何度か泣いてしまって、終演後も胸いっぱい状態だったものですから、
目がパンダになってたりしてなかったかと心配です。
でも、娑羅さんもParto, partoで涙が、、と書かれていて、安心しました。
そうなんです!こういう良い公演の時は筆がすすむのですね、やはり。
珍しく公演のすぐ後にアップすることができました。
月曜には会社の同僚にも“絶対観にいった方がいい!”と残りの公演を見るようすすめ、
いかに土曜の公演がすごかったかをぶちあげてしまいまして、
“Madokakipさんがそんな風に熱く公演の話をするの、本当久しぶりですね。”とその同僚に指摘され、
本当、そうだな、、と思いました。
多分、一番直近だとミードの『アンナ・ボレーナ』になるのかな、、
でも、あれはミード一人がすごかったのであって、
歌、演出、演奏すべてが揃った公演という意味では、こちらの『ティート』に軍配があがります。
『ティート』を含め、ご覧になった公演の娑羅さんのご感想が本当に楽しみです!
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コバブーさん (Madokakip)
2012-12-05 11:42:15
>これはなんとしても行くしかないですね

いや、本当にそうなんですよ!!
仮に自宅から映画館に這っていかなければならない事態になったとしても、そうして頂きたい!
それ位、ぜひご覧になって頂きたい一本です!!

ぬーさんのコメントにも書きましたが、アンニオ&セルヴィリアのペア、これがまた素晴らしいんですよ。
フリットリというベテラン、そしてガランチャという今最も脂ののった世代の歌手、
そして、リンゼーとクロウの溌剌とした若々しさ、、、
世代別のそれぞれの良さが上手く発揮されているし、
こういう作品を聴くと、先輩から後輩へきちんと歌が引継がれているではないの!、、と
将来に希望が湧いてきます。
早く1月になって、皆様のご感想を伺いたいです!
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名古屋のおやじさん(追加あり) (Madokakip)
2012-12-05 12:32:09
>素晴らしい上演だったようですね

はい、もう!
おやじ様にもぜひ映画館でご覧になって頂き、ご感想を伺いたいです!!
しかし、上映までまだ一ヶ月ほどあるんですね、、早く~!!!って感じです。

実は私、『イドメネオ』は実演を見たことがなくて
(ブログが始まってからも、こっそりスルーしてました 笑)、
さきほどメトのサイトでプロダクションの写真をチェックしましたが、

http://archives.metoperafamily.org/Imgs/Idomeneo0607.htm

本当、使いまわしかと思うようなそっくりのセットと衣裳ですね。
(『ティート』の方がプレミエは数年後です。)

>同じセリアということで、二作一組で着想されているのかもしれませんね

本当に。

>セストの第一幕のPartoのアリアでは、オブリガートのクラリネット

はい、私が聴いたところでは普通のクラリネットで、プレイビルにも
クラリネット・ソロ アンソニー・マクギル、
バセット・ホーン・ソロ ジェームズ・オグニビーン
となっているので、バセット・クラリネットではない可能性が高いと思います。
きちんと確認が出来ましたら、またお知らせしますね。

、、、と、先にポスティングしたのですが、確認が出来ました!
(すみません、上の部分に消し線を入れたかったのですが、コメント欄ではそれが出来ないみたいです、、。)

やはり、プレイビルのソロのクレジットにあるのと同様、全幕を通して
クラリネット(バセットではなく通常の)がアンソニー・マクギル、
バセット・ホルンがジェームズ・オグニベネ(イタリア系の方なのかな?こう発音するのが正しいそうです。)だそうです。
本文でもれてしまいましたが、オグニベネさんのバセット・ホルンも素晴らしいです!


>私がこのオペラで好きな場面は、終幕のヴィッテリアのロンドとそれに続く合唱のあたりです

あそこでぐわーっと舞台が広がって舞台の一番奥の深いところにティートが登場!でして、
もう音楽と相まってすごく興奮しました。
良いものは古びない、まさにその通りだと思います!
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良かったです~ (Kew Gardens)
2012-12-05 23:47:06
余裕がなくて、予習なし、ぶっつけ本番で、初日を鑑賞しました。 メディアの批評は、ちょっと物足りない的なところもあったようですが、私は、Mozartよかった~でした。 特に、女性陣と、見直しましたFilianotiにBravissimi! 

広いMETの空間をうまく使った舞台は、さすがだなぁと思いながら、”トラディショナル“な18世紀(ですか?)の白いカツラと衣装に違和感を覚え、最初戸惑いが・・・。 Mozartの時代そのものかもしれませんが、古代ローマであれ? みたいな。 どうも私は、視覚にはいるものに気を取られやすいようです。 でも、恰好はともかく、歌手の動きはストーリー通りの納得のいくものだったからでしょう、慣れてくると、気にならなくなりました。 今年のSalzburg Fes のGiulio Cesareのように目をつぶったほうがいいかなぁなんて思いませんでしたから (あちらは完全に読替えしているので、舞台とか衣装とかそれにあっていたかもしれませんが、it’s not my cup of teaということで・・・)

Garanca、素晴らしいの一言。 それなのに、この役を卒業なんですか?、すごく残念です。 Madokakipさんのように、Salzburgのヴェルレクでは、ちょっと小ぶりになった印象を受けましたが、彼女独特の芳醇な響きを聞いた時には、夏の感想がふっとびました。 上手に演じますが、パッションが服をきたようなカルメンみたいな役は、彼女のぱっと見クールな表現に合わないのでしょうね。 一方、きっちりと構成された音楽のフレームの中で、感情やら情景を表現するのがうまいと思うので、Mozartはあっていると思うのですけれど。 その意味では、Frittoli、さすがです。 って、Le Nozzeとか、Don GといったMozart作品でしか見たことないので、比較の対象もなにもありませんが。 

初めての体験となったK. Linsey。 ロボットとはいいませんが、最初かなり緊張していたのではないかしら? Garancaに比べると体も声量も一回り小さくて、華奢にみえました。 セストとアントニオの二重唱は、声質がにていることもあったかもしれませんが、Linseyの声がGarancaのそれに飲まれてしまったような。 勿論私が、サイドにすわっていたからかもしれません。 でも、オペラが進むにつれどんどんよくなって、セルヴィリアとの二重唱は、私がこの日一番感動したもので、 
>この世のものとは思えないくらい美しくて、もうどうしましょう?って言うくらいのものでした。
まさに、こんな感じでしたよ。 Tempestのときに、Milanda役はI. Leonardより、Linseyのほうがあっているかもと書いていらっしゃいましたが、確かにそうだなと思います。 繊細な部分を上手に表現できそうですね。 (ところで、L. Croweもいいですね。 今後注目です)

昨年、RigolettoとMacbethでみたFilianotiは、ペース配分がうまくいかなかったり、高音になると -- ピンチというのですか?--何かキャップされているところを無理やりこじあけるような不自然さがあったりで、ハラハラしどうしでした。 今回それが全くなくなったわけではありませんが、少なくとも初日は崩壊することもなく、高い音のパッセージでも昨年よりは自然に聞かせてくれました。 なにより、イタリア人なのに(かなり偏見)、生真面目そうにみえる彼の雰囲気と役がぴったりあっていましたし、孤独や葛藤を自然に、かつ上品にみせていたところは、私には発見でした。 

MadokakipさんやKinoxさんの記事を拝見すると、このHD収録日は、一期一会的な素晴らしさがあったようで、今度はじっくり観に行ったものかどうか、悩みます。 あぁ、やっぱり3枚つづり券買った方がお得かなぁ…。
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つづけてすいません (Kinox)
2012-12-07 11:51:24
わたしも見たことないのですが、わたしも話としてティートとイドメネオのセットが同じということを聞いた事があります。

> オブリガートのクラリネットの音
> 本来はバセットクラリネット用
わたしが見ていたところ、あの日はセストのPartoではクラリネット、ヴィテリアのs'altro che lacrimeではバセットホルンを絡みのソロとして使っていました。どういう由来でそういう使いわけをしたのかは分かりかねますが、たしかに音量というよりガランチャの音色よりも随分明るい色合いが気になったのでした。

> Linseyの声がGarancaのそれに飲まれて
> L. Croweもいいですね。 今後注目
わたし歌唱が良くって第一音からうっとりしていたせいか、演技がぎこちなかったとは全然気づかず・・・。ただ、ガランチャに飲まれたという感じは、リンゼーはたしか下のパート? 個人的にはある程度より低い音になると少々魅力がたりないかなぁ、と、そのせいかな。でもあのアンサンブル力は女版フィンリーと褒めていい位かも(はたして一般的には褒め言葉なんだか・・・)
ほんとあの二人はうきうきさせてくれました。多分この二人は実力が役以上で、ある程度余裕があったから歌唱表現があそこまで豊かにできたのかもしれないです。今後末永く楽しませていただきたいです。
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