Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

AIDA (Sat, Dec 22, 2012)

2012-12-22 | メトロポリタン・オペラ
先週の土曜日はモナスティルスカのアイーダは過去少なくとも10年間にメトで聴いた同役のソプラノの中では一番!と思う位大満足だったんですが、
ボロディナが歌うアムネリスに今ひとつのれなかった、、、。
この二人のコンビでの公演はHDの日が最後で、その後の3つの公演のアムネリス役には誰あろう他ならぬドローラ・ザジックがキャスティングされており、気持ちは揺れまくりです。
12月は超金欠、、、でも聴きに行きたーーーーい!!!

公演の直前にチケットを買う場合、私から見てコスト・パフォーマンスが良い座席は大体売れてしまっていて、
劇場内で最も高価なグループに入る席種にするか、もしくはお金を多少始末して見にくい座席で我慢するか、もっと節約してスタンディング・ルーム、の三択になるわけですが、
鑑賞中に刻々とストレスが貯まっていく見づらい座席は立見席より不快で嫌だけど、3月に『アイーダ』を立ち見した時は正直辛かった、、、
『アイーダ』は結構上演時間が長いから。

ザジックは現在齢60。ってことは、彼女の良い歌を聴ける時期というのは多分もう長くは残っていない、ということで、
もはや彼女が絶対に登場するというのであれば、私はいくらお金を出しても惜しくない位の気持ちなんですが、
怖ろしいのは、これでザジックがキャンセル、なんてことになった場合です。
ザジックは非常にまじめな歌手だと思いますが、いや、だからともいえるのか、
体調がすぐれないと、ちゃんとした歌が歌えないくらいなら降りた方がまし、、とばかりにあっさりとキャンセルしてしまう場合があって、
これまで2~3回、彼女のキャンセルを食らったことがあります。
もしそんなことになったら、アラーニャの蚊のファルセット聴くために300ドルの出費、、、うーん、それはありえない。

というわけで、今日は開演のぎりぎり近くまで待って、ザジックのキャンセルがまずなさそうだということを確認してから平土間最前列のチケットを購入しました。
今回はたまたま色々プラクティカルな原因が重なって最前列の座席になったのですが、
今日と同じフリゼルの演出の『アイーダ』で歌うザジックを、回数なんか思い出すことも出来ない位に鑑賞し倒して来たというのに、
実はこんな至近距離からザジックのアムネリスを見るのは初めてだ、という事実に、なぜか座席に着いた瞬間にやっと気付いてとめどもない感慨に襲われました。

しかし、そんな感慨は前奏曲が始まって吹っ飛びました。
なぜならば、いわゆるハウス・ライト(オーディエンスの視点から向かって舞台右側)に寄ったこの座席は驚くほど音のバランスが悪く、
丁度オケピに張り巡らされた壁のすぐ向こうにチューバの奏者がいて、彼の吹く音が壁に反響してこぼれてくるのか、
他の楽器がどんな風に鳴っているのかはっきりとわからなくなってしまうほどの大音響で、前奏曲が終わる頃にはボー然、、、。
逆側(ハウス・レフト)の一番奥にいるコントラバスの奏者の奏でている音なんか、”なんか遠くで鳴ってるわあ。”という感じで、
オケの演奏についての今日最大の収穫は、全幕にわたって”チューバはここでこんな旋律を吹いてたのね。”ということが確認出来たこと、、
って、そんなピンポイントで良いのか?!
そんな理由で、今日のオケの演奏に関しては各セクション間の音のバランスなんか全然良く判らなかったし、全くフェアなことを書けそうにないので割愛させて頂きます。
平土間一列目でも、指揮者に近い(真ん中寄りの)場所だったらこんな悲惨なことにはならないんですけれど、
前の方に座る場合、ここ以上端に寄ってはいけないんだな、という座席のラインが何となくわかったのが今日の本当の最大の収穫、ということにしておきましょう、、。
ただ、一列目からでも舞台までには多少距離があって、それに救われているんだと思いますが、
歌手の声の聴こえ方の方はオケのそれほど惨いことになっていないのにはほっとしました。



今回の公演はアラーニャがラダメス役に入ってから4回目の公演で、
シリウスで聴いた一回目、HDの公演の時の二回目、そして今日、と、ルイージの指揮・オケの演奏との噛み合い方は回を追って段々良くなって来てはいましたが、
ただ、彼はラダメスを歌うのが初めてなわけでも何でもないのにもうパートを忘れちゃって、その上にきちんと復習が出来ていないんでしょうか?
特に一幕とニ幕が全然頭に入っていないと見ました。
この二つの幕中、彼が凝視していたのはほとんどプロンプターとルイージの方だけで、
私達オーディエンスとのラポートもなければ、アイーダ役のソプラノに対して歌っているはずの時ですら彼女を見ていない、、ということがしょっちゅうで、
歌に余裕がないせいで演技にまで気が回っていないところが散見されました。

しかし、このプロンプターをガン見しなければならない事実を恥ずかしがるどころか、
場の転換時の時のカーテンコールで、しつこくプロンプターに投げキッスを送り続け、
退場しようとするガグニーゼにほとんどお尻を蹴られそうになっていたのには、
このずれぶりは相変わらずアラーニャしてるわね、と思わされました。
急遽予定外の代役をつとめることになった、とか、何かハプニングがあって、プロンプターのお世話になりまくるのも成り行き上当然、という場合を除き、
オーディエンスの前でプロンプターにこういう普通以上の感謝のジェスチャーをする歌手は全員Madokakipの閻魔帳行きです。
こんなの見て、”あらアラーニャって良い人だわ~。”なんと思うオーディエンスは相当なお人好しで、
むしろ、一年以上前からキャスティングが確定していた演目で、プロンプターに普通以上に感謝しなければいけないような状況を作っていること自体おかしくないか?
ちゃんと準備してないのか?と疑問に思うべきです。
そして、私は見逃しませんでしたよ、、、ガグニーゼに蹴られながら緞帳の向こうに消えて行くアラーニャに、
スコアに目を落としながら、”やれやれ、、、。”という表情を隠せなかったルイージを。

HDの日(先週の土曜の公演)に”何なの、、それ、、、?”と思わされた”清きアイーダ”のラストに関しては、
今日の方がppppから段々膨らませていって、最後に余韻を残す、、という意図がより伝わりやすい歌になっていたと思います。
私のようなヘッズに”逃げたな。”と思われないためか、”俺はヴェルディのスコア通り歌ってるぜ!”とばかりにかなり強調してppppにしてました。
後、HDの日には蚊の鳴くようだったファルセットも、今日は吸血前の蚊と吸血後の蚊、位の差はありました。
でも、ヴェルディには申し訳ないですけれど、ここは観客としてはがつーん!と歌ってくれる方がいいんですよね、、
今のアラーニャの力の範囲内で、ヴェルディのスコア通りに歌うという意図のもとではまあまあの結果が出ていたと思いますが、
客はしらーっと白け気味で、拍手もなんとなく力ないものでした。
多分、彼らにも”逃げたな、、。”と思われてしまったのでしょう。努力の甲斐なく。
まあ、それ位、ここはフルブラストを期待するお客さんが多い、ということなのだとも思います。



アイーダ役を歌ったフイ・へは、新国立劇場のサイトなんかを見ると、日本ではへー・ホイと呼ばれているんですね。
もうー、新国立劇場が変なバリエーション加えるから、最近では彼女の名前を言う前に”えーっと、ホイ・へだっけな、フイ・ホーだっけな?”
などと余計なことを考えなければならなくなったではありませんか!
彼女を初めて生で聴いたのは2008年の初夏のNYフィルとの『トスカ』で、私は彼女について
① 声のボリュームとカラーのコントロールが未熟。
② 肝心な個所の高音で音がずり下がる。
③ 演技、体の使い方が滅茶苦茶へた。
④ ディクションが最悪
と結論付け、まあ、このソプラノはしばらくメトの舞台に立つこともないだろうな、、と思っていたんですけれども、
怖ろしいのは最近のメトはそういう人でもデビュー出来る場所になってしまったことで、彼女は2009/10年シーズンに『アイーダ』でデビューを果たしています。
アイーダのような大役でメト・デビューをする歌手の公演はまず聴き逃さないようにしているんですが、
シリウスで聴いた彼女の歌唱がびっくりする位ひどくて、そのシーズンは珍しく彼女を劇場で聴くのはパスすることにしました。
全世界にも配信されたはずのマチネの放送で”ああ我が故郷 O patria mia”の後半、曲の原型を留めないほど音程がずれまくって行って
収拾がつかなくなったのをお聴きになられた方もいるかもしれません。
それに、あの『トスカ』の時の、決して超肥満なわけでもないのにぼてーっとしただらしない体型と、
股の間に何か挟んで歩いているのかと思うようなどてどてとした不細工な歩き方、、
これらを思い出すと今日の『アイーダ』に私が全く期待をしていなかったとしても、何の不思議もありません。

ところが、彼女が舞台に登場してびっくりしたのは、『トスカ』の時と比べると同じ人に思えない位雰囲気が垢抜けたこと。
今回の記事で使用している彼女の写真は全て2009/10年シーズンのものなのですが(今シーズンの写真がどこにも見つからないので、、)、
『トスカ』からはもちろん、その頃に比べてもだいぶ痩せたんじゃないかな、、、
今日見た彼女はもっとリーンな体型で動きはシャープになっているし、
演技が控え目なせいで、もう少し動きがあった方がいいかな、と思う部分はありますが、
彼女が動いている部分に関しては”不細工だな。”と感じたことは一度もなかったです。

この体重の変化と関係があるのか、声の音色が『トスカ』で聴いた頃のそれとは少し違っているのも印象に残りました。
『トスカ』の頃はどちらかというと”太っている人の音色”だったんですが、今回はリーンな体型の人の音になっていて、基本的な音色そのものが以前聴いた時と全く違う感じ。
音色だけに関して言うと以前の方が楽に出ていた感じがあって、今の彼女の声は少し音に硬さが加わった感じがするのと、
時に、出している空気全部が音になっていなくて、息の多い音が出てしまう(そしてこれは体型が比較的貧相なアジア人により多く見られると私は思っているのですが)時があって、
今現在の時点で、へー・ホイと今年『トロヴァトーレ』で聴いたグアンクァン・ユー(と英語読みではなるのですが、本来はグワンチュン・イーという発音に違いとの説あり。)、
どちらがアジア人とわからない声を出すか、と聴かれれば、私は迷いなくユー(イー)の方をとりますが、
ではへーが駄目かと言うと決してそんなことはなく、硬質な音の割りには良く伸びる声で、
ユーの方が柔軟性のある劇場を包むような音とすれば、へーの方は固い一直線に飛んで来るボールのような音で、
彼女のような音が好きな人はそれはそれで十分楽しめるんじゃないかと思います。



『トスカ』の頃と比べて随分スキルアップしたと言えば、声のコントロール力もそうで、
モナスティルスカの幅の広いダイナミック・レンジと比べると、多少ボリューム、カラー共に狭い感じがしてしまいますが、
声の行き先に収拾つかない感じすらあった『トスカ』の頃と比べたら4年半で良くここまで進歩したものよ、、と思います。
それとも、『トスカ』の時が余程不調だったのか、、、。

だがしかし!なのです。
残念なことに彼女の最大のアキレス腱がピッチである、という点はやっぱり変っていませんでした、、。
『トスカ』や2009/10年の『アイーダ』と比べたら大きな進歩を遂げていることは強調しておきますが、
例えば、因縁の”ああ我が故郷”。
頭からずっと良い内容で、これはこれでモナスティルスカとはまた違った魅力があるな、、と感心しながら聴いていたところ、
終盤にno, mai piùでCまで音が上がっていくその肝心のCで音がぶら下がってしまい、
「画竜点睛を欠く」というのはこういうことを言うのだな、、、と思いました。
良く気を取り直して、その後に二度出てくるA(最後のoh patria mia, mai più ti rivedroの頭と最後)は綺麗に出していましたが。
他の部分が本当に良く歌えていたので、ルイージが指揮台で彼女に向かって一生懸命拍手を送っていて、私もその気持ちは良くわかるんですが、
やっぱりアイーダ役を歌うんだったら、絶対抑えなければならない音ってものがあって、どんなに他の部分が素晴らしい出来でもこれを外していてはいけないんです。
たった一音、されど一音。
モナスティルスカはこんなところで音を外したりしないし、それどころかものすごく綺麗な音でそれを鳴らしていましから。
一級のアイーダか、そうでないか、というのはこういうところにもあらわれるんだと思います。

ただし、歌い終わった後、どんなにルイージが褒めても、やっぱりCを外したのは痛恨と見えて、へー自身が全然嬉しそうでなかったのはとっても良いことだと思います。
4年半でこれだけ歌が進歩している彼女が負けず嫌いなわけはないでしょう。
今回の彼女の歌唱は良い点もいっぱいあったので、このピッチの不安定さだけはぜひ克服して欲しいと思います。



今日の公演を鑑賞するそもそもの唯一の理由だったザジックのアムネリス。
彼女の歌唱と演技には、どれほど彼女がこの役を深く摑んで歌っているか、
また、彼女がずっと優れたアムネリスを歌ってこれた理由ががぎっしりつまってました。
15年前位なら、彼女が多少無理なポジションから無理矢理に音を出していたとしても、出てきた音からそれを感じることはほとんどなく、
その音のイーブンさ、無駄のないフレージングは鉄壁でした。
60歳になった今の彼女にはさすがにそんな力技は出来ないし、無理な音の出し方をするとそれは以前よりははっきりとそうとわかるようになっているし、
使っている息の量の強弱がより直接的に、あからさまな形で音のボリュームに影響を与えるようにもなっています。
でもそのおかげで、彼女がどこにアクセントを置いて、どの音を一番のターゲットにするためにどの音あたりから準備をしているのか、
またフレージングを滑らかにするためにどういう風に音符を取り扱っているか、休符も含めてどのようなためを入れているか、などなど、
彼女がアムネリス役の歌唱をどのように組み立てているかがわかってすごく面白かった。
彼女があれだけパワフルなアムネリスを歌って来れたのは、もちろん素晴らしい声・音色を持っていたこともあるけれど、
それをただめくら滅法に使っていたわけでは決してない、
その声をどう使うべきなのか、そこからマックスの効果を引き出すにはどのように歌えばよいか、
そこには、彼女の歌唱にどんな瑕もアンイーブンさも存在しなかった頃には私が気づきもしなかったような、
奥深い配慮と工夫があったことが今日の歌唱から良く良く感じられたのでした。
今考えて見ると、彼女のアムネリス役の基本的な歌い方は私が初めて聴いた時からほとんど変ってなくて、
特定の場所を指定されれば彼女のそこの歌い方をすぐに頭の中でシュミレーション出来るくらいです。
それもまた、彼女の歌唱がどれだけ思考に裏打ちされたものであったかを裏付けているな、と思います。
だから私は今シーズンの『アイーダ』初日にボロディナが審判の場で失敗したり、
他にも日によって同じ箇所なのに全く歌い方が違ったりするのにびっくりし、不思議に思い、”なんだか行き当たりばったりな歌だな、、。”と思ったわけです。

ザジックはガッティが指揮した時よりも今日の方がずっと歌いやすそうにしていたんですが、
唯一の例外は審判の場で三回登場する、ランフィス&合唱のTraditor!に続いて入ってくるAh, pietà! ah, lo salvate, Numi, pietà! Numi, pietà!の部分の旋律で、
16分休符のところからがネックで、三度ともルイージの率いるオケと彼女の歌唱のタイミングがぴったりとは収まっていなくて、そこだけは少し残念でした。

今回舞台に近い座席から鑑賞して、彼女の演技の細かいところまで生で見れて、
今まで貯まりたまったザジックのアムネリスの思い出に新しい章が一つ加わった感じがします。
全幕にわたって彼女の演技は私にとってしっくり来るもので、その解釈がベースにあるからこそ、
遠くの座席からあまり細かい演技が見えない状態で歌を聴いていても彼女の歌は私に説得力を持って響いてくるのだと思いますが、
いくつか記憶に残った部分を上げておくと、ニ幕一場でアムネリスが黒人の子供の踊りを見る場面、ザジックのアムネリスはここで全然踊りを見ていないんです。
手鏡を持ってじーっと物思い(もちろんその物思いはラダメスのことなわけですが)にふけっていたかと思うと、
片手で頬を触れ、自分が自分であることに嫌悪感が湧きあがって来たかのように鏡を伏せるのですが、
その瞬間ラダメスに愛されているアイーダとと自身を比べて、”なぜ私じゃない?”と問いかけているようでもあります。
ボロディナはこの場面では私が座っていた座席からはのんびりと黒人の踊りを見て、優しく指輪を与えたりしているように見えたんですが、
もし私がアムネリスだったなら、すでにアイーダが恋敵なのではないか?と心穏やかでない今、黒人の子供の踊りなんか心あらずに眺めるだろうと思うし、
どんな時にも気位のガードが落ちず、高飛車な様子でザジックが踊り子に指輪を与えている様子もずっとぴったり来ます。

それから凱旋の場の最後、アムネリスを褒美にとらせよう、とエジプト王が宣言した後、
ボロディナは”私の勝ちね。”とばかりにきっとアイーダを見返してから、つーん!と言う感じで前に向き直ってラダメスと退場して行きましたが、
私はザジックのように一度もアイーダの方なんか見ずにその場を去るのが正解だと思います。
アイーダの方を向いてしまったら、それは私はまだあなたと同じ場所にいるわよ、というジェスチャーになってしまう。
アイーダの方を見ないことによって、あなたは単なる奴隷、私は王女でラダメスは私のもの、
あなたと私は全く別の場所にいるのよ、という決定的なメッセージを、思い切り冷や水のように浴びせかけて去っていくことになるはずで、
その方がアイーダだってずっとこたえるはずです。
アムネリスはラダメスの心が自分にないことは十分にわかっているから、今やこの身分の違いが彼女の持ち札のすべてであって、
だからこそ、そこにすがりついているアムネリスの姿がまた切ないわけで、
ボロディナのアムネリスはそこの所をカバーせず、全くわかりやすい幼稚な演技に置き換えてしまったのは私の不満な点です。

また、ラダメスに自分と結婚してくれれば命を助けるようとりなしてみせる、という説得にも耳を貸さないラダメスへの懇願、再燃する怒り、失望、後悔、、
ザジックのこの変化の表現も素晴らしかったです。
今まで何の苦労もなく、望めば全てが与えられる環境で育って来たアムネリスが初めて経験する自分の思い通りに行かない事態、
駄々っ子のようでありながら、しかし、一方で、この取り返しのつかない事態を招いたのは自分のせいでもあるという苦い気付き、、
まさにこれはアムネリスが少女から大人になる瞬間そのものだと思うのですが、
Ohimè! morir mi sento..(ああ、死にそうだわ、、)の部分を歌い終わって、祭司達の合唱が始まるまで、
床に転がっている大きな石に座って、どうしていいのかわからない、、と片手で頭を抱えて声を潜めて泣いている様子は、
その容貌のせいで我が家では”トロールみたい、、。”とさえ言われているザジックが、一瞬少女に見えたマジカルな瞬間でした。

男性陣はあいかわらずの出来。
先週の公演の記事で、HDの日の一つ前の公演で”ガグニーゼ一人、colpireのreの音のお尻が残ってしまって”、、と書きましたが、
今日もまた少し彼の声が残っていて、半ケツくらいな感じになってました。
なのに、三幕終了後のカーテン・コールでは”すごく良い歌を出せたぜ!”とばかりに満面の笑みでオーディエンスにこたえていて、訳がわかりません。
心なしか、またルイージがスコアに目を落としながら溜息をついたような、、。本当、お疲れ様です、、。


Hui He (Aida)
Dolora Zaick (Amneris)
Roberto Alagna (Radamès)
George Gagnidze (Amonasro)
Štefan Kocán (Ramfis)
Miklós Sebestyén (The King)
Jennifer Check (A Priestess)
Hugo Vera (A Messenger)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Sonja Frisell
Set design: Gianni Quaranta
Costume design: Dada Saligeri
Lighting design: Gil Wechsler
Choreography: Alexei Ratmansky

ORCH A Even
ON

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***

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2 コメント

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去年聴きました (コバブー)
2013-01-02 15:52:17
 和慧(He Hui)のアイーダは、去年の7月に新国で聴きました。演奏会形式でしたけど。
 ちょっとクセがあって確かに音程も甘いとjころがありましたが、それでもいいいアイーダだったと思います。ソット・ヴォーチェもそれなりに使ってました。

 日本の公演が101回目のアイーダだったということでこの役を歌い込んでいるのはよくわかりました。
 ただ他の役がいいかどうかは未知数ですね。

 今年もよろしくお願いします。
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コバブーさん (Madokakip)
2013-01-03 04:24:45
明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

わーっ!和慧って漢字までパターンが増えちゃいましたね(笑)
日本のオーディエンスの方はどのように感じられたのかな、、と興味がありましたのでコメント頂いて嬉しいです。
私は実はこの記事を書き出すまで、NYフィルの『トスカ』を歌ったソプラノだということが頭の中で繋がってなくて、
検索かけて自分でびっくり!ってなことになってました。
『トスカ』の時が不調だったのか、『アイーダ』が余程得意なのか、
4年の間に相当な進歩が実際にあったからか、トスカの時と今回とでは随分歌唱から受ける印象が違いました。
ただ、YouTubeにヴェローナでのリューのアリアがありましたが、やっぱり最後にピッチがゆるくなってますね。
彼女はこれが直ればもっと歌にしまりがでて良い印象を与えられると思うのですけれど、、もったいないと思います。

http://youtu.be/6er_r0GQQ6o

でも何と言っても今回オーディエンスが直前にモナスティルスカを聴いているのは、彼女、ついてなかった、、、
モナスティルスカのアイーダは相当良いですので、あれの上を行くのは本当大変です。
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