Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

BEATRICE DI TENDA (Wed, Dec 5, 2012)

2012-12-05 | メト以外のオペラ
昨年の『モーゼとファラオ』の公演ではフレッシュな顔ぶれ(ただし老モリスは除く)の歌手たちが大健闘し、
聴きごたえのあったカレジエート・コラールによる演奏会形式オペラ公演シリーズ。
今年もアンジェラ・ミードが登場するとあっては当然鑑賞しないわけにはいかないのですが、ここで大問題発生。
ベッリーニの『テンダのベアトリーチェ』、、、? 実演どころかCDですら一回も聴いたことな~い!!!

それもそのはず、NYでは1961年のアメリカン・オペラ・ソサエティによる演奏(サザーランド、ホーンにレッシーニョの指揮という垂涎の組み合わせ!)以来、
一度も演奏されたことがないのではないか?と言われている、生で聴けること自体が非常に貴重な作品なのです。

ある演目を初めて鑑賞する時、ストーリーや歌われる言葉を全く知らないと、
その分音楽に向けられたはずの注意をかなり奪われてしまうような気がして損した気分になる貧乏性な私ですので、
初めて聴く演目については絶対にリブレット付きのCDで予習したい。
そこで、今やNYでオペラの全幕もののCDを店頭売りしている場所はメトのギフト・ショップとここだけなのでは?
と思われるダウンタウンの某電気屋のCD売り場に赴き、リブレット付きの『テンダのベアトリーチェ』という条件で探してみたところ、
在庫で該当した盤は一種類だけ。
ナイチンゲール・レーベルのスタインバーグ指揮オーストリア放送交響楽団(現在のウィーン放送交響楽団)の1992年のライブ盤で、
グルベローヴァ、カサロヴァ、モロソウというキャストです。
私はこれまでにも何度かこのブログで告白して来た通り、正直言うとグルベローヴァのベル・カントがあまり好きでないんです。
だけどそれはどちらかというと彼女の歌い方とか表現とかセンスに対する私のテイストの問題であって、
技術的には当時世界で最高レベルのものを誇っていたソプラノであることには代わりなく、
彼女が歌っているならば絶対にがっかりするようなことはないだろうし、
むしろ、『テンダのベアトリーチェ』がどういう作品なのかを知る、という目的のためには、
正確さに定評のある彼女のような歌唱を聴いておくのがかえってよかろう、と、何の迷いもなく購入したわけです。

ところが、家に帰って実際に盤に耳を通してみてびっくり仰天!
何なの!?これ!?!?
あまりにひどい、惨すぎる歌唱なのです。それもほとんどキャスト全員。
言っときますが、ヨーロッパの片田舎に二流歌手たちを集めて録音した廉価版CDじゃないんですよ。
天下のグルベローヴァに、カサロヴァがタッグを組み、音楽の都ウィーンで開かれた演奏会の録音で、
件の店では堂々と30ドル以上の価格をつけて販売されている代物なのです。
しかし、私などはまだラッキーなのかもしれない。なぜならば、CDならOFFボタン一つでストップ出来るんですから。
それに引き換え、この演奏会を実際にホールで聴いていたオーディエンスは延々この歌に付き合わなければならなかったわけで、
一体彼らはどんな思いでこの演奏を聴いていたのだろうか、、と、そこのところだけは心底興味があります。
ナイチンゲールって、ほとんどグルベローヴァの私設レコード・レーベルのようなものと私は理解しているのですが、
それならば最低限でもグルベローヴァの歌のクオリティだけは保証されているはず、、と思うじゃないですか?
ところがこの盤での彼女は全く冴えない。どころか、はっきり言ってその歌唱は聴くのが苦痛のレベルに達してます。
わざわざこんな歌唱の時の彼女をCDにして後世に残そうとする意味がわかりません、ナイチンゲール。
カサロヴァも本来はすごく良い歌手なのに、登場してすぐ歌う旋律のピッチがぼろぼろで、
良い感じでグルベローヴァとどっちが不調か?コンテストを繰り広げてますし、
モロソウに至ってはどっからこんな三流バリトンを連れて来たのか?と思うような、
まるで読経中の坊主って感じの歌唱でげんなりさせられます。唯一まともなのはテノールのベルナルディーニくらい。

またこのCDを買った最大の理由であるリブレット。これがまた信じられないくらい劣悪な品なのです。
ナイチンゲール・クラシックスのドクター・ウマン(フマン?ヒューマン?)・サレミという人物が翻訳したという英語訳、
これだったらまだグーグルの自動翻訳機能にかけた方がまだまともなものが出て来るんじゃ、、という位、
意味不明な英語のオンパレードで、誤訳・不適切な言葉はもちろん、英語としてちゃんとした文章になっていない箇所も数え切れないほどあって、
ドクターって一体何の??と聞きたくなります。
まさかこんなに粗悪な訳をリブレットにつけたものを商品として売るとはこっちは思いもしないので、
初めて意味不明な箇所が出てきた時には私の読み方が悪いのか、と何度も読み返してしまいましたが、
その後も、あるわ、あるわ、珍訳、誤訳の嵐!!!
ドクター・サレミの正体は実はグルベローヴァの故国の近所のおじさんか何かで、
翻訳代のコスト・セーブのために彼が辞書と首っ引きで適当に訳したものをリブレットに貼り付けたのだ、と聞いたとしても、私はちっとも驚かないでしょう。

そのあまりなことに、二枚組みCDの一枚目が終わらないうちにこれ以上聴き続けることは苦痛以外の何者でもない!というレベルに達してしまいました。
そして、もちろん、これまで書いて来た通り、歌手の不調や三流バリトンを混入するという痛いキャスティングも大きな理由ではあることに間違いないのですが、
もう一つ、とても重要で、とてもやばいことに気づいてしまうのでした、、。
『テンダのベアトリーチェ』の歌のパートは本当に半端なく難しい!!!
この作品がNYで60年代から一度も演奏されていないのも当然です。
こんな難しい作品、いくらミードが実力のある歌手だからと言っても、本当に歌えるんだろうか、、
いや、ミードだけじゃないです。メゾもバリトンも(テノールのパートは若干ましか?)大変ですよ。
これを、若手の歌手たちで演奏会にのせる、、、、ちょっと無謀過ぎやしないか?カレジエート・コラール、、、。

しかし、かといってこちらも予習で頓挫するわけにはいかないので、最後の頼みの綱として、
今度はサザーランド、ヴィセイ、オプソフ、パヴァロッティという組み合わせのボニング指揮ロンドン交響楽団盤をAmazonからダウンロードしてみました。
もしサザーランドも歌えない、、ということであれば、これはもう歌唱不能の作品として歴史に葬り去るしかないでしょう。
ところが、さすがはサザーランド!!!! 
いえ、サザーランドだけではありません。残りの三人も素晴らしい歌唱内容で、オケの演奏もちょっと音色が明るいですが悪くありません。
贅沢を言えば、もう少しアンブロジアン・オペラ・コーラス(特に男性)が頑張ってくれていたなら、、と思いますが、
この作品の難しさを考えると、ほとんど奇跡的な内容の演奏で、『テンダのベアトリーチェ』はこの音源さえ持っていれば他には何も要りません。
もちろんスタジオ録音で取り直しがある程度きく、ということもありますが、
さっきまで聴いていた苦行のような音楽と同じ作品なのか?と思う位素晴らしい演奏で、
こういう演奏を聴くと歴史に葬り去るにはもったいない面白い作品ではないか!と思います。
ベル・カント作品というのは他のレパートリー以上に歌唱・演奏する側の力量で、面白くもつまらなくも苦痛にもなるところが、
楽しさであり、また、怖ろしさでもあるわけですが、ナイチンゲール盤とサザーランドの盤はその良い見本でしょう。

では、この作品のどこが難しいのか、どうしてグルベローヴァやカサロヴァのような歌手でさえ手を焼くことになるのか、と言えば、
それは一言で言うとベッリーニが書いている音楽のawkwardさにあると思います。
例えば、カサロヴァが苦労していた、アニェーゼ役が一番最初に歌う”Ah! non pensar che pieno”、
この部分のテッシトゥーラの嫌らしさはどうでしょう?!
メゾにとって、すごく歌いにくい音域に旋律がのっかっているので、ピッチがぶらさがりやすい。
それから各パートの歌手にとって非常に歌いにくい種類の音のアップダウン、不自然な音程の移行、、、
これらがこの曲を大変難しいものにしていると思います。
いや、この曲、というより、ベッリーニの作品には若干その傾向があるように思うのは私だけでしょうか?

ベッリーニとドニゼッティはキャリアがオーバーラップしていた時期があったせいで、
しばしば一緒に、もしくは比較して語られることが多いですが、
私の耳にはドニゼッティの音楽の方がずっとナチュラルで、歌を歌うということの生理に忠実に書かれているように思えます。
もちろんドニゼッティの作品も、絶対的なスケールでは決して歌うのは簡単ではないですが、
訓練に訓練を重ねた歌手の手にかかると、その歌唱は、とてもナチュラルで、ほとんど苦労して歌っているように聴こえなくて、
それで私などは催眠術にかかったようにうっとりしてしまったりするわけです。
ところが、ベッリーニの作品の中には、どんなにすごい歌手が訓練に訓練を重ねて歌っても、
どこか旋律の動き方が不自然に感じられる(音型として不自然なのではなく、歌唱のメカニズムに反するような音の移動の仕方をする)、
そのために歌手が苦労して歌っているな、、と感じられる箇所が存在するものがあって、
それはサザーランドが『ベアトリーチェ』のCDでほとんど信じられないような高レベルの歌唱を披露していても、
やっぱりそれをちらっと感じてしまう時があるし、”清き女神”のような名曲でもやはりそのawkwardさを感じる部分があって、
だからドニゼッティの作品を歌う難しさとベッリーニの作品を歌う難しさは厳密に言うと少し違っているな、と思うのです。
ベッリーニがドニゼッティほどには歌を歌うということのメカニズムへの理解もしくは作曲中に上手く取り込む能力に優れていないからなのか、
それともそれを十分持ちつつ敢えて、、なのか私にはわかりませんが、後者だとすると、相当なサディストぶりで、
今回の『テンダのベアトリーチェ』の予習・鑑賞を通じて、ベッリーニ=サディストという等式が私の頭に刻み込まれました。
それ位、この作品は歌うのが大変な作品なのです。

話のあら筋だけ聞くと、びっくりするほどドニゼッティの『アンナ・ボレーナ』に酷似していて(作曲は『アンナ・ボレーナ』の方が3年早い)、
舞台をイギリスからイタリアに変えただけやんけ!と突っ込みたくもなりますし、
『アンナ・ボレーナ』に比べると、かなり話の進行の仕方がぎこちなくて、
”んな馬鹿な、、。”と思うところや、正直、リブレットを読んでいるだけでは何が何やら、、のシーンもあります。
私の隣のボックスにいたおば様も、一幕が終わったところのインターミッションで、
”何だか全然意味が良くわからないんだけど、説明してくれる?”と一緒に鑑賞されていたお友達にヘルプを求められていました。
ということで、カレジエイト・コラールが作成してプレイビルに掲載しておいてくれたあらすじをこちらにつけておきます。
特にアニェーゼとオロンベッロの相手取り違えのシーンはリブレットからだけだとかなり意味が摑みずらいし、
ベアトリーチェと前夫のことやフィリッポとの再婚の経緯は詳しく語られないので
(いきなり前夫ファチーノの名前が出て来たりして、誰よそれ?って感じです。)おば様が混乱されるポイントとなっていました。

しかし、一方で『アンナ・ボレーナ』とは決定的に違っている部分がいくつか『テンダのベアトリーチェ』にはあって、
それがこの作品を非常にユニークなものにしています。
一番ユニークな点は、この作品における合唱の役割です。
さすがにカレジエイト・コラールが企画している演奏会だけあって、合唱が単なる添え物になってしまっている作品では全くないのです。
一幕の冒頭近くでは、まず宮廷のフィリッポ派として、フィリッポにベアトリーチェとの離縁をそそのかす邪悪な役割を果たしているのが印象的です。
その一方でベアトリーチェのお付きの女性たちがいかにベアトリーチェを慕い、最後に彼女の処刑を悲しむか、これを表現するのも合唱の役割だし、
かと思うと、兵士達としての合唱は、オロンベッロにはもちろん、フィリッポにさえ一歩退いた冷ややかな視点を持っていて、
この兵士の合唱の使い方はこの作品に独特のレイヤーを与えています。
しかもニ幕には男声合唱にオロンベッロが拷問に折れて虚偽の告白をしてしまうまでのいきさつを説明する語り部的な役割まで与えられているのです。
合唱の使い方に定評がある作曲家というとすぐにヴェルディが頭に浮かびますが、
彼の場合は民衆とか宮廷の人々といったマスを主役にした合唱(ナブッコ、アイーダ、オテッロ、ドン・カルロ、シモン・ボッカネグラ、、)で
オーディエンスがマスの一人になったような気分にさせるところに特異な才能があるわけですが、
(これまでアイーダを聴きながらエジプト人の気分になったり、ナブッコを聴きながらヘブライ人になったり、、ということが何度あったか。)
『テンダのベアトリーチェ』の合唱は、そういうヴェルディ型の合唱とは違って、
まるでソリストたちと並んで、フィリッポ派の宮廷人、ベアトリーチェのお付きの女性、兵士達という独立した、それも重要な役柄があって、
それをたまたま合唱という複数の人数で歌い演じている、そういう感じなのです。
ということなので、合唱は技術のみならず演じている役柄に合わせた表現力も求められるわけで、
そういう意味では前回の『モーゼとファラオ』よりも難易度が高いように思うのですが、
案の定というか、そこまでカレジエイト・コラールに期待するのが間違いなのかな、、
何とか楽譜を辿っている(いや、場所によっては辿れていないところもありましたが、、、)という感じで、
役の表現なんていうレベルには全然。

もう一つ、『テンダのベアトリーチェ』が『アンナ・ボレーナ』と決定的に違っている点は、
アンナ・ボレーナが最後にほとんど狂気と正気の境のような特殊な状態になって処刑台に向かって行くのに対して、
ベアトリーチェは徹頭徹尾正気のまま、その過程でアニェーゼやフィリッポを許しさえして、死に向かう、という、このキャラクターの差です。
アンナ・ボレーナの強さが彼女の片意地や気の強さに現れるとすれば(彼女は絶対にエンリーコやジョヴァンナを許したりはしない。)、
ベアトリーチェの強さは、正しい生き方をした人間には心の平安が訪れるという信条から来るもので、
それがあれば本来恨んで死んでいってもおかしくない相手ですら許すことが出来る、という独特のしなやかさに特徴があります。
この作品のベアトリーチェのパートは純粋な技術上の難易度だけ言っても成層圏外級ですが、
それ以上に、本当の難しさは、それをやりながら、ベアトリーチェのしなやかな強さを表現しなければならないところにあるんだと思います。
ナイチンゲール盤のグルベローヴァのような絶叫モードが延々続く、、という歌唱ではそれは絶対に無理なのであって、
サザーランドの独特のおっとりした雰囲気と、それから超難易度の高い歌をそうと感じさせず軽やかに歌いこなせる技術があってこそ、
この役の本当の姿が見えてくるというものです。
話の筋としては非常にドラマティックでありながら、ここが『ノルマ』のような作品とは決定的に違う点で、
ベアトリーチェ役はそのようなしなやかさをもって歌われるのが理想であり、
もし力のあるソプラノがこの役に入ったなら、そういう歌い方をするだろう、という理解と予想をもってオーケストラは演奏しなければならない。
ところが今回私がカレジエート・コラール以上に失望したのが、アメリカン・シンフォニー・オーケストラの演奏です。
小さな部屋で象が暴れまわっているかのような力任せの演奏に、歌手たちの歌唱が象の鼻やしっぽでなぎ倒される花瓶や額縁のように見えました。
例えば、第一幕第一場のフィリッポの最初の聴かせどころで、
最後に合唱を伴って大きく盛り上がる"ああ、神々しいアニェーゼよ Oh! divina Agnese"、
ここはバリトンが最後にハイノートを(おそらくオプショナルだと思いますが)決められる箇所で、
今日フィリッポ役を歌ったポーレセンは高音域に強みがある人ですので、当然のことながらここで高音を入れてくれたのですが、
あろうことか、アメリカン・シンフォニー・オーケストラのまるでワーグナー作品を演奏しているかのような大音響に完全にかき消されてしまい、
これはないよな、、、と本当に気の毒に思いました。
それから第四場の、こちらもハイライトの一つであるベアトリーチェの"私の悲しみと怒り、無為な怒りを Il mio dolore, e l'ira, inutil ira"は
ベアトリーチェ役のソプラノのパートとホルンとの掛け合いが非常に美しいんですが、
決してか細くないミードの声をいとも簡単になぎ倒す大音響のホルン・ソロに私が怒りで肩を震わせていたことは言うまでもありません。
アメリカン・シンフォニー・オケのメンバーのセンスの無さもあまりといえばあまりですが、
しかし、これは指揮のバグウェルがばしーっ!と、”ベル・カント・オペラの演奏はそんなに力任せでなくてよろし。”
というメッセージを出さなきゃいけないんじゃないでしょうか?
ベル・カント・オペラのオケ演奏は、歌手の歌の美しさを引き立てつつ作品のドラマを観客に伝えなければならない、という独自の難しさがあって、
ベル・カントのオケ演奏を簡単だと言ったり貶めたりする批評家や演奏家やオペラファンはなーんもわかってないのね、、と思います。

今日の演奏はおしなべて歌手の歌唱が力任せに寄っていたように思うのですが、
これはバグウェルとアメリカン・シンフォニー・オケのセンスない力任せ演奏に対抗しなければ、、
(じゃないとオーディエンスに声が聴こえないのではないか、、という心配で)と、歌手達の歌が押し気味になったのも一因だと私は思ってます。
これじゃしなやかに歌おうと思っても無理ってもんで、ほんと、ベル・カントの世界においては犯罪行為に等しい演奏でした。
バグウェルはオペラ刑務所行き確定。
こういうのを聴くと、キャラモアのクラッチフォード氏のベル・カントものの指揮は、オケの地力の差もあるかもしれませんが、
きちんとおさえるところをおさえてくれているな、、と思います。



今回の演奏で興味深いのはキャストに映画『The Audition』でとりあげられた
2007年のナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズのファイナリストが3名も含まれている点です。

フィリッポ役を歌うバリトンのニコラス・ポーレセン。
フィリッポ役はミラノ公としての威厳と気品を表現するためにも低音域がしっかりした成熟した感じのするサウンドが必要で、
それは『アンナ・ボレーナ』のエンリーコ役にも共通するところかな、と思うのですが、
フィリッポ役が大変なのはその上に先にも書いたような高音で勝負しなければならない箇所もある点で、
この両方を二つ満たすのはなかなかに大変です。
件のサザーランドの盤でこの役を歌っているコーネリアス・オプソフというバリトンはこの二つを上手くクリアしていて、
私は今回の盤で知るまで名前も存じ上げない歌手だったのたですが、カナダのバリトンで2008年にお亡くなりになっているようです。
ポーレセンは何と言ってもまだバリトンとしては年若いこともあって、成熟した男性というよりは若竹のようなサウンドで、
中音域以下にまだ魅力的な音が出来上がっていないのが残念。
役を良く準備して来たのは良く伝わって来るのですが、それだけではカバーし切れないサウンド面での不足が物足りなさを誘います。
またフレージングの固さも今後改善すべき課題かもしれません。
ただし、高音の美しさ、これは注目に値するものがあって、本当に響きの美しい音を楽々易々と出してくるので
(第二幕第一場のラストで合唱を伴って歌うNon son io che la condanno以降の部分の最後の高音なんか、本当に綺麗でした。)
彼の持っている音域は普通のバリトンよりもちょっと高い方に寄っているような印象を持ちます。

アニェーゼ役のジェイミー・バートンは先日のタッカー・ガラでの若手にしては非常に完成された『フォヴォリータ』からのアリアが印象に残っていて、
今日の公演での彼女の歌唱を大変楽しみにしていたのですが、
アリア一曲歌うのと、全幕を歌うことの違い、というのはこういうことを言うんだろうな、、と思います。
彼女は高音に関してはソプラノに負けない破壊力ある音を持っていて、これは今後のキャリアで大きな切り札で、
将来いつか、ミードのノルマ、バートンのアダルジーザで『ノルマ』なんてことも十分可能性があると思います。
第一幕の最後の合唱も加わった四重唱でのミードとの高音の戦いはまさにゴジラvsガメラ!で、一騎打ちという言葉がぴったりでした。
でも今回の彼女の歌唱に限って言えば、それが多少仇になった部分もあるかな、、と思います。
バグウェルの指揮が足を引っ張っていたのは承知で言うと、今日の彼女の歌には全く引きがなくてあまりに押して、押して、押して、で、
これじゃオーディエンスも疲れてしまいます。
全幕で主役・準主役級の役を歌う時は、単に旋律を歌うではなくて、やはり物語のストラクチャーとかそういうことも考えながら、
歌を構成していかなければなりません。
そう、彼女の全幕の歌にはまだストラクチャーが感じられない。
カサロヴァが苦労していた例の一幕でアニェーゼが初めて歌うフレーズは今回舞台袖から歌われたのですが、
バートンもやっぱりピッチを納めるのに苦労していて、その上に例の押して~が加わるので、全く美しくなかった。
ここって、先にも書いた通り、旋律がとても嫌らしい音域に乗っているので、歌うメゾも本当に大変だと思うのですが、
ここでフィリッポとオーディエンスを骨抜きにするような色気のある歌を歌うのと、
なんか聞苦しい音が必死の体で鳴ってる、、というような歌を歌うのでは、
その後のアニェーゼ像に大きなインパクトがあると思うのです。

それにしてもこのアニェーゼという人は、妙な突っ走り方といい、ああ勘違い!な度合いといい、
ヴェルディの『ドン・カルロ』のエボリと良い勝負をしてます。
いや、人のものを勝手に盗んだりするところなんか、実にそっくりで、まことにいやらしい!!!
でもオーディエンスに完全な勘違い女のレッテルを貼られないためには、歌で、この女性の魅力を100%伝えなければならない。
なんてったって、フィリッポはもうベアトリーチェからこのアニェーゼにすっかりほだされている状態で、
しかもオロンベッロさえ落とせる!と思っているらしい自信満々の様子からして、アニェーゼも相当美人のはずです。
こういう女が作品が違うと、”呪われし美貌”なんてアリアを歌ってしまうわけですな。
メトの2010/11年シーズンの『ドン・カルロ』ではスミルノヴァの歌があまりに駄目駄目なせいで、エボリの役に全く説得力がなく、
”美貌?何の話?”ってなことになってしまっていましたが、
魅力的な歌を歌わなければ、同じようなことがこのアニェーゼ役にも起こってしまうわけです。
その点で言うと、バートンの歌は、んな馬鹿な、、、というレベルにまでは落ちていませんでしたが、
じゃ、十分に説得力のある色気ある歌だったか、というと、そこまででもない、、という感じで、まだまだ精進の余地はありそうです。

難役ベアトリーチェにチャレンジしたミード。
オペラハウスでの全幕公演のように数公演回数があるものと違い、たった一回の演奏会形式での演奏のためだけに、
よくここまで準備のエネルギーを注ぎ込めたもの、と本当に感心します。
いや、この役で舞台に立つ勇気があるソプラノはどんなソプラノでも、まずその心意気だけで称賛されるべき。本当、それ位大変な役だから。
今まで彼女の出演しているオペラの公演や演奏会を鑑賞して、彼女がきちんと準備して来なかったな、と感じたことは一度もないのですが、
今回もその例に漏れず、音楽的にはかなりレベルの高い内容の歌唱で、特にベアトリーチェがフィリッポ、アニェーゼ、オロンベッロ、
すべての人間を許して死の場所に向かうニ幕ニ場(ここは『アンナ・ボレーナ』の狂乱の場に対応する場面なんですが、
先に書いた通り、ベアトリーチェは最後まで狂っているわけではないので、狂乱の場という呼称はふさわしくないのかもしれません。
しかし、ソプラノが持っている全ての歌唱技術を披露しつくす場面、という意味では、まさに狂乱の場以外の何物でもありません。)での歌唱の完成度の高さは、
多分、今、このような難役を歌わせてこんな内容の歌を歌える人が他に一体何人いるのか?と聞きたくなる位です。
しかし、表現の話をすると、このニ幕ニ場で彼女が見せた表現の豊かさに比べると、若干他の部分の味付けが薄かった感じがあって、
さすがに深くこの役を読み込んで、それを歌に反映し切るだけの時間はなかったのかな、
もしくは彼女のような技術的に卓越したものを持った人でもこの作品でそれを成し遂げるまでに至るにはさらに長い長い道のりが必要なのかな、と思います。
彼女がメトで『アンナ・ボレーナ』を歌った時は本当に一つ一つのフレーズが細かく練れていて、アンナの感情が歌に完全に織り込まれていたし、
今日も狂乱の場に関してはそれを成し遂げていたわけですから、それが出来る歌手であることは間違いないのですけれど。
後、ニ幕一場前半の重唱での彼女の歌唱もすごく良かったです。ここはオケなしでベアトリーチェの声一本で進んでいく箇所があったりして、
この作品の中でもすごく面白い箇所の一つ。
そういえば、ここの部分には、『ワルキューレ』の最後でヴォータンがブリュンヒルデを火で包むべく、ローゲに呼びかける直前の金管のフレーズまんまの部分があって、
ワーグナーが『ノルマ』を評価していたという話は聞いたことがありますが、この『テンダのベアトリーチェ』からも軽く失敬していることが発覚しました。
エボリやアニェーゼ並みのずる賢さですな。

ミードの歌唱がオケの薄い箇所ほど良かった、というこれらの事実により、再び罪状を重ねた感があるのはバグウェルです。
彼女も他の箇所に関してはバートンと同様に押しがちになる傾向があって、オケがあんなに爆音を立ててなかったら、
もうちょっと違う結果になったかもしれないな、、と思います。
ただ、バートンに比べると、ミードの方が作品の全体を考えながら歌う、ということが既に出来ていて、
『The Audition』組の中ではやはり頭一つ、二つ、三つ位図抜けていると言ってよいと思います。

ミード以外に面白い歌手がいたとすれば、それは『The Audition』組でなく、意外にもオロンベッロ役を歌ったマイケル・スパイアーズでした。
彼は今年のキャラモアの二つの公演の片割れ(ロッシーニの『バビロニアのシーロ』)にも出演していたそうなんですが、
私は『カプレーティとモンテッキ』の方を観に行って、バビロニア~の方を鑑賞しなかったので、彼の名前は今回全くのノーマークでした。
公演前にちらっと目を通したプレイビルにはミズーリ出身のアメリカ人とあって、
アメリカ人の歌手は大抵アメリカのオペラハウスのヤング・アーティスト・プログラム等でキャリアを積むケースが多いので、
ここアメリカであまり名前を聞かないということは、それほど期待できない、ということなんだろうな、、と思いつつ公演を聴き始めました。
ところが、これがどっこい、彼の歌唱を聴きすすめるうち、予想を裏切るしっかりした歌で、
彼も若手に違いないのに、バートンやポーレセンに比べて明らかにフレージングもこなれていて歌に落ち着きがあるし、
表現力もあるし、一体どこで歌って来た人なんだろう?と嬉しい驚きを感じました。
私はちょっと昔の歌手っぽい、レトロな感じの歌い方をする・ティンバーを持っているテノールに弱い(甘い)ところがあるので、
それも一因かもしれませんが、そんなに歌唱量の多くない、しかもダメ男の代表のようなこのオロンベッロという役で大きな印象を残すとは将来が楽しみです。
彼のトップのきちんと開いたサウンドは本当に魅力的ですので、このまま研鑽を続けて頂いて、ぜひメトにも登場して欲しいと思います。

YouTubeに彼の歌唱がアップされていましたので一つ紹介しておきます。
一緒に組んでいるソプラノが彼のレベルでないのが悲しいですが、グノーの『ロメオとジュリエット』からの二重唱で、
彼の歌唱の魅力の一部が良く出ている音源だと思います。



このスパイアーズとかコステロとか、若手で面白いロメオを歌えるテノールが出て来ているのに、
どうしてメトではひっきりなしにアラーニャとかジョルダーニとかおっさんテノールばっかり投入してくるんでしょう、、。
ロメオは何歳だと思ってんだ、って話ですよ、全く。


Angela Meade (Beatrice di Tenda)
Nicholas Pallesen (Filippo Maria Visconti)
Jamie Barton (Agnese del Maino)
Michael Spyres (Orombello)
Nicholas Houhoulis (Anichino)

Conductor: James Bagwell
American Symphony Orchestra
The Collegiate Chorale

Carnegie Hall Stern Auditorium
Second Tier Center Right Front

*** ベッリーニ テンダのベアトリーチェ Bellini Beatrice di Tenda ***

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10 コメント

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Freni as Beatrice (名古屋のおやじ)
2012-12-17 15:28:51
このオペラ、サザランドやグルベローヴァの録音の他に、マリアンナ・ニコレスコやルチア・アリベルティが主役を歌った正規盤などもありますね。今回、予習用に使われた録音は、デッカレーベルにおけるサザランドとパヴァロッティの共演第一作だったような記憶があります(ちょっと自信ないけど)。スカラの舞台写真が使われていますが、あの舞台にはライナ・カバイヴァンスカも出ていたと思います。

私がこのオペラの音楽(ほんの一部だけですが)を初めて耳にしたのは、ガン撲滅のためのチャリティーとして制作されたDGレーベルの『オペラ・スター・チャリティ』というLP。三十数年前のことです。歌っていたのはミレッラ・フレーニでした。実はこれが私のとってのフレーニの歌声初体験。彼女は舞台でもこのオペラの主役を歌っていた時期があって、非正規の録音盤も存在します。

今回のミード、素晴らしかったことでしょう。近い将来、実演で彼女の歌いぶりに接する機会があればいいのですが。
返信する
名古屋のおやじさん (Madokakip)
2012-12-18 12:00:43
>デッカレーベルにおけるサザランドとパヴァロッティの共演第一作だったような記憶があります

ありがとうございます。自信ないけど、なんておっしゃっていますが、その通りで、
アルキーフのサイトにも、“Sutherland's collaboration with Pavarotti began in 1966 with Beatrice di Tenda. “とありました。
そうだったんですね、、、パヴァロッティとサザーランド共演のCDはベル・カント好きにはマストのアイテムですので、
我が家にもあれこれとありますが、この『テンダのベアトリーチェ』が第一弾だったとは、、実に感慨深いです。
この作品はテノールの出番がそんなには多くなくて、
『アンナ・ボレーナ』のパーシーと比べてもそんなに技術的にめちゃくちゃ難しいわけでもないのですが、
この頃のパヴァロッティって本当に歌い方が丁寧、声もめちゃくちゃ綺麗で、
もうこの盤からすでに只者のテノールではない雰囲気を漂わせていますよね。

フレーニ!!!??
本当だ、、音源がありますね。

http://youtu.be/qqeCAdXhJR4

ヴィオレッタとかも歌っていたと聞いてはいても、
私などはどうしても彼女はリリコの人のイメージが強いので、
ベアトリーチェみたいな役を歌っていたというのは本当びっくりです。
でもこの役を歌えるということはアジリティも含めたベル・カントの基礎がすごくしっかりしているということなのでしょうね。
音色がちょっと強いな、と思いますが、きちんと歌っていますね。
さすがだなあ、フレーニ、、。

後、1961年にNYでタッグを組んだのと同じコンビ、サザーランドとホーンのこんな音源もありました。
(ただし、この音源はロンドンで録音されたもののようです。)
オロンベッロが天使の声に触れ、それに感化されるようにベアトリーチェがアニェーゼを許す感動的な場面、
“平安の天使が Angiol di pace”。
もう一体この歌唱はどうでしょう!?こんなの生で聴いてしまったらあまりの美しさに悶え死に確実です。
それからオロンベッロのパートを歌っているこのリチャード・コンラッドというテノールはご存知でしたか?
歌い始めた時、女性かと思ってぎょっとしました。
(それを言えば、マリリン・ホーンも初めて声を聴いた時、野郎かと仰天した覚えがあります。)
今ってこういう音色のテノールって、あんまり存在しないように思うのですが、、
なんか変種のカエルを見てしまったような“ぎょっと”感がありました。

何度聴いても美しいんだかへたれなんだかよくわからないサウンドなんですが、
この場面においては、そして、サザーランドとホーンと一緒という枠組みにおいては,
不思議な美を醸しだすのに成功してしまっていて、すごく面白い音源だな、と思いました。

http://youtu.be/fF6UTWE5qL0
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Unknown (starboard)
2012-12-19 04:03:56
先月はホールの図面の件で有難うございました。あれを提出した訴訟の2回目の公判が明日あります。って、オペラ談義らしからぬ書き出しで、すみません。

> ベッリーニの作品の中には、どんなにすごい歌手が訓練に訓練を重ねて歌っても、
> どこか旋律の動き方が不自然に感じられる(音型として不自然なのではなく、歌唱のメカニズムに反するような音の移動の仕方をする)、
> そのために歌手が苦労して歌っているな、、と感じられる箇所

これって、具体的な音源で、XX'XX"の箇所とか指定して教えてもらえないでしょうか?
最近自分の苦手な、どうやら他人は感じていて、自分が弱いらしい部分を意識して開発してみようと思っていて、これはヒントになりそうな気がするのです。でも、なかなか印象論から先の話をするのは難しく、こういったことの言語化に付き合ってくれる人はいないので、Madokakipさんにお願いする次第です。
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starboardさん (Madokakip)
2012-12-19 12:46:31
こんにちは。

>ホールの図面の件

いえいえ、微力でも何か役に立てたとしたら嬉しいです。
京都会館についての記事もいつも興味深く読ませて頂いていますよ~。
いつも本当に忙しくしていらっしゃるようですが、どうぞ、体だけは大事になさってくださいね。

>これって、具体的な音源で、XX'XX"の箇所とか指定して教えてもらえないでしょうか?

私の説明の仕方が悪くてstarboardさんから見るとやっぱり印象論じゃん、、ということにならなければいいな、と思いますが、なんとか言語化してみます、、

例えば、こちらは『テンダのベアトリーチェ』の第一幕で、
ベアトリーチェが登場してほとんどすぐに歌う“Ma la sola、ohimè ! son io“です。

http://youtu.be/JR1rJjVn6GQ

こちらのコメント欄で書いている人がいる通り、
Yes, the vocal line Bellini wrote is extremely difficult, specially difficult to sing it as if it's easy and sing it beautifully. (ベッリーニが書いたヴォーカル・ラインはきわめて難しい。特にそれが簡単であるかのように、美しく歌うのは。)
まさに!

http://youtu.be/EN2lenWpetg

こちらはスコア・アニメーション(上の音源を端折ったもの)ですが、
例えば2:13あたりのed io potei とか嫌らしいなあ、、と思います。
Teのところから音が上がって鏡に合わせたように同じ音で下がっていく、
サザーランドだからいとも簡単にやっていますけれど、
ここで音の粒を揃えて完全な対称を感じさせながら、
しかもカクカクした感じになったり、慌てて音をひっかけただけ、みたいにならずに、1つ1つの音を大事にしながら滑らかに歌うのって、本当難しい。

この部分がせかせか慌てモードになってしまっているのがこちらのジェンチェルの歌唱ですが、この部分以外もサザーランドの歌唱と比べると数々の難があるのがわかります。

http://youtu.be/3tRPArVOfog

ジェンチェルも良い歌手なんですけど、まあ、いかにこのパートが難しいか、ということでしょう。

後、不自然といえば、私は“清き女神”もすごく歌いにくい、ある種の不自然さを感じる旋律だと思っているんです。(もちろん、すごく美しい曲ですけれど)

http://youtu.be/ESlbGh_8480
(Casta Divaは4:20からです)

こちらはカラスのCasta Divaですが、6:26からの旋律とか(考えてみたらここも鏡系ですね)歌いにくそうだな、、と思いますし、
それから少し前に戻って5:50からずっと音が下がってきて、
カラスはte il belのteの前にはっきりとしたブレスを入れてますよね。
これもずーっと休符がなく、しかもこっそりとブレスをしのびこませる場所すらないのでこんなことになってしまうんだと思うんです。
他の歌手も大体カラスと同じ感じに処理していることが多いと思うのですが、
ここで一瞬、音楽のアークが切れるような感じがしますよね。
しかし、スコア・アニメーションのサザーランドの歌唱は、
http://youtu.be/VNS4iRXSpoI
キーを下げることによってここでカラスのような大きなブレスを入れる必要性をなくし、
素早くブレスして、まんまとこの問題を逃げ切っています。
しかし、それにしても、なんという曖昧なディクションでしょう!!
サザーランドは何を歌っているのかわからない、と、良くディクションの曖昧さを指摘されることが多かったそうですが、それが炸裂してますね。

やっぱり歌手は適当なインターバルで息を継がなければならない、という前提で作曲すべきだと思うのですけれど、
ベッリーニの曲を聴くと、まるでピアノで弾ける通りに声も歌える、という前提で曲を書いているような印象を持ちます(ピアノは息継ぎしなくていいですからね、、。)。
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早速たくさんの動画を (starboard)
2012-12-20 05:53:48
有難うございます!
スコア・アニメーションとは、なんと便利な。とても勉強になります。このような有難いものを作っている方は、声楽の教材として提供しているのでしょうか。

ですが、本日YouTubeの具合がとても悪くて、最初から全然再生出来なかったり、運良く再生が開始しても途中で止まったりしていて、挙げて頂いた動画が録に試せていない状態です。YouTubeのインターフェイスも見慣れないものになったような気がするので、変更直後で安定しないのかもしれません。時間を変えて出直すことにします。

カラスのCasta Divaの動画のご紹介、有難うございます。私が今回の質問に至ったのも、世評高いカラスのCasta Divaに私はとてもとても引っ掛かるのですが(良くない方に)、聴かなくてもよいものを必要以上にキャッチしてしまって選択と集中が出来ていないのではないか、どうすれば聴けるようになるのか、そのヒントがあるのでは、と考えたからです。まさにその謎が解けるのではと、いそいそとリンク先をクリックしたところ、「この動画には Pirames International Srl さんと EMI さんのコンテンツが含まれていますが、お住まいの地域では著作権上の問題で一方または両方の所有者によりブロックされています。」との表示が!OMG!! 最初に挙げてもらったベアトリーチェは再生出来たのに、なんてこったいorz(←がっくりうなだれるゼスチャー)

ここで著作権に関する長い長い雑談を思いつきましたが、あまりに長いので割愛しますが、日本では権利切れのコンテンツの方が野放図な権利主張者の存在で変なことになっている状況があります。Naxos Music Library(.com)なんかでも、古い音源だと日本からのユーザはアクセス出来なくなったり(←逆だろ、逆!)。

話を戻して、時間だけをヒントに別の音源で確認出来ないかなあと探してみたところ、今まで聴いたことのない音源に当たり、そして、この音源では私の引っ掛かりが殆どないか、あったとしてもとても小さいことに気がつきました。その音源はこちらです!

Maria Callas "Casta diva" Buenos Aires 1949
http://www.youtube.com/watch?v=aM9t6azei-E

今日はYouTubeの再生が困難なので他の音源との比較などが出来ないのですが、さまよっているうちにまた別のヒントが見つかりました。

時間を改めて、挙げてもらったスコア・アニメーションも見て、もうちょっと分析してみます。

> 歌手は適当なインターバルで息を継がなければならない、という前提で作曲すべき
それはその通りですね。ただ、なにげにうまくやれてることもある気がして、それはその人が特殊なのかもしれなくて、やっぱり多くの人が歌いやすくないと作曲が上手くないってことかもしれませんが、なんか発想の転換があり得るんじゃないかという気もします。

ただ、スコア見たら、とても私は歌えないですよ(←当たり前)。
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なんとか聴きたい (コバブー)
2012-12-20 09:50:45
 演奏会形式でもいいので、なんとか実演を聴きたいと願っているオペラの最右翼です。
 一応アンダーソンを主役にしたベネチアのライブ(たぶん海賊版)を持ってますが、いい曲だとは思うんですが全貌がよくわからないところがあります。

 最近日本でも、ベルカント・オペラを小さな団体でやっているところが増えていますので、いつか聴けると思っています。

 ミードはリサイタルでいいので、なんとか来日してくれないですかね。
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starboardさん (Madokakip)
2012-12-20 14:36:38
>スコア・アニメーションとは、なんと便利な
>声楽の教材として提供しているのでしょうか

本当に。ご紹介したものの中にはスコアの持ち主(アップした人?)の書き込みがあったりして涙を誘います。
YouTubeが不安定で、いくつかは著作権の関係でご覧になれないものもあるとのこと、
『ノルマ』は1954年録音のセラフィン指揮の盤だと思います。
他にもアップしていらっしゃる方がいるかもしれませんが、
お送りした音源をアップされた方は年とか何もdescriptionに書いていらっしゃらないのに(多分目をつけられるのを防ぐため?)、
そうやってフラグされてしまったみたいですので、多分ご紹介しても同じ状況じゃないかな、と思います。
Amazonなら曲ごとに購入することも出来るようなので、最後の手としてそれで入手される手もあります。

1949年のブエノス・アイレスの音源、拝聴しました。
この時と54年の録音で大きく違う点の一つは彼女の体重とそれによる声の音色の違い、そしてそこから派生するテクニックへの影響ですね。
ご存知だと思いますが、カラスは53年から54年の頭にかけて、ものすごく体重を落としました。
体重は声に関係がない、という説を支持する方はオペラに詳しい方の中にもたくさんいらっしゃいますが、
私は“多いに関係ある“派です。
私は犬を飼ってますので、うちのわんを連れて公園に散歩がてらに、
色んなほかのわんを観察するのが大好きなのですが、
一般論として、大きい犬ほど声が太く低く、小さい犬ほど軽くて突き刺すような音である、
と結論付けることに全く躊躇しません。
我が家の二匹など、同じ犬種ですが、ややふっくら気味の長男とスリムでカール・ルイスが犬になったような体型の次男では、
もう全然吠え声が違います。
人間の間には犬種間ほどの差はないですし、また、個体差の方がその一般論を凌駕してしまうことがあるので、
一概に言えない、、というような説が出てきてしまうようですが、
一般論としてはやはり、太っているほど、豊かな(大きい、ではなく、豊かな、です)音が、小さく痩せているほど耳に鋭い音がするのです。

これは歌手にも同じことが言えて、体のでかい(まあ、はっきり言うと太っている)ソプラノ歌手が出す柔らかくて豊かな音は、
例えばデッセイのような細身の歌手には、彼女がどんな優れた歌手であっても、絶対出せないものだと思います。

カラスですが、49年と54年のブレスを比べると受ける印象が少し違っています。
ここのブレスを限りなく存在しないかのようにスムーズに歌える歌手の一人にカバリエがいますが、

http://youtu.be/FIQQv39dcNE

彼女も大巨体で、こんなにスムーズに歌えるのは1つには技術だけではなく、
彼女の声の性質によるところも大きいのでは?と私は思っています。
サザーランドのCasta Divaを例に出した理由は、これと少し関係があって、
サザーランドはキーを下げることによって、
人工的に、楽に柔らかく豊かに歌える状況を作って、
あの部分を軽やかに歌い、その結果ブレスを入れやすい、
また入れてもカラスの54年の歌唱のようにあからさまにならないような作戦をとっています。
サザーランドはベル・カントのソプラノの中でも特に高音そのもののセキュアさでは定評のあった人ですから、
単に高音が出ない、という理由でキーを下げたわけではないはずです。
カラスとサザーランドの音源から聴こえるブレスの印象の違いは、車のブレーキにもたとえられるかもしれません。
あのブレスの前までカラスはアクセルを吹かしまくっているような歌い方をしてますよね(私なんかは彼女のそういう怖いもの知らずのところが好きなわけですが。)。そこで急にブレーキを踏むと、止る時にキキーッというような感じにどうしてもなってしまいます。
そこをサザーランドは時速30キロくらいで走っている感じ にしておいて、
そうすれば、同じようにブレーキを踏んでも、走りは比較的なめらかなまま、、という、そういうトリックになっているんだと思います。
でも、あそこはサザーランドみたいに歌っちゃ、パッションを感じられないんですよ。

>やっぱり多くの人が歌いやすくないと作曲が上手くないってことかもしれませんが

ベル・カントをレパートリーの中心に置いている歴代の歌手たち、
カラス、サザーランド、カバリエ、デヴィーア、グルベローヴァ、
アンダーソン 、、といった人たちは技術に関しては一級も一級、
これ以上人の能力としては上手く歌えない、というような歌を歌っている人たちですから、
彼女たちが歌ってもなお問題が出てくるようなものは私は個人的にはそれってどうなの?と思います、、。
作曲家として、歌手としての人間わざの限界を知るというのも大事なことなのではないかと、、。
単に技術的に難しい、ということであれば、ロッシーニもドニゼッティも全然負けてないと思いますが、
この二人にはベッリーニで感じる種類の“そんな殺生な、、。”感を持つことは私は少ないんです。
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コバブーさん (Madokakip)
2012-12-20 14:39:08
そうなんです!
美しい旋律が散りばめられた良い作品なんですよね、、。
カレジエイト・コラールがこの演奏会の前に作ったビデオがあって、
そこで指揮者のバグウェルが自分もさっぱり意味が良くわからないですけれど、と前置きしたうえで、
一般的にこの作品がオペラハウスで上演されない言い訳のひとつとして、
“舞台化するのが難しい。”というのが良くあがる、と言ってました。

そんな言い訳をしている輩には“嘘付け!!”と言ってやりたいですよね。
だって、ストーリーはまんま『アンナ・ボレーナ』ですよ!!!
『アンナ・ボレーナ』が上演できて『テンダのベアトリーチェ』が無理、ってのは理屈にあいません!
なんだったら、同じセット使ってメトで両演目上演してもいいんじゃないの?って言うくらい。

だし、ステージングが難しいだけなら、もっと演奏会形式で取り上げられていてもおかしくないですよね。
やはり、なんといっても歌える人がいない、これにつきるでしょう。
日本でお聴きになる機会が訪れたら、ぜひ、またこの欄に書き込んでくださいませ。
なぜならば、多分、NYでも次に聴けるのはまた50年後?(もう私は生きてないな、、これは、、。)って感じで、
このブログでこの作品の記事を書くのはこれが最後になるかもしれませんから、、。

>ミードはリサイタルでいいので、なんとか来日してくれないですかね

ヨーロッパの劇場なんかでは歌っているみたいなんですけれど、、
よし!次のメトの日本引越し公演で『テンダのベアトリーチェ』をミードで、って言うのはどうでしょう?
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やっと全部 (starboard)
2012-12-24 03:53:05
Madokakipさん

数晩格闘し、(大きな声では言えない方法で)全部の動画を見ることが出来ました。

> 年とか何もdescriptionに書いていらっしゃらないのに(多分目をつけられるのを防ぐため?)

今は波形から音源をマッチングする技術が進んでいるので、テキストでなんとかして逃れるのは難しいでしょう(この自動マッチングはなんでも引っ掛けるので悪名高いです)。著名アーティストとか再生数の多いコンテンツなら人海戦術でも引っかかっちゃうでしょうし。UPとブロックのイタチごっこしかないですかねえ。

いろいろ聴いてみて、なるほどーと思ったんですけど、そもそもの目的との関係でいえば、私自身は、難易度の高い箇所のブレスをいかにうまくやり過ごすとか、そういうのはあまり気にならず、強いて言えば、ブレスの前後の有音の部分で作り出されるノリみたいなものが繋がっていれば無音の挿入は気にならず、別のところで引っ掛かっていることを自覚しました。

1949年とそれ以外の音源の違いが、音色の違いだというのは、自分にとっては超意外でした。というのは、私はオペラファンにはあるまじきことに、声質にはとても鈍感な人間でして、他の人達の声質に関するトークなんてとても着いていけないし、突き詰めればどうでもいいと(←この辺がオペラファンにはあるまじきゆえん)思っていたからです。これは私自身の経験として、心から満足するパフォーマンスを観たときは声質なんかどっかにすっ飛んで全く覚えていなくて、イマイチ舞台に入り込めないと、誰それの声質がどうしたとか、そんなことばっかり覚えているからです(←そして、そうやって距離感を持って聴いたその声質が客観的には良かったりすると、聴後感は却ってむなしかったりする)。

ここで改めて今話題にしている2つの音源のURLを。
http://www.youtube.com/watch?v=aM9t6azei-E 1949
http://youtu.be/ESlbGh_8480 1954(00:04:20以降)
http://www.youtube.com/watch?v=B-9IvuEkreI 1954(同じ音源、日本からのアクセス用)

たしかに音の深さが全然違いますね。1949年の方は録音のせいで音がこもり気味なのも関係するかもしれませんが、たしかに大きい犬と小さい犬の違いみたいな種類の差があります。声帯の長さは身長に比例するとはよく言われますが、太っても長さは変わらないだろうし、物理的なことが気になります。質量は反射や防音では決定的や役割を果たしますが、音源の質量に関する分析というのは目にしたことがありません。肉がついていると管の太さが変わるのか、やはり管の素材が重くなって震わせるのに必要なパワーが大きくなることで音色が変わるのか、肺活量との関係は等々、複数の仮定に基づいて「太ったソプラノの数理モデル(あるいは、急激に痩せたソプラノの数理モデル)」を立てて分析したら面白そうです。数理畑の音楽ファンは多いから、既にありそうですが。

今回折角よいサンプルが見つかったので、音源を編集して何度も比較して聴いたのですが、1949年のはよい意味で曖昧模糊としていてソフトで柔らかく、後年のは細かい様々なところが突出しているようで引っ掛かります。そういった変化が強過ぎて過剰な感じがします。

一番最初の"Casta Diva, che inargenti"の一節だけでも(00:04:29~)、"Di--va"のvaの音の後半が下がって沈むように終わるところとか、その直後のタイで繋がった"ca-sta"のcaの後半で強くなり過ぎて、staで元に戻るところも、不必要な強調(?)のように聴こえます(ここはブレスのせいかも)。cheの装飾音の最後の辺りの処理とか、gentiの後半の3連符も気になります。

一方、1949年の音源では、上記のvaの音はずっと柔らかく、どちらかというと緩く弧を描いて上に抜ける様に処理され、その後の"ca-sta"もなにげなく処理されています。cheやgentiは全く気になりません。

で、改めて思ったのは、これまで私はこういうのはテクニックの問題だと思っていたのですが、今回の経験から、音色が変わることによってそれまで見えなかったことが見えてくる(目立ってくる・気になってくる)ということもあり得るのかと思い始めました。だって油の乗り切った時期の5年間の出来事だし(いや、やはり体重の変化が喉や体力に及ぼす影響と考えるべきか?)。

> アクセルを吹かしまくっているような歌い方をしてますよね(私なんかは彼女のそういう怖いもの知らずのところが好きなわけですが。)

私は、そこが、相性が悪い理由になるかもしれません。王道過ぎて照れたり、疲れたり、ムズムズして直視出来ない感覚になるのかもしれません。そういう直視しにくいところをユーモラスに外してくれると尻尾を振って着いて行きますが、これだと、通じにくくて当然ですね。

勉強になりました。書いて頂いたことをあまり返しておらず、自己完結っぽくてすみませんが、一人では考え付かないことだったので、お話してもらって良かったです。
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starboardさん (Madokakip)
2012-12-25 16:41:16
>UPとブロックのイタチごっこしかないですかねえ

過去記事に貼り付けておいたYouTubeの映像がいつのまにかブロックされてたり、
(バイオレーションのし過ぎで)アップされた人のアカウントそのものが閉鎖されていて見れなくなってしまったり、
そういうのも結構がっくり来ます、、。
一個一個過去記事をチェックするほど暇人じゃないし、
気づいたベースで別にアップされたものに貼り変えても、それこそいたちごっこになるだけだし、、
実にいやらしいです。

>「太ったソプラノの数理モデル(あるいは、急激に痩せたソプラノの数理モデル)」を立てて分析

いや、まじめにどなたか分析される・た方がいらっしゃればいいのにな、、とずっと思っているテーマなんですよ。
私には絶対無理ですけど、starboardさん、理系でいらっしゃいますよね、確か、、なんて振ってみる(笑)
今はとてもお忙しくてそんなお時間ないでしょうけど、いつか是非にお願いいたします!

>1949年のはよい意味で曖昧模糊としていてソフトで柔らかく、後年のは細かい様々なところが突出しているようで

はい、そういう風に言うことも出来ると思います。
1949年のような時の声では、1954年と仮に同じテクニックを使っていても軽やかに聴こえる、という部分はあると思います。
オケの奏者にとって、楽器を変えるというのは大事で、
以前の楽器を演奏していた時と同じようなサウンドを出そうと思ったら、
演奏の仕方にかなりのアジャストメントを入れなければいけません。
逆を言えば、楽器が変わっても同じ演奏の仕方をしていたら、それだけ雰囲気の違うサウンドが出るということで、
歌手にとっては体全部が楽器ですから、もし体格が著しく変わってそれでも以前と同じ・似た歌い方をしたとしたら、
その分出てくる声の雰囲気が変わっても何の不思議もないと思います。
カラスのこの二つの音源の場合は、声のサウンド自体が変わってしまっていることに加えて、
それに伴って歌い方も変わっていて、1949年の時より54年の方が個性がより強い歌になっていて、
その分、あまり好きになれない人にはより受け入れがたいものになるのでしょう。

音色とテクニックはハンド・イン・ハンドというか、私は絶対に独立して存在するものではないと思います。
自分の声の音色とか声質はどういうものなのか、という深い理解なしにテクニックを磨いて行くのは無理だと思います。

>王道過ぎて照れたり、疲れたり、ムズムズして直視出来ない感覚

大学生くらいの頃までは私もそんな感じでしたが、今は全然ですね。
こいつ頭悪くて中身がなさそう、趣味悪りー、超嫌な奴、、etc etc 他人に何と思われようとまーったく気にならなくなりました。
これを世の中では“おばはんになった”と言うのでしょうが、まあ、オペラなんて突き詰めれば趣味の問題で、
どんな演奏が好きか、嫌いか、に関しては、誰が正しい、正しくない、とか、あまりないと思います。
(ただ、歌唱技術やスタイルがあるか、ないか、ということに関しては、ある程度きちんとした共通のスケールがある、と私は思います。
だから、この二つは分けて話すべきなんでしょうね。)
だから、どんな演奏、どんな歌手を好きでも、誰に謝ったり申し訳なく思ったり引け目に感じたり腹立たしく感じる必要なんて全くないと思います。
周りがstarboardさんと同じものを良いと思えないとしたらば、
そっか、、このような素晴らしいものをそうと気づかずに皆さんお気の毒に、、と思っておくに限ります。
私なんか、ヘッズ友達と意見が合わない時はいっつもそうしてます(笑)
starboardさんは私の趣味が王道寄りだと思ってらっしゃるみたいですけど、
こちらの基準では特に王道なんかじゃないんですよ。国による趣味の差もありますし、、、
オペラというのは作品の幅広さ、歴史の幅広さ、をのみこんで存続して来たアートフォームですから、
オーディエンス側のちょっとした趣味の違いなんか、余裕で受け入れる懐の広さがあると思います。
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