いよいよ『オリー伯爵』のプレミエが3/24に迫って来ました。
今日はそのプレ・イベントとも言うべき、同演目についてのMetTalksです。
主役の三人、すなわちオリー伯役のファン・ディエゴ・フローレス、
アデル役(注:このイベントの中ではこの役がしばしば単にCountess=伯爵夫人と形容されていますが、
マイナーなオペラのあらすじからもわかる通り、これはオリー伯爵夫人という意味ではなく、アデルは別の伯爵の奥様です。)のディアナ・ダムラウ、
そしてイゾリエ役のジョイス・ディドナートに、演出のバートレット・シャーを加えたなかなか豪華なゲスト陣で、
もちろんこういう人気歌手たちでキラキラした場面に必ずホスト役で登場して来るのは、ピーター・ゲルブ支配人です。
いつもと同様、語られた内容の要点をメモを元に再構築したものをご紹介したいと思います。
支配人:『オリー伯爵』はロッシーニの作品で、1828年にパリで世界初演を迎えました。
メトではかつて一度も上演されたことがなく、今シーズンの上演がメト初演となります。
今日はその『オリー伯爵』のメインの三役、すなわち、オリー伯役のファン・ディエゴ・フローレス、伯爵夫人(アデル)役のディアナ・ダムラウ、
そして、小姓(イゾリエ)役のジョイス・ディドナート、そして演出のバートレット・シャー氏をお迎えしています。
簡単に今日のゲストの紹介をいたしましょう。
まずはテノールのファン・ディエゴ・フローレス(↓)。
2001-2年シーズンに『セヴィリヤの理髪師』アルマヴィーヴァ伯爵役でメト・デビューし、
2006-7年シーズン、今回の『オリー伯爵』と同じシャー氏が手がけた新演出の『セヴィリヤの理髪師』での活躍や、
『連隊の娘』での18個のハイCは皆様の記憶に新しいところです。
ディアナ・ダムラウ(↓)は2005-6年シーズンの『ナクソス島のアリアドネ』のツェルビネッタ役でメト・デビュー。
その後、一つのシーズンの中で、『魔笛』のパミーナ役と夜の女王役の両方を歌って下さったこともありました。
あ、同一公演内ではもちろんありませんでしたけれどもね(笑)。
モーツァルトの作品や、『ルチア』、『連隊の娘』のマリー、そしてやはりシャー氏演出の『セヴィリヤの理髪師』でのロジーナ役を歌っていて、
毎年、メトの舞台に登場してくれているソプラノです。
そして、メゾ・ソプラノのジョイス・ディドナート(↓)は2005-6年シーズンの『フィガロの結婚』のケルビーノ役がメト・デビュー。
その後、『ロミオとジュリエット』のステファノ役を経て、彼女もシャー氏の『セヴィリヤの理髪師』でロジーナを歌っています。
彼女が登場した公演はHDにもなりましたのでご覧になった方も多いでしょう。
今年は『カプリッチョ』のHDのホストもつとめてくれることになっており、また、来シーズンにはバロックのパスティーシュ・オペラ『魅惑の島』に登場予定です。
演出のバートレット・シャー氏(↓ 中央)は、『セヴィリヤの理髪師』、『ホフマン物語』に続き、今回の『オリー伯爵』がメトで手がける三つ目の作品となります。
ということで、それではシャー氏に『オリー伯爵』の作品のあらすじの説明をまずお願いしましょうか。
シャー:(参ったな、という調子で)Oh my God!(笑)
時はですね、十字軍の時代なんですよ。(皮肉をこめて)オペラには最適な時代でしょう?(笑)
で、城のほとんどの男性が十字軍に加わってサラセンに発った後に、このオリー伯爵という女性に目がない伯爵が、
特に、夫を送り出して心痛の状態にあるアデルを目当てに彼女の城に入り込もうと二つの作戦を立てるんです。
一つ目の、隠者(マイナーなあらすじでは行者という表現になっていますが)に化けてアデルに近づくものの、見事失敗するまでが第一幕、
そして、二つ目の、尼僧の振りをして城に入り込む作戦が描かれるのが第二幕なんですが、三重唱があったかと思うと、いきなり終わるんです(笑)。
ロッシーニが書いた最後の喜劇的オペラと言われていて、初演された場所(パリ)のせいもあって、歌われる言語はフランス語なんですが、
曲はまさにロッシーニ!で、イタリア料理のシェフが作ったフランスのお菓子、とでも形容すればいいかな、と思います。
第一幕はデイライト・アクト(日中の幕)、第二幕はナイトライト・アクト(夜の明かりの幕)とも形容され、
セットのイヤーガン、衣装のズーバーらとは、この点を十分に心がけてプランを練りました。
ロッシーニがこの作品で実現させている登場人物の間の緊密感溢れる音楽を損なわないように、
出来るだけオーディエンスにとって生身に感じられるように、グランドにならないよう気をつけたつもりです。
セットも、イヤーガンと、アンティーク、チャーミング、と言った性質を大切にしながら作って行きました。
支配人:この作品は先ほども申し上げた通り、メトでは今シーズンが初演となります。
あなた(フローレス)がペーザロでこの作品を歌ったことも作品見直しの一つのきっかけとなって、
今回のメトでの上演はもちろん、今年はチューリッヒでも同演目の上演が行われていますが、
世界的に見てもまだ非常に実演の機会の少ない演目であると言えると思います。これはなぜでしょう?
フローレス:声楽的にそれぞれの役にあった歌手を揃えるのが難しいというのが一番の理由ではないでしょうか?
支配人:当初は予定していなかったのですが、せっかくですので、そのペーザロの音源から、
オリー伯爵が隠者の振りをして女性達の望みを全部叶えてあげよう、と言いながら誘惑する
"Que les destins prospères 願わくば幸いなる運が皆さんがたの祈りに応じたまわんことを!”のファン・ディエゴの歌唱を皆様に聴いて頂こうと思います。
フローレス:おお!!(と言って、手で顔を覆う)
(CDにもなっている上と同じ音源が流れ、彼の歌声に耳をすませるオーディエンス。
彼の美しい歌声に思わず笑みがこぼれる人多数。曲が終わると大拍手だったのですが、最後にハイCを出さずに終わったのを受けて冗談めかしながら)
フローレス:このハイCがなかったのは芸術上の選択だったんだよ。わかるでしょ?時には高く上げて終わるのは良くないこともあるんだ、、、
なんて言ってるけどね、本当は僕も最後にはハイCをつけて終わる方がいいと思う。(笑)
(注:そしてフローレスは本当にオーディエンスの期待を裏切るのが嫌いな真面目な人柄なんだな、という風に思います。
3/24のメトのプレミエの公演ではこの時の言葉通り、彼は最後を高音で閉めてくれています。
下がその初日からの、同じ部分の音源です。指揮はベニーニです。)
支配人:では、ディアナ、あなたが歌うアデル役について少し話していただけますか?
ダムラウ:アデーレといえば、皆さん、すぐに『こうもり』の方を思い浮かべられると思いますが
(注:英語では『オリー伯爵』のアデルも『こうもり』のアデーレも同じ発音なので)、『オリー伯爵』のアデルはまじめで、
しかも、自分ではなくて、男性(オリー)の方が彼女の方を選ぶ、という設定です。
この三人の登場人物が暗闇の中にいたら、一体どんなことになるか、皆さんわかるでしょ?(笑)
この作品には、大事なことは水面下でずっと起こっているような部分があって、
レチタティーヴォにもダブル・ミーニングがあったり、そういうところが面白いな、と個人的に思います。
支配人:そして、ジョイス、あなたの役はオリー伯爵の小姓のイゾリエですね。
ディドナート:ええ、でもイゾリエの話をする前に少しだけ。さっき、"Que les destins prospères”の音楽が流れた時、
皆さんの間にすごい勢いで笑顔が広がっていったの、ご自身でお気づきになりましたか?
良い音楽を聴いた時、微笑まずにいるのは難しいと本当に思います。
イゾリエですが、そう、彼はオリーの小姓なんですけれども、面白いのはニ幕の展開の中心となる、
尼僧に化けて城にまぎれこむというアイディアは、もともと、オリーのものではなくて、イゾリエのものであった点です。
それをオリーがちゃっかり拝借してしまうんですよね。
ということから考えると、イゾリエにはストリート・スマート
(学校の勉強でつく類の知識ではなく、普段の生活や実地の経験から生れる知恵や機転に富んでいること)な側面があって、
それは、彼ら3人が一緒にベッドに入っている時に彼がどういう行動に出るか、という部分にも現れていると思います。
シャー:『オリー伯爵』には原作となっている戯曲があるのですが、それによると、オリーには14人もの子供が生れることになっているんですよ(笑)
支配人:へー、そうなんですね(笑)さて、シャー氏に次に伺いたいのは、喜劇と悲劇という比較についてなんですが、、。
この『オリー伯爵』はまぎれもないコメディーですが、悲劇を演出する際と比べ、どちらが難しく感じますか?
シャー:『オリー伯爵』はげらげらひっくり返って笑うようなコメディーではなくて、軽くてメロウな喜劇だと言えると思います。
で、こういうタイプの喜劇は、私自身は、ヘビーな悲劇よりも、ずっとずっと演出をするのが難しいと感じます。
今回はこの3人のような才能溢れるキャストに恵まれましたので幸運でしたが、
この作品のデリケートさ、それからキラキラした輝きを現出するのは簡単なことではありません。
例えば、ニ幕の尼僧に化けたオリーとアデルの二重唱の場面ですが、ここでのアデルは本当に彼が尼僧だと信じているのでしょうか?
それとも、尼僧の振りをしたオリーであることを十分承知で、すっとぼけているのでしょうか?
そして、そうだとすれば、彼女がすっとぼけているということを、オリーは知っているのかどうか、、、
こう考えると、色んな風に解釈する余地があることがわかります。
ディドナート:喜劇的なオペラというのは、喜劇的な効果をもってストーリーを語ることに他ならないと思います。
なので喜劇的な歌唱・演技を披露しようとする前に、まずは何よりもストーリーをきちんとオーディエンスに伝えるということが大事なのではないかと思うのです。
喜劇的なオペラに出演している時は客席からの笑いにほっとさせられます。だって、逆にしーんと静かだったりしたら、、
支配人:それくらい観客が舞台に集中しているという見方もできますよ。
ディドナート:そう思えればよいのですが!(笑)
支配人:(フローレスに向かって)では、あなたは喜劇(コメディー)と悲劇(トラジディー)について、どのようなお考えをお持ちですか?
フローレス:僕の場合は、自分の持っているレパートリーの中ではコメディーの方が、、、、うーんと、コメディーの反対の言葉はなんだっけ、、
(つい3秒前に、支配人自身が質問の中でcomedy vs tragedyという言葉を発したばかりなので、
まさかフローレスが”悲劇”という単純な言葉を探しているのではあるまいと深読みし、”え?何だろう?何だろう?”となぜか一緒に慌ててしまうゲルブ支配人。
ディドナートとシャーがえ?もしかして、、という様子で”Tragedy?"と助け舟を出すと)
フローレス:そうそう、トラジディー(悲劇)!
(このフローレスのびっくりするような強度のお茶目な健忘症ぶりに、机につっぷして大笑いするシャー。オーディエンスも大爆笑。)
フローレス:(そんな私たちを全く意に介さぬ様子で淡々と)僕のレパートリーで悲劇といえば『セミラーミデ』とか色々あるんだけど、、、
そうだな、僕は喜劇も、しばしば、”身の毛もよだつ瞬間”の上に成り立っていることが多いと思うんだよ。
それから、『オリー伯爵』では僕はほとんどずっと変装しているんだよね。最初は隠者、そして後半は尼さん、、、
僕のレパートリーの中には、他にも『セヴィリヤの理髪師』とか『シャブランのマティルデ』など、変装系の作品がある。
これらの作品では、同じ一人の役でありながら、違うパーソナリティを出さなければならないというチャレンジがあるんだよ。
声楽的にはもしかすると悲劇的作品の方が求められる部分は多く、より優れていると言ってもよいのかもしれないけれど、、。
ディドナート:喜劇的作品はストーリー自身が悲劇よりももっと込み入っているケースが多く、
たくさんのストーリー上のひねりをどうやって表現していくか、とか、歌と演技のバランスをどのように取っていくか、というような、
悲劇とはまた違った難しさがありますね。
喜劇には、シャンパンのようなぱちぱちと弾ける感じも絶対に必要で、さあ、もう一本シャンパン開けて!さあ、次ハイC出して!というような、
湧き出てくるような楽しさも求められます。
私は悲劇というのは、実際にその作品をお客さんがそれまでに鑑賞したことがあるかどうかに関わらず、
これから何が起こるかわからないと思わせるような雰囲気で持って歌い演じることが大切であるのに対し、
喜劇というのは逆にすでにわかっていること、お約束の上で、どれ位オーディエンスを笑わせることが出来るかが大事である、という、
そういう違いがあるかな、と思います。
支配人:次は少しHDのことについてお伺いしたいと思います。
歌手の方の中にはHD向けに演技や歌唱を少し変える、という方もいらっしゃいますが、HDが実演に与える影響というものについてお話願えたらと思います。
シャー:私が思う、実際にオペラハウスで公演を見るという体験とHDで鑑賞する際の違いは、
カメラの映像は舞台上のほとんどどこにでも移動できるのに対して、オーディエンスにはそれが不可能であるという点です。
私は常に、舞台芸術においてはオーディエンスこそが主役であって、オーディエンスが舞台上の登場人物一人一人と特別な関係を結べるような、
そういう舞台を作って行きたいと考えています。
支配人:ということは、演出においてHDを念頭に置いた特別なことはなさっていない、と、そういうことになりますか?
ダムラウ:私も特にカメラが入っているからといって歌や演技を変えることはありません。
ディドナート:『セヴィリヤの理髪師』のHDの体験から言うと、カメラが入っているせいでよりアドレナリンの放出量とか
フォーカスの度合いは変わってくるということはあるかもしれません。
もちろん、カメラが入っていない時でもフォーカスしているのですが、、、何と言えばよいかしら、、、
HDだからと言ってカメラ向けに表現を判りやすく大きくする必要はないですが、より内面的に、深くする必要はあるかと思います。
支配人:ロッシーニの作品は、しばしば旋律の繰り返しが多く、また、作品間での音楽の使い回しも多い、など、
ネガティブな意見を持つ人もありますが、皆さんが『オリー伯爵』で難しいと感じられる部分はどういうところでしょう?
シャー:旋律の繰り返し、私はそこが奥深いところだと思うんですよ。、名前やラベルをつけては変え、つけては変え、
を繰り返す作業に似ている。そして、その度に、少しずつ変化していくニュアンスの違いを折りこまなければならない、
これは演出家にとって、とてもやりがいのある仕事です。
それからロッシーニの作品には先にすでにお話したような、キラキラとした感じ、軽い感じを殺さずに、
その底に隠れた奥深いものを引き出す必要があります。
フローレス:オリー伯役について言うと、僕が歌っている他のベル・カントのレパートリーに比べて、
この作品で歌われるアリアはもともとソプラノのために書かれていたせいで、ソプラノイッシュな雰囲気があり、それが難しさの一つ。
それから作品としての難しさだけど、一つにいわゆるビッグ・アリア(超メジャーなアリア)がないこと、
非常にたくさんのレチタティーヴォがあって、その中で、この作品の楽しさを表現していかなければならない点、
それからイゾリエとの二重唱、これは声楽的にとても難しい、、、このあたりがあげられるかと思います。
ロッシーニの作品でどうして音楽の使い回しが多いか、という話だけど、それはロッシーニがエコ・フレンドリーな作曲家だったからだよ。(笑)
まじめな話、当時のオペラというのは、今みたいにCDで何度も聴いたりするわけじゃなかったから、それでよかったんだ。
ディドナート:私が歌うパートの中で最も難しいのは一幕のオリーとの二重唱(”Une dame de haut parage さる高貴な生まれの貴婦人が”)の最初ですね。
それから、この作品は歌われる言葉がフランス語であるために、イタリア語で歌われるロッシーニ作品と比べると、
飛び跳ねるような感じとかパーカッシブさが薄いので、その辺も注意が必要です。
ダムラウ:私の場合、一幕の”En proie à la tristesse 悲しみにさいなまれ”ですね。
控え室から出たか出ないかといううちにあんな旋律を歌わなければならないんですもの。
ロッシーニは歌手の虐め方を良く心得ていたんだわ、と思います(笑)。
フローレス:この間Wikipediaで『オリー伯爵』の項を読んでいたら、1828年のパリの公演の後、
1829年にロンドン、それから1830年にはニュー・オーリーンズで上演されているんだ。そして1831年にニューヨークに来たみたいだよ。
支配人とゲスト一同:へえ、そうなんだ、、
フローレス:うん、Wikipediaに書いてあることが本当かどうかは知らないけど。
(注:確かにフローレスが語っている通りのことがWikipediaに掲載されています。)
ディドナート:演技の面で言うと、一番大変だったのはニ幕のオリーがアデルの部屋に忍び込んでくる場面!
だって、私達3人一緒にベッドに入ったことはいままでにないでしょ?(笑)
あのシーンはちょっとしたチャレンジだわ。
支配人:(笑)今まであなたはディアナとは『ナクソス島のアリアドネ』、それからファン・ディエゴとは『セヴィリヤの理髪師』で共演してますから、
気心知れた間でしょう?
ディドナート:それでも(笑)!でもあのシーンはロッシーニのアンサンブル・ライターとしての面目躍如のシーンね。
ダムラウ:個々のアリアも優れているけれど、ああやって歌手がアンサンブルを繰り広げる部分では何倍ものパワーが出る感じがしますね、確かに。
シャー:今回の公演では彼ら三人が色々アドリブで思いついてくれた演技も取り入れています。
演出にはもちろん、ストラクチャー、それからたくさんのルールが必要ですが、
その一方で、演じている側が楽しくなるような、創造的アドリブが可能な余地は残して置きたいと思うのです。
なので、僕の仕事は究極的には、彼らのために、そのようなグラウンドワーク、基礎の部分を作る作業を行うことだと思っています。
特に今回の作品で注意した点は、作品そのものが持っているスピリット、雰囲気を壊さないように、
出来るだけシンプルに、ということを心がけ、最新の大きなテクノロジーを使用せず、すべて、いわゆる古典的な劇場技術に依存しています。
例えばニ幕で、水平になっているベッドがだんだん垂直になっていく場面も、全て手動で行っています。
それからこれはファン・ディエゴの持論なんですが、まず、劇場にいる観客にとって、満足の行く音体験でなければならない、ということで、
セットが歌手達にとって障害にならず、むしろ彼らの歌唱を支えるものになるよう十分考慮したつもりです。
支配人:『セヴィリヤの理髪師』の時は、舞台前に花道を作るという楽しいアイディアがありましたが、今回も何かそういうものはあるのでしょうか?
シャー:舞台上にプラットフォームを作ったりはしていますが、あの『セヴィリヤ』の時のようないわゆる”花道”は今回は存在しません。
今回私が心を砕いたのは音楽のための器(musical shell)を作ることで、そのことによって、親近感を生み出したり、
実際のメトの舞台サイズよりも、ずっと小さなオペラハウスであるかのような印象を与えられるよう工夫したつもりです。
支配人:それでは皆さんのこれからの予定、将来のプランなどをお聞かせ願えますか?ロッシーニの他の役柄に挑戦する予定などはありますか?
ディドナート:私は2010年に『湖上の美人』のエレナ役のロール・デビューがありました。この役はこれからも歌っていけたら、と思っています。
(ロッシーニの)『オテロ』(のデズデモーナ役)はまだ歌ったことがなくて、ぜひチャレンジしてみたいもののひとつです。
それから『セミラーミデ』(のアルサーチェ役)。
(おお!という声がオーディエンスからあがる。)
これはいつか実現できるかな、、、どうでしょうね。
ダムラウ:私はロッシーニについては、『セヴィリヤの理髪師』に続いて、やっと『オリー伯爵』でニ作品目にたどりついたところです。
私もいつか、『セミラーミデ』を歌えたら、という気持ちはあります。
ソプラノなので、ジョイスとは逆側(=セミラーミデ役)からの挑戦になりますが(笑)。
フローレス:『シャブランのマティルデ』はもっともっと注目されていい作品で、これからも歌って行きたいですね。
『マティルデ』には六重唱をはじめ、あらゆるtets(注:四重唱~六重唱の重唱は順にquartet, quintet, sextetと、全てtetが語尾に付くので、
それらの重唱を指している。)が含まれていて、素晴らしい作品です。
支配人:ジョイスは来シーズンの『魅惑の島』に出演されますね。
ディドナート:はい。私がきちんと歌唱で成果を出せたなら、とても楽しい作品になるはずです。
パスティーシュ・オペラ(別の作曲家による作品の部分部分を集めたコンピレーション・オペラのようなジャンルのこと。)
というのは今でこそ珍しいものになってしまいましたが、昔にはごく普通に行われていた演奏形態です。
ただ、、、私が演じるシコラクスは母親世代の役柄で、自分の子供世代が(キャリバンを歌う)ルカ・ピサロニとか
(ミランダを歌う)リゼット・オロペーザというのはショックです(笑)
リゼットが自分の娘世代、、、こればかりは立ち直れそうにもありません(笑)
ストーリーは『テンペスト』と『真夏の夜の夢』を組み合わせたもので、
どの登場人物にも素晴らしいアリアが準備されていて、すごくワイルドな公演になるはずです。
支配人:『オリー伯爵』ではコーラスも大事な位置を占めていますよね。
シャー:メトのコーラスの表現能力というのは素晴らしいものがあって、
意味もなく走り回っているようにしか見えなくなってしまう恐れがある場面でも、
一人一人の演技能力がとても高いので、そうならないんですよね。
支配人:さて、ロッシーニの作品の魅力はどこにあるでしょう?
ディドナート:ロッシーニの作品に取り組んでいると、時々、”さあ、この音楽にリブレッティストがどんな言葉をつけるか見てやろうじゃないか。”という
彼のいたずらっぽい表情が浮かんで来るような気がすることがあります。
彼は自分の音楽が持っている力というのを本当に良く理解していたし、自分の作品に強い信念を持っていた人だと思います。
シャー:そして、彼の作品のすごいところは、そこに必ずエレガンスが感じられる点ですね。
それから、単純にあの量!あれだけの量の音楽をさらさらと書いてしまう、それだけでもすごい。
フローレス:彼がイージー・ハンドな作曲家(多筆で、苦労せずにすらすら音楽が出てくる、
もしくはそう見えるタイプの作曲家)だったことは間違いないですね。
僕が彼をすごいと思うのは、すごくドラマティックな、もしくは美しい音楽を書いた後で、
それをすとーんと落とすような、そういうユーモアも持ち合わせている点です。
ダムラウ:そうですね、彼の音楽にはどんな喜劇でも、微塵も安っぽいところがなく、
バートが言ったようにエレガンスに溢れていて、、、
彼の音楽には、何もかもが備わっている、そういう風に思います。
MetTalks Le Comte Ory Panel Discussion
Juan Diego Florez
Diana Damrau
Joyce DiDonato
Peter Gelb
Metropolitan Opera House
*** MetTalks Le Comte Ory オリー伯爵 ***
今日はそのプレ・イベントとも言うべき、同演目についてのMetTalksです。
主役の三人、すなわちオリー伯役のファン・ディエゴ・フローレス、
アデル役(注:このイベントの中ではこの役がしばしば単にCountess=伯爵夫人と形容されていますが、
マイナーなオペラのあらすじからもわかる通り、これはオリー伯爵夫人という意味ではなく、アデルは別の伯爵の奥様です。)のディアナ・ダムラウ、
そしてイゾリエ役のジョイス・ディドナートに、演出のバートレット・シャーを加えたなかなか豪華なゲスト陣で、
もちろんこういう人気歌手たちでキラキラした場面に必ずホスト役で登場して来るのは、ピーター・ゲルブ支配人です。
いつもと同様、語られた内容の要点をメモを元に再構築したものをご紹介したいと思います。
支配人:『オリー伯爵』はロッシーニの作品で、1828年にパリで世界初演を迎えました。
メトではかつて一度も上演されたことがなく、今シーズンの上演がメト初演となります。
今日はその『オリー伯爵』のメインの三役、すなわち、オリー伯役のファン・ディエゴ・フローレス、伯爵夫人(アデル)役のディアナ・ダムラウ、
そして、小姓(イゾリエ)役のジョイス・ディドナート、そして演出のバートレット・シャー氏をお迎えしています。
簡単に今日のゲストの紹介をいたしましょう。
まずはテノールのファン・ディエゴ・フローレス(↓)。
2001-2年シーズンに『セヴィリヤの理髪師』アルマヴィーヴァ伯爵役でメト・デビューし、
2006-7年シーズン、今回の『オリー伯爵』と同じシャー氏が手がけた新演出の『セヴィリヤの理髪師』での活躍や、
『連隊の娘』での18個のハイCは皆様の記憶に新しいところです。
ディアナ・ダムラウ(↓)は2005-6年シーズンの『ナクソス島のアリアドネ』のツェルビネッタ役でメト・デビュー。
その後、一つのシーズンの中で、『魔笛』のパミーナ役と夜の女王役の両方を歌って下さったこともありました。
あ、同一公演内ではもちろんありませんでしたけれどもね(笑)。
モーツァルトの作品や、『ルチア』、『連隊の娘』のマリー、そしてやはりシャー氏演出の『セヴィリヤの理髪師』でのロジーナ役を歌っていて、
毎年、メトの舞台に登場してくれているソプラノです。
そして、メゾ・ソプラノのジョイス・ディドナート(↓)は2005-6年シーズンの『フィガロの結婚』のケルビーノ役がメト・デビュー。
その後、『ロミオとジュリエット』のステファノ役を経て、彼女もシャー氏の『セヴィリヤの理髪師』でロジーナを歌っています。
彼女が登場した公演はHDにもなりましたのでご覧になった方も多いでしょう。
今年は『カプリッチョ』のHDのホストもつとめてくれることになっており、また、来シーズンにはバロックのパスティーシュ・オペラ『魅惑の島』に登場予定です。
演出のバートレット・シャー氏(↓ 中央)は、『セヴィリヤの理髪師』、『ホフマン物語』に続き、今回の『オリー伯爵』がメトで手がける三つ目の作品となります。
ということで、それではシャー氏に『オリー伯爵』の作品のあらすじの説明をまずお願いしましょうか。
シャー:(参ったな、という調子で)Oh my God!(笑)
時はですね、十字軍の時代なんですよ。(皮肉をこめて)オペラには最適な時代でしょう?(笑)
で、城のほとんどの男性が十字軍に加わってサラセンに発った後に、このオリー伯爵という女性に目がない伯爵が、
特に、夫を送り出して心痛の状態にあるアデルを目当てに彼女の城に入り込もうと二つの作戦を立てるんです。
一つ目の、隠者(マイナーなあらすじでは行者という表現になっていますが)に化けてアデルに近づくものの、見事失敗するまでが第一幕、
そして、二つ目の、尼僧の振りをして城に入り込む作戦が描かれるのが第二幕なんですが、三重唱があったかと思うと、いきなり終わるんです(笑)。
ロッシーニが書いた最後の喜劇的オペラと言われていて、初演された場所(パリ)のせいもあって、歌われる言語はフランス語なんですが、
曲はまさにロッシーニ!で、イタリア料理のシェフが作ったフランスのお菓子、とでも形容すればいいかな、と思います。
第一幕はデイライト・アクト(日中の幕)、第二幕はナイトライト・アクト(夜の明かりの幕)とも形容され、
セットのイヤーガン、衣装のズーバーらとは、この点を十分に心がけてプランを練りました。
ロッシーニがこの作品で実現させている登場人物の間の緊密感溢れる音楽を損なわないように、
出来るだけオーディエンスにとって生身に感じられるように、グランドにならないよう気をつけたつもりです。
セットも、イヤーガンと、アンティーク、チャーミング、と言った性質を大切にしながら作って行きました。
支配人:この作品は先ほども申し上げた通り、メトでは今シーズンが初演となります。
あなた(フローレス)がペーザロでこの作品を歌ったことも作品見直しの一つのきっかけとなって、
今回のメトでの上演はもちろん、今年はチューリッヒでも同演目の上演が行われていますが、
世界的に見てもまだ非常に実演の機会の少ない演目であると言えると思います。これはなぜでしょう?
フローレス:声楽的にそれぞれの役にあった歌手を揃えるのが難しいというのが一番の理由ではないでしょうか?
支配人:当初は予定していなかったのですが、せっかくですので、そのペーザロの音源から、
オリー伯爵が隠者の振りをして女性達の望みを全部叶えてあげよう、と言いながら誘惑する
"Que les destins prospères 願わくば幸いなる運が皆さんがたの祈りに応じたまわんことを!”のファン・ディエゴの歌唱を皆様に聴いて頂こうと思います。
フローレス:おお!!(と言って、手で顔を覆う)
(CDにもなっている上と同じ音源が流れ、彼の歌声に耳をすませるオーディエンス。
彼の美しい歌声に思わず笑みがこぼれる人多数。曲が終わると大拍手だったのですが、最後にハイCを出さずに終わったのを受けて冗談めかしながら)
フローレス:このハイCがなかったのは芸術上の選択だったんだよ。わかるでしょ?時には高く上げて終わるのは良くないこともあるんだ、、、
なんて言ってるけどね、本当は僕も最後にはハイCをつけて終わる方がいいと思う。(笑)
(注:そしてフローレスは本当にオーディエンスの期待を裏切るのが嫌いな真面目な人柄なんだな、という風に思います。
3/24のメトのプレミエの公演ではこの時の言葉通り、彼は最後を高音で閉めてくれています。
下がその初日からの、同じ部分の音源です。指揮はベニーニです。)
支配人:では、ディアナ、あなたが歌うアデル役について少し話していただけますか?
ダムラウ:アデーレといえば、皆さん、すぐに『こうもり』の方を思い浮かべられると思いますが
(注:英語では『オリー伯爵』のアデルも『こうもり』のアデーレも同じ発音なので)、『オリー伯爵』のアデルはまじめで、
しかも、自分ではなくて、男性(オリー)の方が彼女の方を選ぶ、という設定です。
この三人の登場人物が暗闇の中にいたら、一体どんなことになるか、皆さんわかるでしょ?(笑)
この作品には、大事なことは水面下でずっと起こっているような部分があって、
レチタティーヴォにもダブル・ミーニングがあったり、そういうところが面白いな、と個人的に思います。
支配人:そして、ジョイス、あなたの役はオリー伯爵の小姓のイゾリエですね。
ディドナート:ええ、でもイゾリエの話をする前に少しだけ。さっき、"Que les destins prospères”の音楽が流れた時、
皆さんの間にすごい勢いで笑顔が広がっていったの、ご自身でお気づきになりましたか?
良い音楽を聴いた時、微笑まずにいるのは難しいと本当に思います。
イゾリエですが、そう、彼はオリーの小姓なんですけれども、面白いのはニ幕の展開の中心となる、
尼僧に化けて城にまぎれこむというアイディアは、もともと、オリーのものではなくて、イゾリエのものであった点です。
それをオリーがちゃっかり拝借してしまうんですよね。
ということから考えると、イゾリエにはストリート・スマート
(学校の勉強でつく類の知識ではなく、普段の生活や実地の経験から生れる知恵や機転に富んでいること)な側面があって、
それは、彼ら3人が一緒にベッドに入っている時に彼がどういう行動に出るか、という部分にも現れていると思います。
シャー:『オリー伯爵』には原作となっている戯曲があるのですが、それによると、オリーには14人もの子供が生れることになっているんですよ(笑)
支配人:へー、そうなんですね(笑)さて、シャー氏に次に伺いたいのは、喜劇と悲劇という比較についてなんですが、、。
この『オリー伯爵』はまぎれもないコメディーですが、悲劇を演出する際と比べ、どちらが難しく感じますか?
シャー:『オリー伯爵』はげらげらひっくり返って笑うようなコメディーではなくて、軽くてメロウな喜劇だと言えると思います。
で、こういうタイプの喜劇は、私自身は、ヘビーな悲劇よりも、ずっとずっと演出をするのが難しいと感じます。
今回はこの3人のような才能溢れるキャストに恵まれましたので幸運でしたが、
この作品のデリケートさ、それからキラキラした輝きを現出するのは簡単なことではありません。
例えば、ニ幕の尼僧に化けたオリーとアデルの二重唱の場面ですが、ここでのアデルは本当に彼が尼僧だと信じているのでしょうか?
それとも、尼僧の振りをしたオリーであることを十分承知で、すっとぼけているのでしょうか?
そして、そうだとすれば、彼女がすっとぼけているということを、オリーは知っているのかどうか、、、
こう考えると、色んな風に解釈する余地があることがわかります。
ディドナート:喜劇的なオペラというのは、喜劇的な効果をもってストーリーを語ることに他ならないと思います。
なので喜劇的な歌唱・演技を披露しようとする前に、まずは何よりもストーリーをきちんとオーディエンスに伝えるということが大事なのではないかと思うのです。
喜劇的なオペラに出演している時は客席からの笑いにほっとさせられます。だって、逆にしーんと静かだったりしたら、、
支配人:それくらい観客が舞台に集中しているという見方もできますよ。
ディドナート:そう思えればよいのですが!(笑)
支配人:(フローレスに向かって)では、あなたは喜劇(コメディー)と悲劇(トラジディー)について、どのようなお考えをお持ちですか?
フローレス:僕の場合は、自分の持っているレパートリーの中ではコメディーの方が、、、、うーんと、コメディーの反対の言葉はなんだっけ、、
(つい3秒前に、支配人自身が質問の中でcomedy vs tragedyという言葉を発したばかりなので、
まさかフローレスが”悲劇”という単純な言葉を探しているのではあるまいと深読みし、”え?何だろう?何だろう?”となぜか一緒に慌ててしまうゲルブ支配人。
ディドナートとシャーがえ?もしかして、、という様子で”Tragedy?"と助け舟を出すと)
フローレス:そうそう、トラジディー(悲劇)!
(このフローレスのびっくりするような強度のお茶目な健忘症ぶりに、机につっぷして大笑いするシャー。オーディエンスも大爆笑。)
フローレス:(そんな私たちを全く意に介さぬ様子で淡々と)僕のレパートリーで悲劇といえば『セミラーミデ』とか色々あるんだけど、、、
そうだな、僕は喜劇も、しばしば、”身の毛もよだつ瞬間”の上に成り立っていることが多いと思うんだよ。
それから、『オリー伯爵』では僕はほとんどずっと変装しているんだよね。最初は隠者、そして後半は尼さん、、、
僕のレパートリーの中には、他にも『セヴィリヤの理髪師』とか『シャブランのマティルデ』など、変装系の作品がある。
これらの作品では、同じ一人の役でありながら、違うパーソナリティを出さなければならないというチャレンジがあるんだよ。
声楽的にはもしかすると悲劇的作品の方が求められる部分は多く、より優れていると言ってもよいのかもしれないけれど、、。
ディドナート:喜劇的作品はストーリー自身が悲劇よりももっと込み入っているケースが多く、
たくさんのストーリー上のひねりをどうやって表現していくか、とか、歌と演技のバランスをどのように取っていくか、というような、
悲劇とはまた違った難しさがありますね。
喜劇には、シャンパンのようなぱちぱちと弾ける感じも絶対に必要で、さあ、もう一本シャンパン開けて!さあ、次ハイC出して!というような、
湧き出てくるような楽しさも求められます。
私は悲劇というのは、実際にその作品をお客さんがそれまでに鑑賞したことがあるかどうかに関わらず、
これから何が起こるかわからないと思わせるような雰囲気で持って歌い演じることが大切であるのに対し、
喜劇というのは逆にすでにわかっていること、お約束の上で、どれ位オーディエンスを笑わせることが出来るかが大事である、という、
そういう違いがあるかな、と思います。
支配人:次は少しHDのことについてお伺いしたいと思います。
歌手の方の中にはHD向けに演技や歌唱を少し変える、という方もいらっしゃいますが、HDが実演に与える影響というものについてお話願えたらと思います。
シャー:私が思う、実際にオペラハウスで公演を見るという体験とHDで鑑賞する際の違いは、
カメラの映像は舞台上のほとんどどこにでも移動できるのに対して、オーディエンスにはそれが不可能であるという点です。
私は常に、舞台芸術においてはオーディエンスこそが主役であって、オーディエンスが舞台上の登場人物一人一人と特別な関係を結べるような、
そういう舞台を作って行きたいと考えています。
支配人:ということは、演出においてHDを念頭に置いた特別なことはなさっていない、と、そういうことになりますか?
ダムラウ:私も特にカメラが入っているからといって歌や演技を変えることはありません。
ディドナート:『セヴィリヤの理髪師』のHDの体験から言うと、カメラが入っているせいでよりアドレナリンの放出量とか
フォーカスの度合いは変わってくるということはあるかもしれません。
もちろん、カメラが入っていない時でもフォーカスしているのですが、、、何と言えばよいかしら、、、
HDだからと言ってカメラ向けに表現を判りやすく大きくする必要はないですが、より内面的に、深くする必要はあるかと思います。
支配人:ロッシーニの作品は、しばしば旋律の繰り返しが多く、また、作品間での音楽の使い回しも多い、など、
ネガティブな意見を持つ人もありますが、皆さんが『オリー伯爵』で難しいと感じられる部分はどういうところでしょう?
シャー:旋律の繰り返し、私はそこが奥深いところだと思うんですよ。、名前やラベルをつけては変え、つけては変え、
を繰り返す作業に似ている。そして、その度に、少しずつ変化していくニュアンスの違いを折りこまなければならない、
これは演出家にとって、とてもやりがいのある仕事です。
それからロッシーニの作品には先にすでにお話したような、キラキラとした感じ、軽い感じを殺さずに、
その底に隠れた奥深いものを引き出す必要があります。
フローレス:オリー伯役について言うと、僕が歌っている他のベル・カントのレパートリーに比べて、
この作品で歌われるアリアはもともとソプラノのために書かれていたせいで、ソプラノイッシュな雰囲気があり、それが難しさの一つ。
それから作品としての難しさだけど、一つにいわゆるビッグ・アリア(超メジャーなアリア)がないこと、
非常にたくさんのレチタティーヴォがあって、その中で、この作品の楽しさを表現していかなければならない点、
それからイゾリエとの二重唱、これは声楽的にとても難しい、、、このあたりがあげられるかと思います。
ロッシーニの作品でどうして音楽の使い回しが多いか、という話だけど、それはロッシーニがエコ・フレンドリーな作曲家だったからだよ。(笑)
まじめな話、当時のオペラというのは、今みたいにCDで何度も聴いたりするわけじゃなかったから、それでよかったんだ。
ディドナート:私が歌うパートの中で最も難しいのは一幕のオリーとの二重唱(”Une dame de haut parage さる高貴な生まれの貴婦人が”)の最初ですね。
それから、この作品は歌われる言葉がフランス語であるために、イタリア語で歌われるロッシーニ作品と比べると、
飛び跳ねるような感じとかパーカッシブさが薄いので、その辺も注意が必要です。
ダムラウ:私の場合、一幕の”En proie à la tristesse 悲しみにさいなまれ”ですね。
控え室から出たか出ないかといううちにあんな旋律を歌わなければならないんですもの。
ロッシーニは歌手の虐め方を良く心得ていたんだわ、と思います(笑)。
フローレス:この間Wikipediaで『オリー伯爵』の項を読んでいたら、1828年のパリの公演の後、
1829年にロンドン、それから1830年にはニュー・オーリーンズで上演されているんだ。そして1831年にニューヨークに来たみたいだよ。
支配人とゲスト一同:へえ、そうなんだ、、
フローレス:うん、Wikipediaに書いてあることが本当かどうかは知らないけど。
(注:確かにフローレスが語っている通りのことがWikipediaに掲載されています。)
ディドナート:演技の面で言うと、一番大変だったのはニ幕のオリーがアデルの部屋に忍び込んでくる場面!
だって、私達3人一緒にベッドに入ったことはいままでにないでしょ?(笑)
あのシーンはちょっとしたチャレンジだわ。
支配人:(笑)今まであなたはディアナとは『ナクソス島のアリアドネ』、それからファン・ディエゴとは『セヴィリヤの理髪師』で共演してますから、
気心知れた間でしょう?
ディドナート:それでも(笑)!でもあのシーンはロッシーニのアンサンブル・ライターとしての面目躍如のシーンね。
ダムラウ:個々のアリアも優れているけれど、ああやって歌手がアンサンブルを繰り広げる部分では何倍ものパワーが出る感じがしますね、確かに。
シャー:今回の公演では彼ら三人が色々アドリブで思いついてくれた演技も取り入れています。
演出にはもちろん、ストラクチャー、それからたくさんのルールが必要ですが、
その一方で、演じている側が楽しくなるような、創造的アドリブが可能な余地は残して置きたいと思うのです。
なので、僕の仕事は究極的には、彼らのために、そのようなグラウンドワーク、基礎の部分を作る作業を行うことだと思っています。
特に今回の作品で注意した点は、作品そのものが持っているスピリット、雰囲気を壊さないように、
出来るだけシンプルに、ということを心がけ、最新の大きなテクノロジーを使用せず、すべて、いわゆる古典的な劇場技術に依存しています。
例えばニ幕で、水平になっているベッドがだんだん垂直になっていく場面も、全て手動で行っています。
それからこれはファン・ディエゴの持論なんですが、まず、劇場にいる観客にとって、満足の行く音体験でなければならない、ということで、
セットが歌手達にとって障害にならず、むしろ彼らの歌唱を支えるものになるよう十分考慮したつもりです。
支配人:『セヴィリヤの理髪師』の時は、舞台前に花道を作るという楽しいアイディアがありましたが、今回も何かそういうものはあるのでしょうか?
シャー:舞台上にプラットフォームを作ったりはしていますが、あの『セヴィリヤ』の時のようないわゆる”花道”は今回は存在しません。
今回私が心を砕いたのは音楽のための器(musical shell)を作ることで、そのことによって、親近感を生み出したり、
実際のメトの舞台サイズよりも、ずっと小さなオペラハウスであるかのような印象を与えられるよう工夫したつもりです。
支配人:それでは皆さんのこれからの予定、将来のプランなどをお聞かせ願えますか?ロッシーニの他の役柄に挑戦する予定などはありますか?
ディドナート:私は2010年に『湖上の美人』のエレナ役のロール・デビューがありました。この役はこれからも歌っていけたら、と思っています。
(ロッシーニの)『オテロ』(のデズデモーナ役)はまだ歌ったことがなくて、ぜひチャレンジしてみたいもののひとつです。
それから『セミラーミデ』(のアルサーチェ役)。
(おお!という声がオーディエンスからあがる。)
これはいつか実現できるかな、、、どうでしょうね。
ダムラウ:私はロッシーニについては、『セヴィリヤの理髪師』に続いて、やっと『オリー伯爵』でニ作品目にたどりついたところです。
私もいつか、『セミラーミデ』を歌えたら、という気持ちはあります。
ソプラノなので、ジョイスとは逆側(=セミラーミデ役)からの挑戦になりますが(笑)。
フローレス:『シャブランのマティルデ』はもっともっと注目されていい作品で、これからも歌って行きたいですね。
『マティルデ』には六重唱をはじめ、あらゆるtets(注:四重唱~六重唱の重唱は順にquartet, quintet, sextetと、全てtetが語尾に付くので、
それらの重唱を指している。)が含まれていて、素晴らしい作品です。
支配人:ジョイスは来シーズンの『魅惑の島』に出演されますね。
ディドナート:はい。私がきちんと歌唱で成果を出せたなら、とても楽しい作品になるはずです。
パスティーシュ・オペラ(別の作曲家による作品の部分部分を集めたコンピレーション・オペラのようなジャンルのこと。)
というのは今でこそ珍しいものになってしまいましたが、昔にはごく普通に行われていた演奏形態です。
ただ、、、私が演じるシコラクスは母親世代の役柄で、自分の子供世代が(キャリバンを歌う)ルカ・ピサロニとか
(ミランダを歌う)リゼット・オロペーザというのはショックです(笑)
リゼットが自分の娘世代、、、こればかりは立ち直れそうにもありません(笑)
ストーリーは『テンペスト』と『真夏の夜の夢』を組み合わせたもので、
どの登場人物にも素晴らしいアリアが準備されていて、すごくワイルドな公演になるはずです。
支配人:『オリー伯爵』ではコーラスも大事な位置を占めていますよね。
シャー:メトのコーラスの表現能力というのは素晴らしいものがあって、
意味もなく走り回っているようにしか見えなくなってしまう恐れがある場面でも、
一人一人の演技能力がとても高いので、そうならないんですよね。
支配人:さて、ロッシーニの作品の魅力はどこにあるでしょう?
ディドナート:ロッシーニの作品に取り組んでいると、時々、”さあ、この音楽にリブレッティストがどんな言葉をつけるか見てやろうじゃないか。”という
彼のいたずらっぽい表情が浮かんで来るような気がすることがあります。
彼は自分の音楽が持っている力というのを本当に良く理解していたし、自分の作品に強い信念を持っていた人だと思います。
シャー:そして、彼の作品のすごいところは、そこに必ずエレガンスが感じられる点ですね。
それから、単純にあの量!あれだけの量の音楽をさらさらと書いてしまう、それだけでもすごい。
フローレス:彼がイージー・ハンドな作曲家(多筆で、苦労せずにすらすら音楽が出てくる、
もしくはそう見えるタイプの作曲家)だったことは間違いないですね。
僕が彼をすごいと思うのは、すごくドラマティックな、もしくは美しい音楽を書いた後で、
それをすとーんと落とすような、そういうユーモアも持ち合わせている点です。
ダムラウ:そうですね、彼の音楽にはどんな喜劇でも、微塵も安っぽいところがなく、
バートが言ったようにエレガンスに溢れていて、、、
彼の音楽には、何もかもが備わっている、そういう風に思います。
MetTalks Le Comte Ory Panel Discussion
Juan Diego Florez
Diana Damrau
Joyce DiDonato
Peter Gelb
Metropolitan Opera House
*** MetTalks Le Comte Ory オリー伯爵 ***
「オリー伯爵」って、「ランスへの旅」の一種の“リサイクル・オペラ”ですよね。後者については一言も参加者たちの言及がないですが、あまりに当然のことだったんでしょうかね。
このオペラ、なんか珍品扱いですが、グラインドボーンなんかでは、過去に何度か上演され、録音や映像もありますよね。そして、「ペレアス」の優れた録音が複数残っている、Inghelbrechtが指揮した録音もあって、ミシェル・セネシャル(!)がタイトルロールを歌っているんですよね。
昨今の事情は承知しているものの、次々に公演がキャンセルになり寂しい思いをしている日々。このロッシーニのオペラのHDが、待ち遠しい。
私のちょんぼですね。すみません。
ただ、『オリー伯爵』の作品の簡単な紹介の中で触れられた程度で,
それ以上、キャストによる言及はありませんでした。
グラインドボーンが70年代に発掘上演したのがリバイバルのきっかけだったという風にOpera Newsに書いてあったように記憶していますが、
その後、おっしゃる通り、グラインドボーンの再演を含め、複数の劇場による公演のCDやDVDがありますね。
珍品という言葉になると、それぞれの方で違った温度感があると思いますが、
私はこの作品はそれらの音源のせいでそんなに珍しい演目でないような印象を与えていますが、
むしろ、あんまり演奏されることがないからこそCD化、DVD化された、
つまり上演数に対するCD・DVD化率が高かった面もあるのかな、と思っていて、
やはり、普通に言うと、あまり演奏されない演目ではあると思います。
後はやはり、このイベントはNYのオーディエンスが中心で、
彼らはどうしても地元で見る公演が判断の基準になっている面もあるので、
広く世界の音源に親しんでいる日本の観客の方たちとは、
何を珍と感じるかというところに温度差がある、ということもいえるかもしれませんね。
(本文に書きました通り、メトでは初演です。)
このイベントの後、ディドナートのシンガーズ・スタジオを聴きに行きましたが、
彼女もやはりこの作品を“あまり演奏されない作品”という風に称していました。
>ロッシーニのオペラのHD
演出には賛否両論あるかもしれませんが、歌に関しては力のある人を集めるとこうなる!という見本のような優れたプレミエの公演でした。
彼らのことですから、きっとHDの日も存分に力を出し切ってくれることでしょう。
お楽しみくださいね!
まず、ボストン響の音楽監督、これは引退が決定しました。
なので、BSOに限って言うと、引退、というのは正しいです。
ただし、メトはまだ(←という言葉もどうかと思いますが、、)引退は発表されていません。
今シーズンの残りは、結局、『トロヴァトーレ』を全部マルコ・アルミリアートに、
『ラインの黄金』(2公演分)はルイージに振りなおされましたが、
『ヴォッツェック』と『ワルキューレ』、それからメト・オケのコンサートはまだレヴァインが振ることになっています(4/2現在)し、
リハーサルにも登場しているようです。
ただ、私には『ラインの黄金』の二公演を振るのがしんどい人が
どうやって『ワルキューレ』を振るつもりなのか、、?と思うところがあって、
『ライン』のルイージの出来次第では、『ワルキューレ』の最低でもいくつかは
ルイージに回す可能性があるのではないかと思っています。
(そして、結果、ルイージの『ライン』の指揮は好評でした。)
日本公演も今のところは参加、と言っていますが、
体への負担から言うとこちらも大きいですから、どうなんでしょうね、、。
レヴァインは、数年前に健康の問題が出始めて以来、
いつも最後の最後まで決断を引っ張って、結果、多大な迷惑を周りに与える、と言って非難されてますので
(それがBSOを切れさせた一因でもあるようです。)、
少しは行動に変化が見られるか、あいかわらず以前のままか、、、
それから、これももしかしたらお聞きになった話と関係しているのかもしれませんが、
来シーズンからはメトの音楽監督も降りて、名誉指揮者的なポジションに落ち着くのでは?という話が一時あったのですが、
結局それは新シーズンの発表でも言及がありませんでしたので、未決のようです。
来シーズンにリングが予定されていますので、ご本人としてはそれだけは
引退もしくは名誉指揮者になる前に、何とか音楽監督としてつとめあげたい、、という意志があるのかもしれませんね。
そんなに具合が悪いのかと心配しました。
このことを聞いたときに「ボストンじゃなくてメト引退ってことですか?」と食い下がったのですが「メトだ」って言われたのでMadokakipさんのおっしゃるとおり
>来シーズンからはメトの音楽監督も降りて、名誉指揮者的なポジションに落ち着くのでは?という話
を受けてのことだったかもですね。
来日公演は、中止か延期のほうがいいと思うのですが…。
再来日してくださるメータはバイエルン放送でのインタビュー(3/16時点)で、とても冷静に「フィレンツェ歌劇場の公演は全うしたかった。 日本ではパニックもなかったし、危険とは感じなかった。」と話しておられましたが、やはり原発やまだ続く余震のことを考えるととても来てくださいとは言えません。
メトで仲良くなったアメリカ人男性(東京での世界の歌劇場の来日公演の状況を、すごく良く知っていた)が、うらやましがっていた東京での公演のひとつが、アバドとウィーン国立歌劇場の「ランスへの旅」でした。私が接した実演のなかでも、もっとも贅沢な公演のひとつです。
今回、ご紹介していただいたフローレスが歌っているのは、たしか「ランスへの旅」でマダム・コルテーゼが、作品の冒頭近くで歌うものですよね。東京では、カバリエが歌っていました。
フローレスは40代後半、50代どう活躍するんでしょう。全く「暗さ」がない声なので、どう声が深くなっていくのか全く見当がつきませんが、そんな心配はしばらくさておき、来シーズンのダムラウとの愛の妙薬も楽しみです。
シャーの演出は一部のオーディエンスに不評でしたが、私は好きです。
力のある歌手が揃って力を出したらこうなる!という見本のような公演でしたね。
作品としては私は正直なところあまり面白い作品だと思わなかったので(話の筋ではなく音楽的に)、
これで歌手に力がなかったら拷問になるところでしたが、そうならなかったのは、
フローレス、ダムラウ、ディドナートの力です。
http://www.hmv.co.jp/news/article/1202210106/
主役三人+デグーも力があったので、なかなか良い公演でしたよね。
私もDVDでも拝見しましたが、シャーの演出は割りと映像向きというか、DVDでも綺麗に見えるプロダクションだな、と思いました。
公演中はラストに近い3Pの場面について賛否両論でしたが、、。
ご覧になっているようでしたら、また感想等教えてください!