Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

PELLEAS ET MELISANDE (Sat Mtn, Jan 1, 2011)

2011-01-01 | メトロポリタン・オペラ
今シーズン話題の演目の一つはメトに初登場となるサイモン・ラトルが指揮する『ペレアスとメリザンド』。
昨日の大晦日を散々な『椿姫』で過ごすことになってしまいましたので、これで『ペレアス』にまで期待を裏切られることになったなら、
あまりに幸先が悪すぎて、2011年はどんな年になってしまうのか?と絶望の淵に落ちます。

今回の演出は1995年にプレミアされたジョナサン・ミラーの手によるものなんですが、
単なる偶然でしょうか、面白いことにそのプレミア以降、なぜかきっかり5年毎に『ペレアス』がメトに戻ってくるサイクルになっていて、
このサイクルに基づけば、次に私がメトでこの作品を見れるのは2015年のことになりそうです。

びっくりするのは1977年以降、『ペレアス』はメトでレヴァイン以外の指揮者によって演奏されたことが一度もない点で、
このことと、彼の40周年記念企画CDボックスセットの中にも『ペレアス』の公演が含まれている事実と合わせ、
どうやらレヴァインのお気に入りの作品であるらしいことは間違いないようです。
レヴァインは優れたオペラ指揮者だとは思いますが、33年もの間、同じ作品を他の誰も指揮をしたことがない、というのもちょっと極端な話で、
今シーズン、久々にラトルという別の指揮者を得て『ペレアス』が上演されるというのは、オーディエンスにとっては喜ばしいことです。



ちょうど初日の公演を迎えた頃、ラトルがテレビのインタビュー番組に出演していたのですが、その中で彼が語っていたところによると、
メトへの登場を打診したゲルブ支配人に対して、ラトルが提示した条件は、その演目が『ペレアス』であること、
そして、オケとのリハーサルの時間を十分に確保して欲しい、というこの二つだったそうです。
実際、ゲルブ支配人はムーティを招いた時と同様、ラトルに対してもきちんとこの約束を守ったようですし、
かつ、ラトルがその番組でメト・オケに対して最大級の賛辞を惜しまない様子は、単なるリップ・サービスを越えたレベルのもので、
リハーサル期間中にオケと彼の間に非常に良い関係が築かれたことを伺わせるものでした。
この作品は上演時間が長く、非常に繊細で込み入った音楽なので、これを高度なレベルで組み立てるには、
ラトルの”リハーサル時間が十分に欲しい。”という要求はもっともなんですが、伝え聞くところによれば、
彼はオケに一方的に要求を押し付けただけでなく、各セクションがリハーサルで無駄な時間を過ごさなくてよいよう、
信じられないほど緻密なスケジュール割りを組み立て、時間を最大限有効利用する工夫をしていたそうで、
そもそもそういうことが出来ること自体、彼が非常に良くこの作品に精通していることの表れであり、
また、そういう工夫や気遣いはオケへのリスペクトも表すものだと思います。



そして、それがどれだけペイオフしたかは、彼がピットに入って来た瞬間、明らかに空気の中に感じ取れました。
メトオケの面々がこんなに子供のように目を輝かせ、この指揮者と一緒に仕事をするのが楽しくてしょうがない!
という空気で満たされているのを感じるのは、ほんといつ以来のことでしょう?
ムーティについては、彼への才能への大きな尊敬に潰され(&いつ叱り飛ばされるかの恐怖に)オケの方が縮こまってしまっている感じでしたし、
ルイージの時は、彼への尊敬がないわけではもちろんないですが、どちらかと言えば、一緒に良い音楽を作ろう!という同志的な雰囲気なのに対し、
ラトルの場合は、彼の才能に対する大きな尊敬がありながら、決して萎縮していなくて、演奏する楽しさもオケが存分に感じていることが伝わって来ます。
ラトルがタクトを構えて、いまや最初の一音が出るぞ!というその瞬間に、あろうことか、平土間前方の客席から携帯電話の受信音。
きーっ!!!!!!
ムーティならここで客席に睨みを発射するか、下手すれば客席にダイブして、そのとんまな観客から携帯電話を奪い取り、床に叩き付けても私は驚きませんが、
ラトルはちらっともそちらの方を見ず、腕を下ろしてほとぼりが冷めるのを待ち、冷静に仕切り直し。
さすが、サー(注:ご存知の通り、彼はSirの称号を持っています。)、こんなことで一々熱くなったりしないのです。



この作品を好きなヘッズでも、冗談まじりに”何も起こらないまま最後にメリザンドが死ぬ物語”と揶揄することもある通り、
確かにイタ・オペのようなはっきりとした起承転結、あら筋を求めると、一体なんだこりゃ?な作品です。
はっきりと語られないことの中に生まれる緊張感、そこに隠された人の心の機微、
語られないゆえにいや増しして行く、いつか何かが起こりそうな不穏なじめっとした空気、
言葉や行動の見かけの激しさが必ずしもその裏にある心のテンションの高さと比例するわけではなく、
また私達人間には嫌でもそれを感知する能力が備わっているという事実(もっと鈍感になれたらどれだけいいか!)、
そういったことが描かれているのがこの作品の魅力で、それがきちんと演奏に反映されていないと、とても退屈な公演にもなりうる作品です。



前述のボックス・セットに入っているレヴァインの演奏は、このあたりのことを表現するには少し音楽の輪郭がはっきりし過ぎていて、
ひたひた、、と迫ってくるような怖さが私にはあまり感じられないのですが、
ラトルの指揮では、シリウスで聴いた12月末の公演時でも、そのイーリーさがきちんと表現されていて、
実演で聴くのを心待ちにしていたのですが、それはもう全く裏切られませんでした。
この感覚をこんな風にして音楽で表現するには、極めて繊細なオーケストラのコントロールが要求されると思うのですが、
ラトルのリードも素晴らしければ、それに見事に答えているオケも賞賛に値します。
もう全編にわたって、薄ガラスの上、いえ蜘蛛の巣の上を歩いているような只者でない緊張感なんですが、
それでいて、気がつくとオケが奏でる音の美しさと浮遊感に身を任せている瞬間が何度も訪れるのです。
ラトルの指揮は、これまで別の、それも非常に優れたオーケストラ(ベルリン、フィラデルフィア、、)で聴く機会がありましたが、
今回ほどテンションが高く、その結果としてラトルのどういう点が優れているかということがはっきりわかった演奏は、私にとって他にありませんでした。
ベルリン・フィルとの間に既に築かれているような長期的な関係とは違って、メト側にこれがある種特別な機会であるという感覚があったことと、
それから私の方にも、ベルリン・フィルとは違って、メト・オケに関しては継続的にその演奏を聴き続けていることもあって、
ラトルがどのような新しい風をオケに吹き込んだか、ということが非常に見えやすかったということ、など、
いくつかのメリットがあったのも原因かと思います。



私は先のヘッズの言葉とは裏腹に、『ペレアスとメリザンド』は決してドラマ性に欠けたり退屈な作品どころか、むしろすごいテンションの作品だと思います。
一幕と二幕はまだ”静”(もちろん表面下ではひそやかに、しかし確実にマグマがぼこぼこ言っているのですが、、)の側面があって、
音楽ともあいまってこちらがトランスにかかるような感覚があるのですが、それは三幕で一気に吹き飛びます。

ゴローが自分の弟(ペレアス)と妻(メリザンド)との仲を疑い始めてから以降は、もう心臓がどきどきしてしまいます。
ペレアスを洞窟に連れ込むところの、このまま彼を事故に見せかけて殺してしまうのではないか?という雰囲気だとか、
まだ幼い息子イニョルドをゴローが肩車して、ペレアスとメリザンドの浮気の現場を何とかして押さえようとメリザンドの部屋を外から覗き見する場面での会話、

息子:(部屋をのぞきながら)ああ、なんてまぶしいんだ!
父:ママ(メリザンド)は一人かい?
息子:うん、、、あ、ううん、違った、ペレアスおじさんもいるよ。
父:(!!!!!!)ペレアスが、、(と思わずイニョルドの足を握っていた手に力が入る)
息子:あいたっ!!パパ、痛いよ!
父:どうってことないだろう、これ位。静かにするんだ。もう痛くしないから。ちゃんと観察するんだ、イニョルド!
パパが自分の足にひっかかっただけだ。さ、もっと小さな声で話すんだ。で、彼らは何をしている?
息子:何もしてないよ、パパ。
父:おじさんとママは近くにいるか?何かお話しているのか?
息子:ううん、パパ、何にも話してない。
父:じゃ何をやっているんだ?
息子:明かりを見てるよ。
父:2人とも?
息子:うん、パパ。
父:何か言ってるかい?
息子:ううん、パパ。でも、2人とも目が開いたままで瞬きしないんだ、、
父:二人は近づいているかい?
息子:ううん、パパ。でもまばたきしないよ、、僕、怖い!
父:何が怖いんだ、ちゃんと続けて見るんだ!
息子:パパ、おろしてよ!!
父:見ろってば!
息子:ああ、僕、泣いちゃうよ、パパ!下ろしてってば!下ろしてよ!!!

、、と、この父親のあまりの強引さ・怖さにMadokakipもああ、泣いちゃうよ!って感じですが、
ゴロー役のフィンレーがイニョルド役のナガラジャン君(女声で歌われることも多いこの役ですが、
『ボリス・ゴドゥノフ』でフョードル役を歌ったメイクピース君に負けじと、このボーイ・ソプラノの彼が素晴らしい演技と歌唱を見せています。)を
ぐらぐらしつつも実際に肩車しての熱唱で、やっとイニョルドを離して三幕が終わる時には、私の隣に座っていた若い男の子も、
”ふう、、。”とやっとその緊張感から解放されて安堵の溜息をついていました。
この会話からも判る通り、この作品では徹頭徹尾、ペレアスとメリザンドがどういう関係にあるのか、なぜお互いにこうも惹かれあうのか、
そもそもメリザンドは何者なのか?(彼女ほど人間として浮世離れしているオペラの登場人物も珍しい、、。)という問いには
決してはっきりとは答えず、観客一人一人に考えを委ねているのが特徴です。



ペレアス役を歌ったステファン・ドゥグーは、私はメトの『ロミオとジュリエット』のマキューシオ役(2007-8年シーズン)でしか聴いたことがなくて、
マキューシオはそれほど大きな役ではないことと、同じ役をダブル・キャストで歌ったガンの方がまだ華があったので、
こんなペレアスのような大役、大丈夫なのか、、と公演前は心配しましたが、全くの杞憂でした。
くせのない端正で美しい声に、ディクションの良さ(ネイティブのフランス人のフランス語を褒めてもな、、なんですが)も手伝って、
舞台上で見る限りは、憂いをたたえた王子風の高貴さもきちんとあって、これは彼にはまった適役だと思います。

ゴロー役のジェラルド・フィンレーは、『ドクター・アトミック』の時もそうでしたが、
こういうインテリジェンスが必要とされる役が上手いな、と思います。
イタリアン・レップでの彼は、少し考えすぎな感じがして”もっとストレートに歌い演じればいいのに!”と、
こちらがじりっとするようなところがあって、それが足手まといになるように私は感じるのですが、
こういう単純でない、苦悩にさいなまれる心理の表現はなかなか巧みで、また、彼はそれをやり過ぎないところが上品で好きです。
押し出しはやや小さいけれども端正な彼の声は、このゴローという役の心の闇だけでなく、それと苦闘する優しさも表現していて、
浮世離れした人物ばかりのこの作品の中でもっともヒューマニスティックなものを感じさせる役作りだったと思います。

というわけで、ドゥグーもフィンレーもバリトンなので、今回はバリトンonバリトンの『ペレアス』だったわけですが、
もう一つ特筆すべきは、この2人の声の相性がとても良くて、声だけ聴いていても、”兄弟だ!”と納得させる雰囲気がきちんとあった点です。



コジェナーは、彼女を他に聴いたことがある唯一の機会であった、フィラデルフィア管との『ファウストの劫罰』
(指揮は同じラトル)で絶不調だったこともあり、本来のコンディションでの彼女の歌を生で聴くのは今回が初めてです。
正直に言うと、彼女の声そのものは、そんなにものすごく特別なものがあるとは私は思いません。
どちらかというと平凡と言っても良い声かもしれない、、とすら思います。
サイズは決して小さくないですが、高音域で少し音が軽くなる感じがありますし、低音に特に個性的な響きがあるわけでもなく、
レパートリーも結構狭い範囲に限られるタイプの歌手じゃないかな、と思います。
ただし、たまたまこのメリザンド役が彼女に合っているからか、それとも彼女の表現力に負うところなのか、
これはもう一つ別のレパートリーで彼女の歌を聴くまで何とも言えませんが、
メリザンド役のエア、雰囲気、というものは非常に良く捕らえられた歌唱と演技だったと思います。
ヘッズの中には、彼女の声質、スタイルともメリザンドにそぐっていない、という人もいましたが、
私はこれはこれで非常に優れた役作りだったと思います。
彼女の歌の特徴は、決してオケの演奏よりも、”私が!私が!”というような自己主張の強い歌で前に出て来ようとしない点で、
そういう面では、オケの演奏を中心に公演を作り上げていくタイプの指揮者に好まれるタイプではあるかもしれません。
それを言うと、今日の公演に出演した歌手は全員どちらかというとそういうタイプの歌手ばかりで、
それもラトルを中心にして上手く演奏がまとまっていた要因かと思います。
(一方、ラトルの方も、私はこれまで、あまりオペラ指揮者という認識がなかったのですが、
今回の『ペレアス』の舞台を見る限り、歌手や舞台とのコーディネーションにも非常に長けていて、
コンサート・ホールだけでなく、オペラハウスでの全幕上演でも十分力を発揮できる指揮者だと感じました。)



コジェナーの演技は決して体当たり演技派!というタイプのものではないので、
派手な演技をする歌手と比べるとなかなか認知されにくいかもしれませんが、
抑えた演技ながら、非常に良く作品のツボを抑えていて、
私は彼女はどちらかというとリサイタルとか演奏会形式で歌っていくタイプの人かと勝手に想像していたのですが、
意外と全幕の中での演技の仕方、自分の見せ方を心得ている歌手なのに驚きました。
歌でも演技でも知的なタイプの歌手だと言えるかもしれません。

良い公演というのは舞台写真を見ているだけでもそのテンションが伝わってくる、というのが私の持論なんですが、
今回、この記事を書くにあたって『ペレアス』の舞台写真を見ていたら、どれも非常に美しく、
かつ各場面のドラマが伝わってくるようなものばかりで、全部upしてしまいたいくらいで、枚数を削るのに難儀しました。



先に書いたイニョルド役のボーイ・ソプラノ、ナガラジャン君が大活躍していたのはもちろん、
脇を固めたペレアスの父アルケル役のウィラード・ホワイト(2000年にゴローでメト・デビューを果たしたジャマイカ出身の歌手)、
母ジュヌヴィエーヴ役のフェリシティ・パーマーの2人の、出すぎない、それでいて、この作品の雰囲気を大事にした存在感はさすが。
(フェリシティ・パーマーは、ここ数年、『連隊の娘』のベルケンフィールド女侯爵役、『エレクトラ』のクリテムネストラ役、
そして、このジュヌヴィエーヴ役と、各シーズン、私が最も優れた公演だったと感じる演目において、
タイプも作品の中における位置づけも全く違う役を巧みに演じているのは賞賛に値します。)
というわけで、今シーズンの『ペレアス』は、キャスティングが非常に上手く行った例だという風にも思います。



それから、何と言っても素晴らしかったのはジョナサン・ミラーの演出です。
セットは全幕を通してたった一つ、アルケル王の城で、それがローテーションしながら、少しずつ装いを変えていくもので、
(なので、アイディア的には現行のマクヴィカー演出の『トロヴァトーレ』と共通したものがあります。)
最初にゴローとメリザンドが出会う森の中の泉も、ゴローがペレアスを連れて行く洞窟も、
全てが物理的には城の中に展開する形になっているのですが、それが舞台が始まるとまったくもって違和感がなく、
きちんと泉や洞窟として観客に感じられるのは見事です。
(二枚目の写真は、そのゴローとメリザンドが出会う場面で、この床板に穴が空いている、そこが泉なのです。)
音楽や物語として1回たりともつまずいたり、流れが止ってしまったり、観客が違和感を感じる瞬間がなく、
大晦日のデッカーの『椿姫』で私が欠けていると感じたのはそういう点なのです。
また、この城を作り上げている材質の冷たさ、それからスペースから感じる重苦しさ、
やがて、ペレアスの父が病から回復して、ちょうどメリザンドが亡くなる時と重なるようにして戻ってくる淡い温かい日の光と、
それとコントラストをなすような、それまでの冷たく暗く重苦しい光、、

オケの演奏の繊細さ、歌唱、演出、あらゆる点で大晦日の『椿姫』とは比べ物にならないような、端から端まで本物で上質な舞台で、
こういう舞台が稀にでもあるから、メトに行くのはやめられん、、、ということになってしまうのです。


Stéphane Degout (Pelléas)
Magdalena Kožená (Mélisande)
Gerald Finley (Golaud)
Willard White (Arkel)
Felicity Palmer (Geneviève)
Neel Ram Nagarajan (Yniold)
Donovan Singletary (A Shepherd)
Paul Corona (A Physician)
Conductor: Simon Rattle
Production: Jonathan Miller
Set design: John Conklin
Costume design: Clare Mitchell
Lighting design: Duane Schuler
Stage direction: Paula Williams
Gr Tier A Even
ON

*** ドビュッシー ペレアスとメリザンド Debussy Pelléas et Mélisande ***

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24 コメント

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ペレアス (keyaki)
2011-01-17 11:14:54
ステファン・ドゥグーはちょっとハゲですけど、ちゃんとカツラをつければハンサムですよね。
ペレアスとメリザンドって上演機会があまりないし、音楽がオペラっぽくないので、ちょっと異質なのかもしれませんね。
ライモンディが「私にとって《ペレアスとメリザンド》はオペラというよりはむしろ交響詩だ。全部がまるでちょっと鎮静剤みたいだ。緊張は常時抑制されている。」なんて言ってます。あんまり歌いたくないんだそうです。
http://keyaki.blog.so-net.ne.jp/2006-04-15
古い記事ですが、キーンリーサイドがペレアスを歌った記事にもリンクしていて、コメントもけっこう面白いです。
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うらやましい (名古屋のおやじ)
2011-01-17 11:52:58

これだけの陣容で「ペレアス」を、ご覧になったマドカキップさんが、本当にうらやましい。フィンレーは、贔屓の歌手だし。このオペラ、弱音主体の「パルシファル」みたいな音楽で、下手をすると退屈の極みですが、名手たちの手にかかれば、この上なく魅力的な作品だと思います。

今回のメトの舞台は、音楽面でなく、視覚面でも美しい舞台のようで、ますますうらやましい。

「ペレアス」は大好きなオペラですが、なかなか実演に接する機会に恵まれず、舞台で見たのは、たった1回だけ。でもストラータス、クロフト、ファン・ダム、ロイドなどの陣容。とくにダムのゴローは、カラヤンとアバドが録音の際に彼を使ったことが十分に納得できる、素晴らしいものでした。
返信する
良かったですねぇ~ (Kew Gardens)
2011-01-17 23:07:43
”椿姫”のレポートを読んで、MadokakipさんがMETに行くのをやめてしまったらと、心配しておりました。 でも、すぐにこんな素晴らしい公演に巡り合ったなんて、よかったですね。 私もほっとしました。 

録音+ラジオでしかきいたことがないのですが,
コジェナーの声、私は、苦手なんです。 なので、先日のStreamingは眠いこともあって、パスしてしまったのです。このレポート読んで、聞けばよかったと反省。

もっとオペラ初心者だった頃、実はこのプロダクションが新作としてかかった時に、METで鑑賞しました。 いや、正確にいうと、時差ボケと戦いながらうつら・うつら、心地良い(メリハリがないともいいますが)音楽を耳に、眺めたというべきでしょうか。 丁度、NY到着の夜の公演だったので、きつかった。 それでも記憶に残っているのは、印象的な舞台装置。 

あ~、今だったら、もうちょっとじっくり堪能できるだろうに・・・・。
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これ観たかったなー (kametaro07)
2011-01-18 19:01:13
指揮者とオケの意思疎通が質の高い演奏には必須ですが、リハの時間など経営側のサポートとともにラトル自身のコミュニケーション能力が実を結んだ公演ですね。
キャストに奥さまのコジェナーというのも当然ですが暗黙の了解、かなりの頻度で一緒に仕事してますから、オケとの意思疎通に集中できたでしょう。
ラトルはベルリンフィルと共にエクサン・プロヴァンスやザルツブルグでリングを上演しましたし、地元リンデンやウィーン、アムステルダムなど、結構オペラでも活躍しているんですよね。

>オケの演奏を中心に公演を作り上げていくタイプの指揮者に好まれるタイプ
ドイツは土壌的なものでしょうが、指揮者中心の公演が多く、歌手もこういったタイプの人が多いですね。

いかに歌手の名前でしか公演に集まらないかとと言いつつ、結局自分自身もグルベローヴァとかパーペとかフローレスとか^^;歌手優先になってあちこち追っかけてしまい、必然的にグルベさまとパーペの活躍の中心であるドイツに行くことが多くなってますが・・・。
こういった指揮者中心の質の高い公演は遭遇確率が高くても演出まで揃うというのはなかなかありません。
一方イタリア・オペラはといえば、フローレスなんてドイツではコンサートでしか活躍の場がないですからね。
ということでMET「オリー伯爵」行きます!

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keyakiさん (Madokakip)
2011-01-19 10:55:56
>ステファン・ドゥグーはちょっとハゲですけど、ちゃんとカツラをつければハンサム

(笑)そうそう、そうなんですよ。舞台の上ではほんと素敵で、
“へー、どんな顔だっけな、この人、、”と
インターミッションでプレイビルを開いた瞬間、
ハゲ写真が目に飛び込んで来てずっこけました。
ちょっとギャップがすごすぎるんで、普段からかつらにしてもいいかもしれませんね。

>全部がまるでちょっと鎮静剤みたいだ。緊張は常時抑制されている

そうですね、イタリア・オペラはもちろん、それ以外のどんなオペラと比べても、
すごく抑制されていて、水面下でざわざわざわ、、、と進んでいくような感じがする作品です。
でも、演奏が良かったからでしょうか、すっごく怖かったんですよね。

キーンリーサイドの記事の紹介、ありがとうございます。
そういえば、去年のSinger’s Studioの時に、彼がペレアスの話をしていましたね。
ボストン響と共演した公演(演奏会形式で、リーバーソンがメリザンドで指揮はハイティンク)は
今でもヘッズの中で語り草になっている素晴らしい演奏だったみたいです。
(ゴローは今回の公演と同じフィンレーでした。)
返信する
名古屋のおやじさん (Madokakip)
2011-01-19 10:56:51
本当に私ももう一回観たかったです!! 手術なんか受けている場合じゃありませんでした!


>なかなか実演に接する機会に恵まれず

どんなオペラでもそうですが、特にこの作品は、
下手な演出をするとすぐに持ち味が壊れてしまう感じがあって、
それこそオケや歌唱に求められるのと同じような繊細さが演出にも求められる、
まるでガラス細工を思わせるような作品ですね。
作品の持っている雰囲気を壊してしまうような演出で舞台にかける位なら、
力のある歌手を集めて演奏会形式にしたほうがよっぽど効果的だと思います。
でも、今回のような優れた演出が伴うと、音楽作品としてだけでなく、
舞台作品としても、とても緊張感のある良い作品だと思いました。

>ストラータス、クロフト、ファン・ダム、ロイドなどの陣容

もう、何をおっしゃいますか!このキャストの方が強力ではありませんか!
でもこれはメトではないのかな?
それぞれの歌手がこの作品に登場した記録はあるのですが、
全く同じ組み合わせが見当たらないように思うので、もしかすると他の劇場でご覧になったのかもしれないですね。
それにしても、ストラータスのメリザンド、、、いやー、想像しただけで怖い~(笑)
ファン・ダムは本文に書いたレヴァインのボックス・セットに入っている『ペレアス』でもゴローを歌っています。
本当、この役ではひっぱりだこだったのですね。
返信する
Kew Gardensさん (Madokakip)
2011-01-19 11:05:21
>コジェナー

わかります、、必ずしも美声ではないですよね。
音域もかなり狭いんじゃないかな、と思わせるものがありますし、
割と響きもモノトーンというか、あまり芸幅の広い人ではないと思います。
今回は、彼女のあのどことなくはかなげな(下手すると、貧乏臭いの一歩手前?)雰囲気と
役柄が上手くマッチしたのだと思います。

>丁度、NY到着の夜の公演だったので

確かにNY到着の日の鑑賞に適した演目ではないかもしれませんね(笑)
特に最初のインターミッションに入るまで(一幕、二幕)、私などは、なんというか、トランス状態に入ってしまいました。
今回はものすごい睡眠十分(過ぎ)の状態で鑑賞しましたので、眠気では絶対にないのですが、
脳がぶーん、、と言いながら働きがとまってしまったような、妙な感覚でした。
(いつも働きが止っているともいいますが 笑)

>あ~、今だったら、もうちょっとじっくり堪能できるだろうに・・・・。

それでは5年後の『ペレアス』にぜひいらっしゃってください!!
返信する
kametaro07さん (Madokakip)
2011-01-19 11:11:35
はい!この公演、本当に良かったですよ!
作品の持ち味のせいもあって、どかーん!とわあ、良かった!と大きく来るタイプの公演ではないのですが、
公演中にふと、“ああ、こういう演奏を聴けるのってなんて幸せなんだろう。”とそれをかみ締めるような、
そういうタイプの公演でした。
おっしゃる通り、オケと指揮者の意思疎通が全ての面でスムーズに行った好例ですね。
終演後のオケピットは、“また帰って来てください!”というラトルへの思いがあふれていましたし、
ラトルの方もそれをひしひしと感じていたみたいで、
見ている私たち観客にとっても、なかなかエモーショナルな楽日でした。

>ラトルはベルリンフィルと共にエクサン・プロヴァンスやザルツブルグでリングを上演しましたし、地元リンデンやウィーン、アムステルダムなど、結構オペラでも活躍しているんですよね

そうだったんですね。ずっとシンフォニー系の人かと思っていたんですが、
そうするとオペラでもかなりの経験があるんですね。
今回のリハからの手際の良さや指揮の手腕を見ると、納得できます。

>グルベローヴァとかパーペとかフローレスとか

彼らは人気と実力がきちんと拮抗してますから!
これは『椿姫』の名古屋のおやじさんへのコメント、
それから『トスカ』のチャッピーさんへのコメントと関連しますが、
以前は、少なくとも人気は実力がベースになっていたと思うんですよね。
歌手の名前でしか公演が集まらないとしても、そういうことであれば、私は大きな問題にはならないと思うんですが、
今の(少なくともメトでは)問題は、実力が伴っていない歌手の人気を集客のベースに置こうとしている流れが感じられる点なんです。

>MET「オリー伯爵」行きます

近づいて来ましたね、いよいよ!!
他の歌手の中には一年中メトの近くにいるんじゃないか、、と思わせる人がいる中で、
フローレスはいつもメトで歌う演目が年に一つだけだからか、とても限られた時期にしかいない、というイメージがあるので、
余計ありがたみが増します。私も観にいきますよー!またお会いできるといいですね。
返信する
もしや、私が観たのと一緒ですか? (みやび)
2011-01-19 21:00:04
名古屋のおやじさん、

>ストラータス、クロフト、ファン・ダム、ロイドなどの陣容。とくにダムのゴローは、カラヤンとアバドが録音の際に彼を使ったことが十分に納得できる、素晴らしいものでした。

10年以上前でしょうか?小澤征爾・新日本フィル(?)で上演する予定が、小澤征爾が体調不良でキャンセルした公演がありましたが、あの時のキャストがこんな感じだったと思うのですが…?
その前年くらいまでは「ヘネシー・オペラ・シリーズ」だったのが、ヘネシーがスポンサーを降りてしまったのか「小澤オペラ」になっていたため、チケットの払い戻しを受け付けるという通知が来ていたのを覚えています。「チケット払い戻し」がめずらしかったので覚えていますが、それ以外の記憶はあやふや…。
私は払い戻しせずに観に行ったのですが、とっても幻想的で美しい舞台装置でした。特に好きなオペラではなかったのですが、居眠りせずに観れた…と思います。多分。でも、CDとかLDとかは途中で気を失ってしまうのです…。

アルファーノの「シラノ・ド・ベルジュラック」を聴いて、「ペレアスとメリザンド」のちょこっとヴェリズモ風みたいな感じもあるかな?という安直な感想を持ち、「シラノ」が気に入ったということは今の私は「ペレアスとメリザンド」もOKか?!と思ってCDを聴きなおしてみたりしたのですが…
…やっぱり駄目でした…撃沈。ちなみに、「パルシファル」もわりと駄目です(これはちょっとイカン、と思うのですが、未だ克服できず)。

このMETの上演もなかなかに素敵そうですが…生舞台だったら大丈夫かも…とは思うのですが。
返信する
私も時間がかかりました (名古屋のおやじ)
2011-01-19 22:38:13
みやびさん

そうです。先日言及したのは、ご指摘のように小澤征爾が体調不良で降りてしまった「ペレアス」の公演で、私は名古屋で見ました。とても優れた舞台だったと思います。小澤の代役は長いことNYのモーストリー・モーツァルトなどで活躍していたシュウォルツ。

先日のコメントには書きませんでしたが、ジュヌヴィーヴはジェイン・ヘンシェルが歌い、副指揮を務めていたのが、現新日フィルの音楽監督(でしたよね)アルミンクだったんですよね。今考えるととても贅沢な公演した。

現在、「ペレアス」は大好きなオペラですが、最初にこの作品を聴いたとき(中学3年か、高1の頃だったと思います)は、「なんじゃこりゃ??」と思い、アクビ連発。しかし、一枚のレコードと出会い、「ペレアス」そしてラモーなどのフランスのバロック・オペラを楽しめるようになりました。名ペレアスだったカミーユ・モラーヌの歌ったフォーレです。声は盛りをあきらかに過ぎているのに、言葉のリズムや響きがそのまま歌になったような、彼の名唱のすっかりとりこになり(たぶん大学生になったばかりの頃でしょうか)、それが「ペレアス」への開眼へとつながりました。私にとって「ペレアス」は、言葉が音楽をかもし出すオペラとして、まずたちあらわれ、その後、その精妙なオケと言葉のブレンドを楽しむ作品となって現在に至ります。
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