Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

ANNA BOLENA (Fri, Oct 28, 2011) 本編&出待ち編

2011-10-28 | メトロポリタン・オペラ
先週10/21のミードの『アンナ・ボレーナ』の公演に続いては、今頃、10/26のカーネギー・ホールでのネトレプコのリサイタルの感想を書いているはずでした。
ネトレプコは2007年にRCWS(ロシアン・チルドレンズ・ウェルフェア・ソサエティ)のチャリティー・ガラで
ホロストフスキーと共演してカーネギー・ホールで歌ったことはありますが、
ソロとしては今年のリサイタルがカーネギー・ホール・デビューとなるはずで、
しかもオール・ロシア歌曲のプログラムということで、NYのヘッズたちがどんな歌を聴けるのかとても楽しみにしていたイベントです。
それなのに、奇しくもその10/21のミードのボレーナの公演に向かう前にぴろん!と私のメールアドレスにカーネギー・ホールからのお知らせが入って来て、
”ネトレプコはメトで『アンナ・ボレーナ』のタイトル・ロールという非常に負荷の多い役を7公演歌った結果、
医師より10日間声を休めるようにとの指示があり”、予定されていたリサイタルがキャンセルされる旨の連絡がありました。

21日の公演でのミードが素晴らしかったので、これは絶対にもう一度彼女のアンナを聴いておかねばならない!と、
帰宅した足でいそいそとメトのサイトを訪れたことは言うまでもありません。
彼女が歌うのは21日、24日、28日のたった3回で、全て聴きに行きたいのはやまやまなんですが、週なかの24日は仕事との兼ね合いもあって厳しいので
28日の金曜日しか選択の余地がありません。
しかし、さらにじっとスケジュールを見ていて思ったのは24日と21日って、たったのなか2日のスケジュールなんですね、、。
それに比べて28日と24日はなか3日。この面から言っても28日の方が良さそうです。
それにしても、この大変な役の全幕をなか二日で歌わせるなんてちょっときつくないか?と思いますが、
今調べてみるとネトレプコの方は7公演歌ったうち、なんと3公演もなか2日で歌っていたんですね、、。
カーネギー・リサイタルのキャンセルについては、”なんだよー、そんな理由ありかよー。仮病だろー、どうせ!!”と
ヘッズからの失望が入り混じった非難轟々だった彼女ですが、こんなスケジュールでは疲労が貯まっても無理ないよね、、と私は思います。
(そんな時期にリサイタルをブッキングしたことがそもそもの間違いなのだ、という指摘にはもちろん反対しませんが。)

私には今やこのネトレプコのリサイタルからのチケット代返金があるので、何も怖くない!
二度目のミードの『アンナ・ボレーナ』のために、有り金を全てはたいて平土間正面ブロック二列目通路そばのチケットをゲットです。
この至近距離からミードがどのような歌い方、表情、演技をしているかを細かく観察するのは勿論ですが、
現在予定されているキャスティング通りに行けば、これが今シーズン最後のアンナを歌うことになる彼女に
真近からMadokakipの暑苦しいまでの応援&見守りの眼差しを差し向けようという企みなのは言うまでもありません。



実は24日の公演を見合わせる無念さに何とかけりをつけられた理由は、
それが少なくともシリウスで放送される予定になっていたからで、勿論私も拝聴しましたが、
24日のミードはわずかではあるのですが声に疲れが感じられ、
21日の公演から完全にはリカバリーしていないのかな、と感じるところがありました。
高音のピッチが好調な時のように完全にはデッドオンでなく、ほんの少し不安定なところを感じたり、
そのために例えば21日の公演ではより長くホールドしていた音を気持ち早めに畳んでしまう、
以前の記事で触れたトリルでピッチが心もち緩くなる現象が見られる、といったことなどにそれが現れていると感じました。
21日の公演の記事の中で"Coppia iniqua"の音源を紹介しましたが、途中で投入していた高音、
あれもなしにしてスコア通りに歌っていましたし、最後もハイEフラットに上がらずに閉めていました。
(ただし、ハイEbについては最後まで挑戦しようかしまいか迷っていたのか、
それとも前回のマルコとの息の合わなさが頭にあって慎重になってしまったからか、一つ前の音がなんだかとても長かったのが微笑ましかったです。)
ただし、強調しておくと、普通ならこれだけ歌えれば賞賛に値する内容なんであって、
(実際、観客からの喝采も大きかったです。)
上に書いた高音はオプショナルなものであって必ず歌わなければいけないものではないのですし、
自分のコンディションに応じてそういったものの取捨選択をきちんと行えるということは非常に大事なことだと思いますし、
彼女がその時の自分の状態で出来ること、出来ないことを的確に判断しているのも素晴らしいことだと思います。
結局、取り立てて書くような失敗は何一つなかったわけですから。

けれども、私がミードに期待するものは本当に高いレベルのところにあって、
今、彼女の歌を聴く時、それが普通で言うところの単なる良い歌唱であるだけでなく、
現在の彼女が出し得る最高の内容の歌唱であって欲しいのです。
もちろん、彼女が最高の歌唱を出したなら、それは自ずと観客がすごいものを聴ける、その信頼の裏返しであるわけですが。
その面で言うと、24日の公演はもう少しコンディションさえ良ければもっと良い歌唱が聴けたはずなのにな、と思うと同時に、
今回のような過密スケジュールでこの役を歌うということがどれだけ歌手にとって大変か、ということが改めて感じられ、
ネトレプコ・リサイタルのキャンセルも、”ま、しょうがないか、、。”と思えて来ます。
本当にオーディエンスのことを大事に思うなら、
演目や役による歌う・演奏する側の大変さの違いをもっと加味した公演の組み方をメトも考えるべきだと思います。
彼らが疲れていたら良い演奏なんて出て来っこないですからね。



24日の公演からグバノヴァが復帰したので、これでやっと本来意図されたキャスト、
つまり、Aキャストから、タイトル・ロールのみネトレプコ→ミードになった組み合わせで鑑賞することが出来ます。

まずグバノヴァはほとんど風邪が完治したようで、オープニング・ナイト時に近い、安定した歌声になっていて安心しました。
ジョヴァンナ役はかなり高い音域も求められるため、そういった音域になると音が少し軽く・浅くなる傾向がある彼女の歌声は
高音域でも中音域との統一感がある上に鋭さのある音を出せるガランチャに比べて聴き劣りする部分がありますが、
役作りに関してはガランチャとは違う地味な女故の良さと怖さを強調したジョヴァンナ像を作り上げていて、
これはこれで役への優れたアプローチの一つだと思います。
最後の狂乱の場でエンリーコとジョヴァンナの婚礼を伝える大砲が舞台裏から聴こえて来る時、
”あの地味女がとうとう成り上がったか、、。”という深い感慨を覚えると同時に、
彼女は一体どういう思いでその場にいるのだろう?少しはアンナのことが心をよぎっているのか、そうでないのか、、?
グバノヴァがジョヴァンナ役をあまり強い役柄として歌い演じなかったことにより、
かえって”今頃何を考えているんだろう、、?”と考えさせる結果になっているのは面白いです。
ただ、この方法はネトレプコのようなスター性のある歌手が相手に配役されている時には良いかもしれませんが、
毎回毎回使える方法ではないかもしれません。
大きな劇場で、大きな役を負かされるようになったら、もうちょっと彼女自身の自己主張のようなものがあっても良いと思います。
オーディエンスはある歌手の、ある演目・ある役での歌や演技に興味があるのは勿論ですが、
同時にその歌手がどんな歌手なのかを知りたいというか、
その歌手のパーソナリティ(私生活でどんな性格をしているかというような卑近なことだけではなくて、
歌手としての個性という意味でのパーソナリティ)を感じたい、という欲求もありますから。



至近距離から鑑賞して、そうでない時とのギャップに最もびっくりしたのがエンリーコ役のアブドラザコフです。
以前にも書いた通り、彼は今回の一連の公演では今一つ精彩を欠いているというか、
特に王としての威圧感とか鋭さ、いやらしい企みを心に宿しているそのどろどろした感じが声からあまり伝わって来なくて、
ドレス・サークルあたりから歌声を聴くとほとんどへなちょこ王と言ってもよい位です。
ならば、せめてジョヴァンナとのシーンで恋する男のロマンティシズムを感じさせてくれたかというと、
それもあまり無かったと個人的には思っています。
この役での最低音域はちょっと苦しい感じもありました。
しかし、声のハンサムさと歌いまわしの丁寧さ・上手さ、そしてルックスの良さと演技力を持っている彼は、
もしかするとHDにおいては、キャスト中で最も得した人かもしれない、と今日の公演を舞台に近いところから観ていて思いました。
特に演技に関しては、じとっと前を見据えた無表情な視線が何かにとりつかれたような怪しさを帯びていてなかなかに怖かった。
ある種の演技、具体的に言うとスクリーンを介して見せる演技としては、非常に達者な才能を持っている人だと思います。
ただ、彼の演技の上手さというのは、劇場の隅々にまでそれが伝わってくるような種類のそれではないんですよね。
以前にも書いた通り、劇場で顔の表情まではっきり見える距離に座っている観客は一握りなんであって、
そうでない観客にも至近距離に座っている観客が感じているものと全く同じものを感じさせる力、
これがある一定以上のサイズを持つオペラハウスの公演にキャスティングされる歌手に必要な演技力だと思うのですが、
アブドラザコフが持っている演技力はそれとはちょっと別の種類のものなのです。
しかし、『ランメルモールのルチア』にもキャスティングされている二匹のアイリッシュ・ウルフハウンドが、
今回の『アンナ・ボレーナ』の一幕の狩りの場面にも登場しているんですが、
アブドラザコフが楽しそうに彼らの頭を撫でたり、さっきまでの怖い表情の王はどこへやら、犬好きと思しき彼の素顔が伺えて実に微笑ましい。


(『ランメルモールのルチア』に出演中のグレイシーとマーフィー)

そういえばアブドラザコフは『ルチア』でライモンド役を歌ったことがあるので彼らとの共演は初めてではないんでした。
それにしても、しまいには跪いて彼らに顔まで舐めさせん勢いになっているアブドラザコフを見ていると、
いつの日か、うちの息子たちもあの舞台に立たせてやりたい、という野望が燃え上がって来ました。
うちの息子達はシャコタン犬(=ミニチュア・ダックスフント)ですので、
アイリッシュ・ウルフハウンドの場合とは違って、跪いても彼らの顔の位置には届きませんが、
アブドラザコフならば床にひっくり返って彼らと戯れてくれそうな気がします。



スメトン役のマムフォードが21日の公演で少し冒険に走っていたのは感想に書いた通りですが、
今日は堅実に、従来の歌い方で全幕通してみせました。
HDで証明した通り、実力も舞台度胸もある人なので、後は21日のような冒険を成功させられる柔軟性があれば言うことなし、
まだまだ年齢的には若い方に入る彼女なので、これからどのように伸びていくか、楽しみです。

一方でまだ風邪が完治していないのか、全体的にHDの日ほどのキレはなかったコステロ。
どこか自信なげな演技は相変わらずですが、その点についてはもう以前からの鑑賞経験で織り込み済みなのでともかく、
高音で自分の思うようなしっかりした響きが出ないと、指揮をしているマルコを見続けるのが恥ずかしくなるのか、
オケのメンバーにどう思われているか不安になるのか、申し訳なさげ&不安気な視線をオケピに落とす癖、これはやめた方が良いでしょう。
見ているこっちも気の毒でつい自分の足元あたりに視線を落としてしまいそうになります。
オケの奏者はもちろん、この作品の、この役を歌う難しさを理解しているヘッズは決してそんなことで彼を笑ったり馬鹿にしたりしないのですから!
しかし、かと思うと、秋のラン最後の公演ゆえのサービス心か自分の力を突然試してみたくなったのか、
"Vivi tu"の最後にいきなりハイDを入れて来たのには、全然予期していなかっただけにびっくりしてしまいました。
相変わらず度胸があるのかそうでないのかわからない、面白い人だと思います。
今回のメトでの上演に関しては初日の前に"Vivi tu"をカットするかしないかで多少のすったもんだがあった話を以前ご紹介しましたが、
その時にダラスの公演で彼はハイDも出していた、と言っていた人がいたように記憶しているのですが、
当時に比べると今の彼は少し声質が変わってしまって、以前ほど高音が楽に出なくなっているため、
今回のパーシー役では若干苦闘の跡が見られ、メトでこの音を出したのは今日の公演だけなんじゃないかと思います。
(少なくとも私が鑑賞した公演とシリウスで聴いた公演の中にはありません。)
力強くオペラハウスに鳴り渡る種類の音ではなかったので、挑戦するだけの価値があったかどうかは各々のオーディエンスの判断によるものだと思いますが、
(なかにはこれだったらいつも通りに歌ってくれていい、というオーディエンスもいるでしょう。)
きちんとした音にはなっていましたし、私は常に”挑戦する心意気や良し。”という考えの人間ですから、ポジティブに捉えています。

ちなみに、コステロは今回の『アンナ・ボレーナ』の公演前の夏の間に扁桃腺の手術を受けており、
その為にグラインドボーンでの『愛の妙薬』から降板した経緯があるそうですが、
これがどれほどの変化をもたらすかは今後の彼の歌唱を見守るしかなさそうです。



むしろ、私がコステロに関してフラストレーションを感じる点は、ドラマを歌唱の中に盛り込むことが出来るという自分の持っている才能を
自らが非常に過小評価している、もしくは全く気づいていないように見える点です。
例えば(『ルチア』の)アルトゥーロ役位ならそれでもいいかもしれませんが、パーシーはこの作品の中で立派なリーディング・ロールの一つなんであって、
これからこういった主役級の役をレパートリーの中心に据えて歌っていくなら、
彼がHDの時にネトレプコに対して出した馬鹿力のようなもの、これを普段から出せるようにならなければなりません。

今日のオーディエンスはものすごく手強かったです。
というのも、大きく分けて
① ネトレプコのアンナ・ボレーナとは違う種類の、ベル・カントとしての観点から聴いて満足できる『アンナ・ボレーナ』を聴きたい人
② オペラにそれほど興味がなくて、ネトレプコ?ミード?どっちでもいいよ的ノリでチケットを買った人
この二つ、つまり猛烈にヘッズ度、それもベル・カント指向のが高い・強い人か、全くそうでない人、この両極の集団になってしまっていたからです。
①には21&24日のミードのアンナ役に感銘を受けた人やミードをずっと応援している人も含まれていますが、
このグループの人たちはネトレプコの熱狂的なファンとは若干違って、本人が舞台に出て来た事実だけである程度満足するということがなく、
あくまで歌唱力で燃えさせてくれなければやだ!という、厳しい&気難しい人々の集まりですし、
残念ながらミードのルックスと演技力は、②のグループをも瞬時にして魅了できるネトレプコのそれとは同じ種類のものではない事実は、
超プロ・ミードの私ですら否定できないところです。

ついでに言うと、ネトレプコの現在の声そのものには稀にしか見られない魅力的な響きがあるのは間違いなく、
彼女の歌を退屈に感じる人がいたとしたら、それは彼女にその声を有効に使い切るテクニックが不足しているからに過ぎず、
それを彼女の声そのものの魅力の有無と混同することがあってはならないと思います。
特にここ十年かそこらのスパンでその歌声に著しい変化が見られた彼女のような歌手について
(短期間でここまでの変化がある声も珍しく、それもまたレパートリーの変化を含め、
彼女をウォッチする楽しみの一つである点を指摘する人があまりいないのも奇妙なことだと思います。)、
そもそも彼女を生であれ録音であれ、ほとんど聴いたことの無い人が、
どうやってオペラ界での彼女の価値といったようなことを議論できるのか?と不思議でなりません。
(その変化は、最近発売されたLive at the Metropolitan Operaという彼女のCDを聴くと、ある程度は感じることが出来ますが。)
なので私は、”ネトレプコの声が云々、歌が云々”と一言で言われても、それはいつの頃のネトレプコのことですか?と聞きたくなってしまうのです。
歌手の声というのは生きていますから、自戒も含め、ある一時期の歌唱に受けた印象に凝り固まって判断してはならないと思います。



今日の公演の話に戻ると、先述したような客層のせいもあり、特に第一幕の終りまでは、非常に客の反応が重い公演でした。
ミードの声は24日とは違い、しっかりと十分に休養したことが伺える歌声で、コンディションでは21日の公演に全然負けていないか、むしろ良い位で、
歌も非常に丁寧に上手く歌っています。ところがなかなか公演に火がつかない。
何も間違ったことをしていないのに、やたら客の反応が鈍い公演というのがありますが、まさにそれです。
私の隣に座っていた男性は①のタイプの観客と見られ、音楽に合わせて指で指揮をとったり色々していましたが、
彼には一幕から燃え上がるものが感じられなかった上に、気も短いのか、インターミッションの後は座席に戻って来ませんでした。

ミードは演技の微細なところは彼女の考えるアンナ像に合わせて微調整していますが、
基本的な立ち居振る舞いはネトレプコのそれと全く同じ。
座る、立ち上がる、といった動作が”よっこらしょ。”といった感じになってしまい、
特に今日のような豪華な衣装を着ていると、裾を踏んで転ぶのではないかとちょっとどきどきする場面もありました。
ネトレプコも今やミードに負けず劣らずの立派な体格になっていますが、体の動きのテンポは痩せていた頃とあんまり変わっていないので、
舞台で遠めに見ると、体についた重さの割にはあまり太った感じがしない、ということになっているのだと思います。
ただ、ミードの表情とか、無理な動作をしていない時の所作のタイミングなんかは、非常に良いものがあって、
以前、彼女の伯爵夫人(『フィガロの結婚』)を鑑賞した時にも思いましたが、決して基本的に演技の下手な人ではありません。
特に第一幕のパーシーとの対話のシーンで、彼に追い詰められる場面での苦悩の表現は、それまでの頑なな感じを貫いていたアンナが、
唯一、女性として脆い表情を見せる場面になっていて、この表情をパーシーと一緒にいる時だけに見せていることから、
彼が彼女にとって唯一の特別な人間であることが伝わってくる、非常に有効な表現だと思いました。
しかも、その特別な人間に対してさえ、”愛している”ということを口にして認めることが出来ないせつなさ!!
また歌声にその今にも壊れそうな気持ちをミードがきちんと表現しているのも素晴らしいと思います。
もうー、わかってやれよー、パーシーはよー!!言葉が全てじゃないだろうよー、と言いたくもなるってもんです。
しかし、あの、”いいえ、決して(あなたとはもう会わないわ)。”と宣言する場面で、その思いを振り切るアンナ。
女王の座を選んだ時に、好きな人間に対して好きと言える権利も捨てた潔癖さ、
確かにこれがアンナという人の性格の根幹をなしている部分だな、という風に思います。
この場面でコステロがもうちょっと燃え上がってくれたらもっと良いシーンになったと思うのですが、
HDの時のような熱さが今一つ感じられなかったのが残念でした。



私の隣の座席に座っていたのは①のタイプの男性でしたが、一つ前の列の、私から斜め前の位置には②のタイプの女性二人連れが座っていて、
第二幕の幕前、”これが初めてのメトなんです。”と言う彼女達に、
ベル・カントとは、『アンナ・ボレーナ』という作品とは、アンジェラ・ミードとは、などなど、熱弁を奮う私の前のヘッドな親父。
この二人連れがまた美人で、親父の話を一生懸命聞いてあげるものですから、ただでさえ熱弁なのがますます熱を帯びてしまってもう大変なことになってます。
ヘッズ同士、親父の気持ちもよーくわかりますが、彼女たちが引きまくっていることは言うまでもありません。

このまま重い足取りのまま公演が終わるとしたら残念だなあ、、ミードの調子が良いだけに余計、、と思っていたら、
この状況をひっくり返してくれたのはグバノヴァでした。
ニ幕目のアンナとジョヴァンナの二重唱、グバノヴァがミードをリードしてくれたおかげで、
ここから何か公演の空気ががらっと変わって、ずっとくすぶっていたものに一気に火が付いた感じがしました。

冒頭のホルンをバックに一人で演技しなければならない部分は、ネトレプコのような滑らかさはないものの、
一人になった瞬間、まるで子供のように無防備に行き所の無い不安と悲しみを爆発させるアンナをミードはよく表現していたと思います。
この後、神に向かって歌うDio, che mi vedi in core以下の部分、
こういった特に複雑な技巧を必要としない旋律をどれだけ聴かせることが出来るか、という点に、
ベル・カント歌手としてだけではなく、もっと広い意味での歌手としてのセンスが現れると思うのですが、ミードはこういう部分も本当に上手い。

いよいよジョヴァンナが入室して来て、ジョヴァンナが語っているアンナのライバルというのが他の誰でもないジョヴァンナ自身であることにアンナが気づく場面、
ネトレプコは一瞬にして悟りが来て怒りが爆発するような表現でしたが、
ミードのそれにはそれが事実であって欲しくない、その事実を受け入れるのに一瞬の迷いがある様子を、
それまでの語気荒い歌い方から、”どうしてあなたが?”という問いが滲み出るような歌い方でまず表現し、
それから二度目のmia rivale!(私のライバル!)という言葉に達するまでに徐々に怒りが吹き上がって行くように歌っていて、
アンナの感情の変化が歌唱に見事に表現されています。
だけどこれはもちろん一人で出来ることではなくて、ジョヴァンナ役のグバノヴァが素晴らしいカウンターパートを努めてくれているからなのは言うまでもありません。
すごい公演になる時には、何か予感のようなものがある、と常々(とはいえ、最近あまり超ド級の感動的な公演がなかったので今回久々に、ではありますが。)
このブログでも書いて来ましたが、ニ幕になって、遅ればせながら、何かすごいものがやって来る予感がして来ました。
あーあ、あのインターミッションで帰っちゃった隣の男性、なんてお馬鹿さんなの♪

グバノヴァの声はネトレプコと歌う時は音色に対比がありますが、ミードの声とは特に高音域ですごくブレンドしやすくて、
まるで同じ人がダビングして歌っているような錯覚を覚える瞬間もありました。
この二重唱は声に対比がある方が面白いとずっと思っていましたが、ここまで声が似るとこれはこれで非常に面白い!

もうこの後のエンリーコ、パーシー、アンナ三人による三重唱は至福意外の何物でもなし。
一旦舞台に火がつくと、キャスト全員にそれは伝染していくもので、コステロも頑張ってます。(その結果がその後に続くVivi tuのハイDなのかもしれません。)

エンリーコとジョヴァンナの二重唱でのグバノヴァからは、頑なに決してアンナを赦そうとしないエンリーコへの失望と、
その結果として、もはや一途に彼を愛することがなくなった雰囲気がふっと感じられ、これもまた冒頭に書いた、
ジョヴァンナは一体どんな思いで婚礼の式を迎えているのだろう、、と思わせるのに貢献しています。
彼女の表現に比べるとアブドラザコフのエンリーコは少し単調で、彼女の必死の嘆願に同調する王室の人間を足で踏み鳴らして追い散らすところなど、
ちょっと短絡的な表現過ぎるというか、
歌唱も含めて、もう少し複雑で重厚な感情の表現が欲しいかな、と思います。

アンナ兄(ロシュフォード卿)とパーシーの場面については先ほどハイDに絡めて書きました。
ロシュフォード卿はあまり歌うパートがないのに(か、それ故なのか?)、なぜかキース・ミラーの歌唱がここ数公演あまり安定しなくて、
21日に私を大噴火させた”あ~んな~~”な事態が再発するのではないかとどきどきしてしまいました。
(結局今日は何とかきちんと歌ってくれました。)

ああ、しかし!!!!
第三場、合唱が終わって、あの”あなた方は泣いているの? Piangete voi?"の前奏が始まってからの20分強は!!!!
私のオペラ人生の中で最高の20分間だったという以外、本当に適当な言葉が見つかりません。
まず、技術の面だけの話をしても、この狂乱の場が生の公演の通しの演奏でこんなに完璧に歌われることがあるというのが驚異です。
この作品の狂乱の場はアンナの感情が目まぐるしく変化し、それを表現する為のあらゆる音楽的手段が使われており、
それがトリルであったり、上昇下降の早いスケールであったり連符であったり、
一方でゆったりした旋律、弱く歌われる高音(ブラストする高音よりよっぽど難しい)だったりするわけですが、
これを全部完璧に歌うのはほとんど不可能に近く、それこそ、カラスのような歌手でも、全幕公演の録音を聴けば、多少のキズがあったりします。
(もちろんだからと言って彼女の歌唱の芸術的価値がゆらぐものでは全くありませんが。)
それをミードは今日、全部、本当に全部、どの部分も完璧に歌って見せた、、
それも、21日に挑戦したオプショナルの高音やらに全部挑戦しながらです。もちろん最後はハイEb。
トリルについては人によってどこからがきちんとトリルに聞こえるか、という基準が多少違うので議論が難しいトピックではありますが、
私は彼女が今日披露したものは正真正銘のトリルだとみなしますし、どのトリルもピッチが揺るぐことなく、振れ幅も均一な、素晴らしく粒揃いのそれでした。
それにピアニッシモで出した高音のそれは美しかったこと!!!
もう観客は彼女の歌声に釘付けになって、ピンが落ちるのも聞える静寂とはまさにこういう時のことを言うのだと思います。
ベル・カントはほんのちょっとしたエネルギーの緩みとか、音に備える体の準備が瞬間でも狂ったりするとそれが音となって現れるので、
そこには究極の集中力が求められます。
この究極の集中状態を保つのに、20分間強という時間がどれほど長いことか!!
聴く方はうっとりしていてあっという間に時間が流れていくように感じますが、歌っている方からすればこれは大変な長さであって、
この間、ずっとその状態を保ち、かつ、音がその結果を反映して何一つミスがない、これは奇跡に近い話です。

しかし、彼女の狂乱の場が素晴らしかった最大の理由はそれではなくて、その完璧に歌われた音符たちの中のすべてに命が宿っていた、この点にあります。
"あなたたちは泣いているの Piangete voi”~”私の生れたあのお城 Al dolce guidami castel natio”、
それからスメトンやパーシーや兄と交わす言葉(半分あちらの世界に行ってはいるのですが)、それに続くアンナの祈りの言葉("Cielo, a'miei lunghi spasimi")、
やがて聞えてくるジョヴァンナとエンリーコの婚礼を知らせる大砲の音とそれに続く楽しげな音楽、
それから、彼らが結婚しようとも自分が死すとも、私がイギリスの女王である!!という最後の宣言である”よこしまな二人よ Coppia iniquia”。
それぞれのパーツにアンナの違った感情が込められていて、それをあの難技巧にのせ切るというのは人間業と思われないのですが、
ミードはそれを本当に全部やってしまいました。
特に祈りの部分、”神よ、どうぞこの長い苦しみから私を解き放ってください。そして、この最後の心臓の鼓動がせめて希望のそれとなるように、、。”
と歌う場面での、アンナが辿りついた心の安らぎ(そしてそれは婚礼の音で乱されるのですが)を見事に表現したその研ぎ澄まされた美には、
聴いているうちに知らず知らずに涙が出てきて、ボロボロボロ、、と頬を伝った次第です。
そしてその後の怒涛のような"Coppia iniqua"のすごさ!歌の中にアンナのプライドと無念さが燃え盛っているのが感じられて、そのまま大泣き状態のMadokakip!
最後に彼女が正面を向いたまま(ネトレプコでも後ろを向いた状態では最後の音を効果的に響かせることは難しかったのでこの選択は大正解です。)
最後のハイEbを出して、観客に背を向け断頭台に向かっていくその姿に、一人、二人、、と自らの意志で跪いて敬礼を送る王室の人々、、。
この演技はネトレプコの公演の時にももちろんありましたが、ミードのような歌唱と結びついて初めて強い意味を発揮する演技付けだと実感しました。
合唱演じる王室の人々はそれまでにも多くの機会に彼女に跪きますが、ネトレプコが歌っていた時には、
これまでの礼と最後の礼の対比があまり上手く行っていなかったように思います。
しかし、演出のマクヴィカーは、皮肉にも、彼女が死を受け入れ、それに堂々と立ち向かったこの瞬間に、
王室の人々の心の中で初めて真の女王になったのだ、ということをこの最後の礼で表現したかったのだと思います。
これまでの礼が女王に対する義務によるものだったのに対し、最後の礼は初めて人々の心の内から自然に出てきた礼であるということを。
これを区別するためには、ミードのような圧倒的な歌唱が必要なのであって、彼女のような歌手を得て、
彼女がこの大変な狂乱の場を見事に歌い切ったことに対する観客の彼女への畏敬の念と、
王室の人々のアンナへのそれがシンクロして、非常に感動的で効果的なエンディングとなるわけです。
今日の公演を観て、ネトレプコは彼女の力の及ぶ範囲では非常に達者な演技を見せていましたが、
マクヴィカーが表現したかった一番大切なことを、彼女の歌唱力の不足ゆえに表現し切れずに終わっていたのではないか、、という思いが生まれました。
マクヴィカーの演出を退屈だ、と断定した人は非常に多いですが、私はそれに疑問符を呈します。
マクヴィカーの演出が成功するにはミードのような歌手が必要であり、それは大変なリクワイヤメントであるわけですが、
『アンナ・ボレーナ』のような演目はそれを可能にする力のある人が本来歌うべきだと思うのです。

彼女が歌い終わってオケの後奏が終わると同時に、例の美人二人が”すごーい!!”という表情を浮かべて言葉もなく顔を見合わせているのを
すかさず見つけた例のおやじが、”これは最高の時のメトだよ!君たちは良い夜にここに来た!”と狂ったように拍手しながらぶちあげています。
もちろん、おやじの言う通りですが。

歌い終わった直後にミードが一人でカーテンコールを受けるために舞台の照明が灯りましたが、
ものすごい喝采、歓声、拍手に、彼女が思わず泣き出しそうな表情になっているのに、更にもらい泣き、、。
私はといえば、もうあまりに感激し過ぎて胸が一杯になってしまって、
カーテン・コールでBravaと叫ぶことが出来なかったのが痛恨ですが、まあ、こういうこともあります。
二列目というと、カーテン・コールの時には舞台からもまる見えなはず、、
実はボルティモアのヴェルレクを聴きに行った際に帰りの列車を待っている駅で彼女と一緒になって、ほんとに少しだけですがお話したことがあるので、
なりふり構わず手で何度も涙を拭いながら激烈拍手を送っているあの女には何だか見覚えがあるわ、、と思っていてくれたなら嬉しいのですが。

しかし、こんなに素晴らしい公演を聴かせてもらって、それを願っているだけではいけないのではないか、、?という気持ちが湧きあがって来ました。
もうこうなったら出待ちしかないでしょう!!!
その出待ちに向かう道のりで、オケにいる知人から電話がかかって来ました。
”今日の彼女はすごかったね。”というその知人の言葉に、さっき聴いたばかりの彼女の歌声が耳にこだまして来て、
”彼女が素晴らしい歌手だというのはずっとわかっていたけれど、ここまでだとは思わなかったわよー、、、ひくっ(嗚咽←また泣いているらしい。)
ネトレプコも良い歌手だし、そう、彼女は演技も出来る。
でもそれが何?今日のミードのこれ!これこそが歌を歌うということであり、オペラというものなんじゃない?? わーん(また泣いた。)”

出待ちのメンバーはほぼ常連組と言ってよい極く少数。
雪(!)が近づいているという予報通り、激寒のうえ、今日の素晴らしいパフォーマンスに金持ちパトロンが控え室を襲撃していると見え、
なかなかキャストの面々が現れません。
やっと最初に現れたのはスメトン役のタマラ・マムフォード。
『アンナ・ボレーナ』ではズボン役なので髪もつんつん、ほとんどノーメークですが、
地の彼女は長いウェーブした髪と綺麗にお化粧した顔が華やかで、すごく女性らしい素敵な人です。
ヘッズへの対応もすごく丁寧で、このくそ寒いのに相変わらず何枚もの写真にサインをさせる例の中国人の男の子にも実に優しく応対しています。
私なら”一枚にしてね。”って言っちゃいそうですけれど。
私は実は今日は全くキャストからサインをもらう気がなくて、ただ一重に自分がどれだけ感激したか、この思いをミードに吐き出したいだけなので、
マムフォードにも、”とっても良い歌でしたよ。”と声をかけただけだったんですが、最後にお休みなさいを言うまで、
私を含めた一人一人ときちんとアイコンタクトをとっていて、こういうさりげないポジティブ・オーラを持った人って大好きです。

グバノヴァとアブドラザコフは同郷だからつるむことも多いのか、他の友達も含めて一緒に出てきて一緒に去って行きました。
それにしてもアブドラザコフって、以前もネトレプコに尻に敷かれて連れまわされている様子を目撃しましたが、
なんか舞台を降りるとあの素敵な舞台姿が嘘のような、気弱そうな雰囲気になってしまうのは何でなんでしょうね?

コステロ。彼はファンとコミュニケートするのがあまり好きでないんでしょうか?
私は少し離れていたところから眺めていただけでしたが、サインをもらいに群がった常連組への対応も他の歌手に比べるとぞんざいで、
早く帰りてー!という態度があからさまであまり感心しませんでした。
オペラの舞台というのは究極的には客とのコミュニケートですからね。
もしかすると、自分の歌にあまり納得していなくて、それが出てしまっているのかもしれませんが、
どんな時でも、出待ちを含めてオーディエンスとのコミュニケーションを大事にしないというのは、舞台に立つ姿勢も疑われてしまいますから要注意です。

”今日の公演は本当にすごかったね!””彼女が歌った公演の中で一番良かった!”と話に花が咲く我々も、
さすがに寒さがこたえてきて、番長が”この寒さ、耐えられない。”と言いながら、
ステージドアの中に入ってしまい(こらこら、、勝手に入っちゃ駄目でしょ!って感じですが、、。)、
”あんたたちもいらっしゃい!!”と私たち全員を屋内に招き入れた頃、やっとミードが現れました。
思わず全員から拍手が沸きあがります。
彼女自身、最高の歌唱を出せた!という充実感があるからでしょう、疲れた表情もなく、とてもにこやかです。
”お腹ぺこぺこだわー。”とは言ってましたが。(公演前はあまり食べていないからだと思います。)
私の番が来て、とにかく今の自分の気持ちを表現したらこうなる!!ということで、
”どれほど感激したか言葉にしては上手く表現できないので、、”と言って、やおら彼女に抱きつくと、
本当に嬉しそうに”ありがとう。”と言いながら、自分の胸をぽんぽんと叩く、”その賛辞、心からありがたく頂きます”という意味のジェスチャーで答えてくれました。

ボルティモアのヴェルレクの後に駅で会った時、”良かったですよ。”と声をかけたものの(実際、最後のリベラ・メは素晴らしかったのですが)
彼女自身が自分の歌に納得しきっていないような雰囲気があって、彼女におざなりな褒め言葉は言えないな、とその時思いました。
それだけに私が心からの賛辞を投げかけ、彼女がなんの躊躇もなくそれを受け止められるような素晴らしい公演を聴ける機会が、
こんなに早く訪れたことを本当に嬉しく思います。

それにしても、”ご飯、ご飯~!”と言ってお友達と連れ立って去って行く彼女の様子はまだまだ学生さんのようなあどけない雰囲気があって、
これがついさっきまであのすごい歌を聴かせていた歌手と同一人物なんだよね、、と思うと不思議な感じがするほどです。
これからもどんどん活躍して私を喜ばせて欲しい!!

Angela Meade (Anna Bolena / Anne Boleyn)
Ekaterina Gubanova (Giovanna Seymour / Jane Seymour)
Stephen Costello (Riccardo Percy / Lord Richard Percy)
Ildar Abdrazakov (Enrico / Henry VIII)
Tamara Mumford (Mark Smeaton)
Keith Miller (Lord Rochefort)
Eduardo Valdes (Sir Hervey)

Conductor: Marco Armiliato
Producation: David McVicar
Set design: Robert Jones
Costume design: Jenny Tiramani
Lighting design: Paule Constable
Choreography: Andrew George

ORCH B Odd
ON

*** ドニゼッティ アンナ・ボレーナ Donizetti Anna Bolena ***

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11 コメント

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なんとか聴きたい (コバブー)
2011-11-28 16:14:19
渾身のレポートありがとうございました。
こっちまで狂乱の場を聴いたような気がしました。
最後の場面の、音だけでもいいので、なんとか聴けないでしょうかね。
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御意。 (みやび)
2011-11-28 17:11:45
>ネトレプコも良い歌手だし、そう、彼女は演技も出来る。
>でもそれが何?今日のミードのこれ!これこそが歌を歌うということであり、オペラというものなんじゃない?? 

ネトレプコにとって最良のレパートリーは、やはりベルカントものではない気がします。となると、METのような大劇場でベルカントのレパートリーを歌える歌手はそう多くないですから、今回の『アンナ・ボレーナ』の成功はとても大きいかと思います。

そして、こういうチャンスをものにできるかどうか、は「スター」と「実力あはるのに…」を分けてしまうのかも…。

今のところ、私がミードの歌唱で全幕を聴けるのは『エルナーニ』になりますが、もちろん、彼女が実力を発揮してくれるよう、Madokakipさんの強~い念が後押しして下さることでしょう♪
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地味キャスの出待ち (チャッピー)
2011-11-28 21:23:48
常連組の中にも有名歌手が出てる時にのみ現れる人います。で、群れを仕切ったり、非常連や外国人に対して妙に攻撃的なオバサンがいたりする。
地味なキャストの時は出待ちの数も一桁だし、サインを貰い損ねる可能性が無いのでまったりした感じです。
ああ、でもみんな熱い人ばかりだから、人数が少ない割には歌手がつかまってる時間は長いですよね。
番長、何かミードに「インタビュー」してましたか?

こちらでは年末に公開予定の「永遠の僕たち」という映画に出てくる加瀬亮、例のチャイニーズに似てませんか?
http://www.youtube.com/watch?v=X5ipJS5iXXc
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聴きたいー。 (sora)
2011-11-28 21:55:01
madokakipさん!
こんな感想だったとは!温存し過ぎです!!(^^)!!
私の経験と勝手に照らし合わせて興奮しながらレポを読ませて頂きました。
誰かー、招聘元さーん、呼んでおくれ♡

このレポを英語にして是非ミードさんに読んで頂きたいくらいです。
あー、いいな~。
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soraさまと同じく (Ree)
2011-11-29 08:10:51
Madokakipさまの、ミードへの愛に満ち溢れた熱いレポートを読んで、本当にミードが聴きたくなってしまいました!
とりあえずは来年のエルナーニのHDを楽しみにします。

ところで、アンナ・ボレーナに登場したアイリッシュ・ウルフハウンド、やはりルチアに出演した彼らと同じなんですね。
日本公演のルチアにも出演!してくれましたが、私が観た日は少し落ち着きが無くて、しまいには客席にお尻を向けて座り込んでしまってました。
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Unknown (mayumi)
2011-11-29 09:18:29
Madokakipさま、臨場感あふれる素晴らしいレポ、ありがとうございます。読んでいるだけでまだ生で聴いたことのないミードの歌唱を想像して、勝手に感動してうるうるしてしまいました^^;。

ご紹介して下さったYouTubeを聴いて、はっと目の覚めるような想いがしたのですが、本当に音だけでもいいので全編通して聴いてみたいです。

ネトレプコのアンナは、強烈なスターパワーと渾身の歌唱が重なり、素晴らしいには違いないのですが、鑑賞後最初に出てきた言葉は「はぁ、疲れた」でした。悪い意味ではなく、そのくらい私にとってはすべての面で強烈だったのです。

ミードのアンナを観たらどう感じるのか、自分自身にもとても興味があるんです。そんな機会があるといいのですが。
とりあえずは来年のエルナーニなんですね。楽しみに待ちたいと思います。
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Madokakipさま (Kinox)
2011-11-30 12:00:15
(ため息)
感動して言葉も出ません...
こんな素晴らしさをシェアしてくださって、ほんとにありがとうございます!
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指を咥えて・・・ (素人耳)
2011-11-30 13:12:17
レポート、楽しませていただきましたぞ。仕方なく、ずいぶん先の「エルナーニ」を待ちましょう。

それにしてもMetも、ウィーンと同じネトレプコ&ガランチャではなく、初めからミードでライヴ・ビューイングを計画すればよかったものを・・・。それなら二番煎じにならずに映像発売も期待できたかも。まぁ、ガランチャは降りてしもうたわけじゃが・・・。
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久々に頂いた順です (Madokakip)
2011-12-01 16:09:34
 コバブーさん

>音だけでもいいので、なんとか聴けないでしょうかね

これは電話をくれたオケの友人も言ってました。
誰か録音してなかったのかな、、って、、。
この日にシリウスの放送があればよかったのにな、と思う一方で、
でも本来オペラというのはこういうものかもしれないな、とも思います。
たった一度、それもほとんどこの世に生まれた瞬間に消えるもの、
それをわかっていて全力投球で歌ってくれる歌手、
オペラが贅沢なのはチケット代が高いとかそういうことではなくて、
この点じゃないかな、と思うんですよね、、。

 みやびさん

>METのような大劇場でベルカントのレパートリーを歌える歌手はそう多くないですから

そうですね、、軽めのベル・カント・レパートリーを歌える人はぼちぼちいますけれど(ダムラウとか、、)、
ドラマティックな方に寄ったレパートリーを歌える人はあまりいないですね。
メトで直近の『ノルマ』はグレギーナでしたし、、、。

>Madokakipさんの強~い念が後押しして下さることでしょう♪

念が強くなりすぎて生霊状態にならないように気をつけなきゃ、と思いますが、
彼女なら、普段通りの力を出してくれれば大丈夫♪


 チャッピーさん

>番長、何かミードに「インタビュー」してましたか?

そうですね、この日の後にジョルダーニ・ファンデーションとのガラ・コンがあったのですが、その時のプログラムのこととか、、。
『アドリアナ・~』の“私は芸術のしもべ”を歌うというので、
もしかして、OONYのゲオルギューのカバーはミード、、??!!とあらぬ期待をかけてしまいましたよ。
で、こういう時に限ってゲオルギューは元気に登場してくるわけなのです、、。
(でも『アドリアナ・~』でのゲオルギューはとても良かったです。)

>加瀬亮、例のチャイニーズに似てませんか

確かに似てますね(笑)

soraさん

確かに温存し過ぎました(笑)
でも、この公演はあまりに感激したので、特別に丁寧に書きたくて、、。

>このレポを英語にして是非ミードさんに読んで頂きたいくらいです。

そういう風に言って頂くと嬉しいです、とっても。ありがとうございます。
いきなり抱きつかれて彼女もぎょっとしたと思いますが、
多分ここに書いた気持ちの一部分はその時に伝わっているのではないかな、、
だといいな、と思います。

>招聘元さーん、呼んでおくれ

メトの次の日本公演のキャストに加えるという手もありますよー。
そうなったら、絶対に日本行きます!!!

Reeさん

>ミードへの愛に満ち溢れた熱いレポートを読んで、本当にミードが聴きたくなってしまいました!

そう感じて頂けると本当に嬉しいです!
彼女に対する愛はもう山ほどありますよー。
でもオペラの愛って決して甘くはなくって、頑張ってほしいからこそ、厳しいことを言いたくなる時もありますよね。
でも、この日の公演、特にラストの30分ほどは本当に厳しいことを言いたくなる理由が何もないほど素晴らしかったです。

>アンナ・ボレーナに登場したアイリッシュ・ウルフハウンド、やはりルチアに出演した彼らと同じなんですね

はい、そうなんですよ。
ただ、アメリカから日本に犬を連れて行くのってすごく大変で、
半年前までに狂犬病の予防接種をして、抗体がまだ有効であることを証明するデータを取り寄せたり、獣医さんに書類を作ってもらわなければいけなかったり、
結構大変なんですよ。
(逆に日本からアメリカに入るときはとっても簡単です。)
また、日本までは長時間のフライトになるので犬にとっても結構きついと思うので、
もしかすると、日本公演は日本在住のアイリッシュ・ウルフハウンドに登場してもらった可能性もゼロではないと思います。

でも、

>しまいには客席にお尻を向けて座り込んでしまってました

確かに『アンナ・ボレーナ』もそういう時がありましたから、やっぱり本人ならぬ本犬かしら、、?(笑)

mayumiさん

>勝手に感動してうるうるしてしまいました^^;。

いやー、私もあの公演を思い出すと、今でもうるうるしますよー。
ただでさえ素晴らしい実力を持った歌手が、100%以上の力を出すのを目撃する、
オペラ人生でこれほど幸せなことはありません。

ミードの歌が終わった時、私もああ疲れた、、と思いましたが、
それはミードの歌を通してアンナが感じているジェット・コースターのようなめまぐるしい感情の変化を私も一緒に生きたからなんだと思います。

『エルナーニ』、お楽しみに!

Kinoxさん

ありがとうございます。Kinoxさんをはじめ、こうしてたくさんの方が読んで下さって、
彼女の歌に興味を持ってくださる、、、とっても嬉しいです。

素人耳さん

いえいえ、エルナーニも言っているうちにやって来ますよ!
後、私がこっそり願っているのは相手役がジョルダーニではなくて、デ・ビアジオになること、、(ごめんよ、マルチェッロ、、)
返信する
ミードのノルマ (みやび)
2012-03-07 14:48:57
もうご存じかもしれませんが、Kinoxさんのところで教えていただきました。

http://blog.goo.ne.jp/affettuosissima

METでの「ノルマ」に向けて邁進中、といったところでしょうか?
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