あとだしなしよ

Japanese text only..
落書きブログです。
報道記事の全引用は元記事消去への対応です。m(__)m

哲学者とオオカミ

2011年01月10日 | 
Amazoncojp: 哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン マーク ローランズ Mark Rowlands 今泉 みね子 本という本を読みました。本物のオオカミと日常生活を共にした、アメリカ人の哲学者が書いた本です。
ここではわたしはサルを、わたしたちすべての中に多少ともはっきり存在する、ある傾向のメタファーとして使う。「サル」とは世界を道具の尺度で理解する傾向の具現化だ。サルとは、生きる事の本質を、公算性を評価し、可能性を計算し、結果を自分につごうよいように使うプロセスと見なす傾向の具現化だ。世界を資源、つまり自分の目的のために使うことのできる物の集合と見なすのだ。サルには友達はいない。友の代わりに、共謀者がいる。サルは他者を見やるのではなく、観察する。そして観察している間じゅう、利用する機会をねらう。猿にとって生きるということは、攻撃する機会を待つということだ。おまえはわたしのために何ができるか、おまえにそれをしてもらうにはいくらかかるか、という原則だ。サルは人生で一番大切なものも、コスト・利益分析の視点から見るのである。
多くの人間では、人生につていの話からオオカミ的なものはほとんど消去されてしまった。けれどもこのままこのオオカミを死滅させては、私たちにとって危険である。サルの策略は、最終的にはなんの成果も産まないだろう。サルの知恵はあなたを裏切り、サルの幸運は尽き果てるだろう。そうなってやっと人生にとって重要なのは、これらがあなたを見捨ててしまった後に残るものなのだ。一番大切なあなたというのは、策略をめぐらせるあなたではなく、策略がうまくいかなかったあとに、残るあなただ。もっとも大切なあなたというのは、自分の狡猾さに喜ぶのではなくて、狡猾さがあなたを見捨てた後に残るものだ。究極的にはサル的なものはあなたを必ず見捨てるだろう。あなたが自分自身に問うことのできるもっとも重要な疑問は、これが起こったときに、その後に残るのは誰なのか、という問題なのである。


とても面白かった。
ゆっくりゆっくりと読みました。

尾崎翠

2010年04月21日 | 
尾崎翠すごい。こんな文章を書く。
地下室アントンの一夜
空には、太陽、月、その軌道などを他にして、なお雲がある。雨のみなもともその中にあるだろう。層雲とは、時として人間の心を侘しくするものだが、それは少しも層雲の罪ではない。罪は、層雲のひだの中にまで悲哀のたねを発見しようとする人間どもの心の方に在るであろう。
太陽、月、その軌道、雲などからすこし降って火葬場の煙がある。そして、北風。南風。夜になると、火葬場の煙突の背後は、ただちに星につらなっている。あいだに何等ごみごみとしたものなく、ただちに星に続いている地球とはよほど変なところだ。

動物学者の世界とは、所詮割切れすぎてじきマンネリズムの陥る絵世界にちがいない。とまれ、僕の住まいと松木氏の動物実験室とは、同じ地上に在る二つの部屋であるとはいえ、全然縁故のない二つの部屋だ。僕の室内では、一枚の日よけ風呂敷も、なお一脈のスピリットを持っている。動物実験室ではおたまじゃくしのスピリットもそれから、試験管の内壁に潜んでいるスピリットも、みんな、次から次へと殺していくじゃないか。僕は悲しくなる。そのくせ松木氏がスピリットを殺すごとに、氏の著述は一冊と殖えていくんだ。

この文章が書かれたのが昭和のヒトケタの時代というのも驚きます。夢野久作がいて尾崎翠がいた戦前の文学界は、今よりもずっと面白かったのかもしれない。
こおろぎ孃
幸田当八氏は、かつて、分裂心理研究に熱心するあまり、ひと抱えの戯曲全集とノオト一冊を持って各地遍歴の旅に発ち、そして到着さきの一人の若い女の子に、とても烈しい恋の戯曲をいくつでも朗読させ、その発音やら心理変化のありさまをノオトに取るなど、神秘の神に多少の冒涜をはたらいてきた医者であった。


『薔薇の名前』

2010年03月14日 | 

「それらの都市国家の王が商人たちなのだ。そして彼らの武器はたるや貨幣だ。イタリアにおいて貨幣が持っている役割は、おまえの国やわたしの国とは違っている。たしかに、あちらでも貨幣は至るところに出まわっているが、日常生活の大部分を支配し律しているのはまだ物々交換だ。鶏、麦の束、草刈りの鎌、荷車。あちらで貨幣が役立つのは、こういう個々の品物を手に入れるときだ。ところがこちらでは、すなわちイタリアの都市では、おまえも気づいたであろうが、貨幣を手に入れるために品物が役立っている。そして司祭や司教たちはおろか、修道会さえもが、貨幣で支払いを済まさねばならない。もちろんそこに原因があるのだ。権力への反抗が清貧への呼びかけとなって現れてくるのには、貨幣の流れから排除された者たちがその担い手となるのには。清貧への呼びかけがつねに緊張と論議を呼び起こしていくのには、そいて司教から行政官に至るまで都市全体が過度の清貧を解く者をおのれの敵と感じてしまうには。悪魔の糞の臭いに反抗する者たちが出たところに、異端尋問官たちは悪魔の臭いを嗅ぎとろうとする。」
バスカヴィルのウィリアム修道士(「薔薇の名前」より ウンベルト・エーコ著)

資本主義への最初の抵抗か。

-- 『薔薇の名前』(ばらのなまえ、イタリア語原題:Il Nome della Rosa)は、ウンベルト・エーコが1980年に発表した小説。1327年、教皇ヨハネス22世時代の北イタリアのカトリック修道院を舞台に起きる怪事件の謎をフランシスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムと若きベネディクト会修練士メルクのアドソが解き明かしていく。 <Wikipedia>

大番(上)

2010年02月05日 | 
横浜出身の獅子文六先生の大衆小説、「大番」の上巻を読みました。

四国生まれの株屋、カブト町のギューちゃんこと丑之助の物語。
お話の中はいまだ戦前で昭和ヒトケタであり、江戸情緒がそこかしこに残っている。ひょんなこと(行き先も決めず東京に家出して、小憎として株屋にバイト)からカブ屋になったギューちゃんが主人公。

名前の如くギューちゃんはブルである。目を付けた株を買って買って買いまくる。ブルとはイギリス人がイヌをけしかけたときの、ターゲットの臨戦体勢によるものデアル。つまり熊(ベア)にけしかけた時、意外にも熊は後ろを向いて後ろ足で応戦し、牛(ブル)にけしかけた時は、牛はツノで応戦した。その勇ましいサマに買いをブル、売りをベアと呼ぶようになったそうだ。なんて奴らだイギリス人!株式のルーツなんて結局大金持ちのゴラクなのか?そうなのかァ!

いっぱしの株屋になって、本妻は無いが愛人はあり、今の1億円以上を儲けた。そのとき大陸で盧溝橋事件が起こり、その時のギューちゃんの台詞。。
戦争が始まれば好景気がくる。好景気がくれば、株は上がる。これは大地を槌で打つ如く、はずれのない事実である。
しかしながら、チト読み違えて、株は暴落。。
恐ろしいもので、二十八歳の丑之助の頭に霜が降ったように白髪が生えた。ーーーもういけん!そう思った途端に白くなったらしい。一夜にして白髪になるというが、事実はもっと短時間であった。そして、ほおはたるみ肌はドス黒く、目はくぼみ、声は枯れ、景気のいいのは小便の色だけであった。これは鮮紅色に近かった。
アァ!血のしょんべんが。。

上巻では、まだ太平洋戦争前である。ギューちゃんの運命やいかに。。

或る「小倉日記伝」の鈴の音

2010年01月24日 | 
 年末に松本清張のテレビを見たせいもあるのですが、或る「小倉日記伝」を読みました。
 森鴎外が軍人でクラウゼヴィッツの「戦争論」を講義したなんてゆう話もでてくるようにまだ男性が強かった時代に、主人公の男性はは社会的弱者として描かれます。母親が超美人であるとかが小説的な演出のような気もしました。子供時代の重要なエピソードで、とても仲良くしてもらった家庭があり、そこでとても幸せな時間を過ごします。その家庭のおじいさんが仕事に使う鈴の音の「ちりんちりん」という音を主人公はいつまでも覚え続けます。
 成人した主人公は頭はとても良いのですが、ハンデゆえに仕事にさえ就けない。書物、想像の世界に埋もれてゆくのですが(でも高等遊民でうらやましい)、ここでも、こどものころの想い出の「でんびんや」の鈴の音がきっかけで森鴎外に興味を持ちます。頭脳をもてあます彼は森鴎外の小倉時代の日記を探すことを人生の支えとして生きてゆきます。彼の母親も夫をなくしてからは、彼の面倒を見ながら苦しい人生を送ります。
 人生の最後の描写では、記憶の奥から聞こえてくる「でんびんや」の鈴の音が聞こえてきて、悲惨な人生を和らげてくれる気持ちになります。この鈴の音がなかったら、この小説の評価はどうだったのだろうと、考えたりします。悲惨、辛い、苦しい、孤独だけを訴えても、人の心には届きにくいのではないのかと。

「巡礼」読前

2009年08月27日 | 
橋本治『巡礼』|新潮社

「いまは日本中どこでもシャッターのおりた商店街だらけです。なかに人がいるのかどうかすらわからない。私はそこにも人はいると思うんです」
橋本治さんインタビュー/立ち読み|波|新潮社

わたしの近所の商店街のうまくてよく買うようになったヤキトリ屋のシャッターが閉まってしまって、数ヶ月がたちます。そこの前を通り過ぎるたびに、ああ、また閉まっているって思います。オヤジが黙々とうちわ扇いでヤキトリ焼いて、おばさんとふたりで店をやっているって、そんな店でした。チャーシューとネギマが好きで、今の季節だとビールに最高にあっていたんですが、もう食べられなくなってしまったみたいで、まだものたりない感じが残っています。その商店街はがんばっているほうだとおもうのですが(値段も安いですし)、それでも閉まったままのお店がかなり多くなってしまっています。最近、そういう店の良さがやっと分ってきたのですが、自分の無知を残念に感じたりします。

橋本さんの、ひさしぶりの長編小説が出たようで、古典モノは読んでいなかったのでひさしぶりになってしまうのですが、読んでみようかと思っています。というようり、なんだか、よまなきゃいけないって思いました。

~~~
 ふたつのレクイエム

ガラスの仮面44号!

2009年08月27日 | 
ガラスの仮面の第44号をダイヤモンド地下街の有隣堂で買い、熟読。。。。
なんというか、いよいよ物語は完結に向かって傾き始めた感じがした。
あの伏線を煮詰めると、そこにしかたどり着かないのではないだろうか?
それにしても、あのガラスの仮面が完結するのかっ!!?
してほしい。ぜひとも。


読書

2009年01月24日 | 

@黄金町 - これもY路路か。左に見えるは大岡川、右の高架は京急、あるけばまんなかがひとの道か

最近読書に目覚めまして、わりと多く本を読んでいます。

志賀直哉先生の「暗夜行路」では大正時代にタイムトリップして、大正のグダグダ話を楽しみました。グダグダ話といいましても、それは教養にあふれていらっしゃいますので知的な楽しみもございます。特に不貞を犯した(犯された)妻を虐めるところはおもしろうございました。最後は大自然に包まれつつ、かつ大腸カタルでヘロヘロになった主人公時任謙作はそこで妻を許します。「和解」ですね。ああ、私は平気でお話の結末を書きますので、ごめんなさいねの、もんくあっかーなのです。

「TUGUMI つぐみ」吉本ばなな
病弱な美少女なのに、性格が残忍でワイルドな海水系つぐみさん達のお話。これのラストも偶然か必然か、病気でヘロヘロで死期を悟ったつぐみの主人公への手紙で「和解」します。別にいがみ合っていたわけではございませんが、ひねくれものつぐみさんが素直になって許し合うみたいなかんじ。こういうなんというか、燃えたぎる生命力を持っている人が素直になれるときは病気とかで生命力が落ちている時なのなかと、受け売りにもそう思った次第でした。ヘロヘロの法則と名付けよう。

今日買った本
「すてきなあなたに」と「パパラギ」と「美女と野球」
「パパラギ」のパパラギとはサモア語で白人のことだそう。カリブの島の近代前(西洋人観点ね)の酋長さんの西洋文明批判です。いいこと言うぜ。つまりなんだぁ、カリブなんかの島じゃあ、食べ物がふんだんにあって金なんか無くっても生きて行けるし、びんぼうじゃねぇよってとこからスタートする。
“昔、ファガサ島へ最初の白人宣教師がやってきたとき、ひとりの娘が海岸のリーフの上で、からだを扇で隠しながら宣教師に向かって
「近づくな、あっちへ行け。おまえらは災いを起こす悪魔どもだ」

まるで、つぐみの台詞のようだ。
まだ読みはじめ。楽しみ。

あっそうそう、「フランスパンは焼いて食べると、とっても美味しいよ!」って「すてきなあなた」書いてあった。わたしもつい最近知って、焼いて食べていたんだけど。さすが「暮らしの手帳」。あと志賀直哉先生のお茶わんは、茶碗蒸しのうつわみたいな藍の染めつけ小鉢だったんだそう。これも「すてきなあなたに」に書いてあった。ごはんもお茶もコーヒもそのおちゃわんで頂くんだって。なんか不思議と繋がるなぁ。


十字街 - 久生十蘭

2008年02月07日 | 
第二次世界大戦前のフランスが舞台。昔の政府というもんはどこもこんなもんだったのだろうかと思えるほど、権力の横暴が目に余るかんじ。警察は政府と癒着してイイカゲンな捜査やでっちあげなんてのをしたり、ほとんど諜報機関か殺し屋かって感じであった。オソロシヤ。当時の情勢で満州を作った日本が嫌がられているとかも興味をそそられた。ラスト近くの右派左派いりみだれての集会からデモ、やがて内乱の市街戦というより殺し合いの描写はモノスゴイ迫力を感じた。人がたくさん死にます。カミソリステッキで武装した労働者たちが、騎乗した警官隊を斬りつけたり、体制側も機関銃を発砲してデモの人たちがなぎ倒されます。。これが革命闘争のリアリティなのだ。ウォォ。フランスの下町というか貧民街というか、そのへんの描写もよかった。スラスラと読みやすいのだが、作者の頭の良さがすごく感じられる独自の文体のような。口述筆記だからか。主人公達の扱いが最後の方では、少し物足りない気もたしかにするが。。でも個人ではどうにもならんほど、歴史や国家権力というもんは重いものかと、戦時中の日本を体験された作者の世界観のようにも思えた。このあと血みどろの世界大戦が始まる。どこの国も頭がおかしくなってしまっていた時代だったのだろうか。
自由とか民主主義はやっぱりとても大切なものなのかもしれない。

百年の孤独

2008年02月04日 | 
「百年の孤独」読破。
読もうと決意して10年。その特異さに読むのに疲労して何回か挫折して、今年の初めから読み始めて、読むのにひと月かかった。
みどころは反政府戦争を指導する超人的な大佐と、労働闘争を起こして自国軍による労働者の大虐殺に巻き込まれる3代目か。理不尽な暴力に対する反動で反政府闘争を始めるチェ・ゲバラみたいな大佐。(チェ・ゲバラはよく知らないんですが…)彼はイデオロギーに共鳴して戦いを起こしたのではない。右も左も無く非人道な暴力に戦いを挑んだだけだ。自国の軍による労働者たちの虐殺を体験する3代目のアルカディオも左翼活動家とかではなく、理不尽な労働条件に意義をとなえただけだ。牧歌的だった街に鉄道が敷かれいわゆる文明が開花して、アメリカのバナナ工場できるくだりは、近代を象徴する出来事のように思えた。そのアメリカの工場を国軍が支持するのをみると、現在のグローバリズムとやらのやり方と、なんらやりかたは変わらないようにも見える。今のこの国の政党もアメリカ(国)の為の政治を第一に行っているように見え、彼らの統治の仕方は今も昔もおんなじなのかなあとも思う。結局バナナ工場がもたらす短い繁栄を絶頂期を境に、長い雨期が始まり土地から生命力が消えていく。
女性陣の描写も特異で、現代のニホン人のわたしからみると、エイリアンか妖怪じみている。土を食う飢餓体験のある絶世の美女なんてショッキングですわ。現実の小説なのにSFみたい。異教徒(キリスト教カトリック)、異文化(スペイン系)、時代も迷信が多く残る中世のほうが強い感じで、現代とはだいぶ違う。マコンドの気候も激しい。
結果としてひきこもってしまう登場人物がたくさん出てくる。晩年にひきこもって錬金術に没頭する初代、金細工を作る大佐、羊皮紙の解読をする彼、失恋のあげく廃墟と化す部屋や修道院にこもりっきりになる女性たち。彼らや彼女らのような人たちは昔からたくさんいたのでは無いかとも思え、いまさらニートだなんだって言葉を変えて騒ぐのも馬鹿っぽい気もする。彼らを総じて”百年の孤独”のタイトルをつけたのか。結果としてこの家系は「最後のものは蟻に貪られて終わる」のだが、やはり家系を繋いでいくのも大変なことなのかもしれない。
サッカーの国際試合でコロンビアやボリビアの試合をみていると彼らが放つ体臭のようなものがテレビからでも見て取れるけれど、その原因がなんとなくわかるような気がした。最初読むのが辛かったけれどだんだん慣れてきて、読み終えた時には長旅を終えたような充実感があって、とっても面白かった。
やっぱり「ひきこもり列伝」みたいな小説だったりするのかしら。

グリーン・レボリューション - 杉山龍丸

2007年06月12日 | 

こんなにスゴイ人がいたとはシリマセンでした。
インドの砂漠地帯を
衛星写真からも確認できるほどの
広大な範囲で緑化することで、

雨期のモウレツな洪水を押さえ、
乾期のキョウレツな日照りから、
水源を確保し
農林業を発展させ
民を餓死から救い
彼らの経済的自立を達成した。

1950年代から四半世紀以上モノの長き時間のなかで、
緑化事業を私財を投げ売って行ったスバラシイひとで、
砂漠や土壌に対する深い知識と、
学者ではなく技術者であり実践者であり、
決して上から押し付けるのではない
インド人民に対する接し方など、
龍丸氏のどことなく父親である夢野久作と
似た文体の文章や考え方を
読んでいると感動してしまいました。
樹を植えることをしなかったインド人に
植林をし山を育てることを教えた。
(インド、中近東系(中国も)は
 樹を植えることをしない文明だそうで
 燃やすだけ燃やして、
 後はホッタラカシ。
 自然は克服するものである!!なのかな…
 あとはサバクが残るだけ…
 サトヤマや山岳信仰があり
 治山治水がアタリマエ!の日本は特殊のよう)

インドでは「インドの緑の父」とよばれ、
ガンジーを「ガンジイ爺」とよび、
お父さんはあの文豪の「夢野久作」で、
おじいさんは藩閥政治で私利私欲に走る明治政府の
オヤダマの「伊藤博文」を
「ケシカランヤツ」と暗殺しようとした
右翼の大物の「杉山茂丸」なのもモノスゴイ。
#茂丸さんは安倍晋三のおじいさんの岸信介の師匠らしい。

特にインドの半砂漠地帯で発生する
雨期の洪水と乾期の干ばつ対策においてのカツヤクは、
まるで粘菌からトルクの土民を救うナウシカのようでアリマス。
龍丸氏のことばを引用させて頂きます。

“グリーン・レボリューションとは一人、一人の人が、
 自ら樹を植え、それを育てることを行うことであり、
 それから起る人類の活動の変化、文化根底の在り方が変わり
 大自然の真の法則、真理に従ってゆくことなのです。
 それは政府、団体で行うのも良いでしょうが、
 本当のグリーン・レボリューションとは、
 どこまでも、一人、一人が自ら自覚してやるということです。

 グリーン・レボリューションとは何か - 杉山龍丸”
“現在では馬鹿といわれ、気違いといわれるでしょう。

いまさかんにいわれているエコロジストの大先輩がここにいるのである。

安倍晋三のおじさんで岸信介の弟の佐藤栄作氏も
杉山龍丸氏の活動に資金を出そうとしていたそうですが、
結局、日印政府からはまったく援助を受けられなかったそうです。

氏の思想については、杉山龍丸氏関連文書アーカイブ
で誠にありがたいことに読むことができますので、

- グリーン・レボリューションとは何か? 
- 世界の砂漠緑化問題について

のふたつを少し古い文献ではございますが、
ご一読をお勧めしたいのであります。
同アーカイブにある民俗学についての考察も
タイヘン面白かったです。
またご子息である杉山満丸氏の
グリーン・ファーザーも、
龍丸氏が緑化したインドの緑がみられる
大感動の書物らしいです。
#Google Mapだとどのへんなのだろうか。。

こちらのサイトも杉山龍丸氏にについて詳しく書かれています。

杉山龍丸


火よりオソロシイ放射性廃棄物や致命的事故の恐れがある
原発推進ナーンテ、ヤメヨウ。
痛んでいる山があるならば、
手入れをせねば。
林業の為に植えたスギ林も
見直したほうが良いのでは?

こっちの緑の革命はなんだかモノスゴク怪しげ…
ロックフェラーか……アグリビジネス、グローバリズム…
ノーベル賞による科学賛歌…
ウゥゥ…

阿部家破門

嘘だらけのヨーロッパ製世界史

2007年05月31日 | 
嘘だらけのヨーロッパ製世界史
著者:岸田秀

アメリカ人の作家で今だと“ゲド戦記”が有名なアーシュラ・K.ル・グィンは
小説中の架空の惑星の語り部にこんなことをいわせている。
動物は言葉をもたない。
彼らには本能がある。わかるかね?
彼らはやり方を知っている。
どこへいけばよいか。どうやって行けばいいか。
本能で知っている。
だがわしらは本能を持たない動物だ。そうじゃないか?
本能をもたない動物だ。なんと奇妙な話。
我々はかわりものだ。
どうやっていくか。なにをやっていくか、
いちいち話あわねばならぬ。
それについて考えなければ、研究しなければ、
学ばなければならね。
そうじゃないか?

もしわれわれが世界を語らなければ、
世界のことはわからない。
そのなかで迷ってしまう。死んでしまう。
だがわれわれはそれをただしく語らなければならない。
真実を話せねばならない。
そうじゃないか。世話をし真実を語る。
われわれはそれを誤った。
コーポレーション・ステート(国家企業)が
支配する街で、彼らがウソを話し始めたときだ。
自分たちの他に真実を話せる者は
自分たち以外にいないと人々にいったので、
皆が彼らのいった同じウソを話さねばならなかった。
金のために人々を悪い方向に導いた。
ウソをついて富を得てひとに指図する。
世界が回るのを止めてしまい、
警察があとを引き継いだのも当然の話だ。

- 言の葉の樹 アーシュラ・K.ル・グィン

ほとんど岸田秀でびっくりします。
ル・グインは架空の星の話にしていますが、
この地球で“自分たちの他に真実を話せる者は自分たち以外にいない”
と言ったのはだれだろう。
奇蹟で海をまっぷたつにして海の底を歩ていったカミサマだろうか…

アメリカ人の作家、カート・ヴォネガットはこんなことを書いている。
わたしはこの文章を選挙前に書いているので、
ジョージ・W・ブッシュとジョン・F・ケリーのどちらが、
私達の新大統領になって…万事うまくいけば…
次の4年間を務めることになるのか、知ることが出来ない。
北欧系で貴族的な大金持ちであるこれら二人は、
言ってみれば双子のようなものであり、大方の人々と違って、
少々おかしな白子の双子と呼ばれるのがふさわしい。
しかし私にとってはこちらの事実が時宜に適う-
両候補共に、現在でもイエール大学の排他的な秘密結社
“スカル・アンド・ボーンズ”のメンバーであるという。
つまりこういうことだ…
どちらが勝利しようが、私達は
スカル・アンド・ボーンズ(骸骨と骨)大統領を迎えることになる…
地上や海、大気に毒を撒き散らしたおかげで、
全ての脊椎動物が…さあお立会い、
まさしく骸骨と骨だけに変わり果てようとしている時代にである。

なんと詩的な!

- 終末は近づいている(The End is Near)カート・ヴォネガット

アメリカ大統領のことをアルビノなんて痛快なことを言えたのはヴォネガットだけだろう。
“嘘だらけのヨーロッパ製世界史”で中心に検証されるのは
黒いアテナ”(ギリシャ文明は黒人のエジプトの植民地下で創られたか
エジプトの影響を多く受けているとする本らしい)で、
その他のユダヤ史や大日本帝国のことなど
色々とすごく興味深いことが書かれています。
私は岸田秀の日本兵に対する弔い合戦みたいにも思えました。
あの人たちをどうやって止めたら良いのでしょうか…
第一議

人間の思うことは皆妄想である
哲学でも宗教でも唯物思想でも何でも
人間文化は全部妄想の文化である
現代文化は第二議の文化である
この文もまた……である
自然物は皆第一議の文化の花を咲かし
人間ばかりは第二議の花を誇りとし
これがために第一義の真と美を犠牲にし
軽蔑している
汝が汝を支配するとき
汝は死物となる
支配せず
支配せらざる汝は
生きた汝である
自然の汝である。

夢野久作

BLUEBEARD - 青ひげ

2007年05月15日 | 
BLUEBEARD - 青ひげ by Kurt Vonnegut 1987

「アルジャーノンに花束を」をなかなか文庫化しなかった早川書房が1989年2月28日に初版発行した。翻訳者は朝倉久志さん。

ハードカバーの定価1700円であったのを現在の所有者であるわたしが、古本屋で400円で購入したのに読まず、部屋の隅っこに放置され、紙の一部があかんぼのうんち色に変色していたのを、「整理整頓しなきゃっ…」と本棚の整理を始めたところ、発見され読まれることになり、表紙が汚れているので、浜辺に流れてきたゴミをひとつひとつ集めてきてキレイに拭いてシャンデリアにしたスチュワート・ヘイガーの作品を見つめるふたりの日本女性の写真が印刷されているフリーマガジン「Smack!」のページを本のカバーにして、時にはわたしの昼寝のまくらとされ(青い空を見た!)読まれた本である。。そのフリーマガジン「Smack!」が伝えるには北京に本格的なライブハウス、「星光現場」- The Star Liveが出来たそうであるがこれは去年のことで、住所は北京市東城区和平里西街79号「糖果」三階でURLは、http://www.thestarlive.comである。今すぐクリック!セイコウゲンバにアクセス!その、どこをどうやって来るのか分からないパケットのロードのノロさを体感しよう!さらに、DANCEするならIDA渋谷校!と印刷されているのも記録しておこうか…フリーマガジン「Smack!」はおそらくオンエアーウエストだったSHIBUYA-Oでもらったフリーマガジンだったはずだが今は休刊したようだ。

* * *
さて、
本の装幀は、ご夫人が料理教師としてテレビなどに出演され、
またある時はシャンソン歌手でもある平野レミさんである和田誠さん。
表紙には、
本来はじゃがいもの格納庫として建てられたが、
カラベキアン(人名)のアトリエにして、
主人公カラベキアン(画家)の二度目の結婚相手である
アメリカ貴族婦人との出会いの場所であるじゃがいもの納屋と地面と、
白いオパール型のパレットが描かれている。
そのパレットには左から、
広葉樹の濃いはっぱ色、新緑のはっぱ色、
美しいビーチに漂う藻の色、
れもん色、砂漠の砂の色、群青色、
あかんぼのうんち色、
共産主義の色の
絵の具が載っている。
次は背表紙で、これは勲章。
これは主人公カラベキアン(アメリカ人)がもらったもの。
どんな手柄の勲章か…
主人公カラベキアン(アルメニア系二世)は美術家で第二次世界大戦で
戦地で色々な偽装工作をし、ドイツ軍を混乱させた手柄である。
勲章はどんなデザイン?
メダルは、
鷲か鷹かコンドルか分からないが
スズメではないと断定できる鳥が
股を開いて手は(羽か…)万歳をしているデザインだ。想像しろ!
主人公カラベキアン(名はラボー)は戦争で片目を亡くしている。
実戦の戦う前に、飛んできた爆弾の破片に当たったからだ。

裏表紙はカーボーイ・ブーツ。あと地面。
このカーボーイ・ブーツは主人公カラベキアン(初老)がこどものころ、
彼の父親が作ったものだ。
その時の様子は以下のように描かれている。
ところが、いまになって父は、まるでトランス状態にでもあるように、ごく簡単な道具を使って、すばらしく美しいカウボーイ・ブーツをこしらえ、それをドアからドアへうりあるきはじめたのだ。そのブーツの丈夫ではき心地がいいだけではなかった。男らしい足とふくらはぎを飾るため、まばゆいほどの装飾がくっついていた。平たくのばしたブリキ管や瓶の王冠からきりぬいた金銀の星や、鷹や、花や、跳ねまわる野生の馬が、きらきら輝いていた。

父親は、今から見ると前世紀である
二十世紀に幾度か発生した虐殺の
一番始めの事件であるトルコ人による
アルメニア人虐殺のなか、
村で生き残ったただひとりの青年だった。
彼はどうやって九死に一生を得たのか?
便所の中に逃げ込み、ふんにょうに身を沈め
虐殺の夜、彼以外に生きている人間は
ひとっこひとりいない村の静寂に耐えたのである。
こういう描写を描かせたら、
カート・ヴォネガットの右に出るものはいない。

母親もアルメニア人で、
彼女もたくさんの屍骸の中で死んだふりをして生き残った。
あたり一面にころがった、たくさんの死体。そして、いちばん近くには、十六、七の美しい娘の顔がある。彼女は男の死体の下敷きになっているが、まだ生きていて、自分の顔から十センチたらずしか離れていない、死んだ老婆の口の中をのぞきこんでいる。その歯のない口からは、ダイヤやエメラルドやルビーが下にこぼれている。

こういう描写を描かせたら、
カート・ヴォネガットの右に出るものはいない。

母親は老婆がこぼした宝石を拾い逃亡先で父親と出会い、
ペテン師に宝石の大部分をだまし取られながらも
アメリカに渡る。

* * *

『BLUEBEARD - 青ひげ』は、
彼らアルメニア系アメリカ人の息子の
架空の主人公カラベキアン(今は抜け殻のような平和な老人)の
一代記である。
おもしろかった。

声に出していいましょう。

『ヴォネガットさん、ありがとう』

きりひと讃歌

2007年02月19日 | 
きりひと讃歌
1968年、昭和43年
手塚治虫

人が犬に退化する架空の病気「モンモウ病」の話。主人公は若い医者で、上司の教授にはめられてモルモットにされ、風土病の土地へ行き自身も発病してしまい、前途有望な青年医師から最下層の人へ転落させられる。(彼は医師会の組合員でもあった…)この病気は日本人などの東洋人や南アの黒人のみの発症かと思われたが、白人のプロテスタントのシスターの患者もいることが発覚…畜生の姿になってしまった彼女を白人優位主義の神父が銃で殺そうとする。ちなみに日本の風土病の村では、発症した人は神や同胞として受け入れられていた…主人公は土壌に含まれる有害物質が病気の原因だと推測するが、伝染病と主張する教授にもみ消され医師会から抹殺される。。主人公の周りの"たづ"や"テンプラ女"などの女性の描き方や主人公の医師の同僚の卜部医師の狂気など、みどころたくさんの名作。封建的な社会や、人種差別、環境汚染、メタモルフォーセスなども盛り込まれ、手塚治虫のライフワークにしていることが全て書いてあると思われる。