かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

慈眼大師 天海 略伝

2014-01-07 | 都内散策 寺院・神社
寛永寺開山 慈眼大師 天海 (南光坊天海)
天文5年(1536)~寛永20年(1643)10月2日 世寿108歳
伊達と並ぶ奥州の名族葦名家一族、舟木景光の長男。

1536 天文5年(1) 福島県会津美里(旧高田)に生まれる。幼名・兵太郎。
1546 天文15年(11) 稲荷堂別当の弁誉の下で得度。法名・随風。
1549 天文18年(14) 栃木県宇都宮の粉河寺の皇舜僧正に師事する。
1553 天文22年(18) 比叡山に登る。神藏寺実全について天台の教えを学ぶ。
1555 弘治1年(20) 三井寺(園城寺)の勧学院尊実権僧正について倶舎論等を学ぶ。
1557 弘治3年(22) 南都(奈良)興福寺の空実について三論と法相を学ぶ。
1558 永禄1年(23) 母の看病のため帰国。その死をうけて喪に服す。
1560 永禄3年(25) 栃木県足利の足利学校で孔孟(儒教)を学ぶ。
1564 永禄7年(29) 群馬県新川の善昌寺で禅僧道器から首楞嚴経と易経を学ぶ。
1569 永禄12年(34) 川越の蓮馨寺で存応(後の増上寺法主)と法論。(伝)
1570 元亀1年(35) 再び比叡山に向かうが果せず。
1571 元亀2年(36) 〇織田信長の叡山焼討ちによって山上の諸堂消失。
1571 元亀2年(36) 叡山の僧らと共に甲府の武田信玄の所へ赴く。
          論議の講師(こうじ)をつとめる。信玄の帰依を受ける。
1573 天正1年(38) 葦名盛氏の招請を受け会津に戻る。稲荷堂の別当となる。
1576 天正4年(41) 大寧禅師に禅を学ぶ。
1577 天正5年(42) 群馬世良田の長楽寺で葉上流の灌頂を受ける。
1582 天正10年   ■ 武田氏滅ぶ。
1583 天正11年   ■ 本能寺の変。
1585 天正13年   ■ 羽柴秀吉、関白となる。翌年、豊臣の姓を賜う。
1586 天正14年(54) 〇葦名義広が伊達と戦って敗れる。
           葦名氏が茨城に逃れるのに従う。
1587 天正15年(55) 川越の無量寿寺の豪海権僧正に師事する。名を天海と改める。
           この頃、徳川家康と対面か(一説)
1588 天正16年(56) 江戸崎の不動院と川越の北院(現・喜多院)を董す。
1590 天正18年   ■ 小田原・北条氏の滅亡。徳川家康、江戸入城。
1600 慶長5年(68) 栃木久下田の宗光寺を董し、三昧流の灌頂を受ける。
1603 慶長8年    ■ 徳川家康、征夷大将軍となる。江戸幕府開く。
1605 慶長10年(73) 家康の命を受け比叡山の紛争を解決する。

*その後、徳川家康・秀忠・家光の三代にわたり、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関わっていった。
1613 慶長18年(81) 家康、天海に日光山を管掌させる。
1615 元和1年(83) 〇秀忠、京都で禁中並公家諸法度を下す。
1615 元和1年(83) 〇幕府、諸宗諸本山法度を下す。
1616 元和2年(84) 〇駿府で大御所徳川家康没(76)、久能山に葬られる。
1616 元和2年(84) 天海、大僧正となる。
1617 元和3年(85) 〇家康、東照大権現の神号を受ける。
1617 元和3年(85) 〇日光東照宮造営。家康の遺骨、久能山から日光へ改葬。
          天海が主導権を握り、すべてを取り仕切った。
1625 寛永2年(93) 天海を開山とし、上野東叡山寛永寺竣工。


参考) リ-フレット「寛永寺だより」
『東叡山開山慈眼大師縁起』(通称胤海伝) 胤海(いんかい)…天海の直弟子
 天海は俗世・幼年の事を語らなかった。葦名氏の滅亡によりその周辺事情も不明、とのこと。



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