かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

『幕末維新懐古談』 高村光雲 1

2010-12-15 | 幕末
『幕末維新懐古談』 高村光雲著 を読んで。

1. 私の父祖のはなし
前回の再掲載と、詳述。
〇光雲の父祖
中島重左エ門(高祖父) 因州公の藩中。
 鳥取藩士(池田家・松平)。
中島長兵衛(曽祖父) 髯の長兵衛、と呼ばれた。
中島富五郎(祖父) 町人となる。
 八丁堀で鰻屋をしていた。富本の上手な長女の急死で自棄になり、家運衰える。のち肴屋
 を始める。江戸の大火にあい、浅草の花川戸に移る。富本にのめりこみ、連で語るが、嫉み
 にあい、毒を飲まされ身体が利かなくなる(兼松、9歳の時)。
 文久3年(1863)、没(72)。(光蔵、師匠の家に弟子入りした年。)
中島兼松(父)
 9歳の時、奉公先の袋物屋をやめ家に帰ってきた。身体の悪い父親の一家を背負って立つ。
 弟が二人、妹が一人いた。
 『お父さん、何か拵えておくれ、私が売ってみるから』
 手先の器用な父親の作った玩具を縁日で売り、生計をたてる。
「幼年の時から一家の犠牲となって生活に追われたために、習い覚えるはずのことも事情が許さず、取り纏まったものにならなかったことでありました。」
「その中、兼松も段々人となり、妻をも迎えましたが、相更らず親をば大切にして、孝行息子というので名が通りました。それは全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を背負っていく。頭を剃って上げる。食べたいというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしたといってもよろしいほどで、まことに気の毒な人でありました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さっぱりとしたものでありました。」
 明治32年(1899)、没(82)。

中島増(ます)(母) 埼玉下高野村の東大寺、修験の家の出。菅原道輔の次女。
「父の兼松には不相応なほど出来た婦人であった。察するに、増は、兼松の境遇に同情し、
充分の好意をもって妻となったのであったと思われます。」
「兼松には先妻があり、それが不縁となって一人の男子もあった(注:光蔵の異母兄)。
(中略)その中へ、自ら進んで来てくれて、夫のため、舅のために一生を尽くした事は、私ども
に取っても感謝に余ることである。」
 明治17年(1884)、没(70)。
中島光蔵(みつぞう)(本人) 通称・幸吉 のちの高村光雲。
高村光太郎 光雲の長男。


〇感想 一言二言。 ” あの親ありて、この子あり。” ” 親を見て、子は育つ。”
兼松、そして増、光蔵(幸吉)の親子は、そのお手本かな。


 

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