かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

上野・源空寺と高村光雲(徒弟の頃)

2010-12-11 | 幕末


(画像拡大あり)




 上野・源空寺

源空寺をとりあげたのは、幕末の時代、ここ下谷源空寺門前、九尺二間の長屋で高村光雲が生まれ、そして育った土地であるからだ。
源空寺、よく知らなかったが、それで「高村光雲、云々」も、なんなので、最低限の’おさらい’は、しておこう。

〇五台山文殊院 源空寺(浄土宗)
  台東区東上野6-19-2
もとは湯島にあったが、明暦3年(1657)の大火(振袖火事・丸山火事)で類焼し、現在地へ移転した。境内には幡随院長兵衛夫妻、谷文晁、高橋景保、高橋至時、伊能忠敬の墓がある。

〇高村光雲  嘉永5.2.18(1852.3.8) - 昭和9(1934).10.10
仏師、彫刻家。東京美術学校、彫刻科教授。帝室技芸員。
主な作品 『老猿』、『西郷隆盛像』(上野恩賜公園)、『楠公像』(皇居外苑)

〇略歴(年明けまで) (数字)は年齢。数え年。
1852 嘉永5年2月18日(1852.3.8) 町人兼吉の子として、下谷源空寺門前(のちの下谷・北清島町)に生まれる。本名、光蔵(みつぞう)。のちの徒弟時代、幸吉と呼ばれていた。
1861(10) 文久1年 母の里方、埼玉の東大寺へ奉公の下拵えに行く。(1年間)
1863(12) 文久3年3月10日、仏師・高村東雲のもとで徒弟となる。
 高村東雲。須原屋茂兵衛出版の『江戸名所図会』を専門に摺った奥村籐兵衛の倅、籐次郎。
 光雲の生まれた長屋と同じ下谷源空寺門前の出。
1864(13) 元治元年(甲子年・きのえねどし) 師匠東雲は「大黒様」をたくさんこしらえた。(徒弟2年目の幸吉(光蔵)は、まだその手伝いもできなかった。)
1965(14) 慶応元年丑年12月14日 浅草の大火。(浅草三軒町から出火。師匠東雲の家は諏訪町。焼失。)
1968(17) 慶応元年辰年5月15日 上野の戦争。当時、師匠東雲の家は駒形町。
1874(23) 明治7年3月10日 年季を勤め上げ、年明け(今でいう卒業)となる。
        師匠東雲より、「光雲」の号を授与さる。
        師匠東雲の姉エツ(悦)の養子となり、中島から高村姓となる。

〇光雲の父祖
中島重左エ門(高祖父) 因州公の藩中。
中島長兵衛(曽祖父) 髯の長兵衛。
中島富五郎(祖父) 町人となる。
 文久3年、没(72)。光蔵、師匠の家に弟子入りした年。
中島兼松(父)
 明治32年、没(82)。
中島増(ます)(母) 埼玉下高野村の東大寺、修験の家の出。菅原道輔の次女。
 明治17年、没(70)。
中島光蔵(みつぞう)(本人) 通称・幸吉 のちの高村光雲。
高村光太郎 光雲の長男。


参考 高村光雲 - Wikipedia
    『幕末維新懐古談』 高村光雲 岩波文庫

そう、『幕末維新懐古談』を語りたいための、前置きではありました。
高村光雲の語りがよいのか、話をまとめた田村松魚がよいのか。両方だろう。
感動の内容で、ともかく面白いし、わかりやすい。落語か講談を聞いているような感覚だ。
そして、気がついてみると、これは人生の教訓書なんだ、と思う。
さて内容はとなると、どう紹介したものか。


〇田村松魚(たむら・しょうぎょ) 小説家。幸田露伴に師事。
  1874(明治7) - 1948(昭和23)


     

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