『スクラップド・プリンセス』(2003年制作)コンプリート。預言により“世界を滅ぼす猛毒”として、討手に狙われながらも生き延びた王女パシフィカの貴種流離譚。……こう、『スクラップド・プリンセス』というタイトルとプロットを聞いただけで、これはもう、勝ちだな?(´・ω・`)…と思った作品です。想像されるプロットのパターンが、もう、どっちに転がっても勝つんじゃね?というかね。“スクラップド”というキツイ言葉を横文字で柔らかくしているのもミソでしょうか。
しかし、このプロットから来るテーマ……この世から疎んじられても何故生きるか?といったラインだと思いますが、これ、突き詰めて行くと“愛する者が死ぬ事になってもそれでも生きるか?”という話になってくるんですよね。何故生きるか?は生きたいという決意で越え得るものとしても、自分を守る兄・シャノンと、姉・ラクウェル。彼らの生命を賭しても、自分は生きるに値するか?…と。この問いにどう答えるのか?答え得るのか?という話になって来ます。(表題したようにジュブナイルとしてって事ですが)
まあ、それにパシフィカがどう答えて行くのかは本編に譲るとして。……この問いの一つの形として、パシフィカが記憶を失ったその間、一緒に暮らしたフューレのエピソードがありますね。このエピ、僕はかなり好きなんですが……フューレとの暮らしの描写が、何でか『神田川』のイメージになるというwいや、分かるんですけどね(汗)……何でか中世ヨーロッパ的世界に“銭湯”が出現するというw(ここらへん、日本製スチャラカ・ファンタジーの良い所だよなあw)いや、分かるんですけどねw(汗)世間に背を向けて暮らす二人というモチーフに対して、この図はハマリすぎなので……ってどのくらい通じるんですかねえ『神田川』なんてw
…しかし、この秘めやながらも、小さな幸せを得た生活は長くは続かず、フューレはやがてパシフィカを逃がすために追撃部隊と戦って死んでしまう。フューレと兄・シャノンは、いろいろキャラがかぶっているので、これが、シャノンに有り得た可能性の一つとして描かれたものである事は、まず間違いないと思います。
…でも、フューレの死を感じ取って泣き崩れたパシフィカが、果たして記憶をとりもどした時には、逆にフューレの事を忘れてしまうんですよね。そうして足を止めていたパシフィカは、また自らの運命を切り拓く冒険に踏み出す。忘却された“フューレの悲劇”は、彼女が彼と一緒に行った銭湯の鍵板を見たとき、何故か涙が止まらなくなった……という形で昇華される。
他にもいくつか彼女のために起こる悲劇はある(母親の死とか)のですが、それらの悲劇から彼女の目は遠ざけられ続けます。見せないんですよね。守られ続ける。………これねえ、子供に答えられないような問題を容赦なくぶつける選択も僕は好きなんですが、ジュブナイルとして、その意図する所に感じるものはあります。
ある意味では作品の持つテーマから離れる行為~作者の意図(テーマ)とは別に、作品が為した構造によって自然と形成される実相(テーマ)もまた在る。~とも言えるんですが、それを示しつつも『引き返す』(パシフィカが忘れる事…広義の『引き返し』かな?)のは、一つの選択だと思う。…だって、子供には答えられないよwこんな難しい問題w…逆にあっさり答えちゃうような、「んなもん、自分を勝手に守って、勝手に死ぬ分にはいいじゃねえの?うけるwwww」とか、逆にあっさり自分の生きる価値を捨てる奴とか、そういう人間になって欲しくないですしね。
少年マンガとかでもそうですが、どのくらいキツくどのくらいやさしく語るか?っていうのはバランスの難しい問題で、「スクラップド・プリンセス」のこの平衡は、注意深く読む者にはキツさが観えてくるという形で、ちょっと好きでした。
…あと、本当はさらに突き詰めると「あなたが、本当に世界の災厄で、愛する者立ち含めて全てを滅ぼす~存在自体が悪と呼べる~者だったらどうしますか?」という問いかけも出てくるんですけど、これはプロットで回避していますね。これも正しい。ジュブナイルとして「あなたの生そのもの、生まれた事そのものが“悪”だなんて、そんな話はこの世に存在しません!」という強く、当然のメッセージがある。…そこらへんの選択の一つ一つが気に入ってて、いい『物語』だったと思います。
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折笠富美子,三木眞一郎,大原さやか,水島大宙,近藤隆 | |
角川エンタテインメント |