今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)

マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。

王の物語~神殺しの物語~「風の谷のナウシカ」 (その2)

2010年06月08日 | 思考の遊び(準備)
【王の物語】【神殺しの物語】

【王の物語~神殺しの物語~「風の谷のナウシカ」 (その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/fff21f98f756087441e9a3208e74761b

(↑)この記事の続きです。

■人類が滅ぶべき物語

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8aa3fcc617eed515159fc4903fc82b67

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/95ba00d703b749add8ff08fcfee0a7e9

え~っと、すみません最近、この記事ばかり取り出している気がします(汗)でも、全部繋がっている話なので、しつこく繰り返します(`・ω・´)…ちょっとね。何度でもしゃべるからな!(`・ω・´)

終末思想…というのは昔からあるものですが、日本の場合、1970年頃に前後して、おたく界隈ではその終末思想が具体的不安をともなってそれぞれの心におおい被さり、それは1999年頃まで続いていた…と僕は考えています。今、僕は”おたく界隈”と僕自身の実感のともなう範囲に限定しいましたが、おそらくこの不安はそんな小さな範囲に収まるものではなく、もっと広範の人々の心に降りていた…であろう事を確信しています。(そんな事全く無いとか言われるかなあ?絶対あったと思うんだけど)



その具体的不安とは核戦争だったり公害汚染だったりするわけですが、もう一つ、1999年に人類は滅亡するという「ノストラダムスの大予言」があります。これの影響は大きかった(と思う)。1999年に何かが起こるネタは物語で使われ続けたし、カルトの勧誘にも利用された。そうやって”この”終末思想は日本の空気の中に大きな流れを形成して紛れこんでいった。

これは、おたく界隈の中では定番のセリフ「愚かな人類は滅ぶべきなのだ!」なんかになって流布していったのですけどね。いくつもの「物語」が重なって行く中で、自然・必然のものかもしれませんがその終末の予言の年1999年を前にその終末思想に“答え”を返す作品が出現する事になった。
…この”答え”という考え方も難しいのですけどね「俺たちは滅びない!そう信じる!」って叫べば、それが答えじゃないとは言えないワケで。でも、僕は「じゃあ、どうやって滅ぼさないの?具体的には?保証は?つまる所、答えを先延ばししただけじゃない?」と思ってしまう。それは納得度の問題ってもので(汗)この曖昧な答え方でもシナリオと演出の妙で納得させられた作品がないワケではありません。

しかし、やはり今から上げる二本の作品に僕は強い「答え」を感じたんですよね。…というより“この終末思想にトドメをさされた”事を感じた。(先の答えに僕が納得しなかったように、この答えに納得しない人もいるかもしれないけど…)そういう意味があったと感じた。それが、日本のマンガ史に残る大名作「寄生獣」「風の谷のナウシカ」であると考えています。
逆に言うと「寄生獣」も「風の谷のナウシカ」もここで上げている“この”終末思想の流れ上で生まれて来た作品と考える事もできる…と言っているんですけどね。

…で、この記事は「風の谷のナウシカ」のために書いているのだけど「寄生獣」の事にはちょっと触れておきたいです(汗)「寄生獣」の最終シーン・殺人鬼浦上との対話は、今まで述べてきた「祭壇」とは少し違います。…というより、このシーンは「祭壇」で無い事に意味があるのだと思いますが、まあ、この場では敢えて「祭壇」の一つとして取り扱います。最強の敵・後藤との戦いを終えた主人公・泉新一はここでやはり「滅びの物語」を投げかけれる。その時、その問い“答え”を返したのは新一の恋人・里美なんですが、その答えはそれまでとは一線を画す“力”を僕は感じたんですよね。



浦上「寄生生物なんざ必要ねえのさ!人間はもともと共食いするようにできてるんだよ。何千年もそうして来たんだ!それをいきなり止めようとするから50億にも60億にも増えちまう。このままじゃ地球がパンクしちまうぜ!」
浦上「答えろ!おれこそが正常な人間だよな!ただ本能に従っているだけのことだ!誰よりも正直なおれに向かって人間社会とやらは必死で知らん顔しやがる。せめて人間と寄生生物の中間の立場からたのむワ」

里美「泉くん!!警察…………………呼んできてよ。こんなヤツにつきあっている必要はない」

(こんな事を言っている奴は)警察を呼べ!って返したんですよねwホントに素晴らしい答えだ。実は涙が出る程いい答えだと思っている。こんな“滅びの呪文”に耳を貸すな。あまつさえ“その呪文”を信じて行動を起こすような奴には迷わず警察を呼んでしまえ!と。……まあ、昔も「問答無用!」と文字通り難しい問答は話半分で、悪をぶっとばしてしまうヒーローはいた訳で「これらのヒーローも最初から同じ事を言っているのさ!」って解釈もあると言えばあるんですけどねwそこは「物語」というものの「積み上げ」で明確に示されるメッセージの違いという話になってきますw

あと、これオウム事件の前にこの答え~結論が出されているという事に僕は「物語」というものの力強さを感じるんですよね。オウム事件後であっても「寄生獣」の作品としての価値というか「面白さ」はいささかも減じるものではないとは思いますが、それでも起きた後では、たとえ物語上であってもこう答えるのが“大人の責任”のような意味を帯びてきてしまう。
ちょっと嫌らしい視点ですが、そういう世間の力場が働く前に、何かに導かれるように「強い答え」を出していったのが「寄生獣」と「風の谷のナウシカ」で、1970年頃から(あるいはもっと以前から?)続いた滅びの物語に対して、世紀末に生まれる物語によってそういう「答え」が出てきた事には、僕は「強い意味」を感じずにはいられない所があります。

■そして神殺しの物語



墓所「娘よ、お前は再生への努力を放棄して人類を亡びるにまかせるというのか?」

ナウシカ「その問はこっけいだ。私達は腐海と共に行きて来たのだ。亡びは私達のくらしのすでに一部になっている」

さて、ナウシカの「神殺しの物語」ですが、はっきり言って「祭壇」における「人類が滅ぶべき物語」についての問答は上のやり取りで終わっているんですよね(汗)そしてナウシカが「人類が亡びるぞ!」という墓所の“脅し”に乗らない以上、最早、裁定は下っているという。(あとはオーマでぶっ飛ばすだけという)
少なくともナウシカという「王」の前では墓所は“悪”なんです。……ナウシカ自身が“悪”という言葉を使っていないので、ちょっと誤解が生じるかもな、可能性を考えながら、敢えて“善悪”で語ってみました。もう少し分かりにくい、柔らかな言葉に直すと“眠らせるべきもの”って所でしょうか?
ちょっと補足すると墓所の「お前は再生への努力を放棄して人類を亡びるにまかせるというのか?」というセリフはナウシカの決断をそう取られる事を「物語」は理解しているって事になります。

…しかし、そもそもです。この「人類が滅ぶべき物語」といういわば難問に対して、一撃で答えを返してしまうナウシカ、カッコよくないスか!?(`・ω・´)
「愚かな人類は滅ぶべきなのだ…」みたいな戯言に対して「下らない。我等(生命)は元から亡びを繰り返して、生きているのではないか?」って答えているんですよ?僕なんかは正しく「王」の一撃だと思ってしまうんですが。…結局、ここにシビれるかシビれないかで、ナウシカの決断の印象が変わって行く気もしますね。

反対に、墓所の理論~人類再生計画~は普通に納得が行くものだと言うか……この理論を受け入れる考え方も全然ありなんですよね。そう思います。
汚染されて元人類が棲めなくなった星を“腐海”というクリーナーを作り出して浄化する。“虫”を作り出して腐海の防衛、管理を任せる。元人類の“希望の種”は墓所に貯蔵する。旧世界の技術も墓所に貯蔵してやがて蘇る元人類に相続させる。墓所の保守、管理に汚染地域でも活動できる“人造人類”を作り出す。旧世界ごと処分されるのを恐れるか?人造人類よ。なら安心するがいい。浄化の朝にはその世界に耐えるよう、お前たちを再び作り変えてやろう…。

…まあ、ちょっとナウシカの心象が分かるように嫌な言い方を入れていますがw大体、こんな感じのはず。この計画に頷くなら、その人は土鬼の神聖皇帝になれるのでしょう。「人間を救いたい」とヒドラの永久庭園を出て行った初代神聖皇帝は、人間を亡びへと追いやる腐海を憎み、墓所の抱える“希望の種”にその救いを見出したのかもしれません。
あるいは、土鬼の前のクルバルカの王朝は、もしかすると初代は、そこに王国を築きながらも墓所の技術には触れない決断をしたのかもしれない。(そう「読める」ような所がある)…しかし、代を数えればやがては民に圧制を強いるようにもなって行き、それは土鬼皇帝の革命を許すに至った。そして初代皇帝の息子たちは、墓所の技術を次々に持ち出して、大海嘯を引き起こして国土を腐海に沈める。

…この間、墓所はこれらの外の出来事には関知しない。そもそも興味がない、なぜなら墓所にとって今の“浄化作業中世界”は彼が作りだしたニセモノの世界だから、ホンモノは今、自分が抱えている“希望の種”だけだから。そして、次の管理者が現れれば、旧世界の技術を餌に、人類再生計画の理想を聞かせる。「腐海の浸食による滅びから自分は人類から救いたいのだ!」と理想に生きている人間程、そのロジックには逆らえない。
……簡単に言うとナウシカはそれが気に入らなかった、彼女にとってニセモノの生命などと言うものは存在しないのだから、そもそも墓所と噛み合うはずがなかった……という話でもいいと思いますが…。彼女はもう少し、難しいけど、単純な考え方をしていると思っています。



何かって言うと非常にシンプルな話で「我らはいずれ死ぬ存在だ。その事は受け入れる。しかし、今、死ぬことは受け入れない。今、殺されはしない」って、それだけだと思うんです。これを発展させると「亡びは我らと共にあるもの。その事は受け入れる。しかし、今、ここにある戦争は止めて見せる」という話になってくる。これ自体は分かりやすい考え方じゃないかと思うんですけど……本当にこれだけなんですね。

墓所はナウシカを人が亡び事を放置したと判断して、彼女を虚無と呼んだのですが、それは違うと言える。「我らはいずれ死ぬ存在だ。その事は受け入れる。故に、誰かが殺される事に関知しない。自分が殺される事も関知しない。戦争も亡びも為すがままに任せる」…これが虚無です。
これはナウシカは否定している。でも、虚無を観ないと、(虚無との対話を続けた)ナウシカの世界は分からない。…死ぬことを受け入れているのに、一生懸命生きるってそれどうする事なの?矛盾してない?って話になってくる。つまるところ“死を受け入れる生き方”ってどういう生き方か?って話になってくるんですけど……まあ、ねえwこんなブログに書いて収まるような話でもないですし、僕も悟ってないので何ともw割愛しますw(←逃げた!)いや、ここ簡単に言えるなら、ナウシカってこうだよって言えちゃうw(´・ω・`)

……「生命は光だ!!」って分かりやすいんですけどね。分かりやすくて、辻褄があって、言葉で説明しやすい「生きる一辺倒」に飛びついてそこで安心してしまうと、「生きて死ぬ」という本当の生命の在り様に対する問いかけから逃げてしまってはいないか?って思ったりするんですよね。
先程の虚無の話は、いわば「死ぬ一辺倒」の話なんですが。そうじゃない。「生きて死ぬ」のが生命なんですよ。

墓所にはそれが分からない。全てがどうしようもなく亡び行く黄昏の世界で、「たった一つ残ったこの種だけは何としても守るんだ」と願ったその思いの尊さは疑わない。
でも、墓所は、生命の本当の意味が分からないから、亡びの意味も分からない。たとえ遺伝子を操作出来て思い通りの生き物を生み出して操っても、それで生命を統べた事にはならないのに「ニセモノの生命が作った」などと思い上がって、実はとっくに世界が再生している事にさえ気づかない。

…なんか脱線気味な感じになって来ていますが、脱線じゃありません(`・ω・´)そういう事をね。ぐあ~~~~~っと考えていると、ナウシカの生き様が分かる気がして来るのですよね。そのセリフの一つ一つが染みてくる。ああ…これは「王」だなあ…と思えてくる。なんか色々書きましたけど、僕が複雑に考えているだけで、ナウシカ自身の思考はシンプルなものだと思います。

墓所『我を破壊すれば人類の亡びは確定するのだぞ!』

ナウシカ『関係ない!そんな脅し文句で、今、お前がまき散らす不幸を看過などしない!!』



もうホント、こう言っているだけ。色々ごちゃごちゃ書く方が変に「言葉」をぼやかしてしまう気さえします。“亡びの呪文”なんかに惑わされない。ただそれだけ。でも、僕にはそれがたまらなく強く眩しい生き様に思えるんです。

こんな所でしょうか?…書いてて気づいたんですが、ナウシカが墓所を圧倒するのは、それまでず~~っと虚無との対話を続けていたからですね。ああ、そうかああ~wんんんんんん……今はおしまいw(´・ω・`)

(↓)この記事の「祭壇」(その1に記載)に関する追記です。

【「祭壇」という原型(アーキタイプ)に関する追記】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/632ed729550ceacd9cb808b542b01648

王の物語~神殺しの物語~「風の谷のナウシカ」 (その1)

2010年06月08日 | 思考の遊び(準備)
【王の物語】【神殺しの物語】



墓所「お前は危険な闇だ。命は光だ!!」

ナウシカ「ちがう、いのちは、闇の中のまたたく光だ!!」

「風の谷のナウシカ」(作・宮崎駿、1983~1994年)については(掲題のテーマに合わせて)いずれ何か書こうと思っていたのですが、ちょっと最近話をしたりして機会を得たので書きます。(`・ω・´)

この物語のラスト、分けてもあの“墓所”との対話って非常に難解な場面だと思います。一体、ナウシカは人類をどうしたいのか?世界の終末から人々を救ってくれたのか?それとも破滅に導いたのか?…ここらへんが「風の谷のナウシカ」という「物語」の真髄とも言える部分で、また、ここは様々な解釈があり得る場所だと思っています。
多分、当の宮崎駿監督も、ここまで持って来ていた彼のメッセージは「ナウシカ」で昇華されてしまって、つまり完全に燃え尽きてしまって、ただアニメ人として「もののけ姫」で映画としてもう一度メッセージを送って。それ以後の彼の作品は“次のメッセージ探し”のような一面を持っているのだ…などと考えているんですけどね。
まあ、宮崎駿監督の「物語」はまたの機会としておいて、今は「風の谷のナウシカ」の僕なりの解釈を述べて行きたいと思います。

…と言っても海燕さんのSomethingOrangeで、ちょっと「ナウシカ」の話題をコメントさせてもらったんですが、これが書いててけっこう自分の言いたいことを端的に表しているんですよね。


「ナウシカ」の最後の対話は難しいですよね。僕はあの言葉がすごく好きなのですけど、1から10まで説明できる自信はありません。
また、そもそもその行為の一つ一つを詰めて行くと「理屈上」の矛盾と言うか…どうにも納得できぬ面を持っている事は承知していて、それは其々の心に留めて、其々の答えに拠って行くのがいいのでしょうね。

ただ、一つだけ。ナウシカは「人間とはなにか?」という話はしていないと、僕は思っています。

> 「虚無だ!! それは虚無だ!!」

> 「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」

このセリフ、言い方を変えると→墓所「お前は人類が滅びてもいいという虚無的な人間なのか?」→ナウシカ「え?人類が滅びても王蟲がいるじゃん?」→と意訳すればそんな感じだと僕は思っていますw
だからナウシカがあそこでしているのは、人間ではなく「生命とは何か?」という話だと思います。そしてナウシカは墓所の事も認めている。「絶望の時代に理想と使命感からお前が作られた事は疑わない」と言っている。…そこからですねw

そこから、その視点から、ナウシカは、一人の人間としての視点に戻ってきて、その上で「“今を生きる人間”として、墓所よ、お前は邪魔だ。もう眠れ」って言っているんです。

墓所「我を破壊すれば人類の滅びは確定するんだぞ!」→ナウシカ「関係ない。今、邪魔なんだ。今、眠れ」→と言ってもいい。

この戻ってくる視点の接続が感覚的な面で上手く行かないと、ナウシカはすごく矛盾に満ちた存在に観えるんじゃないかと思います。(そして僕はこういう矛盾をものともしない判断をするキャラクターを「王」と呼んだりしています)ここらへんは、まあ、自分のブログとかで機会を観て記事にまとめたいと思っています。

何て言うんですかね。この虚無の深淵と生命全部の在り様の景観に辿り着きながら“一人の人間”としての自分に還ってきて“答え”を出す所が、正にナウシカの生き方という気がするんですよ。この文章をもう少し細かく補足して行く感じで話をすすめて行こうと思います。

■「祭壇」という元型(アーキタイプ)

ナウシカと墓所の対話の話をする前に、いくつか押さえておきたいポイントがあります。一つは、彼らの対話のシーンは「物語」のある種の定形としてよくあるシーンで、僕は「祭壇」という呼び方をしています。「祭壇」とは何かというと、ある「物語」…まあ、大抵、戦って戦って戦い続けるタイプの物語が多いのですが、そういう「物語」の主人公が最後に辿り着き、そこで対面した“何か”と対話するシーンですね。
そこで彼らはある種の哲学的な議論~主人公は大抵、難しい事を考えられないので、シンプルな答えのみを返すのですが~を交わします。多くは敵対勢力の“悪の理論”と、主人公の“善の理論”の激突が行われてきましたよね。そこでの対話が、何か“神様”にその物語の在り様を告げるというか、逆に神託を受けるかのような、“神との対話”という印象を持ったので「祭壇」と呼んでいるワケです。

この定形については今、僕は調査中です。マンガ・アニメ界隈的に明確に「祭壇」が見て取れるのは「サイボーグ009」のヨミ編(1966年)の“黒い幽霊”との対面があると思っているんですが、他に初期の富野由悠季監督の「海のトリトン」、「無敵超人ザンボット3」の最終回なども記憶に強いです。…でも、より「祭壇」という意味を強く感じさせる。“神との対話”を感じさせる作品は竹宮恵子先生の「地球へ…」だったりします。(これらの多くは巨大コンピュータが“神”を模した役割を果たしていて、そこも注目しています。ちょっと興味深い)



【神殺しの物語「地球へ…」】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/f6e0f80fbd6d98c6bc70e05980681b2d

ジョミーは死に、キースは死に、トオニイは絶望の中で宇宙の彼方へ消え、ミュウの元老たちは炎に焼かれ、フィシスは地球人と運命を共にする…。登場人物の誰一人として救われていない物語です。でも、だからこそあらゆる可能性を抱えたまま人類は飛散するんです。

そして、そのためにこそ、コンピュータ・テラはいるんですね。ミュウの未来を予言した人類の叡智の結集にして亡霊。…描写を観ていれば分かるんですが、地球とコンピュータ・テラはもうほとんど一心同体です。…というかコンピュータ・テラをキースが「殺す」と、同時に何の伏線もなく地球の大崩壊が起こっている…これってつまり、地球って放っておいたらとっくに崩壊する惑星だったって事じゃないかと思います。それをコンピュータ・テラが延命装置のように働いて崩壊を押さえ込み続けた…それはつまり“彼”は地球が美しくあって欲しいという人類の想いの象徴でさえあったという事です。

「地球へ…」と「風の谷のナウシカ」とはかなり似ている面と、違う面がありますね。どちらも大々名作ですが。まあ、その比較は置いておくとして、こういった最後のシーンを僕は「祭壇」と呼んでいるんですが、これって何らかの(近代の物語の?)元型(アーキタイプ)~人の深層イメージに訴えかけるもの~じゃないかと今、考えたりしています。
単純にストーリー機能の話をすれば「テーマを話す場所」なんて言い方もできるんですが。実は…で、これまで「積み」上げて来たものをひっくり返されたりする展開もあるので、なかなか一筋縄ではいかないシーンで、かつ“神託”のイメージがついてくるのは何らかの意味があるんじゃなかと思いますけどね。

とまれ「ナウシカ」の“墓所との対話”シーンも、この「祭壇」に当たると思います。そして、この「祭壇」では“人類が滅ぶべき物語”をふっかけてくるのは、全てではないですが、ある種定番化していて、これに対しての主人公の返しも…まあ、色々パターンはありますが「人類はそんな滅びない!そんなに愚かじゃない!~具体的な方法は分からないけど!!俺はそういう未来を信じる!!」…みたいな返しをして終わって行くのも、また定番なんですけどね。
こういった「祭壇」でナウシカが何を語ったのか?が、今回の話で、そしてナウシカの出した答えはいわゆる“定番の答え”を超えるものでした。そこらへんの話をして行きたいと思っているワケです。


(↓)続きます。

【王の物語~神殺しの物語~「風の谷のナウシカ」 (その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/581120ff4503df8af9db6ad97a356e83

(↓)この記事の「祭壇」に関する追記です。

【「祭壇」という原型(アーキタイプ)に関する追記】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/632ed729550ceacd9cb808b542b01648