▼USTREAM:ハイライト『輪るピングドラム』の話題
『輪るピングドラム』(監督・幾原邦彦)について、語るのが難しい(テーマの部分は…という意味ですが)、何か言葉に直して語ってしまうと、何かが零れてしまう…みたいな事を言っていた僕ですが、ちょっと語っておけそうな所は、語っておこうと思います。
『輪るピングドラム』のメッセージそのもは、第1話と最終回に交わされる以下の会話に集約されている所があるとは思います。
「だからさ、林檎は宇宙そのものなんだよ!手の平に乗る宇宙。この世界とあっちの世界を繋ぐものだよ」
「あっちの世界?」
「カンパネルラや他の乗客が向かってる世界だよ」
「それと林檎になんの関係があるんだ?」
「つまり、林檎は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ」
「でも、死んだら全部おしまいじゃん」
「おしまいじゃないよ!むしろ、そこから始まるって賢治は言いたいんだ」
「全然、わかんねぇよ」
「愛の話なんだよ?なんで分かんないかなぁ~?」
…モロに言っているように宮沢賢治の「愛による死」とその彼岸の世界が『輪るピングドラム』では描かれていた…という事になりますね。……そう説明するのが一番てっとり早いとは思うのですが、しかし、そこには監督の“幾原流”の宮沢賢治があるというか、僕自身はちょっと違うものを感じたりもしています。
いや、確かにそれは違がわず、“そのように”描かれていたとも思うのですが、同時に『銀河鉄道の夜』や『グスコーブドリの伝記』で書かれた『死』は、(僕の感じる所では)もっと迷いのないもの「そうすると決めているもの」に僕は思ったりもします。対して『輪るピングドラム』で描かれたのは「そうするもの」ではなく「そうせざるを得ないもの」であったような…そういう差異を感じるんですよね。…まあ「それは結局は同じものだよ」と言う人もいるかもしれませんが。
博愛(…のようなもの)と自己愛~家族愛(…のようなもの)の違い…と言ってもいいかもしれませんが……こうやって愛の在り方を“区分け”して語ってしまうと、色々零れてしまうものが気にならないわけでもない(汗)
しかし、その差が、宮沢賢治の世界を翻案して描いたかのような~あるいは、本作品を感受するための“視点”として宮沢賢治の世界を持ってきた~『輪るピングドラム』の独特の世界の部分に思えます。
これについて、ルイさんの(『輪るピングドラム』には)「まともな親が一人もいない」という指摘は、非常に重要なものという気がします。(高倉家の両親が、本当にまともじゃない(家族を大切にしなかった者)か?離婚する前の荻野目家はどうか?みたいな返し話もできるかもしれませんが)これが『輪るピングドラム』の世界を決定付けていると言ってもいい。
ちょっと、この話をするにあたって、何かいいサンプルがないかと思い起こしてみたんですが……何でもいいんですが『勇者王ガオガイガー』(1997年放映)を持ってきてみようと思います。『ガオガイガー』についての細かな説明は、省略します…まあ、勇者シリーズの定番の、ロボットで人類を守るストーリーなんですが。
僕は、この物語の主人公・天海護という少年がすごく好きでして…。子供のいない夫婦に育てられた正体は宇宙人の子供なんですが、とても明るく闊達で、危地に対し「みんなを守るんだ!」という気持ちが躊躇なく出て、そして地球を宇宙を守って行く少年なんです。
そのマモルくんは日常のパートで、血の繋がっていない天海夫妻に、ものすごく、ものすごく、ものすご~~っく!!徹底的に愛され可愛がられている様子が描かれるんですね。エンディングの画で、繰り返し、マモルくんの愛あふれる家庭を見せる。また、マモルくんの友達への接し方を見るかぎり、単に甘やかされて我儘に育てられているワケでもなくって、躾もキチンとしている事が伺えます。
これは『ガオガイガー』のテーマの一つだと思うんですが、それによってマモルくんが「正しい少年」である事に、とてつもない説得力があります。
何かあった時、みんなが、地球が危ない時、この少年が「お父さんとお母さんを守らなきゃ!!みんなをまもらなきゃ!!」って思う事、その為に勇気を出してがんばれる“勇者”である事が「すごく分かる」のです。…ちょっと、『ガオガイガー』の話はこのくらいにしますが(´・ω・`)
何が言いたいのかというと、このマモル少年は“ピングドラム”に溢れている子供だと思うんです。正にピングドラム無双!、ピングドラム富豪!、ピングドラムウィナー!な、少年であると。だから「みんなを守ろう!」と思える。
…まあ、別にマモルくんじゃなくても『赤毛のアン』とか、『家なき子』とか、古典的な作品には、ピングドラムのある(ピングドラムを見つける)名作は多数あると思います。(←じゃ、なんで『ガオガイガー』の話した)
『輪るピングドラム』は“これ”が“無い”物語だと思うんです。さらに言うと“無い”ことすら描かれない物語だと。一つの選択として、あの劇中のどこかに理想的な家族を置く選択はあったと思うのですが(あるいは家族じゃないけど、トリプルHのエピソードは、それに近い、ものなのかもしれない。陽毬はあそこで一つのヨスガを受け取っている)、それを描き、見てしまうと「(俺たちには)あれが無い。(俺たちには)あれが必要だ」と言う事が分かってしまう。
それが無い事すら分からない。描かれてないものが答えで、答えが描かれていないから、答えが無い。別の答えを必死に探して、辿り着くのだけど、それは人によっては、まったく酷い悲劇に見えるかもしれない……というのが『輪るピングドラム』という物語。
…に思ったり。あるいは多蕗さんやゆりさんは、悲劇じゃない結末を手に入れているかもしれないですね。…本当に無いか?描かれていないか?というと、それはそれで零しているものがある気はするんですが(汗)
「自分たちがなぜ生き苦しく、何が足りないからそうなっているのか分からない」それが描かれない事によって、描かれている…という言い方が、今の所一番、僕の中の、この物語の結末を観た時に感じるモヤモヤ感を、言葉に直しています。
それを単純に「愛の失われた世の中」とか「愛の伝わらない世相」とかの(親が悪い的な)語りに繋げたくはないのですが、しかし、感覚として現代においてそこに共感する人は多いように思えます。
「せいぞ~ん!せんりゃくー!!きっと何者にもなれないお前たちに告げる!“アイ”を手に入れるのだ!!」→「…え?なんだ、そりゃ?何を探せって?それは人か?モノか?何処に行けば手に入るんだ?」
…と言った方が伝わりやすいかも?(´・ω・`) アイとか言わない、何だかよく分からないもののままにしておく方が、僕の感覚ではしっくり来ますが。…なんか、生存権、存在権みたいな所もあり、一般的なアイとも違う気もしていて…。
しかし、この『物語』に登場するキャラクターたちは、充分にパワフルで、生命感に溢れ、強かに、狡猾に、ワールド・イズ・マインに生きて“生存戦略”していたので、「……いいじゃん?そんなもの無くても?苦しまなくても?」と思わないでもなかったのです(汗)
まあ、それはまた別の感想と言うか……「歌って!踊って!楽しく!力強く!哀しい物語を語ろうぜ!」みたいな所も、また『輪るピングドラム』という物語の形ではありますね。
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