セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート「カチューシャの青春」その4

2006-01-11 22:42:50 | 文化
時期は前後するが、激しい演劇評論を発表する1年ぐらい前に主人公は日本近代史研究会(略して近研)に就職していた。参加ではなくて就職というのは、これは事業体だから。代表者は明治維新や日本近代史研究で有名な服部之総。事業の内容は出版社と契約して「画報現代史」というシリーズ物の本を編集すること。ただし代表者の服部之総が立ち上げたというよりも、当時生活難、ノイローゼ、胃潰瘍でなどで憔悴していた服部之総をみかねた一世代若い歴史学者たちが出版社に話を持ち込んで企画を進めたらしい。これにより事業体の代表者となった服部之総はたちまち豊かになり鎌倉に豪邸を建てた。庭もダンスパーティをやれるほど広い。
主人公の服部之総に対する評価はきびしい。学問的業績はすばらしいが人間的にはダメなところが多いとのこと。近研の職員の給料は安く当時の社会の平均より低かった。みんな高学歴なのにね。一方代表の服部之総は豪邸を建てただけでなくなにやら他のビジネスも行っているようす。職員の代表が賃上げと経理の公開を求めて交渉した。そのときの服部之総の言葉は「若いうちは苦労するのが当たり前だ」とのこと。間に人を立てて交渉してやっと都民の平均年収に達したとのこと。
あのね、服部之総はマルクス主義者で共産党の幹部だったのだ。でもなんだか悪徳資本家を絵に描いたみたい。
マルクス主義歴史学の泰斗である人も、個人としての生き方については学問がなんの役に立っていない。と言うよりそこがマルクス主義の最大の欠点。でも逆に共産主義者という人たちは自分たちの生き方が人間として最高と思っている。なぜなら人類の解放のために戦っているからとか、歴史の進歩のために戦っているからとのこと。何か特殊な目標に最高の価値を認めるのは勝手だけど、それが他の人々とのかかわり方を合理化するのはあやまりだ。これはオウムも含む宗教テロリストと同じだ。
具体的な生き方となると、連合赤軍事件に見られるように指導者の気分で何が共産主義者らしいかが決まってくる。
でも共産主義者に共通した生き方がないわけではない。なにか社会的な事件や現象について、一般のひとは自分が遭遇した時どのように受け止めどうかかわっていけるのかと問うのだが、共産主義的な人は、行政なり制度の責任を追及するが正義と考え、それこそ立派な行為と自賛する。
服部之総は浄土真宗のお寺に生まれたが、真理は科学的なものでなければならないと考え、親鸞や蓮如に魅力を感じつつも、それを捨てマルクス主義の立場にたった。でも真理は科学的なものではない。人がそれによって生きることに役立つものだ。第一、マルクス主義は科学ではなくドグマだよ。社会主義とは社会を改善してゆく試行錯誤の探求だったが、マルクスが歴史法則という一種の神の崇拝を導入したためカルト宗教になった。だから科学的社会主義ではなくカルト的社会主義と呼ぶべきものだ。
服部之総は結局自殺に近い死に方をした。正しくは飛び降り自殺を企て重症になってしばらくしてなくなった。生き方に役立たない学問は陽明学では考えられないが、浄土真宗を真理として生きてもこの結末にならなかっただろう。