セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

王様と抵抗勢力

2005-10-15 22:41:13 | チャングム
王様がチャングムを主治医にする話は、百官の猛烈な反対に加え王様の母である皇太后の反対で頓挫した。アジア的な専制君主と思える王様だが思い通りにならないことはいっぱいあるらしい。王様はちょっと鬱になってチャングムのカウンセルを受けている。

わが国の王朝の支配者を考えると、後白河法皇は「思い通りにならないものは、川の流れと比叡山の坊主」だけだと言うし、藤原道長は臣下の身なのに「この世を自分のものと思っても満月が欠けた部分がないように不足したことはない」と言うなど、はるかに自由みたいだ。でも、臣下や皇后や側室を処刑することほとんど不可能(怨霊が怖いこともあるが)なので、それなりに節度をもってその範囲で満足するらしい。

チャングムにもどって、百官が王様の命令なのに絶対反対したのは、国法に違反すること、国教である儒教の教えに反すること、先例にないことの3つの理由によると思われる。これは強力な抵抗勢力だな。でも方法はないこともない。中宗(チャングムの王様)は順番を間違えたのだ。

建武の中興の時、それは先例にないことだといわれた後醍醐帝は、自分のやることが後の世の先例となると答えた。実力を示しカリスマ性を確保できたら先例を無視して新しいことができるのである。徳川幕府の八代将軍の吉宗は分家である紀州からの移入された者だが、長期政権の中で成果をあげカリスマ性を獲得したので、自分の子供たちで御三卿をつくり自分の子孫で将軍を確保する保証をつくった。こんなことができたのは歴代将軍のなかでも御三家をつくった家康、家光の弟を駿河大納言にした二代秀忠しかいない。
おっと!家光の息子も徳川姓で館林とか甲府に領地をもっていたか。すると7代までの秀忠流の徳川宗家は息子が複数いれば徳川姓の大名にすることができたのかな。すると吉宗の子の御三卿は領地を持たないだけ遠慮したことになるか。ともかく九代以後の将軍は自分の嫡子は将軍にできるが、他の息子の子孫たちに将軍になれる権利を与えることも新たな大名家を創設することもできない。
またまたおっと!御三卿の一つ清水家は九代将軍家重の子からか。いろいろ訂正が多いのはポパー哲学の信奉者のせいかそれとも持病の注意欠陥多動性症のためか、おそらく両方だな。とにかくそれ以後の担がれているだけの将軍の立場では、息子たちをはなんとか跡継ぎのいない大名家の養子に押し込むことが精一杯だ。皇室にいたっては明治になるまで、室町にできた宮家があるだけで、天皇の子は皇太子以外は僧侶になるか子孫を残せても数代で皇族でなくなる。

だから今まで百官の言いなりで政治を行ってきた中宗が、いきなり奇抜なことを言っても百官は従わない。それ以前にいろいろ成果をあげて百官を唸らせたり、恐れさせたり、威かしたりしたしなければならない。小泉首相でも解散総選挙とその結果が出てから抵抗勢力は沈黙した。