黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

1ヶ月余りが経ってしまいました――遊んでいたわけではないのですが。

2015-02-07 15:41:10 | 仕事
 この前の更新が、1月4日。1ヶ月以上経ってしまいました。
 表題に書いたように、この間は遊んでいたわけではありません。もちろん、体調を崩していたわけでもありません。単に忙しかった、ということに加えて、現今の安倍政権にによる「図に乗った」というか「強引」な政権運営に「あきれ」、何か言う元気が萎えていたというのが最大の理由です。
 そこで、忙しさの方が一段落した今日、久し振りにこの欄を開きました。まだ、気持の萎えたところはあるのですが、年頭に「絶望している暇はない」というようなことを宣言した手前、また頑張って書いていこうと思いました。
 まずは、例年になく忙しかった今年の正月からの1ヶ月について、記憶簿的に記しておけば、昨年の11月25日に刊行した中国体験記『葦の隋より中国を覗く―「反日感情」見ると聞くとは大違い』(アーツアンドクラフツ刊 1500円+税)が身近なところで評判になり、そのことの対応で思わぬ時間を取られたこと。
 次は、1昨年、昨年と続き、昨年まで勤めていた中国(武漢)の華中師範大学の新潟大学留学組(院生)のために、約束していたということもあって、1月4日から7日まで3泊4日の「合宿』を行ったことと、その後始末(合宿中で終わらなかった質問などに対する対応)で思いの外時間が取られたこと。
 3番目は、2009年12月から始まった『立松和平全小説』(全30巻・別巻1)の最期の別巻が今年の初め(見本刷りが僕のところに届いたのが昨年の12月27日)に刊行され、そのことの「お知らせ」を版元の編集者と協力してマスコミ宛てに送り、その結果として読売新聞(夕刊1月24日)に「完結に寄せて」を書き、また明日(8日)に立松の故郷宇都宮市(南図書館)で開かれる「完結記念講演会」の準備(「立松和平が遺したもの」と題して午後1時~3時まで講演)と、マスコミからの取材に応じるということがあった。
 さらに、今月半ばから「時事通信社」(全国配信記事)で戦後70年を記念する「戦争文学は語る」という18回の連載を行うことになり(1回2枚強)、その構想を準備し、担当の文化部記者と打ち合わせを行い、「見本原稿」を書いたりして、これが結構時間が掛かった。「忙しかった」理由の大半は、この連載の準備で、取り上げる18の作品(作家)は何度も読んだことのあるものだほとんどだったのだが、あらためて原稿を書くとなると「うろ覚え」の部分が案外あって、もう一度(斜め読みの部分もあったが)読むというのは、かなりしんどい作業だった。
 安倍第二次「極右」内閣になってから加速度的に進行する「戦争への道」を危惧しつつ、「戦争文学」を読み直したのだが、それらのほとんどが先人文学者たちの「戦争への反省」に基づいて書かれたものであることがわかり、この国の「戦後70年」という時間は何であったのか、改めて考えざるを得なかった。 「二度と戦争はしない」という決意が社会の隅々まで行き渡っていたからこそ、その「決意」を象徴していた戦争文学は、多くの人に読まれたのだろうし、本当は「戦争の記憶」が薄れてきている今日こそ戦争文学は繰り返し読まれるべきなのだ、と改めて思った。
 
 そんな先のアジア太平洋戦争の「現実=事実」に正対し続けていたときに持ち上がった「イスラム国」による「人質殺害事件」、「殺すな!(殺されたくない!)」を生き方の基本においてきた僕としては、いくら自分たちの要求が通らなかったからと言って、「無辜の民」であるジャーナリストを無惨に殺していい訳はないと思っているが、この「人質事件」に関して僕は「不思議なこと・おかしなこと」が3つある、と思っている。
 一つは、「イスラム国」が「人質」にした欧米や日本のジャーナリスト、ヴォランティアを「殺害」するようになったのは、「イスラム国」によるイラクやシリアにおける勢力拡大を阻止するために、アメ襟か手動の「空爆」を行ったことが発端だと思うが、そのことについてマスコミや論壇人たちは「ほとんど触れていない」のは何故か。日本人ジャーナリストたちの「人質」が問題になる(1月20日)の前に、「イスラム国」への空爆を指揮してきたアメリカの司令官(報道官)は、誇らしげに「イスラム国の戦闘員を6000人殺した。半数は、指揮官である」と言っていたが、世界の警察官を任じているアメリカの「敵対者を殲滅する」という論理は、先の大戦中も、また朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、等々においても貫徹するもので、それはまさに「強者の論理」で敷かなく、ベトナム戦争時の「北爆」でもそうであったが、爆撃された街に住む「無辜の民~弱者」への配慮は全くない。
 2つめは、そんな「強者」が行っている空爆を支持し、その理不尽な空爆から逃げてきた「難民=無辜の民・弱者」を受け入れた周辺国に対して「に援助を行う」と公言した安倍首相(日本国及び日本人)、「イスラム国」が敵」とみなし、「敵の人質」を殺したのは、誤解を恐れずに言えば「戦争の論理」としては、当然である。安倍首相はじめ多くのマスコミは安倍政権の「イスラム国」への敵対行為を「人道支援」だと強調するが、日本政府がやろうとしていることは、明らかにアメリカ中心の「有志連合」への「後方支援」でありアメリカへの加担である。そのことに対して、何故みんなは「おかしい」との声を上げないのか? また、「異議申し立て」をしないのか?
 3番目は、この「人質事件」をこれ幸いとばかりに、安倍政権が「戦争への道」をひた走ろうとしていることに対して、やはり多くのマスコミが「毅然」とした態度で反意を示ささないのは何故か、ということである。しかめ面をして「遺憾に思う」と言いながら、「テロは断固として許さない」(これはこれでいいとして)、「この罪を償わせる」とか「邦人救出のために自衛隊の派遣を!」などとファシストらしい勇ましい言葉を連発して「勇士」を気取る安倍首相、もう顔を見るのも反吐が出るという感じだが、誰も彼の「暴走」を止めようとしない昨今の「政界」、度し難いな、としか思えない。