黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「政治」に倫理を求めるのは無理なのでしょうか?

2013-06-30 10:54:52 | 仕事
 通常国会が「首相の問責決議」という形でおわり、いよいよ7月21日投票の参議院選挙に突入したが、各マスコミはこの安倍首相の問責決議に対して「重要法案が廃案になった。野党の責任は重い」などと、例えば明らかに弱者いじめの「改悪」としか思われない「生活保護法改正案」が廃案になったことの意味などを考えずに、自公政権寄りの論に終始したが、それらの言論の在り方を見ていても、またそれに加え手先の都議選の結果を見ても、この国の「倫理(モラル)」が地に落ちている、という実感を持たざるを得なかった。
 それは、この間に次々と公表された各党の「選挙公約」を見ていても、共産党や社民党はある意味「ぶれない政党」(内実は社民党など、いつも分裂気味な状態にあるようだし、共産党も真に政権を任せられる政党かといえば、相変わらず自分たちと少しでも意見の違う者を「排除」する体質のようだし)、「憲法改正」や「原発依存(原発再稼働・新設推進)」や「弱者対策」を見ただけでも、本当にこれが「3・11(東日本大震災・フクシマ)」を経験した国の政治家であり(彼らを支持する)国民であるのか、と思わざるを得ないような「公約」が並んでいる。
 何よりも、「憲法改正(改悪)」をはじめ「原発再稼働」「原発輸出の推進」、「教育改革(改悪)」等々の「弱者切り捨て」の公約を堂々と掲げている自民党は論外として――実は一番「罪」が重いのは彼らであり、「経済再建」を旗印に、「弱者」「少数派」を切り捨てていくその様は、何ともおぞましい――、「平和の党・福祉の党」を標榜する公明党が、何故「戦争を肯定」し「福祉予算を軽減する=弱者切り捨て政策を推進する」自民党と連立を組むのか、そのことがよく分からない。自民党に荷担して彼らが「多数派」をよいことに、憲法も改悪し、原発政策をフクシマ以前に戻す政策を次々と打ち出すことを容認するならば、「創価学会」を最大支持母体とする公明党は「平和の党」でも「福祉の党」でもなく、単に「宗教」を否定するマルクス主義を手放さない共産党に対する対抗意識だけで存在する、「第二自民党」と言われるような自民党の「補完政党」でしかなくなるのではないか。そうであるならば、公明党はまさに「倫理」無き政治家たちの集まり、ということになってしまうが、果たしてそれでよいのか。
 僕は、今からでも遅くないから、公明党は「憲法改悪」や「原発推進」を目論む自民党と手を切り、創価学会の会員は僕の知る広島や長崎の学会員が明確に「反核」の立場に立っていることの意味を深く理解し、「フクシマ」の避難民(被害者)に身を寄せ、「反原発」の立場に立つべきなのではないか(原発を推進しようとしている自民党の候補者に「NO」を突きつけるべきではないか)、と思う。
 自公に代表される政党(一時「ブーム」となった日本維新の会も、橋下徹大阪市長の「従軍慰安婦=性奴隷」を巡る発言から共同代表の石原慎太郎と橋下との考えが違うことが明らかになり、「ブーム」は急速にしぼんでしまったように見える)がこんな体たらくだから、たぶん選挙民もせいぜい「選挙に行かない=棄権する」という消極的な姿勢しか取り得ず、それで「抵抗」している気持になっているのだろうが、それでは何も変わらないと言うことを考えれば、ここにもまた「倫理」の欠如を感じざるを得ない。
 もちろん、「選挙を棄権する」ということが意味を持つこともある。しかし、現今のように安倍内閣がますます「右傾化」している城にあるとき、心の中だけで「不服従=抵抗}しているのではダメなのではないか、今こそ「ニヒリズム」を克服して、例えば大江健三郎のように「ヒロシマの心」を己の在り方に対する「ヤスリ」にしながら、何ともし難い今日の状況のただ中に降り立つ必要があるのではないか、と思う。
 息苦しくなっていることに気付かず、気が付いたら自分の息子や娘、そして自分が「戦争」に関わっていた、という事態を招かないためにも、今が正念場なのではないか、と思う。
 深く、深く、考えよう。「倫理」とは何か、を。