先週の日曜日(6月5日)、「萩原朔太郎記念・前橋文学館」のスーパーアドバイザーに就任した作家・装幀家・画家の司修氏と、昼飯を食べながら今後の文学館の在り方について相談しよう、ということになって、東京から来県した司氏と文学館の前で落ち合った。氏は、僕の顔を見るなり開口一番「ひどいね、人がいないよ。これじゃ、文学館の入館者数が減少するのは当たり前だね」と、おっしゃった。僕も久し振りに前橋市の中心街(繁華街)を歩き、その人の少なさにびっくりせざるを得なかった。これが20数万人の人口を誇る県都の現状なのか。かつては、地面が見えないほどの人でにぎあっていたアーケード街も、人が数人ちらほらいる程度で、お店の中も閑散としていて、これで生活が成り立つのかと思わざるを得なかった。
自宅から前橋に行く途中車で目撃したショッピングモールの駐車場には車があふれていたのに、この市街地の「惨状」はどうしてなのか?
前橋文学館は、朔太郎が詩に書いた広瀬川のほとりにあり、柳の大木が川の両側に生え、散歩道として整備され、所々にしゃれたベンチが置いてある、日曜日の昼下がりにのんびりと時間を過ごすのには絶好の場所だと思うのだが、僕らが歩いていたとき、誰ともすれ違わず、ベンチに座っている人も皆無であった。これでは、文学館に来る人もいないだろうと、実感された。
地方都市のドーナツ化現象もここまで来ると、笑っていられないのではないか。司氏と歩いているとき、本当に偶然、地元紙の記者にあったが、選挙の度にこの「惨状」が格好の話題になると言う(この「惨状」を話題にすると、票を稼げるのだという)。本末転倒もいいところだが、これは、全盛期までかろうじて地方都市に残っていた「共同体」が完璧に解体したことの象徴ではないか、と思わざるを得なかった。
今後の人々の暮らしのことを思うと、暗澹たる思いがしたが、そのことについてはまたの機会に。
自宅から前橋に行く途中車で目撃したショッピングモールの駐車場には車があふれていたのに、この市街地の「惨状」はどうしてなのか?
前橋文学館は、朔太郎が詩に書いた広瀬川のほとりにあり、柳の大木が川の両側に生え、散歩道として整備され、所々にしゃれたベンチが置いてある、日曜日の昼下がりにのんびりと時間を過ごすのには絶好の場所だと思うのだが、僕らが歩いていたとき、誰ともすれ違わず、ベンチに座っている人も皆無であった。これでは、文学館に来る人もいないだろうと、実感された。
地方都市のドーナツ化現象もここまで来ると、笑っていられないのではないか。司氏と歩いているとき、本当に偶然、地元紙の記者にあったが、選挙の度にこの「惨状」が格好の話題になると言う(この「惨状」を話題にすると、票を稼げるのだという)。本末転倒もいいところだが、これは、全盛期までかろうじて地方都市に残っていた「共同体」が完璧に解体したことの象徴ではないか、と思わざるを得なかった。
今後の人々の暮らしのことを思うと、暗澹たる思いがしたが、そのことについてはまたの機会に。