チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

「不器用なまま」後半

2023年02月04日 11時32分01秒 | 日記
お知らせが大変遅くなりました。
「かまくら春秋2023年2月号」
が発売されています。
もう皆さんすでにご承知かと思いますが、村上知子さんの二回分載「(父母の肖像)「不器用なまま」の後半部分が掲載されています。
前半に引き続いて、大変興味深く読ませていただきました。
前回、紹介に際して(伝記というだけではなく)評伝という言葉を使いましたが、今回もその評伝という形容がふさわしい内容でした。
しかも今回読みまして、評伝の頭には、ユニークな、という形容句を、さらに付け加えたいと思ったことでした。
対象が、娘が見、感じたところの、父親である作家であるからです。
作家が、外側に向けて作ってきた(装ってきた)自己イメージを、その内側から批評する視線が存在するのですね(これはまあ、娘の特権で、外に存在する批評家には書けません。汗)。
たとえば――
「子供の私には、自分が世知に長けていると見せたがった父だが……」
いやー娘には、子供の時分からすでに完全に見透かされていたわけですな(>おい)
その次の悦子さんの言からは、悦子さんにも見透かされていたことが明瞭でしょう。
一日一話の企図は、実は完全に眉村さんを読み切っていたふたりの女性の、ある意味優しさがによって支えられていたんですね(そのことも本編に読み取れます)。
上に戻って、「見せたがった」というイメージですが、そうと知って振り返れば、なるほど『眉村卓の異世界通信』に寄せられた文化センターの生徒さんたちの思い出話の中にも、明らかに見出せるのではないでしょうか。時間がないので当該本を引っ張り出してきていちいち例示するのは省略しますが、柔道部に入る前に町道場に通ったというのは、まさにその典型例では。
そしてこの言葉は、いうまでもなく前半の、「一生懸命だな」と響き合っているわけで、外部の私がこう書くと失礼かもしれませんが、いや失礼そのもので眉村さんに知られたら破門モノですが(娘さんだから許される)、眉村さんに一貫して通底していた行動パターンだったように、思われてくるのであります。
悦子さんが亡くなってからの眉村さんの意識行動の少しずつ変化していくさまも、読んでいてよくわかった、というか、私の内部でもやもやしていたものが晴れていくようでした。
キイワードは「成り行き任せ」
本文にも取り上げられた『いいかげんワールド』が転換点だったのでしょうか?(短編にもっと早い萌芽がありそうですが私にそれを確認する時間はもうないでしょう)、眉村さんの古くからの読者は、あれ?と思ったのではないでしょうか?
これについては、書き始めたら止まらない予感がありますので、疑問符だけ残して終わりたいと思います。みなさま夫々に自らの内側をチェックしてくださいね\(^o^)/ 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする