チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

聖供

2009年06月13日 00時00分00秒 | 吉田知子
吉田知子『聖供』(新潮社73)

 あまりのイヤ度に堪え切れず、しばらく別の本に逃避していたのだが、それも読み終わってしまった。歳のせいか、イヤ小説に対する耐性がすっかり低下してしまっているのです。若い頃のようにはいきません。若い頃は鈍感だから、その手の話も平気で読めたのだなとあらためて気づいた次第。
 とはいえ読み終わってしまったからには戻らねばなりません。あんまり気が進まなかったのだが、気持ちを奮い立たせて再開。するとどうしたことか、俄然面白くなりほとんど一気呵成。ちょうど中断部分が転機だったようです。それにしても何という異常な、いびつな物語であるか。この、「イヤ」の権化というべき主人公の「謎」を早く知りたい! しかし明らかになるのだろうか? 著者の作風からしてちと疑問。
 ――ということで読了。

 高橋たか子が中村真一郎との対談で、自作のテーマについて「内面の悪」であるといったとき、中村がちょっと首を傾げて(だろうと想像する)、それは社会的な悪なのかと問いかけるのですが、高橋は人間本有のサディズムであるとこたえます(『空の果てまで』挟み込み付録)。
 本集の表題作である中篇「聖供」を読みながら、そのことを思い出しました。
 本篇は、上記「空の果てまで」に比べてもずっと世界に拡がりがあり、重層的で、主人公以外の登場人物の存在性、特異性も半端ではないのですが、とはいえそれらはすべて主人公の「内面の悪」によってもたらされたものといって過言ではない。そしてそれはたしかに「人間本有のサディズム」の極限的顕現といえるのですが、そんな浅薄な解釈では何か取り零してしまっているようにも思えます。しかもなぜそのような「悪意」を主人公が帯びるに至ったのかといった「精神病理学」は、まあ著者の通例ですが、皆無。彼は最初から「悪意の人」として存在し、(説明を拒絶して)最後まで一貫する。小説世界は主人公の磁力の圧倒的な影響下におかれ続け、その磁界に捉えられた周囲は悲惨を極めるのです。
 そのなかにあって、家族の中では長女のみ主体性を持つものとして設定されており、主人公に抗い続けるのだが、それも磁力を断ち切る力はない。
 ただ終盤に至って、林田という主人公の「不肖の教え子」が主人公を鋭く弾劾します。本作品世界の中にあって、彼のみがいわゆる我々の<現実界>と通底する存在で、ここでようやく極限にまで高まっていた「イヤ」度に少し風穴があき、読者は多少溜飲を下げるのですが、作品的には不要な場面だったような気もします。想像するに著者自身不快感が満杯となり、自己防衛的に書き込んだ場面ではないかと思ってしまいました。それかあらぬかこの場面から後、作品から緊密度がすこし緩んでしまいます。
 天使のような可愛さを持ち、しかし内面には父親から継いだような悪意を持つ末娘。精薄だがけなげな次女、聖痕をおびて生れてきた成長しない赤ん坊、彼を生んだのち完全に狂ってしまった主人公の妻等、魅力的(?)な登場人物が、さほど生かされずに終わってしまった感があり残念。彼らをもっと十全に書き込んで欲しかった気がしました(もっとも、それではおそらく長篇になってしまうでしょう)。異様な力作。

 併録の短篇、「ユエビ川」は、吉田知子版「プリズナー」です。戦時中でしょうか、外地の、満州かどこかの大平原の中にぽつんと建つ療養所。そこにトラックから捨てられるように抛り下ろされた主人公。宿泊者は奇怪な連中ばかり。ときどき主人公は命を狙われる。ユエビ川のほとりに建物は建っているというのに、どこにも川筋は見当たらない。野火が発生し次第に療養所に迫ってくる。ところが火はなかなか近づいてこない。そのうち一人減り、二人減りと宿泊者が消えていく。ある夜、主人公は残りの宿泊者全員に襲われる。なぜか宿泊者同士でも相打ちしている。朝、意識を回復すると、主人公一人だけ生き残っている(他の死体はどこにもない)。と、爆音が聞こえ、戦闘機が近づいて来、主人公は狙撃され倒れる。倒れたくぼ地から水が染み出している。ユエビ川は流れる川ではなく、染み出す川だったことに、最後に主人公は気づく。野火が到達する。
 ――という話。わたし的見地ではまごうかたなきSFの圧倒的な傑作。面白かった。
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