チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

極楽船の人びと

2009年06月27日 00時00分00秒 | 吉田知子
  《僕は腸の中を歩いているのであった。狭い通路である。肛門はまだ見えぬ》 ――「そうか。僕は糞だったのか」より

吉田知子『極楽船の人びと』(中公文庫87、元版84)

 吉田知子版・プリズナー海洋編です(笑)。というのは冗談……では決してありません。本書あとがきを読めば、それもそのはずと納得できるでしょう。著者によれば、本篇と、「ビルディング」(『天地玄黄』所収)、先日読んだ「ユエビ川」(『聖供』所収)の3篇を、「とにかく、書き始めるときは、同じ主題だった」作品群と告白しているからです。共通点は「背景と状況」ということで、それぞれ「巨大なビルディング、荒野のなかのホテル、船」という「異常な世界、非日常」のなかに「捨てられ」た人びとが描かれている。

 私が「プリズナー」だと感じるのは、作中人物たちがかかる非日常的世界につれてこられ、捨てられた人びとであり(本篇の場合は一応自発的に乗船するのだが、読み進むうちに「自発的に乗船するよう」仕向けられた、強制された人々であることが分かってきます)、そしてその世界が、そこから戻ることあたわざる収容所的世界(空間)であるからなんです。

 さて本篇――84名の乗客と40名の船員・スタッフを乗せて客船が出航するのですが、その目的地は最後まで明らかではありません。どうも乗客たちは、それぞれ勝手に目的地を想像している気配。最初は快適と感じられた船内ですが、チーフという人物が出現してからは、次第に統制が強まり、収容所っぽくなっていく。航海が長期化し積み込んだ食料が不足してくるようになったところに(しかしなぜそんなことが起こり得るのか)、大型台風の直撃を受け、難破する(少なくとも乗客はそう思わされている。後述)。船内は次第に地獄と化していき、チーフは毎日行なわれる「ツドイ」で夜ごと自殺を教唆するような講話をする。どんどん人が死に、死なないものも狂ったり、幻想の世界へ引きずり込まれる(腸内にも)……

 という話で、読者としては気分が滅入るばかり。「救済」は訪れません。同じく収容所でも「ユエビ川」には終末論的なイメージがあって、そこが魅力的だったんですが、本篇にはそういうパースペクティブもありません。視覚面ではあまり楽しめませんでした。

 最後はチーフだけ救助されるのですが(一人だけ救命ボートに乗っているところを発見され、取調官を不審がらせる)、このチーフ、間違いなく「聖供」の主人公と同一人物ですね(もちろん内的に)。このメフィストフェレスはおそらく乗組員・乗客すべての破滅を使命として乗船していたに違いない。最後に船長が帰港すると宣言(ということは難破ではなかった? 謎です)した直後に爆発が起こり船が沈むのですが、帰港に難色を示していたチーフの犯行であるように強く示唆されています。

 ただ「聖供」の主人公にしろ、このチーフにしろ、なぜ著者はこういう人物を配置するのか、それが私には了解できない。つまり著者の創作の根源動機が判ってないといえるので、読み切った! という感じはしないのですよね(ひょっとして宗教的(キリスト教的)観念?)。
 でも逆に、思考を倒立させて「悪意の人」ではなく「善意の人」を想定してみたらどうでしょうか。われわれは善意の人がなぜ善意に溢れているのか、そんなことをことさら事だてて詮索するだろうか。むしろそんなに不審に思わず受け入れてしまいそうな気がします。ならばなぜ悪意の人に関しては、われわれはその思想の来歴を忖度しようとするのでしょうか? うーむ。なんとなくヒントはつかめてきたので、さらに吉田知子、精進したいと思います(^^;。
コメント
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