チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

ベニスに死す

2008年10月19日 11時34分43秒 | 映画
ルキノ・ヴィスコンティ『ベニスに死す』(71)

 いかにもヴィスコンティらしいデカダンで頽廃的な雰囲気横溢する「幻想映画」で、至福の2時間でした。

 夫れ幻想小説は、たとえば「城」のように、(異界への)到着シーンで始まることが多い。本篇もまた、主人公の老音楽家は(まず蒸気船でベニスに到着し、それから)ゴンドラでホテルのあるリド島へと渡る。けだし幻想映画の要件をみたしているというべきで、このようにして象徴的に水の都ベニス(就中リド島)は、幻想異界としてのその「不気味な」姿を主人公の前にあらわすのです。

 たとえばゴンドラの船頭からして尋常ではない。彼は操船しながらずっと訳の判らない独り言をブツブツ呟きつづけています。不気味に感じた主人公が港に戻るよう指示しても言うことを聞かない。着いたリドの桟橋で、ようやく緊張を解き、荷物の扱いをホテルの者に託して船賃を払いに戻ってくると、ゴンドラは影もかたちもない(無許可業者で警察が来たので海上へ逃げ出したとの説明を受ける)。

 その前に、蒸気船から降りた主人公を待っていたのは、顔に化粧を施した(死化粧?)不気味な老人でした。老人は見ず知らずの筈の主人公に、なぜか近寄ってきて歓迎の挨拶を述べ、主人公を当惑させます(この化粧はラストでの主人公の化粧と照応します)。

 どうやらベニスは、本篇では「死の都」として設定されているようで、上記のシーンはそれを象徴しているように思われます(現実においてもベニスはコレラが蔓延していき死の都と化す)。つまりこの映画は、老主人公の(そもそも心臓病の療養にベニスを訪れたのですが)「死出の旅」を描いているのであり、それに応じるように、外界(正確には主人公の内宇宙)であるベニス(リド)そのものも、次第に荒廃し廃墟の様相を呈していきます。

 化粧ということに関しては、中段でも化粧をした流しの演歌師が登場してホテルの庭園でくつろぐ客たちに端歌を聞かせ、チップを強要する場面があります。その芸人が去る間際、それまで執拗に媚を売っていたホテル客に向かって、一転嘲るようにアカンベーをしてみせるのですが、蓋しこの芸人もまた、そのとき既にコレラに犯されつつあった(客たちはまだその事実を知らない)ベニスそのものの具現化した存在だったのかも知れません。

 本篇の主題は、一般的には美少年タージオの身体的存在そのものであるといえるのでしょうが、主人公の視線があってこその存在でもあり、その意味で主人公こそ主であり、タージオは主人公の従属物といえる。
 但し、存在するだけで美であるというタージオの存在は、主人公の考える「美」とは相容れないものだった。そういう「美」に惹かれていくということは、老主人公が長年(親友に「通俗的」と非難されても)堅持してきた「美」の概念を自ら否定していくことに他ならなかった。その意味で、本篇は、ふたつの「美」の斗い(主人公の裡においては葛藤)の物語であったわけです。

 そしてその結果、勝ったのはタージオでした。かかる構図において、すなわち[タージオ=美]という構図においては、老主人公は当然ながらその対極物である「醜」の役割を引き受けなければなりません。
 実際、ラストの場面で渚に立つタージオのポーズを見て、遂に葛藤は消え、主人公はその役割を従容として受け入れる。美はそのものとして自立してあるのであり、構成していくものではないという観念を、老音楽家は受け入れたのです。

 最後のシーンで、老主人公は、(死)化粧が崩れ、髪を染めた墨が顔中に流れ落ちるにまかせた醜い姿(醜の中の美もヴィスコンティの重要なモチーフではあります。その意味では消毒液にまみれたベニスの街路の何と美しいこと)で死ぬのですが、その顔には、2時間の上映時間の間、(回想場面を除けば)一度もみせなかった微笑が、初めて浮かんでいるのでした……。
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