チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

雨のドラゴン

2005年10月10日 00時17分10秒 | 読書
丸山健二『雨のドラゴン』(河出書房、73)

 2年間の療養所生活と、それに続く1年間の、ただ部屋の二階から双眼鏡で団地内を覗きまわるだけの、無為の(既に必要がない)自宅療養をつづける若者。真夏の夕立の直後、その彼の前に突如、黄金に輝くとてつもない生気に溢れた大男と巨大な犬が、海より来たりて、そうして物語は開始する。そのコンビは、ただ見ているだけで彼を励起し再生させる。
 隣家には、彼が勝手に「はと」と名づけた若い女性が、その家族からの脱出をひそかに目論んでいる。若者は、彼が「ドラゴン」と名づけた生気溢れる大男とともに船出することで恢復を夢見る。しかし、「はと」と「ドラゴン」が深夜の海辺にいるところを目撃したことから、暗雲は垂れ込めはじめる。……

 ひきこもりが、自己恢復を冀求して身勝手な妄想に妄想を重ねていく。語り手(視者)がそのような歪んだ「想像」に身を任せていくので、読者はどこまでが現実なのか、次第に判然としなくなっていく。物語は全て若者の内部に在り、現実的には団地内の瑣末な、ある意味ありふれた出来事が去来するだけなのかもしれない。そのような一見日常的な外観の裡に、併し一種とてつもない内圧が、膨れ上がった不安感が漲っており、読者を圧倒せずにはおかない。

 さっと、今日初めての強い光がさしこんできたかと思うと、一瞬のうちに夏の気配が夜の名残りを蹴散らしてしまう。温度計のエーテルが一気にはねあがる瞬間の次に、すべての物体が暑気に包まれる瞬間が訪れる。/ 二十二、二十三、二十四、二十……きた! 彼らが現れた!(64p)

 現実感の不確かさは、本書にメルヘンめいた印象を与えており、上に引用したような小説とも散文詩ともつかぬ、その中間ともいうべき独特の文体と構成とが相俟って、私は後期のブラッドベリを連想した。もっともこのブラッドベリは、雨粒を一杯に孕んで破裂寸前の黒く分厚い雨雲のように、異様に張り詰めた暴力性を内に孕んだ独特のブラッドベリなのだが。

 そうしてぶち撒けるような激しい雨とともに、輝きを失ったドラゴンは去る。やがて雨が上がり、秋の気配とともに、海岸に転がる犬を含めた4つの死体を若者は幻視する……。
 あらすじを追うよりも、そのような漲ったものを感じ取るべき(詩)小説といえよう。
コメント
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