チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

アイヌ神謡集

2005年10月25日 23時13分22秒 | 読書
知里幸惠編訳『アイヌ神謡集』(岩波文庫、78)

 『炎の馬』に引き続いて、アイヌの物語を読んだ。
 『炎の馬』には、主にウェペケレ(散文の昔話)が収録されていたが、本書は韻文の神謡(カムイユカルとオイナ)の「小さな話」(4p)が訳出されている。
 底本は大正12年発行で、アイヌの口承文学が初めてアイヌ人の手によって日本語訳された記念碑的名作。編訳者の知里幸惠は刊行の1年前に、弱冠19歳で亡くなっている。

 一読、深い感動に包まれる。深い感動というよりむしろ偉大な叡智に触れた喜びというべきか。
 ここにはアイヌ人の世界観、社会観が十全に表現されていて、それはアニミズムといってよいものなのだけれども、自然との共生によって生かされる生の大切さが寓意的に語られており、このような物語を寝る前に繰り返し聞かされることで、アイヌの子供たちはアイヌ社会を内面化していったのだろう。

 本書に語られた物語が指し示しているのは、近代・現代の日本が必死になって邁進してきたところの、そして今や、ほぼその完成型が見えてきたところの社会とは、まさに対極的な社会観である。
 それは、いうなれば「資源は有限である」という根本認識なのであり、そのような有限である資源を使わせてもらわなければ生きていけない人間が、いかにその資源を永続的に維持するための行動(規制的行動)を取っていくべきかを、「神の世界」と「人間の世界」が「動物・植物」を介して直接しているという、独特の「世界構造」「世界原理」において説明したものといえるだろう。

 たとえば<梟の神が自ら歌った謡>「コンクワ」では、人間が鹿狩りや漁において荒っぽい獲り方をするので、鹿の神と魚の神が怒って鹿と魚を人間世界(自然・地上)に送り込まなくなり、飢餓が起る。梟の神の仲介で獲物を大切に扱わなければならないことを知った(夢を介して知らせる)人間が改心すると、ふたたび神は地上に鹿と魚を送り込んでくれるようになり、人間社会はふたたび元の活気を取り戻すのだ。

 一見お説教じみていると思うかもしれない。しかしながらそのような原理に裏打ちされているからこそ、これらの物語の世界はとてつもなく魅力的なのだ。
 それが証拠に、<小狼の神が自ら歌った謡>「ホテナオ」は、正味3頁ながら、数分で読了した私はその結末にめまいすら覚えて、10分以上ぼんやりしてしまった。我々は皆、この赤い炉縁魚なのではないだろうか……。この掌篇には「人間の謎」への深い隧道の入り口が顔を覗かせている。

 物語的には、もとは韻文とはいえ、翻訳され我々が目にすることができるのは散文形式なので、ウェペケレとの大きな違いは感じなかった。一人称「私」が語る形式で統一されているのも『炎の馬』で述べたとおり。

 アイヌの物語は、ケルトのそれに拮抗する豊穣さに満ちているのではないだろうか。もっと紹介されるようになってほしいし、そこから新しい文芸ジャンル、たとえば20世紀の作家がケルトの物語にインスパイアされたような動きが、あらわれてきたらいいな、そんな思いがする。それだけの内力を、アイヌの物語は秘めているように思われる。
コメント
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