下の感想文、肝心なことを書き落としていることに気づいた。私の書くものはいつもこうなります(ーー;。
それは、ベスターは「タッチ」を楽しむ作家だということ。
タイムマシンで、レンブラントとゴッホとピカソをつれて来て、彼らにある静物、たとえば一輪挿しを描かせたとしよう。おそらくこれが同じ一輪挿しかと思うほど彼らの描いたもの異なっているはずだ、というのは容易に想像できるのではないだろうか。これが「タッチ」である。
その過程を図式的に述べよう。彼らが目にしているのは「同じ現実」である。その「現実」を、それぞれの目が捉え、目はその捉えた映像をそれぞれの脳に送り込むわけだ。そこでその映像は、彼らの主観によって「変形」され、画布に表現される。そのように解すことができると思われる。
つまり「タッチ」とは、ある「変形」である。あるいは「解釈」。
私たちは、レンブラントのタッチ(解釈)を楽しみ、ゴッホのタッチ(解釈)を楽しみ、ピカソのタッチ(解釈)を楽しんでいる。絵画鑑賞の原理はこのように明快なところがある。
小説の鑑賞は、このように明快には割り切れない多様な情報を含んでいるとはいえ、その多様な情報の中には絵画と同様の鑑賞ができる情報もある。
上記3者は、とりわけ変形(解釈)の仕方に特徴を有する画家だけれども、一般に、というか原則的にいって「リアリズム」は変形の度合が低いものと定義できるだろう。
話を小説に戻す。一般的にエンターテインメント小説は、「大衆」に受け入れられなければならないから、描写における「変形」はできるだけ避けなければならないだろう。
ベスターは実にその部分で勝負に出た作家と言えるのではないか。ベスターの真骨頂は、表現されたものの「内容」(ストーリー、プロット、アイデア、オチなど)にあるのではない。「内容」自体は案外使い古されていたり凡庸であったりする場合が多い。「内容」はベスターにとって2の次だったのではないか。ある意味彼が小説で表現したかったのは、「表現」そのものだったと言えるかも知れない。
ところで「表現」は自立的には存在し得ない。表現とは常に「何か」を、「或る内容」を表現することとしてしか存在し得ない。そういう意味で、「内容」は、彼の華麗な「表現」(タッチ)を存在させるための「土台」に過ぎないといえるだろう。
「表現」とは、とりもなおさず、或る「解釈」である。しかもベスターのそれは、ありがちな「既に流通している」解釈ではない。「新しい」解釈だ。つまりベスターは「表現」そのものを表現したいと考える作家だったに違いない。
このような作家を読むにはコツがいるのは明らかだろう。それゆえ、ライトノベルや恋愛小説のように、表現の「変形」が原則タブーであるジャンルの作品に慣れた読者には、お手上げ状態になる場合があるのではないかと想像される。
ベスターの小説は、ゴッホやピカソやレンブラントを楽しむように読むべきなのだ。だがレンブラントは分かってもピカソとなると拒否反応を示す人も出てくる。ところがベスターの「表現」(解釈)はピカソどころか、ある意味カンディンスキー並みなのだ(わたし的にはクレーではなく、カンディンスキーなのだ(^^;)。
ある種の読者にはそのコツを掴むのはなかなか大変なのかもしれない。とはいえそれにいったん気がつきさえすれば、あとは存外ずるずると没入していけるはずなのだ。そういう意味で本書は抽象絵画的小説集といってもそう的外れではないように思うのだが。
それは、ベスターは「タッチ」を楽しむ作家だということ。
タイムマシンで、レンブラントとゴッホとピカソをつれて来て、彼らにある静物、たとえば一輪挿しを描かせたとしよう。おそらくこれが同じ一輪挿しかと思うほど彼らの描いたもの異なっているはずだ、というのは容易に想像できるのではないだろうか。これが「タッチ」である。
その過程を図式的に述べよう。彼らが目にしているのは「同じ現実」である。その「現実」を、それぞれの目が捉え、目はその捉えた映像をそれぞれの脳に送り込むわけだ。そこでその映像は、彼らの主観によって「変形」され、画布に表現される。そのように解すことができると思われる。
つまり「タッチ」とは、ある「変形」である。あるいは「解釈」。
私たちは、レンブラントのタッチ(解釈)を楽しみ、ゴッホのタッチ(解釈)を楽しみ、ピカソのタッチ(解釈)を楽しんでいる。絵画鑑賞の原理はこのように明快なところがある。
小説の鑑賞は、このように明快には割り切れない多様な情報を含んでいるとはいえ、その多様な情報の中には絵画と同様の鑑賞ができる情報もある。
上記3者は、とりわけ変形(解釈)の仕方に特徴を有する画家だけれども、一般に、というか原則的にいって「リアリズム」は変形の度合が低いものと定義できるだろう。
話を小説に戻す。一般的にエンターテインメント小説は、「大衆」に受け入れられなければならないから、描写における「変形」はできるだけ避けなければならないだろう。
ベスターは実にその部分で勝負に出た作家と言えるのではないか。ベスターの真骨頂は、表現されたものの「内容」(ストーリー、プロット、アイデア、オチなど)にあるのではない。「内容」自体は案外使い古されていたり凡庸であったりする場合が多い。「内容」はベスターにとって2の次だったのではないか。ある意味彼が小説で表現したかったのは、「表現」そのものだったと言えるかも知れない。
ところで「表現」は自立的には存在し得ない。表現とは常に「何か」を、「或る内容」を表現することとしてしか存在し得ない。そういう意味で、「内容」は、彼の華麗な「表現」(タッチ)を存在させるための「土台」に過ぎないといえるだろう。
「表現」とは、とりもなおさず、或る「解釈」である。しかもベスターのそれは、ありがちな「既に流通している」解釈ではない。「新しい」解釈だ。つまりベスターは「表現」そのものを表現したいと考える作家だったに違いない。
このような作家を読むにはコツがいるのは明らかだろう。それゆえ、ライトノベルや恋愛小説のように、表現の「変形」が原則タブーであるジャンルの作品に慣れた読者には、お手上げ状態になる場合があるのではないかと想像される。
ベスターの小説は、ゴッホやピカソやレンブラントを楽しむように読むべきなのだ。だがレンブラントは分かってもピカソとなると拒否反応を示す人も出てくる。ところがベスターの「表現」(解釈)はピカソどころか、ある意味カンディンスキー並みなのだ(わたし的にはクレーではなく、カンディンスキーなのだ(^^;)。
ある種の読者にはそのコツを掴むのはなかなか大変なのかもしれない。とはいえそれにいったん気がつきさえすれば、あとは存外ずるずると没入していけるはずなのだ。そういう意味で本書は抽象絵画的小説集といってもそう的外れではないように思うのだが。