小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

六十二番★★…清少納言…★★

2015-04-11 | 百人一首

清少納言(966年?~1025?)

 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ


 清少納言は古文でお馴染みの『枕草子』を書いた才人です。
 歌人清原深養父の曾孫で父は元輔。元輔の晩年の子供でたいそう可愛がられました。やがて、橘則光との結婚生活に入り則長ほか数名の子供をを産みますが十二、三年ほどで離婚しました。正式な夫婦であったのか、別れの理由は何であったのかなどは一切わかりません。ですが、二人は宮廷で再会し宮中では兄・妹の仲で通っていたといいますから何か深い訳があって別れたのでしょうか。
 随筆の名手であっても個人的なことは書かなかったのですね。
 父の元輔は七十九歳の高齢ながら肥後守として赴任し、赴任先で亡くなります。父を亡くし則光とも別れた納言は薦められて宮廷へ出仕しました。仕えたのは一条天皇の中宮定子(藤原道隆の息女)でした。文献によれば、この時、清少納言は二十代後半か三十歳前後のようです。
中宮の定子は関白藤原道隆の娘でしたが、長徳元年(995)に道隆が没したことで道長が台頭してきたことから一条天皇の愛情も道長の娘の彰子に移りました。長保二年(1000)、皇后に棚上げされた定子は皇女を出産した直後に崩じます。清少納言はその頃に宮仕えを退いたと思われます。
『枕草子』は宮廷暮らしの中で書き始められ、定子の没後も書き続けられていたようですがその後の納言の生涯はあまり記録に残っていません。
 わかっているのは受領階級の貴族の藤原棟世と再婚して、重通と女の子(小馬命婦)をもうけたことと、その小馬命婦が定子中宮のライバルであった彰子に仕えることになったこと程度です。ただ、『赤染衛門集』に、父元輔の荒れた旧居に住む清少納言に触れた歌があって晩年の暮らしぶりを想像できるのですが…。

 さて、この62番の歌ですが選者の定家も難しいものを選んだものです。漢籍の知識がないと理解しにくい歌で、そんなことから清少納言は知識をひけらかす厭な女と受け取られる向きも少ないのかもしれません。 詠まれたのは定子中宮のもっとも華やかな頃でしょう。仲の良い男友達がたくさんいました。
 ある日のこと、納言はその内の一人、大納言行成と自分の部屋で夜更けまで話しこんでいました。行成は「もう、こんな時間だ」と帰って行き、翌朝「鶏(とり)の声に催促されて帰ってしまいましたが、もっと話がしたかったね」といった手紙を送ってきました。それに納言は「あんな夜更けに鶏ですか?きっと孟嘗君の鶏なのね」と返事をしたためます。「孟嘗君の鶏」という故事は中国の史記にあるものです。孟嘗君が秦の宰相であったとき、趙の武霊王の策謀により危うく暗殺されそうになりました。孟嘗君には数千人の食客がいましたが、その中には一芸に秀でた者が多かったのです。
 暗殺の計画を知った彼は密かに逃げ出す計画を立て、夜明け前に函谷関(かんこくかん)の関所を越えようとしたのですが、関所の門は鶏が鳴いたのを合図に開かれることになっていて夜中には通れないのです。彼に従う食客の一人にものまねを得意とする者がいて、鶏の鳴き声を発するとそれにつられて本物の鶏が鳴き始め、まんまと門を開けることに成功し無事に逃げることができました。
 打てば響くような納言の対応に「あれは函谷関の関のことでしょう。あなたとは忍びあいの逢坂の関ですよ」と行成はすぐに返歌を書きます。それに対して納言が贈ったのが62番のこの歌です。
「夜もあけない内に鶏の鳴き真似をして関所をあけさせたのは函谷関のことですよ。私の逢坂の関所は守りが堅いのでだまされてあけることなんてございません」といった意味です。
 歌のやり取りでも知識や機知を使ってかけひきなどもあって楽しい様子が髣髴とさせられます。和歌には切ない相聞歌が多いのですが、こうしたカラリとしたユーモアのあるものも素敵ですね。こんな納言を定子はたいそう愛され、納言も心をこめてお仕えしたのでした。

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