小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

四日目 43番~41番札所 帰路

2016-12-04 | 四国遍路 伊予(愛媛...
四日目 43番~41番札所 帰路

43番 源光山 明石寺(めいせきじ)
ご詠歌 聞くならく千手の誓いふしぎには 大盤石のかろくあげ石
本尊 千手観世音菩薩
ここは乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされて、古来から尊崇されてきており、6世紀の前半、欽明天皇の勅願により千手観音菩薩像を祀るための七堂伽藍を建立したのが起源とされている。役行者が紀州熊野から12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の中心道場として栄えた。が、やがて荒廃してゆきほぼ100年後に訪れた大師が嵯峨天皇に奏上して復興した。







鎌倉時代には源頼朝が大恩有る池禅尼の菩提を弔うために阿弥陀如来像を奉納し経塚を築いている。この時に山号を源光山と定めたという。そうしたことから武家の帰依があつく後には宇和島伊達家の祈願所となった。



42番 一カ(王偏に果実の果)山 仏木寺(ぶつもくじ)
ご詠歌 草も木も佛になれる佛木寺 なお頼もしき鬼畜人天
本尊 大日如来
牛の背に乗った弘法大師の伝説が語り継がれている。
弘法大師が牛を引く老人についていくと、楠の古木の上に光るものを見つけた。それは大師が唐から投げた宝珠で、大師はその楠で大日如来像を刻み眉間に宝珠を納めて、この地を霊場に定めた。本尊の大日如来は牛や馬の守り仏として信仰を集め、現在はペットの供養に訪れる人も多い。






四国霊場では珍しい茅葺の屋根の鐘楼が元禄時代に再建されている。
ここで思いがけないお摂待を受けた。近くの三間中学校の一年生達が社会科の実習?として一年に一度この寺でお摂待をするのだという。手製の葉書大の絵も手書きで可愛い文章が添えられている。ラッキー!良い日に来合わせたとお大師様に感謝です。お遍路文化はこうして受け継がれていくのでしょう。





41番 稲荷山 龍光寺(りゅうこうじ)
ご詠歌 この神は三国流布の密教を 守り給わむ誓いぞと聞く
本尊 十一面観世音菩薩
宇和島は伊達家十万石の城下町。その市街地から北東に10kmほどのところが三間平野で地元では「三間のお稲荷さん」と親しまれているのが龍光寺。
弘法大師がこの地を訪ねた際に、稲束を背負ったひとりの白髪の老人があらわれ、「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて、忽然と姿を消した。大師は、この老翁が五穀大明神の化身であろうと悟り、その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置し、四国霊場総鎮守の寺とした。
創建のころから神仏習合の寺であった龍光寺は、稲荷寺として信仰され維持されてきて石の鳥居や赤い鳥居もある。







今回の遍路ツアーはこれでおしまい。伊予としては40番の観自在寺が一つ残ったがここはかなり離れていて、次回の土佐一国詣りのツアー冒頭に企画されている。一つ残すのは気分が悪いのだろう。何人もの人が予約を入れていた。40番を個人で詣るにはJRを乗り継いで一日がかりで宇和島まで行き、日に数本しかないバスに乗って行くのだ。その点、バスは座っていれば連れて行ってくれる…そんなことを考えているとバスが止まった。看板は「真珠会館」
奥に導かれていくと団体用の昼食が用意されていた。12時少し前になっている。
大きなみやげものやさんだ。勿論、宇和島で採れた真珠もたくさん並んでいる。ここで最後のお土産を調達するように仕組まれているのだろう。
じゃこ天を多めに買った。
ここからバスは一路広島に向かう。12時50分出発。
17時50分くらいの新幹線で一同は九州へと帰って行く予定。
長いバス道中では先達さんの話に続いて「知ってるつもり」の空海と衛門三郎の話が上映された。寝ている人が大半。
トイレ休憩が一度の後、バスは17時20分に広島駅に到着した。九州に帰る皆さんにお別れを告げて17時35分ののぞみに乗れた。新大阪からくろしおを乗り継いで21時前に家に帰り着きダダ(ワンコ)の熱烈歓迎を受けた。
それにしてもしんどかった。そして伊予での1札所残しが棘のように心に残った。




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