和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

木瓜の花/今日の俳句≪No.1534≫

2014年03月28日 07時45分10秒 | 今日の俳句
     ☆木瓜の花/今日の俳句☆  

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2014年(平成26年)3月28日(金)


○ シルクロードの日
 1900年のこの日、スウェーデンの探検家・地理学者のスウェン・ヘディンによって、廃虚になっていたシルクロードの古代都市・楼蘭が発見された。

【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】

○ 宗因忌
※ 西山宗因 【にしやま・そういん】慶長10年(1605年)~ 天和2年3月28日(1682年5月5日)
 江戸前期の連歌師,俳人。通称次郎作,名豊一。俳名一幽,西翁,梅翁など。号長松軒など。肥後熊本加藤家家臣西山次郎左衛門の子。
加藤家家老八代城代加藤正方の小姓に転じて連歌を愛好する正方の感化を受け,連歌師としての道をたどり始めたのは15歳ごろである。
京の里村昌琢の指導を受けられるよう勤務上の配慮を与えたのも正方で,宗因の正方に対する尊崇の念は生涯続いた。
また公務で正方に供奉するうちに各地の連歌会に出席し,作品を残し始める。しかし寛永9(1632)年に加藤家が改易処分を受けたため,宗因の人生は一変した。
浪人として生計を立てる必要から,上京して里村昌琢の庇護を受け,昌琢の導きによって京の連歌会に出席,また江戸の武家連歌壇とも接触を持って次第に重きを成すに至る。
正保4(1647)年には大坂天満宮連歌所宗匠として迎えられ,本格的に連歌師としての活動を開始する。慶安2(1649)年には天満宮月次連歌再興,5年には菅家神退七百五十年万句を興行するなど,機運にも恵まれて宗因の活躍はめざましく,全国各地の大名にも門人を持つなど,広汎な名声を得る。
内藤風虎との交渉など,その最たるものであろう。有力門人の招きを受けて全国に出向くことしばしばで,紀行も数編残している。
寛文期以降,宗因の関心は俳諧にも向けられて作品を多数残すようになる。談林俳諧の創始者として貞門俳諧側からの攻撃を受けたこと,門下に井原西鶴を擁したことなどがあまりにも有名であるが,彼があくまで連歌師として自らを規定しており,俳諧は全くの余技に過ぎなかったことは確認されなければならない。
著作は連歌,俳諧,紀行などにわたっておびただしく,全集の編纂が切望されている。<参考文献>野間光辰『談林叢談』,島津忠夫「宗因とその後の西山家」(『近世文芸』58号)
(久保田啓一)

【「朝日日本歴史人物事典」より転載】



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  ■※今日の俳句※■


  
  木瓜咲くや漱石拙を守るべく
       夏目漱石



  海風に木瓜の朱奪られ善守の堂
       加倉井秋を



  腹空けばそのことばかり更紗木瓜
       八木林之助



※ 【木瓜咲くや漱石拙を守るべく  夏目漱石】
 花そのものではなく、木瓜(ぼけ)という語感に着目した句だ。「拙を守る」とはへんてこな意志と思われるかもしれないが、漱石のような才気横溢した人にとっては、おのが才気のままに流れていくことは、たぶん怖いことだったのだろう。才気には、知らず知らずのうちに現実から遊離してしまうという落し穴がある。
小説家にしてみれば、この穴がいちばん恐ろしい。だから、どうしても「拙を守る」強固な意志を持ちつづける必要があった。「世間には拙を守るという人がある。この人が来世生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」(『草枕』)。そして漱石ならずとも、現代人の多くはいま木瓜になるべきときかもしれない。
シャープという名の小賢しさが一掃されたら、どんなに気持ちがよいことか。私が俳句を好むのも、俳人には「拙を守る」人がたくさんいるからである。とは、それこそまことに小賢しい言い方かもしれないが……。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。
(清水哲男)

【「『増殖する俳句歳時記』(検索エンジン」より転載】



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※わが友に贈る/名字の言※
【「聖教新聞」2014年(平成26年)3月28日(金)より転載】



 ■※わが友に贈る※■


 信頼の第一歩は
 清々しい挨拶から。
 はつらつと元気よく
 自ら声を掛けるのだ。
 旭日の生命力で進め!

     3月28日



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   ■※名字の言※■


(3/28)
海外の旅行をした婦人に、話を聞いた。若くして、網膜はく離で全盲となった彼女。景色は見えなくても旅を満喫できた、とうれしそう



訪れたのはカナダ。行きの飛行機の中、険しいロッキー山脈を越えている自分の姿を頭に浮かべるだけで、楽しかった。降り立った瞬間、今度は、澄んだ空気が体を包み込んでいく感覚を味わえた。次は、イギリスやインドへ行くのが目標という



自宅では、物の配置を覚えていて、写真や点字の冊子などを手早く取っては、来訪者に見せてくれる。だが、海外ともなれば、同行者がいても、移動やホテルの宿泊などの苦労は並大抵ではない。それでもなぜ、行くのか。「挑戦できることがうれしいんです」と、満面の笑みで彼女は言った。



「心は工(たくみ)なる画師の如し」と仏典は説く。この言葉について、池田名誉会長は論じた。「『心』は名画家のごとく、一切を自在に描き出していく。したがって、人生そのものが、『心』の描く『名画』である。『心』が創り上げる芸術である」



人間は、ささいなことで倒れる、アシのような弱い存在であるが、どんな嵐の中でも心の翼を自由に広げていける強さもまた、人間にはある。鍵は、挑戦する勇気。その勇気の泉の源が、信心である。  (将)



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3月27日(木)のつぶやき

2014年03月28日 01時41分41秒 | 今日の俳句