ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団81 生石村主真人と石の宝殿

2010-02-07 21:09:37 | 歴史小説
石の宝殿を御神体とする生石(おうしこ)神社


「岩室からは石の宝殿が有力だけど、生石村主真人との繋がりはどうなるのかな?」
今日は長老がいつもになく積極的だ。
「『村主(すぐり)』の姓(かばね)は、仁徳期に阿智使主(あちのおみ)が百済から連れてきた氏族とされています。阿智使主は秦氏、漢(あや)氏の祖とされており、有名な坂上田村麻呂は東漢(やまとのあや)氏の子孫とされています」
高木は新幹線の中で調べてきたホヤホヤの知識を披露した。
「真人(まひと)はどうなのかな?」
教師の悪い癖で、誰でもゼミの学生扱いにして突っ込んでくる。
「真人(まひと)というと、天武天皇が定めた『八色(やくさ)の姓(かばね)』の最高位の姓です。天武天皇の和風諡号は『天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)』であり、もとは皇族にのみ与えられた姓です。しかし、天智系の天皇と藤原氏が権力を握ると、『真人』は皇族ではなく、天武系の人々に懲罰的に賜姓された、と考えられています」
「そうすると、それほど高い地位ではなかった、ということか」
高木の事前調査ではそこまで調べていなかった。
「続日本紀では、生石村主真人は天平10(738)年に美濃少目(みののしょうさかん)となり、天平勝宝2(750)年に外従五位下に叙されたとされています」
ヒナちゃんがスマートフォンを見ながら助け船を出してくれた。
「美濃というと、大海皇子、後の天武天皇の根拠地であり、壬申の乱において美濃の兵3000人が関ヶ原を塞ぎ、天武天皇軍勝利の重要な役割を果たしています。生石村主真人は壬申の乱で活躍した天武天皇直属の武人の子孫であった可能性が高いと考えられます」
壬申の乱となると、高木の出番であるが、思わぬところで生石村主真人との繋がりがでてきた。
「目(さかん)というのは何なの?」
ヒメの質問癖が始まった。
「目(さかん)は、国司として中央から派遣された四等官です。また、『外従五位下』の『外』位は中央の役人ではなく、国司などの地方の役人に与えられた官位で、五位から初位までの5階の最上位の下という位でした」
ヒナちゃんの調査はいつも詳しい。
「古代人の名前は、どこどこの誰々、と地名を頭に付けることが多いよね。『生石』について、出雲や播磨に繋がる手がかりはないの?」
ヒメはツボを外さない。
「残念ながら、生石村主真人については、他の国での経歴は分かっていません」
資料からは、ここまでしか分かりませんというほかなかった。
「ひとつ、手がかりがあります」
思いもかけぬヒナちゃんの発言に高木はびっくりした。
「こちらに来る前に、播磨国風土記を読んできたのですが、その播磨郡、今の姫路市のところに、『上生石大夫(かみのおいしのまえつきみ)、国司(くにのみこともち)として有りし時に、墓のほとりに池を築いた』と書かれています。「生石」一族に播磨国の国司がいることからみて、生石村主真人もまた播磨の「生石」ゆかりの一族であった可能性が高いといえます」
これは、予想もしない爆弾発言であった。
「播磨国風土記は、嘉永5年(1852年)になって初めて三条西家から世に出たものです。これは本居宣長や平田篤胤の死後になります。従って、本居宣長や平田篤胤が、生石村主真人を出雲に結びつけた判断は誤りであった可能性は高いと考えられます」
「そうすると、生石村主真人の『大汝(おおなむち) 小彦名(すくなひこな)乃 将座 志都乃石室者 幾代将経』の詠んだ志都乃石室は、石の宝殿ということで決まりね」
ヒメは相変わらずの早合点である。

(日南虎男:ネタモトは日向勤氏の『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』梓書院刊です)

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