日本語は、コミュニケーション言語といっていいほど「挨拶」の言葉が多いのよ。
「おはようございます」「おはよう」「いただきます」「ごちそうさまでした」「いい
え、お粗末さまでした」「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」「こんにちは」「ご機
嫌いかが」「さようなら」「ごきげんよう」「おやすみなさい」など等。
そんな挨拶を交わしながら、日々をおくってきている。よね?
その中で、一番頻度の高い言葉は「いただきます」「ありがとう」ではないかしら。
すくなくとも1日3回はこの「いただきます」が口をついて出てきているのだから。
TVのある番組でC.W.ニコル氏の話の中のエピソードに、思わず「ウッソー」
って、TVに向かって、吠えてしまったのよ。小学校の先生の話として、「給食時にい
ただきますを言わせるなんて、とんでもない。給食費は払っているんだから!」という
親の話に。
ウチの子ども達が幼い頃、
子:「ママ、お水!」
私:「お水がどうしたの?」
子:「お水が欲しい!」
私:「お水は一人で来るの?」
子:「・・・」
私:「ママ、お水頂戴!でしょう」
子:「ママ、お水頂戴!」
すぐには渡さない。
私:「そして、なんて言うの?」
子:「ありがとう」
そしてやっとお水は彼等ののどを潤した。
親子なのに水臭い? 強制がいやらしい?
いいえ、これの繰り返しが育児の基本、自然と口をついてくるまで繰り返すのよ。
これは、人と人との間になければいけない言葉なのよ。
自分ができないこと、あるいは人の好意を受けた時は、間髪いれずに「ありがとう」が
言えない人のなんと多いことか。他人にはかろうじて、言うものの、家族間では、その
言葉は、子どもが親に向かってのみ発せられるものと思ってはいない?でも、親子間で
すら長ずるに従い、発せられなくなってるみたい。友人達親子の、それとはない会話で
も、「ありがとう」なんて聞いた事がないわ。
お金を払ってるのだから、へりくだる必要はない?
なんて貧しい心!先の親の発言が、異様に思えたのよ。
敬語使用の場合による活用変化があるにしても、基本的な挨拶に、上下関係は存在しないし、
させてはいけない。だって、心の発露でしょう?挨拶の言葉は。
相手に敬意を払い、気持ち良い人間関係を創るために絶対不可欠と言っても過言じゃない
言葉ということを知らなくてはならないのよ。
今では説得力を欠く説明ではあるけれど、「米」という字は、八十八回の手間をかけて、
やっと口に入るものと教えられてきたものよ。米の字を分解すると、八と十と八になる。
「いただきます」は、作物を作ってくれた人に、お料理をしてくれた人に、何よりも
大切なことは、今日も温かい食事にありつける、幸せな境遇にいることに深い感謝を捧げて
ついて出てくる「いただきます」のはずね。この日本では「衣・食・住」が満たされれば、
自ずと礼節を知る、と言われてきたけれど、誰もが飢えの恐怖から逃れて、未曾有の時代
の中で生きられる幸せな日本に住みながら、人はどこまで餓鬼道に落ちれば気が済むのかしら。
「もっと、欲しい~!」という、節度亡き欲望のままに
そうそう、「親(大人)のいう事は聞かなくても、することは真似る」って。
私達のあとから歩いてくる若者達(子ども達)に、「あなたの真似をしたい!」って、
言われる生き方をしたいわね。