日野皓正が言うことを聞かない中学生を殴りつけた事件で、オレは嫌悪感から言及する気力もなくしていたが、やっと一つまともな意見をネットで読んで少し元気が出た。(現代ビジネス・オンライン)
筆者の原田隆之氏が、この事件にまつわる大人のご都合主義、事なかれ主義を徹底的に論破している。
中学生とは「親子みたいなものだ」などと、情緒に訴える日野の言い訳にも胸が悪くなるが、大人たちのあいだに蔓延する暴力容認、日野擁護の空気がさらに気味悪い。日野の名声が、彼らを容認に走らせるのか。
世田谷区長の保坂某はかつて、教育ジャーナリストとして反管理教育を主張していた男だよ。それが今回は「ぎりぎりセーフ」などと言ってるんだから。
言うことを聞かないから殴るって、管理教育そのものではないか。
頬には当たってない、かすっただけ、なんてことは本質的な問題ではない。言葉ではなく腕力にモノを言わせる姿勢が問題なのだ。
何より救いのないのは、中学生の保護者までが日野に「感謝している」と報じられていることだ。世も末だね。
圧倒的な力の差がある大人に暴力をふるわれ、しかも親は自分の味方になってくれないとなったら、子供はどれだけ絶望感に打ちのめされることか。
その後、中学生は反省し、いまも日野を慕っている、などと報じた記事もある。そらそうだろう。大人はすべて向こう側、親も助けてくれないと分かったら、子供はゴマを擦るしかない。孤立無援で暴力に曝されるんだから。
大体、ジャズ演奏はグルーヴ(のり)が最重要のはずだ。譜面にとらわれない自由な即興プレイが命だろう。スティックを取り上げられた中学生が、なおも素手でドラムを叩いていたってのは、のりまくっていた証拠だ。ジャズメンの日野が、それぐらい分からなかったはずはない。
その「のり」を、日野は力ずくで断ち切った。ジャズ演奏の生命を窒息させたわけだ。指導者としてだけではなく、ミュージシャンとしても失格だね。
世界的トランペッターだかなんだか知らないが、少なくとも海外では今後、「年少者に暴力をふるった大人」のレッテルが死ぬまでついて回ることだろう。
筆者の原田隆之氏が、この事件にまつわる大人のご都合主義、事なかれ主義を徹底的に論破している。
中学生とは「親子みたいなものだ」などと、情緒に訴える日野の言い訳にも胸が悪くなるが、大人たちのあいだに蔓延する暴力容認、日野擁護の空気がさらに気味悪い。日野の名声が、彼らを容認に走らせるのか。
世田谷区長の保坂某はかつて、教育ジャーナリストとして反管理教育を主張していた男だよ。それが今回は「ぎりぎりセーフ」などと言ってるんだから。
言うことを聞かないから殴るって、管理教育そのものではないか。
頬には当たってない、かすっただけ、なんてことは本質的な問題ではない。言葉ではなく腕力にモノを言わせる姿勢が問題なのだ。
何より救いのないのは、中学生の保護者までが日野に「感謝している」と報じられていることだ。世も末だね。
圧倒的な力の差がある大人に暴力をふるわれ、しかも親は自分の味方になってくれないとなったら、子供はどれだけ絶望感に打ちのめされることか。
その後、中学生は反省し、いまも日野を慕っている、などと報じた記事もある。そらそうだろう。大人はすべて向こう側、親も助けてくれないと分かったら、子供はゴマを擦るしかない。孤立無援で暴力に曝されるんだから。
大体、ジャズ演奏はグルーヴ(のり)が最重要のはずだ。譜面にとらわれない自由な即興プレイが命だろう。スティックを取り上げられた中学生が、なおも素手でドラムを叩いていたってのは、のりまくっていた証拠だ。ジャズメンの日野が、それぐらい分からなかったはずはない。
その「のり」を、日野は力ずくで断ち切った。ジャズ演奏の生命を窒息させたわけだ。指導者としてだけではなく、ミュージシャンとしても失格だね。
世界的トランペッターだかなんだか知らないが、少なくとも海外では今後、「年少者に暴力をふるった大人」のレッテルが死ぬまでついて回ることだろう。