京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

崇道神社 洛北

2024年08月26日 07時42分00秒 | 日記
 8月20日、JR東海「そうだ 京都、行こう。」夏のキャンペーン寺院"蓮華寺"を拝観後、東側に隣接して鎮座されている崇道神社をお詣りしました。







桓武天皇の実弟で皇太子でもあった早良親王(さわらしんのう)をお祀りする神社です。



創建の経緯については駒札にあるように、早良親王は兄である桓武天皇から長岡京造営の責任者である藤原種継の暗殺に関与したと廃太子の上、京都の乙訓寺に幽閉され、後に淡路に流罪に処されます。









無罪を訴えながら10日間の断食の上に淡路島へ配流の途中に亡くなりました。
ご遺骸はそのまま淡路島へと送られ、埋葬されました。
延暦4年(785年)の出来事です。

その後、桓武天皇の身辺に次々と凶事が発生します。
陰陽師によって早良親王が怨霊となって祟っているとされました。

親王の祟りをおさめるために創建されたのが崇道神社です。
神社名の"崇道"は早良親王死後に贈られた諡号「崇道天皇」に由来します。

史上最強の怨霊とされ、ここ崇道神社をはじめ上・下御霊神社や白峯神宮などにお祀りされています。





当時、科学技術や医療の発達など全く無かった当時には天変地異はすべて御霊の所業と考えられ、のちに御霊信仰に発展していきました。

この日は参拝者は誰もおらず、より一層に当時の"史上最強の怨霊"をなんとか静めたいとの思いを感じます。





御本殿の手前には摂社である伊多太神社が鎮座されています。

伊多太大神は湧き水・農耕の神様で当地の氏神様です。

かつての伊多太神社は洛北唯一の古社で、延喜式内社でもあり、現在地の400mほど西に位置する、かなり大きな神社だったようです。
しかし、こんな洛北の地にまで影響があったのですね。
応仁・文明の乱(1467-1477年)で焼失し衰退してしまいます。

しかし、明治16年(1883年)に再興され、明治41年(1908年)には崇道神社に合祀されました。



少し東に向かうと八瀬の地があります。
都からは北西の鬼門の方角に位置します。
都を守護する為にあえてこの地に創建された神社です。